安全神話崩壊のパラドックス

―治安の法社会学―

河合幹雄 (岩波書店、2004)

 

朝日新聞2004年9月19日(日)朝刊の第1面トップ記事は、「『治安悪くなった』9割」の見出しで、「ここ10年で日本の治安が悪くなったと思う人が9割近くに達し、8割以上の人が自分や身近な人が犯罪に遭うかもしれない不安が増していることが、内閣府の『治安に関する世論調査』で分かった」(リード)と伝えています。そして本文の書き出しは、「刑法犯の認知件数が戦後最多で上昇し続けた96〜02年の7年間に、「体感治安」が悪化したことが改めて浮き彫りになった。治安問題に絞って、公的機関が全国規模で世論調査を実施したのは初めて」。本文はわずか2段の短い記事ですが、わざわざ日曜日の朝刊のトップ記事にしたくらいですから、新聞社としても多くの読者に知らせたかったのでしょう。

このような世論調査を待つまでもなく、「日本は近年、治安が悪くなった」という「体感」は、マスコミを通じて、学者・文化人や一般庶民により、繰り返し繰り返し聞かされてきました。そして、その「体感」の根拠として、各種の犯罪統計がこれまた繰り返し報道され、犯罪の増加、凶悪化、低年齢化に警鐘が鳴らされています。

ところが、意外なことに専門の犯罪学者の中には、そのような主張をする人はほとんどいないそうです。なぜなのか。単純に、事実がそうではないからです。近年の犯罪の増加、凶悪化、低年齢化、そして警察の捜査能力低下などは、統計資料を詳細に分析し、この間の社会と刑事司法制度・体制・方針の変化などを考慮すれば、真実であるとはいえないことが明らかになります。それどころか、終戦直後から高度成長期までの方が、ある意味ではよほど危険な社会だったのです。この証明はかなりたいへんな作業ですが、本書に要領よくまとめられています(ちなみに、ヨーロッパ先進国と比較しても、いまだに日本は驚異的に「安全」な社会です)。

それでは、「安全ではなくなった」という「体感」、すなわち「犯罪不安の増大」には、全く根拠がないのかというと、そうではないところが複雑なのです。本書の価値は、この安全神話の崩壊の原因を分析し、欧米社会と比較しつつ、戦後日本の社会の変化を跡付けて、将来像と処方箋まで提示しているところにあります。しかも社会や人間関係の変化を、犯罪に直接関わる者(犯罪者、被害者、警察・検察)、間接的に関わる者(司法・更正関係者)、潜在的に関わる者(犯罪予備軍、軽犯罪者)、被害に遭わない限り関係のない者などに分けて、さまざまな角度から分析しています。

著者によると、日本における安全神話は、犯罪を非日常世界に閉じ込めることを基本構造としてきた。「犯罪に無縁の一般住民」が日常生活において犯罪に関わることに出会わないように、「犯罪に係わる人々」が尽くす仕組みである(この仕組みについても、かなり詳しく説明されています)。安全神話の崩壊とは、伝統的共同体の衰退に伴ってこの仕組みとそれによって守られていた境界が弱まり、一方で共同体から「自由」になった人々がマスコミに犯罪情報の公開を要求した結果である。簡単な例を一つ挙げれば、かつては夜の渋谷を女子高生のグループが闊歩するなど考えられなかったのに、今ではそんなことをしても滅多に犯罪に遭わない。そのかわり、郊外の住宅地で昼下がりに買い物帰りの主婦が自転車に乗った少年にバッグをひったくられるといった事件が増え、それがマスメディアにより報道される(このような犯罪の数が本当のところどれくらい増えたのか、結局は分かりません。なぜなら、被害者がどれくらい警察に届けるか、届けられた事件を警察がどう処理するかは、一定していないからです)。

著者は、「治安維持の伝統的仕組みが揺らいでいる」といいます。伝統的共同体を復活させることは不可能である以上、それに代わる仕組み、それと同じ機能を果たす別の仕組みを作っていかなければなりません。しかし、西洋流の個人主義の徹底、個の確立という方向は、現実の西洋社会のあり方と犯罪の実態を見れば、理想のモデルとは到底いえないというのが、著者の見解。本書の最後の方にあるいくつかの提言は、体系的なものとはいえませんが、多くの重要な示唆を含んでいるようです。

 

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