日本語はなぜ変化するか

―母語としての日本語の歴史―

小松英雄 (笠間書院、1998)

 

著者については私はよく知りませんが、本書に賭ける情熱と意気込みがただならぬものであることは、扉裏のメッセージや本文中の多数のアンダーライン、「第1章は序論だ」と言いながら、その序論が数十ページに及んでいることなどからわかります。

1998年度の国語審議会答申で、「見れる」「来れる」「食べれる」などの「ら抜き言葉は認められない」とされたことは、マスコミでも大きく取り上げられました。私自身も小学校で、「見れる」「食べれる」は間違いだ、と教わりました(30年以上昔)。今でも自分では決して「見れる」「食べれる」とは言わないし、他人がそう言うのを聞くと頭の中でいちいち言い直してしまいます。これは教育の成果(?)でしょう。ただ、歴史的に五段活用動詞+助動詞「れる」による可能表現から可能動詞が生じた(たとえば「書く」+「れる」=「書かれる」が「書ける」になった。こういう説明は当時も行われていました)のなら、「見られる」が「見れる」になってもいいのではないか、とは思っていましたが、文部省の見解が変わらないので、わが子にも「見られる」が正しいと教えてきました。

腰帯に「ら抜き言葉はお好き?」と書かれた本書で、著者はこの「ら抜き言葉」を例として取り上げて、助動詞「れる/られる」の歴史を文献時代以前にまでさかのぼって考察し、言葉の変化には多くの場合、歴史的必然性があること、変化の原因や筋道には個々の現象に共通の普遍的な原理があることを、言葉を尽くして論証しています。その過程で、古典(文語)文法と現代(口語)文法の常識・定説をことごとく否定し、独自の文法理論、言語研究の方法論を展開しています。個々の議論には若干抵抗を感じる部分もあるものの、全体としては論証の鮮やかさと説得力の強さに、読後しばし呆然といった感じです。学校の教室でこんな面白い文法を教える人がいたら、多くの生徒が文法を好きになるかもしれません(ただ、ら抜き言葉が普及した理由そのものについては、私個人の言語習慣に当てはまらないので、どうもピンと来ません)。

ただし、著者も認めているとおり、すべての五段活用動詞が可能動詞を生じたように、すべての一段活用動詞が「ら抜き」により可能動詞を生じるかというと、疑問が残ります。たとえば、「見れる」「食べれる」「出れる」「寝れる」「起きれる」と言う人でも、「始めれる」「答えれる」「任せれる」「まとめれる」「とらえれる」「確かめれる」「考えれる」などとはまず言わないでしょう(一般にら抜きをされやすいのは音節数が少ない語だといわれていますが、そうとも限らず、たとえば「得れる」「得れない」というのも聞いたことがない)。と思っていたら、知人の一人は「信じれる」「信じれない」に抵抗がないそうです。しかし、ラ行下一段活用動詞で「入れれる」「触れれる」「離れれる」「忘れれる」となると、いくら何でも言いにくい。と思っていたら、つい最近「入れれる」「入れれない」と言っているのを聞いて、思わず耳を疑ってしまいました。これが仮定形になると「入れれれば」! しかし、考えてみれば「入れられる」や「忘れられる」だって、言いにくいといえば言いにくい。「ら抜き言葉」という言葉自体が死語になる日は案外近いのかもしれません。

ところで、著者にお尋ねしたいことがあります。本書には「さまざまの」と「権威者」がいずれも複数回出てきます。私は「さまざまの」は「さまざまな」というべきで、また「権威者」は「権威」が正しいと思っていましたが、「聞き手に通じれば、どちらでもよい」のでしょうか。

 

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