なぜ人を殺してはいけないのか

―新しい倫理学のために―

小浜逸郎 (洋泉社新書、2000)

 

「なぜ人を殺してはいけないのか」。これは、14歳の少年が小学生を殺害した「酒鬼薔薇事件」からしばらくして、あるテレビ討論番組で一人の若者(高校生?)が発した問いで、出席していた大人の「識者」達が誰も答えられなかった、ということで有名になりました。その後、この問いをテーマにした雑誌の特集が相次ぎ、同じタイトルの書籍も他にあります。

本書ではこの問いを含む、倫理にかかわる以下の十個の「難問」を設定しています。

  • 人は何のために生きるのか
  • 自殺は許されない行為か
  • 「私」とは何か、「自分」とは何か
  • 人を愛するとはどういうことか
  • 不倫は許されない行為か
  • 売春(買春)は悪か
  • 他人に迷惑をかけなければ何をやってもよいのか
  • なぜ人を殺してはいけないのか
  • 死刑は廃止すべきか
  • 戦争責任をどう負うべきか

これらの問いが選ばれた理由は、「はじめに」に書かれています。これらの問いがすべての人間の生き方の根幹に触れるにもかかわらず、何かの事件や社会現象とともに時たま話題にはなるものの、徹底的に突き詰められたためしがない。しかし、いつまでも棚上げにしておくわけにはいかないので、現在の具体的状況との接点において引き受け考え抜くことを、著者は自らに課したのです。

しかし、著者はこれらの問いにすべて、正面から正攻法で答えようとはしていません。むしろ、ある場合には「発問者がなぜそんな問いにつかまってしまったのかをよく想像」し、その動機や発問者が置かれた状況の構造を明らかにします。またある場合には「問いの立て方にまずいところはないかどうか反省」し、より適切な問いに置き換えて考えています。このような方法は、この種の倫理的問題への優れたアプローチだと思いますが、その点を理解できないと、読者にはおそらく大きな不満が残るでしょう。実際に私が目にした批評の中にも、「著者はまじめに答えていない」とか、「こんな答えではこのような問いを発する者の切実な思いに届かない」といったものがありました。たしかに「人は〜のために生きるのだ」ときっぱり言われれば、言われた人はそれでもう思い悩むことがなくなる、ということもあるかもしれません。しかし、それは倫理ではなく、宗教です。

私が耳にした、本書に対するもう一つの批判は、「結論がどれも平凡で、面白味がない」「理屈っぽいだけで、結局、当たり前のことしか言っていない」というものです。この感想は確かに、一面では当たっているかもしれません(私は著者の答えのすべてが、現代日本人の大部分に共有されているという意味で「平凡」だとは、必ずしも思いませんが)。しかし、結論が平凡であることは、その思考過程の価値を貶めるものではありません。あらゆる背景・条件を考慮し、あらゆる可能性を検討して、予想される批判もすべて吟味し、かつ周到に論理を組み立てて考えることが重要なのです。そして、その考え方の筋道が多くの人を納得させられるかどうかが、議論の価値を左右するのです。その結論がどんなに平凡で当たり前であっても、この思考過程をすべてとばしていきなり平凡で当たり前のことを主張するのとは、天と地ほどの差があるのです。

いや、この種の倫理問題の場合、むしろ突飛で鬼面人を驚かすような主張こそ、用心して疑ってかかるべきです。常識の盲点を突くような際どい主張は、たとえその中にいかほどの真理が含まれていようと、それだけで終わり(論理的裏付けがない)ならば、やはり宗教に近いというべきでしょう。論理よりも宗教を信じるというのなら、話は別ですが。

たとえば、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して、大江健三郎氏は次のように答えています。「私はむしろ、この質問に問題があると思う。まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。(中略)人を殺さないということ自体に意味がある。どうしてと問うのは、その直観に逆らう無意味な行為で、誇りのある人間のすることじゃないと子供は思っているだろう」(朝日新聞1997年11月30日)。この答えは「直観」には訴えるものがあるかもしれませんが、あの問いを発した若者に対しては単なる「口封じ」でしかありません。

そういう意味で、これらの問いに対する著者のアプローチは優れたものです。とくに「売春(買春)は悪か」「他人に迷惑をかけなければ何をやってもよいのか」「なぜ人を殺してはいけないのか」の3つの章は、若い人たちにぜひ読んでほしいと思います。

ただし、「死刑は廃止すべきか」の、とくに結論については、私は賛成できません。著者の考えは、刑罰の究極の目的が国家による「正義の執行」であるとすれば、社会的な公正の感覚を維持するためには、「極刑」の概念を保持していることが必要であり、そのためには法体系の中に「死刑」を存置しておくべきである、というものです。「人間社会全体から究極責任の考えを抜きさる」ことに反対だというのです。これはなかなか強力な論理です。しかし、死刑は「極刑」であるとはいえても、「極刑すなわち死刑」といえるかどうかはわかりません。実際、仮釈放のない終身刑の方が残酷だという人もいます。また、自ら死刑になることを望んで凶悪犯罪を犯す者に対しては、死刑が極刑であるかどうかとは無関係に、死刑宣告の意味が問われなければなりません。

冤罪の可能性は死刑廃止の根拠とはなり得ず、冤罪問題は「いかにしてミスを防ぐかということ(法的な手続きの厳正さの問題)」であるというのも、実際の冤罪がいかにして起こるのかを無視した議論です。多くの冤罪事件の経緯からわかるように、冤罪は捜査当局の組織防衛(自己正当化、体面維持)本能が招くのであり、決して単なる「ミス」の結果ではありません。司法の公開性を高めることや自白偏重を改めることによってどこまで防げるかは、疑問です。さらに根本的には、死刑はやはり典型的な「応報刑」であり、たとえそれが「正義の実現」だとしても、死刑以外の様々な刑罰との性格的な違いを無視することはできません。

もっとも著者は、実際に死刑が適用される範囲をきわめて小さく限定して考えているようですが。(「現代思想」第32巻第3号「特集:死刑制度を考える」(2004年3月、青土社)には、政治哲学者・萱野三平氏による本書への詳細な批判、「暴力の合法性と非対称性」が収録されています。)

 

厳選読書館・関連テーマの本
死刑の大国アメリカ
安全神話崩壊のパラドックス
男はなぜ暴力をふるうのか