自 閉 症 裁 判

―レッサーパンダ帽男の「罪と罰」―

佐藤幹夫 (洋泉社、2005)

 

2001年4月30日の朝、東京・浅草の路上で起きた女性殺害事件とその裁判を追ったドキュメンタリーです。容疑者がレッサーパンダの帽子をかぶっていた若者だったことから、容疑者逮捕まではセンセーショナルに報じられたこの事件ですが、しかし奇妙なことにその後、マスメディアはいっせいに手を引いたかのように沈黙します。その理由は、容疑者が高等養護学校卒の「障害者」だったから。いや、正確に言うと、容疑者に障害があることについては、事件報道の最初の段階から沈黙を守りとおしました。

著者は長年、養護学校教員を務め、福祉の現場で働いてきた人です。福祉サイドに立つ人間として、被害者の遺族などの関係者に取材することには大きな困難があった。どちらの側からも厳しく批判・追求される可能性があるからです。しかし、このような事件は二度と起こって欲しくないという、強い願いが著者を突き動かしたのでしょう。

裁判の経過を追って明らかになったのは、警察と検察が協力して、容疑者を凶悪な殺人者に仕立て上げるために、あらかじめストーリーが作られ、それに合致する「事実」が作られ、合致しない「証言」はすべて無視される。そのような方針に沿った、結論先にありき、の裁判でした。弁護側は容疑者(被告人)にどのような障害があるかを明らかにし、したがって警察の調書は全くの創作である可能性を訴えますが、それも結局は無視される。3年かかった裁判は、弁護団に徒労感のみを残して、無期懲役の判決で幕を閉じます。

これは冤罪事件ではありません。しかし、一人の殺人犯を、知的障害という彼の置かれた状況を無視して、単に残忍で凶悪な殺人鬼として社会から葬り去ってしまったのでは、同種の事件を再び起こさないようにするにはどうすればよいのかという、切実な問題の扱いを誤ることになります。そしてまた、それは彼自身に主体的に罪の償いをさせることにもならないし、したがって被害者の遺族の心も決して癒されることがないでしょう(「癒し」という言葉を安易に使いたくはないのですが)。

自閉症者の多くは(比較的軽症の場合は特に)社会的に孤立し、本来受けられるはずの福祉の支援も受けずに、いわば「放置」されています。そして、この国の政治は、福祉のコストをさらに削り、かれらを体良く「野放し」にしておいて、事件を起こしたら、いや、重大事件を起こす前に些細なことで「取り締まる」ことしか考えていない(医療観察法)。そして、いったん「触法障害者」になると、公的な福祉の支援は完全に断たれてしまう。本書に登場する福祉関係者の多くが口にしています。「いったい何のための福祉なのか」と。

167〜170ページで紹介されている民間福祉団体「共生舎」の岩淵進氏を初め、福祉の現場で働いている人達の真摯な姿と言葉が救いです。

 

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