『音楽文化』記事に関するノート

第1巻第1号(1943.12)


創刊の報告(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.1)
内容:一.情報局ならびに日本出版会の指導の下に行なわれた音楽雑誌第二次統合によって『音楽之友』『レコード文化』『国民の音楽』『音楽公論』『吹奏楽』『音楽文化新聞』『音響』の7誌が廃刊され、専門誌『音楽文化』と一般誌『音楽知識』が創刊されることとなった。これら2誌は新設の日本音楽雑誌株式会社が発行する。/一.『音楽文化』は音楽専門家(作曲家・演奏家・音楽評論家・音楽教育家)・音楽指導者(合唱・吹奏楽・鼓笛楽・一般歌唱等の指導者)・音楽知識人等、すべて音楽に関する専門の知識を有し、音楽上の指導や創作や批判をなしうる人々を目標として編輯される。内容は記事と楽譜からなる。/一.記事は、音楽に関し政府及び統制団体が音楽指導者に知らせようとする事項の報道および解説、作曲界・演奏界・音盤界・音楽出版界等の活動についての時事報道、音楽に関する論説、音楽に関する研究記事等、各々の読者が時局に即応し国策に準拠して音楽上の正しい指導を行ない、かつ決戦下における大東亜音楽文化の発展に貢献しうるような内容を盛る。/一.楽譜は、時局に関する国民的歌曲を迅速に発表し、邦人の創作に係わる厚生用楽曲(合唱曲および吹奏楽曲)と芸術的楽曲(大東亜圏に普及させることを直接の目的とする)とを併せて掲載し、日本の古民謡や大東亜圏各地の民謡をも加えて、指導者および演奏家が実用に供し創作家および研究者が資料となしうるようなものを提供する。/一.編輯の全般は堀内敬三が統轄し、清水脩が編集主任となり、青木謙幸・黒崎義英・加藤省吾・青木栄・中曽根暁男が編輯・企画・調査・執筆等にあたる。毎号の編輯についてはあらかじめ情報局・日本出版会・日本音楽文化協会と充分な打ち合わせを行ない、公益機関としての任務を果たすことを務める。/一.日本音楽雑誌株式会社の運営は、堀内敬三(社長・編輯部長)、目黒三策(専務取締役・総務部長)、澤田周久(出版部長兼営業部長)が直接鞅掌する。
【2006年5月2日】

国民音楽創造の責務山田耕筰(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.2-4)
内容:戦局の様相はいよいよ凄愴苛烈な状況に突入した。わが音楽界においてもこの戦局を闘いぬき勝ち抜くために、いまこそ音楽の持つ威力を最高度に発揮すべきときであることを思い、国民音楽創造について記述してみよう。/国民音楽の創造、言い換えれば国楽の創成は、山田自身の今日までの音楽生活を通じての一貫した信念でもあり理想でもあったが、同時にそれは全音楽家の多年にわたる宿望であり、音楽界全体の悲願であった。それに対する真摯な研究や活発な意見の発表もあったが、山田の経験から言えばわが国の特殊な音楽発達の概況から、それらの機運や風潮は断続的になされ分立的に行なわれてきたのが今日までの現状ではなかったか。国民音楽の創造が高級な理想としてあまりに観念的に論究されたり、わかりきった問題として常識的に取りあつかわれてきすぎたと称しても過言ではあるまい。山田が音楽の道を転職として選び、今日までそれを自分の職分として努力してきたのは、今日ただいま、国家とともに国民とともに殉ずる精神をもって音楽を武器とするためにほかならない。こういう意味合いから国民音楽の創造を端的に言えば、それは音楽の国家的自主性という言葉に尽きる。たとえばパドリオ政変が起こるとただちにイタリア音楽の可否が問題になるがごときは、わが国の精神文化のうち音楽だけが未だ外国依存の状態にあることを思わせる。いついかなる事態に際しても、いささかも動じないわが民族固有の、そして東亜共通の音楽をもつこと、これが山田のいう音楽の自主性である。それが確立されるか否かは、ひとえに音楽家の精神内容が決戦意識に切り替えられたか否かに存している。/これを2、3の例で具体的に言えば、まず作曲の振興である。西洋音楽の技術の摂取はもとより、わが国固有の伝統的音楽である民謡や古典音楽の系統的研究がなされなければならない。今日では町田嘉章と藤井清水が地方民謡の採譜や録音を行なっているし、田中正平は文部省の国民精神文化研究所で古典音楽の保存と復興を行なっているときく。この文化財を芸術的に、そして国民的に生かすか殺すかは今日の青年作曲家の双肩に課された重大任務でなければならない。山田の経験からすれば、自身、日本的作曲ということに意識的であったことはない。作家としての主観的燃焼力一本槍で押し通してきたのだ。わが国の作曲は外形的な衣装にとらわれたり、末梢的な部分にこだわる傾向があって人間そのもので書かれていない。民謡そのものの旋律を借りるよりは、民謡の中に現れた郷土的な特色や性格、それから日本音楽の中に摂取され消化されている民謡の技術的処理の方法を日本の作曲家たちは学ぶべきだと思っている。/このことは西洋音楽に対する反省にもつながっている。わが国の音楽界は西洋音楽万能で来たが、音楽の専門的立場においてはこうした態度を一擲すべきであろう。それと、主として作曲家以外の人に理解してもらいたいのは、傑作は一朝にして生まれるものではないということである。洋楽渡来以降、50〜60年ほどした経ていないわが国の現状では作曲家の努力のほかに、一般の音楽関係者の理解と協力が絶対に必要なのである。たとえば演奏家の創造性を期待したい。わが国の演奏家たちは音楽が全国民的な共感を獲得する状態、言い換えれば真の国民音楽創造の機運を達成する一人の担当者として、音楽を選ばれたに違いないのである。したがって一人でも多く、一曲でも多く新作を歌い奏さなければならない。しかし演奏家、とくに声楽家の人たちは「いい歌がない、いい楽譜がない」という。それは一応認めるが、そうなったのは作曲家と声楽家が同じ日本に住みながら、没交渉な営みを続けていたからだろう。今日国民の音楽的志向は決定され、音楽の国家的方向は明示された。今後は作曲家の理想と演奏家の希望が一致する新歌曲、それは国民一般に嗜好に対する距離をも縮めた国民歌曲が誕生しなければならない。/批評についていえば、批評家の当初の対象は西洋音楽の鑑賞啓蒙の領域に限定された。しかし、ここでも批評家の創造性が要望される。批評家もまた独自の専門的な領域で創造的な探求をなすべきである。しかもそれは国民音楽の創造という運命のもとに、そして決戦生活の国民的感動という境地で、評論の文字が血を沸かさなければならない。こうして作曲、演奏、批評が有機的な関連をもち、その三者が一体となって民族と祖国のために一大進軍を試みなければならない。
【2006年5月11日】


楽譜の効力に就いて(一) <連載>田中正平(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.5-7)
内容:一.言語と文字 人間の生活には自己の思想や感覚や意志を他人に伝える手段が必要である。人智がすすむにしたがって口でさまざまな音を発し、それを順序良く組み合わせて言語をつくる。さらに文化がすすむにつれ自分の歩んできた経過や往時の事跡を記憶する補助として、また思うことを遠方に伝えるため、言語に符牒をつけて書き記すのが便利であることを悟り、文字ができた。/二.楽譜は音楽記録の文字である 音楽も人間の感覚を伝えるための一種の言語である。言語と同様時間に消え去る音楽を、なんとか捉えおく手段が必要になってできたのが楽譜である。楽譜は3000年来、世界の各所で考案されたが、言語の文字がそれに充当されることがもっとも自然であることから、今日でも音名や階名に各種の仮名文字が使用されている(ABCやイロハ、数字など)。ほかに文字以外の特別符牒もあったが、実演に文字の楽譜を使用するにはなお不便があることが800年前の西洋の楽人たちの認めるところとなった。完備した楽譜に要求されるものは、読譜に際し若干数の音を一束または一塊として瞬時に読み取れる構成になっていることである。そしてこの性能をもち、拍子関係をも明確に書き入れようと西洋の音楽家たちが数世紀にわたって苦心して作り上げたのが、今日われわれが重宝している五線譜である。西欧における近代音楽の著しい発達は五線譜の完成とその普及の賜物といい得るもので、その効用は読譜の修養を積みさえすれば古今を通じて未知の楽曲を容易に奏で得ること、容易に共同演奏をなし得ること、各声部を一括して見透しよき総譜を編成し得ること、先人の作風を参照し創作を簡便にすることなどである。以下、各用途にしたがって楽譜の効用を鮮明にしたい。/三.音楽の保存上楽譜の効用 音楽が作曲者の手を離れて他に伝承されるには口または手を介して、受伝者の記憶力によって次から次へと伝えられるものであるが、元来人間の記憶は絶対に信頼できるというものではないし、少数古老の死亡によってまったく跡を絶つとういこともままある。例を挙げれば古代ギリシャの音楽しかり、中世欧州の遊歴歌手、トロバドール、ミンネゼンガー等しかりである。わが国では雅楽、催馬楽などの古曲は1200年を経て今日に至っている。また仏家には教楽として梵唄、声明等、古代インドの楽風が今日に伝わっているが、いずれも師弟相伝が連綿として行なわれたからにほかならない。ただし雅楽や声明等では完全とはいえないが読本が伝わりはなはだしい訛伝を防いだ功績はあった。鎌倉時代に勃興した長編叙事楽の宴曲には整然とした読本がのこっていて、大正の初めころ故吉田東吾、故東儀鐵笛らがその復活を試みたが、原譜には楽趣を窺うに足る綾が示されていないため、そっけない空疎な感じをのこすのみに終わった。その後発達した平家琵琶や謡曲にも胡麻と称する音符号があるが、これはずさんなもので、口伝を受けてあらかじめその道に通じた人のほかは活用できない。そのため楽譜と称せられる資格を備えたものではない。その他徳川時代に起こった筝曲や三味線歌曲には多数の流派ができた。おのおの音芸術としての特色を発揮し、幾多の変遷を経て今日にもちこされた。しかし全体としては今日あえなく消滅してしまったものが多数ある。このようにわが祖先の遺風が廃れてしまったのは、適切な楽譜にのこされなかったことに起因する。この事態は今日でも認められ、たとえば延年の舞曲、幸若、奥浄瑠璃、筑紫流琴曲、八雲琴曲、朝鮮や沖縄の古曲等の確保保存は今日の急務である。わが古楽がこうした淋しい状況にあるうえは、今日わが日本の音楽歴史の編纂に完璧を期することは望めない。なお一言しておきたいことは、音楽の保存は蓄音盤によるを得策とするという考えである。なるほど蓄音機は音声をそのまま写し取り、再生するが、それに音楽保存の役目を一任するのは危険である。理由はまず、われわれのこれに対する態度が受動的であることであり、われわれの音楽的自力行動能力を積極的に推進するものではない。また、これを楽曲保存に用いようにも、あまりにも嵩むしあまりにも高価であるため、大量の蓄積と普遍的拡布貯蔵に不適当であることにくわえ、摩損しやすい。読本の恒久性に比すべくもない。要するに音楽の完全再生を確保する楽譜の様式を制定し、これによって楽曲を写取刊行することが保存の要請であると首肯されるであろう。
【2006年5月19日】

最近の邦人の管絃楽作品について山田和男(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.8-17)
内容:高度国防国家のもと音楽の部門がその一翼として動員されていることは、この文化面の力こそ国民のもつ尽きない底力であると考えられる。ここに紹介する20人もの作曲家が、この戦時下といえども日夜思索しえ、創作に没頭し得るこの国のわれわれは、大きな勇気とともに感謝をも禁じえない。12、13年前の「新興作曲家聯盟」時代こそ過剰西洋化の警告をきいたが、戦争下の現実こそは古き「日本の美」が持続され、日本は間違いなくその方向へ進んできている。それが楽界の中心をなしてきている状態はなんと喜ぶべきことではないか。思い出すままに現在活動中の敬愛する管絃楽作曲家諸氏のごくさいきんの管絃楽作品、執筆中・立案中(これは* 印で記す)をもあわせて記す。 山田耕筰氏 いま58を迎えられる山田の初期作品には、R.シュトラウスやヴァーグナーの影響があることについて一言触れよう。彼らの音楽こそは自然の法則を逆にとって、自然を圧倒しようとする生々しい人間臭で満ちているのに反し、山田の《マグダラのマリア》《盲鳥》《明治頌歌》などにおいては西欧の影響の中にもそれらの技術を極度に「自然」に近づかせて、日本人らしい魂を切々とした哀傷の中にこめたことは、あの移入時代にして日本芸道の高級な様式を正しくこの国に継承発展させ、肉感臭を駆逐した偉大な踏跡なのである。人はまだ、一言たりともこのことに触れなかったが、様式とは西欧大家の忠実な模倣からは創作されない。芸術院会員の山田はいま、檜町でオペラ《香姫[シャンフェイ]》を執筆中とのことである。 清瀬保二氏 《日本舞踊組曲》(1939年)カンタータ《みいくさに従ひまつらむ》(1943年)《萬葉曲集》(1942年)。《小交響曲》。清瀬がいつも平明な音楽を作るといって責めることはやめようではないか。かりにいま、日本の他の芸術について考えてみると、日本人は絵の最高の様式として墨絵をしあげたし、日本建築から導かれた結果は木造の簡素な幽玄な茶室という様式だった。それらはいかにも発生的であるかにみえて、しかし究極の表現だったのだ。このことからしても西洋の意欲的で肉感のある感じが、そのままわれわれの音芸術の尺度になるとは考えなれないのである。清瀬の作品がこの水墨画と同様の焦点に立っているものとすれば、彼の音楽がいたって純化され平明化され、しかも深い綜合性をもった、言い換えれば生活的要素を多分にもっているという私の考えも肯けるであろう。彼は15年前の初期から傾向こそ違え、常に平明化へと苦しんできた作家なのだ。 箕作秋吉氏 《二つの詩》《古典小交響曲》《第一交響曲》(ヘ長調 第1楽章: 序曲<大地を歩む>−第2楽章: 間奏曲<大洋の挽歌>−第3楽章: 終曲<凱旋行進曲>)。この海軍士官の夢見るような美しい音感、微妙な色彩を崇め讃える人は正しい。しかしまた、彼の音楽のスケールが小さく、圧力がないという別の人たちの非難も理解できる。ベートーヴェンやベルリオーズのように強い輪郭によって現される音楽によって慣らされたわれわれの耳には、威圧の力こそきわめて貴重であり自然な表現要素であるが、箕作のとった手法はそれを無視した方法であったのだ。彼のもつ精神はハッタリのかわりに、あくまでも具体的にして少々かたちがつつましいことが第一の意図なのである。彼の作品はさりげなく始まりさりげなく終わる。それは人々の心に広がろうとし、やがては自然にまで溶け込もうとするありようなのだ。日本のもつ内面的消極的な深い美だ。さすがに十数年も前から日本和声を提唱されていた氏の魂の現われなのである。 池内友次郎氏 《熊野》(1942年)《四季−四章−》(1943年)。《交響組曲》。池内の作品の表現が控えめであることをもって作家の魂の「無」なることをふれ回るのは大いに見当違いである。彼の音の淡さは、けっして無でもなければ停止でもなく、むしろ味のある余白なのだ。それは後退どころか前進した積極性をもつ、あやしい空気を感じさせる。この空気こそ聴く人によって無限に広げられ、この余白によって彼の音楽は完成されるのだ。《熊野》と《四季》を聴けば、彼が本当の日本人としての要求と嗜好とにあわせて音符を書いたことが知れる。彼は調布という田舎に引っ込んで日本人作家としての魂の戦いを立派に実践している。(つづく) 尾高尚忠氏 《芦屋乙女》《みだれ》《交響組曲》(1943年)。《チェロ協奏曲》。華麗で豊かな作品を書く作家。独自の境地をこだわりなく流動させる点で、邦人としては珍しい天分をもっている。尾高は深い感動の混沌に正面から敢然と戦う力と図太さがあり、音楽的姿像を作りだす雰囲気をもっている。 橋本國彦氏 《交響曲イ短調》(1940年)カンタータ《英霊讃歌》(1943年)。《交響曲》*国民歌劇。芸術作品は作家その人が重要な問題となる。それは、作品に表現されたものの裏にひそむ内面そのものが主要な成立要素をなすからであろう。皇紀2600年のために《交響曲》を書き、山本元帥のために作品をものしようとも、それが決して際物にならず感動させられるのはなぜだろうか。橋本は《斑猫》や《お菓子と娘》などにみられる器用さからは脱皮して、さいきんはその器用さを極力抑える。なにか表面をすべらない抵抗を感じるのは表現の背後に働いている人間の振幅にほかならない。近年筆まめになりつつある彼にジックリとしたフランクの交響曲のような作品を与えてほしいものだ。 安部幸明氏 《小組曲》《セロ協奏曲》。《管絃楽変奏曲》*《小交響曲》。作曲界から抹殺できない作家であるどころか、老年どのようなかたちに大成するかわからない不思議な存在だ。マーラーの影響はあるとしても決して独創性や新奇を追及しない。それでいて古いかといえばそうではなく、おっとりとした調和を書きつけている。だから安部は《ペトルーシュカ》のスコアにいくら魅力を感じてもそれを模倣しようなどとは思わない。 江文也氏 《籃碧の空に鳴りひゞく鳩笛に》(1942年)《世紀の神話による頌歌》(1943年)《木管と管絃楽のための詩曲》(1943年)。《孫悟空と牛魔王》。日本的作家というよりも「大陸作家」として自他ともに考えようではないか。日本人のまったく持ちあわせない大掛かりなものをもっているし、彼の作品にはエスプリの卓絶さは乏しいものの、それは対象の性格と大きさにふさわしいものをもっているのでそれ自身完璧である。山田は江に創作作品としての美よりも、あらゆる素材的関心を超越した高さに貴重なものを感じるのである。 伊福部昭氏 《ピアノ協奏曲》(1942年)《交響譚詩》(1943年)。合唱・ピアノ附交響曲。北海道在住の伊福部ほど完成による赤裸々な日本人としての表現をする人はいない。彼は作品に生命を与える手段として客観的な要素を捨てて、対象の中に自らがとびこみ融合する。自分をではなく対象を立てようとして苦悶する。近作《交響譚詩》のもつ構成とは、なんと日本的性格をついたものであろう。それは知性のチの字も出さないが、はっきりとした知性認識のうえに立っている。究極は案外諸井三郎と同じ日本的構成という目的を探求しているのではなかろうかと思わしめるほどである。 諸井三郎氏 《提琴協奏曲》《チェロ協奏曲》(ともに1939年)《交響的二楽章》(1942年)《交響幻想曲》(1943年)。《第3交響楽》交響的楽劇《一人の兵士》。大作を次々と書く諸井は、ともすると西洋のスタイルの模倣影響者だと説明される。両者の近時を発見すると、本家は西洋、模倣は諸井と決めてしまって少しも怪しまないのはなんと不思議なことであろうか。《交響的二楽章》には日本人特有の形成が根底からにじみでている。いや、自国的な一種の宿命をすら鋭利に感じて心を打たれるのである。交響的楽劇は「能」的性格を音楽によって形成しようとするたくらみである。 深井史郎氏 《ジャワの唄聲》(1942年)《大陸の歌−五章−》(1943年)。《交響曲ハ調》オペラ《敵国降伏−元寇の役を主題とする−》。3、4年前のスランプをのりこえて、いま彼の創作欲は脂がのっている。深井の音楽にはつねに重量感があり、また巧みな管弦楽技術はこの重量感を深めている。ラヴェルがトランクならば深井は信玄袋だ。ラヴェルが新しい技術を発明するごとに皮のトランクは金属製になり、次にはエナメルが彩られ、さらに立派なレッテルが貼られてきれいになるかわりに、心の中がだんだんと繊弱になる。深井の信玄袋は綿紗が緞子になり、次にはより紐の色にも渋みが加わり、はては底板も立派になるという具合だ。しかも厚みによって、われわれの心と生活にしだいに密着したものが作られていくのだ。(つづく)  小倉朗氏 《交響組曲 イ短調》(1941年)《ピアノ協奏曲》(1943年)。《管絃楽変奏曲》《パッサカリアとフーガ》《交響曲》。堅牢で純粋な古典を愛し、カルテット作曲こそ作曲家に鞭打つ材料であるという小倉の態度はまさに正しく、彼の作品にはどこにもごまかしや空虚はなく、強がりも偉がりもない。そして与えられた小さな材料ですら、実に微妙なところまでも美意識を働かせる芸術家らしい才気がある。彼の構想はあまりにも古典的に生かされるので、人々は独創性不足だなどという。しかし、彼の創作過程は近作《ピアノ協奏曲》にみられるように、いかに肉付けをし、いかに表現を推し進めるかに苦しみ、また制作中に涙を流して感激していたのを見ていると、むしろ芸術における技術以上の世界があることを小倉によっていまさらながら示されて驚く。 渡邊浦人氏 組曲《戦詩》(1943年)音詩《闘魂》(1943年)《満洲の子供》。渡邊の音楽は野生的であって、しかも素朴かつのびのびとしている。だから時に応じてその本質としての力を発揮するが、ジックリとした自己形成というおちついた精神の雄軍というには、まだ時間がいる(作家になってからの時間が短いため情状的酌量がある)。それにしても、トーンの正しさと高価の好ましい結合とは渡邊の天性にかかっているといえる。 大木正夫氏 組曲《南支那に寄す》(1941年)交声曲《神々のあけぼの》(大木敦夫詩 1942年)《子供の国》(1943年)。《仏像に題す−法隆寺にて−》。いつも忙しそうな口調で作品制作中の報告をする。大木は自分の五線紙に夜となく昼となく埋もれている芸術家である。この人の作曲に心惹かれるのは、表現にいたるまでの真摯さにある。たとえ《みたみわれ》序曲のようなさもしい作品においてすら、それは単なる頭脳による構想にとどまらず、肉体的にじかにその構想を苦悩している姿がみえるのである。そして作品の対象は対象以上のものになっている。それは彼の頭の苦悩というよりも肉体の苦悩が切実に感じられるからであろうか。この肉体感が表現の裏に潜むということは、日本のあらゆる人生観・芸道についてみられることで、それを通じて目的に達する「行」の精神の作曲家といっても良いだろう。小智では見当がつかない東洋の新しい美の発見こそ大木の優れた直観と「行」とにまつところが多い。 平尾貴四男氏 カンタータ《おんたまを故山に迎ふ》(1941年)《砧》(1943年)《日本民謡組曲》(1943年)。管絃楽序曲、舞踊劇、歌劇。平尾の人柄に接すると、日本人らしい素直なはにかみを感じ、それが明らかに作品に滲み出ている。この現象は作曲を、内面の深度一筋に探求させる結果となっている。フランスでの作品《隅田川》には老いの芸術、さび、あわれ、幽玄などといわれる要素を感じさせ、近作《砧》その他では「美」の勘によって楽曲を彩り、平尾らしい内気なきらびやかさを身につけはじめたことに気づく。いままであたかも古き日本、老いの日本の情越のみを平尾のみならず全作家の中にみいだそうと苦心し、欲したかのように綴ったかもしれない。しかし、いまこそわれわれは、日本人としての生き方として誠実であればいいのだ。それに徹することこそもっとも高い芸術的な肯定となる。そして現実の日本の動きに、どういう作品を書いたら国家に捧げられるのだろうかと真摯な意欲に燃えた作曲家がどれほどいるかである。音楽家はいい作品を書けばそれがすなわち職域奉公だと考える、悪意のない「芸術家」モラルが浮遊していることに深く反省したい。市川都志春氏、早坂文雄氏の作品はあまりに聴く機会がなく、将来を嘱目されている小林福子氏、戸田盛國氏についても紙面がなく心残りである。さいきんの新人に、先輩を敵ととってもっともらしいことを言うのは何と悲しいことであろうか。山田は各作家の中にひそんでいる、今日のわれわれのよりどころとなるべき要素を汲み出して、ただただ一つの向かうべき世界を見出そうとの情熱によってペンを進めたのである。いまこそこの日本を関心の焦点とすべき日本人は、お互いに勇気と敬愛をもって働こうではないか。(完)
メモ:清瀬保二から池内友次郎までは「執筆中・立案中」を意味する「」印を付けることを失念してしまいました。5月29日のサイトアップの際、修正をしました。
【2006年5月23日+5月29日+6月6日】

◇管絃楽作曲渡邊浦人(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.18-19)
内容:同じ作曲に志す若い人たちの捨石になるならと、自分の半生について書くことにした。自分が初めて音楽を勉強し始めたのは15歳くらいのときである。豊島師範(現在の第一師範)の管絃楽団でヴァイオリンの手ほどきを受けて弾いているうち、猛然と音楽をやろうという望みをもつようになった。卒業して小学校に奉職するからわら、同好の卒業生と豊島管絃楽団なるものをつくって弾いたり、指揮をしたりするうち管絃楽に対する理解が少しずつでき、山本直忠氏についてドイツ的な作曲について約10年間指導を受けた。やがて、どうしたら日本の音楽を世界的水準にまで高められるかと考えるようになった。そして多くの管絃楽曲を学び音楽書を読んで、音楽史上名をとどめている人々は必ず「新しき美の創造」をなしていることに気がついた。では、新しき美はどうしたらよいか。早坂文雄氏を知り「我々の芸術は民族的原始性から出発することによって世界化する」という言に深く共鳴した。まず古典を、次いで在来の日本音楽を研究し、日本民族の偉大さや深い美に感動せずにはいられなかった。外国の模倣がいつの間にか日本特有の美の中に溶け込んで、それ以上の美を生んでいる幾多の事実が認められ、そうした発展性をもつ美こそけっして他国に負けないものである。原始の美を失わないことによって文化が永続し発展してきた事実は伊勢大廟によって表現される。その前では日光の美のいかに貧弱であることか。/ある批評家は、民族音楽はたしかに民族固有の面白さをもっているが、一地方音楽の域を出ず世界音楽とはいえないと言っている。しかし、その民族音楽が一地方の音楽に終わるか世界文化に貢献するかは、作品そのものによると思う。ベートーヴェンの作品は芸術的に高められたものがあるからこそ、ドイツのみならず世界的になり得たのである。純粋な芸術に国境なしである。日本の音楽もすぐれた原始性が高く表現されたとき、必ずや世界文化に貢献し得るのである。世界の創作活動の中心はイタリアからドイツへ、そこからフランス、ソ連へと移ってきたが、今度はいよいよ日本でなければならない。それをなし遂げるには、現在第一線で働いている外国の作曲家を深く研究しなければならない。それらと照らし合わせて日本的なものによって、それ以上に高度なものを心がけなくてはならない。われわれが競争するのはバッハやベートーヴェンではなく、ロシアのストラヴィンスキーやプロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ハンガリーのバルトークやコダーイ、イタリアのマリピエロ、ピツェッティ、レスピーギ、フィンランドのシベリウス、ブラジルのヴィラロボス、メキシコのシャヴェーズなどであり、彼らに勝つには日本民族特有の美を発揮することが近道である。神楽、雅楽、その他の古代音楽、長唄、常磐津、浄瑠璃、清元などのそのものを管絃楽化するのではなく、その真髄を掴んで管絃楽化することである。古代の防人の精神は、いままた南に北に大海原に大空に、新しい息吹としてよみがえっている。/自分はあくまで国民学校に教師であるかたわら作曲をするつもりである。児童の教育に全身を打ち込むことと作曲をすることは、ひとつも矛盾を感じない。子どもの成長はすばらしく、しかも新しい部面の成長は日々指導に当たっている自分でさえ驚くことがある。そして第一線の将兵と同じ心で作曲することによって、日本の音楽がやがて世界の文化に貢献し得るささやかな捨石になればと思う。
【2006年6月10日】

信時潔の歌曲作品木下保(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.20-23)
内容:こんどの第10回独唱会は日本語の、しかも日本人の一人の作家の作品を一晩にまとめて歌った。これまでは、だいたいドイツ歌曲の移り変わりを発表してきたが、それを回顧して、いよいよその知識と経験をもって日本歌曲による独唱会を行なったのである。さて独唱会を開いてみると、日本語の発声法や日本歌曲の歌い方に経験が少なかったせいか、難しいと痛感した。いまさらそんなことを感じるというのは日本人の一人として、あるいは日本の歌手として恥じ入るしだいである。日本歌曲に対する不勉強を取り戻し、立派なものを生み出したいという希望に燃えて緊張した気持ちで勉強することができた。とにかく1943年9月19日に独唱会が開かれてから、この会がひじょうに有意義であったこと、いろいろな問題を投げかけたという意味の手紙が多く寄せられ、とくに青年層の人たちからこの時局下、日本の作家の作品を自分たちの手で開拓したい希望をもっていたという手紙もあり、自分としては共感を得られてひじょうに喜んでいる。手紙の内容はいちいち挙げないが、そこには青年の希望のようなものが現れている。それはこの時局下、厚生音楽のようなものに身命を打ち込むことは覚悟して実践もしているが、その一方で在来の長い伝統をもつ芸術的実りのゆたかな歌も自分の精神生活の向上なり、歌手としての技巧、教養を不断にたかめていきたいという熱意である。/そこで個々の演奏について勉強中の苦労話をご披露すれば、これから勉強する青年に何らか得るところもあろうかと思うので、少しく述べたい。まず土岐善麿訳詩の《鶯の卵》から(イ)<絶句>。この歌では、純粋な日本の母音で音が飛躍する場合に、母音の調節がひじょうに難しく苦慮した。(ロ)《示談》では、高い音で日本語の「ウ」という母音が続く箇所はひじょうにやりにくいと感じた。ドイツ語の「ウ」とちがって日本語のそれは比較的上部に共鳴の箇所があるので、音が痩せてきこえる。この「ウ」と続く母音とのつながりの比例ひじょうに難しい。(ハ)《鹿柴》はピアノの曲に朗読を交えていくもので、どのくらいの音程でどのくらいの大きさの声を出したらいいのか、調子をつかむのになかなか骨が折れた。しかし作品が上手くできているため演奏効果はすばらしいようであった。(二)《張節婦詞》のさいごの段の<良人瞑目黄泉下>は東洋人でなければ到達しえないような歌詞であり音の表現であるため、単純な音にそれだけの意味を含めて歌い流すということは、技巧的にも内容的にも苦労があった。将来こういう気持ちの歌はたくさんつくられるに違いないから、この精神的内容とこの表現の技巧は日本人の歌手であれば一人残らず極めて欲しいと思う。2の《沙羅》の8曲を総括して考えると、この中には日本人でなければ到達できないような心境、さらに日本古来の言葉つき、より具体的には能の表現のし方を考えて、われわれがこれから築いていかなくてはならない発声法で、能とは違った技巧で日本人に現代の表現法というものを築いていかなければならないことなどが意外に苦労であった。また西洋の歌曲は思ったことの100%を表に現すのに対し、日本語の歌曲では思いつめたある小部分を鋭く表して、それで思いの全体をこめたものを感得させる。これを技巧的に考えてみるとひじょうに難しい。すなわち極力表面的な表現を避けて、もっぱら内面的な表現を用いて全曲を歌いこなさなければならない。日本精神を現すうえに、これからの技巧的修練のヒントを得たような気がした。3の与謝野晶子作歌の《小曲五章》の段では作歌者が日本の女性作家であるせいか、女性的な表現法に自信がなかったのであるが、それでもいくらかは作歌者や作曲者の意図を表現したつもりである。第二部に入って4.《小倉百人一首より》。技巧的には特に難しいところはないと思ったが、筝唄や民謡調、あるいは古典的な旋律が多分にあるので、それらの特徴を心得て歌わないと見当違いの表現をする恐れがある。5.の小品集も、だいたいこれまで述べてきたいずれかに該当するが、ただ<野火>については、日本語としては珍しく早口な曲である。日本語は西洋の言語と比べて子音が少ないため、母音をてきぱき変えていかないと何をしゃべっているかわからない曲になる。充分な早口の練習が必要だった。6.の北原白秋詩の《小曲集》は、ただ白秋独特の情緒を詩的にいかに表現するかということに心を砕いた。7.の(イ)、蒲原有明の《茉莉花》。この曲は演奏時間が7分以上かかる、日本の歌曲としては相当長い部類に入るものである。いろいろの変化の中に、叙情的、劇的あるいは叙事的なものを織り交ぜて曲に一貫した感じを与えてゆくことに苦労した。同じく(ロ)の橘曙覧の《獨樂吟》は日本の歌曲としては珍しくほがらかな曲なので、明るい母音を使いながら歌いとおすことを心がけたつもりである。同じく(ハ)は与謝野寛の《短歌連曲》。この曲はかなり劇的な表現が使ってあるが、西洋の曲を勉強した者には苦労なく表現できるもののように思える。この独唱会を振り返ってみて、日本のあらゆる芸術分野と西洋の芸術を比較して、日本的精神文化とでもいうものは西洋のそれと比べて緻密で、静かで、しかも簡素で枯淡の味わいがあり、さらに後味が相当長く続くと思われるものが特徴となっている。その立場からあらゆる技巧の根本の裏づけをしないと、いわゆる日本的表現の万全を期し得ないということを痛切に感じ、技巧を学理的に体系づけることが、われわれの目下の任務であるように感じた。
【2006年6月14日】

民謡風土記(秋田県の巻)藤井清水(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.24-26)
内容:東北6県は優れた民謡に富んでいるが、わけても秋田県には明快で歯切れのいいものが多いと思う。一口に「東北民謡」といっても、県別に概観するとそれぞれ特殊な色調をもっているように感じられる。もっとも現存するほとんどの民謡は、旧幕府時代あるいはそれ以前に発生したものであるから県別に考えるのは当を得ないが、相馬藩、会津藩、伊達藩、南部藩、津軽藩などと考えていくと、それぞれの藩領における人情風土の影響が民謡に反映しているということは、容易に首肯される。/さて、秋田県での代表的民謡に富んでいるのは仙北郡を筆頭に、鹿角郡、由利郡という順であろう。秋田民謡といえば誰しもまず「おばこ」を指すだろう。秋田では土地本来のものといっているらしいが、一説には、元和のころ唄われていた庄内(山形県)地方の「庄内おばこ」を馬方が仙厳峠越しに鹿角郡に行き来していた当時、その中途にあたる仙北郡の田澤村に置き土産したものがひろまり、静かな山間の気分に融け込んで原曲とはよほど変わった「田澤おばこ」になったのだとも伝えられている。仙北地方では、ほかにもいろいろな「おばこ」があるが、それらを総括して「仙北おばこ」ともいう。「庄内おばこ」は単純素朴だが、「仙北おばこ」はとても複雑化していて、前者とは別個のもののようにさえ感じられる。一般に世間で「おばこ」といっているのは山形県の「おばこ」で、これは誰にも覚えやすく唄いやすいが、秋田県のはなかなか歯に合わない。/「おばこ」と並んで秋田民謡の雄に「秋田音頭」が挙げられるが、旋律は笛だけにあって歌詞は唄うのではなく、地口めいた文句を囃子のテンポにあわせて「云う」のであるが、ところどころに掛け声が入って明快である。その内容は郷土を礼賛したもの、滑稽味をあらわしたもの、風刺的なもの、そして猥雑なものなど種々雑多である。なお、雄勝郡西馬音内(にしもない)町の盆踊り唄、仙北郡の「仙北音頭」も囃子や踊りは、多少相違しているが秋田音頭と同系のものである。仙北郡には「生保内(おぼない)節」「ひでこ節」などの傑出した唄のほかに、「祭文林坂」「荷方節」「きよぶし」「姉こもさ」などがあるが、角館町の鎮守祭りに奉納する「お飾(やま)囃子」は純粋な意味での民謡とはいえないにせよ、仙北地方の代表的なものであろう。/鹿角郡には「湯瀬村コ」「毛馬内(けまない)甚句」「検校節」「そでこ節」などがある。尾去澤鉱山の作業唄「石刀節」は現代的感覚を有し、比較的新しいものと思われるが、いわゆる新民謡的な曲趣の中にも胸を打つものがある。(つづく) この夏、放送協会の民俗資料調査の仕事で東北地方の神楽、獅子舞、番楽等の調査採譜に巡歴したおり、花輪町に向かう途上で、すでに採譜した「湯瀬村コ」の純朴な歌詞曲調を通じて美しい幻想を抱いていたこの湯治場が現代的な温泉郷となっていることを車窓から瞥見して幻滅した。毛馬内町の盆踊りは「大の坂」と「毛馬内甚句」の両方を踊っているが、「大の坂」(上方から移入)の唄はなくなり笛と太鼓だけで踊り、「毛馬内甚句」は唄だけで踊っている。1943年7月31日には花輪町で民謡を7、8曲採譜したのち、毛馬内町の素封家本田健治氏宅で、「大の坂」の歌詞を記憶しているお婆さんをリヤカーで連れてきて、盆踊りの実演を見せてもらった。84歳のその人が唄を知っている唯一の生存者であってみれば、民謡の考証上貴重な国宝的存在である。仕事に取りかかると退色しきった古写真を再生するようなもので、お婆さんの曖昧模糊たる音声は、さながら幽界の声である。作譜の技術を活用してともかくも楽譜のかたちにした。民謡の採譜は並大抵ではない。/信州追分の馬子唄が越後を経て蝦夷へ渡り、海の民謡に更生したのが「江差追分」や「松前追分」だというのが定説になっているが、越後からの海路を佐竹藩に寄り道したものが「秋田追分」だという。ところで由利郡の「本庄追分」は信州の地元から越後の海岸づたいに本庄に根を下ろしてこの追分となったそうだが、その節調は信州の馬子唄としての原曲とも、今日の追分とも全然別個のものに思われるくらいにその形態、曲趣が相似しないのはなぜであろうか。/南秋田郡には「あいや節」や「出雲節」の流れを汲む「船川節」などというお座敷唄がある。研究的興味を惹くのは「三吉節」であろう。すなわち「荷方節」「松坂節」「検校節」「八澤木節」は皆同系統のものだといわれるが、採譜してそれらを対照してみても同様の推測が下される。県内の代表的民謡か主としては仙北の黒澤三一、由利郡の加納初代がいる。横手町の染子という芸妓もなかなか達者で仙北の「生保内節」「ひでこ節」などが得意らしい。ほかに一寸平姐さんの「岡本新内」も折紙つきらしい。/秋田民謡を今日あらしめたのは、仙北郡中川村の小玉暁村翁の功績が大きい。翁はもともと教育家であったが、その一生を秋田県(とくに仙北郡)の民謡の研究と指導にささげ、自分でも達者に唄ったり太鼓をたたく腕前をもち、郷土の民俗芸能や民俗史的研究にいたっては県内随一の学究だったが、還暦を過ぎたばかりの一両年前に急逝された。この夏には町田嘉章とともに遺族を弔問し、墓所にも参詣した。(完)
【2006年6月23日+6月27日】

映画音楽時評深井史郎(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.27)
内容:もっともいい作品を出さなくてはならない現在において、映画作品は全体に一時より質が低下しているのではないかと思う。情報局の人も関係して、日本音楽文化協会の中にできた映画音楽改善委員会というものがある。深井はこの会に大いに期待をし、同時にその運行の仕方を見て成果を危ぶんだ一人である。現在、この会がどのような運動をしているのかまったく知らない。外部に知れた限りでは、大木正夫を動員して大映で一音楽映画(?)を製作し、また映画会社の音楽企画担当の人々と談合したり、マネージャーのように作曲家を現場へ紹介しているようである。この委員会に対して不思議に思うのは、その作品の質に関してもっとも責任のある作曲家ないしは直接の関係者がいないことである。こういう考えを持っている人は、まだほかにもいるであろう。/映画「海軍戦記」にはシベリウスの《フィンランディア》やR.シュトラウスの《ツァラトゥストラはかく語りき》がレコードによって堂々と場面に当てはめられており、画面には感激しながらも、作曲家としては耳をおおって赤面した。この映画が外国へ行く。この屈辱はだれの責任か。さっそく音楽改善委員会の園部三郎には報告したが、その後録音のやり直しもしないで映画は外国へ行ってしまったらしい。しかもシュトラウスの曲はクーセヴィツキーとアメリカの交響楽団だとすぐわかる。なぜあの時、われわれの責任において録音しなおすよう当局に迫らなかったかと後悔している。しかし、もしあの時当局に迫っていたとしても、はたしてその考えが受け入れられたかと考えると悲観的になる。映画検察官も映画批評かも多くいるし、映画音楽批評かも少なくない。「海軍戦記」はそうした人たちの前であの「音」といっしょに映写された。その道の権威者は問題なく(音楽も含めて)この映画を通し、しかも推薦のレッテルさえ貼っている。さらに紙面を持った人たちでさえ、深井が考えた問題には触れていない。とすれば深井が赤面したのは、単なる一作曲者の感傷であろうか。以上は一般ならびに指導者の、音楽に対する一例である。映画音楽作家、ひいては映画音楽改善委員会が遭遇しているのはこういう状態である。ブローカーのような役目を引き受けて現場に人を送り込むのもいいが、改善ということについてこの委員会のやるべき問題は、もっとあるのではないか。特にこの委員会が日本音楽文化協会の中にできたということを考えてみてもである。
【2006年7月6日】

楽壇戦響堀内敬三(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.28-29)
内容:▲出版に臨みて 新しい音楽専門雑誌『音楽文化』は本号を以って発足する。皇軍の軍楽隊は、いま砲弾の中や敵地に、あるいは海上遠くに転戦している。銃後の音楽は、戦力の増強、皇民意識の昂揚、盟邦との結合、敵地住民の宣撫に、その全力を尽くしている。今回の音楽専門雑誌の統合は、いままで各雑誌がもっていた多くの弱点を除き去り、真に戦時国家有用の機関とすることを目標として行なわれた。その一元的な編輯・運営に当たることを許されたわれわれは、この重責を自覚し、あらゆる努力をささげる覚悟である。1冊の音楽専門雑誌は、それぞれが幾百人幾千人の国民を指導する音楽者に、必要な資料と楽譜を提供する。1冊と1冊を比較するなら、音楽専門雑誌は他のいかなる雑誌よりも利用価値と影響力が大きい。この点に責務を痛感するのである。われわれは『音楽文化』を「商品」とは見做さない。これを以って私利追求の具とはしない。読者諸氏もこれを「楽壇の公器」として活用し育成していただきたい。 ▲一緒に戦はう よく楽壇は一致していないといわれるが、党派的な対立や組織はない。ただ楽壇人は個々別々に働く職能人であり、同時に教育程度が高いから自尊心も強く、したがって協力を嫌い我意を張るような傾向はある。そんな了見でいては今日の時局に処することはできない。この戦いに勝つためには、銘々が勝手な説を立て、ばらばらに働いていたのでは成し遂げられないのである。楽壇の中枢をなすべきものは日本音楽文化協会である。これは情報局と文部省との共管する国家的機関である。全楽壇はこの団体の中に一致しなくてはならないのに、これと関係なく多くの団体が存在している。それらの団体は日本音楽文化協会に吸収されるか廃止されなくてはならない。今日の時局に楽壇だけが無統一でいることは許されない。日本音楽文化協会は任意の同志的結合ではなく、包括的な協力機関である。協会に対して不満をもつ人があるかもしれないが、「気に入らんから俺は別だ」というわがままな態度をとってはならない。われわれはいっしょに戦うのである。 ▲演奏会の企画 東京では芸能関係の取締りが強化されて、演奏会もあらかじめ書類を提出して許可を得なければならなくなった。これは決戦下に不必要なくだらない演奏会を葬るためである。たとえば、「研究」のためと称して行なわれる修行中の門下生や未熟な演奏者の独奏会、独唱会、温習会などは禁断されてよい。発表に値するか否かは主観的な立場から決めるのでなく客観的な立場から決定されるべきであるが、これは教師やマネージャーなどにも見当がつくことであろうと思う。また娯楽価値のある演奏会も必要である。これに対しても内容さえ良ければ弾圧はないと思う。まじめな独奏会や独唱会を催す専門家に対しては無理解な拘束は行なわれないであろうが、特に新進の人たちに対しては独唱会、独奏会をいく人かの音楽家が共同して行なうことを勧めたい。経済的にも楽だし聴衆も喜ぶ。曲目についても充分な検討を加え「この曲を演奏する必要があるからやる」という具合であってほしい。 ▲勝利への道を築く 大日本産業報国会と日本放送協会の共同主催による第3回勤労者音楽大会が1943年9月から10月にかけて、各府県→地方ブロック→全国の順で行なわれた。全国の分は10月下旬なので本記事には間に合わないが、合唱・ハーモニカ合奏・吹奏楽を通じて1万5千の産業戦士が音楽の技を示したのである。産業戦士の音楽は同じ職場の友を喜ばせ励まし、同時に己の心を磨く。音楽をやる産業戦士は概して成績がよく、音楽のある職場は概して能率が良いそうであるが、音楽が直接戦いに貢献していることがわかる。10月3日からの軍人援護週間の初日、東京の日比谷公会堂で「戦意昂揚、軍人援護強化大音楽会」が行なわれ、各地方へは日本音楽文化協会から優秀な音楽家たちが派遣されて、それぞれの場所から《大アジヤの獅子吼の歌》など軍事保護院へ献納する楽曲を発表した。これらの会がすべて好結果だったことは喜ばしい。音楽が国家的な役割を果たし、現実のその効果を挙げていることを考えれば、道楽ごとの音楽を「研究発表」と称したり、「おさらい会」などをやるのは恥ずかしいことだ。音楽家は勝利への道を築くことに専心して進もうではないか。
【2006年7月23日】

現代邦楽の伝統町田嘉章(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.30-34)
内容:▲能楽家と特権階級 1943年9月29日付の朝日新聞東京版に、朝日主催で29、30両日に神田共立講堂で開催予定の五流演能の会が、能楽出演者と警視庁との間の技芸証問題が未解決のために中止になったと報じられた。これは去る1940年に興行取締上、技芸者の結束統合をはかる建前から許可制とし、技芸者には技芸証を交付し、その交付者以外には公開の舞台に立てないとの内規を設けた。そして技芸者はそれぞれの部門で協会をつくり、各協会の統治機関として藝能文化聯盟が生まれたのであるが、能楽は公開的なものではなく、会員組織によって演能を催しているのであるから、興行の取締りを受ける筋合いのものではないとの理由で、能楽家たちは技芸証の交付を受けず、したがって藝能文化聯盟にも加入せず、同じ日本の芸能人でありながら全然別種の行動をとってきたのである。しかし五流からボイコットされて別流を立てている梅若六郎の一派だけは、自家の能舞台以外の公会堂や帝劇などに出演する関係か警視庁の技芸証の交付を受け、一般芸能人の仲間入りをした。しかし、五流の能楽家たちは頬かむりを通し、その間朝日新聞社主催の五流合同演能会は昨年も共立講堂を会場に行なわれたが、今年は警視庁も正面衝突をして、ついに中止ということになってしまったらしい。朝日新聞社は斡旋したというが、能楽家の態度を否として技芸証を受けるように促したのか、警視庁に今度ばかりは目こぼししてほしいと頼んだのかは局外者なのでわからない。同紙30日付夕刊によれば、警視庁のこの問題に対する態度は強硬であること、一方能楽家元連も警視庁の態度に服することはできないと五流の家元会議を催すことが掲載されていたが、能楽家がどうして技芸証の下付を受けることを嫌がるのか、また警視庁の取締りを拒むのか、その心理は理解しがたい。能が高級な芸術品であり、それに携わる技芸者は神聖なものであるから一般俗人と芸能人と肩を並べて警視庁の興行取締りを受けることが恥辱だとでも考えているのだろうか。それとも保護者が昔の大名華族連で自由主義万能時代には相当の金権力をもっていたので、そうした特権階級的権力をかさに着て、警視庁与しやすしと考えたのか、いずれにしても今日の時勢を知らなすぎる。われわれ一般芸能人の側からいえば、こんな非協力的な人たちが芸能界に存在することをむしろ恥ずかしく思う。町田はこの問題を捉えて、能楽家の特権的位置について社会史的な立場から考察してみようと思う。 ▲創成期の能は庶民的芸 今日の能楽は一般民衆とは無縁な骨董的存在と考えている。もっとも観世100万、宝生50万というたとえがあることから、その半分としても相当の能楽ファンがいるに相違ないが、それでも日本国民1億からみれば物の数でもないだろうし、浪花節愛好者の10分の1にほどなので、ごく限られた特殊芸術であることは事実なのである。特殊芸術であっても芸術として優れていればいいのだが、この能楽が明治維新以前、猿楽と呼ばれていた発生時代はもちろん、足利時代に天才結崎三郎元清世阿弥が能をきわめて高度な芸術品に仕上げた当時も庶民大衆が喜んでこれを鑑賞したのであった。この能楽すなわち猿楽の発生は、伎楽の流れを汲んで聖徳太子の頃に秦河勝が伝えたものといわれ、同じく中国から渡来した「散楽」と呼ばれるものがあって、もっぱら曲芸、軽業式のものを演じていたのを寺院に属していた呪師(のろんじ)がまねて「呪師(ずし)猿楽」を工夫して教化の道具とした。これに準じてできたのが「延年」と呼ばれるレビュー式の演芸で、そのなかに劇的な所作のものも含まれ、これを「延年の能」といった。ところが散楽や延年とは別に、田植えのときに農夫の労苦を慰めるために笛鼓を鳴らして歌舞する「田楽」が発生し、これが漸次遊興用化し神事に供せられるようになった。近衞天皇(1801-15)の頃には、これを専門芸とする法師が生じて本座、新座に分かれて芸を磨き、延年の能式に劇的表現の方へ力を入れることになった。これとともに伎楽から出て滑稽な仕料を本態として変化していった猿楽も、延年や田楽の影響を受けて劇的な表現を主とするようになり大和、近江、丹後などの神社に付属して座を構えていた。その中で大和猿楽は奈良春日神社に奉仕するもので円満井(えまい、金春)、結城(観世)、外山(宝生)、坂戸(金剛)の4座(原文には五座とあるが誤り)があり、結城から三郎清次(観阿弥)とその子元清(世阿弥)とが現れて延年や田楽の長所を取り入れて内容の拡充を図り、応安7年、今熊野における催能で将軍足利義満に認められ、楽頭に登用されるにいたった。観阿弥42歳、世阿弥は藤若といって12歳だった。義満は生来芸術を愛し、五山文学を起こし室町美術を奨励し、作動の発達をはかったことなどからして、芸能方面にも相当の理解があったことがわかる。(つづく) ▲世阿弥と時代精神の把握 観阿弥世阿弥父子は将軍のご機嫌取りに終始したわけではなく、演能上の目標はあくまで一般大衆庶民の上にあって、身体の許す限り伊賀、伊勢、近江、山城、摂津、河内、和泉、紀伊の各地を巡業した(観阿弥が没した地は巡業先の駿河である)。父なきあとの世阿弥は将軍の庇護のもと、物心ともに何の憂いもなく芸道に精進し、その才能を発揮して、今日でも演じられている曲の7割方を創編曲したのであった。さらにおびただしい理論書を書いて後進を導いているが、『花伝書 別紙口伝』に芸の伝統は形式的な家系筋にあるのではなく魂から魂へ感得していく人にあることを喝破し、また『申楽談義』には、けっして一定の型に固定させずに時代とともによく交渉をもち、創意をくわえて変化させるべきものと説いているのが面白い。将軍義満の没後も義持、義教、義政など代々の将軍が能を好んで庇護したので、世阿弥の残した規格だけは整備拡充されていったが、発展的融通性は乏しくなり、しだいに民衆の手を離れて貴族階級ものとなっていった。そして[室町幕府]8代将軍足利義政の時代になると謡が幕府の儀式として取り上げられるようになり、毎年正月4日には「謡初めの式」が行なわれ、また将軍や貴族大名等の交歓では必ず演能が行なわれ、一種の交際儀礼用具化した。この慣わしは足利氏が滅びたのちも織田、豊臣に引き継がれた。もし当時、世阿弥のように才能に恵まれた能楽家がいれば世阿弥とは別の桃山式能が生まれたであろうに、当時の能役者たちは型を守ることにのみ汲々とし、権力者のご機嫌を取ることに終始した。能を愛する秀吉の精神は、そのまま徳川家康や前田利家等の諸大名に引き継がれ、秀吉が金春太夫を庇護するのに対し家康は観世太夫を登用するというように、政治勢力の移動が能楽家の流儀の運不運を左右した。 ▲猿楽五流家元の確立 家康の没後、その後継者である秀忠は元和元年に能の家元として観世、金春、宝生、金剛の四座を確認した。これらはいずれも大和猿楽に属し、家としては金春がもっとも古いが観世は世阿弥の直系ではないにせよ血筋を引く関係から主座に置かれた。足利時代に大和猿楽と対立していた近江猿楽の日吉家、山階家、丹波猿楽の梅若家なども江戸幕府の家元制度確認によって四座いずれかへの合流を余儀なくされた。ことに梅若は名家として伝統も古く四座確立に際して一流を立てたいと願い出たが、すでに四座決定発表後ということで観世座のツレの役となった。その子孫が現在の梅若萬三郎、六郎兄弟で、1921年に三井の金権を背に一流樹立を宣言してもめごとを起こした。萬三郎だけは1932年に観世座に復帰したが、六郎一門は今もってがんばり通し未解決の状態にあることは広く知られている。これがいち早く劇場へ興行的進出を企てたり、警視庁の技芸証の交付を受けたりして頭のよいところを見せたものだから、ますます揉める原因を作ったことは皮肉である。さて元和4年には金剛の流れを汲む喜多七太夫が一流を許され、喜多流として四座の仲間入りをして、以来幕府公認の家元は五流ということになった。しかもこの七太夫は豊臣氏に属し大いに徳川氏を蹴散らした勇士で、豊臣氏滅亡後は大和に隠れていたところを、藤堂高虎のとりなしで許されたばかりか日吉、山階、梅若ですら許されなかった家元樹立を勝ち得た。このことによって七太夫が非凡だったことが想像できるが、権力者の処断がいかに芸術家の人と家との将来に大きな運命と禍福をもたらすかがわかる。(つづく) ▲幕府の典礼楽としての能 徳川氏は足利市の例にのっとって能楽を典礼の式楽として用いることにしたが、その内容はいっそう拡大され、また重要なものとなった。すなわち
  (1)謡い初めの式(毎年正月3日、天下泰平祈願)
  (2)御大礼(5日の能)将軍宣下、官位昇進、代替、婚儀、徒移、誕生等
  (3)公家御馳走(1日の能)正保2年後勅使東下より
  (4)御法事(4日の能)
このうち「謡い初め」は足利幕府では正月4日に行なっていたのを豊臣秀吉が2日に繰り上げ、徳川氏の承応3年から3日にしたものである。その法式は観世が毎年、喜多も毎年、その他の家は順番に勤める掟になっていた。近年、ラジオ放送の開始以来、毎年正月元旦に観世家元がラジオで小謡を放送するのは、この藩政時代の謡い初めの式をかたどっている。また公家の御馳走能は毎年1回必ず行なう慣例となっており、御馳走役は各大名が交代で行った。忠臣蔵事件の発端をなした浅野内匠頭の殿中刃傷は元禄14年3月14日の御馳走能当日に起きた事件だった。このように幕府では能楽をひじょうに重視したため能楽太夫を厚遇し、これにしたがう諸大名も争って能楽家を召し抱え、扶持を与えて生活を保障した。権力者が与えたそうした恩典は、しかし芸術的にはむしろその進歩発達を阻害したと言い得よう。なぜなら彼らは将軍や大名を相手に古い能を繰り返し繰り返し演じていれば職責を果たせたわけで、精進するところは技術的習練だけであった。そして得たものは自らを高しとする気位だけであった。それも旧幕時代ならまだしも、一億国民皆陛下の赤子として自らの職責を尽くしている今日、いくら華族の後押しがあるといっても丁髷時代の妄想にふけって、国家総力の必至態勢である統制に盾つくかのごとき態度は身の程を知らないもので、まことに慨嘆に耐えないしだいである。
(完)
【2006年7月28日+8月1日+8月5日】

詩》ふるさとの家野長瀬正夫(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.34)
内容: 略。
【2006年8月5日】

音楽時評(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.35)
内容:1943年9月22日、内閣は国内態勢強化方策の大綱を発表し、軍需省の設定、農商省と運輸通信省の新設を決定した。また17業種の男子就業禁止をも発表し、ここに画期的な強化態勢が成立した。これに対して楽界の歩みはいかなる方へ進むべきか。徹底的な切り替えは一刻も猶予はならない。とはいえ、作曲家が創作活動から離れ、演奏家が音楽の練習を放棄し、批評家が批評精神から脱却する必要は毛頭ない。楽壇が一致結束して壮大雄渾な日本音楽文化の建設に励むと同時に、音楽を真に決戦生活のそれにしなければならない。// 1943年9月19日に日本青年館で行なわれた木下保の独唱会は意義深いものであった。信時潔の歌曲作品だけを曲目に盛るということ自体、独唱会というものの既成の考え方では律しきれないものである。作品の巧拙はいまは第一義的に論ずべきことがらではない。われわれの手でわれわれの作品を育て上げなければ誰をその役目を果たすのか。作品の巧拙は、そのうえで問題にされるのだ。もういまごろは日本人作品のみを演奏するエキスパートが出てきてもよい。しかし芸術家として世に問うのはシューベルトでありショパンであると考えている。これはもちろん清算されなくてはならず、今後は、声楽家もピアニストも日本人作品を世に問う時代が来るにちがいない。また、そうならなくてはならない。「音楽の植民地」から「音楽の独立国」に成長する時代はとっくに来ているはずだ。// 通俗音楽(軽音楽を含む)の副題には考えるべきものが多いと思おう。今日の日本には芸術的な作品でありながら、しかもなお通俗性をもつことが必要なのである。一足飛びに欧州の爛熟に列しようというのは一種の錯誤である。「楽しい音楽」というか、回りくどくものを考えなければわからぬものでなく、直に心をうつような作品が望ましい。この意味で日本音響が募集した管弦楽作品のうち伊福部昭の《交響譚詩》は、さいきん出色のできである。// 音楽雑誌の統合が行なわれた。他の芸術部門の雑誌に比べると案外早く、また手際よくできたのである。6誌の経営者が真に時局の要請を認識して、すばやい転換をなしたことは慶賀に耐えない。しかし、問題はやはり今後にある。すなわち新たに創刊される2誌の使命と責任の重大なことである。衆人環視のなかで創刊される音楽雑誌は、その運命を決する鍵をにぎっている。ほとんど同時期に楽譜の統合問題が出発していたにもかかわらず、原則的な意見の一致以外なんらの曙光も見えないのははなはだ残念である。一日も猶予はない時期であると思われる。
【2006年8月10日】

如何にして音楽を米英撃滅に役立たせるか大木達夫 山根銀二 増澤健美 有坂愛彦 宅孝二 三浦環(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.36-42)
■音楽の戦闘配置/大木達夫(p.36-37) 
内容:音楽は軍需品なりと、ある大佐が言った。しかしすべての音楽がいまのままで軍需品だと保証するわけではない。刺のある音楽や感覚の外れた音楽家というものが、一億戦闘配置の役に立てるであろうか。いまや音楽も一切を挙げて戦闘配置につかなくてはならない。策はどうか。すでに政府が敵性の音楽および非時局的なものの一切を禁止し、大政翼賛会も国民運動の分野から特に推奨すべき国民歌数十種を選んで楽譜を出版し、レコード文化協会に協力して用いるべき音盤の選定を行った。また、今年2回にわたり国民歌唱指導隊が全国に派遣されたことも記憶に新しい。しかし、これだけではよりよいものが積極的に生まれない。対策を決定するには、音楽がなぜ一億決戦の軍需品たり得るのか、その本質を掘り下げ、長所を摘出拡大して、建設への熱意の昂揚と方向の確定に努めなくてはならない。そしてその前に、音楽は人間を通して生まれるという現実にかんがみ、日本的なよい音楽の創成と戦闘的な厳しい表現の完成を望むには、音楽関係の一切の人を立派な皇国臣民に練成して国体の本義に徹せしめ、この戦争が聖戦である本質をさらに強く正視させ、皇国臣民としての正しい自覚と感激とをもって戦争完遂に挺身するよう指導することが必要である。同時に音楽家は社会環境の改善を計り、国家公共の諸施設の保護と助成に勤めることも忘れてはならない。[音楽家の]人間としての質の向上については、練成会の断行も一方法であり、音楽家の日常生活を練成道場化する工夫が大切である。日本音楽文化協会[以下、音文・・・小関]が結成する音楽挺身隊は、国民運動への寄与ないし各種の慰問活動の実践課程を通じて立派な練成をするであろうが、もっと手近なところに練成の機会はいくらでもあろう。戦局の緊迫に対しては、官民一致の努力が良い音楽の創成とその環境の醸成とに注がれなければならず、政府、翼賛会、音文の使命が重視される。大木は音文が速やかに優秀な規格を提示することを期待するものであるが、大政翼賛会も音楽著作物の推薦委員会を設け、推薦した以上はその普及を図るなどの策が採るべきだと思う。さいごに一部音楽の健全な大衆化を希望し、そのために日本蓄音機レコード文化協会その他の文化機関の奮起をお願いしたい。
メモ:筆者は大政翼賛会宣伝部副部長。
【2006年8月15日】
■国民運動としての企画/山根銀二 (p.37-38)
内容:戦局がますます苛烈になるにしたがい、われわれ音楽者の任務も重きを加えてくる。すなわち、いかにしたらよりよく戦力増強の役に立てるか、国民の士気昂揚に有効に働き得るかについて考えるときである。日本精神を盛った荘重雄渾な歌、健全純真な歌が国民に与えられなければならない。それによって、戦場の兵士はもとより、職場の産業戦士たち、出征軍人の遺族や家族をはじめ一般国民に戦い抜く強い気概を吹き込み、また敢闘にふさわしい健康な慰安を与えることは演奏家が今日挺身してなすべき仕事である。ここに演奏家の新しい仕事が始まり、活動様式が新しくなるにともなって歌い方や弾き方が研究され新鮮な技術が成立する。これまで演奏家は往々にして外来の既成名曲を教えられたとおりに反唱するのが使命であるかのように考えていたこともあったし、その限りではそれ相応の役割をも果たしてきた。しかし今日においては、演奏家の使命はすべてが新しい角度から吟味されなくてはならない。内容が不健全な非時局的音楽会はもとより、弟子の温習会、公衆の前に立つには技術の未熟な音楽会、有閑的聴衆に漫然と聴かせる音楽会などは今日あまり開催理由のないものであって、演奏家自信の手によって抑制されるべきものと考えられる。戦争勃発以前にすでに無価値と考えらたものが今日抑制されるのは当然のことである。一方、その内容が今日の評価に照らして適切なものは重点的に推奨されるべきである。また演奏家の日常技術の練磨はおろそかにされてはならない。たとえば日本音楽文化協会主催の音楽報国隊[ママ]の運動や各種国民運動的活動は、これまでの演奏活動とはおおいに趣を異にしており、演奏家の仕事が新しい分野に突入してきていることを示している。これを成功させるには充分な創意と慎重な企画が必要であり、演奏家自体の積極的な熱意が絶対条件である。幸い、これらの運動が予期以上の成果を挙げていることは、音楽報国の誠心を具体化する実力があることを証拠立てたものといえよう。われわれはますます音楽の使命の重大さを思い、身命を賭して音楽を通じて戦争完遂に協力邁進するときであることを痛切に感じる。
【2006年8月24日】
■音楽参謀本部を設置せよ/増澤健美(p.38-39)
内容:「音楽は軍需品なり」という平出大佐の言を俟つまでもなく、米英撃滅の大詔を奉戴すると同時に、音楽関係者としてこれは当然考慮しているべき問題、いや、その実行に取りかかっているべきことなのである。今日、その問題の一部面だけは実行に移されているが、全般にわたる組織的で統制ある活動とはなっていない。広い意味で、今日あらゆる物は軍需品たらざるをえず、軍需品と呼ばれるには、それが米英撃滅戦に直接間接に役立つ場合に限る。音楽は軍需品としても直接に殺生破壊の用を果たすものではないため、その効用は間接的なものである。これが頗る重要な役割を果たしているのであるが、それは必ずしも間接的なものだけとは限らない。至近距離に彼我相対峙する前線においては、敵陣へマイクを向けて音楽を送り、遠隔の敵には電波に乗せて音楽を放送することもあろう。こうした場合の音楽は、敵の戦意を喪失させ厭戦懐郷の情を起こさせるものでなければならない。また場合によっては、敵軍の誘導に音楽を利用し得ることもあろう。このように音楽のもっとも直接的な効用を意図することは、きわめて限定された場合であって、われわれの主として考えるべきは間接的な効用を最大限に発揮させることである。このためには対内的にはもっぱら戦力増強に資すべく、陸海将兵の慰問、産業戦士の慰安構成、一般国民の士気昂揚のために音楽の活用を計るべきであることはいうまでもない。特に産業戦士の慰安厚生については留意を要する。戦況苛烈化にともない軍需産業に従事する人士にますます期待することは言うを俟たぬが、若い徴用工の問題については深く考えさせられるものがある。彼らの大きな欲求の第二は娯楽を与えよというものであり、ここに留意を要望する意味が理解されるであろう。対外的には、占領地域における宣撫工作と対敵文化攻勢の完遂に資すべく、共栄圏各地域における米英系音楽に対する本邦音楽の実力的排撃が行なわれなければならず、さらに共栄圏のみならずわが国と外交関係を維持するすべての国にも働きかけて、わが音楽を流入させなければならない。これはやがて敵国内にも流入する可能性があり、敵国に対する謀略宣伝の役目を果たし得ることともなろう。これら対内的対外的諸条項の実行に当って、さらに具体的な事項について述べる余裕はないが、それぞれの場合の実際的状況に応じて採るべき方法を考究し、使用すべき音楽、その手段方法、実行に当たるべき人選等、周到な計画の下に各活動全般にわたって組織的で統制あるようになされるべきである。そのために音楽参謀本部を設置することも一案であろう。以上、主として音楽が単独に用いられる場合について述べたが、米英撃滅の目的のためには、あらゆる機会や機関を通じて音楽の利用について考慮すべきである。くれぐれも戒めるべきは時日の蔓延である。いたずらに議論に時を費やすことなく、まず実行が肝心である。現下の情勢はそれだけ差し迫っているのだ。
【2006年8月30日】
■対象を大衆に/有坂愛彦(p.39-41)
内容:現代日本の楽壇諸団体や音盤会社等の企画は長足の発展をしつつあるが、戦局進展の急速さから比べると、まだ著しく立ち遅れの感がある。演奏かも作曲家も、評論家も教育家も永年学んできたことや主張してきたことについて、これを放擲して従来の芸術観を切り替え、音楽というものは始めから戦争完遂のためにのみ存在するものだと定義することによって、初めてこれを米英撃滅の武器たらしめることができる。音楽者は先ずそれぞれの対象者をはっきりと認識しなければならない。誰を目標として作曲するのか、誰に聞かせるために演奏しているのかを明確に念頭に置いた仕事をすべきである。過去の時代ならば、国際的な水準を問題にしたり、音楽的知識層を対象としたものであっても差し支えなかった。ところが現在の聴衆は、ともに手をたずさえて戦っている日本人である。ほとんど毎晩のように開かれる音楽会のすべてが、真に日本人の美意識を想い、ともに励ましあい、ともに喜びや悲しみを分かち合うという熱情に燃え立っているだろうか。さらにまた、音楽のもつ精神的に豊かな栄養は、音楽会場へ来ることができる少数の音楽愛好家の占有物ではなく、一人でも多くの日本人に分かつべきものである。放送・巡回演奏・音盤等の事業が一層の努力を要望される所以である。大衆音楽という言葉は「程度の低い娯楽音楽」という意味に誤解されて、一流の作曲家や演奏家がこれに手を染めることはきわめて稀であったが、現代において大衆とは少数の専門家を除く残りすべての日本人を指す。この大衆を対象とした音楽を作り、あるいはこれを演奏するということは何という誇りであろうか、何と働き甲斐のある職場であろうか。すでに決戦下の作曲家は、ことさらに高踏的な技術を衒う必要もなく、明快率直に大衆の魂をつかんだ分かりやすい曲を作らなければならない。ユダヤ人教師の指導の下に、彼らの満足するような表現を理想とするような演奏家はもはや役に立たない。ドイツの歌だから良いだろうとか、パドリオが同盟を裏切ったからイタリア音楽は演奏しないといった消極的な了見では、音楽を決戦下の武器にすることなど思いもよらない。一曲一曲が現代の国民のためにいかなる役目をもっているかを真剣に考えて選曲する演奏家が必要なのである。有力な発言権を持っている外国人[本分では“毛唐人”]を多く審査員に加えて、課題曲の大部分を外国曲によって占める非大衆的なコンクールなども過去の遺物である。評論家もまた、現在の日本に存在するすべての音楽が、ことごとく消化して日本の国力とするように身を挺して働かなければならない。日本の音楽文化100年の計を説くよりも、今の音楽を戦力増強のために、いかに利用すべきかということばかりを考えなくてはならない。いや、日常その実践の中にのみ生活すべきである。地域的にみても、大都会は比較的好事家が多く、この時代には贅沢品に化した音楽もかなりあるため、音楽会は徹底的に整理されなければならない。農村、漁村、鉱山、工場、学校、一般都市民に大量の聴衆を求め、つねにゆたかで美しい大衆音楽を均霑させることである。放送や音楽[ママ。音盤が正しい。・・・小関]は武器としての音楽を直接に前線に運ぶことのできるものである。前線へ向けての放送や音盤は、国内用とは別個の企画において盛んに送り出さなければならない。音楽をもって米英を撃滅するには、並々ならぬ覚悟とよほどの努力が必要である。いまさら決戦下の音楽の役目を説いてみたり、音楽でありさえすれば軍需品であるかのような漫然とした態度であるならば、この逼迫した時代に音楽などやめた方がよい。
【2006年9月4日】
■音楽家らしい熱情を/宅孝二(p.41)
内容:直接戦争に役立つ音楽の力については、これを買いかぶりすぎても卑下してもならないと思う。しかし現代の戦争が総力戦であるという観点から見たとき、直接に役立たない音楽の分野はまずないといえる。すでに音感を物理の分野にまで広げてもっとも直接の重任についているし、一方吹奏楽団は産業戦士の意気を鼓舞し短時日のうちに組織化された団体になりつつある。また合唱運動や音楽挺身隊、軍慰問隊によって、楽人は熱情を傾けて直接参加している。このように、あらゆる方法をもって感情を高揚し、増産を図る企てが行なわれている。これらの直接的な音楽の高揚と同時に、音楽は国民相互の親和の力を生み、精神的に高く、正しく、美しく、強く、逞しくあらしめ、しかもなお余裕と暖かさを与えている。また国威を海外に宣揚する精神文化としての純音楽へ発展努力が必要となる。それは利欲のみに走らない純粋無垢な熱情、誠実親愛、豊富な感情感覚、努力勤勉堅忍不抜、緻密さなどの精神力や風格は、もっとも良い姿で音楽に養われたときに培われるものであろう。ただし偉大な音楽家の作品演奏は良質な受信機をもつ音楽的な人々にのみ最大の効果を与えることができる。しかし、このような体験をすることは一生に何度とないようである。音楽をもって人の心を和らげ、困難な生活をも心愉しく切り拓くことは各人の努力如何で不可能ではない。人の和と無私な心が不充分なために、また不誠実なために人々を害し、戦力の源泉である民力をいたずらに涸らすようなことになっては大変である。音楽家が各自の仕事を充分に果たすには、不断の努力と不変の熱情とをもって仕事愛に徹することである。日常の修練は誠実・謙虚・忍耐の性質を生むものである。音楽の深い精神に触れることが遥かに先のように思っている少年少女が、日夜練習に努力を傾けているのをたびたび見かける。このような切磋琢磨があればこそ、ひとたび命令が下れば、いかなる部署にも勇んでつくことができるのである。決戦態勢は極度に強化されている。音楽家は一人残らずこの総力戦に馳せ参じ、音楽家らしい熱情とねばりを傾けなければならない。
【2006年9月9日】

■日本の歌を/三浦環(p.42)
内容:敵米英は、必ずわが軍に撃滅される運命にあることは必然のことだが、私たち音楽家は必死の精神をもって帝国軍人の心を心とし、いよいよ強く勇ましく進まなくてはならない。音楽家の奏でる楽譜こそ、また唱う歌声にも精神をこめて演じるべきだと思う。日本精神に満ちあふれた美しく勇ましい音楽が必要なことは、迫っていると思う。戦争を呼吸している私たちは、少しでも外国を手本とする人があってはならない。日本の音楽をけなしたり、自らの国語を音楽に不向きのように考えたり、他人に語ったりする人は敵米英に後ろを見せる人と同じだと思われる。あの鼓の音、詩吟の声、よく味わってみれば神代からなるわが国の尊さに涙を催すべきで、音楽家はあの音を心において作曲したり演奏したりしてもらいたい。浮かれるための音楽は不必要である。ことに軍歌では、ジャズ式の伴奏を用いてはいけない。昔からの名曲は、外国のものといえども学ぶべきだが、その学ぶ心の根本を日本におき、日本の楽の音をより美しくすべきことを考えるための研究におかなければならない。したがって外国音楽は専門家にとどめて、公開の場合にはなるべく日本の真に立派な作曲を演じるべきだと思うのである。/三浦は1943年10月12日にシューベルトの《冬の旅》を独唱することとなっているが、全曲で200ページくらいなのに、昔ロンドンで《蝶々夫人》を1ヵ月で300ページほど覚えたときよりもずっと苦労している。やはり当時と決戦に進んでいる今日とでは、三浦の心にたいへんな違いがあるからだと思う。この《冬の旅》を日本の精神をもって、しかも盟友ドイツの美しい色をより美しく日本のものとして取り入れて歌おうと思っている。しかし、外国のものは今回限りにして、今後、公開の場では日本人作曲のものばかり選びたいと思っている。どうか立派な軍歌、立派な音楽を作曲してもらいたい。作曲はさほど良くなくとも、演奏家が日本精神を身に体しているときは、必ず立派なものになると思われる。
【2006年9月14日】

合唱の八得吉田永晴(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.43)
内容:(1)合唱は集団訓練である。一つの指揮のもとに行動し正しい意味での服従を練磨するものである。(2)合唱においては自己を滅却しなければ、全体として生きることができない。滅私奉公の実践となる。(3)協力協和しなければ合唱は成り立たない。一億一心の意気が養われる。(4)合唱芸術による協和の法悦感に浸り、全人的崇高な無我の境地に入れる。(5)合唱は専門的音楽技術がなくとも入ることができ、声楽としてもっとも高級な芸術三昧を味わえる。(6)発生することは健康法の一つになる。(7)合唱はもっとも良い耳の訓練である。聴覚訓練は国防上からも必要である。(8)合唱は資材を必要としない。もっとも経済的な音楽である。 合唱競演会 わが国さいしょのコンクールであった合唱競演会は、第1回の名称を「合唱祭」といい、その後「合唱競演祭」さらに「合唱競演会」と改めた。これは始めから厳格な審査が行なわれて優勝団体が選ばれ順位が決められていたので、「祭り」ではなく競演会だった。1年に1度の合唱競演会はどんなに若人の血を沸かせたことだろう。合唱人は侵食を忘れて努力し、研究し、精進した。そしてその結果に喜んだり無念の涙を飲んだりした。合唱競演会のために年々素質も技術も向上し、新しく生まれた団体も数十を下らないと思われる。そして関西にも関西合唱聯盟が生まれて、国民音楽協会とともに全国的な運動を展開するようになった。こうしてみると合唱競演会は合唱運動の母であり、現在、もっとも必要な国民運動のひとつであるといえる。しかし本年度は時局のため休会することとなった。合唱の必要は時局が重大になるにつれて、ますます大きくなってくると信じるので適切な方法を講じて進みたいと思う。
【2006年9月20日】

印度音楽見聞枡源次郎(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.44-46)
内容:文化練成道場と音楽 ベンゴールにはインド思想の新しい指導者・故詩聖タゴール博士の名高い森の学園、インドを覚醒する人材養成の“文化練成道場”の“平和の郷”があり、夜がほのぼのと明ける頃、幾人もの人間が続いて、荘厳なインド古典の讃歌を合唱しながら森のかなたへと消えてゆく。インドは暗黒の中に眠っているが、インド文化の新しい復古こそ真にインドの覚醒をもたらす。このベンゴール平原の一隅に建設された理想郷文化錬成道場では、人間の魂は音楽の上で発達すべきであり、心の修業は音楽を離れてはならないとされる。音楽はその内部に人間の存在とあらゆる存在との綜合に対する人間の深い信仰を懐いている。その究極は人格の真理であり、それは直接に会得される一つの宗教であって、分析され論議されるべき形而上学の体系ではない。“音楽道場”を中心に“大学院”“予備道場”“初等道場”“美術道場”の5部からなる精神錬成道場の地“平和の郷”と紡織、木工、皮革製作の勤労錬成道場の地“美の郷”からなり、その生活は音楽に始まり、音楽に終わる。/午前4時半、“獅子殿”の鐘の音で起床、荘厳な古典の讃歌を合唱しながら森を通って詩聖の“修養堂”を訪れ、ふたたび森に戻っていく。6時、朝食。7時、課業に就く。樹下に集い、教師を取り巻いて教えを受ける。この頃、1哩離れた“美の郷”では紡織、木工、皮革製作の筋肉労働の神聖が教えられている。11時半、午前の課業終了。午後2時まで昼休み。図書館へ行くもの、修養堂でくつろぐもの、“美の郷”への往復をする乗合自動車も走っている。午後2時から4時まで課業、その後お茶の時間となる。そして日暮れ路を校歌《吾等の平和郷》を歌いながら修養堂へ帰ってゆく。午後8時の夕食後“太陽殿”で、“獅子殿”で、あるいは野外で行なわれる夜の学芸会は深い趣きがある。水曜日はインド教徒の断食日で、日曜日に当たる。この朝、“説教所”で詩聖の新作詩が発表される。この詩は歌となり、歌は古典舞踊に振付けられて選ばれた男女生徒の演ずる新しい古典劇と音楽とともに夜の集いに、あるいは練成道場祭に発表される。また、この音楽と舞踊劇は新しい古典タゴールの歌、タゴール舞踊劇として全インドの学校や社会に流布され、この暗示によって詩聖と理を同じくする幾多の学校が出現するにいたった。そして、この運動はついに全印芸能祭となり、しかもこれは西洋の競技中心主義とは違った、民族の歴史を愛する教養の練成を主眼とする各地方独自の芸能競演が文化講演とともに展開されている。古代インドでは、青年師弟は悉く讃歌と唱歌法を教授され、すべての学問は音楽の曲節に合わせて教授されたのである。インドの社会階級の最上にある婆羅門は、音楽に含まれる幽玄微妙の法を衆人に伝え、その神秘を明らかにするのが聖務であると考え、700年に亘る婆羅門文化時代を築いた。次いで仏教文化の1700年間は、釈迦の「心の修業」は音楽の諧調に合わせてその完成を遂げるべきだという理想に生きた。しかし、その伝統的音楽精神も次の回教時代400年の宗教闘争にともなう文化の解体により、英国の悪性文化政策にインド回教モガル帝国は滅亡し、爾来300年、英国の徹底した搾取政策がもたらしたインド国民生活の恐るべき貧困は、大多数のインド人を無知と文盲に押し込め、ついにインド人に自己の音楽の何であるかを考えさせるすべを失わせ、3000年の光輝ある伝統は歪められた。インドの闇黒の中に惹起した詩聖タゴール博士の文化練成道場の古典模倣こそ、偉大な若い創造力のために音楽、舞踊、美術、文学、哲学の古典研究大家らは教育に邁進し、すでに幾百幾千の若人が全インドに放たれている。かつて米国にいた現代インド唯一の舞踊家ウダイシャンカーも、帰国後米国的手法を清算し、真のインド音楽文化の古典精神を現代に生かそうと故郷ウダイプールに隠遁し、研究に邁進していると伝え聞く。現下日本の音楽家たちに学ぶところが多いものと思う。この文化練成道場も不幸にして詩聖を失ったが、詩聖はガンジー翁に名誉総長を託して逝かれたたとのことである。
【2006年9月24日】

洋楽批評野村光一(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.47-49)
内容:●邦訳に拠る第九交響曲(ベートーヴェン作) 独唱=香山淑子、四家文子、木下保、藤井典明 合唱=国立音楽学校、玉川学園 管弦楽=東京交響楽団 指揮=橋本國彦 邦訳歌詞による第九演奏はわが国ではたびたび行なわれてきた。しかし、音盤界では一度もないばかりか、この曲自体がわが国で音盤化されたことがなかった。このたび日本音響が、ようやく合唱の部分だけを邦訳して録音する勇気を示した。とにかく、この部分だけでも「日本化」することができたのは時節柄意義あることといわなければならない。しかしさらに全曲吹き込むことが望ましい。この曲の外国盤も恐れるには足らぬのだから、なにもおっかなびっくりする必要はあるまい。さて、この音盤のできだが、録音は苦労したと見えて比較的鮮明であるし、音色も相当よい。しかし一番いけないのは音が全体として貧弱なことである。これは日本の管弦楽団そのものの音の弱さによっている。この点、東響は日響よりも弱点をもっている。音をきれいに出すことも大切だが、全体として音が豊かでなければいけないことは音色のきれいさ同様に必要なことである。橋本の指揮は明快で安定を得ている。声楽も皆うまいが、藤井は第九のソロを歌うこととなると幅と力が多少足りない。歌詞は相当明瞭に録音されているに違いないが、耳で聴いただけでは何を歌っているか全然わからない。こうなると、せっかく邦訳しておきながら意味をなさぬことになる。それと原曲とのアクセントの食い違いが、いささかの不自然さを感じさせる。この音盤を聴いて、邦訳による音楽の録音に対する種々の疑問がわいてきた。しかし、そうした難点を征服して、今後この種のことはどしどしやってもらわなければならない。 ●サン・サーンス第五ピアノ協奏曲 草間加壽子(ピアノ)尾高尚忠指揮東京交響楽団 こういう時代になったのだから、音盤界でもわれわれの乏しい材料を、なるべくわれわれのもののために生かさなければならないのは当然である。こうなると芸術的な大曲の録音はなかなか至難な事業になるのだが、今回の草間加壽子の吹き込みは、この難関を征服している。いままで日本人演奏家がレコードにして4枚にも5枚にも亘る協奏曲を録音したことがなかったのだから、それだけでもたいへんなことだ。できあがったものは音盤として完備されたとはいえないまでも、この英断と効果をあげた努力については、演奏者にも録音関係者にも企画をした会社にも感謝と称賛が呈されて良い。この曲の草間の演奏は今年のはじめ東京交響楽団の定期演奏会で実演され、おおいに称揚された。草間が帰国して以来発表した協奏曲の中では、これがもっとも彼女の真価を発揮したものだとの定評があったのである。それをサン・サーンスなど今日の時勢に適さないなどというようなことになると、問題はひじょうに難しくなる。野村は、この曲を聴いていると悦しくなって、この苦しい時代に一層音楽による尽忠報国の気構えが起こってくるのだから、こういう好きな曲を聴く機会を与えられることは、こよなき幸せと考えてよいのではないか。草間の演奏は調子がよく、ことに第1楽章と第3楽章は鮮やかなものだ。この人は本当のテクニックをもっているので、レコードに録音しても音が整然と出てくるところはさすがである。尾高の棒は管弦楽と独奏者とを合わせるべく奮闘しているが、この指揮者とフランスものとは、どこかそぐわないところが感じられる。一番上手くいっていないのは日本青年館で行なわれた録音だ。ピアノと管弦楽の、これだけの大曲を手がけたことがないだけに音が混乱しがちになる。それに音色が悪い。しかし考えようによっては、日本でよくここまでできたと思える点も多々ある。第一この曲は、これが世界最初の音盤だということでも大いに認識されて良い。 ●交声曲「英霊讃歌」(橋本國彦作) 藤井典明(独唱) 橋本國彦指揮 東京音楽学校(合唱と管弦楽団) 東京音楽学校校長乗杉嘉壽が作詞した、山本元帥に捧げる「英霊讃歌」を橋本國彦が作曲し、作曲者自身の指揮で東京音楽学校が演奏したのがこのレコードである。乗杉は作詞が専門ではないが元帥を痛む熱誠があふれ好感がもてる。橋本の作曲は上手く全体にまとまっているが、迫力が足りず、誠が乏しい。専門家が陥っている一種のマンネリズムがそこに看取できる。演奏については、指揮も合唱も藤井典明の独唱も良い。ことに録音が良いことは、この音盤の特徴だ。音色は演奏する場所も大いに関係してくる。上野の奏楽堂は元来響きの良いホールである。 ●「ターフェルムジーク」より室内楽のための組曲(テレマン作) リインズ指揮ウイスバーデン音楽院 テレマンの作品をコレギウム・ムジクム室内楽団が演奏している。バッハの先駆者として歴史的に功績があって、実際にはほとんど聴かれないテレマンの作品に接することは珍しい機会である。漫然と聴いていると、バッハの音楽よりも総体的に軽快で、小品的な味がして気安く聴ける。当時の世俗におもねっただけバッハの音楽よりも早く滅びたという気がしないでもない。バッハへのひとつの対照として歴史的にも、鑑賞的にも興味ある資料を提供している。演奏はこじんまりまとまった巧妙なものである。なお、この音盤では原盤の第7面「ミヌエット」が未到着のため省略されることになるらしい。
【2006年10月7日】

時局下の音盤と蓄音機あらえびす(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.50-51)
内容:■序言 決戦下の重大時局には音盤や蓄音機の一枚一枚をたたき割ってでも、国運の消長の前にはさしたる問題ではない。何を犠牲にしても、まずは戦いに勝たなければならない。しかし、それはギリギリ決着の話で、今すぐ音盤を割り蓄音機を踏みつぶしたところで、戦力には何ら影響はない。むしろわれわれの手にある音盤と蓄音機をもっともよく利用して、前線銃後の慰安と鼓舞とに役立て、戦力増強の一助とすべき時ではあるまいか。前線の将兵が一基の携帯用蓄音機と数枚のレコードをどれだけ愛玩しているかという話や、若い飛行機操縦者たちが、激しい空中の労苦の後に地上の人となった時、モーツァルトやシューベルトの音楽を聴いているという話を聞かされた。銃後の若い職場の戦士たちが昼休みの音盤にどれだけ慰められているかは、いまさら説くまでもない。音盤をいかにして戦力増強に役立てるか、また前線銃後の慰安と鼓舞に資すべきかについては、音楽界の一分野における緊急重大な問題の一つといって差し支えない。さいきん、ある青年がベートーヴェンの《第九》のレコードを聴いていたところ隣家から「いい加減にせぬか」と抗議を受け止めたところ、まもなくその隣家から響いてきたのは老主人のたしなみである謡曲であったという。謡曲の芸術的価値は高く認めているが、それにしてもベートーヴェンの《第九》の名演奏をやめさせ、素人の謡曲を聴かせる妥当性を認めるものではない。いまの若い人たちがベートーヴェンに傾倒する心持は老人たちには苦々しき謎であるのかもしれない。しかし、それで差し支えないのではあるまいか。1941年の12月8日、あの緊迫した瞬間に朗々とラジオを通じて響いたのは、実にベートーヴェンの交響曲第5番《運命》であった。あの時、単に日本的であるという理由だけで、徳川時代の大名の庇護の下に発達した貴族的芸術である謡曲を放送したのでは恰好がつかなかったのではないか。せめていまの青年たちに、その好むところの《第九》を存分に聴くことを許してやりたい。ベートーヴェンの巨大な魂の声に触れて、彼らは勇躍前線へ、職場へと赴くのである。存分に《第九》を聴かせるためには生の演奏にばかり頼るわけにはいかない。そこで、時局下の音盤と蓄音機について所見を述べてみたい。 ■蓄音機の保有量 いうまでもなく蓄音機はすべて製造禁止であり、電気蓄音機のごときは一度破損すると、その修理すら難しい。良い蓄音機が手に入らないではないかと言われる。しかし、代用食とスフとで一言の不平も言わない者が、蓄音機だけは昔ながらの贅沢なものでなければならないというのはばかげた話である。日本には手巻き蓄音機が少なくとも○○万台あるいはそれ以上ある筈だ。そのうち毎年10分の1ずつ破損していったとしても、蓄音機全部が廃滅するには何百何何千年の歳月を費やすと思う。贅沢さえ言わなければ音盤と蓄音機による音楽は5年や10年で滅びるものではない。近頃、1万円と評価される蓄音機もあるというが、一般音盤を楽しむ者にとっては30円とか50円の昔の手巻き蓄音機でいいのだ。あらゆる不自由を忍ぼうとしている時代に蓄音機にだけ贅沢をいうのは、まさに国賊的な趣味だといってよい。時局は1万円の蓄音機1台よりも百円の蓄音機100台を要求しているのである。若い娘たちが大切にした振袖の袖を断っている時代に、大の男が1万円の蓄音機に脂下がっているような姿は恥である。現在日本に保有する蓄音機は少なくとも10年から20年は音盤芸術を守ってくれるであろう。これを融通しあい交換しあって、緊迫する時局下に、前線と銃後の慰安と鼓舞に役立てたい心持ちでいっぱいである。
【2006年10月20日】

二つの様式美村田武雄(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.52-53)
内容:さいきん深く興味を覚えたレコードはバッハのクラヴサンとフルートのためのソナタとサンサーンスの《ピアノ協奏曲ヘ長調》(ともにビクター)である。これらをこの切迫した時期に聴いて、われわれが求めていたものを探り当てた思いがした。バッハのフルート・ソナタは彼の作品中もっとも温和で快適な性質をもったもので、流れるような歌謡性をもった曲である。もっとも、これらのソナタの大部分は難しいフルートの技巧が要求される純器楽的性格をもった作品であるが、厳格な様式の中に平明な感覚美が自然にのびのびとあふれているが故に、あたかも歌うがごとき心地よさを覚えるのである。この歌うような流暢な性質が、われわれの心に澄んだ境地を与えてくれる。それが現在のわれわれの要求にもっともよく適合するのである。一方、サン・サーンスの協奏曲は彼がエジプトを旅した折りの印象をつづったものと言われており、東洋的な異国趣味が多分に盛られて、それが明るいラテン的な感覚によって色彩的に、精緻に描かれている。この曲は、今日の絵画に対する欲求と南国の情緒への興味とを期せずして備えていたのである。/しかし、これら二つの作品が今日のわれわれに深い印象を与えるのは、ただこれだけの理由からではない。その要因は直接外部に現れない様式の美しさである。あるいは型の美といってもよかろう。バッハが実に厳格な型を確守したことはいうまでもない。一方、サン・サーンスは死ぬ少し前に「私にとつて芸術は様式である。美しい様式がゆたかな表情をともなふとき、われわれは讃美する。音楽は―芸術的気分―ではなく塑像的な芸術、即ち様式から作りだされるものである」といった。彼はけっして形式のための形式に終わった作曲家ではなかったのである。この協奏曲の明朗性は、様式の平衡と調和とからのみ得られたのである。/音楽様式の崩れていない演奏にのみ芸術としての音楽の健康性が得られる。色彩的な結合もダイナミックなニュアンスも、また深い構想も、それが様式のなかに生かされているときに力を加え、活動力を得られるのである。われわれが今日切実に求めているのは様式美の芸術であり、表現である。これら2曲におけるバッハもサン・サーンスも、形式を超えた様式美を捉えている点で、内には生々しい感覚美を蔵していながら、それが少しも卑しくならず、透明で典雅なものになっている。バッハにおけるペッスルとバレル、サン・サーンスにおける草間加壽子の演奏は、ともにこの様式美がよく守られ暗い陰が少しもない。われわれが今日求めている音楽は、このように健康的で確実なものでありたいと思う。
【2006年10月29日】

時局投影野呂信次郎(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.54)
内容:米英はケベック会談の後「会談の軍事的重要部分は対日戦争のために尽くされた」と発表。戦局の様相は日々深刻の度を高めつつある。関東大震災20周年記念日にあたる1943年9月1日の未明、敵は航空母艦をもって南鳥島に、12日には北千島に来襲。中国大陸の米空軍も武漢地区、広東地区に決戦を挑んでくる傾向があり、北部ソロモン、ニューギニア島方面の彼我の主戦場は言うに及ばず、西南太平洋のアル諸島、ケイ諸島、チモール島、セレベス、ボルネオ方面に対する敵機の来襲も漸次ひんぱんになっている。さらに雨季明けとともにインドよりビルマ奪回を試みようとするものに東南アジア総司令官マウントバッテンがある。第4回航空記念日の9月20日、海軍航空本部大西中将は「大局的には押され気味であり、これは航空兵力が量的に劣勢であるためである」と率直に警告している。/ヨーロッパ戦局は英加軍のイタリア本土上陸(3日)、バドリオ政府の裏切り的無条件降伏(8日)、ドイツ軍のローマ、ゼノア、ナポリ諸都市占領(10日)、ムッソリーニ統帥の奇跡的救出(12日)、ムッソリーニ統帥を首班とする共和ファシスト新内閣の樹立とにわかな動きである。東部戦線では、ソ連軍が撤収を続けるドイツ軍を急追しドナウ川の線に到達したが、ドイツ軍は撤収作戦を停止してソ連軍の冬季攻勢を阻止するものとみられ、この渡河戦が軍事的にも政治的にも東部戦局の帰趨を決するであろう。/5日ジャワ軍政監部は現地住民の政治参与令を公布した。領地割譲に関する条約が日緬[日本=ビルマ(緬甸)]両国間に成立、同日フィリピン島は初の国民大会がありラウレル博士が大統領候補として選出され独立の寸前にある。27日にはイタリアのファシスト政府の正式承認、汪国民政府主席に続くラウレル博士の来訪等新事態に処す帝国外交は活発である。/政府は22日、国内態勢強化の新方策を発表して国民の協力を求めた。その課題は広範にして、たとえば官吏の大幅縮減、特定職業への男子の就業禁止、男子に代わる女子動員の強化、一般徴収猶予の停止、法文系統大学専門学校の整理、都市施設の地方移転と人口疎散による都市防衛、重要生産の発注、運輸の一元化等軍需生産の急速増強、特に航空戦力の拡充と国内防衛態勢の強化を端的に目指すもののみである。そして政府は軍需省、農商省、運輸通信省の設置(いずれも1943年11月1日開庁)と臨時議会の召集(10月25日開会)を決定。画期的決戦態勢への切換えを断行することになった。
【2006年11月3日】

新刊短評堀内敬三(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.55)
内容:■音と音楽 田口●三郎著(人文書院) 田口の随想集。音楽と音響学に関する共用書として最適。著者の名:●は「サンズイ」に「卯」。
■勤労音楽の手引き 清水脩著(酒井書店) 音楽指導者必携の書。
■音楽と能率 戸川行男著(厚生音楽体育協会) 早稲田大学教授の著者が工場や学校で行なった実験の学術的報告。
■音楽の世界 故 鹽入亀輔著(日下部書店) 1938年に他界した鹽入の遺稿集。教養人向け。
■音楽とことば 關清武著(管楽研究会) 
■トビユツシーに就いて シュレアス著 清水脩訳(地平社) ドビュッシーの音楽がわかる人の必読書。
■シユウベルト傳 フラワア著 大田黒元雄訳(第一書房) 
■グノー 小松耕輔著(共益商社書店)
■バッハの藝術 シュヴアイツアー著 津川主一訳(新興音楽出版社) バッハの音楽を研究する人の必読書。
■作曲法講義 第二上巻 ダンデイー著 池内友次郎訳(古賀書店) 
■ピアノのための詩曲 市川都市春作曲(楽譜 東京音楽書院) 高級な独奏曲。
■インヴエンシヨン バッハ作曲(楽譜 春秋社) 2声より15曲、3声より15曲。校訂は井口基成、土川正浩、福井直俊。
■チエロ小品集(楽譜 春秋社) 一柳信二、中島方共編。バッハからチャイコフスキーまで7曲を採録。
■國民学校器楽指導の研究 上田友亀(共益商社書店) 著者多年にわたる実際的研究と経験の成果。
【2006年11月13日】

音盤彙報(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.56)
内容:■12月の洋楽音盤■ ●ビクター チャイコフスキー作「提琴協奏曲ニ長調」ハイフェッツ(提琴)および管絃楽団(12インチ4枚)/ロッシーニ作「ウイリアム・テル序曲」トスカニーニ指揮管絃楽団(12インチ2枚)/モーツアルト作「奏鳴曲ハ長調」K.330「ロマンス」K.205 フィッシャー洋琴(12インチ2枚)/「シューベルト歌曲集」菩提樹、お休み、糸を紡ぐグレツチエン、水の上にて歌へる、辻音楽師、道標(10インチ、12インチ、3枚)/伊福部昭作「交響譚詩」山田和男指揮東京交響楽団(12インチ2枚)/泰国愛唱歌集‐海軍の歌、輝く海兵、兵士は国の護り、泰国の血の青少年団の歌、立てよ泰 ●ニツチク モーツアルト作「交響曲39番変ホ長調」ワルター指揮交響楽団(12インチ3枚)/リスト作 交響詩曲「前奏曲」メンベルベルグ指揮コンツエルトゲバウ管絃団(12インチ2枚)/ドビユツシイ作「ベルガモ組曲」ギーゼキング洋琴(12インチ2枚)/大木正夫作「國民総進軍」坂西輝信指揮東京交響楽団(12インチ1枚)/軽音楽選「セレナード集」(10インチ3枚) ●テレフンケン 吹奏楽傑作集(10インチ3枚) ■音盤界便り■ ●音盤企画委員会 日本音盤協会では今回官民40余名による「音盤企画委員会」を音盤各社の最高諮問機関として設置することとなった。目的は1.音盤による国民精神の作興ならびに情操涵養 2.製作会社に対する政府指示 3.企画審査ならびに指導 4.優秀健全な音盤普及 5.優秀盤企画選奨 6.音盤製作従事者(企画担当者ならびに芸能人)の表彰 7.大東亜共栄圏における音盤文化発達に適切な調査ならびに事業の具体方策に関する事項。なお従来の協会各委員会はこれを機会に廃止することとなった。/●日本音盤協会新参与 八並翼賛会宣伝部長ならびに吉田東京中央放送局音楽部長が新たに参与に任ぜられた。/●日本音盤協会 日本蓄音機レコード文化協会では1943年9月29日、宮澤情報官等関係当局出席のもとに総会を開き、名称を「日本音盤協会」と改称することになった。また機構の簡素化を行い、会長の下に理事長をおき、文化部、業務部、庶務課の二部一課に改め、新たに音盤配給会社を新会員として発足することになった。/●音盤舊友會相談部 レコード専門誌の廃刊に伴い音盤愛好家の相談機関として、音盤評論家あらえびす氏ほか十数氏による音盤舊友會相談部が京橋区銀座3−3、京三ビル内にできた。質問は蓄音機、音盤に限る。無料。ただし葉書同封のこと。// ■推薦音盤■ ●第12回文部省推薦音盤 第31号 童謡「カチイクサ」(小田俊興詞=山田芳樹曲) 望月節子 ニッチク 100766/第32号 「セカイノヨアケ」(小田俊興詞=長谷基孝曲) 望月節子 ニッチク 100770
【2006年11月20日】

音楽記録(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.57)
内容:●軍人援護献納作曲演奏会は日本音楽文化協会主催、軍事保護院、情報局後援、日本放送協会協賛のもとに1943年10月3日より12日まで全国50箇所で開催。また各療養所ならびに陸海軍病院28箇所で慰問演奏会をした。献納作品は《大アジヤ獅子哮の歌》ほか55曲であった。●大政翼賛会の優秀音楽推薦委員会 大政翼賛会では音楽、映画、図書が国民に与える感化力の重大性にかんがみ、近く委員会を設けて優秀なものを推薦し、隣組や各団体を通して推奨させることとなった。●情報局芸能課では従来外国音楽中心に曲目編成がされていた[演奏会の]方針を是正し、毎回新鮮味にとんだ日本人作曲を加えるよう要請した。これを反映して今秋の音楽会は日本人の作品で賑わい活況を呈した。とりわけ木下保の信時潔歌曲の夕は、意義ある企画といわなければならない。●日本音響第3回管絃楽曲懸賞募集応募規定 1.未発表作品であること 2.演奏時間16分 3.総譜ならびにピアノ用スケッチを提出すること、ただしピアノ用スケッチは総譜の下に書き込むこと 4.楽譜には応募者氏名を記載せず、別紙に応募者の住所氏名(筆名可)を記し楽譜と同封する、締切日は1944年4月末日、賞金は入選一篇に金1,000円(半額は公債)、佳作一篇に金300円(同)、当選作品は発表演奏会を催して紹介するとともに音盤に吹込む。●日本音響軽音楽作曲懸賞募集規定 1.健全明朗にして叙情風な軽音楽曲 2.楽器編成は自由だが演奏者は15名程度 3.演奏時間3分 4.未発表作品であること、賞金1等300円、2等100円、応募締切1943年12月末日、総譜先は東京都京橋区築地2丁目13番地日本音響株式会社文芸部宛。
●[1943年10月2日から10月31日分の音楽会一覧] → こちら へどうぞ   (つづく)
●楽壇消息
国際音楽専門委員会 事務所を芝区田村町昭栄ビルへ移転。
井上頼豊 応召。
森本覚丹 世田ヶ谷北澤3ノ974へ移転。
押田良久 大東亜音盤会社を退社。
清水實 大東亜音盤会社文芸部に入り邦楽担当。
大東亜音盤文芸部 大森の本社に会った文芸部を赤坂区青山北町6ノ34、青山吹込所内に移転(電話 青山3832番)。
湯原響 渋谷区幡ヶ谷原町772幡ヶ谷荘へ転居。
佐野欣也 世田谷区北澤4ノ295へ転居。
宮城よし子(宮城道雄長女、東京音楽学校講師) 1943年9月29日、東京聖路加病院で死去。
高澤元夫 品川区五反田6ノ191へ転居。
国民歌劇研究所設立準備会 山本春雄、桑原ウメカ、松原正修(愼幕)、新井生馬らによって発起され、準備事務所を神田区小川町3ノ10、東京レコード吹込所内に置く。
(完)
【2006年11月26日+11月30日】

戦時音楽問答(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.58)
内容:【問】東京都内で独奏会を開きたい。企画届を出す手続きを教えてほしい。【答】企画届は演奏家協会に提出し、協会がこれを開催予定日の1ヵ月前までに警視庁へ届け出なくてはならない。企画届には曲目、出演者全部の住所氏名および技芸者之証の番号、収支予算書などが要る。詳細は演奏家協会へ尋ねること。ただし長唄の会ならば長唄聯盟、三曲ならば三曲協会、そのほかの邦楽は邦楽協会、舞踊ならば舞踊聯盟が扱う。/【問】演奏会出演者は必ず技芸者之証が必要か。【答】必要だ。しかし音楽を職業としない合唱団員が交響楽演奏会に出たり、官立音楽学校の教授・助教授や中等学校の教諭等が演奏会に出るときは技芸者之証は必要ない。さいきん芸能関係の温習会のような催しは許可しない方針になったので、素人が演奏会に出演することは特別な場合を除き許されない。特別な場合とは慰問または厚生慰安のために無料で一定範囲の人々に聴かせる演奏会や、合唱団員として演奏会の一部に出演する場合。/【問】技芸者之証はすぐもらえるか。【答】技術試験があり、藝能文化聯盟所定の練成を終了していなければならない。経歴によっては試験不要の場合もあるので演奏家協会に尋ねること。/【問】大阪府下付の技芸者之証をもっているが、東京で出演するには東京の技芸者之証が必要か。【答】大阪府のがあれば東京で出演できる。また警視庁が下付したものがあれば大阪でも出演できる。/【問】さいきん集会や行事の開催が難しくなったが、どういう集会なら良いのか。【答】1943年6月1日閣議申合わせならびに7月5日次官会議申合わせに基づき、各省およびその外郭団体が行なう行事は、直接戦力の増強、需要軍需物資の増強、食糧自給力の緊急強化、輸送力の集中強化、勤労動員の強化などに直接関係ないものは停廃止または調整し、以上に該当するものといえども多人数が集まることによる延能率の低下の国家的損失、事務の停止、資材の浪費を避けなくてはならない。したがって爾後各種の行事や集会には、事前に情報局の意向をきくこと。問題になるのは各種の音楽大会、競演会、音楽行進、温習会、長期にわたる集会、慣習的または形式的な集会や行事である。これらは行事決戦態勢化[ママ]実施要綱により正式決定をみたものであるから、知らず知らずのうちに戦力の阻害をきたさないように注意してほしい。/【問】楽器はどんな方法で買えるか。【答】楽器の種類を大別して2つの種類に分ける。すなわち、
第1類 註文書審査許可楽器(発注生産楽器)
  ピアノ、オルガン、喇叭(木管、金管を含む)、太鼓
第2類 見込生産許可楽器(
  ハーモニカ、アコーディオン、絃楽器および雑品
である。どちらも文部省(学校および教化施設用)、厚生省(産報および厚生施設用)、陸海軍省ほか各官庁(軍官用)および日本音楽文化協会(音楽専門用)の資格證明書を添えて註文申込みをする。第1類の楽器は資材の関係で生産量が少なく、需要を満たせぬ見込みにつき、査定のうえ重点配給を行なう予定。1943年度分配給は10月下旬より開始される見込み。
★以上の各回答は本社編集部より情報局、日本音楽文化協会、藝能文化聯盟に尋ねて記した。本欄は読者諸氏の質問に応じ、関係官庁、日本音楽文化協会、その他公共団体等に照会し、責任ある回答を得ることとなっている。
【2006年12月14日】

吹奏楽法 (1) 旋律論深海善次(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.63-59)
内容:序言 この旋律論で研究するところは、同種の楽器または異なる2個以上の楽器による旋律的組合せによる音の強さおよびその綜合音色である。これによって吹奏楽における各種の楽器がどのように按分配合され、あらゆる性格と表情をもつ旋律がどのように効果的に表現されるかについて詳細に研究し、作者自身の最良と考えられる方法を発見してもらおうというのである。はじめにユニゾンの組合せ、次にオクターヴ、さらに3度、6度と続き、さいごに綜合されたものが述べられる。使用する用語を簡便にするために楽器名とその略号が示されている(略)。なおこの吹奏楽法では、すでに滅びた楽器や試作的に作られたもの、または特殊な目的のものや類型のものも除外した。なぜなら、小型クラリネットは数種あるが代表的なエス・クラリネットを知ればその他を用意に推理し得るからである。サクソフォーンの場合も同様である。困ったことは金管楽器の低音部である。わが国軍楽隊には2つの流れがあり、海軍軍楽隊はドイツ式の実音式を用い、陸軍軍楽隊はフランス式の移調式を採用している。同じ楽器を異なった方法で使用しているところに混乱の原因がある。アメリカにおいても同様に紛糾したため、政府の音楽委員によって実音式を用いるべしと決定され、混乱に幕を下ろした経緯がある。わが国においても無用の混乱を避けるため、一日も早く統一する必要がある。両者の長短論は別の機会に譲り、この吹奏楽法では原則として実音式を用いることとする。(つづく) 第1章 2個の楽器の同音(ユニゾン) 本章は2個の異なる楽器の同音(オクターヴを含まず)における両者の音強、透徹力、迫力、隋勢、音色等の相互比較の研究を個々の音より始め、多くの実例によってこれを実証しようとするものである。 第1節 ピッコロ Cピッコロによってのみ話をすすめる。音階の[実音の]2点ニから2点ロくらいまでは使用に耐えない。この事実を頭において次の混合音を調べてみよう。フルートとのユニゾンでは3点ハあたりから漸次ピッコロの存在を認め得るようになり、3点ト以上はほぼ互角となり、4点ニ以上はフルートの音域外となる。混合音としてはフルートの優雅、華麗さに輝きと明るさを加え、軽快さを増し、時には滑稽味を添える。全体に音強を増大し透徹力は深まるが、各楽器の個性がいくぶんかずつ減殺されることはしかたない。ピッコロとフルートの場合は同属楽器中でも親子関係なので、個性の減殺度はもっとも少ない。ピッコロは歌うことができない楽器とされているため、音強がフルートに勝る場合でも、フルートの支配下に入ろうとすることは首肯し得るところである。(完)
【2006年12月21日+12月26日】

出版部便り出版部(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.64)
内容:本社7-9月企画のうち、国民音楽協会が編纂した『國民女声合唱曲集』『國民男声合唱曲集』『國民混声合唱曲集』の3点は11月下旬発売予定。価60銭。/藤井清水採譜による『日本民謡曲撰・巻1』は目下版下を作成中で11月末には発売される。/本社社長の堀内敬三による『日本の軍歌』も版下作成中で12月上旬にはできる見込みである。/本社出版部は今日の日本音楽出版界に営利を度外視した企画を送るはずである。
【2007年1月11日】

編輯室編輯室(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月 p.64)
内容:
音楽雑誌の使命はひじょうに重くなり、日本音楽文化建設の一翼を本誌が担っている。苛烈凄壮な戦争の現段階に即応して、音楽がいかなる役割を果たすべきか、音楽雑誌はその指針を与える使命を担っている。本誌は創刊号である。この第一歩を踏み誤らぬことが今後の本誌の運命を決するという、いわば背水の陣を布く覚悟でことにあたった。読者諸氏をはじめ、関係官庁あるいは音文の指導のもと、真に今日の日本に必要な雑誌たらしめずにはおかないつもりである。創刊号を飾っていただいたのは、巻頭言の山田先生、指揮者の山田和男氏の久しぶりの長文の論考、邦人歌曲作品の本邦随一と折り紙をつけられた木下保教授の論文。そのほか町田、藤井、田中氏らの玉稿は「音楽文化」の名にふさわしいと自負している。また「米英撃滅」について六氏に意見をうかがった。なお深海善次氏の吹奏楽法は本邦における斯界最高の吹奏楽理論として連載することにした(清)。/雑誌は言論報道機関のひとつではあるが、実践をともなった言論、すなわちただちに正しく反映され、速やかに実行に移される言論が望ましい。そして迅速で的確な報道があって雑誌の使命は生き、言論報国が果たされる。本誌はその使命を歩んでいかなくてはならない。(青木栄)
【2007年1月11日】




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