「はじめに」で、「(従来のさまざまな)日本文化論に終止符を打つ」と大胆に宣言されている本書は、きわめてユニークな日本語論・日本文化論で、本論の冒頭からソシュール言語学に対する激しい非難の言葉に満ちています。日本語は中国を中心とする漢字文化圏に属しますが、著者の立場によると、中国で誕生した「漢字」は、現在世界で用いられている唯一の「文字」であり、これに比べると西洋のアルファベットなどは「発音記号」にすぎません。このことを理解しなかったソシュールは、言語にとって「文字」(もちろんソシュールが考えていたのはアルファベットのこと)は二義的であり、言語を表記するための手段にすぎないと誤解した、というのです。 ユーラシア大陸の西方でも、かつて「文字」が誕生したことがありますが(エジプト象形文字など)、それらはすべて、最終的にアルファベット(ギリシャ語)という「表音文字」(=発音記号)に収束しました。ところが、中国で誕生した文字(甲骨文・金文)だけは、奇跡的に表音文字化せず、真の文字である「漢字」となったのです。この漢字だけから成る中国語と、漢字を取り入れた日本語、朝鮮語などを、著者は「文字(書字)中心言語」と呼び、これに対してヨーロッパの言語を含む他のすべての言語を「音声中心言語」と呼んでいます。 中国では一切の表音文字が排除され(生まれず)、中国語は漢字のみを用いることになりましたが、漢字を自らの文字として採用した日本語は、すぐに仮名(平仮名)という「表音文字」を生み出し、ここに「二重言語」としての日本語が誕生しました。朝鮮でもハングルが考案されましたが、それは15世紀のことであり、しかも19世紀に至るまでほとんど使われることがありませんでした。しかも最近では逆に漢字が使われなくなっています。したがって、日本は世界でほとんど唯一の二重言語国家なのです。しかも、仮名に2種類あり、西洋語などの外国語をカタカナで書くことにより、カタカナは漢字と平仮名の中間的性格を持ちながら、そのどちらとも明確に異なる役割を与えられています。これら3種類の文字を「同時に」用いる日本語は、「二重複線言語」なのです。 本書では、日本文化の特徴のほとんどすべてが、日本語の「文字(書字)中心言語」であり、しかも「二重複線言語」であるという特徴に由来するものとして説明されています。言語が文化の相当な部分を規定するものである限り、これは強力な主張だといえるでしょう。牽強付会と思える議論も散見されますが、なるほどと思わせるところも少なくありません。 ただ、著者は、二重複線言語である日本語には長所もあるとはいっていますが、どちらかというと欠点をあげつらうことの方が多く、それと平行して、日本文化のさまざまな特徴についても、否定的評価の方が圧倒的に多いようです。とくに、高度経済成長以後の社会・文化状況はよほど腹に据えかねるようで、目に付くものはすべて批判し、否定し、糾弾するといった感じで、あまり感心しません。一部の人々にとっては聞き捨て成らないせりふもいくつかあります。それに、著者が言及しているような現代日本の社会・文化状況はだいたいにおいて、高度経済成長の結果ではあっても、日本語が二重言語であることの必然的結果といえるかどうか、はなはだ疑問です。なぜなら、同様の現象の多くは欧米先進国にも共通してみられるからです。 まあ、しかし、第2章「日本語は書字中心言語である」と、第3章「日本語は二重言語である」には、独創的で的を射た主張が多く、刺激に満ちています。
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