『音楽文化』記事に関するノート

第2巻第2号(1944.2)


航空決戦に処する道中山晋平(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.1)
内容;戦争3年目の年を迎えて戦局は拡大されてきたが、果てしなき紺碧の大空こそ最後の雌雄を決すべき一大決戦場である。開戦以来の大戦果の陰には、第一線将校のご苦労があるのだから、われわれはこの戦果に酔うことなく、一機でも一艦でも多くの武器を打一戦に送るべきである。いまや航空戦力増強の声は全国に起り、一億国民は総決起している。日本音楽文化協会においては1943年初秋のころより軍用機献納運動を展開すべく、種々企画を廻らしていたが、折しもこの運動の刻下最大の喫緊事であることを痛感して、急遽準備を進め、楽壇の総力結集による軍用機「音楽号」献納運動を展開することとなった。この運動は直ちに多大の反響を呼び、運動開始より2旬あまりにして献納金の寄託が殺到し、また音楽家その他の奉仕による2回の献納音楽会も予期以上の成果を挙げるなど心強い限りである。しかし、緊迫化する情勢を思うとき、われわれは些細な局部的成果に安んじてはいけない。いま一機の軍用機を第一線に送ることは米英撃滅を一日早めることになるのである。航空決戦と音楽の関係も、航空機工場の慰問や軍用機献納音楽会などによって密接なものがある。作曲部門にあっては、荒鷲、学鷲、若鷲の奮闘を称える多くの国民歌の作曲をし、航空決戦への戦意昂揚に重要な役割を果たしている。音楽家の生活もずいぶん苦しくなっているだろうが、戦前の生活に憧れたり、安逸をむさぼるようなことは絶対許されない。今後さらに事態が緊迫化すれば、音楽家も一人残らず楽器や五線譜を、銃やハンマーに持ち替えなければならない日がくるかもしれない。その日を期してあらゆる困難に耐え、音楽報国に邁進しなければならない。
【2007年9月28日】

日本的歌唱法に関する基礎的諸問題 (特集・日本歌曲の発音と発声)平井保喜(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.2-8)
内容:一.序論 国楽創成は楽界の要望の的となりつつあるが、ことに日本歌曲に対する研究熱の台頭は注目に値する。しかし、日本的歌唱法の根底をなす諸問題については未だ組織的な研究がなされていない感がある。まず発音についていえば、音韻の性格な把握のあとに生じる一語一語の語義、生活感情の表れ方によって異なるその表出法、要は民族精神を体得することが先決問題である。わが国は古来「言霊の幸ふ国」であり、日本の国語は神代ながらの尊い精神を宿したものであるから、これを粗略に扱うことは日本の歴史を冒涜するに等しい。 発声法については、筆者は声の訓練や正しい共鳴を無視するものではないが、これこそ絶対の声と断定しうるものがあろうはずがない。発生は個人的なもので歌を離れて論ずることはできない。さらに重大なのは、真の日本的発生がよってたつべき根源を忘れていることである。清明・剛健な日本的感情は西欧のオペラに見られるけばけばしいトレモロで発現されることはできない。幽玄・典雅・微妙は日本天気発声法の本来の姿であり、わが国近世の浄瑠璃や語り物の歌唱法が仏教の声明にまで遡ることに思いを致さぬ限り、正しい発声法の拠点は見出せないのである。江戸末期の謡物、語り物の高度に完成された発声・発音法の技術こそは、今後の日本歌曲の演奏にもっとも有力な根底を与えるものといえる。表現の問題についても、西洋音楽に適合した表現が日本歌曲にそのまま当てはまるわけではないことを度外視しては、真の日本的歌唱法は成立し得ない。今日のわが楽界は、かつて思想混乱時代に国体の明徴が叫ばれたように、発音と発声の明徴が称えられなければならない。 ニ.発音論 声音は事実を言語によって直接的に説明する力を有する。偉大な力をもつ言語も正しい方法で適切に語られなくては、その偉力を充分発揮するには至らない。そして言語を正しく発音することの困難さは、言語が関連する人間生活の広さと深さに正比例する。たとえば、わが日本語は神代より3000年来の民族生活の集積である。昔はインド・中国・朝鮮、ちかくは西欧から渡来した外国文化がいかにわが国古来のそれに影響し、今日の優秀な日本人を作り上げた。それを物語るもの日本語である。日本語は母音と子音の結合によって生じる。そして発音の明徴は母音の究明に始まる。日本母音は清明にして濶達であることについて、一点の汚濁をも許さない。しかるに今日の教養人でどれだけの人たちが晴朗な母音を発音しているであろうか。西欧の言語に見られる混合母音や中間母音は、それを学んだために日本語本来の発音を混乱させることがあってはならないのである。
(イ)母音の発音法とその性格
=明朗・壮大・気魄。口を大きく円く開き下歯は見せない。 例:ケダ
=尖鋭・理智・冷徹。唇は強く左右に開きかつ後方にひきつける。歯は上下とも見える。 例:ッセニ、ッチ(一致)
=温柔・愛情・夢幻的。多少暗い。下あごを前に突き出し、唇をつぼめ、多少外に反らす気味で歯は見せず。 例:メニグヒス
=強硬・勇気・反発。明るい。唇を楕円形に横に開き、下あごを後方にひく。上歯は3分の1、下歯はよく見える程度。 例:イダン(英断)、イケツ(英傑)
=温暖・円満・感動・慰藉。あごを落とし唇をオー形に寄せ集める。歯は全然見せない。 例:トウサン、マエ、ンセン(温泉)、ンシ(恩師)
これらの母音は正しい口形を保つことが大事なので、各母音を長く伸ばして歌う練習が必要である。また純粋は母音は、ハ・ヒ・フ・ヘ・ホに近い朦朧とした響きにならぬよう注意する。
(ロ)母音歌唱法(ヴォカリーズ)の必要
歌詞の各音から母音を抽出して、これを歌う練習は発音の練磨のためにもっとも良い方法である。
(ハ)子音の性格及びその発音
・カ(ガ)行=固い。強制的・苦痛・闘争的。舌をもってせき止めた息を勢いよく吐き出す。 例:ルシ。キカイ。
・サ(ザ)行=騒音・刺激的・制圧的・冷静。舌と上口蓋の触点を気息が強く排出する摩擦音。 例:ワガスズメ。
・タ(ダ)行=男性的・強烈・強い感情。舌端で上口蓋を叩くように。 例:ンゼン。ッケン。
・ナ行=愛情・慰撫・鼻音。正確には予備音(ン)を必要とする。 例:ミダガラクシン。
・ハ(バ、パ)行=明快。軽快。感動。気息を吐き出す音。濁音、半濁音は唇を閉じておいて息で押し開く。 例:カ。ックラ。
特にハ行の諸音は人間の笑い声で、もっとも偽らざる感情を表出する。
ハハハハ → 哄笑・磊落・善意   ヒヒヒヒ → 冷笑・悲鳴・悪意
フフフフ → 満足・軽侮・自己陶酔    ヘヘヘヘ → 揶揄・嘲笑・卑下・野卑
ホホホホ → 女の笑い方・快活・上品
アハハハ、イヒヒヒなどの接頭母音は子音の発音を助け、子音の最初の発音を容易ならしめるための予備音として役立つ。
・マ行=円満・美感・讃嘆。鼻音(ン)を予備音とし、唇を勢いよく開く瞬間に発する。  例:ルイ。ユズミ。
・ヤ行=柔和・愛情。ィヤィユのような予備音(イ)を必要とする。 例:ワラゲル。ルス。
・ラ行=明快・光輝・軽妙。舌を響かす。西洋のLは誤り。 例:ッパ。ンゴ。
・ワ行=明快・社交的・潤大・柔和。予備音(ウ)を付し唇の活発な開閉による。 例:タクシ。ヘイ(平和)。
=物の閉ざす形。無(ム)の転化。アに対し陰性。黙視、静寂。弱い(ン)は口を閉ざし、強きを欲するところは口を開いたまますべての息を鼻に抜いて響かす。 例;ウチテシヤマム(ン)
濁音は清音の効果を強調する。半濁音はハ行に限られ著しく軽快味を増す。撥音(ン)は弾力性に富み他音を結合して溌剌とした生気を付与する作用をもつ。促音(ッ)は言葉の次音の発生を促すため、その名がついている。活発な力強さがあり(ッ)の箇所は舌端で完全に息を止める。他音が転化すればこれを促音便といい表情も引き締まる。歌曲における(ン)(ッ)の役割は性格的であり、演奏効果に多大の影響を及ぼすので、予備音とともに研究に充分の努力を払うのがよい。拗音(キャ・キュ・キョ・シャ・シュ・ショなど)は婦女子の拗ねたような印象を与える。発音学的には複合音で発音には速度を必要とする。濁拗音(ギャ・ギュ・ギョ・ジャ・ジュ・ジョなど)、半濁拗音(ビャ・ビュ・ビョ)も各々圭病・風刺・揶揄的な効果がある。
(ニ)ガ・ギ・グ・ゲ・ゴの問題
わが国ではガ行の発音には2種あるが、筆者(平井)は「強いガ」「ガ」「弱いガ」の3種とし、次のように使用したらどうかと考える。
(1) 強いガ=一切鼻にかからない「ガ」 例:ッコウ。ントウ。
(2) 「ガ」=鼻にかかる。 例:スニ、カヤク。
(3) 弱いガ=1語が2語幹の結合からなる場合、語中においても「ガ」に近い、弱いガにする。 例:シン(資+源の合成語)。クヮンク(管絃楽)。
(ホ)発音の円滑な連結
各音の明確さが獲得された次には、これらをレガートに連結して1語の響きにまとめる努力が必要となる。「君とわかれて松原ゆけば松のつゆやら涙やら」という俗謡の名文句を吟味してみると、発音の移行連結が生理的約束のうえに立脚していることがわかる。
(ヘ)同一母音の取扱い方
キミキシイヘなど同一母音の上に成り立つ数音をはっきり歌い分けることは困難で、息を切らずに段をつけて2音を区分することが必要である。
(ト)発音と表現
曲の内容と語義・語感によって発音には明暗・硬軟の変化調節が必要となる。これは歌手の声色変化の技巧とあいまって関心をもつべきことである。こうした表現は歌手の教養と、言葉や音楽への深い理解が不可欠である。 (つづく) 三.発声論  日本的発声法は日本語と日本的感情に適合したものでなければならない。 日本的発声法の分類 1. 民謡にみる自然的発声法 山野に自然的発生をみた民謡は昔ながらの鼻唄である。軽い上部共鳴と野手に富んだ地声からなる。花街で行なわれる俚謡はこの発声ではない。 2. 声明(凡唄)または謡曲の発声法 声明が仏教とともにインドから渡来し、その発声法から謡曲・平家琵琶・近世浄瑠璃の類が生まれた。腹の底から口腔・胸部に共鳴させて出す荘重な声で儀式的な印象を受ける。朗詠・祝詞・詩吟・琵琶歌などもこの系統に属する。 3. 清元・新内風な劇的発声法 細い地声に胸圧による一種の遅いヴィブラートをつけて、ときどき地声から裏声に急転換する際に劇的な印影を作る(ヒカル声という)。ヨーデルに似ている。 4. 浪曲の発声法 浪曲はその紀元が浅いためか、未だ正統的な発声法というものはない。雲右衛門や雲月は琵琶歌を、小圓は義太夫節を、米若は端唄・俚謡などを採り入れてそれぞれの芸風を打ち建てている。  四. 表現技巧論 演奏者の思想・感情は表現技巧のうえによく窺われる。ヴィブラートやポルタメントの濫用に対して自戒を要望する。ポルタメントは音程の飛躍を歌いやすくするためのごまかしや、徴収に媚びる気持ちから用いられてはならない。ポルタメントはまた、一語幹中ならよいが、ニ語幹にわたると意味が不明になる(「沖つ浪」が「沖津波」に聞こえたりする)。次に歌唱の態度や呼吸法は、@顔つきは常に穏やかにし、聴く人が楽しめるようにすること。A腰はどっしりと、上体は春風になびくがごとく自然な身構えでありたい。B息は長く、その切れ目にも充分な余裕があるように歌うべし。  五. 結語 日本的発声法ならびに歌唱法を改良補足する意味から、西欧の長所を取り入れ、新しい日本的歌唱法を確立することは刻下の急務である。そのためには歌手の教養(とりわけ文学)が養われなければならない。発音を誤り文章を誤解したまま人前で演奏することなどあってはならない。さいごに表現の精神に言及するならば、「日本の自然に適合し日本人の心情にシックリと入り込む」ように歌わなくてはならない。日本人歌手の演奏が人格と日本精神に基いて行われるならば、わが国の人びとは新しい歌を歓迎するときが来るであろう。国語を大切にし、その中に日本人独特の感情を表せば、日本歌曲が世界に冠たる盛名を博する日も遠くはあるまい。 (完)
【2007年10月9日+2008年10月21日+10月26日】
音声学的に見たる日本歌曲の発声 (特集・日本歌曲の発音と発声)颯田琴次(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.9-12)
内容:狭義の意味で発声器官といえば、喉頭だけだと答えるべきであろう。肺や口腔も声を出すのに無くてはならないものだが、これらは発声専門の役目を負っているわけではない。喉頭は声帯を中心として発声だけのためにある。発声を論ずる場合、まず喉頭に注目するのは自然の順序と認めなければならない。/西洋式発声法において喉頭に関する事項といえば、第一に「発声学的零位説(Phonotischer Nullpunkt)」が挙げられるだろう。喉頭は嚥下[のみこむこと]、あくび等のほか、ふつうの呼吸時においても常に上下軸に沿って運動するが、発声の場合は特に明瞭で、しかも音高の上昇につれて次第にその度を増してゆく。日本式発声では、従来これについてあまり顧慮されてこなかったが、西洋においてはひじょうに多くの研究があり、応用上にもいろいろな議論がある。その結果「発生学的零位説」が唱えられるようになったのである。すなわち発声時に声の調子の高低につれて喉頭の位置が上下すれば、音階の上昇とともに主要共鳴管である頸部内腔は次第にその長さを短縮し、共鳴も貧弱となり、音声効果は面白くないことになるという。その結果生じたのが「喉頭最低位説」である。これはこの部分に不自然な圧迫を加えるため、声帯と仮声帯の間の重要な腔間を失い、声は圧迫的な色調を帯び、好ましくない結果を呈するという。そこで音高の変化にかかわらず喉頭の市を一定にし、しかも強いて最低位に圧迫しない状態を発声に対する理想的基礎条件と認め、「発声学的零位説」と称えている。ひるがえって日本歌曲の発声法としてこれをみれば、各母音の種類に対して頸部主要共鳴腔の形状がほぼ一定となるため、常に「オ」音でするような欠点が生じる。本邦声曲のように詩歌の内容に重点をおくものにあっては、語音不明瞭となるような発声法が不適当なものであることは詳述するまでもない。実際に、本邦固有の声曲では「発声学的零位説」は少しも顧みられることなく、いかなる名人も音高の上昇につれてノドボトケの挙上は顕著である。これによって語音の明瞭度は充分達成されているのであるが、この部の失われた音響効果は他部の巧妙な利用によって補われている。すなわち邦楽における音声の主要共鳴腔は口腔、鼻腔、鼻咽腔などであって、これらの部分の活躍は、とうてい西洋式発声法では創造できないほど旺盛だといえる。西洋においては下部の頸部内腔が主要共鳴点として利用されるのに対して、本邦固有の発声法では上部の鼻咽腔その他が効果的に応用されているのである。邦楽家が歌曲のリズムにあわせて首をふるような挙動を西洋式発声法において応用すれば、頸部内腔の形状大小は刻々変化して音声の共鳴効果は支離滅裂とならざるを得ない。主要共鳴腔の相違は、両者の声質に著名な差が生じるのは当然の結果である。第一、下部共鳴腔上部共鳴腔は上部共鳴腔に比較してはるかに大きい容積をもち、、他の介在物も少ない。したがって声量では西洋の人間との比較は困難だが、音声の質という観点から考えれば、上部共鳴腔の構造の複雑さは声の表現成果に巧みな技巧を生じさせ、独特の演奏効果を挙げることができるのであって、一音から他音へ移る際の小節的技術などは西洋式発声では到底なしえない特徴である。そのいずれが優るかについては主として趣味の問題であるが、邦楽において鼻腔共鳴の応用による言語美化の事実が頻繁に出現することは、きわめて自然な現象とみなければならないものである。すなわち清元、長唄等における「生み字」の頻発、謡曲において「日月」を称える際「ジ」と「ゲ」の間の「ツ」を鼻音様のものとなし、子音の重複によることばの不快感の軽減をはかるなど、独自の技巧も主要共鳴点の相違に起因すると認めなければならない。しかし現今のように西洋式発声法による人びとですらガ行濁音と全部通鼻化するがごときは、甚だしき認識不足であって鼻腔共鳴の応用と通鼻化の区別すら知らないものの陥る過誤的現象と言わざるを得ない。西洋式発声を用いつつベルギー、クレーギー、ユーゴスラビヤ等のことばにおけるG音を全部通鼻化するに至っては、その愚は及ぶところを知らない。(つづく)  次に邦楽発声法中特有なものは、同一音発声中、瞬間的に声区の変換がたびたび規則的に行われることである。「ア」音なり「オ」音なりを胸声区または中声区で発声しながら、突然ファルセットに移行し、3度、4度ないし8度上の音に至り、再び元の声区に復帰する特殊な現象をいうのであるが、巧妙な伝統的技術となり、本邦特有な顎音的存在としてますます利用されようとする傾向すら示している。元来、本邦の声曲は男性によって演奏される語り物風のものだけだったため、女声模倣を必要とする箇所が生じたのである。そうした時は常に裏声を使用したので、それが次第に巧妙になり、聴衆もこれに慣れ、発達して現今のように地声と裏声との変更による「ビブラート」のようなものとなった。/広義の意味における発声器官として語音調整機能について触れよう。邦楽の発声法では、一音中における母音明暗度の変化が比較的顕著であって、西洋の声楽では「ア」音はだいたい最後まで「ア」の振動音を示すが、邦楽にあっては始め「ア」だったものが漸次「オ」のような波形になり、次音に移る直前には「ウ」に近いものとなるような変移を示すのを常としている。これは西洋式発声法においては喜ばれない現象であるが、邦楽では頗る歓迎される技巧となっている。一音における強弱の変化も、本邦の発声法が西洋のそれに比べてはるかに高度であることが実証されているが、本邦の「ビブラート」には前述の声区の変更以外に、音の強弱の複雑な変化をもって高低による固有の装飾を一層微妙なものにしている事実を認めることができた。こうした現象は、いずれも日本固有の声曲をきわめて玄妙な存在とする有力な素因となるものだが、一面から見れば大衆を遠ざける原因の一つとなる事実も見逃してはならない。元来、邦楽発声法の発達過程を熟視すれば、技巧の末節に拘泥するような事実は少なくない。このような場合にも、現代人の習慣が、特に音楽に関するかぎり、その少年時代より西洋式に偏倚して養成されたことを考慮に入れる必要がある。発声時呼吸法も、近代においては横隔膜側腹呼吸をもっとも良しとする欧米式のものが吾邦においても専ら推奨されている。しかも彼らは近ごろ漸くこれだけでは満足できなくなり、初めて呼吸保持という事実を唱導するに至った。そして、このようなことがらは吾邦においては数十年前より義太夫その他の声曲において実地に応用されてきたが、われわれは種々の発声法中、呼吸に関する限り本邦のものがもっとも優秀であるという結論に到達しえた。その詳細は、紙数の関係上、他の機会に譲ることとする。(完)
【2007年11月7日+11月18日】
斉唱合唱の表現と発声 ― 国民合唱「海上日出」と「十億の團結」の解説 (特集・日本歌曲の発音と発声)片山頴太郎(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.13-16)
内容:1942年12月17日午前10時、われわれは目黒の音響科学研究所に集まった。放送協会で専用する新作国民合唱2曲、《海上日出》(土岐善麿作詞、信時潔作曲)と《十億の団結》(勝承夫作詞、片山穎太郎作曲)のレコード吹込みをお昼までにするためにである。この2曲は、ともに戦時下の国民合唱としてはもっとも機宜を得た企画であって、《海上日出》は新春を寿ぐ勅題によって土岐善麿氏が謹んで想を構えたもの。この歌詞に対してうってつけの作曲者は信時潔氏であることを信じる。古典味もあり重厚であり、また曲想標語にも用いられているように「おほらかに」この歌詞を把握されている。《十億の団結》は同じく大東亜倫理への文芸的側援の性質をもつもので、去る11月の大東亜共同宣言の大憲章を文芸的に宣揚しようとする意図のもとに作詞は練られた。片山も作詞の意図に充分沿うべく斉唱と合唱を交ぜながら作曲したのである。/声楽の分野が日本語をもって歌われるようになったことは、この戦争の賜物である。つい数年前までは原語歌唱が独唱会などにおいて臆面もなく繰り返されていたことを想起する。自国語を蔑視した音楽生活はドイツでさえ嘗てあった。いま、日本の人間はみな形こそとらないが守り立てようとする音楽観をもっている。そして「日本的」なるものを戦争の意義や倫理と結びつけて批判している。それとはあまりにも遠い音楽者を悲しみ蔑んでいるに違いない。若い学徒は日々戦場に向かい、今日の新聞では音楽学校の戦時措置のことも伝えられている。これら日常の映る姿は、口先だけでない音楽の新しい途をいま創造しつつあるうごめきであって、音楽の低下などと考えてはならない。日本語の歌い方は始められたが、これで満足といえるものは少なく、音楽者が真にたたき直されてはじめて本当の日本語の歌い方ができるようになる。《海上日出》と《十億の団結》の楽譜は『週報』に掲げられ、または音楽雑誌にも収録されることと思うから省略させていただく(本誌楽曲選参照)。
 ■《海上日出》(二部合唱) 4小節からなる前奏は大波の穏やかなうねりを写すようである。第一の歌詞にある「ゆらら ゆらら」の旋律は前奏のかたちで作られており、下の旋律は第3小節の第3拍から始まって波の一うねりに参加する。対して、これに続く「かぜにうごくは」の句は前段よりいくらかリズムを際立たせる。「何の影ぞ」で旋律は一段と高みにのぼるので、ここに焦点をおきながら強さも加え、「ぞ」の付点二分音符は三拍のあいだ音の強さを保つ。ここまでで8小節。この次から趣きが変わり、「いまひとすぢ」では4小節にわたり上旋律は音域のもっとも高いところにまで達し、上下旋律は3度に動く。「ま」と「と」の付点二分音符は音の強さを充分に保持し、決して勢いを抜いてはならない。この1句はmfのホ音にむかって漸強、下行旋律には漸弱符がついている。上旋律が「ぢ」を1小節半伸ばしているあいだに、下旋律は「ひとすぢ」を追加しながら下行形をつくるが、この4つの4分音符は漸弱をともないながら一音一音をいくらか際立たせたらよい。次の「たちまちに」から始まる4小節は降りては上る波のうねり。こうして、この8小節は大きな波動をうつすがごとくである。「たちまちに」では五度、六度の音程もあり、「に」の付点二分音符で弛緩となるが、音の長さと力は保持しなくてはならない。「さしいづる」は再び上る。「る」は3拍正しく伸ばし、音の力も維持する。「いま」から「いづる」までの8小節にきっぱりとした段落を与えるために、次の「ひかりなり」の2小節が作られている。ここはもっとも大切な段切れで、ここまで18小節が前楽節という構成になる。譜には示されていないが「りな」の2つの四分音符には保音記号(テヌート)が書き込まれてもよかろう。最後の「り」の付点二分は漸弱。「あたらしき」から第2の部分が始まる。中弱で低域の三度かさねの進行で、2回目は三度高い。小さな波が重なり高まって次のfの高い音に届こうとする部分である。第2句にはクレッシェンドがついている。ややもするとこの印のところから音を強めることがるが、それは良くない。「うみのかなた」の「み」のところで、一度fから漸弱して(譜には記号はないが)それから漸強するのが良い。「た」の1小節半は強い音を保持しているあいだに下声が「かなと」と上る。次の四分休符で伴奏のラッパ信号のような音をはっきり聞く。「われらたてり」は最後のしめくくりで、この歌の眼目である。ffで、音は少し低域になるが、六度跳越「たてり」にはアクセント記号がついているように毅然と、また音に幅をもたせて歌う。「あたらしき」から終わりまでの12小節を後楽節と理解してよかろう。第2番、第3番の歌詞もほぼ同一の表現でよい。第2番は「とどろとどろ」と、やや強めの歌い出しになるからmfで始めるのもよかろう。楽曲の強弱等の表現は、単に記号がついている部分だけで判断せず、全曲の構成をよく考えて行うことが必要である。合唱の場合、こうした表現解釈は指導者、指揮者の仕事である。しかし歌う側に「気があるかないか」は表現上大切な役割を果たす。しばしば間の抜けた識者は歌い手の表現をさえ殺すことがある。おおらかな波のうねり。大東亜共同宣言のあった画期日本の初春の国民感情。これがこの唱歌の表現や発声の第一のコツである。
■《十億の団結》 発想標語で「意気たからかに」と要求しておいたから、大東亜の新しい情操をこそ聞けという共同宣言卓揚の趣旨を歌いあげてほしい。速度は四分音符112の行進速度。8小節の前奏ののち5番の歌詞が繰り返し歌われる(歌詞は勝承夫)。「アジヤにはためく」(第1番)の「めく」にある第2小節の漸強は、歌いだしの感激でぜひ欲しい。このあとの2小節は低い音域をがっちり歌ってほしい。「正義ののろしにあつまる旗だ」は4小節になる旋律を2小節に圧縮し、リズミックに扱って段切りに新鮮な感情を期待している。「旗だ」の3語は歯切れよく。「ともにすすんで」から第1回の「つらぬくはただ」までが第2段で2部合唱となる。始めの4小節は漸強でいき、「むすんで」の「んで」は保音的に、決して音力を抜かずに次の「さかえ」のfを高らかに唱える。「きづく」の「く」は付点四分音符いっぱいに歌い、終わりも上下2部がいっしょに切る。次の「かたい誓」はリズミックに一段と弾むが、上下2部が揃うこと。「つらぬくはただ」で気分は昂揚。第3段は「かたい誓をつらぬくはただ」の反復部。ff。アクセント。全曲、意気とリズムである。
新春国民合唱2題の解説を借りて、斉唱と合唱の表現と発声の一端を述べさせていただいた。技術はもちろん必要であるが、技術を志向する理念がいままではおろそかにされていた傾きがある。何をわれわれは欲するか、が第一である。大東亜の壮絶な情操。これこそわれら音楽意欲の第一である。
【2007年12月13日】

日本語の歌の発声 ― 特に教育音楽の立場から (特集・日本歌曲の発音と発声)井上武士(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.16-20)
内容:昨年の秋ごろ、ラジオから聞こえてきた時局的な歌謡の中に「敵機」という言葉が何回も出てきたが、それを歌っている歌手ははっきり「テキキ」と発音していた。ちょうどそのころは、国民学校の6年生には教科書に出てくる《落下傘部隊》を教えていて、そこに出てくる「敵機」を“テキキではありません、テッキですよ”と一生懸命注意しながら教えていたときだったのだ。純真な田舎の子どもたちはラジオに出る歌手を歌の大先生と思うから、国民学校の先生が丹念にテッキと教えている言葉を歌手がテキキと歌うのをきいたときどう感じるだろうか。小さなことのようだが、けっして軽々しく取り扱われてはいけない問題だと思う。多くの声楽家には国語の発音の問題にもっと積極的に関心をもっていただきたい。/元来、発声と発音は一体の両面であるため、日本語の歌の発声の問題には当然日本語の発音が密接重大な関係をもつことはいうまでもない。特に子どもたちの歌の指導においては、発音を正しく美しく導く努力が子どもたちの声を揃えたり美しくしたりするのに有効であることを長いあいだの体験から確信している。日本語の歌の発声をどうしたらよいかという問題を解く一つの鍵は、日本語の発音を正しく、美しく明瞭にすることにあると思う。/国民学校の音楽教授では、国語と連絡をとって発音の問題をやかましく言っている。日本人全体の発音を統一することは今後大東亜の盟主として世界に働きかける日本人の教養としてきわめて重要なことではないだろうか。「敵機」は仮名ではテキキだがテッキと発音しなければならない。「学校」が仮名でガクコウと書いてもガッコーと発音するように。「大君」は天皇陛下のことを指す場合、オオキミと清音で発音し、オオギミと濁音にしてはいけない。その他、国民学校の音楽教授で特に注意している2、3の問題を申し述べておく。
1.長音の問題
「エ」という母音のあとに「イ」がきた場合は「エ」をそのまま伸ばして長音とする(「兵隊さん」は「ヘータイサン」、「きれい」は「キレー」のように)。これには異説もあり、実際上は歌うに都合の悪いことも起るが国民学校の国語と音楽では、このように一定している。
2.ガ行音の濁音と鼻濁音
まず濁音になる場合は(イ)ガ行音が一字で言葉になる場合。たとえば「蛾」や「義」。(ロ)言葉のさいしょにあるガ行音。たとえば「軍人」の「グ」、「学校」の「ガ」。(ハ)擬声法または擬態法の場合。すなわち「ぐるぐる」「がらがら」「ごろごろ」などの「グ」「ガ」「ゴ」。/一方、鼻濁音をまとめると、おおよそ次のとおり。(イ)ガ行音がある言葉の先頭でないところに出てきたとき。たとえば「音楽」の「ガ」、「うぐひす」の「グ」。(ロ)「何何が」の「ガ」、「何何の如く」の「ゴ」。なお、関西から九州にかけては一般に鼻濁音を用いないようだ。鼻濁音は、本を読んだり日常会話ではなかなか難しいが、唱歌の場合は比較的直しやすい。歌の美しい発音という立場からも、ガ行音の濁音と鼻濁音の区別は大切な問題だと思う。
3.促音の問題
国民学校では次のとおり。(イ)促音がその前の音ともに1つの音符につけられた場合。たとえば「学校」の「ガッ」が一つの四分音符につけられたようなときは、促音の次にある「コー」という音の前に短い休符をおいたような心持ちで促音をはっきり歌う。(ロ)促音がその前の音と違う高さの独立した音符につけられた場合。「真っ黒い」の「マ」より次の「ッ」の方が高い音符にあるため、「マ」の母韻「ア」で一応促音のつけられた音高に入り、それから促音に入って次の「ク」に進む。
4.両唇鼻音の問題
「生まれる」「梅」の「ウ」は両唇鼻音で「ウ」より「ヨ」または「ン」に近く、「ンマレル」「ンメ」と発音する。
5.「ん」の発音
「まつらむ」「うたはん」「金剛石」の「ん」は音符の歴時にしたがって正しく発音する。特にその「ん」が前の音といっしょになって一つの音符の下につけられているような場合は、特別な場合を除き音符をニ等分して歌う。たとえば二分音符の下に「こん」とあればこれを四分音符二つに分けて歌う。ただし擬声法の「カンカン」とか「ゴンゴン」という場合は等分ではなく「カーンカーン」「ゴーンゴーン」と歌うべきであろし、言葉の終わりの「らむ」が付点二分音符につけられているような場合は、「ら」を二分音符、「む」を四分音符というような特別な処置が必要であることはいうまでもない。
以上が国民学校の音楽教授で特に気をつけている発音上の重要な問題である。しかし、一般に今日の音楽専門家の方々は国民学校や中等学校ほ音楽の問題になると、あまり重大に考えていないのではなかろうか。専門家の作曲や演奏を日本の大衆が正しく理解してくれなければ、せっかくの芸術も何の役にも立たない。それではわが国の音楽の向上も望めないわけである。そして今日および今日以後の大衆は、その音楽の土台としての教養を国民学校や中等学校で受けているのだ。一方、さいきん議論されている国楽の創造ということも、けっして音楽学校や音楽の専門家ばかりで解決される問題ではないだろう。このようないろいろな意味から、わが国の音楽専門家は国民学校や中等学校の音楽の問題についてもっと関心をもっていただきたいと思う。
【2007年12月24日】
日本音楽の発声 (特集・日本歌曲の発音と発声)田邊秀雄(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.20-22)
内容:今日もっとも深く考えるべきことは、西洋から入ってきたものが今日のわが国の情勢に適合するものであるか否かを見分け、良いものは発展させ、悪いものは排除すべきことである。当然すぎるほどのこのことが、楽壇においてはいまだ判然と論ぜられたことをきいたことがないようで、単にジャズ禁止くらいしか取り上げられないような気がする。しかし、イタリアのベルカント唱法、ドイツのリート唱法、フランス流の発声法は西洋人の身体の構造から出たもので、日本人には無理であるなどと論じると、あれは洋楽をけなして邦楽独りを高しとする狭量なやつだと頭から決めてかかられることが多くて困る。実は西洋の音楽を守り通そうとするものの方が狭量なのである。/音楽は、東洋風に考えれば作曲よりも表現である演奏に重点が置かれるものである。元来楽曲そのものは一つの形であって思想を含まないと思う。これを生かすものは演奏であって思想を含んでくると思われる。われわれは外国から技術を輸入し習得した。しかし、これによってわれわれの精神を誤らせてはいけないのである。私は音楽を学ぶ者は西洋音楽史を学ぶことよりも、まずわが国の音楽史を学ぶべきだと思う。これからわれわれが進まなければならない音楽は西洋音楽史から生まれてくるものではなく、日本の永い音楽史の将来を作るものであると考える。洋楽畑の人で日本的作曲を深く研究しようとする人が一番考えることは、邦楽の旋律と発声法の問題であろうと思う。邦楽で使われる声がなぜ日本人に愛好されてきたかを考える。しかし恐らく洋楽の概念では理解できないと思うのである。義太夫節は実に汚らしいしゃがれ声を出し、雅楽はいつも同じような音量で終始して華々しい効果を挙げない。しかしながら、いままで多くの日本人はその義太夫節で思う存分説き、雅楽を愛好してきたのである。小生たちも洋楽の演奏がいくら美しくともそれだけのことであるが、文楽を見ては恥ずかしいほど涙を流し、梅若萬三郎の至芸を見ては魂千里の外にあるを感じるのである。これはなぜか。それは邦楽が魂の音楽だからである。演奏者の思想が旋律や声を通して表現されてくるのであるから、邦楽では演奏者がもっとも重要視される。/邦楽の演奏者たちは声を美しくする勉強はせず、まず自分の思想をもっとも良く表現するための精神の鍛錬を行なう。こうして洋楽では音楽から縁の遠いように感じるしゃがれ声にする。このことは洋楽の声楽家に大きな問題を与える。いかに美声であり、技巧を練っても、少なくとも日本では精神を練磨しなくては何にもならない。ベルカント唱法ほか西洋の発声法は日本人の体質に適応しているであろうか。余談だが、先日ある席上で、玄米食で有名な二木博士にお目にかかったとき、ある人が「ブルガリア人がヨーロッパでもっとも長生きする理由は牛酪[小関注:バターのこと]を食すからだといわれているが、日本人にも牛酪は良いのではないか」と訊ねたら、「日本人とヨーロッパ人は根本的に体質が異なる。ヨーロッパ人が長生きするからといって、体質のまったく異なる日本人にそのままあてはめるのは無理だ」というようなことを言われた。ヨーロッパの中でさえ気候風土が異なると発声法も違ってくるのだから、これはどうしても日本人に向く発声法を考えなければならないと思う。田邊の見たところ、少なくとも次の諸点などはすぐ見出せるのである。/日本人は音域が狭く、多くの日本人はオクターヴの音域を持たない。したがって、これらの人たちに歌わせるためにはオクターヴの内で作るとしても、西洋風には12の音しか使えない平凡な歌になってしまうが、邦楽では微妙な歌い回しなどがあって音域は狭くとも興味あるものが少なくない。日本人は音量が少ないということは一概にいえないように思う。カルーソーは劇場の外まで声が聞こえたというが、鈴木鼓村という筝曲家はあまりに声が大きくて、昔の喇叭吹込みの時代でも吹込器が響いてしまって、どのスタジオも狭かったというほどであった。声が小さいということは、従来大声で歌う機会が多くなかったから訓練されなかったことと、西洋風な歌を歌う場合に発声に無理があるのではないかと思う。また今日のように増幅装置が発達すれば、大きな声を出す訓練よりもほかのことに重点が置けると思う。
【2007年12月27日】
歌唱法の要領 (特集・日本歌曲の発音と発声)四家文子(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.22-23)
内容:日本人が日本語で歌うということは当然であるが、実際には尋常でない困難を克服しなければならないので、われわれの苦心、研究の必要が生じるわけである。その原因の一つひとつについて考えてみたい。 1.日本歌曲の性質と歴史 邦楽に属する歌曲を別にして、日本歌曲と称されているものの歴史は、明治初年、西洋文明の急速な吸収時代に音楽学校の前身にあたる音楽取調所が中心となって西洋歌曲を取り入れ、日本語の歌詞をつけたものを広く国民に普及したころに源を発している。その後、日本人の手で作曲されてきたが、歌詞は日本語であってもその旋律は洋楽の流れから生まれたものであるので、その発声法において種々の困難を感じることになる。 2.発声法 洋楽の発声法が咽喉をできるだけ開いて鼻、口腔、顔面内部、頭部、胸部、腹部等あらゆる共鳴腔を自由に使うよう訓練されるのに対し、邦楽では、咽喉を開けずに共鳴箇所もきわめて狭く細い声を出している。その発声法で歌われてきた日本語が幅の広い声を要求する洋式歌曲と結合しているので、旋律を美しく歌うために咽喉を開けよく共鳴させることに注意を向けると、発音がはっきりしないという結果をもたらす。 3.日本語の性質と発音法 日本語は独伊仏語と比較すると、もっとも母音に富んで子音に貧しい国語であると思う。母音に富んでいるということは、ひじょうに歌いやすく美しく響かせることができる反面、子音が消失しやすいため発音が不鮮明になりやすい。したがって、日本語を歌う場合は乏しい子音を大切にしなくてはいけない。このように日本歌曲は難しいということになる。では、どんな注意と訓練をしたらよいのであろうか。 4.実際における発声法 今日、洋楽を完全に消化した日本歌曲、日本精神に立脚した立派な日本人の歌曲というものが建設されつつあるから、東西を通じて最良の発声法を確立しなければならない。合理的である点で勝る洋式発生を根本に採り、日本語に順応させていかなくてはならない。四家自身は洋楽の勉強から入ったので、さいきんまでは西洋の歌詞で外国曲を歌う時の方が、大きい良い声が出て歌いやすく、日本歌曲を歌う場合は、何となく声が出しにくく歌いづらい感じがしていた。自ら大いに努力した結果、今年になって原語の歌より日本語で歌うほうが美しい声が出るという反対の現象を発見して、心中ひそかに喜んだ。だが、ここまで来るのに15年の苦心があった。実行法の原則としては、身体全身の力を抜いて柔軟にし、しっかりと立っていること。呼気を固くならずに充分吸い込み、咽喉を開いて静かに声を出す。声は共鳴させて豊かな美しい声としてから送り出すこと。 5.発声法の実際 五十音を、ていねいにあらゆる高さで歌ってみなければならない。5母音のアイウエオはすべての発声の根幹である。その開き方、共鳴法に熟達したうえでカ行、サ行と進む。その際、子音のKとSの発音に注意して、発音は鋭く声は柔らかく出すことを注意しなければならない。このようにして専門家も一般国民も大いに努力研究して確固たる日本歌曲の歌唱法を一日も早く完成したいものである。
【2008年1月3日】
謡曲の発声と修業 <対談> (特集・日本歌曲の発音と発声)櫻間金太郎  町田嘉章(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.24-28)
内容:櫻間金太郎は熊本藩主細川家に金春流をもって仕えた名家に生まれ、明治初期の能楽界に3名人の一人と讃えられた櫻間左陣(前名は伴馬。1917(大正6)年6月14日83歳で没)の神業を伝え当代の名手として知られている。金春流第78世宗家金春光太郎は70歳を越える高齢ながら名人の誉れ高く、奈良に住み、その嗣子栄治郎は東京にあって、現に櫻間金太郎のもとで研鑽を重ねている。櫻間金太郎は謡にも舞にも優れているが、本記事は主として謡曲の修行に関する同氏の談話を筆録したものである。
町田:今日はいろいろお伺いしたい。まず能楽の修行ということについて話を進めていただきたいが、さいしょに生い立ちをお尋ねしたい。
櫻間:たいてい芸事の修行は師匠についてやるのだが、私は親父についた。どうしてもわがままになるが、親子でわがままな稽古をしてもらった。始めは6歳くらいのときだと思う。
町田:お父様は稽古がやかましかったか。
櫻間:かなりやかましかったが、外から来た弟子の方がやかましくいわれていた。でも、そういう稽古を聴いたり見たりしていたので、そうしたものがいくらか足しになっている。
町田:お父様が東京に移られたのは何年頃か。
櫻間:1880(明治13)年頃だ。その前の修業には安政の頃にきていた。桜田門の辰の口というところにあった細川家で修業していたそうだ。当時の殿様は、現在の細川護立侯爵の先々代くらい(町田によれば、嘉永安政ころの藩公は斎護[ナリモリ]で、明治維新のころがその子にあたる詔邦[アキクニ]。そして現在の侯爵と引き継がれている)。親父は熊本の藩公から命ぜられてこちらに修業に来た。師匠は中村平蔵といい、やはり金春流だ。明治維新の瓦解のときに一旦国に帰り、1880(明治13)年にあらためて引き移ってきたのだ。
町田:先生のお生まれは明治20年頃か。
櫻間:1889(明治22)年に本所の元町で生まれた。その時分、能楽はずいぶん衰微していて、私は6歳のころ初めて子方で舞台に出た。靖国神社の奉納のときに「百萬」かなにかの子役だったと思う。
町田:稽古はさいしょ謡を習い、それから立方に変わる順序だったか。
櫻間:そうだ。稽古は一種の勘の教育で、完全に習得するまでやらせたのではないかと思う。若い頃には夜明けを待って寒稽古をやった。声変わりの時分にかまわずさせた人と休ませた人がいる。櫻間はかまわずさせられた方だった。この寒稽古は寒のうち30日だ。
町田:その時分、お弟子はたくさんおありだったか。
櫻間:少なかった。ことにこちらは狭い流儀だったのだが、一般にもあまり盛んでなかったようだ。ひじょうに盛んになったのは日露戦争後だと思う。
町田:謡を歌う場合の声の出し方はどうするのか。
櫻間:腹から出せというけれど、とにかく音声を出すのに下腹が弱ったら駄目だということを言っていた。そうでないと声が上ずってしまうそうである腹原から出ている声は遠くまで通るようだ。
町田:お流儀の方では地謡(能舞台横に座して謡う人たち)がたいへん揃って立派だと感じているが、どういう稽古をしているのか。
櫻間:恐縮だ。流儀の地は決して良いとはいえないが、始終いっしょにやっていないとだめだ。いくら地頭がうまく謡っても全体の練習が足りなければだめだ。
町田:公開の能をする時、練習というものはやるのか。
櫻間:公開の能に限らず、たびたび揃ってやらないといけない。地謡の中心になる地頭は流儀流儀で多少違うが、こちらでは後ろの真ん中にいる。寶生九郎先生はすべてを完備した名人で、晩年には地謡ばかり受けもちすばらしいものだったが、たしか後ろの隅におられた(明治初年の能楽界三名人の一人。寶生流16世の宗家、1917年3月9日、81歳で歿した。現宗家17世寶生重英はその養子)。
町田:声の美しさより心を打つことが大きいのですね。金春流と寶生流とでは声の出し方に多少共通点があるか。
櫻間:出し方は変わらないだろうと思うが、謡い方によって声が変化してくるだろう。同じ上掛り(もと京都にあった観世、寶生の二流のこと。金春、金剛は奈良にあったため下掛り)でも観世と寶生ではまるで違って聞こえる。
町田:謡を謡うとき、発音上の工夫はおありか。
櫻間:謡曲では開口、つまり発音を叔父の櫻間金記からやかましくいわれた。金記は、はじめの1年くらい謡を教えず「アイウエオ」「カキクケコ」などと、そんなことばかり教えていた。
町田:演能に先立って風邪を引いたり調子を壊したときはどうするのか。
櫻間:むろん謡が一番大事だが舞台のほうは舞があるから、声が出ないから出演しないということはない。声がかれている時はほかのことで補うのだ。
町田:舞台に上る前の精神状態が不愉快なことがあったときと和やかなときとでは、それが舞台上の成績に影響するか。
櫻間:そうだ。舞台に出る前は努めていらだたないようにしないといけないだろう。
町田:よく茶断ちなどが言われるが食べ物の関係はあるか。
櫻間:公開でやろうという時には、自分は刺激物を控え多少の用心をする。結局、その時に楽に声が出なかったら自分の気持ちも悪いし、聴くほうも悪いから大事にしておかなければならない。
町田:先生の声は楽に聴こえる。能の激しい動作、たとえば「邯鄲」の飛び込みのようなものは前もって練習することはあり得るのか。
櫻間:その時にならないとあの気持ちはわからない。はじめ教わったのが最後で、あとはそれを守ってやっていく。その時になるとそういう気が起こってくる。これはつまり自然ということ。飛び込みのようなものは、教わってそのとおりにできるというものではない。「邯鄲」であまり失敗したことはない。
町田:観客の中に行儀の悪い人が混じっている時、舞っているうちに気になることはないか。
櫻間:あまり気にならない。
町田:能の番組は、昔はたくさんやったらしいが、この点はいかがか。
櫻間:明治初年あたりからの昔の番組を見ると驚くほどたくさんやっている。私らが子どもの時分、芝の紅葉館へ朝6時から出て行って8時始まりだった。そして5番やって午後6時頃までかかっていた。一つの笑い話だが、京都の本願寺に催しがあった時に「翁」つきで7番やった。「翁」つきの脇能(「翁」は能楽でも特殊な儀礼的なもので、「脇能」は神社の神体が現れて縁起を語る能の総称)というのは3時間くらいかかる。朝9時に始まって済んだのは夜中だった。宿屋に戻るとちょうど[未明の]4時頃だった。昔の番組を見ると実に驚く。6、7番というのはざらだった。それを全部見ていたわけだ。いまでは2番でもこたえるのだから、それだけ変わってきた。
町田:毎日のお稽古では、相当に声が疲れるのでしょうね。
櫻間:朝はなかな声がか出てこないけれど昼ごろから段々出てくる。それは段々腹が強くなってくる。
町田:近ごろの人は声を口先で出すという気持ちはないか。
櫻間:鍛錬の足りない人だろう。何番でも歌えるという人はちょっと怪しい。楽に謡っているとさほど骨を折らないですむから。
町田:けっきょく鼻歌に類してしまう。
櫻間:鼻にかかるように聴こえてはいけないだろう。鼻にかかる人はたいてい器用な人だそうだ。「マ」という言葉の発音は「ンマ」というし、「ニ」は「ンニ」と。それが鼻にかかるように聴こえるのだろうけれども、本当に鼻にかかるように発音してはいけない。
町田:息の吸い方で苦心されたことはないか。
櫻間:鼻からうんと吸い込んで出すのが原則だが、ひじょうにせわしなくなってくるとうまくいかなくなり、鼻と口の両方から吸うようになる。
町田:謡曲は仏教の声明梵唄から出ているが、この点でお気づきのことは。
櫻間:謡のほうのほんゆりなどは奈良の興福寺に、それとちっとも違わないのがある。
町田:ともかく謡はすばらしい芸術だ。
櫻間:本当にいいものだ。
【2008年1月22日】
時局投影野呂信次郎(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.29)
内容:1943年12月8日、銘記すべき日を迎えて大本営は開戦以来の戦果を発表した。帝国陸海軍が米英に与えた人的損耗約40万、飛行機の撃墜破約8200機、艦船の撃沈1700隻という膨大な数。わが尊き犠牲も15万を越す。米英を撃滅しよう。/大元帥陛下には[1943年12月]9日、埼玉県朝霞町の陸軍予科士官学校に初の行幸をなさり、文武の練磨に研鑽を積むよう若者をご覧になり、同校所在地に「振武台」の名称を賜うた。/[1943年12月]12日午後1時22分を期し、厳粛な「一億総神拝」が行なわれ、神慮ならびに聖慮に副うことを誓った。/[1943年12月]2日、反枢軸側のルーズヴェルト、チャーチル、蒋介石三者によるカイロ会議の内容が発表されたが、不当にも対日屈服を強調する事実からみて、同会議の中心が大東亜反攻を主な論点としたことは明白である。米英の焦燥はますます急落調になってきた。/敵はさらに「12月ラバウル攻略」を宣伝して作戦を進めつつあることは軽視できない。3日の六次にわたるブーゲンビル島沖航空戦の惨敗にも懲りず、5日には機動部隊をマーシャル諸島北東海域に侵攻しようと企画し、わが基地に対して空襲を強行してきたことも、15日ニューブリテン島マーカス岬に一部部隊を上陸させ、26日には同島グロースター岬付近に兵力若干を揚陸させたことも、25日敵艦載機がニューアイルランド島のわが要衝カピエングに来襲したことも、連日のようなラバウルへの大空襲も、すべてわがラバウル挟撃の企てによるもので、ラバウル奪還によってわが内海洋を空より制圧し帝国海軍を太平洋上から後退させる目論見を知らなければならない。/[1943年12月]21日、タラワ島とマキン島守備の帝国海軍陸戦隊指揮官柴崎恵次少尉以下3000の勇士が、同年11月21日以来5日にわたる血闘で5万の敵軍を少ない兵で遊撃し、ついに全員玉砕したという発表を聞き、敵必滅の報復の念が燃える。これよりさき4日、「指揮官先頭」の伝統に生き伝統に散った海の親鷲高橋清一大佐等7将校に対し2階級特進の栄が公表された。/皇太子殿下には[1943年12月]23日、おめでたく第10回のご誕辰[誕生日]を迎えられ、ますます健やかと承るは一億民草こぞって慶祝申し上げる。/決戦国内体制を確立すべき第84通常議会は[1943年12月]24日召集、即日成立したが、26日天皇陛下がご親臨くださり、ついで27日には陸海両大臣の戦況報告に一億総決起を表明し年内の議事がすべて終わった。本議会に対する政府提出法律案は画期的な増税法案を含む26件である。/学徒出陣、徴兵適齢1年低下、兵役免除者の志願制実施等兵制史上記録されるべき大事業があり、国民登録男子満45歳延長、男子徴用、女子挺身隊の強化等国民の勤労動員もいよいよ大規模になって、12月は前線も銃後も一億戦闘配置の緊張裡に暮れた。
【2008年2月3日】
青木榮君発表会(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.29)
内容(告知):■青木栄君発表会 1944年2月28日(月)午後5時30分〜 於・軍人会館 伴奏:大中寅二・宅孝二 賛助出演:山本春雄、李想春、桑原ウメカ、桂慎一、橘秋子、上川桃子、石崎和子 ●第1部(1)自作発表 *航空増産の歌/*進め志願兵/*水仙花/*懐しの花/(2)歌謡曲より *からたちの花/*野薔薇/*ラルゴー/*ニーナの死/*エレジー/*ふるさと/*城ヶ島の雨/*山桜/●第2部 歌劇詠唱曲より *ラ・ボエームより/*カヴァレリア・ルスティカーナより独唱、二重唱、三重唱/●第3部 民謡曲より *アイ・アイ・アイ/*ステンカラージン/*オ・ソレミオ/*花郎回想曲/
【2008年2月6日】
決戦下の各地楽界(二)  満洲(2) 新京音楽團決戦意識更に昂揚宮下紫水(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.30-31)
内容:満洲楽壇の中核財団法人新京音楽団は、その内容を拡充しながら音楽報国に邁進し発展を示している。現在百余名の団員を擁し、満洲における音楽のあらゆる部門で逞しく活躍している。同団の常務理事祖川眞はさらに決戦的性格を確立するため渡日し、日本駐在嘱託員として掛下慶吉の快諾を得た。また各方面と折衝して決戦意識に燃える日本の作曲家を招聘し、満洲国あるいは蒙古内を視察のうえ「闘う満洲」の作曲を委嘱することになった。その第一陣として服部良一が《私の鶯》の作曲録音に来満したのを機に、1943年11月1日、新京音楽団特別公演として自作発表演奏をした。なお渡邊浦人は去る[1943年]11月9日に来満し、11月23日(日系対象)と24日(満系対象)の定期公演で自作を演奏した後、ハルビン、撫順、鞍山、熱河などに作曲の旅に出た。/前記「闘う満洲」の作曲内容と発表予定は、第1輯が《熱河》《開拓》《牡丹江》(1944年3月)。第2輯《無敵関東軍》《松花江》《蒙古草原》《五穀増産》(同8月)。第3輯《大黒龍江》《豊満ダム》《鉄と石炭》《輝く国軍》《旅順港》(同10月)。その他満洲国民歌曲「闘ふ満洲」主題歌十数曲がある。/その作曲予定者は新京音楽団作曲員の小貫誉四郎、太田忠。依頼した日本作曲家は小船幸次郎、清瀬保二、伊福部昭、早坂文雄、尾高尚忠、山田和男、渡邊浦人、服部良一等である。ちなみにヴァイオリン辻久子、チェロ倉田高、ピアノ草間加壽子、うた長門美穂、四家文子等も新京音楽団の招聘により、全満州を演旅行することとなった。決戦日本の増産基地として闘っている満洲国の楽壇も、輝かしい企画のもとにますます奮闘の姿が見られる。
【2008年2月17日】
決戦下の各地楽界(二)  北海道 北方基地の音楽運動森善次(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.31-32)
内容:北海道は東亜共栄権の北方基地として文化運動の重要使命を担っている。わけても札幌市が有する高度の文化は著聞されるところであるが、これをもって直ちに北海道文化の水準とすることは危険である。他の府県と比べても広潤な地域を有し、文化の移入も新しく、これが北海道独自のものだと指摘し得る面が少ない。音楽文化運動にしてもその憾みはまぬかれない。/札幌、函館、小樽、旭川と音楽文化地域を比較してみても、その都市独自の安定性が少なく、一種の流行性に支配されがちである。北海道独自の風土的盛り上がり、ないしはこれを基盤とする建設的、企画的、永続的な考慮というものが欠けていた。北海道における音楽文化運動の将来を考えるならば、音楽文化をいかにして300万道民の生活に密着させるかの点にある。ここ10年間の札幌市における音楽運動の推移を見ても、かつての貴族的、高踏的、粉飾的なものから市民生活の中に深く食い込んだものに変化している。市民がいかによい音楽を求めているか、われわれはこの希求に対しいかにして応え得るかである。/第2は道内各都市にそれぞれ盛り上がりつつある音楽意欲をいかにして一点に凝集し、全道的文化運動にまで展開するかにある。札幌中央放送局はその暖かき理解と援助のもと、漸次先に述べた方向に進みつつあるといえども、公表する域にまで至っていないことが残念だ。こうした情勢下、北方基地から中央楽壇の運動に対し希望することは思いつき的、散発的な施設をもっと永続的で凝集的な方向へと切り開いてほしい。この1年、中央楽壇派遣の音楽文化戦士があるいは大政翼賛会を通じ、あるいは軍事保護院と結ぶ意図の良さは推察できるが、地方の音楽団体と提携しないこれら一連の運動が、多大の労力と経費とを費やした割には報いられるところあまりに少ないのではなかろうか。これと対照的な運動は大日本吹奏楽聯盟の行き方である。北海道吹奏楽聯盟と結んで1941年以来毎年定期的に吹奏楽講習会を開催しており、いまや函館、札幌、小樽、旭川、室蘭に地方的吹奏楽聯盟の誕生を見、この講習員は3年前の2倍以上の600に達し、北海道音楽文化運動に寄与するところ少なくない。/現在、北海道における音楽文化運動の支援機関としては札幌中央放送局、北海道庁青年教育課、大政翼賛会支部、札幌鉄道報国会、北海道産業報国会などがある。これらはいずれもその施設事業中に音楽普及ならびに啓蒙を挙げているが、協力し合えばこれを調節し、凝集し、より有効に展開させる道があると信ずる。/北海道音楽報国会は1943年12月の誕生で、いまだ報告すべきほどの事業もなしえなかったが、やがて戦時下における隘路を打開して、所期の目的に邁進する日も遠くあるまい。
【2008年2月23日】
決戦下の各地楽界(二)  関西 郷土へ帰れ/須藤五郎(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.32-33)
内容:現下無駄でしかない関西における演奏会の月旦や楽壇人の活躍ぶりをお伝えするのではなく、日本音楽文化協会関西支部、とりわけ須藤が所属する兵庫県音楽文化協会のさいきんの活動状況を報告してこの責任を果したい。/兵庫県支部は1942年暮頃から結成準備にかかり、1943年6月27日発会式を行なった。現在、岡崎支部長以下会員総数230名、作曲評論部17名、演奏部110名、教育部65名、国民部38団隊である。事業はだいたい本部の事業計画に沿って行なっているが、今年[1943年のことと思われる]2月の《海ゆかば》の歌唱指導を皮切りに、県下の諸都市から農村方面における歌唱指導会を開催すること21ヵ市町村に及んでいる。去る軍事援護強化週間には舞鶴海軍病院三田診療所と神戸市で音楽会を開催、ただいま11月中の催しとして兵庫県中等学校報国団男子部音楽班の吹奏楽および国民部合唱団の市中行進、戦闘機献納音楽会を計画中である。この市中行進は万一神戸市が空襲を受けたとき即刻市中行進を行なって市民の士気を鼓舞するための予行演習として挙行する。このほか市翼賛会の賛成を得て神戸市内に唄の道場の開設も計画中である。/県支部の特色は県下を数地区に分かち、各地区に事務局を設け各地方に文化が浸透するよう考慮していることである。1943年9月24日、姫路市に姫路地区事務局を開設し、また来る21日には明石市に明石地区事務局を開設することになっている。兵庫県のような大きな県では神戸市中心にものを考えては成績は上らない。/さいきん県下有数の文化施設をもった村落を視察したが、その日は年に一度の村祭りの日で夜には村民の娯楽大会があった。驚いたことにその7割までが都会悪に染まった見るに堪えない舞踊や、聴くに堪えない流行歌だった。閉会後、村長に質問すると昨年まではこれほどではなかったが、本年は実に卑俗なものになってしまった。農村から工場へ進出した青年たちが工場で得たものは、女工は舞踊で男工は流行歌だったことに起因していた。レコード会社流行歌手たちが流した毒水はこうした農村にまで侵入し、純朴な農民魂を蝕んでいる。産業戦士を慰問すると同時に農村を守るためにも、日本音楽文化協会はその全力を挙げなければならないと覚悟したしだいである。/それにつけても関西には作曲家も演奏家も貧困である。関西に生まれた芸術家たちよ、故郷の文化を愛するならば郷里に帰りたまえ。管絃団にしても東京には五指を屈するほどあるが、関西には宝塚、トーキー楽団、大阪放送楽団の3つしかなく、交響曲を専門にする団体はない。3つの団体は本業に忙しく交響楽演奏会を開くことはほとんど不可能である。東京から専門の演奏団体を一つ移してもらえないだろうか。
【2008年2月28日】
決戦下の各地楽界(二)  台湾 台湾の音楽事情黒澤隆朝(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.34-37)
内容:台湾には帝国領台後、新しく日本人になった本島人が600万、内地人が30万、それに15万ほどの高砂族が山地地帯に居住している。行なわれている音楽も三様になるが、今日では若い本島の人々も学校教育やラジオ・レコードの影響で、ほとんど内地人と同じ音楽を娯んでいるようである。40歳以上の本島人には国語[日本語]を解せざるものが多いため、中国の音楽を渇仰しているものが多い。彼らは北京調の老旦ものくらいこなせないと肩身が狭いといった事情もあったが、日中戦争以後中国の音楽が禁止されたので、この趣味も発揮できないでいる。ただし、さいきんは娯楽問題の再検討から当局がラジオの第二放送で台湾化した中国音楽を取り上げている。一部のものは、これによって頗る満足しているようであった。/音楽文化の企画面から見ると台北に台湾音楽協会があり、官庁、放送局の斡旋で在台音楽家を総動員し、合奏団、合唱団の結成補導を行ない、各種コンクール等をしてきた。さらに内地から優秀な管弦楽団や合奏団を招聘する念願をもって結成されたらしいが、時局がそれを阻んでいる。この協会は各主要都市に支部をもち、将来は日本音楽文化協会との連絡をも希望しているようである。また台湾には大政翼賛会に相当する皇公奉公会があり、さらに台湾演劇協会があって芸能方面の実際的活動を推進している。/本島人の固有音楽は現在禁止された状態にあるが、これは再検討のうえ残すべきものは保護し、奨励発展させるべきものはこれを指示昂揚させるべきであろう。それら待機中の音楽について一瞥を与えてみたい。
1.雅楽・・・・・孔子廟音楽、十三腔(または十三音)
2.俗楽・・・・・南管、北管
3.雑楽・・・・・俗謡、童謡、慶弔楽、道教楽、仏教楽/
「孔子廟音楽」 今日その形態を存しているのは台南と彰化の2箇所であるが、創建の歴史からみてもその規模においても台南には及ばない。この聖楽も1939年以来廃止されているが、1943年、私たち調査団(台湾総督府の委嘱により台湾民族音楽調査団が結成され、1月から5月まで各地の音楽事情が調査された)のために3月27日、羽鳥台南市長は私祭を施行され、昔ながらの釈尊儀式を行なって調査に便宜を与えられた。これは清朝乾隆帝時代の舞楽を移したもので、明朝のものによった朝鮮李王家雅楽と対立するものである。この2つがいま帝国の中に保存されていることは大東亜文化昂揚のとき、欣快に堪えないことである。当日行なわれたものは6章の詩による6個の音楽と、そのうち3章には六■イツ■(偏はにんべん、旁は上半分が「八」、下半分が「月。本記事においては以下同様。)六■イツ■の舞(36人)が舞われた。
迎神礼  昭平之章
亜献礼  秩平之章(■イツ■舞)
徹饌礼  慾平之章
初献礼  宣平之章(■イツ■舞)
終献礼  叙平之章(■イツ■舞)
送神礼  徳平之章
どの章も音楽はだいたい似たようなものだが、1章は7分ほどかかる。詩は四言八句詩である。 (つづく)
【2008年5月5日】



現代邦楽の伝統(三)町田嘉章(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.38-41)



民謡風土記 新潟県の巻
小寺融吉(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.42)



伊福部昭作「交響譚詩」(新作品評)園部三郎(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.43-44)



橋本國彦作交聲曲「英霊讃歌」(新作品評)津川主一(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.44)



呉泰次郎「ロサリア夫人」 附歌劇「フィデリオ」(新作品評)黒崎義英(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.45)



楽壇戦響堀内敬三(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.46-47)



春 <詩>笹澤美明(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.48)



日本音楽文化協会軍用機「音楽号」献納金寄託者並に予約献金者氏名及び事業収益(十二月二十四日)(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.48)



ユンケル教授を悼む牛山充(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.49)



放送音楽守田正義(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.50)



映画音楽澁谷修(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.51)



鼓舞と慰安のレコード(1)あらえびす(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.52-53)



音盤批評 洋楽野村光一(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.54-55)



音盤批評 軽音楽(1)野田香文(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.55)



◇音盤批評 軽音楽(2)/丸山鉄雄(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.55-56)



戦時音楽問答(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.57)



推薦音盤(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.57)



音楽記録(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.58-59)



吹奏楽法  旋律論(3)/深海善次(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.63-60)



編輯室/謙幸(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.64)



出版文化(『音楽文化』 第2巻第2号 1944年2月 p.64)





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