Top

【 第3章 縄文の人々 】


ナイル、チグリスユーフラテス、インダス、どの川も南北に流れる川です。
しかし長江と黄河は例外で東西に流れています。これは東アジアの文化に影響がありそうです。
縄文には大河がありませんが島と海がそれを補ったのでしょう。
現代につながる文化の芽生えは北緯30度前後の地域なのも興味深いです。
ガンジスやメコンは温暖多湿で豊かすぎたか? あるいは単に発見されていないだけか?
ミシシッピー川もよさそうな場所ですが、やっぱりアメリカは新大陸なのかもしれないです。

日本は位置的に北の人々の勢力範囲のはずで、旧石器時代の石器群もその流れに乗っているようです。
しかし縄文人の特徴を示す多くのデータが東南アジアの人々との類似を指し示しているのも動かせない事実です。
人だけでなく最古の家畜であろう犬までも。
なぜ・・

参考書などもこのあたりについてはいささか歯切れが悪いようです。
それを解き明かす遺物群がどこかにあると思います。でもまだ見つかっていないのでしょう。
以下は一種のシミュレーションです。
人々の動きは環境によって支配される、これをベースにしてその可能性を探ってみます。

図の上段は海水位が低かった時代でBC1万5千年頃としてありますが、年代を含めておおざっぱです。
下段は日本海ができはじめる頃の推定でBC8千年頃。もっとおおざっぱです。
(対馬暖流が日本海へ流入する=完全に半島と日本が分離するのはBC6500頃のようです)

北の人々の流れが黄色と白の矢印です。
この人々はBC1万2千頃には細石刃石器というタイプの石器を使っていますが、日本側と大陸側で石器の特徴がやや異なるようです。 (最後のナウマン象を食べた人々でしょう)
細石器は小さい剥片石器を骨や木に多数埋め込んで使う道具で、シベリアではBC3万年に遡るようです。
BC1万3千年ころではアフリカやインド、オーストラリアでも使われたようで、伝播かどうかはわかりませんが当時の最強の道具だったのでしょう。
この石器群はベーリング海峡を渡ってアメリカへも入ります。

水色は「日本湖」周辺で漁業を営む北の人々で、日本湖周辺の交流を担う人々として重要な働きをしたと思われます。
これらの人々は旧石器時代の石器分析からバイカル周辺を起点とする人々のようなので、以降バイカル民と呼んでおきます。狩猟の人々です。
なお、緑の矢印は山頂同人など内陸部での推定です。バイカル民ではないかもしれません。

赤色はフィリピン周辺に定住していた南の海洋民が活動していた地域ないしはその影響を受けていた地域で、当時の大陸沿岸部と南西諸島です。
フィリピンにはニグリトといった小人種の人々がいました。この人々が含まれるのがポイントです。
これらの人々は遡ればニューギニアなどメラネシア系の人々と類縁だろうと思います。
漁業と根菜の人々です。以降は南海民としておきます。

橙色の部分、ここが問題の場所です。
原始黄河の河口域。黒潮と陸水の接点で大漁場となり、黄河の堆積物が豊葦原を作っています。
当時の大陸内部は草原ないしは森林で黄砂は飛んできません。黄河流域も森林で現在の黄河のように大量の土砂を伴う暴れ川ではなかったでしょう。
BC1万5千年頃、極寒ピークの時代、南下したバイカル民がここを発見し住み始めます。

図中の白*印は沖縄の湊川人BC1万5千頃。黄*印は山頂洞人BC1万6千頃で北京原人と同じ場所です。
山頂洞人の系譜は不明、後に黄河流域に進出する人々かもしれません。
日本ではBC1万1千年頃に有舌尖頭石器と呼ばれる旧石器時代最後の新型が登場しますが、九州には登場せず旧型の石器とともに最古の土器が発見されます。



南下したバイカル民はBC1万5千年頃に原始黄河の河口付近で南海民と遭遇します。
南海民がここへやってくる目的は魚ではなく、貝や珊瑚など希少価値のある宝飾用材料を採るためです。
陸地には水の補給と休息以外には興味を持っていません。なんといっても南海民には寒かったでしょう。
この海域は遠浅から深海へ変化の大きい海域で、黄河の陸水も流れ込み海洋生物の展示場になったのではないかと。

大隅半島で発見されたBC1万頃の土器破片ではブナ科の木の実がいっしょにでています。
ブナは冷温帯の植物です。温暖になりつつある時期でも気温は現在より3〜4度低かったようです。
寒冷時代の南海民の北限、それが黄河河口と九州西岸です。
歩くより舟の方が速い。陸伝いより先に北の人々と南の人々がここで接触開始です。

バイカル民は南海民から舟の技と漁法を学び、根菜などの原始農耕を導入してゆきます。
南海民も陸の産物を仕入れ、交流が人々を呼び寄せ、温暖化と食糧事情の好転が一帯の人口を急増させます。
魚と芋なのでやや地味ではありますけど。
沖縄の湊川人もこのころの関係者でしょう。
(日本最古の竪穴式住居跡は鹿児島県出水市の上場遺跡。BC1万3千頃)

後に中国から倭人と呼ばれた人々の活動範囲に相当するので、以後この人々を古倭民と呼んでおきます。
温暖になりつつあるとはいっても南海よりはずっと冷たい海、お尻を海につけっぱなしではちときついです(^^;
沿岸漁業のみでもあって舟の技は南海民のものとは違う方向の工夫が加えられていったでしょう。
Top
BC1万年頃、スンダ大陸は海没してゆきます。原始黄河の河口域も同じです。
古倭民はじりじりと広がる東シナ海によって大陸東岸、半島西南岸、九州西南岸へ分断されてゆきます。
それが図の下段です。

狩猟から漁業と原始農耕に転換した人々、狩猟は補助となったために新しい石器の工夫はしなかった。
そこで作られたのが九州で発見される最古の土器です。
このころスンダから脱出した人々も雲南や長江流域に定住を始めています。
南北が混じり合った人々には長江内陸型(陸+陸)と黄河河口型(陸+海)の2グループがあった。

半島や九州側に定住したのはフィリピンの小人種の影響が濃い人々で特に小さい人々だったのでしょう。
それが縄文人の小柄な形質を作ります。
後の山東省の龍山文化の墓の骨は身長175cm、当時としては巨人だと思います。
こちらでは古倭民でも大柄グループかあるいは山頂洞人など別の北の人々が混じったからかもしれません。

九州宇佐の縄文遺跡の大柄な人々が謎となっていますが、ここにも大柄グループの人々が定住したのでしょう。
生活様式によって細かい形質は各地でいろいろに変化したかもしれません。
明治と平成、わずか100年で身長や顎の形態などは同じとはいえなくなっています。千年たてばどうなることか。

日本や半島ではバイカル民の旧石器時代が最終段階を迎えています。
北海道や東北には新たにアムール川を拠点にした人々が流入していますが、大きくはバイカル民と同じとしていいと思います。後に沿海州で活動する靺鞨、粛慎、ユウ婁などと呼ばれる人々で半島の北部や東岸にも進出し、縄文末期に西日本にも影響を与えることになる人々です。



BC7000千年頃、対馬暖流が現在のように日本海に流れ込み、日本の気候は大きく変化しはじめています。
多雪化によるブナ林の拡大に応じて古倭民が黒潮と対馬暖流に乗って北上を始めます。
「縄文」の北上開始です。
まずは日本海沿岸から。地形がおとなしく先祖からの地理伝承もあっただろうと思います。

BC6500以降ならば対馬暖流に乗って「瞬時」に樺太までも到達できただろうと思います。
原始北前船です。九州と東北はおそらくは1年以内、縄文時間ならば事実上のゼロ時間で接続されるわけです。
日本に大河川はなかった、しかし対馬暖流がその代わりとなります。
なお、大陸側沿岸は狩猟向きの環境で海流も逆方向です、交易を除いて古倭民の進出はなかったと思います。

太平洋岸は未知の領域です。地形、潮流ともに難所が多く日本海沿岸より高度な航海術が必要だったでしょう。
昼間の航海だけでは次の拠点に到達できず遭難も多かったと思います。
重要拠点は、大隅半島、日向、室戸崎、紀州東岸、浜松、伊豆半島。北限は房総南端。
漂流した場合は伊豆七島へ。その他は魚の胃袋へ(^^;

太平洋岸は温暖なのでスンダ海没でやってきた最新の南海民が航海アドバイザーとなります(^^;
古倭民の祖先でもあるので特別な人々として扱われたかもしれません。
瀬戸内航路はBC6500頃に開通。九州〜紀州間のルートは安全な瀬戸内航路に切り替わっていったでしょう。



さて、そうなりますと沿岸の要所には灯台が造られたのではないかと思います。
各地に巨木柱の跡ないし現物がありますが、沿岸の場合は船着き場の灯台をかねた望楼だったのかもしれません。
三内丸山の位置が当時の海岸線かどうかはわかりませんが、このあたりにも灯台があってよさそうです。
明かりはイルカや鯨の油を燃やします。
東釧路遺跡からはイルカの頭骨が放射状に並んででています。函館の桔梗遺跡からはシャチと思われる土偶がでています。(インカの黄金のジェット機はこれじゃないでしょうか)
液体燃料の発見は縄文以前でしょう。

各地に先住していたバイカル民は変化する環境に対応する手段を模索中です。
あるいは旧環境の土地へ移動中です。
新環境に住むバイカル民は、やってきた古倭民とその手段をどんどん取り込んだでしょう。
先住のバイカル民と到来した古倭民の人口比はどのくらいだったのか。
古倭民の方が多かった地域もあったと思います。
古倭民がいつ北海道まで達したかはむずかしいですが、東北北部がブナ林となるBC6000頃には北海道へも渡っていたと思います。

参: 縄文登場への仮説(2005/05)
Top


・・寄せ鍋・・

おーさむ、今日は冷えるぞ。晩飯はなんだい。
鮭と根昆布とキノコの寄せ鍋だよ。
お、ありがてーそいつはあったまるぞ。

火をたっぷりおこしとくれ。鍋ふたついれるからね。
ふたつ?なにつくるんだい。
イルカの皮が手に入ったんだよ。にこごりつくるの。
ほほっ(^^) そりゃまたばかに・・・ははーん

ねぇー櫛のいいのがあるのぉ・・



青森や北海道南部で出土する底のとがった尖底土器は縄文早期BC7000〜6000頃とされています。
(BC1万に遡る可能性のある破片が東津軽からでていますが年代、形式などは不明)
九州の最古の土器は卵形のようですが、卵だと煮炊きより貯蔵用に適当な形に思えます。

尖底土器は貯蔵には使いにくいし、作るのもやっかいそうです。
燃える薪の中にどさっとつっこんで煮炊きに使うように工夫された形ではないでしょうか。
寒い地方ならあつあつをふーふーやりながら食べたいものです。
残った汁が凍ってもこの形なら割れない。朝食は昨日のしょっつるスープで稗粥を作る。
先代から続く秘伝のスープの蕎麦がきがあったかも(^^;

塩は沿岸で土器があればどこでも自前で作っていたでしょう。
煮詰めたままで塩のこびりついた土器を内陸との交易品にしたかもしれません。
東北で塩辛いのが好まれる嗜好は、この時代から始まっているんじゃないかと思います。
食料の乏しくなる期間が長く塩漬けで貯蔵をしていて、それがなれっこになったというわけです。

熱い料理を食べるとなると手づかみじゃ無理、食器も必要です。
素焼きの土器のお椀では口当たりが悪くて重い。
木製食器の登場は寒冷地が早いんじゃないかと思います。アイヌのニマといった木の加工法もそのあたりから生まれたものだと思います。

スプーンかなあ、あるいは箸が登場したかなあ。
余談ですが工業デザイナーの秋岡芳夫氏が漆が日本で発達したのは箸文化のゆえでしょうと話されていました。
スプーン文化では器に口を触れません。敏感な口へ器が触れる箸文化のために漆塗りが発達したのだろう、という考え方です。
なお漆の日本最古は福井県鳥浜貝塚からBC4500頃、中国での最古も同時代の河姆渡遺跡からです。



・・刺青・・

とーちゃん、かっこいいなー、おいらにも刺青しておくれよー。
だめだだめだ。こいつはちゃんと狩りができる男だけの印なんだ。
おめえはまだウサギしかとれねーだろ、みんなといっしょに鹿がとれるようになったら彫ってやる。
かーちゃんは鹿をとらないけど彫ってるじゃないか。
女は別だ、子供を産んだら彫るんだ。おまえが生まれる前は彫ってなかったんだぞ。

ほら、代わりにこれをやろう。とーちゃんが倒した熊の牙だ。お守りになるぞ。
お守りってなーに?
熊は強いだろう、その強い力が牙にはいっていてそれがおまえを守るんだ。
ふーん、でもー・・殺したんでしょ。恨まれないのかなぁ。
恨まれないやり方が昔からあるんだ、その通りにやらないとだめなんだぞ。そのうち教えてやる。
ほれ、かあちゃんにひもをつけてもらってこい。



刺青は世界共通の装飾、護符、シンボルのようです。
中国出土の人物像には刺青とみられるものがいろいろあります。
殷周時代では刺青を行い、秦、前漢では犯罪人の印として使われますが前漢の文帝(BC180〜157)が廃止します。
三国志魏志倭人伝では倭人の特徴のように書かれていますが、刺青をしなくなった人々の側から見た記録ということでしょう。
世界的にあるということはその形態が文化移動や変遷の情報になりそうですが、あいにく半島以北や沿海州で刺青風習がどうなっていたかわかりません。



すべての人々が縄文化したわけでありません。
八ヶ岳山麓の矢出川遺跡のように土器を作らず旧環境の地域で狩猟を継続していた集団もいます。
もともとそこにいた人々なのか、旧環境を残す地域に移動してきた人々なのか。

アムール川流域の人々の使った石刃鏃と呼ばれる石器が北海道と東北に多数あります。
東北では太平洋側からの古倭民の到来がなく、寒冷でもあって縄文文化の一部だけを取り込んで北の文化を保持した人々も多かったと思います。
後の蝦夷といった人々はそれらの人々の子孫かもしれません。

苫小牧の静川遺跡、ここに日本最古の環壕集落があります。BC3000頃です。
九州より桁違いに早く、環壕が稲作とは無関係に生じることがわかります。
地形的に排水目的には見えません。防御のためだと思います。
寒冷で北の文化の強い地域、ひょっとするとここで最初の「戦死者」がでたのかもしれません。

アイヌ文化は古墳時代あたりからのようでここでは登場しませんが、コロボックル伝承は古倭民だと思います。
でかい秋田フキの葉っぱの下なら何人もはいれたのでしょう。
(フキは日本原産で樺太から九州まで全域にあります)
縄文化した人々、北方文化を保持した人々、後にオホーツクから南下してきた人々。東北北部と北海道ではこの3つのグループの葛藤が続いたはずで、そのなかでの伝承だろうと思います。

一寸法師といったおとぎ話も根はコロボックルとおなじでしょう。
スサノオの妃の櫛名田姫(櫛稲田姫)の両親とされるアシナズチ、テナズチ、後のナガスネヒコや土蜘蛛、すべからく古倭民ないし小柄な南海民の容姿を伝えているのだと思います(南海民は黒潮沿岸域の温暖地のみ)。
飛騨高山の鍛冶橋に木彫の名人が彫ったテナズチアシナズチのレプリカ像があります。
古倭民のイメージ、ぴったりじゃないかと思ってます。

ちなみに暑い地方の人々の体型は小さくなるか細身で手足が長くなるそうです。体積のわりに表面積を増やして放熱をよくするためらしい。逆に寒い地方の人々は巨人か手足の短いずんぐりむっくりになるそうです。



・・外来語・・

とーちゃん、ホレネッチョー。
なんだそりゃ、鳥モチか。
魚の村の子にもらったんだい。山芋と魚を練りあわせてあるんだって。
ああ、あの村の子か、友達か?
うん、魚の捕り方教わったよ。おいらもウサギの捕り方教えたんだ。
これ、ホレネッチョっていうんだってさ。焼いて食べるんだ。

それでねー、お尻に刺青してるんだよ、鹿とってないのに。
ああ、それはな大昔にあのあたりに魚捕りのうまい連中がやってきて、刺青があるとでかい魚に食われないとかで、それをまねしてるんだ。
ここにはでかい魚はいないからな、おまえは鹿を捕ってからだ。



縄文化で各地の文化はどう変化したでしょうか。
血は混合拡散し平均化しても、文化は人間が選択し、それを自然が淘汰していったと思います。
ファッション的な流行はあったかもしれませんが、納得できるものだけが取り込まれ、あるいは残ったでしょう。
縄文といっても九州から北海道でみな違う。それぞれの地域によって最適化されていったと思います。

言葉も類似です。ただし言葉は内から見れば血で、外から見れば文化といった面があるかもしれません。
異なる地域に類似の言葉があるから一方から一方へ「伝播」したとは限りません。
かって流動し混合しあっていた地域であれば、もともと共通だった言葉がそれぞれの地域に類似語として残るはずです。
逆にある地域の新工夫が別の地域でも便利ならばその工夫とその「単語」は短期間のうちに取り込まれていったでしょう。



半島でも日本と同様の変化があったと思いますが、日本の多雪気候とは違い植生も違います。
北部では沿海州や北アジアからの影響が日本より強く、共通項はあっても同じにはならないはずです。
しかし南部では環境も類似なので、少なくとも北九州とは言葉も文化もほとんど同じだっただろうと思います。
向こう岸が見えてもいるし、たとえば津軽平野の縄文と釧路平野の縄文、その程度の差しかなかったでしょう。
BC3000頃の対馬では双方の土器が混在しています。

大陸東岸での古倭民は黄河下流域や山東半島沿岸あたりに定住し、大ブン口文化(BC4000頃)など大陸東岸文化のベースになったのではないかと思います。
この一帯は後に龍山文化が登場する地域で中国でも研究課題の異色文化圏となっています。

このころ長江と九州は大陸と半島の沿岸伝いの航路で接続され、長江下流文化やさらに上流の雲南やヒマラヤ山麓の照葉樹林文化が日本にやってきます。
ひょっとすると長江から東シナ海を横断して九州西岸へ直接やってきた人々もいたかもしれません。
古倭民の祖先が誕生した海ですから双方の神域として祭祀が行われ、ダイレクト交流の可能性も少なくないと思います。
BC4500頃、日本は温暖化がピークに近づき温暖地が照葉樹林化してゆく時期です。
鳥浜遺跡からも照葉樹林文化系の遺物が登場して出土物がにぎやかになってきます。

南西諸島は台湾経由の照葉樹林文化や東南アジア文化との交流ルートだろうと思います。
BC3000頃には良渚文化が大発達し、その文化は東アジア全域に影響を及ぼしはじめています。
南西諸島からもその文物が流入したと思います。

しかし、BC4300頃に薩摩半島沖合の鬼界カルデラ(海底火山)が大噴火し、その火山灰は日本全土に達します。
九州南部の縄文はこのとき壊滅しゼロからの復興中です。新文化を活用できるゆとりはなかったかもしれません。
九州南部なら長江と緯度は同じです。一般種の稲を栽培できるはずです。
しかし火山灰によって覆われた大地がそれをさせてくれなかったのでしょう。
なかなか平穏無事ではゆきません。次世代文化の発信源のひとつが使えなくなっていたわけです。

縄文文化が全土に広まった後、BC2000頃から気候は寒冷に向かい、今度は北の文化が南下を始めます。
東北北部と北海道は文化の折り返し地点、南北に長い日本ゆえの特徴でもあります。
文化と人は温暖化では南から北へ、寒冷化では北から南へ移動する。

縄文生成の源となる考古学的な遺物は現在の東シナ海の海底にあるのではないかと・・
黄海ではその名のごとく黄河の堆積物で発見は難しそうですが、五島列島の沖合あたりなら・・
海底を探索するうまい手はないのかなあ(^^;

Top

川上しのぶ (c)1999/04