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【 第2章 南の人々 】


BC10000頃
縄文黎明期。土器、佐世保で発掘、炭素14測定でBC10000頃。
鹿児島では木の実と共に土器破片発掘、桜島火山灰層によりBC10000頃。
中国江西省北部の長江南岸のポーヤン湖付近の洞窟遺跡で稲と土器発掘、炭素14測定でBC10000頃。

どちらが世界最古の土器か・・日本は小さな島、長江は広大で後に良渚文化のような高度な文化の生まれる場所です。
可能性の大きさ=面積の広さならば長江の方が圧倒的に有利なはずですが、最古の土器は互角のようです。
なぜ・・

遠くの方から客人がやってくる、めずらしい話を聞き、めずらしいものを見る。
ほほーっと思う、なにかがひらめく。
刺激があったんじゃないでしょうか。南の人と北の人が最初に遭遇したのが日本だったのではないでしょうか。

いったん昔にもどります。
北の場合は石器群などからおおよその見当がつきそうですが、南についてはいまひとつはっきりしてないようです。
しかし、日本の文化の根元につながるので、空想をたっぷり膨らませておきます。




温暖化以前の東南アジアはどういう状況だったのか・・

等深線をベースにBC1万5千年頃の状況を推定してみました。
現在より100m以上海面が下がっていたようで、薄い緑が
100〜200m、濃い緑が50mの海岸線です。
河川は現在と同じとして適宜延長してありますが、海岸線共々相当におおざっぱです。

日本やフィリピンは周囲の海が深いので陸地はさほど変化しませんが、ジャワ海は浅い海で広大な平野になっています。
これをスンダ大陸と呼ぶようです。
地図中の黄色の*印は最古の土器の発見地点、
白の*印は原人の発見地点です。

下のグラフはBC4万年から現在に至る推定気温の変化です。
(4万〜3万のギザギザは激動期のイメージです)
極寒気のスンダ大陸の気候は現在の台湾あたりの気候に類似じゃないかと思います。

折れ線グラフは日本の海面変化で、白数字はm単位です。
灰色が日本海側で変化が激しく黒が太平洋側で変化が穏やかなようです。
BC3千頃のギザギザが縄文海進や海退で全体として日本の海面変化は温暖化にほぼ一致しています。
(出典:気候と文明の盛衰/安田喜憲)




スンダ大陸一帯は氷河期には理想郷だったのではないでしょうか。
古代南シナ海は内海でヒマラヤを源流にする大河川の陸水が流れ込んでいます。
陸、海ともにこれ以上に豊かにはなりそうもないです。
どんな人々がいてどんな文化をもっていたのでしょうか。



南西諸島周辺の地形が興味深いです。
黄河と長江の陸水が黒潮と合流する海域で、入れ食いの大漁場になること確実でしょう。
舟の得意な海洋民ならその島々の先に「陸地」があることも知っていたと思います。

日本湖沿岸の北の人々も漁業をおこなっていたはずです。
現在の青森や北海道の沿岸の人々も舟を多用していたでしょう。しかし、凍てつく海と暖かい海の差は大きい。
南の漁業が太陽であるとすれば、北のそれは月のようなものであった、そんな気がします。

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・・双胴船・・

よーし、もう十分だ。これ以上積んだら「ツナギ」が折れちまう、「ゴホラ」はいくつとれた?
・・ん?
どこみてるんだ、貝はいくつとれたか聞いたんだぞ。
お、あぁ、両手と三つだ。
おまえまた北の陸地のことを考えていたな。やめろやめろ。
爺様に聞いただろう、住めないことはないがここの方がずっと暮らしやすいと。

眉唾99%用語解説
(^^;
ツナギ:
2艘の丸木船をつなぎ、帆柱を立てられるようにする横材。ツナグともいう。外洋オプション部品。
遠洋にでるときは丈夫な木を用い、近海の場合はありあわせの細木を組んで作った。
ツナギを田の字に細かく組んで、採った烏賊を干せば帰る頃には一夜干しができた。この部品を特にイカダと呼んだ。
彼らの舟は波の上に座ることを目的にしており、現代の舟のように海に家を浮かべるものとは考え方を異にしている。
ゴホラ:
腕輪など宝飾品に使われたゴホウラ貝。二百倍の重さの芋か百倍の重さの穀物と交換できた。
食品以外で最初にできた専門業種が宝飾加工である。
(^^;



人種の大別はコーカソイド、モンゴロイド、ネグロイドに加えて出自不明のオーストラロイド。
BC4万〜3万の環境激動を北で生き延びた人々がコーカソイドとモンゴロイドでしょう。
南で生き延びた人々がネグロイドとオーストラロイド。
一般にモンゴロイドは身長が低く短頭、オーストラロイドは身長が高く長頭のようです。
しかし明治時代からわずか100年で日本人の体型はずいぶん変化、環境が変わって千年たてばどうなるか・・

推定気温図でBC2万5千にも温暖化のピークがあります。このときにも超古スンダが海没します。
そこに暮らしていたオーストラロイドの人々が各地へ散って北のモンゴロイドと混じり合った。
ガンジス流域からヒマラヤ山麓へ移動する人々もいます。
フィリピンやニューギニア側に暮らしていた人々は海で隔てられて外部と接触することも少なく、オーストラロイドの原資をより濃く残すメラネシアンと呼ばれる人々になってゆきます。

そしてBC2万年頃の極寒時代にスンダ大陸が復活し、人々が各地から戻ってきた。
北の優秀な狩猟用石器をたずさえて。
この人々が現在の東南アジアの人々の直接の祖先になります。
東南アジアでは大地が砂漠化することはなく、陸と海の豊かな自然に依存する生活が継続します。
遠洋漁業など海を闊歩する時代だったのではないでしょうか。
このときすでに日本にやってきた海洋民もいたのではないかと思います、双胴船などに乗って。

しかしBC1万5千年を過ぎ再び温暖化が始まります。スンダ大陸も再び沈んでゆく。
1年に数cm程度の海面上昇ですからカタストロフィーやパニックにはならなくても、豪雨や熱帯雨林化など環境の変化が激しかったと思います。
フィリピンなど深海の中に浮かぶ島々ではスンダほど影響を受けなかったかもしれません。
赤道直下のニューギニアとオーストラリアの間のアラフラ海、ここから南へ移動した人々が現在のアボリジニーの祖先でしょう。

スンダから移動する人々は雲南の山岳を越えて長江中流域のトンティン湖やポーヤン湖の湿地帯を発見します。
(北に広い平野と湖があるという祖先の言い伝えもあったはず)
ここなら稲が増える・・まだ自然繁殖したものを採集する方法です。
トンティン湖周辺にも最古の土器と稲が埋もれているはず・・古代であそぶ大予言(^^;
(後にここからは日本の銅鐸と同じ出土状況の青銅器がでます、こちらもやはり謎とされています)
台湾近傍の大陸側は海岸近くまで山が迫って平野はないけれど、入り組んだ海岸線は海洋民の拠点にぴったりです。

このころ黄河上流では後の仰韶文化などへ発達する文化も芽生え始めています。ここでは北と西の接触です。
世界中で人々が動き接触が始まる時代。

BC1万〜7千頃に日本へやってきたのはオーストラロイドの濃い南の海洋民。
長江流域の人々にとってさらに先へゆく必要はなく、未開の地では10m先になにがあるかもわかりません。
海なら100Km先でも見える。魚と水さえ得られれば太平洋の横断は難しくないというヨットマンの話もあります。
まだ瀬戸内海が陸地だった時代に九州で北の狩猟民と南の海洋民が遭遇、黒潮沿岸域でも次々と接触してゆきます。

記紀(古事記、日本書紀)に道案内で登場する大柄で天狗のような容姿の猿田彦はオーストラロイド系を思わせるように感じますがいかがでしょう。
国東半島の周防灘付近の縄文遺跡には一般の縄文人より大柄の人々が住んでいたようです。 猿田彦の親戚かなあ?
(もっと後の話ですが、猿田彦の住所は「伊勢」にあらず、番地不明なれど九州)
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・・餅と納豆・・

おめえ、よくそんな粘っこい米が食えるなあ。
歯ごたえがあってうまいぞ、おめえこそそんなパサパサの米が好きなのか。

うえーっ、よくそんな腐った豆が食えるなあ。
ただの腐った豆とは違うんだぞ、秘伝の技で作ったこのねとねとが旨いんだ、ほれネッチョー。


餅好きロード、そんな嗜好のラインがありそうな・・おおざっぱに雲南以北が餅エリア。
麦では餅性の粘っこい品種はありませんでした。偶然できても麦の人々にはまずかったので捨てたのでしょう。
しかし、餅好きの日本が餅麦を開発しました。
その粉で作った「スイトン」は歯ごたえがあっておいしいです(^^) (市販品あり)

納豆はヒマラヤやインドネシア周辺でも食べられている食品だそうです。
日本でも食べられるようになったのも当然と思われますが、関西ではあまり食べない。
それでいて九州では好きな方もいらっしゃる。
これには深いわけがあるかもしれません、それはもっと下ってから。



だいぶ遠方の話ですが、アフリカ西側のニジェール川流域は稲作地帯です。
稲はネグロイドとオーストラロイドの共通文化で根菜文化と一心同体のように見えます。
(楽器の太鼓、これも同じ文化の所産のような気がしています)
5万年くらい昔のサハラ平野の湖沼、ここが稲の原産地(のひとつ)ではないか・・(麦もまた同じく)
人はまだそれを利用しなかったが鳥が運んだ、稲は温暖と水の地域で増えてゆきます。
土地の向き不向きや品種など広まり方、あるいは同時多発混合などいろいろ複雑そうですけれど。

アフリカではサハラ砂漠の拡大によって稲の広がるチャンスが閉ざされたが、東南アジアではスンダの海没と復活がポンプの役割をはたして人々の混合を加速させ、稲を各地へ送り込んだのではないでしょうか。
海底からの遺物発見はむずかしそうですが、「南」の調査が進めばいろいろと驚くようなことがみつかるだろうと期待しています。

対馬暖流が本格的に日本海に流入し始めるのはBC6千年くらいで、瀬戸内海ができるのも同じ時期です。
暖かくなった日本海の湿気が日本を多雪に変え、ブナやミズナラの森が広がってゆきます。
山岳の多雪は太平洋岸でも豊富な水を約束してくれたはずです。あちこちで「名水」がわきだしはじめたかも。
BC6千年くらいには東南アジア全体が現在の地形と同じになったと思われます。
スンダ海没からの脱出者はBC1万年からBC6千年の間に、雲南や長江流域に定住し独自の文化を作り始めます。
台湾周辺では海洋民とも再会?したでしょう。
現在のタイの山岳民族に舟をシンボルにする人々がいますが、はるか昔の記憶からかもしれません。

記紀にわずかにみられる洪水系のイメージ、イザナギ、イザナミの国造り。
ニュージーランドのマオリ族の神話にイザナギの黄泉の国訪問とそっくりの話があるのが興味深いです。
(ただしマオリ族がニュージーランドにやってきたのは近世とされるようです)



・・結びつき・・

どーしたどーした、なんの騒ぎだ。
北村のナギがうちの村のナミと駆け落ちしたんだ。
ナミの親父が取り戻そうてんで北村に押し掛けていったんだが、ナギの親父と喧嘩になって泥まみれでかえってきたらしい。
長老がでてきて・・
ふーむ、ナミはナギが気に入ってるのかい?
どーもそうらしいです。でもナミは一人娘だったから。
わかった、わしが北村へいってこよう。

コッケコーーォーーッ 翌朝の北村の長老の小屋。

ナミをいただきたい、イノシシ10頭ではいかがかなも。
わしがきたのはそのことではないんじゃよ、ナミは一人娘なんじゃ。
うーむ、それは弱ったな。ナギも一人息子なんじゃがも・・
なんと、困ったな、うーむむ。
ポンッ、そうじゃ、互いの村の真ん中に新しい家を作ってやるというのはどうかのぉ。
ナミの家族もナギの家族もそこに引っ越させるのじゃ。
おお、おお、いい考えじゃ、でかい家がいるなも、総出で応援せねばなるまいな。



言葉の問題もあるし、そうそううまい具合にはいかないでしょうけど、近代までポリネシアなどでは戦争はなかったようです。
やむをえない場合に双方から代表者をだして代表者が戦った。
どっちかが傷つけば終わりです。殺し合う必要はない、勝敗が決まればそれでよい儀式です。
北の人々も食料さえ十分なら戦うことはなかっただろうと思います。

豊かさと厳しさ、両者が混在する地域で開幕のベルが鳴りはじめます。

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川上しのぶ (c)1999/03