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魔王の世界征服日記
第3部シコク


 ガレーシップというのは奴隷船である。
 帆船なのだが、基本的に船の中央に仕掛けられた穴を通した櫂をこぐことで前進する。
 しかしそれでは奴隷が幾ら居ても足りない。
 そう。そこで考案されたのが魔物を動力に用いる方法だった。
 オオアライを出航するガレーは、その動力として飼い慣らされたいぬむすめを使用する。
 いぬむすめは見た感じとかなり違い、比較的頑丈で力持ちである。
 知能は犬並なので、躾れば充分エンジンとして使える訳である。
 ついでに説明すると、この船は上から特等、1等、2等船室とホテルのような配置になっている。
 まともな部屋なのは特等船室だけだが。
 後は施設がどうなっているかで分配されている。
 2等船室は毛布と枕が後で配分される。
 1等船室はベッドが備え付けられているが――カーテン程度のしきりしかなく、個室風なだけである。
「ねぇゆぅちゃぁん」
「巫山戯るな。お前ら特等で何で俺達が2等船室で雑魚寝なんだ」
「だったらお前達も特等船室で」
「何故俺とナオが一緒なんだよ」
 とまぁ。
 乗る前からごたごたと騒がしい連中である。
「まお様、ボク達は特等船室で」
「望姉。そんなお金の持ち合わせはありません」
 まおがお金を持っているわけがない。
 そもそも、まおうは魔王なのに財政が逼迫した魔王軍を率いている。
 何故か宿に泊まる金すら出ないような感じなのだ。
 人間と同じ通貨単位で同じお金を何故使っているのかはひみつだ。
「というか、なんでお金持ってるんだよ」
「あ。……まお様、それを今ここで言っていいんでしょうか」
 何故かにやりと笑うウィッシュ。
 じとり。
 嫌な予感がして、まおはぶんぶんと首を振った。
「賢明な判断で御座います」
「だとしても望姉、お金足りないのは確かです。ここは二等船室しか選択できませんというか選択肢は有りません。そもそも」
 わいのわいのとチケット売り場で騒いだ挙げ句、全員同じフロア同じ場所の二等船室へと向かう事になった。
「……そろそろ暴走してもいいか」
 ユーカはミチノリをぎゅっと横抱きにして歩きながら、ナオを見て言う。
 彼は額を揉みながら、呆れた顔で呟く。
「聞いて良いか?ユーカ。最近お前、なんか違わなくないか」
 ミチノリは彼女にぶら下がるように、引きずられるようにしてくっついている。
「ああ、多分生理だ」
「こらこら」
 キリエがジト目で睨み付けながら、腰に手を当てる。
「下品だ!少しは考えろよ」
「すまないキリエ」
 ナオは思った。もしかするとこのユーカが本来のユーカなのかも知れないと。
「人間何でも限界は良くないんだなぁ」
「何の話をしてる」
 ナオが納得したように呟くのを、キリエが聞きとがめて眉を寄せる。
「それより、胸当ては外すなよ。動く時はすぐ動けないと困る」
 キリエは自分の胸当てをこんこん、と叩きながら言う。
 肩当ては有った方が良い、程度だが胸当ては違う。
 胸の筋肉は腕の動きを支える働きがある。心臓を守る理由もある。
 そして胸当ては首を守るための襟を取り付けられる為、最低限度付けておきたい防具である。
「あー、それだけどよ。どっちか夜半起きておこう。夜魔物が出られたら厄介だ」
「そうだな」
 ぽてぽてぽて。
 まおの前で相変わらずわいわいと騒ぎながら、二等船室に向かうナオ達。
 楽しそうに見えなくもない、その様子を見ながら壁を眺める。
 木で出来た船室の廊下。
 時々、地図や船内配置が書いてあったりする。
「わあ」
 額縁に入っているそれらはもう古びて黄色い色を浮かべていて、触ったら壊れそうだ。
 うずうず。
 ぺり。
「きゃーきゃー」
「ああ、まお様は子供ですねぇ」
「まったく」
 ちらりとヴィッツを見ると慌てて手を後ろに隠す。
「ヴィッツ?」
「え、何ですかお姉さま、私は額なんか触ってないですよ」
 触ったようだった。

 航海はおよそ三日。今晩オオアライを経つガレーは、一路南へと進路を進め、夜のうちに西へと進路を変える。
 後はゆっくりと南西方向へ、シコクへ向けて二日後の朝に到着する予定だ。
 一日目は何事もなくただ夜が訪れて、丸窓から差し込む朝日に全員が目覚めた。
 個室と言うほどではないが、カーテンで区切られた絨毯の部屋の中に全員が車座になっている。
「こういうのも悪くないですね」
 ぺたんと座り込んで、自分の腰まわりに毛布を巻いてぬくぬくと座り込むウィッシュは、どこかぽやんと幸せそうだ。
「私この揺れがきらい」
 大きな船と小さな船の違いは、体感する揺れ方だろう。
 ガレーシップクラスの大きさだと、寄せては返す緩やかな揺れになる。
 船酔いはむしろしにくいもので、小さな激しい小刻みな揺れに比べて周期も長い。
 嫌いな人間はどっちにせよ嫌いなのだが。
 まおは蒼い顔をして、寝ることもできずにふらんふらんと身体を揺らしている。
「取りあえず横になってなよ。多少違うだろ」
 ナオは壁を背に、手元に斬魔刀を置いてマントを羽織るようにして座り込んでいる。
 今キリエが熟睡中である。別に夜昼関係なしで、寝ずの番をするためだ。
「うー、ねてたらねてたでおなかが妙に動くからぁ」
 ぽてり。
 座っている苦痛に耐えきれなくなったのか、それでも横に倒れてしまう。
 うーうー唸っているが、夜は寝ているから今寝れないのだが。
「子供が居るみたいな感覚か?」
「それはぜんぜんわかんないよぉ」
 ちなみに聞いたユーカも判らない。
「冗談はともかくとして、気分が悪いなら甲板に出た方がいい。風に当たれば多少違う」
 むにー。
 眺めるというより、何とか頑張って目を向ける、と言う方が正しい。
 まおは草臥れた顔でユーカを見上げる。
「ほんとー?」
「ああ。連れて行ってやるから起きろ。立てるか?」
 ちなみに一応説明しておくと、全員が殆どグロッキー状態だ。
 ここに来るまでの旅の疲れで眠り惚けている。
 起きてると行ったって元気に見て回る程も元気がない者と、元気をため込んでいるナオ達を除けば、まおとユーカぐらいしか行こうと思う者も居ない。
「気を付けていけよ。落ちても誰も助けられないからな」
「ああ。落ちたらそれまでだって覚悟していくことにする」
 立ち上がりかけていたまおは、蒼い顔でもう一度ぺたりと座り込んだ。
「やだいかない」
 ぷい。
「冗談だ、冗談だって。わざわざ落ちに行くことはないだろう」
 そう言いながら、まおの両肩をぽんぽんと叩いて、彼女を引き起こす。
 のろりと立ち上がる彼女は、それでもやっぱり気分が良くなさそうだ。
「危なかったらユーカを蹴り落としていいから。風に当たってこい」
「ああ。落ちたらナオを恨んで三代祟る事にするさ」
 まおの肩を抱くようにして、そのまま二等船室を出ていく。
 ナオはそれを見送って、部屋を見回した。
 ちょこりと座るウィッシュ以外は、殆ど眠っている。
 朝食は済ませた。ちなみにヴィッツは食べてないそうだ。
「ナオさんも眠ったらどうですか。魔物は夜現れるんでしょう」
 ウィッシュはにこにこと笑いかけてくる。
「いや、何時出てきても良いように準備しておく方がいいだろ」
「でてきそうなら、私が起こします。こう見えても結構魔術は使える方ですし」
 にこり。
 自信があるのか、それともただ安心させようと言うのか。
「……じゃあ居眠りしても大丈夫だな」
 ナオが口元を歪めると、くすくす笑って応える。
 ヴィッツが寝返りをうって、ミチノリは寝言なのかむにゃむにゃと何か呟く。
「賭けてもいいですよ。貴方達が無事でなければ、私達は安心できませんでしょ」
「なら賭けなくてもいいだろ。そっちの一人勝ちだ」
 くすくす。
 ナオは、少し張りつめていた気を緩めて、伸びをする。
「ふふ、すこしは落ち着きました?」
「緊張してるみたいに見えたんだ」
「いえ、これから魔物の巣窟に向かうでしょ?緊張しない方がおかしいですから」
 そう言えば、とナオは、彼女の言葉に逆に訝しげに眉を寄せて聞く。
「おま……ウィッシュ達はどうなんだ?何故シコクに向かう?」
 ウィッシュは、そうね、と言いながら右手の人差し指を頬に当てて首を傾げる。
「シコクにはね、ちょっとしたものがあるんですよ。魔術に欠かせない石が。『命の雫』ってごぞんじありません?」
「あ、ああ」
 命の雫は、貴重な宝石である。
 ナオが知っている限り、魔力をため込んだ塊のようなもので、ユーカに至っては持ってるらしいが見せてくれすらしない。
 持つ者に膨大な魔力を提供する宝石で、握り拳ほどのサイズがあるという。
 流通しているのはこの『欠片』のレプリカだが、それですら個人で所有する事は出来ない値段が付く。
 本物の『雫』クラスの宝石は世界に一つあるかないかと言われている。
「……元々、アレはシコクに有ったものらしいのですよ。塊では人に扱いきれるものではなくて、今あるようなサイズに切り出されて配分されたとか」
「ふぅん。そうは言ったって、危ない所にいくんだろ?怖いとか思ったことはないのか?」
 くすくす、と再び笑うとおかしそうに右手を振る。
「だから一緒させて貰ったでしょう?もう。占いによれば、シコクに行く兵士がいるから付いていったら安全だって、卦がでてたんですよ」
「あれ?まおは何か隠し事してるっぽかったけど、そんな簡単に言っちゃって良いの?」
「ええ、もうここまで来たら隠しても仕方ないでしょう。確かにあんまり言うべき事ではないですから」
 確かに。
 もし、本当に雫の在処を知っているのであれば、金に目が眩んだ人間ならどうなるか判らない。
 尤もそんな人間だとしても、喉元まで危機が迫るこの位置では、言うことを聞かざるを得ないだろうが。
 ナオは少しだけ不機嫌に口を尖らせて、肩をすくめた。
 その言葉には真実味があり、納得するだけの理由があったから。
 まさかそれが嘘だとは思えなかった。
 揺れる船内では、階段を昇るのも一苦労だ。
 まおはユーカに支えられながら、何とか狭い階段を上っていく。
「うぅうぅう、何時になったら出られるのぉ」
「結構長いから、少し我慢しろ。何、三階建ての建物の階段を上る位だ」
 がーびーん。
「ぃえぇえええ」
 目の前がくらくらするのに、意識がくらくらと飛んでいきそうになった。
「もーいーよー、帰って眠りたいよー」
「いいからいいから。全く我慢の効かない娘だ」
 ユーカはまおを後ろから抱きしめるようにして、逃がさない恰好になる。
 こうなると逃れるより、ただされるがまま上った方が楽だ。
 無理矢理、というかその抵抗すら出来ずにとてとてと上っていく。
「こらこら、自分で歩け」
「はーい」
 と応えながらも、ぬくぬくと暖かいのを振り切るのが嫌で、身体を預けたまま上っていく。
 ユーカも言葉では言う物の、突き放すような真似はしなかった。
 登り切ると、廊下が続いていて、丸窓の付いた扉が幾つか並んだホテルみたいな場所に出た。
「ここが特等船室だ。これだけしかないが、中は宿と変わらない」
「はぇ」
 それを横目で見ながら、廊下の端にある、やっぱり丸窓を填めた大きな扉まで行く。
 ユーカがぎこぎこと音を立てるそれを開くのを、彼女は黙ってみていた。
 風は、以外に弱く、今は櫂をこいでいるんだろうと感じさせた。
 だらんと力無く垂れ下がった帆に、マストに立つ水夫。
 そして、特等船室を見下ろすような艦橋が備わっている。
「はあーっ、すごいやー」
 そこは、見たことのない空間だった。
 周囲には水しかなく、まるで永遠に続く水の中にそびえるように、木造の建築物がある。
 そんな風に見えて、まおは周囲をぐるっと見回した。
 ユーカは先刻までふらふらしてた子供が元気になって、おかしくてくすくすと笑う。
「風がなくても関係なかったな」
 ため息をつくと、彼女は穹を見上げた。
 雲一つない蒼穹。特にこれと言って不審はない。
「ねねねーねねー、ねぇねーってば」
「ねばっかりでわからん。何だ、どうした」
 マストを指さしたり、艦橋を指さしたり。
 ともかくしばらくはこれで元気だろう。
 簡単に相手してやりながら、まおが揺れに慣れる事を願った。
「あんまり端に行くなよ」
 一応、甲板のへりには落ちないように柱が立ててあるが、ともすれば気休めだ。
 尤もさほど荒れてもいないし、大丈夫だろうが。
「うん」
 風は冷たくも暖かくもない、不安を消してくれる優しい感触。
 遙か眼下に見える海面の白い波は、暗い水面は吸い込まれそうなぐらい小さく見えて。
 嘆息するばかりで言葉が思いつかない。
「不思議だな」
 ユーカは彼女の真後ろから声をかけた。
「まおは本当に魔術師か?」
 びくっ。
 振り返らない。
「他の連中は魔術を知らない。だから気づいていないのか、そう言うものだと思っているのか気にしないが」
 否。振り替えれないのだ。
 まおの真後ろ、振り返ろうにも振り返るだけの余裕がない。
「魔術師は、あのウィッシュとかいう女だけだろう。確かに、『珠』かも知れないが魔術が扱えるとはどうしても思えない」
 見下ろすまおを閉じこめるように、両腕が柵を握る。
 これで横にも逃げられない。
 まお、ぜったいぜつめいのぴーんち!
「……実は貴族のお嬢様か、何かなんだろう?ヴィッツってのはお付きのメイドってところか」
「え?」
 ユーカは別にまおを問いつめる気はなかった。彼女自身、疑問だったから確認しておきたかった。
 まおはイレギュラー。
 ユーカは会うべくして彼女に出会ったはずなのだ。

 彼女に会うことで、より何かの真実に近づく。

 知りたいことが目の前に有ったとしても気づかないよりもそれはしあわせなことだ。
「答えなくて構わない。別に、まおが何だとしても良い。何故シコクへ向かう?」
 もう、まおは完全にユーカの腕の中にあった。
 この体勢なら、海に落ちる以外に逃げる手段はない。
 これだけ身体が近いなら、言葉にしなくても動揺も伝わる。
――シコクに向かう理由なんて、ない
 まおは答えようがなかった。
 別にシコクに目的があるわけじゃない。
 ついでにいうとシコクは怖い場所では有り得ない。彼女にとっては。
「魔術師ではないまおがシコクに向かうからには、守るべき相手が増える。最低限度それだけは考えておかなければいけないだろう」
「あ、あの」
 振り向こうとして、今度は動けないように押さえつけられてしまう。
「答えなくて良い。ただ人間がこれだけ動いているんだから、もう止めることもできない。多分今度こそ、世界が動く」
 まおは身じろぎも出来ず、頭の上から聞こえる声に耳を傾けるだけ。
「まおは何を求めて何をしているのか、私は知らないし知ろうとしない。ただ、間違いなく私はまおに会わなければならなかった」
 殆ど独白に近いかたちで、彼女が呟くのをまおは海面を見下ろしたままで。
「私に?」
「――まおがシコクに向かわなければならない。多分そう言うことなんだろう」
 ユーカが占いによりシコクに舵を取ったのは、彼女達が動くことで『動く事態』を起こさなければならなかったから。
 それが、まおがシコクに向かう事、なのだとすれば。
「謝るべきなのか、謝らなくても構わないのか判らない」
 いつの間にかユーカはまおを背中から抱きしめる形で、海を覗き込んでいた。
「まおを見ていたら、私がまるで悪い人間のような気がしてきたよ」
 彼女の言葉に返す言葉はなかった。
――ユーカのせいで、私がシコクに向かう?
 『思いこみ』だと言うべきだろうか。
 多分、それを理論的に否定して論破してくれる。彼女はそう言う存在だ。
 まおは珍しく、回転しない鈍い頭をバターにならない程度に回して、何とか理解しようとしてみる。
 ……無理だった。
 ユーカの考え方その物が、想像できない。
「判らないけど」
 だから、自分の目の前で交叉している腕を、まおはつかんだ。
「ほらほら、さどおけさがもうけたら風邪をひくっていうでしょ?気が付くだけでもやさしーとおもうな」
「……風が吹いたら桶屋がもうかるんだろう」
 ユーカが震えるのがまおには判った。
「そ、そーともいうね!」
 今度こそ、間違いなく吹き出していた。
「だから、誰かが何かをしたらきっとそれは、どこかで何かの切っ掛けになるんだと思う。別にそれは悪い事じゃない。きっと」
「ここで団扇をあおいでたら、サッポロで台風が発生して三百人もの死者が出たとしても?」
 明るい声で、無茶な冗談を言う彼女に、まおは頷いて答える。
「もしかしたら、団扇であおがなかったせいで干ばつになって、二千人の死者が出たかも知れない」
 ああ。
 ユーカは思わず納得した。
 そして、言葉を継ごうとするまおをそのまま抱きしめる。
「……ゆーかさん?」
 不思議そうに声を出して、振り仰ごうとするが、勿論彼女は見えない。
「世界ってのはままならないし、まだまだ理解しなければならない事も多くある。……絶対生き残ろう」
 袖振り合うも多生の縁。
 まおは返事の変わりに、もう一度彼女の手を握り返した。

 とはいえ。
 実際にまおは少々考え込んでしまった。
 別にシコクに向かわなくてはならない訳ではない。
 気が付いたら確かにずるずるとシコクに向かってしまっていた訳だが。
――むー、むむむ。まじーとかちゃんとしてるかなぁ
 いつの間にか敵だったはずのウィッシュやヴィッツとも、仲がいい訳ではないが、決して争う程の関係ではなくなっている。
 放置するには気がかりだが、このまままおだけ引き返したって問題はなかった。
「どーしてるんだろーなぁ」
 いつもの位置にいないマジェストを思って、少し心配になった。
 もう随分と会ってない。
 ここでいきなり居なくなっても、多分問題ないだろーし。などと考えながらもとの船室でごろんと横になっていた。
 昼食を終えて、ゆっくりと日が傾き始める。
 殆ど眠りについているのか、静かで、会話そのものも少ない。
「どぉかぁしたのぉ」
 思わず出た声を聞きつけたのか、ミチノリが声をかけてきた。
「んあ?あ?うん、ちょっとね」
 なんて説明しようか、一瞬戸惑って言葉に詰まると、彼はにこぉっと笑みを浮かべたまま話を続けた。
「さびしい?」
「え?」
 どきっとした。
「うんー。みっちゃんねぇえ、まおちゃんみてたらぁ」
 と、わきわきといつの間にか装備していた巨大な手袋を動かして見せる。
「抱きしめたくなったから」
「こらこらっ」
 びし。
 彼はその巨大な人差し指を立てて見せると、小首を傾げた。
「とぉいうのはぁ、冗談でぇ。ずーぅっ……と気を遣ってぇなぁい?」
「え」
 すと彼の雰囲気が、いつものほわんとした暖かいものから変わる。
「時々きぃになぁったからぁ」
 うん。
 まおは思わず頷きかけて、自分でも本当はどうなのか判らなかった。
「みっちゃんをおにぃさんと思ってぇいいよ」
「思わない。別に」
 いきなり即答を喰らって思いっきり寂しそうに部屋の隅に向かうミチノリ。
「しくしくしくしく」
「あーうっとうしいっ!夕食にするぞ夕食!」
 相変わらずキリエに怒鳴られる彼だった。


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第67話 嵐


 夕食を終えて。
「じゃ、キリエ」
 ナオが毛布に潜り込見ながら言うと、彼女は小さく頷く。
「ああ」
 夕食を境に、今度はナオが眠りにつく。
 既に船室の壁のランプが灯り、本を読むぐらいの明かりが部屋に満ちている。
「ウィッシュも寝てくれるかな」
「?ボクがですか。ボクは大丈夫ですよ。それに、暗い方が集中できますから」
 小首を傾げるようにして、彼女は応える。
 よく見れば夕食の時から姿が違う。
 両手には革で出来た手袋を填めて、金属製のネックレスを首から提げている。
「……魔法でも使うのか」
「一応魔術を使えるんですからね。私だって」
 ウィッシュは笑みを崩さずに応え、昼間と変わらずぽやんと床に座り込んでいる。
「起きていて足手まといにならないようにって思ってるけど」
 にこにこ。
「……その心配はないか」
 肩をすくめて、彼女は膝を抱え込んだ恰好で手元に斬魔刀を引き寄せた。

 『シコク周辺では嵐が多く、そんな夜に限って出没する魔物がいるらしいんだ。だから魔物が嵐を起こしているとも言われている』

 キリエはため息を付いた。
 できればこんな足場の不安定な場所での戦闘は避けておきたい。
 いや、船上で戦闘などしたくない。まさか敵は空を飛んでくるんだろうか。
 ユーカもどんな魔物なのかは知らないと言う話をしていた。
 判るはずもないだろう。嵐にあって難破しなかった船はないという。
 噂では半漁人だのなんだのと言われている。
 ユーカも今は眠りに入ろうとしている。聞きたいことはあるが、今起こす訳にもいかない。
「キリエさんこそ、居眠りしてしまわないでくださいね」
「ほっとけ。いざとなればいざとなるさ」
 ちぇ、と舌打ちすると、彼女は立ち上がった。
「ちょっと外見てくるよ。まだそんなに暗くないから」
「ええ、気を付けて」
 ざきんと金具が立てる音を残して彼女は船室を出た。
 ぎしり、ぎしりと軋む音が聞こえてくる。
 木製の船は、木の合わせが巧くいかない場合や腕の悪い船大工が造ったならば、航海中に船体そのものが軋みを上げる。
 とんとんと階段を上る音はしても、階段は軋みすらしない。
 これは違う。リズミカルにぎぃ、ぎぃと繰り返すこの音は、櫂で漕ぐ時の音だろう。
――風はないのかな
 まだ夜にもならない時刻だというのに、特等船室も1等船室にも殆どと言って良いほど灯りは見えない。
 不審に思ったが――自分達もさして変わらない事に気づいて、肩をすくめる。
――何を心配してんだか
 波の音と船の揺れを感じながら、彼女は甲板に通じる扉を開いた。

  ごぉっ

 そんな音がした気がした。
「わっ」
 思わず声を上げて、引っ張られる扉を押さえ込む。
「ちーっ、風は結構あるじゃん」
 外に出ながら扉を閉めるのも一苦労だった。
 ばん、と音を立てて扉を閉めると、風が吹きすさぶ甲板の上でぐるりと周囲を見回す。
 帆は綺麗に畳まれている。
――まさか
 ちらりと嫌な予感がして、進行方向の穹を見つめた。
 本当なら星が見えているはずの穹、そこにあるのは黒い闇。
 どよんとした光のない塊がそこに澱み、水平線がやけに明確に黒ずんで見える。
「――嵐だ」

 小一時間も待たなかった。
 部屋に戻ってその話をして、ナオを起こすかどうか迷っているうちに打ち付けるような雨が降り始めた。
「帆を畳んでいたのは、風の方向ではありませんよ」
 ウィッシュは雨に負けそうな声でキリエに言う。
 声が届かないと困るので、彼女の真横を陣取って座っているのだ。
「帆船の乗組員は向かい風に向かって帆船を走らせられますから。初めから嵐を見込んで畳んだのでしょう」
 大嵐で帆船が帆をあげておくと、もみくちゃになった風によって帆そのものを破ってしまう虞がある。
 それでなくても、この船は『エンジン』が搭載されているから、危険だと思えばエンジンに切り替えるのだ。
「……。幾ら人間じゃないからって、持つのかな」
 ウィッシュは一瞬困った顔をした。
 彼女も人間ではないから、ではない。
「そうですね。今日一日もたないはずです」
 いぬむすめの限界は、彼女の方がよく判っていた。
「抜けられればっ」
 どん、と大きな揺れが来てキリエは歯を食いしばる。
「揺れてきたな」
 雨足は弱まるどころか強くなる一方で、揺れも周期性がなくなって大きな波が混じって揺れるようになってきた。
 間違いなく風も強くなってきたのだろう。
「起こさなくても、起きるなこれじゃ」
 ガレーシップが大きく傾き、今必死になって水くみしてる絵が浮かんで、キリエは苦笑いする。
 案の定ナオ達も目を覚まして、彼は毛布を片付け始めた。
 その中でも強気に眠っているのはミチノリだったりするのだが。
「起きろ」
 既に戦闘用の祈祷師装束で、あの巨大手袋をまくらにして小さくなっている彼の背中を、容赦なく踏みつけるユーカ。
「んぎゃん」
「寝てたらこのままあんまするぞ」
 ふみふみふみふみ。
「ぁんぅんぁぁぅ」
「悩ましい声をだすな馬鹿者」
 何があるか判らない状況だから、起きていなければ危険だ。
 果たしてこれだけの嵐だ、緊急艇は使えないだろう。むしろ沈む前に乗る方が正しい。
 ナオは斬魔刀を既に腰に提げて動ける体勢をとっている。
「ただの嵐だといいがな」
 ナオの呟きに、ユーカの真剣な表情が否定する。
「だったら困るな。こんなに激しい嵐だと抜けるのが難しい。むしろ――」
 魔物が起こしている嵐で。
 魔物を斃して切り開く方が早く、楽――彼女がそう続けようとした時、ウィッシュが声を上げた。
「――きます」

  どん ごごおぉぉん

「ユーカの馬鹿っ」
 キリエが叫ぶ。
 既にナオは船室の扉に向かって駆けだしていた。
 突然響き渡った轟音に混じって、木が無理矢理破断していく嫌な音が聞こえた。
「魔物だ」

 斬魔刀を提げて、扉を蹴破って一息に廊下に転がり出る。
 ランプの明かりがゆらりゆらりと陰影を揺らす廊下の向こう側、悲鳴とも啼き声ともとれる物音が聞こえる。
 先程轟音が駆け抜けた方向。
 鈍い低音は雨音か。
「ナオ、上だ」
 後ろから、追い越すように駆け抜けていくキリエが、階段を駆け上っていく。
 ナオもそれに続いて階段を駆け上がる。
「上って、今船室に敵が居るだろう」
「ウィッシュが、『上から来る橋頭堡を作ったみたいです』だって」
 上からさらにくる。
「任せろ、ってことか?」
 戦場で迷いは禁物。
 そして戦場で『場』は何よりも重要視される。
――しかし
 まだ二人は魔物を見ていないというのに、何故ウィッシュは的確に指示が出来たのか。
「斬り込みは普通捨てゴマだろ」
「……まあ、な」
 キリエが納得している――いや、しようと努力しているのか?――のを、ユーカ達への信頼に置き換えて。
 ナオは自分の戦場を目指す。
 そこは決して遠い場所ではない。決して明るい場所でもない。
 僅かに前を行くキリエが階段から消える。
 急ぎ跳躍気味に階段を蹴る。みき、と木が割れる時の音が響いた。
 耳が音を聞きわけようとして、妙に過敏になっていく。
 戦場を走る時の特有の身体の変化。
 突然体中の筋肉が熱を発したように、力がみなぎり、それまで見えていた物が遅く感じられて見えない物まで見えてくるような。
 加速する感覚。
 余計な音が消え、敵の声と発する音が耳に、獲物はここだと囁く。
 キリエの背中が再び彼の眼前に入った時――
 ナオも、キリエも、甲高い耳鳴りのような音を聞いたような気がした。
 それは実際の音ではなく、ある種の肉体が発する警報のようなもの。
 同時にキリエは肩から扉に飛びつき、身体全体で扉をぶち破る。
 ばん、と激しく外に向かって開く扉。
 途端に流れ込んでくる大雨、そして塊のような闇。
 それでもなお抑圧するような存在感に振り向き――その巨大な影に気づく。
 二人が飛び込んだ闇の向こう側で、その存在は大きく立ちはだかるように舞い降りてきた。
 嵐の風が吹く中を悠々と羽ばたきながら。
「お、お、お……」
 申し合わせたように散開して両手で斬魔刀を構えながら、風の吹き付ける中降りてくるその影を凝視する。
「な」
 キリエが震えたように声を漏らし、ナオは絶句した。
 人の形をした、異形。
 およそ人間の倍以上の大きさの人影。
 今までに見たことのない――そう、間違いなく、しかしそうと判別するにはあまりにも異形――魔物。
 大雨に濡れて艶やかな肌を光らせるその手足は、人の様な皺はなく、継ぎ目も見えない。
 頭に当たる部分には、首と肩のない頭に当たる部分が存在し、濃淡がひっきりなしに踊っている。
 まるで、出来損ないの人形のように。
 めきりと。
 もし擬音を付けるなら、そんな言葉で言い表すしかない――顔に一文字の線が走り、大きく平らな歯が並んだ口が開く。
 縁は人間を小馬鹿にしたようにめくれ上がり、唇を形作る。
 背中の翼は金属質の光沢を持った鱗のように輝き、鳥というよりはコウモリのようにたわみながら羽ばたいている。
「――天使」
 ぎり、と歯ぎしりしてナオは目の前の異形をそう呼んだ。
 千年以上も前、初代魔王の時代。既に伝説になっている世界と歴史においてそれは存在した。
 天使という名の異形。
 童謡で語られ、口伝で残され、畏怖すべき最悪の存在として既知のもの。
 その最初の光臨は魔王と共にあったとされる。
「――こいつらまだ生きてたのかよ」
 伝説に残る程昔の話なのだ。
 生き残り、そう呼びたくなる程古い魔物だ。そう、ユーカの知識を借りて言うならば『有り得ない』はずの代物。
 魔物の中でも『種族』を構成する魔物は、所謂『雑魚』は魔王の消失と同時に消える。
 つまり今代の魔王が創造しない限り存在し得ない。シーラカンスのように、生き残るという表現はおかしいのだ。
 勿論今の魔王が作ったので有れば何ら不思議はない――のだが。
「馬鹿油断するなっ」

  ず ん

 天使が船の上に落下した。
 着地と言うにはあまりにお粗末で、甲板が陥没し樫で出来た板が簡単に真っ二つに折れて弾ける。
 嫌な甲高い音がして、決して柔らかくないそれらをまき散らしながら、天使の足が再び甲板に降ろされる。

  く はぁぁぁぁあぁあぁあぁ

 大きく裂けた口から白い蒸気を吐いて、目の前の小さな人類に向かって口を大きく吊り上げて――凄絶な笑みを浮かべる。
「うぁあああああっっ」
 我慢ならなかった。
 ナオは地面を蹴り、両腕で思い切り斬魔刀を振りかぶり、取りあえず天使の足目掛けてそれを振り下ろした。
 ひゅか、と空を裂く刃を、天使は苦もなく跳躍してかわす。
 手応えなく宙を滑る刃、その勢いを殺さず踏み込み――一回転。
 思い切り胸を張り、腕を伸ばして、でも、刃はそれでも届かない。
 キリエは案外冷静だった。
 天使の姿それ自体、怖ろしい物ではあったが――何故か、それ以上の何かが彼女を支えていた。
 ナオが雄叫びを上げて突進するのをまるで予想していたように、彼女は身体を真横にスライドさせると、姿勢を低く突進する。
 天使は目を持たない。音、振動などで獲物の場所を感じるのだろうか?
 いや、ともかく――斃す。そのためにはあらゆる手段を行使する。
 自分より巨大な相手を敵に回すならば、機動性を発揮することが一番重要になる。
 逃さない事。逃れること。それが重要なのだ。
 だから彼女は一気に天使の真後ろに走り込むつもりだった。
「!」
 ナオの攻撃を素早い動きで回避した天使。
 跳躍は足の力によるものではなく、彼の翼によるものだった。
 思った以上に、細かい動作を翼で行うことができるようだ。
 そうなれば、大きな体を持っていようとも、地面を走ることしかできない彼女達の方が不利だ。
 機動性を活かした攻撃――そんなもの、機動性が相手より優れていて成り立つものだ。
 そんな小さな絶望に驚いていた矢先、彼女が見つめていた翼が奇妙な動きをした。
 跳躍のためではない、威嚇のような無駄な動き。
――何か――来るっ
 ばさり、と大きく広げられた翼が、一瞬見えなくなった。

  ひゅ か

 視界が幾筋も遮られ、突然回転する。
 違う。
 キリエは全身を打つ衝撃に、自分を襲った銀色の風を理解しようとして。
「――っ」
 別の痛みに思わず声を上げた。
――切れている
 脚、腕、頬。
 明らかに鋭い何かで切り裂いた突き刺す痛みに、彼女は体が起こせなくなっていた。
 ふと見る足元。
 足が、何カ所も切り裂かれていた。
 出血はともかく、これでは力が入らない。転んだのはこの為だろう。
「キリエっ」
 叫ぶナオ。
 彼の目には、天使が翼を、丁度投げナイフを振り上げるような動作をしたのが判った。
 そのまま、無数の刃がキリエに向かったのも。
――勿論、それはキリエだけではなく、ナオ自身にも襲いかかっていた。
 瞼が薄く切り裂かれて、左目が出血で開けられない。
 他、しかし動けないほど重傷ではない。
――負けるか
 彼はさらに一歩、跳躍して天使との間合いを詰める。
 勢いに任せた一振り。

  が いんんん

 それはまるで冗談のように、甲高い音を立てると細かく振動して表面を滑る。
 堅い――まるで鉄か岩のような感触に、反動の衝撃。
 そしてそれをまるでかわすかのように――圧力。
「っ」
 ナオの一撃は、狙い過たず天使のすねを内側から切り裂く形になった。
 しかし、まるで冗談のように堅く、刃が突き立つどころかその表面を滑ってしまい、反撃の天使の蹴りを受けて彼は真後ろに転がっていく。
 甲板の入口にあたる壁に叩きつけられてやっと止まり、彼はそれでも斬魔刀を手放さなかった事を感謝しながら。
 朦朧とする視界がゆっくりと現実に戻るのを、

  多分彼は後悔した。

「キリエーっっ」
 動けないキリエ。
 天使の翼が振り上げられる。
 二度目の洗礼。
 距離は――無理だ、届かない。
 今から斬魔刀を投げたところで、もう振り上げられた天使の翼は止まらない。
 それに。
 奴の口はこちらを向いている。
 笑みを形作ったまま。
 嘲り――否。その生命体にそんな感情があるかどうか。
 だが確かに、ナオはその笑みに悪意を感じて、無理矢理に身体を起こそうとして、そして。

 目の前で、翼は振り下ろされた。

「大概悪趣味だよね」
 だが、天使の背中に生えた四枚の羽の洗礼は、キリエにもナオにも降り注がなかった。
「床を踏み抜いた、キミのミス。全く――こんなところで邪魔されちゃ敵わないから。“ストームブリンガー”」
 声は、天使が踏み抜いた足跡から――甲板の大きな穴から聞こえてきた。
 ふわり、とその穴からでてくる人影。
 これだけの大嵐の中で、不自然にゆらゆらと揺らめく長い髪を纏わせるウィッシュだった。
「大丈夫?」
 天使は羽を大きく後ろにたわませたまま動けなくなっていた。
 理由は判らないが――いや、空中で何かが光っているのが見える。
「ウィッシュ……」
 彼女はすぐ側に倒れるキリエを抱きかかえて、ナオの所まで下がる。
「傷は深くないよ」
 ナオに伝え、くるりと天使の方に振り向く。
「ウィッシュ」
「援護に来ましたー、と言えば恰好良いんですけど」
 ちらり、と背中にいるナオの方を向き、にこっと笑う。
「私も、この魔物には少なからず因縁があるんですよ」
 個人的な、と付け加えると彼女は右手を人差し指と中指だけ立てて、掌を天使に向ける。
「『縛』」
 同時。
 それが偶然だったのか、魔法だったのかを理解するよりも早く、空気を震わせる轟音。
 暗転する世界。
 いきなり天使が発光したように、それはすさまじい光に呑まれた。
 落雷だろう、聞いたことのない悲鳴が上がる。
 嫌な、肉の焦げるにおいがした。
 みしみしという音がして、天使の影がうずくまる。
「とりあえず、これで一匹捕らえたからね」
 こんな物では、この程度では死なない。
 ウィッシュはそれを良く知っている。

  だがそれでも 認識は甘かった

 ナオは、倒れたキリエを横抱きにするように、彼女を支えている。
「はは、面目ねぇ」
 油断していた、と後悔するよりも安堵と『生きている』嬉しさの方が勝っていた。
 痛みに顔をしかめていても、何処か嬉しそうだ。
「逃げるか?」
 しかし、ナオは逆に悔しそうな顔でそう聞いた。
 助けられなかった――すぐそばにいながら。
 勿論死んだ訳じゃない、でも。
 血に塗れて苦笑する彼女は彼にとって拷問にも近いものだった。
 喩え彼女がなんと言おうと、彼は自分を責めるしかない。
「まさか、と言いたいけど」
 ここは海上。
 逃げ場はない。
「……正直、足手まといにしかならないから」
 彼はウィッシュが魔術で足止めしているうちに、と懐から布を取り出して彼女の足に巻き始める。
 よく見れば彼女の太股とふくらはぎには親指の先ぐらいの幅で数カ所の切り傷のようなものがあった。
 それは見事に彼女の足の真裏まで届いている。
「足の感覚は大丈夫か?」
「指まできちんとあるよ」
 布を巻き付けながら、骨にも異常がないことを確認して少し安堵する。
「こら、スケベ臭いぞ」
 くすくすと笑うキリエに、ぎりっと睨み付ける。
「もう少し色気ぇ出してから言え馬鹿」
 纏足のようにきつめに布を巻き終えて、端を紐のようにして縛り付けると彼は立ち上がった。
「立てるか?」
 キリエは自分の足に力を入れてみて、思ったより力を加えられる事に安心して身体を起こしてみる。
「――歩けるぐらい、かな」
 その時。
 天使の叫び声が上がった。
 それまでの戦闘の声ではない。先程の悲鳴でもない。
「ウィッシュっ」
 彼女は油断していたというのだろうか。
 既に長い髪が波打ち、『髪』を針状に変えた武器で天使を縫いつけて、間違いのない勝利を確信していた。
 動きを封じてしまえば、弱るのを待つだけだからだ。
「まお様?!」
 殆どの感覚器官が普通の生物とは大きく異なるこの生命体でも、言葉で会話する。
 悲鳴ではない声、それは確かに仲間に合図する為の声だ。
「――しまった、この二匹が『斬り込み役』!」
 甲高く鳴く天使の声は、獲物を捉える為の本能が発するものだった。


「上から来る橋頭堡を作ったみたいです」
 飛び出したナオを追え、とキリエに指示して、困惑するキリエの顔を覗き込むように笑みを浮かべる。
「私とヴィッツ、まお様にはユーカさんがいますから」
 にっこり。
 未知数とは言え、この状況で冷静に判断した上、掛け値のない笑みを向けられれば信じるしかない。
 キリエは頷いて、ナオの後を追って駆け抜けた。
「――さてウィッシュ」
 ユーカは既に臨戦態勢を整えていた。
 魔術使いが戦いに直接赴くことは稀である。
 何故ならば、体術を収得した魔術師などこの世には居ないからだ。
 そもそも数がやたらと少ない魔術師が、どうして身体を鍛えているのだろうか。
 戦うことなど考えていないと言うのに。
「斬り込み役は、集中砲火を受けて終わり。むしろその後の先頭が来る事を先読みして抑えなければ」
 このメンバーの中で最も戦闘力があると言えるのはむしろまおであるが。
 ちらり、とまおを見ると困惑した表情を浮かべておどおどしている。
「私が盾になって直接魔物を封じます。ユーカさんはサポート、クガさんはまお様を。ヴィッツ、一緒に行きましょう」
「うん」
 てきぱきと指示を与えるウィッシュに、ユーカはかけた言葉を継ぐタイミングを失していた。
「何か?」
 だから、ひょいと顔を向けて来た彼女に思わず吹き出した。
「こんな時に、余裕だな」
「余裕なんて。アレを狩れるのは正直、久々だか、ですから」
 慌てて言い直して、てへりと舌を出す。
 ユーカは口を歪めて笑みを見せる。
「猫を被るのは良いが、手を抜いて戦われては困るな」
「ふふ、それはないですから安心して下さいな」

  ざかっ

 廊下に出ると、叩きつける雨音と、明らかに人間ではない声が響いていた。
 何の躊躇いもなく早足でその声に近づき、破壊された壁を超える。
 ヴィッツは彼女の後ろで、やはり怖いモノもないような貌で続く。
 ウィッシュのその行動が、狩り慣れた狩人のようでもあり、また初めから何もかも判っているようにも見えた。
 だからユーカは、一つの疑問が浮かんで改めて自分の装備を確認する。
 右手、掌の方へ命の雫の欠片。
 甲には言霊を刻んだ飾り布。
 ウィッシュの手袋とは異なり、こちらは即席魔術を撃つ代物だ。
 万能でもなければ破壊力があるわけではない。ただ衝撃波が発生するだけだ。
 それに耐えるための呪いも施してある為に、彼女の腕が弾け飛ぶ事はない。
 但しコントロールを間違えれば肘から先を持っていかれることだろう。
 布に刻む言霊を変えれば、撃てる魔術も変わってくる。
 このアミュレットは、身を護るためのモノだ。
――何者なんだ、あの女は
 しかしどう見てもあのウィッシュの装備は、『魔術』を行使する為のものだ。
 決して強力な魔術が施されていたり、彼女のアミュレットのように魔物から身を護る事ができる代物ではない。
 余程の自信家か、もしくは馬鹿か。
「最近の錬金術師は、みんな殴り屋だな」
 彼女が裂けた船体に足を触れた時、悲鳴が上がった。
 覗き込むと。
 ウィッシュのゆらゆらと揺れる髪の向こう側は、闇だった。
 いや。
 真っ黒い髪に覆われた世界に変わっていた。
「これで大丈夫」
 そう言って振り向くウィッシュの向こう側、それは、彼女の髪で全身を床と天井と壁に縫い止められた、哀れな白い姿だった。
 指先が痙攣している。まだ生きている。
 あまりに手際の良い、そして徹底して完璧な拘束。
 髪の毛を媒体とし、それを金属以上の硬度に変質させた。
 ウィッシュの特異さはその髪にある。
 彼女の意志で好きなだけ伸びて、自由に扱うことのできる『髪の毛』。
 そもそも魔物として特殊な戦術目的に作られた彼女独特の戦闘能力だ。
 潜入してピンポイントに暗殺などの工作を行うのが主任務の彼女はまおから完全に独立している。
 目の前の天使は彼女にとって、許せない存在なのだ。
――キミみたいのがボクと同じだなんてね
「でも、見張ってて下さい。ヴィッツも良いよね。いざとなればがつんとやっちゃって」
 にっこりと物騒な事を言い、ついと頭を上げる。
「ナオ達に加勢するのか」
「こいつらだったら、きっと二人の手には負えませんから」
 急がないと二人が危ない。
「ヴィッツも居ますから、ユーカさんなら大丈夫ですよね。お任せします」
「そう、二人をよろしく」
 無言で頷くヴィッツに、くるり、と背を向けて上に向かうウィッシュ。
 彼女はつい、と天井を見上げて。
 ユーカは彼女が駆けだしていくのを見送ると、もう一度白いものを見た。
 もう指先の痙攣もなく、完全に沈黙している。
――これが、嵐を呼ぶ魔物の正体
 ぬめりのある光沢、どう見ても人間の身体のような姿。
 彼女の目の前に差し出された指は、むしろミチノリの手袋のようでもある。
「天使、か」
 ぴくん。
 指が、まるで彼女の言葉に応えるように動いた。
 ユーカはしゃがみこんで直接触れてみる。
 髪の毛は、まるで細い金属製のワイヤーの様に堅く、弦のように甲高い音を立てる。
 天使の肌に触れた彼女は驚愕に目を見開いた。それでもどこか眠たそうな貌だが。
――堅い、それもこれは……
 今までに一度も触れたことのないような堅さで、まるで岩石に触れているような錯覚を憶える程。
 これが自在に動いている事が信じられない。
 ユーカはぐるりと部屋を一周してみて、半壊した部屋の床全面に縫い止められた姿を眺める。
 生命体というには不自然なこの『天使』を、いかなる手段をもって拘束するのか。
 ウィッシュの髪の毛に触れて、完全に拘束された天使の無害さを確認して。
――とんでもない事だな
「うわぁ……これ」
「まお様」
 まおの声に、彼女は振り向いた。
「お前達」
 いつの間にか、彼女の後ろにまおとミチノリが居た。
 まおの真後ろで、まるで抱きしめるように彼女に腕を回すミチノリ。
 何時からそこにいたのか。じっと天使を見つめている。
「だって、帰ってぇこなぁいんだもぉん」
 まおの不安そうな貌を見て、ミチノリの言葉に苦笑すると軽く会釈するように頭を下げる。
「それはすまなかった。私は無事だ。ウィッシュは手伝いに行った」
 その言葉にミチノリもにこりと笑みを湛えると小首を傾げて。
「もしぃ、大丈夫ならぁ」
 くい、と人差し指を立ててミチノリはちらりと上を見る。
「私は構いません。この程度の魔物なら手助けは不要」
 と言いながら、ちらりと視線を向けるヴィッツ。
 視線を合わせたユーカは小さく頷くとミチノリに目を向けて応える。
「……ああ、良いぞ」
 こくり、と頷いてまおの背中を押すと、くるりと振り返るまおに手を振って、彼はぱたぱたと上へ向かう。
 不安げに目を天使へ戻すまお。
 まおは、ウィッシュの髪の毛で完全に縫い止められた天使の姿を見て、眉を寄せて居る。
――なんだろ、これ
 覚えがない。
 彼女にとって、この『天使』は覚えのない魔物だ。

  魔王が、知らない――魔物。

 魔物ではない?
 まおの不安そうな貌を見て、ユーカは彼女を懐に引き寄せる。
「大丈夫」
 いや、違う。
 まおは口を開こうとして、何を言って良いか判らなくて何も言えなくなる。
 少なくともこの魔物を創造した記憶はない。
 それが喩え過去の自分の記憶と照らしても、だ。
 ゆっくり触れようと手を伸ばす彼女を、きゅと抱きしめてそれを止める。
「魔物には触れるな。近寄るな。何があるか判らない」
「う……」
 反論出来ず、でも視線を外せない。
 ただ、じっと、ゆっくり見つめる。
 髪の毛の森の向こう側、幾つも張り巡らされた細く鋭い繊維の壁の向こうに、人影のように姿が浮かび上がってくる。
 大きさだけならまおの倍以上。
 勿論、その程度の魔物で有れば、喩え彼女に襲いかかったとしても気になるほどではない。
 ひとひねり、である。

  ぎょろり

 恐怖というのは。
「っ」
 力量の差から来るモノではない。
 絶対的な『未知』が、『既知』と一切を異にする事が、判らないと言う事が恐怖と怒りを産む。

  ひぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいいいいんんんん……

「な、何だこれはっ」
 二人は慌てて自分の耳を塞いでその場にしゃがみこんでしまう。
 まおは思わず天使から目を背けて。
 突然空間を切り裂いたその音波は、しかしヴィッツは意に介さず目を丸くして立ち竦んでいた。
「――何故」
 驚きに目を見開いて。

――捕獲対象……発見、集結、集結、集結集結集結集集集

 轟。
 拘束されたはずの翼が音を立てて開き、局地的な圧力を産む。
 空気を切り裂く音を立てて、光の粉が舞った。
「何」
 丁度その時、ミチノリが扉をくぐったところだった。
 彼の視界の中で、ウィッシュの向こう側で何かが弾けるのが見えた。
「無茶を」
 ウィッシュが一歩退いて術の準備を開始する。
 その間にキリエを遮るようにしてナオが立っている。
 彼はひょこひょことキリエの側まで向かう。
「ウィッシュっ、何だ今のはっ」
「仲間を呼びました、すぐ……」
 ウィッシュが言葉を継ぐよりも早く、四周を取り囲む重圧感が『発生』する。
 と、同時に、まるで空間をくりぬくようにして、球体が突如顕れ――
 球体の表面を濡らすようにして、舐める光の揺らぎが、形作る球体をかき消しながら、その影からゆらりと――
 両腕両脚を折り畳んだ形の天使が、産み落とされる。
 一、二、三。
 ぽとり、ぽとりと水滴を落とすようにして、それが船目掛けて落下する。

  ばきゃん ばりばり がり

 幾つかは船をそれて水面を叩き、そのまま沈んでしまうが、甲板上に落下した個体は全身を軋ませて身体を起こし始める。
「何だよ、何だってんだよ一体っ」
 地獄絵図は、まだ始まったばかりだった。
 ざか、ざかっと地面を蹴る音。
 既に天使の発生は止まっているが、海に落ちた天使達がどう動くのかが判らない。
 少なく見積もっても、目の前の三体を含め八を数える天使を相手に、無傷でいられるはずはない。
 ナオの脳裏にかすめる絶望。
「こら」
 ずい、と前に出ようとするキリエを右腕で制する。
 すると不機嫌そうに彼女はナオを睨み付ける。
「なんだよ」
「お前が前に出るな、馬鹿」
 ぎり、と強い目でキリエはナオを睨み付ける。
「お前は俺の背中に居てくれないと、……」
 少し困った。
 正直な話として、彼女の脚の状態では歩く程度しか出来ない。
 剣を振り回して戦えるような状況ではない。
 でも多分、彼女の事だ。正直に言えば間違いなく口を尖らせて『やれる』と言うはず。
「正直、その、困る」
 困った挙げ句、彼は自分の気持ちを正直に言うしかなかった。
――なんで困るんだーって、突っ込まれたら終わりだー
 ちょっとどきどきしながら、どもりつつ言う。
 すると、何故かキリエは目を大きく見開いて、そして、ぎこちなく口元を歪めた。
「そ、そうか」
 そしてそれしか言わなかった。
 それはナオにとっては意外だったし、何よりどうしてなのか判らなかった。
 キリエはキリエで、まさかナオがそんな言葉を吐くとは思っていなくて、やっぱりどきどきしてたりする。
――そうだよ、俺は、ナオの背中を守れるんだ
 ぷいと顔を背けた彼の背を見つめて、嬉しそうに目を閉じて両手で剣を握りしめる。
「じゃ俺は」
 行くから。
 ナオはそう言うつもりだった。
 勿論、キリエは甲板入口まで戻らせるつもりで。
「いぃよぉぉ、キリちゃんの治療すまぁせちゃぁうからぁ」
 振り返った彼の目の前で、相変わらず巨大な手袋でキリエを真後ろから抱きしめる彼の姿を見るまでは。
「こ、こらっ」
 キリエは顔を真っ赤にして、斬魔刀を振り上げようとする。
 ちなみに全く悪気はない。本気でミチノリを殺そうと思っている。今は。
「あー」
 彼女を頬ずりするミチノリの目が、一瞬ナオを見つめて真摯な光を点した。
「すぐ動けるようにするから」
 次の瞬間には、またにたにたと笑いながらキリエに自分の頬を押しつけていたが。
 彼の治療は確実で確かだ。
 骨にも神経にも至っていない傷だから、跡さえ気を付ければ元通りになるだろう。
 ナオはにっと笑い、左手で親指を立てると天使を振り仰いだ。
「任せる」
「あぁいー」
 そして甲板を蹴った。
 木製の甲板の上は、雨を弾いてしまっていて、非常に滑りやすい状況になっている。
 表面に塗り固められたべっこう色の防水防腐処置を施しているからだ。
 それが、ゆらりゆらりと動く。
 戦うにはあまりに危険で、不安定な状況。
「気を付けてよっ」
 身動きとれない彼女は、飛ぶように天使に向かう彼に叫ぶ事しかできなかった。

 部屋の中には翼だったモノの残骸が散らばり、しなやかで破壊できない髪の毛の檻の中で、天使だったモノが横たわっている。
 息絶えた。
 そもそも生きているかどうかも不思議な魔物だが、どうやら普通の生命体に近いようだ。
 血は流れていないようだが。
「逃げましょう」
 ヴィッツが悲鳴のように叫んだ。
「どこに。ヴィッツ、ここは海の上、それも大嵐の中だ。脱出艇ではとても助からない」
「そんなもの、魔術でどうにか」
「できるなら初めから言わない。――魔術というのはそんなに便利で万能な訳ではないのだ」
 ヴィッツは上目遣いに睨み付けながら黙り込む。
「その。ウィッシュと一緒にしないでもらいたい。彼女は或る意味――別格のようだが」
 ヴィッツはじっと彼女を見つめていたが、くるりとまおの方を見る。
 まおは頭を抱えたまま、がたがた震えている。
 むしろ普通の行動だろう。
「動かない方がいい。これだけ巨大な船であれば、もしかしたら助かる可能性が高い」
「だったらシコクから無事に出られるはずでしょっ!」
 ヴィッツが半ば切れかけたように裏声で叫ぶ。
「シコクに入ることはできるのかも知れないが。……情報が入らないので判らないな」
 出られるのかどうかは。彼女はその言葉を敢えて紡ぐつもりにはなれなかった。
 ユーカが言葉を継いだ時、船体が大きく傾いだ。
 まるで何か巨大なモノが飛び乗ったような不自然な揺れ方だ。
 二人は顔を見合わせると、まおを見て頷いた。
「上に加勢に行きましょう」
「さっさと退けて嵐を回避した方が早い」
 ユーカはまおの背をとんとんと軽く叩いて、支え起こすと彼女を促しながら上へと向かった。
 戦いに参加できるかどうか、そんな事を考えることもなく。
 特等船室は、既に廊下まで深刻なダメージが与えられていた。
 外での戦いの激しさを物語るように、亀裂からどしゃぶりの雨がたたき込まれている。
 ただその場所に立っているだけで全身濡れ鼠になりそうな程の水だ。
「うわ」
 ユーカ、ヴィッツ、まおの順に外に出ると、まおは顔を叩く雨に悲鳴を上げた。
「キリエ」
「ユーカ、それにまおとヴィッツ」
 まだミチノリに背中から抱きしめられるような恰好のキリエが、首だけ彼女らに向けて名前を呼んだ。
 彼女は、丁度出口すぐ側でへたり込むようにして壁に身体を預けていた。
「下はもう終わったけど」
 ユーカはキリエの顔を見て言うと、前を見て目を閉じた。
 小さなため息に続いて、肩をすくめる。
「こっちは、もうダメかもね」
 キリエが自虐的に笑いながら言う。
 天使に斬りかかるナオと、彼の後ろからなにやら魔術を行使しようとしているウィッシュが居る。
 それだけ見れば、確かに――不利。
 あからさまに不利。
「大丈ぉ夫ぅだぁあよぉ」
 八割り増しのんびりした口調で、きゅと彼女を抱きしめる力を強める。
 勿論、動けない状態は変わらない。
「すぐになぉしてぇあげるかぁら」

  どんっ

 ユーカに理解できたのは、床が眼前に迫ってくる映像だけだった。
 何が起こったのか判らない。ただいきなり身体が、足下から後ろに引きずられるようにしてバランスが崩れた。
 その時大きな音がして、彼女が倒れたのではなく船首が叩かれたように持ち上がっていたのだ。
 危険な音が、一帯に響く。
 悲鳴、驚き――そして、それが為に反応が遅れる。
 有り得ない動きに、理解できなかった。
 まさか、それが。

 海中からの、天使の船に対する攻撃だとは。

「――!」
 滑りやすくなった甲板の上を、船尾に向かって滑っていく。
 甲板の三体の天使は、その勢いで既に海上に投げ出されて。
「っ」
 背中に走った衝撃。
 滑った先に運良く特等船室の出口があったのだ。
 強かに背中を打ち付けて、ちかちかする視界の向こう側、キリエが床を蹴るのが見えた。
――ナオっ
 キリエと壁に圧迫されて一瞬気が遠くなったミチノリは、思いがけずキリエを解放していた。
 彼女の視界には、真っ直ぐ穹に向かって持ち上げられて床から投げ出されるナオが映っていた。
 迷わなかった。
 気が付けば、地面を蹴って宙に舞い。
 穹――海に向けて投げ出されたナオ目掛けて、彼女は自分で身を投げ出していた。
「馬鹿、どうしてっ」
 特等船室入口の御陰でそれ以上の落下が止まったユーカは、二人に手を伸ばした。
 だが届かない。
 全力で地面を蹴った彼女と、投げ出されたナオは剣一本分以上遠くの空中を舞っていた。
 無情にも、彼女にそれ以上彼らを救う術はなかった。
「っっ!」
 いきなり持ち上がった地面に慌てて伏せたウィッシュが振り向いた先。
 投げ出された天使に追いかけられるように、海面に向けて落下していくナオとキリエ。
 そして、船尾に向けて止まらない前転を繰り返すまおが見えた。
 自分も堪えきれず滑り落ちていく。
「まだっ、間に合えっ」
 叫ぶとウィッシュは自分の髪の毛を数本纏めて抜くと一瞬精神を集中させる。
『堅』
 それを、天使を縫いつけた時のように硬化させて両手に構える。
 フユとの戦闘時にも使った『毛針』である。
 そして床に対して垂直に『立ち上がる』と船尾に向かって駆け出す。
 加速的に落下しながら、落ちていく二人を追いかける。
「――――っ!」
 もう少し早ければ対応できたかも知れない。
 ウィッシュの髪の毛が伸びる速度では間に合わない。
 落ちる二人に追いつけない。

 迫る海面。

『堅』
 彼女が自分の髪を最大限に伸ばしながら、受け止めようと作ったゆりかごの向こう側に二人の姿が吸い込まれていく。
 と、同時。
 船が、浮力により元の体勢に――行き過ぎて逆方向に傾く。
「ナオーっっ」
 唐突に勢いを殺されて、ウィッシュは再び床にたたきつけられる。
 既に気を失っているまおは、回転する勢いのまま、船尾からはじき出されてしまう。
「まお様っ」
 そしてウィッシュは、そこで気を失った。


 穏やかな、嵐があったことなど嘘のような天気。
 かろうじて、ガレー船は沈没を免れたのか、ユーカとウィッシュは鋭い日差しに目が醒めた。
 甲板に差し込む朝日を見て、船が沈まなかったこと、そして自分達が無事だった事を確かめて身体を起こした。
 周囲は無茶苦茶だった。
 甲板は割れ、めくれ、その破片があちこちに散っていて、こうして浮いているのが不思議に思えるような破壊の跡である。
 ユーカが立ち上がったのが見えて、ウィッシュは彼女の側に近寄ってきた。
「無事、みたいだな」
 ユーカの言葉に苦笑いするウィッシュ。そして、声を出そうとした彼女の隣から、特等船室入口を開いて姿を現す。
「……ヴィッツ」
「ミチノリ、お前」
 扉を開けたのは、ヴィッツを抱きかかえたミチノリだった。
 彼も服はよれよれになっていて、貌も何処か草臥れている。
 それでも笑顔は絶やさない――それが喩え痛々しく見えたとしても。
「危ぅくぅ、下まで落ちそぅだったよぉ。おくの階段まで転がぁっちゃぁってぇえ」
 ユーカより先に特等船室の入口から転がり込んでしまったらしい。
 運が良かったのは、扉が開いていたことか。ここの扉は外向きに開くような構造で、外で固定できる。
 ユーカが背を打ったのは、この扉だったのだ。
「目が醒めたらぁ」
 とヴィッツを差し出すように見せる。
「この娘ぉ、側に倒れててぇ。怪我はないよぉ」
 ユーカ、ウィッシュ、ヴィッツ、そしてミチノリ。
「……キリエとナオは」
 ユーカはウィッシュに目を向ける。彼女は無言で首を振る。
「判らないですね。まお様も勢いよく海に落ちてしまいました」
 冗談というか、笑える笑いたくない状況で。
 一人大車輪状態で甲板を転がっていたのだ。状況が違えば笑うところだろうか。
「だから、多分私達は無事でいられたんです」
 ウィッシュは珍しく顔をしかめ、ユーカは悔しそうに歯がみして肩を震わせた。
――私が、あの二人を呼んだせいで――
「だいじょぉうぶ」
 ぴと。
 抱きかかえたまま、ミチノリはユーカのすぐ側に身体を寄せる。
「だいじょぉぶだよぉ。きっと。だいぢょぶだいぢょぶ」
「お前、いつもそうやって根拠のない……」
「根拠が必要ですか。安心に理由はあっても根拠は大切ですか?」
 きっと目をつり上げて向けた視線は、柔らかい笑みを捉えた。
 ウィッシュはにっこりと笑っている。
「失礼ですが、ユーカさん。魔術師なら、もっと感情の動きに注意を払って、大切にしなければなりませんよ」
 今の貴方は、そんな感情の動きが感じられていない。
 ウィッシュの目を睨み付けていた彼女の顔から僅かに険が消える。
 いつの間にかミチノリの腕が、彼女の背中に回っている。
「キリちゃんもぉ、ナオちゃんもぉ、泳げるんだよぉ。嵐の中だってだいじょぉぶにきまーってるぅんじゃないのぉ」
 ぎゅ。
 ぴとり。
「あー。判った。判ったからミチノリ、離れろ」
「えー」
「他の女を抱きしめてるまま私を抱くな」
 にひ。
「あーっ、しっとしてぶふぁ」
 本気の拳がミチノリの左頬に入った。
 容赦なく。
 ウィッシュはくすくすと笑って、ユーカは彼女の笑顔につられて笑みを浮かべる。
「すまない。論理的に物事を考えるのは得意だが、それ以上はまだできないのだ」
「本当に鈍い人ですね。それとも、真っ正直に自分の意志でなければ動きたくないくちですか」
「くちだな」
 そして、二人は声を出して笑った。
「うぅう……ゆぅちゃんひどぉい……」
 一人頬をさするミチノリだった。
「お前は」
 ユーカの言葉に、ウィッシュは草臥れたような頬の歪め方をして笑い、視線を海上に向ける。
「まお様は、あれでも魔術の師であると言ったはずです。――死にはしません。信じています」
 彼女は返事を返してユーカを見つめた。
「それが正しい姿だと思いますが」
 ユーカは応えなかった。
 彼女の言葉に反論も、肯定もできなかった。

 天使の疵痕を残したガレーは、そのまま潮の流れにのってシコクへと到着した。
 シコク周辺の海流の流れは、その殆どがシコクに向かっているらしいのだ。
 つまり、流された人間も溺れて死なない限りそこへと流れ着くと言われていた。
 それがそれから半日もしないうちに見えてきた島影だった。
「シコクだ。あれは」
「アレはトクシマですね。金属製の尖塔が見えます」
 ウィッシュが、ユーカの言葉を継いだ。
「多分カガワから捕獲船が出てくるだろう。このままトクシマまで流れれば楽なんだが」
 シコクに向かう船が嵐に遭わなかった場合、本来の上陸地であるカガワのタカマツ港へと向かうはずだ。
「うーん。このまま魔物の巣に突っ込んで勝てるとお思い?」
 ウィッシュの言葉に、ユーカは眉を寄せる。
「しかし、タカマツならまだしも……」
 マルガメと呼ばれる地名がある。こちらには軍港が存在する。
 勿論それは表向きであり、実質の支配者である盗賊ギルドのマスターが牛耳る裏の港なのだ。
 天使が発生し襲われる事があるとはいえ、それは必ずではない。
 だがガレーシップは嵐に脆く、絶対天使の襲撃には耐えられない。
 高価であるが特殊な潜行艇を使い、高速且つ水中を走ることができるなら、密輸・人身売買で充分にお釣りが来る世界なのである。
「場合によっては、途中で降りますか?」
 ウィッシュが悪戯っぽく笑う。
 ヴィッツはそんな彼女の袖にしがみつくようにして、ぎゅっと身体を寄せる。
「同じ人間に攻撃するのは気が引ける」
 ユーカはもし彼らが来るとしても、手に掛けるつもりはない。
 何らかの手がかりが得られるだろうし、彼女は有る程度対抗する術を持っている。
「……優しすぎる気がしますが」
 何故かヴィッツは彼女を睨み、ウィッシュは苦笑して応えて。
「ユーカさんの言うとおりでしょう。ボクはユーカさんのそんなところ、好きですね」
 ミチノリが何か言おうと、置いてけぼりで寂しそうな顔をしているのを、ユーカは横から抱きしめた。
 戸惑うようにユーカを見ながら、ぽてりと頭を彼女の肩に載せる。
「まおも無事なら良いが」
「あの方なら、絶対大丈夫。多分、どこかその辺にでも打ち上げられて『おなかすいたー』って言ってますから」
 それはほぼ確信だった。
 まおは溺れて死ぬようなことはない。まして魔王である。ちょっとだけ心配だけど。

 すこし、時間を戻そう。
 着水。
 唐突に全身が濡れたわけではない。既に大雨によって体は冷え切っていた。
 ぱしん、という水面で体を叩いた感触、それがただあっただけだ。
 全身を包み込んでくる暗い色の水。
 指先に捉える、先に落ちていった者の体。
 彼女は、全身がブレーキのようにまとわりつく海に抵抗するように、彼に向かって腕を伸ばした。
 それがするりと避けられて――いや、彼は何かが当たる感触に、背中側を見ようと体を回したのだ。
――キリエ、お前
 ナオは、遙か遠い水面から差し込む光に、見覚えのある人影が自分の目の前にいる事に気づく。
 今背中に触れたものが彼女の手だったと、判る。
 キリエの顔が歪む。
――馬鹿
 まるで地面を蹴るようにして、ナオは彼女に体を寄せて右腕で抱えるように彼女を捕まえると、水面に向けて泳いだ。
 水面に向かうまでの僅かな時間、何故か妙に長く感じられる。
 ただ二人きりになってしまったかのような暗闇、冷たく包み込んでくる水温。
 呼吸を抑えていると、頭痛と共に意識も失われてしまいそうになる。
 ごぽり、と口から空気がこぼれて。
 彼女の指先が、求めた彼に届いているのに。
 ただ力無く垂れ下がっていた。
「ふはっ」
 水面を抜けると、大きく揺れる海面の向こう側にガレーシップがあった。
 天使の姿は――見えない。判らない。
「キリエ、お前なんで一緒に落ちてるんだよっ」
 甲板がいきなり浮かび上がって、海面に向けて投げ出されたことには気づいた。
 落下していく中、甲板から手を伸ばしてくるウィッシュとユーカは判ったが、他のメンバーは見えなかった。
 もしかして一緒に落ちたのかも知れない。
「他の奴ら――」
 キリエはすまなそうな顔を――いや、悔しそうな、泣きそうな顔でナオの腕の中で縮こまっている。
 海中から出た彼女の両手は、ただナオの胸元にしがみつくだけで何も語らない。
 びしゃびしゃで額に張り付いた前髪は彼女の細かい表情を隠してしまっていて。
 夜の暗闇も合わせて、彼女が何を考えているのかナオには理解できなかった。
 だからそれ以上何も言わず、そのまま嵐の中を漂っていた。
――このままでは、やばいよな
 二人分を、ここからシコクまで泳ぎ切る体力はない。
 何とかしてガレーに上りたい。上らなければ生き残れない。
「――く」
 しかし、ガレーはどんどん離れていく。
 周囲の波の立ち方を見れば、相当の速度で走っているのが判る。
 人間では追いつけないだろう。
――何でこんな時に
 まだいぬむすめエンジンは充分に動いているようだ。嵐が、天使の襲撃が始まる前から動いているはずだから、当分止まることはないだろう。
「キリエ、泳げるか?」
 胸元から見上げる彼女。
 どこか怯えたような貌で、ゆっくり力無く頭を振る。
「脚が、思ったより動かないから」
「…………。お前なぁ」
 絶体絶命のピンチ。

 その日の朝は良く晴れていた。
 ここシコクの天気がいつも悪い訳ではないが、朝日は昨晩の嵐の雲を被っていて酷く暗かったように見えた。
 だからだろう。
 いつもの朝の時間には雲一つない白い蒼穹に、まだ低い朝日が黄色い光を放っていた。
 じゃり、じゃりという汚く濁った砂の音を聞きながら、日課の散歩を続ける。
 どうして砂がこんな音を立てるのだろう。
 男はそう思った。
 女はそれが当たり前だった。
「グザイ、いつもこの海岸ではそんな貌をしますのね」
 女は、それもいつものことなのに、聞いてみる。
 何度目の質問だろうか。
 グザイは年下の彼女に、いつものように表情のない貌を見せて言う。
「姫君。グザイは、いつも思うのです。何故この海岸は古いままなのだろうかと」
 姫君。彼女は――シータという。
 黄金色の天然の巻き毛をした、赤い瞳の少女。
 もしドレスに着飾れば、本当の姫にも見えるだろう美少女だ。
 手足が細く、作業着のような上下から覗く白い四肢は子供のようにも見える。
「?グザイ、旧いというのはこの海岸の事ですの?」
 彼女は言っている意味が判らない、という感じに返すとグザイはついと目を細める。
 しかし彼の表情はやはり無機質で、何故か感情の欠片も感じられない。
 ただ人形が貌の姿を変えただけ。そんな印象を与える。
 こちらは黒い草臥れた作業着で、少なくとも四十代の男。
「ええ、姫君。姫はご存じないかも知れませんが」
 グザイは年老いた貌を歪める。それは孫を見る貌のようでも、僅かな寂しさを感じさせる貌でもある。
「もうこんな汚れた海岸は、ここトクシマにしかありませぬ。ここだけは完全に再現されておりますな」
 グザイにとってそれは良いことなのか、悪いことなのか。
 言ってから目を向ける海岸線は、彼の記憶から寸分も違わない。
 いや――妙なモノが目に入って、思わず立ち止まってしまう。
「どうし――?」
 シータもそれを見た。
 波打ち際で、自分の膝を抱えて座り込む一人の少女の姿を。
「どうします」
「大丈夫ですわ。いざとなればお願いしますわ。よろしくて?」
 シータが安全靴で砂をけ飛ばすと、グザイは恭しく頭を下げて彼女の後ろに着く。
 ざくざく、と立てる足音に少女は振り向いた。
 嬉しそうな子供の、勢いの良さでそのまま立ち上がる。
「わーっわ、わわわーっっ」
 そして、とてとてとてと砂浜を走って、ぽてりとシータの前で転ぶ。
「あ」
 じわり。
 思わず駆け寄って、彼女は女の子を起こしてやる。
「大丈夫ですわ、ケガはありませんから。痛いところもありませんわ」
 少し早口で、まるで言い聞かせるように彼女は言って、泣きそうな貌を見せる少女をなだめる。
「い、いたいけど」
「気のせいですわ。痛くなんか、転んだぐらいではケガもありませんから」
 そして振り向いて、グザイに言う。
「すぐに運びなさい。メディカルチェックを」
「は」

 少女には記憶はなかった。
 何があったのか、何が起こったのか、取りあえず自分の着ている服ぐらいは理解できたが。
 名前も判らない。自分がなんと呼ばれていたのか。
 判るのは、今ここにある妙な不安。
 側に誰かがいない不安より、その誰かがどうにかなっている――そんな不安。
 何か大変なことになっている。
 何故。
 どうして自分がここにいて。
 そして誰もここにいないのだろうか。
「ぐすん」
 悲しくなった。
 でも、とりあえずどうしていいかわからなくて、そのまま座り込んでいた。
 気がつくと朝だった。
「じつはけっこーそんなかんじ」
「……のー天気な……方ですのね」
 記憶がないというのに。
 話を聞きながら、何と言葉をかけるべきか困ったシータは呟きながら額をもんだ。
 あっけらかんとしている。
 これでは慰めて良いのかどうするべきなのか判らない。
 グザイに目を向けても、彼も首を振るだけ。
 ほぅ。
 ため息をついて、シータは考えた。
 今は朝の六時。
 いつも通りの時刻だ。
「グザイ、朝食の準備。いつもより一人分多く」
「かしこまりましてございます」
 何があったとしても。
 まだ目覚めぬ彼の為に、いつもの日常を送るべきだ。
 彼女はそれを選択した。

 ぱらりぱらり。
 たとえばそう。100年ほど前。
「そうそう、このとき初めて生きたカエルを目の当たりにして泣き出したんでしたっけ」
 まだまだ初々しいまおが、ぺたりと泣き叫ぶ写真。
「意外でしたなぁ、あの陛下が、『こんな物をたべてる奴らなんか消しちゃえ』までおっしゃって」
 くすくす。
 何故か至極の笑みが浮かぶ。
「その後カエル料理を食べさせようとした時のあわてぶりなぞ」
 ぱらりお。
 そこには、顔を真っ赤にして拳を振り上げるまおの姿。
「ふざけるなー、そんなものくぅかー、でしたよね、魔王陛下」
 誰もいない執務室。
 誰も入れない執務室。
 ただひとり、そう、今では彼専用になった執務室の中央で、アルバムを片手にマジェストがくすくす笑い続けている。
 もっともその内容は、自分がいかにしてまおをいぢめたかという記録ばかりなのだが。
 なにせ今まで300年分ほどためておいたのだ。
 数ヶ月分はゆうにある。まだ半分も堪能していない。
 そんな、今日この頃。
「おや、久々の登場でこんな感じですか。まあ致し方ありますまいて」
 カメラ目線で謎の言葉を遺すと、彼はぱたりとアルバムを閉じた。
「さて。……どう処理すべきですかね」
 彼の手元には新たに一枚の写真があった。
 相変わらず、どうやって撮ったのか不明な、明らかにカメラに視線が向いたまおの写真。
 こちらに手を伸ばしたその恰好は、不思議な、何か見たことのない物を見た時の顔。
 それを知りたいという欲求。それは興味。
 知らないことへの好奇心。それは恐怖。
 それがない交ぜになった貌がそこにあった。
「……後ろにいるのは……」
 彼は写真をすかしたり傾けたりして向こう側を見ようとしている。
 無理なのに。
「むう。テレビにさしこんで右下とか左下とか、アップとか……できたら良いんですが」
「マジェスト様の俳優が、『愛国者の遊び』の主人公ならできます」
「馬鹿な事言わない」
 彼専用とはいえ、彼らだけは平気で入室できた。
 アクセラとシエンタの両名だ。
「マジェスト様。いつまでここでこうしているんですか」
 少しアクセラが不機嫌そうだ。
「マジェスト様、もしかしたらまお様どこかでえぐえぐ泣いてるかも知れませんよ」
 と泣きそうな貌のシエンタ。
「泣くことないでしょう。絶対」
 ふん、と少しばかり不機嫌そうなマジェスト。
 楽しみだったアルバムをぱたむと閉じると、それを執務机の上に置く。
 代わりに先程眺めていた写真をすい、と二人の前に差し出す。
 アクセラは覗き込もうと、シエンタはおそるおそる近づいて。
『あーっ』
 二人同時に同じ声同じトーンで叫ぶ。
「まお様まお様っ!」
 写真を引っ込めようとしても二人ともマジェストの手を掴んで離さない。
「あーん、お世話したいですーっ!どこにいらっしゃるんですかーっ」
「余計なお世話ですな」
 空いた手で、ずれた眼鏡をくいと戻しながら冷や汗を垂らすマジェスト。
 二人がまおのことを相当心配しているのは確かだった。
――そろそろ、潮時で御座います陛下
 そして意外にも、マジェストも心配していた。
 いや――彼にとって、それは意外でも何でもない。
 彼という存在は、彼女無しにはいられないように作られている。
 現在全ての世界征服計画を凍結し、全ての魔物に対して非常線を敷き、総て――彼の思考ですら止まってしまっている。
 否、止められてしまっているのだ。
「陛下をお助け、連れ戻し、どっちでもいいからせねばならぬ」
 二人の魔物はマジェストの方を向いた。
「ただ問題は、場所なのでございます。二人とも、いけるなら……と考えているんでしょうが」
 歩いていける場所ではない。
 存外、二人ならどうにかなるかも知れない――とマジェストも考えたが。
「場所はシコク。少々お待ちなさい。私がどうにかするしかありませんから」
 しおらしく手を離す二人。解放されてようやく手を引っ込めたマジェスト。
――しかし全く……ウィッシュとヴィッツは何をしているんだ。こんな時に
 『ストームブリンガー』では役に立たない。
 少なくとも思考できるモノでなければ使いにもならない。
 世界の何処にでも自律的に行動させることは可能だが、所詮ロボット。
――今こそお前達の能力が必要だというのに
 ナオの『機能停止』の報告も、『目標接触』の報告もない。
――なにをやってるんだか
 報告前にまおと接触してしまったことを、まだマジェストは知らない。
 そのまま一緒に旅をしていることも。

 暗闇、と呼ぶにはあまりに生々しい空間。
 漆黒と呼ぶには色ははっきりしない。だから、彼はその闇に名前を与えなかった。
 全ての色を飲み込んで、自分の掌すら見えないその場所で、彼は目を開けた。
 変わるはずもなかった。
 ただの暗闇だった。
 ため息をつくと身体を起こし、右手を自分の胸に当てる。
 冷たい感触と、自分の身体を感じてゆっくり首筋まで身体を探る。
 異常はない。
 彼はいつものようにベッドから足を降ろして、そう定められているように歩き、手を伸ばした。
 かし、と空気の漏れるような音がして、彼の前の闇が切り取られ。
「おはよう、ロウ」
 いつもの朝が彼に与えられた。
 しかし、今朝はいつもとは違うモノが混じっていた。
「ひゃーっ、きゃーっ、やーっ」
 四角い金属製の、一本脚のテーブルの向こうで料理をならべる少女だけではない。
 もう一人少女が付け加えられていた。
「はだっはだっはだっはだっはだだだ」
「ええ、裸がどうかいたしましたの?」
 真っ赤な顔で左手を自分の顔の前に、右手をぶんぶん振り回す少女は、見覚えはない。
「シータ、誰だそいつは」
 年は――そう、13、14位か。
 まだ父親以外の男の裸を見たことのない年かも知れない。
「姫が海岸で拾ってきましたの。多分この間の嵐で船が難破されたのかと思いまして」
 じろり、と少女に視線を向けると、感慨なく彼――ロウは何の感慨もなく自分の服のある戸棚を開き、無造作に着込み始める。
「――何故断定しない」
「本人の記憶が殆どないんですわ。酸欠で壊れたのかもしれません」
 淡々と怖ろしい事を言う二人。
「こわれたって、私、いきものなんだけど」
 ついとシータは、少女に目を向けた。
 酷く冷たい目。
 暗い赤色をした瞳は、まるで病気なのか濁りを含んでいてどよんとしている。
 感情を感じさせない色のない目。
 シータの透明色のないウェーブのかかった髪の毛に合わせて、どこか不健康そうな印象を与える。
「そう――でしたわ。しかし、脳に酸素が行き渡らない場合、その部分が壊死してしまう事はよくあります」
 彼女は静かに目を伏せる。
「せいぜいショック性の記憶喪失だろう。どうせ落ちる時か溺れたときにでも頭を打ち付けたんだろう」
 ロウは完全に服を着込むと少女と、朝食を挟んで向き合う。
「グザイには見せたか」
「それは真っ先に。特に健康状態に異常はないそうですわ」
「ならおどかすなーっ」
 少女は両腕を振り上げてがーっと叫ぶ。
 また、冷たい目でシータが彼女を見る。
「……生き物でも壊れる事があると、言っておきたかったのですわ」
 きゅとつぐむ口。
 ロウは自分の椅子に座ると、カップをシータに差し出す。
「水」
 かたん、とシータは立ち上がって部屋を出ていった。
 ロウは一旦そこにカップをおくと、くるくると貌を変える少女の貌を見つめた。
 彼の銀色の瞳は、どこか不自然な色を感じさせる。
 生まれつきそんな色なのだろうが、少女は少なくとも始めて見る瞳だった。
 短く刈り込まれた頭はどこかの軍隊にでも所属しているのだろうか。
「……で。何を憶えている」
「あ。その」
 少女は迷った。
「目が醒めたら、海岸で。それより前って、妙にくらくて。そのー。名前も、じぶんがだれだかー」
 普通記憶喪失ならもう少し不安になってもおかしくないと思うが。
 間延びした話し方をする目の前の少女は、それがまるで人ごとのようにでも感じているのだろうか。
「不安じゃないのか?」
 ロウは眉を寄せて聞いた。
「不安……うー、多分、私、もっと不安な事があるんだよ。なんだかそれが気になってるような気がするの」
 でもそれも思い出せないけど、と応える。
 ふん、と鼻で笑うとロウはサラダのレタスに手を伸ばした。
 今日の朝食は、クロワッサンにサラダ、ベーコンエッグにブラックコーヒー。
 いつも調達している、いつもの朝食だ。
「自分よりも優先するものがあるか。……潰れて泣いているよりましか」
 彼はレタスをとると、その上にベーコンエッグを載せてそのままかじる。
 机に上には4人分。
 彼と、目の前の少女と、シータとグザイ。
 珍客は食べ方が判らないのか、それとも遠慮しているのか困った貌で彼を見ているだけだ。
「先に食べてしまえ」
 仕方がないから、彼はそれを飲み込むと言った。
「あーうー」
 少女は何か困った声を上げて、ナイフとフォークを取り上げた。
 右手にナイフ、左手にフォーク。
 しかも裏側で。
「…………フォークだけで喰えるぞ」
 びくっ。
 何故か少女はデジャブを憶えて、おそるおそる食器をおくと、フォークを右手に持ち替えて料理を突き刺した。
 何となく、そうすればモノがとれるのは判った。
「そだねー」
 無意味にあははと笑いながら、少女は食事を始めた。

 ここはシコクの中では危険地帯と呼ばれる、カガワに程なく近いトクシマである。
 ロウとシータ、そしてグザイが生活しているのは古い軍事遺跡だった。
 遺跡と言ってもその施設の殆どは生きていて、故障をしている部分を除けばまだ使い物になるシステムである。
 その居住ブロックを利用して、彼らは生活していた。
 食事は、新鮮な物を中で栽培できる。
 それも殆ど自動でだ。
 そんな新鮮な素材を刈り取って、グザイとシータで料理する。
 そう言う生活リズムだった。
 と言ったって、他の人間はいない。不自然な空間である。
 この切り取られたような、閉鎖空間という世界。
 無機質な三人が、繰り返す日常を造りだしている。
「……何だ」
 ロウは既に朝食を終えた。
 先程シータの持ってきた水を飲みながら一服しているところだ。
「んー。……えとね。……三人はかぞくなのかなー、あはは。あは」
 きょときょととグザイとロウを見比べるシータ。
 無視して水を飲むロウ。
 ふむぅ、と考え込むグザイ。
「ちがいますわ」
 どきっぱり。
「正しくない表現で御座いますな」
 かっ。
「……るせえ」
 三者三様、しかし全員一致した見解。
 家族ではない。
 少女には非常にそれが奇妙に思えた。
 何故――しかし、それが引っかかる感触。
 どくん、と心臓が跳ね上がって皮膚の上をぴりぴりとからしをぬりたくったような感覚に襲われる。
 比喩が変だが、それは少女の感じたままの事だった。
「そか」
「いえもっともで御座います。姫、姫はどう思われますか」
 グザイはにこやかに少女に応え、隣に座る自ら使える少女に視線を向ける。
 少女は目だけを彼に向けた。
 貌は相変わらず何の表情も映し出そうとしない。それとも――そもそも彼女は表情を持たないのかも知れない。
 もっとも表情を浮かべるだけのグザイとさしたる差はないかも知れない。
「――家族だから、一緒にいなければならないとは思えませんわ」
 少女の貌が驚きと、そして悲しみを浮かべる。
「だから、一緒にいようと思えるから家族だと思うのもおかしいと感じるのですわ」
 彼女が貌を歪めるのを見たからだろうか。
 不自然に早口に言うシータ。少し息を荒げて、顔を赤くする。
「一緒にいるから家族だとは姫は思いませんことよ」
 つい。
 じー。
 じろり。
 一斉に視線がロウに向かう。
 ロウは気づいて、全員を見回して不機嫌そうな顔をする。
「……別に、どっちでもいいだろう。必要だから、一緒にいる。違うか」
「そうで御座いますなぁ。剣士殿、剣士殿のメンテナンスは私の担当。姫のお世話も私。姫がいなければ、剣士殿の腕も振るえない」
 今度は少女に、グザイは視線を向ける。
「誰かが必要、誰かに必要とされるから一緒にいる。ただ『家族だから』では一緒に居られないものなのです」
「でもそれって、かぞくなんじゃないの」
 …………。
 少女の言葉に、やはり全員が黙り込んだ。
「あ、何か、変なこといったかな」
「……相当変だな」
 がたん、と音を立てて立ち上がると、ロウはコップを叩きつけるようにテーブルに置いて、元来た部屋へと戻っていく。
「あ、その……」

  ふしゅぃーん ぱしゅ

「お気になさる事は有りませんのよ。ロウはいつもあんな感じですから、気にしていたら胃に穴が開きますモノね」
 シータが言うと、グザイは苦笑した。
「もう時間ですからな」
「時間?」
 少女の言葉に、グザイは小さく二度頷き、合わせてシータは立ち上がった。
「ええ、『狩りの時間』ですわ」
「狩り、って」
 少女の言葉に、シータはやはり能面のような顔で応えた。
「魔物を狩るのですわ。ご存じありませんの。それが、ここで生きていく術ですわ」
 当然のように言い、彼女はロウの後に続いて部屋を出る。
「え、えーと」
「彼らは、今からすぐ側の魔物を狩るのでございます」
 あたふたとしている少女の側をグザイは、ついとよどみなく立ち上がって彼女の手を取る。
「え」
「ごらんになりますか」
 一瞬の躊躇。
 しかし、グザイはそれ以上強要することなく、また否定することもなく。
 ただ静かにそこに佇み、彼女の様子を窺うよう――いや、ただ彼女を見つめるだけでそれ以上なにも言わず。
 少女は果たして逆に、彼女自身の意志を問いつめられているような気分になった。
 でも何も難しくない。
 何も困るほどのものではない。
「うん。見せてよ」
 グザイは、にっこりと微笑んで彼女の手を握り応え、少女を引いてシータの後ろを追った。

 トクシマの『遺跡』は、過去の遺産ではない。
 現在も確かに稼働している『施設』だった。
 何百年もメンテナンスフリーで動くモノか。
 いや。逆の考えもあるだろう。
 メンテナンスフリーでなければならない建造物がこの世には存在する。
 それはこの遺跡に代表されるモノだ。
 既にこの世界の何処を探しても存在しないモノがここでこうして稼働していながら、誰の目にも触れることがない。
 それはおかしな事実だ。
「聞いても良い?」
 金属光沢を忍ばせる、痛みの分からない旧い通路を歩きながら少女は言う。
 グザイは振り返ると小首を傾げ、彼女の言葉を待つ。
「どうぞ」
「なんで、こんなところでこんなふうにしてるの。……それが不思議なんだけどさ」
 唐突な質問。
 しかし、彼は不思議そうにもう一度首を捻る。
「そうでございますか。だとすれば、いかほど貴方は幸せであったことか」
 グザイは立ち止まり、しかし振り返らず言葉を紡ぎ続ける。
「このほか、全く選択肢がなかったので御座います。いいえ、選択肢があっただけまだましだというもの。何故なら、選択できない人間も多いのですから」
 そしてくるりと振り返ると、彼の目の前には不思議そうに目を丸くした彼女が立っていた。
「……貴方は、一体どこから来なされたかは存ぜぬ。恐らく、今貴方も知らない事でしょうが」
 そして再び彼は彼女の手を引いて歩き始める。
 彼の手の中で、彼女は小さくきゅっと力を込める。
「ここトクシマという国はそういう世界なのです」
 少女は黙って彼の言葉を聞いていた。
 なにも、それを信じる手だてがないとは言え――嘘だとも思えなかった。
 では自分はどうだったのだろうか。
 何不自由なく暮らしていたのだろうか。
 もしかすると、姫か王家だったのかも知れない。確かに、今のこの状況は違和感がある。
――しかしよく考えてみれば、ここまで過酷な人生もまずないだろう。
 そう思い返して、少女は自分を思い出す手がかりを失った気がして、小さなため息を付く。
「でもさ」
 だから思ったことをいってみた。
「でも、こんなにすごいもの、見たことも聞いたこともないモノがあるのに?」
 口元が歪む。
 予定調和のような彼女の質問に、苦笑が――思わず失笑してしまいそうなこの感覚に、グザイはやはり振り向かずに言う。
「誰も理屈が判らない、そんなこんな危険なモノを利用しようなんざ、笑える冗句でございます」
 しかし選択はこれしかなかった。
 今のシータを救い、ロウを仲間にしてこの綱渡りのようなバランスを保つことができるのは、この『箱船』だけだ。
 箱船とグザイが呼び、姫が城と呼ぶこの最下層――ロウはここをコキュートスと呼んだ。
「第1第2拘束具展開、起動準備」
 淡々と、少女の声が響き金属音がこだまする。
 それはロウにとってはいつもの儀式。
 シータの目の前には大きな箱が横たわっている。
 棺桶――子供がすっぽり収まってあまりある箱だ。
 但しその箱は継ぎ目がぴたりと合わさっており、本当に箱なのかどうか疑わしい程だ。
 だが蓋であることを主張する金具に、革ひもがくくりつけられている。
「キーの入力。『闇』『色』『狭間』『蒼』『穹』」
 金属光沢のある、角をきちんと削った、まるで黒い水晶が劈開したような美しい平面。
 そしてその暗い光沢の中に、彫り込まれた文字がある。
 やたらと硬質で、人間の手によるものではないことは殆ど明らかだ。
 その文字――英語は、箱の中身に何が入っているのかを示した、『名前』だった。

  Extirpater of eXistence Caliber

 シータの詠唱に合わせ、細かい金属音が数回叩くように弾ける。
 かきん、と甲高い音を立てると、革ひもが弾け、ひとりでに蓋が開く。
「E.X.Caliber起動」
 彼女の声に合わせ、箱の中身が一瞬光った。
 丁度雷の光に似ていた。
 ゆっくり開く蓋を無視して、ロウはまだ影の中にあるそれに手を伸ばした。
 いつもの、手に馴染む感触。
 分厚い柔らかい革製の感触に、冷たく染みこんでくるような液体のイメージ。
 それと同時に、甲高い楽器を打ち鳴らしたような音が響き、彼の手の中で『それ』が形を変える。
 影から姿を現したのは、奇妙な物体だった。
 丁度剣で言うところの鍔の部分から45度ぐらいに曲がって、棒が伸びている。
 握りは、丁度彼の手に収まるようなサイズで、指の形に合わせて若干波打っている。
 人差し指に触れているものは、柄から独立したスイッチになっているようだ。
 そして、棒状に伸びた中央付近に、これまた直角に伸びた鍔がある。
 位置として不自然。
 よく見れば。
 棒状に伸びた『剣』はスリットが刻まれていて、3つの面を持つ。
 同等の形状の3枚の板がかみ合わされた『棒』……切っ先に当たる場所から望むと、正三角形に刻まれた中央の穴、頂点から伸びるスリット。
 そして、棒に見えたのは台形状の同型の三つの板が張り合わされている事に気づくだろう。
 スリットに合わせて、箱と同じように面取り――それも過大に――しているため、台形とは言えなくなってしまっているが。
 我々の言葉で言うなら、それは――長大な銃身を持った銃。
 彼はそれを胸元まで引き寄せて、『鍔』を、手前に引き絞る。
 がしゃん、と派手な音を立て、きぃん、と甲高い何かが音を立てたと思うと。

  ば しゃ んっ

 機械的な音を立てて三枚、同心円上に『それ』が開いた。
 きりきりきりと音がして、ちかちかと根本、そして開いた接合部に光が灯る。
 鈴虫が奏でるような音が必要以上にまとわりつくのを確認して、彼はそれを右手に提げた。
「……」
「起動終了、点検確認了解」
 シータが呟くように言うと、始めてそこに現れたように。
 ぼん、と彼女を中心に光が、爆発するように灯り。
 一瞬でかき消えてしまう。
「……行くぞ」
「判りましたわ、行きましょうロウ」
 最下層の出口――エレベータががしり、と奇妙な音を立てた。
 シータが近づくと、まるで躾られた僕のように扉を開ける。
「シータ」
 ロウの言葉に、ついと頭を向ける。
 闇に沈むような姿で、ロウはそこにいた。
「何ですの」
 ロウは僅かに立ち止まっていたが、思い出したように再びエレベータに向かった。
「――お前は、後幾つ狩れば、気が済むんだ」

 エレベーターは音を立てて閉まり。

 地の底は再び闇に染まり、僅か一度だけ走った小さな稲妻が、完全に閉じた金属製の箱をてらし上げた。
 長く見える、闇の一部が欠けた廊下。
 その向こう側に、ちらりと姿が見えて、続いて思い出したように足音が谺する。
「準備なさいましたか」
「かかる物でもない」
 グザイが声をかけ、少女はその姿を凝視する。
 明らかな異形、彼の持つ武器らしきそれに視線を奪われる。
 剣、ではない。
 しかし、その形状が武器であることを明確に表現している。
 無骨で、あまりにも鋭利なその面影は、武器――いや、兵器としてのそれを大きく周囲に誇示するかのようで。
 少女は怖ろしく感じた。
 どんな大きな剣でも、どんなに強力な攻城兵器でも、それらの持つ力は恐ろしさを感じさせる物ではない。
 むしろそれを扱う者に安心感を与え、力強く感じさせるだろう。
 しかし――それだけは異様だった。
「ご心配ですか」
 グザイは、彼女のそんな様子に声をかけた。
 だが、彼女はゆっくり首を振った。
「う……その。うん、あの、しんぱいじゃないわけじゃなくてさ」
 おろおろする彼女の側を、ロウは何もないかのように素通りし。
「ついてきますの?」
 そんな彼女に、先程と変わらない調子で声をかけるシータ。
 少女は彼女の言葉に一瞬眉を顰めるが、彼女が顔を背けても少女は彼女を見つめ。
「行きましょうか」
 というグザイの言葉に頷いて、二人の後を追った。
 『箱船』は強固な金属で出来た、簡単な表現をすれば『城』だ。
 出入り口も同じ金属で出来ていて、この『箱船』の総てのドアは同じ構造の、ノブのない特殊な物だ。
 つまり、魔物の出入りはかなり困難だと言える。
 少女の記憶(といっても白紙な訳だが)にも、何処にもない。
 一枚の金属が、シータやロウが触れるだけで開く奇妙なドア。
「たまたま、みんなの選択が、ここに留まる事だったの?」
 恐る恐る少女はグザイに聞いた。
 グザイは、ちらりと少女を見て眉を寄せ、今度は前にいる二人を見る。
「ここにいるのは必然でしょう。でも、ここに留まろうと思ったわけではありません」
 かしゅ、と音がして空間が矩形に切り取られる。
 差し込んでくる陽光。
 四角い白い壁の中にとけ込んでいく二人。
「偶然という名の必然でございましょうな、この状態というのは――」

 かしゅ、とまるで隙間から空気が漏れる時に立てる音が響き、彼の手元で剣が唸る。
 E.X.caliberは普通の剣より余程重い。
 可動部分が存在し、重心位置が剣よりも手元に近いためだ。
 但し取り回しは充分楽な物だ。
 だがこの『剣』は、そのなまくらな剣身でもって切り裂くことは到底不可能だ。
 箱船の外に二人が出ると、彼は左手で柄を引き絞る。
 がしゃ、と音がして剣身が開く。
 そして人差し指を軽く添えると、柄の内部がうなり声を立てて稼働し始める。
 ゆっくりその音が甲高く変わり行くと同時に、柄の振動が激しくなり、開いた剣の中央に光が灯り始める。
 これで準備完了――彼の口元に僅かに笑みが浮かぶ。
 とん、と言う軽い足音に、彼のすぐ側に少女が居場所を作る。
「――ロウ、右手上方――二体」
 彼女の言葉に、ロウは左手を剣に添える。
 同時、ばりと、まるで何かを引き破ったような激しい音を立てて、剣身に光が灯る。
 脈動するようにゆっくりと大きくなる。
 彼の視界にはまだ何も見えない。
 だが、彼女の言葉通りに視線を向けて、稼働中の刃を向ける。
 ぎしり、と彼の周囲で何かが軋むような、そんな気がした。
 彼らがまだ見えない魔物に対して戦闘態勢を整えているのを、僅かに後方で、二人が見つめている。
 少女とグザイだ。
「ねえ」
 少女は不思議で仕方がなかった。
 何よりどうしても想像も付かないし、理由が判らなかった。
 彼女の記憶が戻らない――自分のことも判らない今の状況では、今を、ここを、この状況をせめて把握したいから。
「ここって、街じゃないよね」
「はい」
 ぐるりと四方を見渡しても、何も見えない。何も存在しない。
 せいぜいあるのは――この遺跡周辺に、同じような金属塊が転がってる程度で。
「ヒトのいる場所って、かなり遠いんじゃないの」
 少女はグザイに視線を移すと、彼はうすら笑いを浮かべるように彼女を見返す。
「遠いですな。トクシマから出ないことには、人間が住める状況ではございませぬから」
 尤も。
 グザイは続ける前に一度言葉を句切り、大きく息を吸う。
「――その方が好都合なので御座います故。お嬢様、彼らが狩りを続けるのは何も」
 ばさり、とどこからか羽ばたく音が聞こえて。
 ロウの口元が吊り上がり。
「自分の身を護る為、ここを安全化するためだけでは御座いません」
 魔物を狩ることで生活する。
「魔物はいわば、材料であり栄養なので御座います。端的な言い方で有れば、魔物を『食べて』いるのです」
 ざわり。
 少女の顔が蒼くなる。
 当然だろう。思わず朝食のメニューを思い出して口に手を当てる。
「まものを食べるって」
「食用の魔物は存在しますからおかしな話では有りません。前線ではごく普通で御座いますが、実際に食べている訳ではありませんがね」
 筋張っているがねこかぶとは美味だと言われるし、いぬむすめも鍋にして料理として出す店もあるそうだ。
 グザイは目を細め、少女を眺めるようにして言葉を選ぶ。
「もっと精確に……魔物を分解して、必要な要素を抽出しているのです。――一部はお金になると言えば判りますか」
「あ、うん。判る」
 羽ばたきが大きくなる。
 何とか、目で捉えられる大きさに見えた。
 もう近い。
「ですから――」
 ロウは一歩踏み込み、大仰に両手で握りしめた剣を振り上げる。

 それは、狩りというよりも単純で、大雑把で、明確な物だった。

「でも」
 少女は小首を傾げて人差し指を自分の頬に押し当てて唸る。
 ひとしきり唸ると、グザイに言った。
「んー、お金ってどうしてるの。ここ街じゃないし、お金なんか必要ないんじゃないの」
 お金になる、というのは何処の部分なのか。
 またどうやってお金にしているのか。
「はい。『取引相手』が受け取りにきます故に」
 ロウの目には既に目標になる魔物が見えていた。
 今日の獲物は――できれば、いつも狩っている魔物ではない方が望ましい。
 確かに何度も『天使』を狩った。天使は彼らの望んでいる魔物だ、悪くはない。
 しかし、彼らは何度も同じ魔物はあまり嬉しくないのだという。
――贅沢な話だ
 天使は悪くない。だがそれより近い存在を。
 天使は良かった。だからそれ以上の存在を。
 まだ米粒のような大きさの「それ」は、ここトクシマでは珍しくもない魔物だ。
 ロウは無言で、それを思いっきり振り下ろした。
 同時に人差し指に当たるものを、引き絞る。
 ばしんと大きく平手打ちしたような音が響き、まるで刀身が太陽の光を弾いたようにも見えた。
 実際には――刀身が、光の刃を打ち出していた。
 ばりばりと空気中を音を立てて走り、通過した総てを破壊するようなそれは、真っ直ぐこちらに向かう物へと走る。
 そして、まるで――バターでも斬るかのように何の抵抗もなく光の刃は真っ二つに魔物を引き裂いた。
「次」
 シータが声を上げるまでもない。
 既に振り下ろした刃を、逆袈裟に構えて切っ先を下から上に――
 もう一度、今度は空気を震わせるような音を立てた。
 ばっと地面の砂が舞い、刃はちりちりと嫌悪感をまざまざと残して走る。

  ご ぅ

 迫る天使。
 恐ろしい速度で突っ込んでくるその姿は、まるで二人を避けるようにして勢いよく二つに分かれて。
 返り血すらこぼさずに地面に『ひらき』になって倒れた。
 切断面はなめらかで、粘土のように何もなく、それが生命体である事をまるで否定しているようだった。
 その死体の真ん中に立ち、彼は構えていた剣を降ろす。
 剣は余韻のように静かに低い音で唸ると、柄のような作動桿が音を立てて切っ先の方へと戻り、開いていた刀身も元通り閉じる。
 それは完全に沈黙した。
 狩りが終わりを告げたのだ。
「他にいないか」
「……いえ。……『同じ』魔物はいません」
 シータの言葉を聞いて、ロウはグザイと少女の方に目を向けた。
 白々しい拍手の音が聞こえる。
「えへへへ」
 少女は何がなんだか判らず拍手を――これではない。
 彼女の隣、グザイを見下ろすような男が一人、彼らを見て笑顔で手を叩いている。
「相変わらずの腕前で」
 グザイの言う、取引相手の男だった。
 ぴしりと着込んだスーツに、蝶ネクタイ。長い髪は先端を紐で縛っている。
 気取った白手袋という恰好は、あまりに意外性があり、風景にとけ込もうとしていない。

 不自然。
 
「ですが、またこのタイプの『Daemon』ですか。あの、できれば」
「今のところこれしか見ていない。――他にはどんなのがいるっていうんだ」
 スーツの男がロウの元へと歩み寄りながら、話を始める。
「ねえ」
 彼が拍手を始めるから思わずつられたが、少女は困った顔でグザイに聞いた。
「先程話した、魔物を買い付けにくる方ですよ。名前は」
「巫山戯るな蟲野郎!」
 突然叫んだロウの言葉に、少女はびくっと肩を震わせて二人を見る。
 だがスーツの男は全く動じることなく、どこか涼しげな笑みを湛えたまま応えた。
「ええ――私はバグですからねぇ」

「名前を差し上げますわ」
 それは唐突な申し出だった。
 狩りを終えて交渉に入ったロウとバグを放置して、シータはさっさと箱船に戻ってきた。
 そして、先程の場所――二人がリビングと呼ぶ場所だ――に入ると、紅茶を煎れて少女にそう言った。
「え」
 勿論少女は面食らってしまって、思わず間抜けに応えた。
「名前ですわ。あなた、何時までも物みたいに呼ばれたいのですか」
 なら結構ですけれど。
 彼女は気分を害した風もなく、ただ淡々とお茶を飲む。
「そ、そんな。……でも、その」
 少女が困った顔をしていると、シータはすっと目を閉じて紅茶をおいた。
「――名前は、大事な物。魔物にもそれぞれ名前が付けられている。それには意味がありますでしょう?」
 つい、とゆっくり目を開くと、すました顔で彼女は僅かに、まるで覗き込むような暗い沈んだ瞳で。
「精霊は名前で契約を交わす。存在を縛る真の名を与えることで隷下に置くのですわ。きっと、今失われたあなたの名前は」
 ふんわりと漂う紅茶の香り。
「あなたという形を保つことをあなたに強要してましたのよ。でも、それでは多分これからには似合わないのですわ」
 多分ここでにこりと笑えば、それなりに決まったのかも知れない。
 でも、彼女は笑うという仕草の気配すら漂わせることはなかった。
 平坦な声で、能面のような顔のまま淡々と。
 だから少女は冷たくゆっくり断言するその言葉をもう一度反芻した。
――形を保つことを、強要……
 何となく彼女の言いたいことが判る気がした。
「まもの、の話なんだけどさ」
 でも少女は即答する事を避けた。
 はっきりした意志があったわけではなかった。
 理由も、多分聞いても判らない。
「何ですの」
 シータも敢えて聞き直そうとは思わなかったらしい。
 一口茶を含んで、喉を湿す。
「うん。先刻のヒト、狩ったまものを買いに来たんでしょ?それで生活してるの?」
 ぱちくり。
 シータは不思議そうな顔で二回瞬くとゆっくり小首を傾げ、思い出したように元に戻す。
「……違いますわ。あなたの思っているような事ではありませんの」
 あっさり否定すると、まるでそこにいるのを見えるかのように一度振り向き、顔を少女に戻す。
「バグ=ストラクチャ氏は、特殊な魔物に興味がおありになる方。好事家ですわ」
「とく……しゅなまもの?」
 魔物に一般的なものと特殊な物があるのだろうか。
 また、彼女は真顔のままゆっくり首を傾げる。だが彼女が反応するより早く少女が言う。
「もしかしてっ!雑魚もんすたーとボスキャラ?」
 嬉しそうに立ち上がって。勢いよく元気に。
 一瞬頭の中で、ぷにぷにした丸っこい魔物と、ドラゴンの二種類が浮かんでくる。
 シータはぶんぶんと頭を振る。
「なんですのそれは。……私も詳しくは判りませんの。バグ氏が詳しいのですが……」
 契約云々でこの箱船に、ロウが入れる事はない。
 むう、と眉を寄せて少女は顎を引いて、自分の右人差し指を立てて頬に当てる。
 考え込んでいるようだ。
「『狩る』際も、バグ氏からの情報が元なのですわ。あの……『Daemon』以外を見たことはありませんが、彼は良くご存じですのよ」
 小さく彼女のカップが音を立てると同時に、扉が開いてロウが姿を現した。
「おかえりなさいまし。お茶を煎れて参りますわ」
「いや」
 ロウの返事は早く、そして落ち着きがなかった。
「行くぞ。――もう一匹、来る」

「いやあいやあ、たまたまですよたまたま」
 非難の目、いや、殺されそうな殺意の目を向けられているというのに、それでもバグはひるんでいなかった。
 嬉しくてたまらない、そんな貌で笑って手を叩いていた。
「まさか、引き取りにくるのと重なるとは思っていませんでしたが。多分[Daemon]を叩いたせいでしょうねぇ。はっはっは」
 彼の胸元、右のポケットからはみ出した、赤い色の光沢。
 大きさは掌の半分ほどのそれは、小指より小さな突起をはやしている。
 彼曰く、アンテナなのだそうだ。
 彼の欲しがる魔物の情報を手に入れる事のできるレーダーだとか。
「……今までとどう違う」
 ロウは先刻よりもさらに低い声で威嚇するように言う。
「今まで?はて。……そんな怖い貌をしなくても良いではないですか。要は絶対数の問題ですよ」
 普段であれば、魔物の出現、群の行動パターンから時期・場所を概ね指定される。
 ロウはそれに従って魔物を狩って来た。
 尤も、それは依頼された分だけだが。
 それはここを守ることと同義。
 魔物を狩る必要のある人間にとっては、食事に同じ。
 だから予定外の襲撃は今までは起きなかった。
 今回狩りの後のお茶にこの男がいるのは、何も招待したわけではなく。
「――つまり、私達を体よく利用したと」
 シータの冷たい声に、ロウの眉が吊り上がる。
――そう、箱船内部リビングルームで尋問中という状況である。
 実際襲いかかってきた魔物を事前に察知できたのはこの男の御陰なのだが。
「利用だなんて」
「都合良く『ヘカテ』が来るわけだ」
 ばきん。
 先刻まで眠っていたはずのE.X.Caliberが突然音を立てる。
 ばりばりと起動状態になる。
「判りました判りました。判りました説明しましょう、私だって本当に偶然だったんですよ」
 流石に困った貌をした彼は、両手をなだめるように前後させた後、続けた。
「想像するに、[Daemon]がこの周辺で極端に減ったから、[Hekate]が調査に来たというところではないかと。まあE.X.が有るから気にする必要」
 すちゃ。
「今度から情報は正確且つ的確に、迅速且つ適時に。……これでいいですか?」
 流石に鼻先に、ロウの剣を突きつけられれば素直になるようだった。

 ずずー、とお茶をすする音がしばらく漂う。
 初めこそ尋問だったが、彼の話が終わるといつのまにか全員卓を囲んだお茶モードになっていた。
「お代わりは?」
「戴きます。なかなか、お茶の煎れ方がお上手だ」
 話が終わった直後、ロウは完全に黙り込んでしまった。
「確かに、私はさらに上位層を解明したいと思ってますよ。でも、あなた達の能力を無視する訳はないでしょう?」
 わざわざ騙して魔物を狩らせるような真似をしたって、何の得もない。
 第一それなら危険を冒して取引に来る必要性もない。
 彼らもどの魔物がどこに徘徊しているのか、そこまではわからないのだそうだ。
 そこで、予定される場所と時間、出現しそうなタイミングに『餌』を用意する。
――そして、餌に食い付こうとする魔物を、彼が狩る。
 どんな魔物が来るのか、それは来るまで判らない。
「それだけは事実ですわ。貴方達がどれだけ知識を持っているのか、『それが裏付けのない予測できる知識』だとしても教えていただけないんですの?」
 静かな質問口調。彼女は淡々と感情を見せない話し方しかしないせいで、まるで興味のない事を確認しているようにも思える。
 グザイが、バグより早く応える。
「技術屋の集団だとすれば公表する気はないでしょうな。のぉ?どうせ名前も偽名だろう」
 勿論バグはにこやかな笑みを絶やさず、全く感情もその裏側も感じさせない。
 またしばらく沈黙する。
「……ね」
 だから少女は少しだけ身を乗り出して、バグの目を覗き込んだ。
「何でしょう?小さいお嬢さん」
 彼は、少女に向かって笑みを向けた。少なくとも見たことのない少女なことだけは確かだが。
「なんで魔物を集めてるの。あの魔物は何処が違うの?」
 言われて、流石に目をぱちくりさせて驚いたようだった。
 目をシータとロウに向けるが、二人ともつーんと視線を逸らしていて全くとりつく島もない。
「……貴方はどなたですか」
「しらなーい。わすれたー♪」
「ホントですわ。今朝そこの海岸で拾ってきましたの」
 ずず。
 にこにこ。
 それは或る意味脅迫というか。
 ぽむ。
――記憶がないから色々知りたいことが有るに違いない
 見たところ子供だし、色々不安なんだろう。……多分。
 彼はそう結論して、納得したようだった。
「お嬢さん。貴方が何を聞きたいのかは判りませんが、私は、魔物の行動を調べているのですよ」
 マセマティシャン。彼は聞き慣れない発音でその言葉を紡いだ。
「丁度このトクシマには、色んな生態を持つ魔物がおりましてね。彼らを調べて、魔物の行動の理由や原理、果てはその予測をしようというのが目的です」
 はぇー、と間抜けな声で驚いたように目を丸くする。
「そ、そんなんでわかるの!あ、えと、ましましゃん?」
「真島じゃありません。マセマティシャン、ですよ」
 くすくすと笑うと、カップの中身を一気に呷る。
「じゃあ私はこの辺で失礼しますよ。[Helate]を早くバラしてみたいですしね」
 バグは慇懃に一礼して、部屋から立ち去った。誰も声をかけることも、止めることもなかった。
 がん。
 ロウが机を叩いた、金属的なその音だけが彼を見送っていた。
 怒ったのか。それとも、草臥れたのか。
 ロウはもう何も言わずに無言で自分の部屋へと退出した。
 ぱしゅんと、もう聞き慣れた音が響いて、そして静寂が訪れた。
「……それで、お名前は何にしますの?」
 ずず。
 もう何杯目か判らない紅茶をすすりながら、シータは言った。
「はひ?!」
 だから思わず上擦った声で、舌を巻いて噛みそうになりながら応える。
「No.2とか、24号とか」
「はい判りました決めますきめますーっ」
 慌てて応える少女を見て、グザイは苦笑しながらシータに言う。
「姫、あんまり虐めると可愛そうですぞ」
 彼の手元には、大きな湯飲みのようなマグがあり、中には真っ黒い液体が詰まっている。
「しかしそうでございます。名前がないままではこれから何かと不便ですから」
 そう言って、香ばしい臭いのする黒い液体をずず、とすする。
 シータの言葉を反芻しながら、むう、と腕を組んで右手を顎に当てる少女。
 自分の名前を決めろといわれても、これという名前なんか思いつくはずもない。
 でも決めなければ24号で決まってしまう。
「うーんうーん」
 それをのどを鳴らすようにして笑って、グザイは言った。
「そうですなぁ。どうせ仮の名。カナでよろしいのではございませんか」
 ずず。
 シータは無言。
 ふい、と彼が少女に目を向けると、少女はまるで忙しいように彼と、シータを見比べている。
「……気に入りまして?」
 伏せていた目を上げて、シータは少女に視線を向けた。
 それでやっと落ち着いたのか、少女は口元をほころばせてにっこりと笑った。
「うん!うん、それで、それがいいよ。カナ。そう呼んでね」
 カナの様子に、シータはぱちくりと瞬いて、カップを置いた。
「では、片付けて昼食の準備に参りましょう」
 グザイは何も言わず立ち上がり、シータも席を立つ。
「あ、私も手伝う。ね、手伝わせてよ」
 慌てて追いかけるように立ち上がったカナに、シータは目を細めて応えた。
「ええ。勿論」
 実際の所――お茶の用意をかたづけるのは難しくなかった。
 ポットを洗って、急須を洗うだけ。
 グザイが呑んでいたコーヒーは、彼が自分で片付けている。
「グザイ」
 手が空きそうになった彼に、シータが声をかける。
 すると、判っていたのか彼は無言でそのまま退出していく。
「あれ?」
「昼食の準備に、材料を取りに行って貰ったのですわ」
 ざっと水を流して、流しを綺麗に台拭きで拭き上げる。
「カナ、そっちからお皿を出して用意してくださる?……ここ、狭いから……」
 しーん。
 と、貌を上げる。
 じーん。
 両拳を自分の胸の前でぶるぶると震わせて、両目をうるうるさせて感動に打ち震えているカナ。
「……カナ」
 えっと。
 シータは思わずこめかみを揉みながら目を閉じる。
「お皿出してと言ったのですけれど、聞こえまして?」
「え?あ」
 感動に打ち震えていた彼女はもう一度目を見て言われて気が付く。
 くるりと後ろを向いて。
「あのー、どれを出すのー?」
「同じ形の、4枚組みになるものをお願いしますわ」
 んしょ、と戸棚を開けてみると、見事に大中小と同じ形で飾り気のないお皿が並ぶ。
 どれも欠けていない、4枚どころか何枚もある気がする。
 だから適当に、大きすぎないものを取り出すと取りあえずテーブルに置いた。
「お昼、なんにするの?」
「カナは何が好きなのかしら」
 とん、とガラス製のボウルを調理だなから降ろすと、シータはなにやら調味料らしきものを取り出して注ぎ込んだ。
 泡立て器をシンク下の棚から取り出すと、自分の顔の前ぐらいにあるやや高いボウルに突っ込んで。
 かしゃかしゃかしゃ。
「んーと……おいしいもの」
 露骨に眉を寄せて、困った貌になるとシータは振り向いた。
「誰だってそうですわ」
「いやあのえーと、だって、思いつかないから」
 不安定そうな恰好で、ちょっと背伸びしながら泡立てたボウル。多分ドレッシングなのだろう。
 彼女はそれを脇に置くと、コンロにフライパンを置いて火を入れる。
 手早く油を流し込み、換気扇を回す。
 ここまで――手慣れたもので、流れるような手つきで終わらせてしまう。
「料理、慣れてる」
 グザイはまだ来る気配がない。だから、二人には少し話す余裕がある。
「ええ。しばらくここに逗留されるのでしたら、最低限度カナも身につけて戴きますわ」
「え」
 えではない。シータはすぐに台所の脇に立ち、左手を腰に当てる。
 ちょいちょいと右手人差し指で手招きすると台所のあちこちをずびしと指さしながら説明を始める。
「ここに鍋とフライパンが各種そろってますわ。こちら調味料。ここを押せばコンロが動きますから、ここで火力を調節して」
 そこで気づいたように彼女に顔を向けて。
 勿論真顔のままで。
「そうですわ。お昼はカナに作ってもらいましょうか」
「勘弁してください」

 とは、言え。
 シータの邪魔をしながら料理の真似事を終えて、テーブルに料理を並べる。
 グザイは再び地下へ戻り、自分のコーヒーのための豆を取りに行った。
 シータは怒鳴らない。怒らない。ただ的確に歯に衣着せず淡々と事実を述べる。
「塩が多いですわ。水、あ、それだと焦げてしまいますから」
「もっと器用に指先を使って。フライパンは手首を返すように。こう、こうやって」
 だからだろう、シータの指導は見事に実り。
 というか。
 結局、シータは口出ししただけで、カナが殆ど作っていた。
「な、何だかきんちょうしてつかれたよー」
 ふにぃ、と奇妙な声を出して椅子にへたりこむ。
 フライパンを扱うのも、料理そのものが彼女にとっては初めてだ。
 当然だろう。初めては何もかも疲れる。
「いえ、なかなか筋はよろしいですわ。今後もよろしくお願いしますわ」
 シータは応えながらテーブルに料理を配置していく。
 これが結構センスがないと彩りなんかがうまくいかないものだが。
 カナの作った料理だというのに、何処かレストランにでも行ったかのような綺麗な食卓になる。
 あとは、ロウを呼びに行けばいい。でもまだ時間はある。
「ねー。シータ、聞いて良い?」
 取りあえず席に着いて、飲み物を回していく。
「何ですか」
「名前、妙にこだわってない?」
 ぴたりと。
 シータの手が止まった。カップを並べる彼女の視線がふいとカナに向けられる。
 すぐに言葉が紡がれると思っていたカナは、肩すかしを食らったように困った顔をする。
 だが、それでもシータはまだ、まるで凍り付いたように黙り込んでいる。
「……いやですか?」
 カナが口を開きかけた時、ようやく彼女は、それだけ言った。
 視線はカナから外れている。
 僅かにそれて、テーブルの隅を見つめているような感じだ。
 だから不自然だと、カナは思った。
 違和感――どこかシータが無理をしているような、何かを我慢しているようにも見えた。
「いやならいやだとはっきりおっしゃってください。すぐ代わりの名前を」
「それ」
 割り込むようにして、彼女の言葉を遮って。
 カナは、少しだけ鋭く言った。
「『名前』って、私のこと名前の話題でこだわってるじゃない」
「こ……」
 シータは能面の顔を、動揺で揺らせた。
 顔色は全く変わっていないし、口調にも変化がない。もし知らないヒトが見れば、ただその場に彼女が凍っているようにも見えただろう。
 だが、その仕草は会話としては明らかに不自然だ。
 まるで人形でも被っているかのような、そんな印象を与える。
 そして焦点の合っていなかった視線をゆっくりとカナに向け、シータは改めて落ち着いた口調で呟いた。
「名前は、大事ですの。私は『精霊使い』ですのよ」
 精霊使いが与え、得るモノは総て名前という姿形のない空気の密度における振動、音としてだけだ。
 だが精霊を従えるにはそれが必要であり充分。
「名前に拘りは……あって当然でして?ご理解戴けるかしら」
 論理は通る。非常に筋道はあってる。
 でも、それで先程の反応は説明できない。
「うん。わかるよ。説明されたもん。でも理解できない」
 カナは、ゆっくりとできる限り丁寧に言った。
「私は、海岸に居た私を助けてくれたことは感謝するけどさ。……まるで私が、これからここに住まなければいけないみたいに」
「できればそうしてもらいたいと思ってるんじゃないですかな、カナさん」
 いつの間にか。
 自分のマグを持ったグザイが戻ってきていた。カップにはコーヒー豆が満載している。
「本当はルール違反ではありますが、私が少しだけ説明します」
 ルール違反。
 グザイはカナの側を抜けて、一度流しまで向かう。
「その前に少し時間を下さいますか。コーヒーを煎れたいので。……呑みますか?」
「グザイ、紅茶を」
 まるで返事を待っていたように、シータはごく当たり前に言葉を重ねた。
 彼は口元に笑みを作ると、目だけカナに向ける。
「あ、私も紅茶に」
「判りました。お待ち下さい」
 しばらく沈黙の中、流しでグザイの作業だけが水音を立てる。
 シータはいつもと変わらないように見える。
 彼女はじっと座ったまま、時々顔を動かしている。
 何かを考えているような仕草にも見える。
 カナは彼女と、グザイを見比べていた。
 確かにこの人達には助けられた。というより、拾って貰った。
 食事も貰った。
 ただ彼女は不安のような不信感を持っていた。
 ここが、まるで終着点のような錯覚だ。
 お通夜のような雰囲気、棺桶のような部屋。
 これだけ閉鎖的に生活していながら、『家族』ではないと言い切る。
――ここは一体、どこなんだろ
 逆に、だからカナのように唐突な来訪者を家族のように迎え入れてしまうのだろうか。
 そんなに割り切れなかった。
 そう言う意味では先程の『ルール』という言葉、これには何故か信頼できるものがあった。
――何故だろう
 ルール。法律・守らなければならない決まり事。守らなければ罰が待ってる。
 そう言う何か代わりのもので縛られているという事実に安心できるのだろうか。
 カナはそこまで理解していなかったが……少なくとも、お茶ができるまで待つことにした。
「さあ、どうぞ」
 濃い香りを放つコーヒーを片手に、彼は二人の間にお盆毎紅茶を置いた。
「レモンスライスを用意しました。良ければ、呑む前どうぞ」
 彼は、二人をテーブルに挟んで向かいに座り、自分のコーヒーの香りを楽しむようにしてから切り出した。
「まずは――一番最初の質問の回答から、した方がよいでしょうな」
 何を言われたのか、理解できなかった。
 言葉の意味は判るが、『最初』とは何か。
「私達がここにいるのは――私は、この箱船を理解する人間だからです」
 そう言って彼は大きく両腕を広げ、自分の服を眺めるように顔を動かす。
 麻でできた、簡素なつなぎ。作業用の服だ。
「この箱船の構造を知り、ある程度触ることができる私が居なければ、この船の中での生活は洞窟よりも危険なモノになるでしょう」
 それは彼の自負というよりも、純粋な真実のように聞こえた。
「知らなければ危険な要素の多い――旧いカガク技術の代物ですから」
「カ、ガ、ク……技術?って、何」
 一言一言区切って、確かめるように重ねると、彼は両手をくるんと上に向けて肩をすくめて、元の姿勢に戻った。
「さあ。そう呼ばれていますが私も何の事やら。あ、これは本当に知らないんですがね」
 少し大げさな彼の仕草は、どこかおどけた風で。
 何故かおかしかった。
「ただ、私は昔リロンの研究をやっていた人達と一緒にいたので、理解していなくても判るんですよ」
 話を聞きながら、シータとカナは紅茶に手を伸ばした。
「うぇええ」
「……カナさん、レモンは紅茶に入れてください」
 説明してなかったせいで、お茶請けと勘違いして口に入れてにがーい顔をするカナ。
 無言でレモンを紅茶に入れるシータ。
 紅茶は、まるでレモンに色を吸い取られるようにすっと色が引いていく。
「今はどこでどうしているのか判りません。あのバグ氏も、同じような研究をやっているのでしょう」
「……じゃあ」
 カナの言葉は、すぐ宙に溶けてしまう。
 しばらくそれぞれの飲み物の香りが満たされた空間で、何かを待つように沈黙する。
「シータが、ここにいなければいけないから?」
 一瞬目を丸くしたグザイは、すぐに笑みを作って一口コーヒーを飲む。
 彼の呑むコーヒーはエスプリで、非常に濃い匂いが口中に立ちこめる。
「それは詭弁ですわ」
 かちん、とカップが不機嫌な音を立て、シータは口を開いた。
 視線はカナに向いている。
「姫がここにいなければならない訳ではございませんもの、グザイがここを調べたかったのが本音でしょう?」
 いやはやとグザイは後頭部をかきながら応える。
「姫はここにいる必要はございませんから」
 どこか強気で、いつもの無感情な彼女とは雰囲気が違って見えた。
「ちょっと、シータ」
 だから、カナは慌ててなだめるように声を上げた。
「ああ、カナさん。姫君の言葉は間違いではありません。姫、訂正申し上げます」
 シータは無言で紅茶のカップを手にする。
 グザイは顔色を変えない。
「私は私の意志でこの船に来た。――たまたま、ここを使いたいという姫と、騎士殿がおられた」
「ロウも姫の騎士なんかではありません」
 何故かシータの受け答えが冷たい。
「いいよ、うん。……そんな事きいてなかったし」
 話がこじれるなら聞きたくない。
 カナは、明らかに怒っていると思うシータの様子に、グザイにくぎを差した。
「姫は」
 彼は、しかし聞いていなかったようにそのまま続ける。
「類い希なる才能を持った精霊使い――『だった』のです」
 だった。
 その過去形はどこにかかるのか、カナが理解するよりも早く、シータが言葉を継ぐ。
「精霊は、名前を記憶したモノの意識に取り憑きますわ。そうすることで精霊を取り込み使役する」
 意識の中にある『言葉』という形で、精霊を中に誘導する。
 近しい波が引き込み現象を起こして一つの波になるのと、そう大きく代わらない。
 この名前を覚える事が、精霊使いにとっては難しい必須の技術なのだ。
 言葉を覚えるのではなく、『ことば』として受け止める波導を刻み込むのだ。
「でも逆に言えば、それだけ自分を削って精霊に置き換えている、ということではなくて?」
 彼女の言葉は、まるで自分の死を淡々と説明しているような、感情を感じさせない言葉の羅列だ。
 なのに、泣き叫んでいるような錯覚を受ける。
 いや――本当は、きっと今、シータは叫び声をあげようとしているのだろう。
「リロンを研究する連中によって、二つ目の精霊を引き込まされてから、姫君は精霊使いから世界初の『浸透者(penetratee)』と呼ばれるようになりました」
 多分。
 カナは、何がなにやら理解する事の方が難しくて困っていたが。
 はっきりいうと何を言ってるか八割方わからなかったが。
 多分これだけは、理解できた。したのかもしれない。
――普通に、生活したかったのかな
 特別な力を持つと言うことは、それそのものは決して良いこととは言えない。
 優れた力を持つが為に、その周囲によって矢面に立たなければならなくなる。
 異なった大きな力を持っている為に、平穏が乱されてしまう。
 それを望まない人間にとっては不幸なことだ。
「あ」
 だから名前なんだ。
 唐突に理解できた。
 名前も記憶もない、本当に何もなかったカナに、せめて、『意味』が欲しかった。
 それが彼女の利己的な話なのか、カナを思っての事だったのかそこまで判らない。
 判らないけれども。――シータの不安は、何なのか理解できた気がした。
 グザイの言った『できればそうしてもらいたいと思ってる』の意味も。
 だから名前なんだ。
「グザイさん。シータの名前って」
 カナは思わず質問したが、彼はただ口元の笑みを湛えたまま応えた。
「姫君は姫君でございます。カナさん」
 グザイはそれだけ言ってコーヒーを呷る。
「……姫君。出過ぎた真似をしました。お許し下さい」
 グザイは立ち上がって一礼するとすっとカップをもって流しへと歩いていった。
「あ、あの」
「いいですわ。姫は気にしていませんもの」
 シータの様子は変わらない。
 カナは、酷く後味の悪い感じがして、ばつの悪い顔をしていた。
「本当ですの」
 だから、彼女は貌を上げて言った。
「姫はカナの、……好きなようにして欲しいですわ。でも」
 何故か彼女は口ごもるような、どもるような、不器用な物言いを繰り返す。
「一つだけ、約束、して、ください」
 たどたどしく、言い慣れない言葉を探して話している――それが、彼女にとってどれだけ真剣なのか。
 口調などそれすら判らないのか、それは表情だけで追えなくても判る。
 彼女は――今更だが――感情が表現できないのだ。
 ただ出来ないだけで、こうして観察すればよく判る。
「カナ。最初に会った時の貌は、二度としないでください」
「あう」
 びくっとカナは、驚いたように奇声をあげる。なみだ目で。
「それって泣き虫だって遠回しに言ってる?」
「言ってませんわ。止めてくださいと言ってる側からそんな顔しないで下さい」
 カナには、彼女が答えて紅茶をすする様子が――笑っているように思えた。

 昼食は黙々と終了した。
 カナとシータは流しに並んで、二人で食器を片付けている。
 カナにとってはこの作業は、面白いものにしか映らない。
 スポンジできゅっと音を立てて、皿をひとなですればすっきり綺麗に汚れが落ちる。
「へえー、きれいになるんだねー」
「ならなければやりません」
 相変わらず淡々と答え、特に面白味もなさそうに作業するシータ。
 まあ特に面白いものでもないとは思うが、カナは楽しそうに鼻歌まで歌っている。
「……楽しいですの?」
 だから、手を止めて思わず顔を上げた。
 もうのりのりでくるくると皿を回しながら洗う彼女は、にこにこで答える。
「たのしーよぉ。ほら、こんなにぴかぴか」
 そう言って水を切り、くるりと皿を裏返して見せる。
「それは……良かったですわ」
 何か言いたそうに言うと、やっぱりそのまま作業を続ける。
 仲が悪いように見えなくもないが、シータはこれが普通なのだ。
 別に機嫌が悪い訳ではない。
「明日からは全部お任せしますわ」
「え」
 機嫌は、きっとわるくないとおもう。
 山のように積まれた食器を見ながら、カナは引きつった笑みを浮かべて笑う。
「それはちょっと」
「楽しいのではなかったのかしら?」
 心底不思議そうに首を傾げる。
「楽しいのなら、お譲りしましょうと思いましたのに。そうですか」
 かちゃかちゃ。
 どことなく寂しそうに聞こえた。
――でも!
 ここでうんと言うと次からぢごくが待っている。
「いやその!」
「……なんですの?」
 くるり。
 能面のような彼女の顔が、カナの方を向く。
「うー。ううん、何でもない何でも。さー、早くおわらせよー」
 その後ろで、ロウはグザイを睨み付けていた。
 こちらも別に喧嘩をしているわけではない。
 グザイも、彼がこうやって険しい顔をするのは別段いつものことで変わりはない。
「グザイ」
「……ロウ様。もう少し落ち着けませんか」
 食後のコーヒーを片手に、落ち着いた口調で彼は言う。
 ロウとは極めて対照的だ。
「ああ落ち着いているさ。俺は落ち着いているさ――グザイ」
 だが彼は腰を下ろさず、逆に身を乗り出してテーブルに右手を付く。
「いいか?一体俺はいつまでこんなところでこんな狩りを続けなければならないんだ!」
 それは彼にとっては正しい疑問だった。
 指定されなかった期限については――今は目をつぶっても良いかも知れない。
「本当に聞きたい事は、それだけですかな?」
 じろり、とグザイはロウを睨み付ける。
 僅かに眉を吊り上げ、八の字に眉を歪めるとグザイはは僅かに笑みを湛える。
「どういう意味だよ」
「姫の――限界はあとどれぐらいなのか、などは、お好みでは御座いませんかな」
 ばき。
 水音だけが一瞬その場に満ちた。
 音に驚いて振り返った二人も、ロウが机に拳をめり込ませているのを見た。
「え?」
「……ちょっと、お願いしますわ。よろしくて?」
 ざっと水で両手を流すと、返事も待たずに喧嘩をしているような雰囲気の二人の元へと、シータは何の躊躇もなく歩いていく。
「あ、あのえっと」
 両手で洗いかけの皿を抱えたまま、カナは目を泳がせた。
 けど、取りあえず。
 それを水ですすぐことにした。
 じゃばじゃば。

「ロウ。昼食は終わりましたわ。早く自室にお戻りになって」
 少し熱くなりすぎていた。
 すぐ側でその声が聞こえるとは思ってもいなかったので、ぎょっとして彼は――シータを見た。
「あ……あ、ああ。判った」
「二時間以上の休息と、僅かで良いので睡眠を」
「判ってる。判ってるから!」
 そして彼は逃げるようにして自分の部屋へと駆けだしていった。
 いい加減にして欲しかったから、我慢ならなかった。
 グザイは彼を見送って、肩をすくめるとゆっくり自分のコーヒーをすすった。
「グザイ」
「姫、いえ。特別何も。少し戦闘後で興奮が残っているようでしたが」
 シータは無言でじっとグザイを見つめている。
 彼はそれを何処吹く風で、自分のコーヒーを楽しんでいる。
 ふと気が付いた、彼はそんな風に目を向けると、それでもシータは先刻と同じように黙って彼の方を見つめている。
 勿論顔色なんか変わりはしない。
 変わるわけがない。
 何も怖いはずがない。
「……何か」
「どうして、ロウは」
 多分シータも、先程のカナの一件があったからだろう。
 いや。
 カナの存在を名前で取り込んだとでも言うのだろうか?
――ほう?
 グザイは今までにない『姫』の様子に口元を僅かに歪め。
「あのように疲れ果てるまで戦闘を行うのですか」
 やれやれ。
 グザイは彼女の様子にため息がでそうになった。
 だから、無言でコーヒーを一口呷り、乱暴にそれを机に降ろす。
 とん、と拳が机を叩く。
 僅かに机が揺れても、シータは揺れない。
「違います、姫様。E.X.caliberがそれだけ体力を無理矢理消耗させる代物なのです」
 彼の答えは、勿論シータの望むものではなかっただろう。
 すぐにシータは言葉を継ぐ。
「そこまでして、何故ここで魔物を狩れるのですか。姫は」
「姫。ロウもまたここにいるべき人間ではありません。姫がここにいる必要がないように」
 しかしグザイもロウの総てを知ってる訳ではない。
「彼に、話す理由と意志があるなら私達にも何かあるでしょう」
 ただもっともらしい事を応えると、彼はそれ以上何も言わなかった。

 マセマティシャンは。
 ロウはシータに言われたとおりベッドに横になっていた。
 彼の部屋の中は、ベッドと、もう一つやけに大きな物が横たえられている。
 普段はこのベッドで眠れば事足りる訳だが、危険な場合はこの円筒形状のものを使わなければならない。
 と、グザイに聞いている。
――マセマティシャンは、俺達を利用しているだけ
 所詮はマセマティシャンも『リロン』研究者集団だ。
 ロウやシータとは明らかに違う、世界の外側にいる連中だ。
 どこかの誰かはそれを異端と呼んだ。
 違う。アレは異端などではない。
――異端とか、異端ではない、など……基準があるだろう
 もしそうなら。
 もしアレが異端ならば、自分達はまだまだ人間のうちではないか。
 魔物、それが一体何であるか、なんか、関係ないだろう――そこまで考えて、彼は疑問がわいた事に気づく。

 魔物がなんであるか。

 邪魔な、殺すべき物。それだけだ。別に疑念を抱くほどのものではない。
 彼は即座に生まれた回答に満足できた。
 魔物は世界を滅ぼす、食いつぶす、人間をただただ暴力的に蹂躙するためだけの存在。
 だから殺す。だから壊す。それは良いことだ。なんとしても滅ぼさなければならない。
 E.X.Caliberを手に入れてからというもの、既に何体も倒せるはずがなかった魔物を屠っている。
 いや、手に入れたのではなく。
 シータと出会った時、彼女が『オプション』として持っていた物だ。
 先程のグザイの貌を思い出して、彼は拳をベッドサイドに叩きつけた。
 がつん、と音がして、拳に痛みが走った。金属を叩いたのだろう、だが痛みとして彼は感じたくなかった。
 だからもう一度振り下ろした。
 がつん、がつんと。

  姫の――限界はあとどれぐらいなのか、などは、お好みでは御座いませんかな

 派手な音がして、彼の隣で何かが倒れた。
 いや、叩きすぎて壁から張り出していた棚がへし折れて、床に転がったのだ。
――畜生、どっちが餌なんだよ、馬鹿野郎、馬鹿野郎っ……
 彼は自分の額を右手で押さえて、ぎりぎりと歯ぎしりをしながら。
 消耗した体力に、意識を奪われていった。
 次に気が付いたのは、扉の開く音だった。
「ロウ、夕食ですわ」
 それはシータの声だった。

 魔城、元魔王執務室。
 現緊急魔王失踪対策特捜本部。
 ごてごてと余計な修飾語句が上から継ぎ足されて、凄まじい看板になっている。
 多分最初は失踪対策本部だったのだと思うが。
 微妙に意味が通じにくくなってしまっている気がするが気のせいだろうか。
「本部長」
 久々の出番であるカレラが、恰好に似合わない野太い声で言う。
 忘れてるかも知れないがカレラはどう見ても女性の恰好をした男である。
 四天王の一人だ。
「どうしましたかな?」
 そして、本来であればまおが座っているはずの席に、マジェストが両手を組み合わせて、両肘をついて座っている。
 何かと問題の感じる構図ではあるが。
 彼の目の前にある三角形の名札、ここに紙が貼り付けてあり「本部長」と書かれている。
「シコク周辺にて、魔王陛下らしき反応があったのですが」
「あったのですがではありません。見失ったのならそう言いなさい」
 ふう、とため息をついて左手に体重をかけ、ひらひらと右手を振って『どーでもいい』とジェスチャーする。
 しかしカレラは止めない。
「いえ本部長。唐突にそれが消えてしまい、以降それらしい反応すらなくなってしまい」
 ぴくん、とマジェストの貌にいつも以上の真面目さが戻ってくる。
「それはどういう意味ですか」
「言葉通りです。あの――シコク周辺は我々ですら接触が厄介でして」
 それはマジェストも理解しているはずの、常識。
 あの国周辺には、魔王の軍団にすら問題のある『もの』と『ヒト』がいる。
 半自動化した魔物を配置してはいる物の――逆に、それらは魔王と接点のある魔物ではない。
 いわばラジコン。簡単に言えば、意志疎通は出来ない。
「ヘカテに探させていたんですが、完全に陛下の反応その物が消失しました。おそらくヘカテの検索に引っかからなくなった何か要因があるかと」
 そう。
 自動制御されたものだけに、簡単な理由だけで探すことが出来なくなるのだ。
 マジェストは眼鏡を光らせて下唇を噛む。
「……ならおまえいけ」
「えっっ!」
「いけと言ってるんだ!いけ、魔王陛下を捜せ!速く見つけだせこらっ!」
 唐突にこめかみに青筋を浮かせて、机をばんばん叩いて立ち上がると、身を乗り出して右腕を振り回すマジェスト。
 大慌てで左右からアクセラとシエンタが駆け寄って、彼を強引に椅子に座らせる。
 シエンタはにこにこ笑ったまま、素早い手つきで右手を翻すと――小さな筒が握られている。
「いいかっっ!魔王陛下を見つけて来ないならすぐにでも処分してやっ」
 ぷしゅう。
「落ち着いてくださいマジェスト様。大丈夫ですよ」
「マジェスト様、まお様すぐ見つかる」
 彼はその筒を、マジェストの首筋に押し当てて、アクセラと二人で言い聞かせるような言葉を唱える。
「みつかるー」
 虚ろな目つきでシエンタの言葉を繰り返す、やばげなマジェスト。
「そうそう、マジェスト様がこれだけ努力されてるんですよ」
「帰ってくるから安心する」
 と、それまで極度に興奮していたマジェストは、ほうと一度大きく呼吸すると口元を歪めた。
「いけませんいけません。いや、私としたことが」
 そして、くいと眼鏡を中指で押し上げた。
 アクセラはそれをみて小さく頷くと、シエンタに合図する。
「そーですよー」
 彼はそれだけ言って、アクセラと一緒にマジェストから離れる。
 『鎮静剤』と、彼の手の中の無痛注射器には極太ゴシック体ででかでかと書かれていた。
「興奮してしまいました。……ヘカテも沈黙したと」
 突然ぶち切れて叫びだしたのに驚いていたのだが、ここまで変わり身が早いと対応の方が実はたいへん。
「は、は」
 ヘカテと呼ばれる、ストームブリンガーを統括するラジコンがいる。
 ヘカテ一体でストームブリンガーを十二体まで統括することができるのだが。
「既に命令済みのヘカテを二体解体されてしまっています。ストームブリンガーからのデータは一応記録してあるのですけれど」
 ビデオテープみたいな奴だ。
「あー、陛下の映っていないものは処分。意味がないですよ」
 ふ、と余裕のような笑みまで湛え、マジェストは応える。
「しかし」
 再び、彼は両手を組み直して、そこに額を押し当てるようにして頭を下げる。
「……陛下が見つからなくなった……ヘカテの解体とは関連は?」
「有りません。尤も、見つからなくなってからヘカテがばらされてますから」
 完全に否定も出来ない、ということだ。
「いや、陛下にはヘカテを解体するような技は持たれていないから」
 どうせ人間の仕業。それも忌々しい連中だ。これだけは間違いない。
 逃げる為に魔王が追っ手を倒すというのは考えられる事だが。
「……多分陛下は、余程理由がない限りそんな事はされることはない」
 奴らなら『解体』したがっている。
 まおは力を制御しないから『瞬時に消去』できるが活動停止に持ち込むことはまず不可能だ。
 あのタイプを心の奥底から嫌っているまおなら、一息で消したり逃げたりする事はあっても。
――まさか
 人間と手を組んだとか。
 それは、一番考えがたい結論だ。
「もしかしたら記憶をなくされているのではないでしょうか」
 カレラの言葉に、マジェストは眼鏡を光らせながら顔を上げる。
 貌が見えないからやめてほしいとカレラはいつも思う。
――便利な眼鏡だこと
 勿論マジェストはわざとやっている。
「――だとすれば」
 原始的な方法で、まおを捜さなければならないと言う結論になる。
「今陛下は、一番無防備な状態でさらされている事になる」
 それも一番危険な場所で。
 『ヒト』の中でも一番近づいてはならない『ヒト』がいる国に。
 マジェストの背筋にぞくぞくと悪寒が走る。
「……いけ」

  だだだだだだだだだだだ ぱん ぷしゅう

「おちついておつちてとつとつマジェストさまぁ〜」
 部屋の端っこからまるで飛びかかるように走り寄ったシエンタ。
 問答無用で無痛注射をたたき込む。
 首筋に。
 落ち着いていないのはどうやら誰が見てもシエンタのようなのだが。
「あー。……あ、シエンタ。大丈夫だから下がりなさい。お前の方が落ち着いていないでしょう」
「はーい」
 とてとて。
「あー、こほん」
 咳払いを一つ、マジェストはもう一度元の姿勢に戻る。
「カレラ。一応最悪の事態を考慮して行動してください」
「さ、最悪の事態って、まさか……」
 きらりん。
「無論、『何時自分が死んでも構わない』事態に決まってます。シコクに行けと言われないように頑張ってください」
 マジェストは含み笑いを漏らしながら口元を吊り上げる。
 こわいよ。
「は、はっっ!」
 わたわたと部屋を飛び出していくカレラ。
 マジェストはため息をついて肩をすくめ、がっくりとソファに体を沈める。
 今のところ芳しい成績ではない。
 実際にまおが見つかった――そんな報告を受けてから一体どれだけ立つのか。
 今のカレラの報告だって、本当だったら『救出しました』だったはず(マジェスト的楽観思考)なのに。
「なんてことだ」
 事態は悪化した。
 このままではまおの保護者として失格である。
 かといって、今この場を離れるわけにも行かない。
「こんなことであれば、見つかってすぐにシコクに向かうべきでした、陛下……っ!」
 だくだくと血涙。
「何故でていかれたのですかっっ!」
 彼のすぐ側には、銀色のお盆がある。
 それは、まおがいなくなった時に腐ってしまった彼特製のチーズケーキブルーベリーソース。
 まだ根に持っているらしい。今開けたとしたら、多分怖ろしい臭いが漂うに違いない。
「マジェスト様。……ボクが行きましょうか?」
 シエンタがおずおすと後ろから近づいてくる。
 何故かどこか頬を赤らめて、妙にもじもじと。
「シエンタ。止めておきなさい。アクセラもダメです。あなた方お二人は陛下のお迎えの準備だと、何度も言い渡したはずです」
「でも、まお様は今シコクにいるんでしょ。なんにも出来ない方だからお世話……」
 マジェストは無言で彼の頭を撫でて、強引に会話をうち切る。
 くすぐったそうにするシエンタは、別にそれに逆らおうともしない。
「今は我慢しなさい」
「……はぁい」
 てこてこともどっていくシエンタ。
 しかし、彼自身――本気でシコクにいくつもりはないのだろう。
 子供がだだをこねるのと同じぐらいにしかマジェストも捉えていない。
――まさか既に『解体』を受けている、とか
 怖ろしい想像に、彼は顔を蒼くする。
――シコクのマセマティシャンには、なんとしても気を付けなければならないのに
 それは魔王が触れてはならない存在。
 端的に言えば――敵。憎むべき、でも滅ぼすことの出来ない敵。
「洗脳自体は終了しているはずですが……まだ興味を持つ愚かな人間もいるのですからね」
 シコクは危険地帯。
 人間にとっては住める場所ではないが――一部の魔物にとっても、そこにいる人間のために危険な場所だと認識されていた。
 魔物の敵は、人間。
――どうか、ご無事で
 『最強』の魔物は融通の利かないロボットでしかないから、マジェストは自分を抑える事が難しいことにも気づいている。
 このままでは、間違いなく彼女を助ける為に飛び出すだろう。間違いなく、いつか必ず。
――早く帰ってきてください、陛下
 だから今彼は、ただ祈るより方法を知らなかった。


 ぱちぱちと枝が爆ぜる音。
 きちんと乾いた枝でなければ、甲高くいい音を立てて燃える事はない。
 生木なら火をおこす事も出来ない。
 これは、ビヴァークの常識。
 特に凍てつく大地に身を置くサッポロ防衛軍のサバイバル訓練には、まず火をおこしてこれを維持する事が必須条件となる。
 意外と、寒すぎて水が完全に凍るサッポロでは、乾いた木を手に入れるのは楽だった。
――……いい音……
 だから、たき火の音だけは自信があった。
 かまくらをつくって、その中でたき火をたいて、寝泊まりする位はできなければならなかった。
 酷く懐かしくて、どこか落ち着ける――彼女にとってはそんな音だった。
 だから、決して五月蠅いとは感じなかった。
「……ん?」
 目覚めた理由はそんな物じゃない。
 妙な違和感に目を開けて――そこがかまくらでもなければ家でも、まして見知ったどこかの風景でもないことに驚いて。
 そう、そこは岩肌がむき出しのどこかのほらあなのような、いわば避難所だ。
 訓練を受けた時に説明を受けたような場所だ。それでようやく嵐の事を思い出した。
「痛っ」
「あ、体起こすなよ。あーこらっ、だから起きるなっ!」
 なんでー、と聞き慣れた声に反発するように半身を起こして、彼女は声の方向に顔を向ける。
 たき火が見えた。
 その向こうに、見覚えのある後頭部が見えた。
――あれ?
 先刻まで叫んでいたんだから、こっちを向いていたはず。
 不思議に思って。
「ナオ……っ!」
 キリエは、その時やっと自分の周囲の状況に気が付いた。
「ふーっ、ふかっこーりょくって奴だからなっ!べ、別にっ、何もしてないからなっ」
 そこは何処か判らないが洞窟で。
 二人きりで、たき火を焚いていて。
 周囲は――多分洞窟の中だからというわけではないだろう――薄暗く。
 そして彼女は体を起こしたせいで、上にかけられていた薄手の布がはだけていて。
 まあぶっちゃけ。
 下着姿をさらしていた。

「着替えたぞ」
 寝ている間にナオが乾かしてくれていた服を着込んで、キリエは洞窟の外に声をかけた。
「……なんでここまでなぐられにゃならんのだ」
「五月蠅いっ!」
 洞窟入口の下で、いじけるように座り込んでいた彼は、恨めしそうに声の方を振り返った。
 貌の半分がはれ上がっていた。
 奇声を上げて襲いかかったキリエは、下着姿のまま(錯乱していたからか?)彼の前に回ってぼかすか顔を殴った。
 「みるなー」と叫びながら。なら正面なんかにまわらなきゃいいのに。
 ナオは逃げる事も出来ずただひたすら殴られていた。
 マウント・ポジションで(笑)
「ちぇ」
 傲慢で押しつけがましくて五月蠅い姉に比べれば。
 ナオはどうにかフユやアキというとんでもない姉と比べることで腹に収めることができた。
 尤も二人の姉を嫌っているわけではないのだが。
 彼も丈夫でなければ多分死んでたはずなんだが……。
 ともかく、話すことも目をあけることもできず、ただ指だけでなんとか服を乾かしている場所を指さして。
 彼女が気づいてよたよたとそちらに向かって歩いていくまで、殴られ続けた。
 着替えている間、これ以上はもう勘弁と入口に待機していたわけだ。
「飯も用意してる。腹へってるはずだから喰っとけよ」
 口の中が切れてるようだったが、彼はそこまで言うことができた。
 やっと今まで通りに戻った――と、ナオは思った。
 気を失っていたキリエは二日間眠り込んでいた。
 生きていることは判っていたが、目が覚めるか心配で仕方なかった。
 嵐を乗り切って、どうにかこの島に打ち上げられて、はぐれなくて良かったとも思ったが。
 多分ここはシコクだろう。
 ナオはキリエをこの洞窟で寝かせておいて、食事を狩りながら一度海岸を見て回った。
 かなり広いので、半日では探索し切れなかった。
 少なくとも小さな無人島ではない。
「――」
 声が聞こえて、ナオは振り返った。
「どうした?」
「……その、これ、喰えるのか?」
 串に刺さったトカゲの姿焼き。
 腹を割いて内臓を抜いただけのかえるの丸焼き。
「うまいぞ」
「ぜ、贅沢は言えないけどさ」
 キリエは苦い貌をしてその肉にかぶりついた。
 すこし筋張っててかじるのは大変だったが、臭くもないし苦みもない。
「……味は、そこそこだな」
「だろ。お前、二日間飲まず食わずだからゆっくり食った方がいいぞ」
 興味本位、という風にそれらに手を伸ばして、彼女は彼の言葉に目を丸くした。
「え……俺……」
「足、何とか動くか?」
 聞くまでもない。先刻奇声を上げて飛びかかってきたし、服だって着替えて居るんだ。
 しかし一応だ。あの時は錯乱している。
 何より本人から直接、『大丈夫』という言葉を聞きたかったのかもしれない。
 彼女は驚いた貌のまま、彼女は自分の両脚を見て、空いた左手で撫でるようにしてそれを確認する。
「痛いけど。歩く位ならできるさ」
 強がりも含まれているだろうが、歩けるのは確かなはず。
「ふんばれないけど」
 走って逃げたり、戦うのは無理だろう。
 ナオは口を真一文字に結んで頷くとにっと笑みを浮かべて応える。
「傷跡は残るだろうけど、腐ってもないしちゃんとくっついてるから安心しろよ」
 もっとも、中身は彼にも判らない。
 ただ、傷が広がらないように巻いて置いた布が功を奏したようだった。
 乾かす為に解いた所、疵痕総てかさぶたになっていて出血もなく、ほぼふさがっているようだった。
 動かせばその限りとは言えない。
「きついだろうけど、また巻き直してあるから大丈夫」
「……うん」
 キリエは浮かない貌でそれだけ答え、しばらくもそもそと食事を続ける。
 ぱちぱちと爆ぜる音が響き、洞窟の外からは潮騒の音が聞こえてくる。
 しばらくの沈黙が、今度は不快には感じられなかった。
「ちょっと今までと環境が違うけどさ」
 それに暖かい。
 野山の小動物というよりはここなら魚介類の方が恐らく豊富だろう。
 残念ながら二人にその知識はないが。
 木の実や、草の食べ方は訓練で憶えている。
 魔物だったら食用のものも、食べ方も戦場で憶えたから――不思議なことに、ここには食べられそうな魔物自体いないのだが。
 少なくともそれを考えればここがサッポロではない言えるが――無人島ではないことは言い切れない。
 それは不安だが。
「何とか生きてる」
 そう。――彼は口にしてようやく、その実感を取り戻した気がした。
 安心した事と、二日間話す相手もいなくて黙っていたせいで、どうでもいいことなのに言い訳のように言う。
「早くユーカ達と合流しないとな」
 目を向けると、キリエは食べ終わったのか、串でたき火をいじっている所だった。
 気づいて、彼女は上目で彼を見る。
 今までに一度も見たことのない、彼女の貌。
 いつも張り合って、逆八の字に吊り上がった眉と元気な貌を見せてた彼女が、不安そうな色を残したまま苦笑いを見せる。
「なんだよ」
「……なんでもねーよ」
 ふい。
 ナオが顔を背けたので、キリエはむと口を歪めた。
 立ち上がると、ナオの真正面であぐらを組んで、どっかと座り込む。
「ナオ」
「なな、なんだって!俺何か悪いことしたかよっ!」
 先刻殴られてはれた場所を押さえて思いっきり叫ぶ。
 驚いて、後ろに飛び退こうとするが、そこは洞窟の壁面しかない。
 で、へたりこむ。
「ごめん、もう殴らねーって。……ありがとな。二日……看病してくれたんだろ」
 流石にキリエは苦笑を見せて、そう言った。
 自覚はあるらしい。結構落ち込んでいるようだ。
「海岸からお前を背負って、この洞窟を探して」
 両肩をすくめる。
「別に。……お前でもするだろ」
 ここがどんな場所か判らない。
 落ち着ける場所で、なんとか回復をしなければならない。
――第一、あんな貌見せられて放ってられる訳ないし
 自分を追って飛び込んだ挙げ句、動けないと哀しそうな貌をしたキリエを思い出す。
 どうして。そんな言葉をかけようものなら、すぐにでも泣き出しそうなあの時の彼女の貌。
 海岸にたどり着いた時のキリエを担ぐことに重さも躊躇も全く感じなかった。
「もう無茶するよな」
 おかしくなって、ナオは笑う。
「だってそうだろ。お前、足ずたずたになってたのに、俺を追って海に飛び込んだんだぞ」
「だ――」
 顔を一気に赤くさせて、立ち上がりかけたキリエ。
 でも、そこでそのまま顔を真っ赤にして俯いてしまう。
「だって」
「…………」
 今度は思わぬ反応。
――え、えと。どうすればいいってんだ……?
 ナオは今までに見たことのない彼女にどう対応して良いか判らず、だらだらと冷や汗が流れ始めるのがわかった。
 普通なら今ので怒鳴りながら蹴飛ばされても文句を言えない。
 はず。いつもなら。
 先刻みたいに無茶苦茶に殴られたって、イヤだけどそれが普通だ。いや、普通だったのだ。
「だ、だって?」
 結局オウム返しに聞き返さないと、微妙な沈黙に耐え切れそうになかった。
 その質問が彼女を追いつめるような効果しかなかったのだとしても。
「……あ……」
 たき火の向こう側なので、良く判らない。
 ナオはずりっと体を動かして、彼女の横に回ろうと座ったまま移動する。
「……」
 ちらちらと目を泳がせて、時々ナオを見る。
 何を言い淀んでいるのかとますます不思議になって、ナオはさらに寄る。
「あーっ」
 すると。
 突然かんしゃくを起こしたように叫び声を上げて。
「うるせーっっ!」
 すぐ側に寄った彼の右頬に、全力の右拳をたたき込んだ。
「はぁーっ!はぁーっ!な、ナオのばかっ!おー、お前が悪いんだこのっ」
 げしげし。
 何も悪くないだろう、と突っ込みを入れる人間なんかいない。
 ナオは最初の一撃で完全に昏倒し、倒れた体に浴びせられる拳の雨もただ受け止めるしかなかった。
 合掌。

 サバイバルは苦手ではない。
 むしろ好きな訓練だった。何故なら、笑いながら色々できたから。
 たき火を起こして、小振りで薄手のナイフで獲物をさばく。
 さばいた獣の肉を、串に通して、香味の強い草に包んで遠火で焼く。
 取れたて捌きたての肉は、肉汁も張りも違う。
 肉には串を二本差して、地面に突き立てる。
 二本というのは肉が回らないようにする事と、地面に立てやすくする工夫だ。
 尤もそんな技術を役立てるのは、戦場と、今みたいな状況なのであって。
「何だか、信じられないよな」
 じゅーと肉汁が沸騰する音に、キリエはにこにこしながら地面に差した肉をひっくり返す。
「俺はお前が信じられないよ」
 同じように、地面の肉を回して呟くナオ。
 朝に目覚めると毛布の下敷きになっていた彼は、昨晩の記憶がキリエの一撃以降なかった。
 ある訳ない。アレで彼はまた死にかけたのだった。
「も、もぉいいだろ。悪かったから。……もうしないから」
 ちなみに、泡を吹いてぴくぴく痙攣するナオに気づいたのは充分彼を殴ってからの事で。
 それから大慌てで色々蘇生させようと頑張ったのだった。全く。
「おー……憶えてないんだろ?」
「だからそうだって言ってるだろ。ホントに死にかけたんだよ」
 ぶすっとむくれて怒りもあらわに言ったのに、キリエは嬉しそうにうんうん頷いて肉をくるくる回している。
「……おまえ、なにしてんだ」
「なにって、ひゃ」
 彼女の手の中にあった肉は、回しすぎて落ちて岩の上でのたうち回っていた。
 もうどろどろ。
「それ、お前の分ね」
「えー……くそ、洗ってくる」
 と、キリエが立とうとするのを片手で制して、ナオが立つ。
「俺が行くよ。後ろで見ててくれ」
「ば、馬鹿いいよ。お前が後ろについててくれって。大した事じゃないだろ」
 第一、と彼女は付け加えながら右の人差し指で鼻の頭をかく。
「何かあったら、今、何とかできるのはナオだけだろ」
 彼女は肉を拾うと、ゆっくり立ち上がる。
 普通に歩いているように見えるが、実際はかなり苦痛のはずだ。
 天使の羽は彼女の足を何カ所も貫通したのだから。
 ひょこひょこ歩く彼女を見て、彼はその光景を思い出す。
 まだ足だけで良かったとも思う。
 咄嗟に庇ったのだろう、両腕の御陰で致命傷にも至らなかったし、腕は貫通していなかった。
 武器の御陰もあるんだろう――まさか天使が狙って足を攻撃したとは思いたくない。
「そうだな」
 だから、肉の反対側の腕をとって自分の肩にまわしながら応える。
「こらっ触るなっ」
 手首をひっつかんで肩に回したので、暴れて解こうとしても無駄。
 あんまり強情なのでナオは苦笑して言う。
「このぐらい良いだろ。……何だか罪悪感あるんだよ。我慢しろ」
 今彼女を歩かせたくなかった。
 きつい口調ではなかったが、キリエはぴたりと暴れるのを止める。
「……うん」
 その代わり、黙り込んで顔を背けた。
 この洞窟は手頃な川と森が近く、避難所として立地条件は抜群。
 どれぐらいか判らないが、しばらく生活をしなければならないことを考えればこれは非常に良い条件だ。
 無言でキリエは、ナオに肩を借りて川までくると、両膝をついて川に手を伸ばした。
 澄み切っていて綺麗な水だ。
「魔物、いないか見ててくれよ」
 ざばっと両手を一気に突っ込んで、肉の泥を落とす。
 まずそうだが……どろどろの肉を食べるよしましだ。
「判ってるって」
 じゃばじゃば。
「結構冷たいなー。泳ぐと気持ちよさそうだけど」
「後で体を洗いに来ればいいだろ。なんだか海に使ってから体がべとつくというか、変な臭いするし」
 きっとキリエは鋭い視線を向ける。
「見るなよ!」
「判ってるって」
 今更――と言いかけて彼は命が惜しくなって言うのを止めた。
 一応、服を脱がす時に否応なしに見てしまってるんだが。
――まあ、じーっと中身見た訳じゃないし、良いよな
「……何だよ」
「?」
「お前顔赤いぞ。変な想像すんなよスケベ」
 にや、とキリエは笑いながら立ち上がると、まるで絡むようにしてまた肩を預ける。
「何だよ、色気のない女に言われても何とも思わねーって」
「ちぇ。うるせー。……」
 気にしてるんだぞ。
「……何か言ったか?」
「言わねーよバーカ」
 ふん、と顔を背けて、でも預けた肩は離さなかった。
 もうこれでもかというぐらい体重を預けて。

 午前中は周辺を探索して、午後は食料を調達しながら海岸と方角を確認した。
 水平線の向こうは見えなかったが、太陽の方向でこの海岸の向きが判る。
 想像に過ぎないがシコクに程なく近い島か、さもなければここはシコクだろう。
 二人はそう結論した。
「間違いないって」
 キリエは力説して、たき火を引っかき回す。
 ぽん、ぽんとたき火の中で枯れ木が音を立てて燃える。
「そうだろうな」
 少なくとも小さな島ではない事は確かだ。
 周辺、とは言った物の、この洞窟がある山も大きくてまだ周り切れていない。
 山がこの島の中央にあるものだとしても、海岸線から見た限りかなり大きな島になる。
 シコクである確信はないが。
「問題はどこかだ」
 地理的・地勢的な知識も、まして地図もない。
 想像だけしか出来ない。
「ユーカが魔術でどうにかしてくれないかな」
 ふと思い出したようにナオは呟く。
「うーん……俺も良く知らないからなぁ」
 キリエの方がユーカ達との付き合いが長い。
 でもキリエにもその知識があるわけじゃない。
「でも占いとか得意だったぜ。見つけてくれるよ」
 そう信じようと思う。
 でも、キリエも判っているが、ユーカ達が無事だとは限らない。
 船が無事で生き残っていたとしても、シコクがとんでもない『犯罪国家』なのは承知だからだ。
 二人は無言でたき火を見つめる。
 今は生き残って、信じるしかない。
「いいよ。もう寝ようぜ」
 ナオは自分の後ろに置いてある毛布にくるまると、くるんと横になった。
 無言で、キリエも毛布にくるまって。
「……もう少しだけ、話しよう」
 こてり、と彼の頭の側に、自分の頭を寄せて横になる。
 ナオは――その時は向こうを向いていたが――体を半回転させて、天井を見た。
「寝付くまでな」
 彼女の吐息が、聞こえた。
 思ったよりも近い。
「うん」
 ず、とそばに寄ってくる音がして、焦って彼はもう一度向こう側に寝返りを打つ。
 寝返り位で距離が開くような物でもないが。
「かみさまのお話は知ってる?」
「かみさまって……神話だろ?」
 ぶす、と明らかに拗ねた彼女の気配がする。
「一緒だろ。一緒。……知ってるよね」
 何だろう。
 ナオは子供の頃良く聞かされるおとぎ話を思い出そうとして、首を捻る。
 比喩であって本当に首を動かしたわけではなかったが。
「知ってるよ」
 天地創造の話。
 神が天と地を想像し、そこに人間を住まわせた。
 この神ってのは、一人ではなくて、何人もの集団だった。
――よな。たしか……。うーんと……
 天と地を作った神々は、することがなくなって退屈をしていた。
 だから、『魔王』という悪い魔物を作って、ヒトと戦わせる遊びをすることにした。
「神様って何人だった?俺、十二人だと思うんだけど」
「えー。えっと、十三人だよ。ほら、最後に穹を意味する神様がいるかいないかで人数違うんだよ。知らないの?」
 妙に詳しい奴だ。そう思って、ナオはくすくす笑う。
「知らない。俺は、子供の頃の話は忘れてるかもしれねーわ」
「な、何で笑うんだよそこで」
「馬鹿、怒るなよ。……俺の知ってるかみさまの話って、ろくな話じゃない気がする」
 魔王を、天使と一緒に遣わして世界を征服しようとした。
 何故?答えは簡単。やることがなくて退屈だったから、自分が作った世界を滅ぼしてみようと思った。
 滅びてしまえばもう一度作ることができるから。
 破壊のための創造。神は生まれながらにして破壊神だった。
 わがままで傲慢だった。
「魔王を作ったのが神様だって話……」
「そうそう。酷い話だよな」
 子供は、だから産まれた頃から自分達の生きる道を標(しる)される。
 それは魔物との戦いの道。神などに頼ることの出来ない、ヒトがヒトとして戦い生き抜く道。
「そうかな。俺、そこはよく判らない」
 キリエは子供の頃聞いた『かみさまのはなし』を良く憶えていた。
 多分子供の頃から聡明だったのかも知れない。記憶力だけじゃない。考えてその上に積み重ねることのできる娘だった。
「魔王は人間を滅ぼすために作られた。魔物も。でも、神様は俺らを直接壊せばいいのに、それをしない」
「……めんどくさいし、その過程を眺めていたかったんだろ?」
 む、とナオの言葉にふてくされる気配がする。
「黙って聞けよ」
 彼は肩をすくめた。
 キリエは続ける。
「判るよ。そう言う理由もあるんだろね。それにさ。神様は魔王って存在に意味を作ったけど、人間には意味を作ったって話はないだろ」
 この神話は片手落ちだ。
「おかしくないか?」
「……おかしいのか?」
 だが、それをナオは判らない。そんな事、拘ったこともないからかも知れない。
「神様のうち一人は裏切って、それがこの世の最初の勇者になって魔王と、そして他の神々を滅ぼした。……だから、俺のしってる話は十三人だよ。裏切るのが穹を意味する女性なんだよ」
 ナオは曖昧に頷いて、大きく伸びをする。
「ま、その辺の遺跡がこのシコクにあるってんだろ」
「そうそう。なんだ、良く知ってるじゃん。そうだよ」
「神話時代の魔物に殺されかけて、のーてんきに良くもまあ」
 そう言って、彼女の方向に寝返ろうとして、何かが視界を横切るのが見えた。
 気づいたときにはもう遅い。
 キリエの腕が、彼の頭に絡みついて押さえ込んで、身動きとれなくする。
 体は勢いで止まらなくて。
 ぎりぎりぎりぎり。
「いっでででででででで」
「五月蠅いこらっ!何だよ、全くヒトが話してるってのに」
 ぎりぎりぎりぎり。
「ねじ、ねじれっ、くび、くびいたいって、し、しぬっ」
 ナオは本当に生きて帰れるんだろうか。
 合掌。


 思ったよりも早く、運命の日は訪れた。
「あ。……いや、間違いないな」
 まだ陸地からしばらく遠い場所なのに、妙に大きな影があるのが見えた。
 ユーカは懐から単眼鏡を取り出して覗いてみると、やはりそれは軍艦だった。こちらに接近してきている。
「予想通りお出ましですか」
 隣にいるウィッシュが、にこやかに落ち着いて言う。
「みたいだ。……できれば穏やかに済ませたいところだが」
 ユーカ、ウィッシュ達は、生き残った人間で、トクシマまで取りあえずいける事を祈っていた。
 なにせエンジンであるいぬむすめも半数以下に減っていたので、とても漕いで進む状況ではなかったからだ。
 水夫もいない帆船など、どうやったってただの船。浮くだけの箱だ。
 半数とは言えいぬむすめを酷使し、どうにか進んできたわけだが、訓練された軍艦相手では逃げる事も、恐らく回頭することももう難しいに違いない。
「むしろ捕らえられた方が楽でしょうね、この船で進むより」
「そう言う考え方ができる方が気が楽だ」
 ウィッシュがにっこり笑うのを、苦笑して応えるとユーカは他のみんながいる船室に向かう。
 天使の襲撃でぼろぼろになり、脱出用の小舟でさっさと逃げた人間も多く、もうこの船には絶望的な人間しか残っていない。
 どちらにせよシコクに向かおうという酔狂な人間は少ない。
 彼女達はさっさと一等船室に居を構えていた。
 どうせこの船は、あの嵐で沈没した事になっているはずだ。

  がちゃり

「おかえりぃ、待ってた「待ってない。早くでろ」
 ばたむ。
 でろと言いながらさっさとドアを閉めると、隣に入ったウィッシュの後に続く。
 ウィッシュ達の部屋にはヴィッツが所在なげに椅子に座っている。
「そろそろお出迎えが到着する。女性ばかりの私達は多分に危険だ」
「あの」
 ヴィッツは恐る恐る右手を挙げる。
 視線が合うユーカと彼女。
「ミチノリさんは一応男の方かと」
 なかなか酷い物言いである。
「見た目はどう見ても誰が見ても私も思うが女だ」
「……入室するなぁりそれぇはひどぉ」
「酷くない。続けるぞ」
 ユーカは真後ろから上がった非難の声と、扉の閉まる音を思いっきり無視した。
「……大丈夫ですか?」
「しくしくしくしく」
 扉の真下で、向こうを向いていじけ始める彼に、ヴィッツはとことこと近寄って頭を撫でたりした。
「但し、この際ミチノリには活躍して貰う。我々はこれから男になるんだ」
 一瞬空気が硬直する。
 が、ウィッシュはにこにこと笑って手をぽん、と打ち鳴らす。
「そうですね。ユーカさんがそう仰るなら、手荒な真似はしたくないですしね」
「そう言うわけだ、ミチノリ」
 え?
 振り返ると、全員の視線が彼に注がれていた。
「え〜、あぁのぉぉ〜」
「覚悟しなさい」
 ユーカはにんまりと笑った。

   

※     ※     ※

 シコク軍、というのは建前上軍隊組織を模した形態をとっているものの、実はただの犯罪組織だ。
 臨検などと言いながら海賊まがいの行為を平気な顔して行う。
 人間というのはしたたかなものだ。簡単に船が往来できないから、それを利用しようというのだ。
 危険とは隣り合わせだが、その代わり犯罪の自由を求めた人間達はそりゃ、情け容赦ない。
「珍しい獲物だ、野郎共、どうせ中にはヒトは乗ってないだろう」
 嵐の後で漂ってきたガレー船だ、そう言う考えに至ってもおかしくない。
 普通は難破して沈むだろうからそれを引き上げに行くのだ。人命救助なんか考えていない。
「乗ってたら乗ってたで売っちまうぜ。船は偽装して隣国にでもさばいて飲み代にでもしちまおう」
 ……。
 はっきり言うとまあ。
 とんでもない連中だった。
 折角魔物と嵐を抜けても、人間が待ち受けているという皮肉。
 海賊達は、ユーカ達が乗っている船を見つけてゆっくり近づいていく。
「停まれー。そこの船停まりなさいー」
 一応おきまりの停船勧告をして、すぐ横付けしてしまう。
 ガレーにガレーを横付けというのは、相手に停船の意志がないなら相当腕が必要だ。
 勿論速度の問題もあるが、彼らはそれを難なくやってしまう。どれだけ海賊慣れしてるかというのをありありと示すものだ。
 まあ普通は衝角と呼ばれる突撃用の装備があり、これで追突して一気に沈める手段を執るのがガレーの戦い。
 ヨーロッパの海賊のように横付けするのは帆船の時代だ――と言ったって、腕は確かでなければならないのは事実で。
 ロープを投げて、数人が乗船すると手早くこれを結びつけて、何枚かの板を渡す。
 これで固定してしまう。尤も、波が少しでも荒い場所ではこれは出来ないが。
「よぉし乗り込めっ」
 どかどかどか。
 勢いよく、ボスを先頭になだれ込もうとした時。
「あぁ、かいぞくさんですかぁ?おつとめぇ、ごくろぉさまでございますぅ」
 入口?らしい場所が開き、しゃなりとひ弱な人影が出てきた。
 ぴたり。
 ボスの足が止まった。
 甲板に乗り込んだのはおよそ十名、全員が全員屈強な男だ。
「なんでぇ」
 その彼らの前に出てくるのは。
――全員女性?
 引き続いてでてくる者は、普通着ることのないようなドレスのような者に身を包んだ女性達。
「さくばぁんのぉ、ひどぉい嵐ぃのせいでぇ、ごらぁんのありさまなのでぇすよぉ」
 最初にでてきた、この頭の悪い話し方をするのんびりした女。
 ドレスと言うよりはこの恰好は、むしろ。
――……ねぐりじぇ?
 流石に中は透けて見えないのだが、体の線が所々浮き上がるような扇情的な服。
 普通はこんな服着て歩く馬鹿はいない。
 後ろにいる連中はまだましな恰好をしているとは――いえ。
 まあ似たようなものだ。
「何だ、お前ら」
 決してこんな船で旅をするような恰好とは言えない。
「この船に雇われていた娼婦で御座います」
 こちらは――美人か。つんとすました話ぶりだが、顔つきは険を感じさせない優しさがある。
 年上の大人の女性の雰囲気。
 頭の悪い女の後ろに立っているその恰好は、華美なレースをひらひらさせているが、全身真っ黒。
 体のラインどころか、そこに闇が凝り固まっているようにも見える。
 或る意味不吉な雰囲気がある。娼婦――とは、思いがたいが。
「ほぉ」
 海賊達の間に笑いが漏れた。
「それは困ったなぁ。雇い主は誰だ?」
「あらしでぇ、ダメになっちゃいましたぁ」
 海賊は納得したように豪放な笑い声を上げて、ずいとしゃがみこんだ。
 そこに、顔を上げる少女?。
「なら俺達が雇ってやろうか?」
 再び笑い声。
 雇ったところで払う金はない。
 払わせる金はあるだろう、壊れない内にさっさと回してしまうつもりで。
 ようはここにあるのは思ったよりも楽な『獲物』でしかなかった。
 ほんの、この瞬間までは。

  するり

 思わぬ事に、しゃがみこんでいた少女?は両腕を彼の首に回してきた。
「おいおい」
「よぉくみるとぉ……みっちゃんのこのみのたいぷぅ」
 すりすり。
「気の早いや……」
 嬉しそうに鼻の下を伸ばすところまではよかった。
 彼の視界に、妙な物が映って、言葉はそこでとぎれた。
「『ミチノリ』。落とし物ですよ」
 どう見ても。
 それは、詰め物。
 丁度大きさは、握り拳の倍ぐらいの粒が二つ、小さな布の塊の間に紐が縛り付けている代物。
 まくらだ。枕をぎゅうぎゅうに縛り付けてこの形に、大きさにしてるものだ。
 どう見たってそれは、今先刻まで彼女の胸の中にあったはずなんだが。
「あーぁぁ」
 てへり。
 嬉しそうにそれをうけとって、服の上から巻き付ける。
 それでは意味がないと思うが。
 いや――逆に、妙にぺたんとした体の線が浮かび上がる。
「まて。……ちょっと待てよお前ら」
 ボスは自分の首に巻き付いている「これ」の名前をもう一度確認しようとして、『彼女?』の後ろに立っていた『女?』に目を向ける。
「はい?どうかしましたか」
 にやにや。
 気が付いたら、全員変なにやにや笑いをして、全員を舐めまわすように眺めている。
「ここ、こいつは」
「『ミチノリ』ですか。どうやら貴方をお気に入りのようですから可愛がってあげてくださいな」
 別な『女?』も、にっこりと――この笑みはとてもにこにこには見えないんだが――笑って言う。
 既にどちらが獲物なのか判らない。全員の目つきも、どこかは虫類を思わせる雰囲気のものに代わっている。
 船乗りの常識として、色々有るのだが。
 少なくとも目の前の『女性』達が真っ当な『女性達』である可能性は。
 船の上で娼婦などと言う存在が、妊娠もせずに全うに生活する為には何が必要で、何が必要でないのか――
「えへぇへぇ」
「はー……離せこらっ」
 ぶん。ばたり。
「ふぇぇ」
「――っ、おー、お前ら、下いけ下っ、金目の物探してこいっ」
 ボスの一喝でさっと部下が散っていく。
 まるで嫌な物を見た、というか、普段ならここまでさっさと姿を消すことなんかないだろうに。
 こんな時に限ってあっという間に船室に消えていく部下達。
「あぁらあぁら、大丈夫?ミチノリ」
「だぁいじょぉぶぅだけぇどぉぉ」
 にっこり。
 ミチノリの笑みは、勿論普通の、いつもの笑みだったが。
「――――が――――」
 ボスの顔を引きつらせるのには充分なようだった。

「どうにかいきましたね」
 どう見たって子供の恰好のヴィッツは、それでも冷や汗を垂らして座り込んでいた。
 取りあえずすぐに手出しするのは諦めた(全員男か女かはっきりしないから)のか、そのままユーカ達は船倉の奥に押し込められてしまう。
「成功率は八割ってところだったから、良くやったほうかな」
 えへへへと笑うミチノリに、ユーカはため息を付いて言う。
「……残り二割は」
「全員は信用していないから、何時襲われてもおかしくないって事だよ、ヴィッツ」
 ふふん、と嬉しそうな声で笑うウィッシュを奇妙な目で見て、ヴィッツは黙り込んだ。
「シコクの連中は、犯罪組織と言ったって或る意味肥えた連中とは違う。問題は餓えてるか否かだったが」
「所詮この程度の仕事は下っ端でしょう?だったら『ノーマルでさほど餓えていない』と思うべきです」
 もっとも。
 彼女はそれ以上の言葉は口にしなかったが、喩えユーカが反対したとしても、ミチノリが喜んだとしても。
――巧くいかなければひねり潰しましたけどね
 人間風情になんか。彼女はおくびにも出さず上機嫌に鼻歌を歌う。
「後は」
 シコクに着いたら、この船をどうやって脱出して、キールと接触するか。
「ええ、後は簡単です。――私に任せてください」
 ウィッシュは何故か、怖ろしく爽やかに、嬉しそうに応えた。

「お、おい」
 ウィッシュの危惧はそれほど遅くなく、しかし意外な形で当たる事になった。
「五月蠅ぇな、あれだけ可愛い娘が全員男だなんて考えられるか?」
 彼女らが船倉に押し込められた直後の事。
 彼女達が乗っていたガレーシップを捜索していた海賊の手下は、典型的なちんぴらだった。
「だからって、お前、関係ないだろ」
 五人目の娘が船倉から発見された。
 まだ息はある。
「同じだろ?剥いてみれば判るし、今は親分も見てねぇ。ここだったら大丈夫だ」
 彼女はうつろな目をして、ちょこんとそこに座り込んでいた。
 白いワンピースを着込んだ、亜麻色の髪の毛の少女。
「船倉のあいつらをむいちまう方が良いだろ、腐っても娼婦だぜ」
「五月蠅ぇって言ってんだろ。見ろよ、この顔」
 くい、と顎に指をかけて顔を上に向かせる。
 表情は変わらない。自分が何をされているのか、今何が起こっているのか判っていないのだろう。
「いいじゃねぇか、出す前に『味見』して、ホントに女かどうか確かめてやるっての」
 どう見たって子供のその娘には会話の内容は判らないだろう。
 それにしたっておかしい。
 死んでいないようだが、生きているようにも見えない。
「……好きにしろ、階段で待っててやるから早くしろよ」
 同僚も呆れて、階段の上へと上っていった。
「へっへへ……」
 振り返ってそれを確認もせず、彼は少女の首元に指を差し込んだ。
 そのままワンピースを引き裂くつもりで。
 つもりで、引き下ろした。

  ぷ つん

 変な感触がした。やたらと無抵抗だった。そのまま手首を床面に叩きつけて、べちゃりと音を立てて激痛が走った。
 変な音がした。嫌な感触がした。有り得ない感覚が、男を襲った。
 だから。
 そこに少女は立っていた。虚ろな瞳で闇を見つめるようにして。
 先刻までの白いワンピースは、まるで何かをこぼしたような模様になっていて、素足は水に浸かっていた。
「……どこ……」
 ぺちゃ。
 船倉に水がたまっているのだから、放置すればきっとこの船は沈む。
「……ここは」
 感情のようなものはないようだった。
 ただ、機械的に彼女はその周辺を調べている。
 足下の水には目もくれず、ゆっくり階段に向かう。
「んー、諦めたか?」
 声がした。先刻聞いた声とは別の声だ。
 だがこの声も、少女には関係のない声だった。
 同時に声の主が姿を現したが、悲鳴を上げて背を向けたその男に、彼女は無慈悲に腕を振り下ろした。
 ひゅ、と。
 風を切る音と共に、男は縦に4つの塊になって崩れ。
 一つは勢いよく地面に転がり、階段を下に――彼女の側を通って、落ちていった。
「……ま……」
 上の方でばたばたと音がする。
 妙に騒がしい音がする。だから、彼女はやはり何の感慨もなく、たき火の明かりに誘われる夏の虫のように、その音に目掛けて歩き始めた。
 ぺたり、ぺたりと。
 闇から姿を現した少女は、まるでペンキを頭から被ったように真っ赤な恰好をしていた。
 顔、服、足下から――その虚ろな貌を彩る飛沫。
 ぺたり、ぺたり。
 どたどたという足音が、悲鳴を伴い一つづつ消えていく。
 一つ、二つ、三つ。
 彼女にとって残念だったのは、五つ目を数えたのと同時に、船が大きな音と同時に揺れた事だった。
 どん、どんと大きな破裂音と共に、木が無理矢理砕ける音が聞こえて、立っていられなくなった。
 めりめりという木を引き裂く音と、ぱちぱちという燃える音に、そして全身が感じる空気の伝える熱。
 それでもどんどんという鈍くて低い大きな音は消える事はなく、むしろ激しく彼女の周囲で鳴り響き、木が砕ける音がしている。
 ぐらり、と大きく足場が揺らぎ、ばしゃんという水音が聞こえた。
 少女は転がり、壁に叩きつけられたが――かなりの勢いで、鈍く肉を叩く音がしたというのに、平気な顔で壁に立つ。
 見れば壁――今は床に当たるのだが――の丸い窓が、水圧に耐えられなかったのか、衝撃のせいか判らないが、噴水のように水を吹いている。
 先刻まで響いていた轟きのような破裂音は消え、浸水する音だけが彼女の周りにあった。
 それは自然な閑けさであり、彼女以外の誰もが存在しない証拠でもあった。
 彼女はすと頭を上に向けて、見えないはずの穹を見上げる。
 同時に、ワンピースをすり抜けて彼女の背中から大きく、立ち上がる白い翼。
 鳥のように幾枚もの羽が見えるのに、その動きは鳥の羽ではなくは虫類のそれだ。
 ばさり、と一度大きく、まるで確かめるように羽ばたくと、ばさ、ばさと力強く飛翔を開始する。
「……帰る」
 少女は呟き、横向きになった階段から外へと向けて飛び去っていった。

 ガレーシップの構造は非常に単純である。
 要するに、バスタブのような構造を上下に分ける床板を敷けばいい。
 これを繋ぐ階段が数カ所にあり、この部分を船倉という。
 喫水よりも上の部分は通常船室になり、操舵室を一部含む。
 これは荷物をどうやって乗り降りさせるかという点に限って言えば利のない話かも知れない。
 だが船の構造状、上に重い物を載せると傾いてしまう。
 できれば重心は低い方が良い。この為、船倉は必ず一番底にくるようになっている。
 それに水に囲まれ、日光の影響を尤も受けにくいここはそれなりに保存が利く。
 湿気が多く腐りやすいが。しかも、ガレーは喫水から下が極端に小さな平底構造をしているため積載量は少ない。
 ともかくそう言う物なのだ。
「ちょっとばかり多くの魔力を使いますが」
 ウィッシュは説明を始めた。
「私は、この船底に、通れる位の穴を穿ちます。脆くしてやればすぐ海水が侵入してくるでしょうから」
 ユーカの手持ちの魔術ではそんな大がかりなことは出来ない。
 が、一応役立つものを一つだけ使える。
「わ、みっちゃん泳げない」
「私が呼吸を十分だけ止めても平気なようにしてやる」
 別に水中で呼吸できるようにするわけではないようだ。
「但し十分だぞ。ウィッシュ、穴を穿つのはどのくらいかかる?」
 んー。彼女は首をゆっくり傾けて、自分の頬を人差し指で支える。
「そうですねぇ……できる限り厚みが薄ければ良いんですけど、最短でいけば五分というところですか」
 錬金術というのは便利な代物ではない。簡単に金が作れるわけではない。
 無から有と言うわけでもない。
 しかし、物を変化させる事はさほど難しい事ではない。
「判った。合わせて準備する。脱出したら、できるかぎり船から離れて水上に出よう」
 船というのは隔離された空間である。
 強固(木製且その頑丈さの程度はたかが知れているとはいえども)に囲まれた彼女らは、それだけ見れば牢獄である。
 頑張らなくても海に囲まれた中では、穴を開けたところで普通は脱出できない。
 だから古来より海賊は捕らえたものを船倉に押し込める事にしている。
 尤もよっぽどのことがなければ、手かせ足かせ猿ぐつわぐらいは噛ませる物だ。
 しかし御陰で、船倉の自分達の荷物は簡単に探すことができたのでさっさと掌握している。
「……なんでこんなに余裕があるんでしょうか」
「ミチノリの名演技の御陰だ」
 にっと笑うユーカに、ミチノリは照れて顔を赤くする。
「誉められてないですよ」
「えぇえ?うそぉ」
 感じ方は当人次第だな。

 床一面に、白い粉で奇妙な図面を書き終わると、ウィッシュは何事か呟きながら、手元を返した。
 袖の内側にあるポケットに入れた、小さな小瓶が掌に収まる。
「準備」
 ウィッシュのその合図に、ユーカが呪文詠唱に入る。
 ウィッシュ・ミチノリ・ヴィッツ・彼女の順番で「呼吸停止許可」の術を使うのだ。
 効果は――名前の通り。
 魔術ではない。厳密には言霊を利用したもので、呼吸を止めていられるようにする(そのように体を騙す)ものだ。
 曰く、『世界中を旅するには、何があるか判らないからな』という事だったが、どういう経緯で修得したのかまでは教えてくれなかった。
 ぽん、とウィッシュの背を叩いて術を施す。
 同時に、ウィッシュは小瓶の中身をゆっくり床面の模様にぶちまけ始める。
 水に見えるそれは、彼女がつくっておいた触媒。
 できる限り簡単に、できる限り確実に反応を促進させて、思い通りの効果を得るために重要な材料。
 それが触媒で、魔術・錬金術を問わず術師は必ずこの知識を持っている。
 ユーカにとっては言霊使いというのは、この触媒の性質だけに特化した魔術だと考えている。
 『呼吸停止許可』の言霊は、そう言う意味で触媒とも言えるかも知れない。
 小瓶という束縛を離れ液体が宙を舞い、雫は無様に形を歪める。
 ウィッシュは左手を小刻みに踊らせながら、目を閉じて右手で印を組む。
 呪文詠唱。
 静かで、呟いているような謡い声。それが彼女の呪文の旋律。
 抑揚を付けて、素早く右手を切り、完全に瓶の中身をあけてしまうと、そのまま瓶を懐にしまう。
「『fragile』」
 ばきん、と甲高い音が響いた。
 ウィッシュは、困った顔でそのまま口元を歪めて。
「あれ?」
 苦笑した。
「思ったよりも早いですね」
「早いですねじゃありません、望姉。……もしかして海の水圧を考えてなかったとか」
 ヴィッツの指摘が終わる前に。
 どん。
 破片をまき散らして、そこに予定通りの大きさの穴が開いた。
「早くっ」
 ウィッシュは躊躇わず飛び込み、準備の終わっているミチノリが続く。
「あなたも」
 ぽん。
 ヴィッツの背を叩く。彼女は驚いて振り向き、ユーカの笑みに声を詰まらせる。
「ユーカさん、そんな」
「大丈夫」
 そう言って、懐から笛のような物を取り出してくわえると、ヴィッツを引っ張るようにして彼女も飛び込んだ。
――全く、予定より何分も早いだろう
 一瞬わざとだろうかと疑ったが、しかし今は詮無きこと。
 いざという時の備えを消耗するのは痛いが、それも準備さえしておけばよいだけのこと。
――お人好し過ぎるか
 あのタイミング、もし自分狙いだったとして。
 先にミチノリを行かせてある。ヴィッツと、自分。どちらに魔術を行使するか。
――……言うまでもないか
 逆に信頼されていると考えよう。
 ユーカは僅かに苦笑して、先を泳ぐヴィッツの後ろについた。
 なおどうでもいいが。
 意外とミチノリの泳ぎはさまになっていたことを付け加えておく。

 カガワの町並みは、想像するよりももっと無機質な感じを受けるだろう。
 平板で硬質な、切り出した石のような人工石を組み合わせた、継ぎ目のない道路に、同じような石造りの建家が並ぶ。
 木製の家が多いホンシューに比べて、ここシコクはさらに人工的な町並みと言えるかも知れない。
 逆に、自然物は少ない。
 木製の家は港周辺にぽつりぽつりある程度であり、通りを歩く人達だけでなくその印象からは活気と言う物を感じるのは難しかった。
 通りをすれ違う人間からは陽気さは感じられない。
「なんだか薄気味悪いというか」
「その通りだな」
 ウィッシュの言葉に、ユーカは断言して答える。
 彼女らはさっさと港の外れから陸に上がると、さっさと新しい服を調達して街の中に紛れ込んだ。
 相変わらず重厚な恰好のウィッシュと、見るからに少年の恰好をしたヴィッツ。
 並ぶと、お嬢様と小間使いと言う雰囲気になる。
 ユーカは、何処でどう手に入れたのか何故か着流し。
 サラシで綺麗に巻いた胸元が見えていて、何というか怖かったりする。
 きっちりドスも腰に差している。
 ちなみにミチノリはいつもの祈祷師装束だ。
 怪しむ云々以前にそれ以外選択肢はなかったし、彼の場合術を使う為の服装なのである。
 同じ服を二着三着当たり前で持ってたりする。
「……ユーカさん」
 ヴィッツの不安そうな声。
 ウィッシュも顔色は変えていないが、視線は訴えている。
「判ってる」
 ミチノリもいつもの明るさは感じられない。
 へらへらしているが、彼も感じているようだ。
――見られている
 妙な組み合わせであることも確かだが、『よそ者』であるという意味もあるのだろう。
 無用な注目は避けておきたいのだが。
「さっさと行こう。キールを掴まえなければならない」
 全くの手がかりがないわけではない。
 なければわざわざこんな危険を冒してまで来ることはない。
 キール=ツカサは、ユーカにとっては友人、元同僚とも言うべき者だ。
「何より――」
 ここ、カガワの街を抜けなければならない。
「馬車を借りるか、盗むしかないだろうな」
 ここのギルドにはコネも知り合いもない。
 金はできる限り、避けたい。だまし取られたりふっかけられる可能性があるからだ。
 それに。
「トクシマへの道は」
「人に頼むより自分で行く方が確実だ。信用できるか?」
 だまし取ろうとする者、拉致して売ろうとする者が当たり前にいるこの街で。
 そんな危険な場所へ向かう酔狂な馬車があるとは思えない。
 ウィッシュも、ヴィッツも首を横に振った。
「でもできれば早めに、そのキールさんと連絡を取りたいものですけどねぇ」
「……判ってる」
 何事もなければよいが、とユーカは思ったが。
 大抵、何もなくキールの元にいけるほど、生やさしい所ではない。
「判ってるが、移動手段を手に入れてさっさとわたる方が良いかも知れない」
 ざっ。
 足音に、ユーカが立ち止まる。
 ほぼ同時、ウィッシュが一歩下がりながら振り向く。
「足は、大事ですからね」
 ウィッシュの目の前に二人。
 ユーカの前に三人。
「早速でたよぉ」
 何故か嬉しそうなのはミチノリ。
 たまには話しておかないとその存在が失われている様な気がして。
「黙っておけ」
 ウィッシュとユーカでヴィッツとミチノリを挟み込んで、円陣を組んだ状態。
 じり、と輪を狭めてくる、どこか抜け目のない顔つきをした連中。
「やりたくないが」
「逃亡者には選択肢はないと、そう言うことですね、ユーカさん♪」
 ウィッシュの笑みが翳り――彼女独特の、『化物』の顔をさらけ出した。
 一触即発――ユーカが左手の防御用アミュレットに手をかざしたその瞬間。
「あー。そこまでそこまで」
 ぱんぱんと手を叩きながら、路地の脇から一人の男が姿を現した。
 細身で、長身。
 白い手袋をした蝶ネクタイとスーツ姿の男。
「見ず知らずの人達に襲いかかるのは、非常によろしくないかと私思うんですがね」
 ユーカの前で、巫山戯た物言いをしながら、振り返る男達に彼は怯えもせずにこにこと両手を広げて言う。
「さあ、ここは私に免じて解放した方が身のためですよ」
 唐突に姿を現した男に、ユーカ達よりも男達の方が驚き、また怒る。
「んだとてめぇ」
 非常に判りやすく激昂した男は、瞬時に踵を返してナイフを抜いた。
 刃渡りは片手より大きい程のそれを逆手に構えて地面を蹴る。
 姿勢を低く突進するその姿は戦い慣れた人間のなせる技。
 何の構えも取らずに両手を広げる男など、どんな対応をしたって頸動脈を一撃できる。
 そんなつもりだった。
 それは但し。そんな、見え透いた突撃など――戦い慣れていない人間にしか通用しない。

「残念だね」

 わずか。
 彼が右手を翻しただけ。

  ぞ ぶん

 いやな音が響いた。
 男は突然バランスを失って倒れる。
 受け身もとれずに、ヤスリのような表面をむき出しにした人工石の路に顔から突っ込む。
 起きあがろうとした。
 が、何故か全く動けない。
 両膝を付いて顔を地面に押さえつけるような恰好で、なにかがぽたぽたと流れる音を聞きながら。
――それが自分の垂れ流している血液だと気づいた時には、ゆっくりと意識が暗転していくのを止めることもできなかった。
 何が起こったのかユーカが理解するにはあまりに時間が短すぎた。
 男は右手をくるっと回して、指を鳴らしたように見えた。
 本当にただそれだけで、襲いかかっていた男の両肩から先が消し飛んだのだ。
 文字通り消えてしまった。
 魔術、ではない。魔術というものはそんな簡単な物ではないし、ここまで細かく制御しているなら言霊になるが言霊にしては。
 そう、人間の魔力では、いきなり腕を『消失させる』ような強力な術は使うことはまず無理だ。
 あのフユ将軍ですら酷く準備がかかる話だ。
 少なくとも、数日準備した場所で取り囲まれている人間を助けようと思っていない限り不可能だ。
 つまり『彼は言霊で準備した場所で人が襲われるのを待たなければ』ならないという事になる。
 ユーカは驚愕に表情を凍らせた。
「な、なんなんだ一体」
 ウィッシュも気が付いていた。
 今の攻撃に、一切の魔力が感じられなかったことに。
 背中越しで何かが起こった事だけは物音で理解したが――それ以上は理解できない。振り向くわけにもいかない。
「さあ」
 紳士は謡うように言葉を紡いだ。
「この私の顔と、地面に這い蹲った彼に免じて引き上げないかね?」
 両掌を天に向け、楽しげに。
 体を痙攣させて今まさに死に至ろうとする男の目の前で。
 その張本人はなんの罪も感じた様子もなく。
「できればこの死に損ないも運んでくれると助かるかな」
 決断は早かった。
 ばたばたと、最初に姿を現したのと同じように、あちこちの路地へと散って消えていく。
 そこで始めてウィッシュも振り向き、一斉に体の力を抜いた。
 ふらりと崩れそうになるヴィッツを支えると、ウィッシュは彼女を支えたままミチノリの横まで移動する。
「ありがとうございました」
 紳士はにっこりと笑って、ユーカが一礼するのを右手を横に振って応える。
「いえいえ。こんな物騒なところに、こんな女性ばかりでおられれば手助けもしようというもの」
「タイミング良くでてきていただいて、助かりました」
 ウィッシュはそこはかとなく毒を吐いてみるが、男は一向に気にせず、むしろおかしそうに笑う。
「はは、そうですね。いやいやこれは手厳しいな」
「それからぁ」
「むしろ、ここで誰かを信じろという方が難しいと思うのだが。私はカサモト=ユーカ。貴方は?」
 相変わらずのんびりと非難しようとするミチノリを、思いっきり無視する形で言葉を重ねるユーカ。
 がびん、と顔に縦線を描いて冷や汗を垂らす彼。
「私はバグ=ストラクチャ。こちらにはちょっと買い出しの用事でしてね。もし良ければエスコート差し上げますが」
 よしよしとヴィッツに慰められるミチノリは取りあえず放置の方向で、ユーカはウィッシュに顔を向ける。
 ウィッシュはにこにこ笑っているが、内心は眉を顰めていた。
 今人を殺す事に全くの躊躇がなかった。
 しかもその手段も全く判らないと来ている。
 彼女のように対勇者用として色んな情報を詰め込まれて生まれた存在は、人間として今目の前の男がおかしい事に気づいていた。
 明らかに行動様式に異常が見られる――欠如した人間性という。
 見た目――その服装に至っては、間違いなくこの辺の様式ではない。
 あそこまですっぱりと盗賊どもを殺すだけの覚悟が有れば、少なくとも彼らの仲間ではないだろう、が。
 それだけは断言できる。
「ユーカさんにお任せします」
 しかし知ったことではない。彼女は思い返した。
 今は、どうにかナオとまおを捜す事の方が重要なのだ。
 ユーカという手駒の能力は捨てがたく、彼女が目的をさっさと果たしてくれた方が恐らく二人を見つけるのに手間はかかるまい。
 目の前の男にどうされようとも、少なくとも自分とヴィッツは何とかなる。そんな風に考えていた。
「簡単には信用しない方が良いと思いますが」
 ね、とバグにほほえみかける。
「おやおや、こちらの方も相当な修羅場をくぐっておられるようで。……判りました」
 そう言うと、彼は胸ポケットから一枚の紙切れを出し、ユーカに差し出した。
 ユーカは訝しげにそれを眺めて、ずいとさらに突き出す彼から受け取る。
「……貿易商人?」
 それは名刺ではなく、カガワ発行の通商許可証だった。
 欠け印がきちんとエンボス状になっている。発行者はカガワの役場になっている。
 恐らく本物だろう。
「ええ。トクシマとカガワを行き来して、様々な物を売り買いしてるのですよ。トクシマの名産と、カガワの日用品をね」
「日用品?もしかして、トクシマに行ってるのか」
 今手渡された通商許可証が本物とは限らない。しかし、まだこちらの事を明かしたわけではないし、もしかすると渡りに船か。
――こちらの情報は、どういう経路を通っても、トクシマに行くという内容は漏れているはずはない
「ええ。今そこに私の馬車を停めていますから、何なら……」
「済まないがその馬車はこれだけの人間をのせてもだいじょうぶか?」
 バグは目を丸くした。
 思わず額に汗をかいてみたり。
「え。お嬢さん方はカガワに用事があるのでは」
「トクシマに向かいたい。キール=ツカサに用事がある」
 ほう。
 バグは名前を聞いて、ふむと頷いて声を漏らした。
 名前に聞き覚えがあり、その理由も何となく理解できたからだ。
 キールは、彼の知る限りはじめからここにいたわけではないから。
「キール氏ですか。……何用で」
 疑問に思われても仕方ないだろう。
 どう見てもシコクの事を知らない連中、どちらかと言えば観光者にしか見えないからだ。
 いや、着流しと少し頭のおかしなお嬢様ご一行だから、観光にも見えないかも知れない。
「昔の友人だ。私は魔術師だが、キールも元は魔術を志していた。……尤も今は、こっちでリロンの研究者らしいが」
 彼女がそう言うと、何故か少しがっかりしたように肩をすくめ、腕を組んで小首を傾げる。
「ああ、そうなんですか……一応私もリロンの研究者なんですがね」
 そう言って複雑そうな笑みを浮かべる。
「そうですか、キール氏は魔術師だったのですか」
「ああ、ドロップアウトしてこちらに向かった。どうやってリロンに触れたか判らないが」
 ふむと腕を組んだバグは小さく頷くと腕を解き、右手を腰に当てる。
「私は、魔術師という存在は、我らリロン学者とは方向が全く違うと思っていました」
 魔術師は、この世の理を方程式で現す。リロン学者は、特殊な機材や技術を用いて世界の構造を解体し続ける。
「意外に接点は、近いところにあるものなんですねぇ」
 そう言うと、彼は「こちらへ」と路地の奥へと手を向ける。
 奥の方に馬車らしき物が見える。
 彼を先頭にして、ぞろぞろと歩き始めた。
「そうか、リロン学者というのはそう言う風な考え方をするのか。私は元々近い考えを持つと思っていたが」
 彼はユーカをちらりと見て、首を振って見せる。
「この世の理を砕きながら調べる人間とこの世の理を利用する人間は大きくかけ離れると思いませんかね」
 どうなのだろうか。ユーカは黙り込んで首を捻った。
 ウィッシュはリロンというものと、その学者その物を知らない。
 ただ魔術に関してはユーカ以上の知識を持っているつもりだ。
「魔術とリロン、世界を知るという意味においてはそれでは同じではないですか」
 彼女は笑う。
 にこりという愛想笑いを返すバグは、しかしそれ以上は笑わない。
「ではあなた方はどこまで、この世界を理解していますか?どこまで矛盾が有るとお思いですか」
「不自然、という言葉が不自然か」
「人類は何時何故産まれた。何故このシコクは最初に魔王に滅ぼされなければならなかった」
 バグはまるで演説でもするかのように両腕を大きく広げる。
「そして勇者と魔物ってのは、魔王というのは何か――か?」
「『かみさまのおはなし』の下りは、多分何処の誰でもご存じでしょう」
 最初の勇者。最初の魔王。
 これはウィッシュもヴィッツも知っている。
 ヴィッツはおはなしの細部まで憶えている。
 魔王は、人間を滅ぼすために一番邪魔な、シコクにまず降り立って破壊の限りを尽くしたと。
「魔王が天使と共にこのシコクに、人間の軍勢を滅ぼすために現れた時、本当にシコクはそんな軍事力を持っていたのでしょうか」
 彼は足を止め、実は、と続けた。
「実はその総てが虚構だとすれば?世界は初めからこの形で生まれ、今まで維持されていたとすれば?あなた方魔術師達がこの矛盾にたどり着けましたか?」
 誰にも証明できない仮定から生まれる矛盾。
 しばらくの沈黙の後、不機嫌そうなヴィッツがユーカとウィッシュの間から顔を出して言う。
「そんなひねくれた回答に辿り着くほど暇なんですね」
 酷く刺々しい言い方でバグを非難した。
 バグは、それも受け流すように笑みを浮かべて、こう呟いた。
「おや、お嬢さん。あなたからそんな言葉を聞くとは思いませんでした」
 そしてそこは――袋小路。
 馬車が止めてあるせいで妙に狭苦しく見えるこの位置。
 高い壁に囲まれて、もしかしたら安全――危険――。
 彼は壁を背に、にたりと笑みを浮かべた。


 バグは、唐突に胸元のレーダーが震えたのにびっくりして、開いて確認した。
 アンテナを伸ばして画面を見ると、確かに二つの光点がぺかぺかと大きく明滅している。
――おかしいですね
 しかし、空は別に『天使』達の前兆がない。
 天使は他の魔物とは違い、最大の差は何よりその設計思想なのだ。
 実は全く別物、その核となる部分は古代、神が創造したものをそのまま模倣している。
 現在の魔物のほとんどは、核になる部分が全く違う構造をしているのを彼は知っている。
 慌てて懐に隠しておいた『食器』を確認するが――大丈夫、充分作動する条件は満たしている。
 だから彼はそれを使えるように、丸い形をしたボタンを見ずに服の上から押し込んだ。


 今が使う時だ。
「しかし良く化けたものですねぇ」
 バグが懐に右手を差し込む――取り出した右手に握られていたのは、四角い黒い塊だ。
 大きさは丁度掌に収まる程度だが、親指で弾くようにして、スライドさせて開く。
 およそ半分の厚みの板を二枚重ねたような形で、彼の右手の中でかしゃん、と音を立てる。
 すると、3×5列の数字なんかが書かれたボタンが現れ、弾いた上部分はほのかに明かりを灯す。
「な」
 ヴィッツが声を失うのを、ウィッシュは遮るように前に立ち右手を前に差し出して構える。
 格闘技ではない。
 彼女は錬金術以外に――魔物なので――直接魔力を打ち出すことも不可能ではない。
 非効率的で彼女自身は好きではないが、術を使う暇などない戦闘には便利だ。
 ユーカはそのすぐ側で、右手を左手に添えて一歩退いている。
 馬車の側まで来ているのに、案内もせず挙動不審に構えるバグに訝しがって対応する。
「化けるとは、どういうことだ」
 それは聞き捨てならない。
「……私からも聞かせてもらって構わないでしょう?あなたのその問いに答えるにはまず聞かせてもらいたい」
 ぞんざいな口調で、尊大に彼は応えて胸を反らせる。
「トクシマに、キール氏の元に向かうというのでしょう?なぜ。何故――」
 そして両手を広げ、口元を歪め――これが彼の本性なのだろうか、肩をすくめて見せる。
「魔物をトクシマのキールの元に運ぶのだ」
 ヴィッツの口元が歪み、怯える彼女の前でウィッシュは、顔色一つ変えず笑みを湛えたままで。
「何を言っているのか判らない。トクシマのキールの元に魔物を運ぶ?応えは『そんなことはしない』だ」
 ユーカは構えを解かず、そしてバグの真意を問いただそうと続ける。
「では改めて訊こう。お前が近づいたのは、その魔物をどうするつもりで、なんだ?」
 にたり。
「決まっている」
 彼は右手の『食器』の、スライドさせた先端部分をくいと彼女に突きだして言う。
 落下防止用の細かいクリップ付き鎖がちゃらりと揺れる。
「『サンプル』を切除して、私の研究に役立たせて貰おうと思う。キールに渡してしまうなら、それは私とて同様に分け与えられるべきだ」
「な」
 ヴィッツは声を上げて、ウィッシュの背中にしがみつく。
 ウィッシュは下げた左手を、彼女の方に伸ばし触れながら、聞こえないような小声で囁く。
「ダメ。ボクらは動揺しちゃダメだよ。はったりじゃない」
 彼女は仮面のように張り付けた笑みのまま、バグの動きを探る。
――マジェスト様、最悪の事態です
 彼女達は戦闘能力を持っている。人間ぐらいでどうにかできるような容易い魔物ではない。
 特に一人の人間を消す事ぐらいは全く――一人の人間の記憶を完全に抹消してしまい、再度赤ん坊から再生させる手順を彼女は使うことができる――簡単だ。
 『魔王』の一部ではない部分は、魔王から独立し対立するためだけではない。
――もしかしてこの男が、マジェスト様の仰った『接触してはならない人間』ですね
 ぎしり。
 全身の筋肉が収縮して音を立てた、そんな錯覚。

 「『接触してはならない』人間に対しては、完全に機能の使用を許可する」

 マジェストの言葉が脳裏を過ぎった。
――でも
 ウィッシュは高速で思考を開始した。
 まおを見つけること。まおを助けること。そのためには生き残ること。
 でもそれ以上に優先すべきこと。彼女達の任務。
 『勇者』を、無効化すること。この長い永いゲームをおわらせないこと。
 優先順位設定。提案。議決。――結論。
「――今度はボクが聞いてもいいかい?」
 甲高い、子供のような大きな声でウィッシュは疑問をぶつけた。
 ユーカの眉がぴくりと動く。今までに訊いたことのない、彼女の甲高い叫び。
 別人とは言わないが、今までの彼女からは想像の付かない中性的な声。
「聞かせてくれるよね?――あなた達は、そんなにボクらを調べて何をするつもりなんだい?」
 返答次第によっては、『生かして』置くわけにはいかない。
「ハン、応えられないかい?ボクは気が短いよ」

  ばし

 右手の周囲で何かが弾けるような音が響いた。
 魔力を集中し始めたのだ。
 『魔力』として、彼女が術を使う以外に集中させることはまずない。
 だが人間をはるかに上回る総量を誇るそれは、彼女の右手の周囲を陽炎のように揺らめかせる。
 ぎゅ、とウィッシュに力を込めてしがみつくヴィッツ。
「――良いだろう」
 つい、と『食器』の先端をウィッシュに向け直すバグ。
「まさかこうして魔物と会話できると言う良い経験ができるとは、私も思ってもいませんでしたから」
 口元を引き締めて、彼は口調も元に戻した。
 再び手元に引き寄せた仮面で総てを覆い尽くすように。
「私達の目的は、この敢えて閉じた世界の存在理由を。何故、神に魔物が反逆してしまったのかを知りたいのだ」
――戦闘、開始。


 神話として語られる、ヒトが魔物と戦わなければならない話。
 これは予想外の事態だったが、しかし問題のない矛盾を孕んだ。
 その昔、神様は13人居た。
 この世界を組み立て、ヒトを大地に住まわせると永遠の繁栄が行われるように仕組んだ。
 彼らは様々な仕事をした。大地を作り、風を産み、空を描いた。
 彼らを手伝う存在を生み出した。
 神を含め総てのこれらは、ヒトの為にあらゆる事を行った。
 はずだった。しかし、何故か彼らは『魔王』を創造し、『天使』と共に大地に放った。
「魔王は自分の軍勢を率いて、シコクを蹂躙した後に世界のどこかに飛び去ってしまった」
 毛布を地面に重ねて敷いた簡易ベッドの上に横たわるナオ。
「そして、その悲惨な状況を見かねた一人の神は、総ての神を裏切って、神の総意に反して魔王を討伐に向かう」
 彼の上に、華奢な体を載せるキリエ。
 ぺたりと両膝を折り曲げて、おしりを載せるような恰好で膝で体を浮かせている。
「……キリエ、確認して良いか?」
 彼女の両手は、ナオの首にかけられていて。
「何を?」
「穹の神様って、女なんだろ?」
 彼女が捻った首のマッサージをしてるところだった。
 肩胛骨の辺りに体重を載せて、押しつけるような形で揉みほぐしている。
 勿論、つい先刻思いっきり彼の首を捻り折りそうだったから、その責任をとっているところだ。
 あんな事をするから眠れなくなってしまった。
「え?んや、女だよ。何でだよ」
「いや、だって。凄い好きそうだから」
「……なんだよ、好きで悪いのかよ」
 ぎしり。
 背骨にかかった彼女の指に力がこもるのが判って、焦ってばたばたと腕を動かす。
 でも、俯せに寝ころんだナオは、体重をかけられているので身動きはとれない。
「違う違う違うっ!ほら、あこがれてるんだなーっ、て思ってさっ!よく話憶えてるじゃん」

  こき

「ぎゃーっ」
「ぎゃーぎゃーうるさい。……どう?」
 キリエは彼の上から降りると、体を転がして起きあがるナオに手を差し出す。
 彼は手を借りて立ち上がって、首をこきこき回してみる。
「お、結構ましだ。お前整体できたんだなー。ちょっと意外だ」
「そか?」
 はい、と毛布を手渡しながら、キリエは後頭部をかいた。
「色々あるんだよ。子供の頃死にかけたりさー」
 けらけらと嬉しそうに笑いながら酷く危険な事を口走る。
「あ、あは、そうなのか、いやそれよりさ」
 フォローして話をそらせないと、まだとんでもないことを言いそうなのが怖かった。
「もしかして、お前本気で勇者とかになりたいって思ってたりしたんだ?」
 毛布で体をくるんで、お互い向かい合う恰好で座り込む。
 側でたき火はまだぱちぱちと音を立てて、組んだ薪は燃え尽きる気配を見せない。
 揺らぐ炎が壁面の凹凸を際だたせ、キリエの顔の上で影を踊らせる。
「あー……子供の頃の話だぞ?」
 ぽりぽりと右の人差し指で頬をかいて目を逸らせる。
「ほら、その……お、俺も女だからさ、同じ女だから」
 ちらと上目でナオの様子を窺って、ぷいと顔を背けて背を逸らしながら後頭部をかく。
「あー、憧れたんだよ。勇者っていうよりも、そんな風に強くなりたいなって。なれるのなら、さ」
 穹を意味する神である彼女は、慈悲深かった。
 そしてあまりに緻密な性格の女性だった。
 十二人の神に対して真正面から戦うことをせずに、しかし纏めて一度に打ち勝つ方法を選んだ。
 それは神話でも語られている『黄昏の猛毒』である。
 物語では、世界最初の勇者は知略謀略の名手で、かつ魔王を懲らしめる事が出来た腕っ節を持つまさに文武両道という印象を与える。
 尤も子供向けには毒を使う話はでてこない。卑怯なイメージを与えるから、だそうだ。
「母親みたいだよな」
「ななにがだっ!」
 がばり、と大慌てで顔を真っ赤にして叫ぶキリエ。
 不思議そうな顔で首を捻るナオ。
「ああ、その神様。だって、人間はさ、彼女にとっては大事な子供だろ?」
 きっと我慢ならなかったに違いない。
「それで、魔王を滅ぼせなかったんだ」
「え?」
 納得した顔の彼に、眉を寄せて聞き返すキリエ。
「いや。だってさ、魔王だって、神様が作ったんだろ?」
 あ、とキリエは気づいて首を傾げる。
「そだよな……ううん、もしかしたら、魔王と仲良くなってほしいのかも知れない」
「おいー、それはないだろ?お話はお話だし、今魔王がいるのも事実だろ」
「そりゃそうだけど」
 だけど。
「だったら、なぁ、ナオ。もしそうだったらさ。魔王は俺達をみてどう思うかな?」
 ぱちり、と枝が爆ぜた。
「え?」
 ナオはどきんとして跳ね上がりそうになった。
「ナオが魔王だったらさ、俺達を見てどう思うかなって」
 あー。
 思わずどきどきしたのを抑えて、彼は小さく深呼吸する。
「魔王は人間を滅ぼせって言われて、でも神様に邪魔されるんだよなぁ」
 魔王の存在意義は、人間世界を制圧する事。
 そう言われて意気揚々とシコクを壊滅させたのに、もう止めろと神様に止められる。
「……魔王って男でいいんだな?」
「どっちでもいいよそんなの」
 自分を産んだはずの親が、片方の親を殺したあげく自分を滅ぼしに来る。
 そう喩えなおすととんでもない内容になる。
 でも、そう思うとなんとなく思い当たる節があった。

 子供を捨てる風習のある村の話。

 嫌そうに吐き捨てて横を向いたキリエから、ナオは洞窟の外に目を向けた。
 夜穹には雲がかかっていて、また嵐になりそうな重苦しい空気が漂っている。
「酷く寂しいよな。兄貴を庇う母親に、お前はいらないって言われるんじゃさ」
「違うよ。だって、魔王の方が強いだろ」
 キリエの反論は早かった。ナオが目を向けても、でも彼女はまだ横を向いているから、ナオは彼女を見つめることにした。
「きっと魔王を止めたんだよ。こんな事をしたらダメだって」
「だったら」
 ナオが魔王ならこう思う。
 そんな馬鹿なと。何故、やれと言っておいて止めるのかと。
「きっと、人間は魔王に滅ぼされるためのものじゃないなら、何だって反論したんだろう」
 羨ましかったかも知れない。
 不思議だったかも知れない。
 魔王は、人間をどう思うだろうか。
「……辛かったかもな」
 しなければいけない事を否定され、存在意義が判らなくなる魔王。
「かもね。もしかして」
 小さく笑って、彼女はこっちを向いた。
「あはは、だからかな。魔王っていつも怠惰な悪魔みたいに言われるじゃん」
 とす、と彼女は小さな音を立てて背中を壁に預ける。
「そういやそうだな。結構いじけてたりしてな」
 魔王がいじける。
 それは、怖ろしい魔王というイメージから大きくかけ離れているせいでやたらと滑稽だ。
 尤もまおはよくいじける気もする。アレは絶対に怖い魔王というイメージではない。
「そうか、じゃ、もしかして魔王っていつも滅ぼされる訳じゃないのかもな。時々苛々して人間を虐めるんだけど、勇者の生まれ変わりみたいなのが『だめだーっ』って叱りにくるんだ」
 キリエはけらけらと笑いながら、自分で言った妙に可愛らしい魔王像を説明する。
「で、叱られたら自分で悪いことだってわかってるからしょんぼりする」
「ははは。は、魔王って結構寂しがりやなんだな。ほら、叱られるって判ってるのにやるんだろ?」
 ああ。そうかも知れない。
 神様に作られた同じ者同士だから、本当は仲良くしなきゃいけないのかも知れない。
 魔城にこもってる魔王って言うのは、怖ろしくて人間に害悪を与える存在だけど。
「そうだよ。魔王だって寂しいんだ。だからふてくされて寝てるんだよ」
「勇者は?神様が人間から選んでる訳じゃないだろう?神話じゃ、人間の世界に降りるのか?」
「あっはははは。そうだよな。俺もそこまでしか知らないなぁ。はっはははは」
 ひいひい言いながら、キリエはおなかを抱えて笑う。
「でも魔王がそんなだったら、魔王が選ぶのかもよ。ほら、寂しいから一緒に遊んでくれって」
「そりゃ変だろ?なんで自分を叱る相手を決めるんだよ」
「え?はっはは。そうだっけ?じゃ、何で魔王はそんなになってまで自分の役割に固執してんのかな。止めたり、自殺しそうだよね」
 キリエは目尻の涙を拭きながら、笑って言う。
 ナオの頭の中には既に可愛らしくディフォルメされたちんまい魔王がくるくる踊っている。
「そりゃそうだろ。それは人間に対して唯一、自分が勝っている点だ。人間が持たず、魔王に与えられたものだから」
 ヒトを滅ぼせと。
 喩えそう言う内容であっても、神が魔王に与えた唯一のおくりものなのかも知れない。
 それは達成してはいけないものだから、永遠に果たされない約束のように大事に持っているのかも知れない。
「あ」
 彼女は驚いたように目を丸くして、そして、嬉しそうに微笑んだ。
「だからだよ。魔王は、人間を滅ぼしたり世界を征服できないんだ」
「え?」
「だって、そんな事をしたら、魔王はその『神様の命令』を失ってしまうじゃない。多分、人間にそれを見せびらかす為に時々ちょっかいを出すんだよ」
 魔王は、神様に護られた人間をうらやましがって。
 でも。
 神様に与えられた、人間にはないものを大切にしたくて。
「……だったら、これって、終わらないんだよな」
 魔王と勇者は現れては消え現れては消える。
 そして終わりはない。魔王は何度も蘇り、勇者に何度も滅ぼされている。
「繰り返す事に意味があるのかも」
 明るくナオに返す言葉は、もう力が抜けきっていて非常に眠そうだ。
「そうだったらいいな」
 だから、それだけ返してナオも背中を壁に預けた。
 ぱきんと音がした。たき火は既に小さくなって、僅かに炎を揺らめかせるだけだった。

「早く合流した方が良いだろ」
 最初にそれをいったのはキリエの方だった。
 そもそも自分の足が原因で逗留、というか拘留されてしまっている今の状況を打破したいという彼女の思いが大きかった。
 既に、ここに打ち上げられてから二日が経過している。
 本来彼らは戦闘力として、特務で来ているというのにこれでは任務は果たせない。
 キリエだけではない。勿論ナオも気にしているのだ。
 気にしているが、彼女の足を思うとすぐ動けるわけではない。
「お前、それ何度目か判ってる?」
「五月蠅い、それだけ焦ってるんだ」
 しかしどちらにしても戦闘力と言う意味では既にキリエは除外しなければならないだろう。
 二三日で回復できるわけでもない。
 傷その物は深いのだから、歩けるだけ凄いことなのだ――ミチノリの治療の御陰もあるのだが。
「判ってる。俺もそれは充分痛い程わかった」
 今朝は朝起きてからずっとそればかりだ。
 でていく、置いていけ、早く合流しよう。
――お前のせいだとは言えないし、置いていく訳ないだろう
 いちいち反論したりしていたがもう流石に疲れたので、彼も呆れていた。
「昼が近いし、そろそろ獲物を捕りに行こう。昨日見た川の魚、結構うまかったよな」
「おーまえーっ!真面目に考えてるのかっ!」
 顔を真っ赤にして叫ぶキリエ。
「あー、うん、かなり真面目。キリエに背中を預けられるぐらい回復して貰わないといけない事ぐらい判ってるさ」
 投げやりに答えを返して、思い出したように振り向く。
「罠の獲物持ってくるだけだから来なくて良いから。座って火を熾しなおしておいてくれ」
「て、てめっ、俺はもう歩けるからたまには行かせろ」
「俺の仕掛けた罠の位置と詳しい構造を知ってたらいいけど?どうする?」
 にやにや。
 キリエはむぅうぅと獣のように唸ると、ふん、と顔を背けてたき火に薪をくべ始めた。
 多分キャンプファイアはご存じだろう。あんな風に、燃えやすいように薪を組んでから、火を付けるのだ。
 軽快に洞窟からでていくナオを見送って、キリエはため息を付いた。
 何もかも、思い通りに行かない。
 そもそも女の子らしいって言葉は絶対自分に似合わないと思いながら、たき火の中を薪でぐるぐるかき混ぜる。
 灰が上昇気流にのって舞い、ゆらゆらと不規則な影を落とす。
――少しはさ、なんってっか……俺の意見も聞けって
 そうは言っても、彼女が言っている事は子供のだだと殆ど変わらなかった。
 実際は違う。彼女は今の状況が長引く事態を避けようとしていた。
 特務特務、と言ったって今復帰したところで戦力にならないのは自分が一番良く知っている。
 ナオが動こうとしないのも、彼女を優先しているからだ。
 それが気にくわない。しかしそれは嬉しいと思っている自分を否定したいのだ。
――あーあぁ。考えたらチャンス、じゃなくって
 ばき。
 乾いた木は意外に簡単に脆く折れる。
――くそー、なんて言うのか、困ったなぁ
 ぐりぐりぐり。
 折れたのをそのまま押しつけると、さきっぽから砕けていく。
 そりゃあ、もう、言うまでもなく。
「……あっちちちちっ」
 がらんがらんがらん。
 折角組んだ薪がばらばらになり、折角組んだのに意味が無くなってしまう。
「あーあー……もういいや」
 放置するしかない。もう燃え始めた火の中なのだから手を突っ込むわけにも行かない。今入ってたけど。
 帰ってきたナオは彼女が器の水に手を突っ込んでいるのを見て一言。
「……お前、何やってたんだ」
 真っ赤な顔をしたキリエを見て、額をぱしんと叩いて唸った。

 川魚を遠火で焼いて、かじりつく。
 魚自体は珍しくないし食べたこともあるが、こうやった豪快な食べ方は初めてで、実は結構戸惑った。
 先日川で体を洗ったキリエが『喰えるかも』と生きたまま掴まえてきたのが最初になった。
 勿論食べることができた。かなり美味かったのもあって、試しに簡単な罠を仕掛けたのだ。
 びくのように網を下流にセットして、木組みで流れを抑制してそこを通るようにするだけの仕組みだ。
 意外にも何匹かかかっていたので、昼は簡単に食事にありつけたというわけだ。
 腹をナイフで割いてわたをとりだし、川で身を洗って適当な串に刺して持ってかえって焼くだけだ。
「もうこれ以上怪我しないでくれよ」
 食事を終えると、二人で川まで行ってキリエの手を冷やすことにした。
 いつものようにキリエに背を向けて周囲を見張りながら、彼は呟く。
 キリエは右手を川に突っ込んで、背中の彼に文句を言う。
「五月蠅いな。このぐらい大丈夫だよ。すぐ治る」
 しっかり冷やせば大した傷とは言えない。
 火傷なんてそんなもんだ。
 勿論焼いてすぐ冷やすのが一番良いのだが、実際には30分経った後でも冷やせば効果があると言われる。
「……まあな」
 ざぶざぶ。
 水音を聞きながら、心配しすぎだろうかと思い後頭部をかく。
 ただキリエの場合すぐぶち切れるし癇癪持ちなので、コントロールしてやらないと絶対に省みずに暴走する。
 されたら困るのはナオ自身だ。
 喩え文句を言われたとしても、暴走しても大丈夫だと言えるまでは抑えてやらなければいけない。
――つーか、なんでこいつ、こんなに突っかかるんだろ
 そう言う思いやりは良かったが、残念なことに思いっきり鈍感だった。
 仕方ない面はある。彼にとってはキリエは友人以上であるが異性ではないのだから。
 ついでにキリエに不利な状況である、姉の存在。
 人外とも言うべき危険な姉の為に、『異性』を『異性』として扱う前に『敵』として見る癖もあったりした。
 敵は酷いとしてもまだ子供なのでそれ以上に見ないとも言える。
 さらにくわえて、キリエは随分と近くで長く居すぎた上に、可愛そうだが、女らしさの欠片もない。
 キリエ、絶望的。
――何か悪いことしたかな。いや、船から飛び降りたのは俺のせいじゃないしな
 間接的にはそうなんだが。
 ともかく原因なんか分からない。でも、取りあえず何か機嫌を直したいとも思う。
 考え事をしながら周囲を見張っていたので、キリエへの注意は完全に逸れていた。
 彼女が既に手を拭いて、彼の真後ろにいることにも気づかない。
「うわっ」
 だき。
「こら、そんな驚くなよ。……ちょっと傷つくだろ」
 キリエは唐突に、多分この機会をなくせば他にないと思った。
 ナオが油断して背中を見せている――別に、こんな場所でこんな機会より良いチャンスはあるはずなのに。
 思いっきり抱きしめて、首筋に自分のこめかみを押し当てて背中に語りかける。
「俺さ」
 こうしていると、子供の頃を思い出しそうになる。
 全力で暴れられたあの頃。
 ただそれだけで総ての片が付いた頃。
「女だからって、結構……苦労してきたんだぜ」
 苦労していたのか?
 ナオは思わず聞き返しかけてやめる。
 多分今下手なことを言えば間違いなく反撃が来る。
「今だって」
「今?」
 沈黙。
 取りあえず沈黙。
 返事の代わりに、がっしと彼女の両手が鉤の形に組み合わさる。
 べきべきべきべき。
「がぁあああああっ」
「このばかっ、ばかっ、ばかーっ」
 思いっきり抱きしめる。それだけだ。
 でもそれだけが結構効く。まあそりゃそうだろう。
「ばか」
 ふと緩む拘束に、ふりほどこうと思ったが――ナオは、それは踏みとどまることにした。
 結構英断だと思わないか。
 たとえるなら孫悟空が禁箍児をはずせるのに、自らの意志でそれを戒めたそんな感じか。
 大袈裟だが。
「あのさ」
 ナオは、僅かに自由な腕で自分の鼻の頭をかくと、さらに一呼吸おいた。
「最近気になるんだ。なんだか、妙に無理してるっていうか、なんだか……遠慮されてるっていうか」
 鈍感とは言えども、彼は彼なりに変化とかは理解していた。
 理由やその内容は全く判らなかったが。それは仕方ないことかも知れない。
「お、俺は」
「黙って聞けよ。今度は俺の番だろ」
 うん。
 鼻を鳴らすように応える。
「無理しても仕方ないだろ。遠慮もそうだけどさ、自分の状況と状態は、自分の方が判ってると思う」
 できれば真正面において話をしたいとナオは思った。
 いつの間にかぴったり体がくっついてるので焦ったが、気にしないことにした。
 気にしたら言いたいことが乱れる。
「それに長いことパートナーやってきたんだ。もう少し信用して、素直に任せてくれても良いんじゃねーか」
「……なんかそれって」
 ぼそり。
「なんだか、自分が疑ってるみたいだな」
 もし昨日だったり、これが違うパターンだったら多分また同じ結果になっただろう。
 と、ナオは思った。
「そんな話してないだろ」
 慣れたからかも知れない。思わず苦笑して、今彼女の顔が見えていない事に感謝する。
 多分真正面に彼女の顔を見ていたら、真っ赤でうつむいてる彼女に、また無駄に対応を考えただろう。
 そして、なにより、キリエの声に険がないから。だから反撃はないと直感したのかも知れない。
「ま、そうやって少しは反発してくれたほうがキリエらしいけどな」
「……うるさい。うるさい。五月蠅いけど」
 ぽかぽか。
 キリエは、手の拘束をほどいて拳にして、そのままナオを叩く。
 元々もう腕には力を込めていなかったから、解かれればそれで終わりだったのだが。
 だから、彼の胸やら首元をぽかぽかなぐる。
「うるさいけど、……けど、ありがとう」
 せめて一言言うぐらい、素直になりたかったようだった。

「反逆?反逆だって?あはははははははははははははははははははは」
 もう少しだけ。
 本当だったらもう少し時間が欲しかった。
 でも、でも。
 魔王を捜して、彼女のために勇者を『封印(しまつ)』して、もう少しだけこの物語を長く、このゲームを少しでも面白く演出していかなければ。
 そのためにも魔物であるとはばれたくはなかったし。
 だから、本気で本性の嗤い声を聞かせなければならないのは――正直、悔しかった。

 でも相手は赦してはならない人間。

 この男は『喰』わなければならない最優先。
「誰が反逆したって?えー!?人間!」
 目の色が内側から変わっていく。人にあり得ない紫の瞳。
 長い髪は戦闘態勢をとって、風なくなびきうねり始める。
「ボクの知ってるの『神』は、あんたのいう『神』とは違うからね!ははははははっ!神話なんかで語られる嘘は、人間が歪めた虚実だよっ」
 右手に風、左手に水、後方に火、正面に土。
「な」
 バグは、突如本性をむき出しにしたウィッシュに、さすがに一歩退いた。
 天使とは桁の違う存在感。同種の上位、明らかな能力差。
「『liquid』」
 踏みつける地面。硬い地面にたたきつけたウィッシュの足音。
 ぱしゃ、と音を立てて突如バグの足下の感覚がなくなる。硬いはずの地面が、抵抗なく彼を吸い込む。
「『Solid』」
 再び、今度は反対側の足でかつんと足音を立てると。
 彼を腰まで捉えた地面は、今度は元通りの岩へと還る。
 ただそれだけで牢獄のできあがり――腰から上だけが地面から生えた、一種の拷問だ。
 地面という外しようのない巨大な足かせを付けられた囚人は、困惑と驚愕の表情でウィッシュを見返していた。
 まだ、手元にはエネルギーを充填した『食器』がある。
 諦めはない。
「お話したいってね。良いよ、ボクでよければ幾らでもお話しましょうか?ボクに言った言葉の責任をとらせてあげる。後悔するんだね」
 口元をつり上げて、捕食者の笑みを湛える。
――気に入らないよ、何も知らないからこいつはこんな事いえるんだから
 赦せない。ウィッシュは、目の前の男だけは殺すだけでは飽き足らない程怒りを感じていた。
 勿論殺す気はない。殺しては折角持ってる情報を引き出すこともできない。
 ゆっくり一歩一歩、バグに近づきながら彼女は大声で怒鳴る。怒鳴る。叫ぶ。
「最初に裏切ったのは、十二人の神の方だ。最初に魔王陛下を利用しようと考えたのはあいつらの方だ」
 興に乗ったウィッシュは、謡うように叫びながら近づく。
 近づく。
「神は、一人の神を裏切ったんだ。最初に、ホントの役割をねじ曲げて。彼女はそれに怒りを憶えてっ」
 赦せるはずはない。
 本当に怒ったかどうか、神は悲しんだかも知れなかったが、ウィッシュにとって結論は同じで。
 そして、あんまり腹が立ったせいで、理性的に落ち着いた意識を持つことは難しかった。
 自分の身に危険が降りかかるというこの状況下で、落ち着いて、むしろ不敵に笑みを湛えるバグに。
 気づけなかった。
「それでも俺は、この世界の『本当』を知りたい」

  すぱぁっ

 距離、丁度手が届かないぐらい。
 そこまで近づいたウィッシュに、バグは右腕を一閃させた。
 袈裟に旋回する右腕が、彼女の左腕に襲いかかった。
 かちり、と押し込まれるスイッチ。
 同時、ウィッシュは腰を落として後ろに飛び退こうとして。
「っ!」
 叫び声を上げる。
 ばちり、と、雷のような激しい音がして、ウィッシュの左腕が、肩から先が消し飛ぶ。
 今度こそ間違いなく、『食器』を明らかに使った形跡を残して。
 勿論派手に大きく振る必要性はないのだろうが――完全に埋没した下半身に自由が利かないから、狙いを絞れない。
「見えるでしょう?そこの後ろからでも、この魔物の左腕が有ったはずの場所が」
 高らかに叫んだ。
 不自然で、有り得ない。
 本来肉や骨のような固形であれば存在するはずのものが。
 血も出ないその傷口は、彼女の着ていた服までもが。
 奇妙に平らな、まるで蝋人形を切り裂いたような一様な平面を構成して、切断面を表現していた。
 色は――黒。
 それは生き物の切断面とは言い難いものだった。
 先刻の人間とは違う。明らかに違う――それは当然で。
「この『生き物』がヒトではない証さ」
 バグは再び右手の箱を構え、下半身を沈めたままウィッシュを睨み付けた。
「これで、左腕は貰った。俺を解放しないなら、全身を戴く」
 バグの持つ武器はウィッシュの知らない物だ。
 どういう物なのか判らないから、どうして腕が引きちぎられたのかも理解できないから、ウィッシュは踏み込む事も出来ず躊躇する。
 ひと思いに殺すべきか、情報を引き出すべきなのか。

  ばさぁ

 丁度その時。
「……ウィッシュ」
 聞き覚えの有る声が聞こえて。
 そこにいる全員が思わず顔を上げた。
 人間というものは、即座に信じる事が出来ないような事態が起きた場合どうするだろうか。
 まず、それが本当なのかどうかを確認するために、まず目で見る。
 次に耳や他の感覚で記憶の整合性を取る。
 たとえばこの際も、ほぼ全員が同じ不可思議な理由で穹を見上げていた。
「まお様っ」
 ばさばさと羽ばたく姿に、ウィッシュは目を見開いて叫ぶ。
 バグは驚きに目を見開き、慌てて自分の『魔物レーダ』を開いて反応を見る。
 反応がある。三つ目の反応。
 『天使』を意味する光点が一つ増えている。
「まお様?」
 ヴィッツは眉を寄せてそれを不思議そうに見つめ。
「あいつ……」
 ユーカは何を言って良いのか判らなくて、言葉に詰まっていた。
 ばさり、と大きく羽を羽ばたかせて、まおは沈んだバグの真後ろに降り立ち、表情のない貌を全員に向ける。
 彼女は無言で羽を大きく広げて、後ろへと反らせる。
――っ!
 一番早かったのはウィッシュだった――それもぎりぎりのタイミングだ。
 まおが何をしようとしているのか、かろうじて気づいた。
 体を前傾させ、地面を蹴って一気に間合いを詰める。
 素早く手元を返し、自分の髪の毛を右手で数本ずつ、いつものように鋼鉄よりも丈夫な針へと変えて、翼目掛けてたたき込む。
 とすとすとす、と翼をまるで豆腐かマシュマロのように容易く貫くと、その後ろの壁に翼を縫いつけてしまう。
 きりきりという軋むような音がして、まおの翼は暴れる物の、それ以上動くことはなかった。
「危ない」
 とんとんと間合いを切り直すと、ウィッシュはまおを睨み付ける。
「あんた。死にたくなかったら下手な事しないでよ。邪魔だから」
 バグに警告すると同時、内側から何かが突き破るような音を立ててウィッシュの左腕が再生する。
 便利な物である。
「待て、ウィッシュ」
 とん、と彼女の肩を叩いて、ユーカが一歩前に出る。
「え」
「念のためにこいつの間合いから外れろ。これ以上くれてやる必要はないだろう」
 だき。
「う、うぇっ!」
「だぁーいぢょーぶだぁよぉ」
 さらにミチノリの手袋により、彼女も拘束されて、後ろに引きずられてしまう。
 思わず変な声を上げてしまったから、一瞬ユーカの鋭い目がミチノリに向いたのだが。
 それは余談。
「大丈夫じゃないです、よ。そのまお様はっ」
「――ああ、判ってる。ウィッシュ、お前は怪我をしたんだし、しばらくミチノリに治療させてやってくれ」
 右手をひらひらと挙げて応え、ユーカは腰まで埋まっているバグを見下ろす。
「さて。バグ=ストラクチャ。既にサンプルは充分に入手出来たと思う。『御礼』をお願いしても構わないな」
「何?」
 ユーカは、頭二つ以上下に見える彼を、冷たい視線で見下ろして居る。
 笑っていない。
「それとも、このまま放置して情けない姿で飢え死にでもするか?念のため、錬金術で変成した地面だから解呪できないぞ」
 ちらり。彼からは見えないだろう、真後ろで羽を縫い止められて動けない『まお』に視線を向ける。
「このまま、この娘も置いていこう。きっと楽しい事請け合いだな」
 くっくっく、と口に含んで笑うとくるりとバグに背を向ける。
「な――待っ……待って下さい、その、判った、判りました、判りましたから取引をしましょう」
「取引?ほぉ……」
 くるーり。
 今度こそユーカの貌は笑みで満たされていた。
 思いの外邪悪な笑みで。
「取引なんかできる立場だと?私は、自分の立場を弁えない人間というのは嫌いなんだが」
 そう言って、彼女はバグの方を見たまま、両腕を大きく広げて一歩下がる。
 仕方なく、彼女を見守る三人もそのまま下がる。
「あ、その、ちょっと」
「さあ、早くトクシマに向かうよう、馬車でも手配しよう。なんなら、どうせ飢え死にする男のものだ、この馬車をいただいていくか」
「ままっ!待ってくださいっ!お願い、お願いです」
 流石にピンチである事に今頃気づいた。
 まだ土ならこのままでも(一人では難しいだろうが)抜けられるだろう。しかし、彼の体を捉えているのは「石」だ。
 物理的に逃げようと思えば、岩を砕く必要がある。
 勿論それは不可能ではないが、彼が無傷である可能性は低く、加えて、この路地に誰かが現れる可能性も又低い。
「ほ。流石にメンツには耐えられないか?」
 と呟きながらさらに一歩遠ざかる。
「わーっ!済みませんすみませんってばっ!お願いですから、私に御礼をさせてくださいっ!」
 ジト、とそんな様子を見せるバグに呆れた眼差しを向けるのはヴィッツ。
「……正直ですね」
「そんなものでしょ」
 被害を受けた張本人のウィッシュも、先刻までの真面目シリアスモードだったのも忘れてため息を付いた。
「あのままおトイレにもいけないんじゃ、酷い恥さらしじゃない」
 そのレベルで呆れるのか。普通死ぬぞ。
 じたばた、無言で昆虫標本のようなまおは震えていた。

「構いませんよ。私はこれでも商人のハシクレですからね」
 いきなり襲いかかった事を忘れたのか、それとも意外と律儀なのか、地面から助け出されたバグは自らロープで拘束された。
 ……変な趣味なのかもしれない。
 ともかく、その状態で彼への質問と『御礼』の内容についての協議が始まった。
 後ろではやっぱりまおがじたばたしていた。
「どうしようか」
「手っ取り早くマッパで首輪つけて引きずり回してもいい?」
 いきなりとんでもないことをにこにこというウィッシュ。
 多分相当怒っているのは確かだった。
「あぇっ!」
 案の定、思わず声を裏返す。
「冗談は止めにしてくれないか。結構重要な情報を握っていそうな気がするんだ」
「……本気なんだけどね」
 くすくす、と笑うウィッシュに苦笑いを見せて、バグに向き直る。
「情報だけでいいんですか?」
「ああ、取りあえずそれだけでも充分命と引き替えにするに値するようなものをな」
 さらりと怖ろしい事を言っているのだが。
 しかし、バグも充分判っているのだろう、特に表情を改めることもなかった。
「でなければ、ウィッシュも満足しないだろう」
「私は構いませんよ?マッパで首輪付けて引きずり回せないなら一緒です」
「……」
 相当こだわりがあるようだ。
「その前に。ウィッシュ、そこのアレ」
 じたばた。
「アレ、まおちゃんじゃ」
 ぶんぶん。
「違いますね。そっくりですが、アレは『天使』です」
 無表情でじたばたされると、非常に気持ちが悪いのだが。
「今のところアレで無害ですから」
「……聞きたいことはあるが、後にしよう。さてバグ=ストラクチャ。まず襲った理由とか教えてくれないか」
 これはバグ本人の理由を聞いているのではないだろう。
 そのぐらいは判る。
 バグは、頷いて目を下に向ける。
 『顎で胸元を差している』ようだ。
「ここに、魔物レーダーをいれてあります。小さな奴ですが……。『天使』シリーズと我々の呼ぶ魔物の一群を調べることができます」
 え、とヴィッツの顔色が変わる。
「じゃあ、人間にも魔物が区別つくんですか!」
 彼女にとっては一大事に違いない。変身して、人間社会に隠れ潜むのが使命なのだから。
 しかし彼はゆっくり首を振ると、器用に肩をすくめてみせる。
「無理ですね。このレーダーは我々……数名の仲間以外は持ってませんから」
 そして自嘲したように笑みを見せると言う。
「外観というのは非常に便利でしてね、人間の姿をした魔物を人間と区別する手段はありませんよ。何処に差があるんですか?」
 彼は。
 ゆっくり目を閉じて、口元を歪める。
 ユーカはため息を付くと小さく数回頷いた。
「そうだな」
 先刻の様子を見ていれば判るだろう。
 この男は、たとえば間違って魔物でなくても気にしないのだろう。
 あっさりとヒトを殺した。どこか人間として欠けているのは間違いない。
「お前も魔物なのかもな」
「はは……言ってくれますね」
 応えるバグも、否定する気はないようだった。
「人間が一番魔物ですよ。そうでしょう?」
「ああ、そうだな。魔物よりよっぽどたちが悪い」
 ちらりとウィッシュに視線を向けると、彼女も気づいたのかユーカの方を見た。
「神が魔物を作ったんだとしたら、きっと人間も魔物と変わらないんだろう」
「いえいえ、人間と魔物では大きく違うんですよ。我々……貴方の友人であるキール氏も恐らく同じ意見でしょう」
「ふむ?……よし、バグ=ストラクチャ氏。では御礼の内容なのだが」
 ユーカは自分の顎に手を当てて考え込むように首を傾げる。
「マッパで」
「却下」
 ウィッシュがしつこく言ってくるのをずんばらりんと斬って棄てる。
「むぅぅぅぅ。被害者はボクです」
 口を尖らせて文句を言う。
「先刻本音を出してから、ウィッシュ、狸捨てたな」
「ネコですよー♪狸なんかかぶりませんよー」
 ユーカは苦笑してため息をついてからもう一度バグを見る。
「先刻、あの娘の貌を見て反応したな?――あの娘の名前はまお。彼女の居所を知っているなら案内して貰いたい」

 マッパはともかく町中でふんじばったまま歩かせるのもどうかと思った。
 それに、『まお』を掴まえていかなければ、とウィッシュが主張する。
「あんななりですが、『天使』が人間を無差別に殺す事は別に不思議なことではありませんよ」
 と言われれば従うよりほかない。
 実際に殺されかけて来たのだから。
 結局、針金のような彼女の髪の毛で完全にふんじばって、ミチノリに抱きしめさせて運ぶことに決めた。
「あーあ、ばれちゃった」
 バグの馬車は、所謂幌の荷馬車ではあるが、人が座る分には充分なスペースもあるし、歩いて移動するよりも楽な物だ。
 毛布を敷いて、座布団代わりにすると4人+1は車座になって話をしていた。
 +1は『まお』だ。
「思わぬ失敗だよ。……ホント。今までばれたことなかったから」
 がらがらがら、と音を立てて向かうのはトクシマ、まおが居たという場所。
 バグは確かに『まお』を見たというのだ。
「いや。……まあ、バグ氏の言うとおり、区別なんか付かないが」
「私が魔物だというのはともかく、何故なんですか?」
 ヴィッツは不思議そうに、真剣な表情で問う。
「私達は魔物なんですよ」
「……何がだ。魔物はともかく、理由は判らないがここに用事があったのだろうし、私達に危害を加えるとでもいうのか?」
 ヴィッツは、思わずウィッシュと顔を見合わせた。
――言わない方がいいよね
――そうですね、望姉。まお様の事は
「いえ、そうじゃないですけど……ほら、魔物と人間って敵対する物でしょ?」
「それは、おとぎ話や神話の話か?神様にそう言う風に定められてるとかいう。お前達は、人間と同じで神話という物を知っているのか?先刻の話しぶりだと」
 ウィッシュは頷いて、すと目を細めると幌から馬車の後ろを覗いた。
 蒼と土の色の二色しか、そこには映し出されていない。
 ばらばらと轍を隠す土煙が、延々とトクシマの大地に立ち上っている。
「多分、ボク達の場合はね。……キミ達のいいかげんなおとぎ話や神話とは違って、真実の記録として伝わってるから」
 ごくり。
 一斉に人間は喉をならした。いや、ミチノリを除くが。
 ミチノリは♪を飛ばしながら、まおを抱きしめている。多分今日は痛い目を見ることだろう。
「では、創世期以降、いきなり魔王が振って沸いた、という理由は神話の通りなのか?」
「そう……ですね」
 ヴィッツは迷ったように一瞬ウィッシュを見る。
「魔王陛下の光臨と、この世の創出はほぼ同時だって話だよ。魔物にも二種類有る。ボクらや天使のような、魔王陛下とは関わりのない魔物ね」
 実は魔王とほぼ同列の存在――ウィッシュは敢えてそれには触れなかった。
 逆に言えば、だからこそ、他の魔物が縛られるものから解放されている。
「陛下の設定に従う魔物と、世界の設定に縛られるボクら。ま、だからボクらは勇者とは関わりないんだけどね」
 勇者を捜して居るんでしょ?
 ウィッシュは聞きながら、応えを待たずに話を続ける。
「多分、キミらの神話で裏切る神様、彼女が信じた救いを護るために、魔王陛下が居るの。……ははは、だからボクらと陛下が、同じ神様のもとには居ないんだ」
「どこにいるんだ」
「どこ?そーだなぁ。『天使』は本来『神』を護る為に作られた守護者だけど、今は陛下を護る為のプログラムになってるし」
 そう言って、にやっと笑った。
「陛下の外側。やっぱり、ボクらの魔王陛下はボクらにとっては神みたいなかんじかな♪」
 ユーカは、彼女の知ってる事と思っている事、そして手に入れた情報からの憶測について、折角だから聞きたくなった。
 目の前にとんでもない存在が居るのだ。
 魔術どころではない。
 世界の秘密そのものがいるのだ。
 何となくバグの気持ちが分かった――が、彼らのやり方は賛成したくなかった。
 だから彼女のやり方でもっと。
 ウィッシュに近づいて、世界の秘密に触れようと思った。
「では――勇者とは、なんだ?何故勇者が産まれる」
 ぱちくり。
 ウィッシュは目を丸くして、困ったように首を傾げて、ふいっとヴィッツに視線を向けた。
 ぼん、と何故か音をたてて顔を真っ赤にしてヴィッツは俯く。
「さあ?」
「え?」
「あ、だって。先刻言わなかったっけ?ボクら魔王陛下とは関係ないもん。それは陛下の方の話だから」
 けらけらけらと笑って、唖然とするユーカを見て、「でも」と付け加えるように言いながら人差し指を立てる。
「人間のおとぎ話を見ても、何人も勇者がでてるよね。アレもウソじゃないよ。陛下も、そのたびに変わってるし」
 実は魔王よりも遅くに産まれて、詳しくは判らないというのが本音だ、と付け加えた。
「本質は違うけどね、私達は陛下に命じられた魔物によって作られたんだよ。陛下の一部と、天使をつかってね」
「魔物が?魔物を……ふぅん。……で、人間に手を貸そうとか、魔物が魔物同士を殺すのっていうのはどうなんだ」
「あは♪なんだー、ユーカさんそんなの気にしてたの?昔は勿論、今でも人間同士殴ったり殺したりしてる癖に」
 以前よりましだけど。
 ユーカは図星をさされて困った顔をする。
 実際、魔王が世界に光臨する以前の世界は、シコクという軍事国家が世界を統治せんと張り切って、戦争に次ぐ戦争だったと言われている。
 平和、確かに以前の殺伐とした世界に比べれば、魔物に襲われている今は人間同士は仲が良いのかもしれない。
 国家間の争いは、今や殆どないといってもいい。そんなひまないからだ。
「でもね。勇者って言うのは鍵、だよね。物語を展開させる鍵。陛下は、物語。そしてボクらは、物語を語る語り部……なのかもね」
「恰好つけすぎです望姉。ついでにそれはウソじゃないですか。誰が語り部ですか」
「なんだよー。絶妙に突っ込むんじゃないよぉ。……ま」
 そう言って、ちらりと『まお』に視線を向ける。
「取りあえず良かった良かった」


 カナは、朝食の準備を終えると大きくのびをして、ロウを呼びに行くシータをの背中を見つめる。
 自分より背が小さい彼女がてきぱきと動く様子は、どこかかいがいしく見える。
 カナがそう感じたかどうかは別として。
「シータは、ロウのこと好きなんだよね」
 グザイは自分のために煎れたコーヒーをすすりながら眉を寄せる。
「ははぁ。そう言う風に言えるかも知れませんが」
 だが、帰ってきた応えは妙に曖昧だった。
「互いに必要として互いに補う形をそう呼ぶので有ればそうでしょう」
「え?」
 確かに、昨日の戦闘ではシータの指示で剣を振るっているようだった。
 だがそれはロウにとって必要なのであって、シータがロウを必要としているようには見えなかった。
 だから『好き』という言葉で表現してみたのだが。
「……じゃ、もし、どっちかが欠けても」
「ええ。大体想像している通りかと思います。私には断言しかねるところもあるんですけどね」
 ずず。
「いずれ離れる予定の、カナさんにはあまり深く関わらない方が身のためかと思いますよ」
 柔らかい口調の忠告。
 しかしそれは受け取り方によっては拒絶であり、あからさまな反発でもあるのだが。
 カナは目を僅かに伏せて、哀しそうに呟いただけだった。
「そうなのかなぁ。……ホントに」

 朝食を終えて片づけを終えると、今日は『狩り』は行わないのか、シータはすぐにお茶の用意をし始めた。
 グザイは『調整があるので』と言い残し部屋を去り、ロウ、シータとカナの三人は紅茶を囲んで無言で座っていた。
「狩りってさ、スケジュールか何か決まってるの?」
「大体……情報が入って、その時間に待つか、襲ってくる魔物を抑える為に討って出る」
 珍しくロウがすぐに反応し、ぼそぼそと応える。
 シータはゆっくりと紅茶をすする。
「そなんだ」
 カナの応えにも顔を変えず、手元の紅茶にも手を付けず、ロウは部屋の隅を見つめている。
 会話終了。
 再び沈黙が訪れる。
 どうやら彼らにはこれが普通なようだった。
 しかしカナは――多分、記憶を失う前もきっと騒がしかったに違いないだろう――沈黙に耐えるのが非常に苦しかった。
 何というか悪いことでも言ったんだろうかとか、そう思う。
「ロウ、冷めないうちに飲みませんか」
 シータの無感情な声が、カナの代わりに響く。
 彼はゆっくり顔を上げ、じろっと彼女を一瞥するとカップを握って。
 がばりと呷った。
「……ごちそうさま」
 かたん、とそれを机に置くと、彼は再び同じ姿勢に戻る。
 喧嘩しているようにも見えるが、別段これが普通だ。
 家族ではない。
 以前の回答を思い出して、カナはため息を付いた。
 珍しく――いや、多分それがカナだったからだろう、シータが無表情ながら顔を彼女に向ける。
 敏感に。
「カナさん?」
 僅か語尾の抑揚がなければ、疑問形であることには気づかないぐらいだったが。
「どうかしましたか」
「え、いやあの」
 言うべきだろうか。
 カナが僅かなその時間、躊躇して。
 返事を返そうとしたシータは、ぐらりとその恰好のまま横に倒れていく。
「――!」
 それまで明後日の方向を向いていたロウは両手を彼女に伸ばして、慌てて彼女を支えた。
 妙に華奢なシータの体は、ふわりとそこで動きを止めて、まるで人形のように力無く崩れる。
「シータっ」
 ロウの叫び声にも反応はない。
 まるで直前に電池が切れた人形のように、何の反応も無くなった。
「え?え、え!」
 彼は瞬時に判断した。
 カナの方を振り向くと、無言で立ち上がって廊下へ飛び出していく。
「わ、わっ」
 ロウという支えが無くなって、ふらりと倒れていくシータに飛びかかるようにして慌てて駆け寄るカナ。
 くたりと全身の力を抜いて倒れる彼女は呼吸すらしていない。
 いわば『即死』状態だ。
 もちろんカナに医者の知識なんかないし、魔術だって使えない。
 しかし何らかの危険な状態であることは間違いなかったし――何より、今のシータの側には誰かが居なければいけなかった。
 抱き寄せるようにして、彼女を抱えるカナ。
 本当に死んでしまったかのようにしか見えない、彼女の様子に、酷く寂しい物を感じて腕に力を込める。
 まだぬくもりは消えていない。
 つい直前の質問に、まだ答えていない。
 背中側から彼女を抱きしめると、まるで腕の中でただ眠っているだけのようにも感じて、そう思えて、カナは彼女の頭に手を添える。
「しっかりして、お願いだから返事をして」
 狭い部屋。
 物音は無機質に、規則正しくどこかで響く。
 自分の動く音と呼吸音以外、そこで立てる音はない。
 ぞくぞくと背中から寒気が走って、カナは思わず叫んだ。
「何でよっ、何よ一体何なのよーっ!」
 まだこの箱船の構造も知らない。
 どこで何が起こっているのか判らない。
 こんな状況で。
 他に何ができるのだろうか。
 妙な静けさの中で、シータを抱きかかえたまましばらくの時間が過ぎた。

  おぉん うぉぉん おぉぉん

 妙な音が響いた。
 それは何かを揺らして音を立てているような、鈍くて低い音。
 良く耳を澄ませば、それは大小幾つかの音の重なりとして捉える事ができる。
 遠く、近く。
 重なる音は距離の差だろうか。何となく音そのものの記憶も有るがする。
 鳴き声ではなくて、それは、弦が振動しているような規則正しい音のようでもある。
 気になる。
「ごめんね」
 カナは、シータをソファに寝かせるようにして横たえると、音が聞こえた方へと向かうことにした。
 慣れない部屋の出入りをしながら、ゆっくりとそちらへ向かう。
 カナ自身気付いていなかったが、出口に向かう道をゆっくり歩いていた。
 音は――この箱船の外側から聞こえてくる。
 慣れない手つきで扉に触れると、ばしゃっと圧搾空気が吹き出し、音を立てて扉が開いた。

 穹は酷く遠く蒼く、抜けるように広く、今日は全く完璧なニホン晴れ。

 何時の間にか、音は消えていた。
「あれ?」
 カナは呟いて、部屋に戻った。
「あ」
 既に部屋にはロウがいて、シータを抱きかかえようとするところだった。
「シータは」
「……眠らせる。地下のベッドの準備をした」
 それだけ言うと、彼はカナの側を抜けてすたすたと廊下に出ていく。
 慌てて彼を追うと、ロウの後ろを追いかける。
「ねえ、シータは」
 こつこつという硬質で冷たい廊下の反響音。
 ロウは振り返りもしない。
 まるで次の言葉を待っているようにも見える。
「……大丈夫なの?」
 だがそれにも返事はない。
「ねぇって!」
「わからん、判るなら……そんなもの、畜生」
 ロウは吐き捨てるように答えて、黙々と廊下を進む。
 メカニカルな金属製の廊下を抜けて、扉を開ける。
 エレベータだ。
 ロウが入るのを、慌てて追うカナ。ぱたぱたとロウを追い越すと、振り向く。
 壁にぺたーっと背中で張り付いて、奥の壁を占拠してしまう。
「……」
 一瞬固まるが、ロウはくるりと彼女に背を向けてエレベータを閉じて、いつもの階のボタンを押した。

 危険な状態。通常危篤状態という。
 はっきり言うと、彼女はそんな状態だ。
 心臓も呼吸も停止したら普通は死亡というのだろうが。
「試験設備と同等のものはないぞ」
 と、グザイは言った。
「構わないな」
 それは確認ではなかった。
 既に確実ではない方法に頼らざるを得ない、今の状況をただ主張しただけで。
 ダメだ、とも、良い、ともロウが言うのを待たずに彼はスイッチを入れた。
 シータは円筒形のカプセルのようなものに収められて、濃い紺色の液体の中に沈められて、装置の中で眠り続けている。
「……」
 『棺桶』のようだとカナは思った。

  おぉん うぉぉん おぉぉん

「!」
 その音に、グザイが戦慄したように振り向いた。
 装置に手がかけられたままだ。
「どうし――」
 音は、カナには聞き覚えのあるものだった。
 但し、もっと遠くから聞こえていたような気がした、が。
 それは危険な意味を持って周囲を取り囲んでいた。
「『猟犬』だっ」
 グザイが叫んだとほぼ同時、『音』は部屋の中央に密集した。
 まるでそれは姿を持たない何かがそこに居て、音を立てている、としか表現出来ない『何か』。
 それが――音が、襲いかかった。
 ロウの動きは早かった。
 部屋の隅に投げ出してあったものを引き寄せ、それを床に垂直に立てながら構える――それは剣。
 ただし、E.X.-Caliberではない。巨大な、実体を持つ剣だ。
 幅が広く、その姿だけではタワーシールドと勘違いしそうなぐらい巨大だ。
 振り回せるのだろうか?否。それはそもそも振り回す為に作られた剣ではない。

  ごぉうぃぃぃぃぃぃぃぃぃ………

 その剣が、梵鐘を打ち鳴らしたような金属音を立てて震えた。
 彼の後ろに、グザイとカナ、そして――そう、『棺桶』が横たえられている。
「馬鹿、その魔物に実体剣は効かないっ」
「E.X.-Caliberは使えないだろう!」
 だが防ぐことはできる。金属製のこの剣を盾代わりに、突撃を止められるのだから。
 実際この姿のない魔物がここまで入ってきた事は今までになかった。
 何を狙って現れたというのか――何度も、何度も打ち鳴らされる金属音に頭蓋がかき回されそうになりながらロウは振り向いた。
 視線の先――カナに。
 頭を抱え込んで床にへたりこんでいるカナを見て、彼は。
「グザイ」
 考えられる結論に達した。
 咄嗟の判断で前に出たせいで、『猟犬』の目標が判らなくなっている。
 勿論魔物の行動なんか、人間には理解できる範疇ではないのだが。
「倒す手段がなくても、このままじゃ全員やられてしまう」
 今は執拗に彼に突撃を続ける『猟犬』だが、何時その牙が逸れるか判らない。
 それを支える剣だって、床を暴れるうちはまだいい。何時折れるか、どれだけもつかわからない。
 『猟犬』と出会って生き残った人間はあまりに少ない。『猟犬』の性質もよく判っていない、シコクでは最悪に分類される魔物だ。
「――逃げろ、と?」
 だが、勿論逃げられる方向ではない。
 第一――シータが眠っている。
 グザイの言葉は疑問や確認ではなく――やはり、その裏に潜む非難が主張だった。
「『喰わせて』みれば、変わるかも知れない」
 一瞬グザイの目が、ロウの目が、うずくまるカナに向けられる。
 視線を感じてカナが顔を上げる。
「ひ」
 ざざ、と足音を立てて、カナは二人から離れる。
 その間もがぃんがぃんと剣が叩きつけられる音を立てている。
 BGMと薄暗い背景のなか、二人が彼女を見つめる顔は、無表情。
「『猟犬』は入れなかったのではなく、『入る理由がなかった』?」
「そうとは限らない。入る理由はあったが、今まで完全に遮断されていた」
 確かにカナは、ここの人間の中で唯一、意味を持たず存在する。
 ただかくまわれただけ。いわば客分。
「ロウ、今何を言ったのか判っているな」
 カナは蒼い顔をして、ずるずると(多分、腰が抜けたのだろう)床を棺桶の方へと這ってくる。
「当たり前だ。ただ論理的に考えただけだ」
「それは論理的とはいいませんな。短絡、と言うんでしょう」
 グザイは口調を元に戻すと、カナを自分の側にひきよせる。
「大丈夫ですから」
 そう言うと、彼は棺桶から一つのコードを引き出し、手元の小さな板に接続する。
 その板には8×8列の同形状の四角いボタンが並んでいる。
 それを手早く叩くと、部屋の端の方でぷしゅ、と音がした。
 ぅおぉん、と独特の唸りが聞こえて、ロウもそちらを――良く知っている場所に目を向けた。
「緊急でサポート無しでもE.X.は起動させられますぞ。少なくとも姫が生きている間は」
「生きている間はだろうが!」
 叫ぶ。
「貴様、何も知らないような顔をして、貴様、貴様――」
「選択の余地があるとでも。――はて、私は何も存じ上げませんが」
 生きている間。
 しれっと言った上に、彼は知らないと言う。
 流石に頭に来た――我慢するつもりはない。
「この船の構造を総て知った上で、E.X.も操作できる癖にっ!知らねぇとは言わせねえ!」
 判らない。もう判らない。
 自分で何を言おうとしているのか、自分で理解する事が難しくなってきた。
 本当は――いや、もう判っていたのかも知れない。
 不可解で、理解できないシータという存在が居ることに、違和感がなくなり始めた頃から。
 ただそれを認められず、ただここに居るというそれだけに徹してきて。
 がんがんという金属板が鳴る音は未だ変わらず、体重をかけて押さえる切っ先が擦れる音が耳障りに響く。
「シータは何故っ……」
「もう遅い、と言った方が早いのですかな。ロウ、貴方も求めたのならば認めた方が良いでしょう」
 認める?
 何を?
「精霊というのは、彼女をただ喰らう為だけに存在するのだと。――だから、それに対抗する為のE.X.のサポートだと」
「……何を言いたい」
 ふ、とグザイは馬鹿にしたように鼻を鳴らして笑う。
「貴方がE.X.を振るえば振るう程、シータが人間として生きられる時間が延びても、その代わり寿命が縮むという事実を受け入れたんだと」

  が きん
――!
 床に差した切っ先が欠けた。
 そのまま体重をかけてやれば、それなりに止まっていただろうに――だが、僅かな弾みに剣は弾かれて、ロウは完全に体勢を崩す。
 猟犬は、『音』を何もない空中に翻らせた。
 それは常に闇の中にあるように、勿論音だけしかそこにはないが。
 真っ直ぐ。
 カナの方に向かって音は突き進んだ。
「いや、ぁああああああああああっ」
 そして。
 カナの目の前から頭の先を通って、猟犬は彼女を飛び越えた――別に見えたわけではないが。
「え」
 彼女なんか目もくれず、ただ真っ直ぐにグザイに向けてそれは襲いかかっていた。
「ち」
 真っ直ぐに向かってくる音の塊に、果たして対抗できるのか。
 だがそれを確認する暇はない。振り向こうとした所を、無理矢理カナは腕を引っ張られて、驚いて顔を向ける。
 何かの音が頭の後ろの方で鳴るから、だから、それを確認――いや、『グザイを助けたくて』、彼女を引きずるロウに叫ぶ。
「な、なにすんのやめて」
 ロウは手加減するつもりはなかった。彼は振り向かず彼女を引きずっていた。
 ここで振り向いたり加減なんかして出遅れたりしたら。
「ちょっと!離してよ!」
「五月蠅い」
 ロウは、彼女を勢いを付けて引っ張る。
「あ痛っ、肩っ」
 抜けるかと思った時には、体が浮いて部屋の入口を抜けていた。
 ぷしゅ、といい加減聞き慣れた音が背後で響いて、廊下と部屋が隔絶された事を理解した。
 同時に訪れる静寂。
「え」
 唐突な気配の断絶。それは徹底的な否定のように彼女の背後に存在して。
 もう関わらないという意志のように感じて。
「ちょ」
 ロウは、廊下の端で蹲るカナを見て。
 いや、カナは睨み付けられて、でかかった言葉を飲み込んでしまう。
「ここから先はお前次第だ。そのまま――猟犬に狩られてしまうつもりならそうしていろ」
 それだけ言い残して、彼はくるりと背を向ける。
 判る。
 そんなことはカナだって理解できる。
「そんな、だってグザイさんが」
「お前はっ!」
 ロウは足を止めた。
 でも、それでも振り返らない。
「形のない物を、俺の剣で切れと言うのか!」
 だから、彼女は彼を引き留めてはいけないというのか。
「だって!」
 カナは、まだ床にぺたりとへたり込んだままで、その態勢のままで叫ぶ。
 ロウに普通に話すことなどもう出来ないと思ったから。
 今グザイと、『棺桶』のシータを見捨てて部屋を隔離して逃げる事が生き残る事だというのは判る。
 彼が傭兵であったころの記憶と意識ではその判断は正しい。
 生き残らなければならないのだから。
 どれだけ戦場でしぶといか、は傭兵が傭兵として任務を果たす為に重要なのだから。
 カナはそこまで考えられないし、そんな話は知らない。
 ただグザイを、シータをあんな魔物の側に置いておきたくない――今勝てるはずの彼が、勝つ手段を捨てた事が。
 捨てたのがどんな理由であれ、彼女を叫ばせていた。
「あんなに強いじゃない!どんな魔物でも倒せるんでしょ!なんで、なんであんな魔物ぐらいで逃げるの!」
 多分本気で逃げる気なら、彼女の言葉で足を止める気はなかったのだろう。
「判るよ!勝てないからって、でも、だったらなんで私だけ助けたの!」
「――死にたい、っていうのか」
 くるり、とロウが振り向く。
「選べるっていうのか?どうせ死ぬって判っているのにお前はっ!」
「それでもシータは感謝するんじゃないの!違う?!」
 カナは両腕を振り回した。
 髪の毛を振り乱して、泣き叫んだ。
「――感謝なんか――」
「なんで!どうしてっ!あれだけ、ロウの事好きだったはずなのにっ」
「俺が――」
 足音もなく、躊躇いもなく、手元の震えさえなく彼は素早く懐からナイフを取り出し、一気に間合いを詰めてカナの喉元に突きつける。
 カナは驚かなかった。驚いたのかも知れないが、彼を睨み付けて涙を浮かべたまま動かなかった。
「このままナイフを突きたててお前を殺したとして、お前は感謝するのか」
 ちくりと肌を刺すナイフの感触。
 肌一枚刃が沈み込んで、血が滲むのが判る。
 でも怖くなかった。
 自分より年上だろう男に見下ろされて、ナイフを突き立てられているというのに。
「判りもしないのに、知らない癖に」
「判らないし知らないよ。でも」
 でも。
 ロウはナイフを引いて、体を起こして、でもカナから目を離さない。
「――泣いてるのに」
 ロウは沈黙している。
「そんなに嫌なんだったら、どうして、納得するまで頑張らなかったの」
 納得、と聞いて彼はぎしりと歯ぎしりする。
 どうやって納得すればいいのか。
 頑張るというのはどういうことなのか。
 戦力比を考慮して、素早く判断した本能を、理性が論理的に判断を下した事を否定することか。
 違う。
 今の戦場は、あの場所であの場面で彼は判っていたはずなのに。
 今までの戦場と違う、生き残ってもなにも残らないと言うことは判っているはずなのに。
「俺は――」
 復讐を果たす。
 そのための、E.X.だったはず。
 E.X.を失うからシータを失いたくなかったから?
 何故か総て嘘――ただの屁理屈にしか思えなくて彼は、カナの言葉に返事を返せない。
「生き残らなければ」
 復讐を果たせない?
 もう、何が何だか判らなかった。
 判っているのだろうか。理解できるのだろうか、この足下にへたり込んで、情けない顔で見上げる少女は。
 知っているのだろうか。経験があるのだろうか、今確かに彼が感じている、不確かで不可解な不透明さを。
 そんなはずはない。
「――本当に?」
 なのに何故だろう。
 こうやって目を見ているのが怖くなる程深く、奥を見透かすことが難しいほど彼女の瞳は澄んでいる。
「なんで今まで、今の今になるまで無視してきて、今ここで逃げたら」
 逃げたら?
 ロウは口の中だけでそれを反芻し。
 そして、続きを聞くよりも早く、それを考えるよりも早く、扉が凄まじい音を立てて『斬り取られた』。
 びくっとそれに驚いて立とうとしたカナに襲いかかるように扉が弾ける。
 丸く、継ぎ目を無視して斬れた扉が、圧迫を受けて廊下に飛び出してきたのだ。
「!」
 一瞬、体が彼女を庇おうと動いたのに、扉はそれをさせようとしなかった。
 カナはバランスを崩したように後ろに逃げ、ロウとの間に扉は鋭く突き立った。
 まるで二人を遮るように。
「か……」

  おぉん うぉぉん おぉぉん

 ロウの目の前に、『猟犬』が。
 身構える必要はなかった。音は、彼に向けられてなかったのだから。
 そして、彼の目の前で、天井がひとりでに引き裂け、奥の壁を伝い――

  ば しゅ

 猟犬が奇妙な音を立てた。
 同時、悲鳴が上がった。
 ぱん、と扉の向こうを舞う、影。
「カナっっっ!」
 それは腕だった。
「あああああああっっっ」
 悲鳴が上がったのは、痛みからではない。
 どん、と音を立てて飛んできた扉はぎりぎり避けた。
 まだ中腰で体が浮きかけていた所に、彼女の目の前に『音』が現れて身がすくんだ。
 注意がそこだけに注がれて、体が一瞬動かなかった。
 だから、カナの視界に両腕で思いっきり何かを振りかぶったグザイが現れても、気が付くのが遅れた。
 それがE.X.だったと言うことにも。

  ぶぉん

 その空気を震わせる音と同時に、まるで何かを放り投げたような勢いで飛んだ腕が見えて。
 それが自分の腕だと判って。
「カナっっっ!」
「うわああ、ああああああああっ、あああああっ」
 返事が出来ない。
 口を開けてもでるのは悲鳴だけ。
 彼女は焦って、後ろに逃げるように。
 扉から。
 ロウから。
 総てから逃げるように、ずるずると距離を開けていく。
 ごとん、と切り裂いた扉の破片を避けるようにして現れる、グザイ。
 その表情は妙に硬い。
「グザイ、貴様」
「ロウ」
 視線は、左腕があったはずの部分を押さえるカナに向けられている。
 すと足下に目を向けて、腕を拾う。
 切断面を確認して。
 まるで磨いた水晶の表面のように、暗く黒く。
「この娘、人間じゃ――ない」
 ロウの目が。
 グザイの目が。
 そして、ぽとりと腕は床を叩いて、彼らの視線がカナを突き刺す。
 E.X.が駆動する音が響く。
 ただ無言で、それを携えるグザイがスイッチを入れたように。
「や」
 ざり。
 足を一歩踏み込む。
「止め」
 だが、グザイが両腕を振り上げようとした時。
「やめろっ」
 グザイの真後ろからロウが彼を羽交い締めにする。
「E.X.を止めろっ!」
「がっ、ロウ、貴方はあの魔物を放置するとでも!」
 一瞬彼の視線がカナに飛ぶ。
 カナはそれを理解できただろうか。それは判らない。
 だが、グザイの声に、彼女はまるで弾けたように走り始めた。
 方向なんか判らない。
 ここがどこであるかなんか関係ない。ただ、怖くて走るしかなかった。
――自分が魔物である
 判らない。それに怯える理由はない。自分の記憶がないのだから、喩え自分が魔物であったとしてもそれは感謝すべきだ。
 自分が魔物であったとしてそれを嘆く『記憶』はないのだから。
 でも、それで周囲の人間がおかしくなったような気がして、その事実そのものに恐れて。
「はっ、はっ、はっ」
 斬り飛ばされた左腕、その付け根を押さえる右手が感じる、肌の感触。
 ただ腕がないだけで何ともない。
 痛いわけでも、血が出ている訳でもない。多分、これが『魔物』だということ。
 何故魔物だったら、こんな目に遭わなきゃいけないのか。
 違う。
 人間は魔物に怯えているから。魔物という強大すぎる力を持った存在に脅かされているから。
 喩え彼女のような姿をしていて、彼女のように強くもなんともない魔物であったとしても、ただ魔物であるからという理由が『言い訳』になる。
「いやだ」
 走りながら、上がる息を抑えながら。
「いやだ、いや……なんで、そんなの」
 なんで魔物だから?
 魔物は人間に、何故襲われなきゃいけないのか。
 壁に突き当たり、通路に沿って走り、また走り、ただ何も考えずに走り。
 既に何処を走っているのか判らなくなった時、ようやく彼女は足を止めた。
 息は完全に上がり切っていて、膝ががくがくする。
 壁に手をついて、それでもふらふらしながら一歩一歩足を進める。
 もう何故歩いているのかも判らなくなって、ふらついた頭でようやく思い出した。
 ここが地下であることに。
――このまま走っていたって、逃げられない
 でも。
 もう自分がどこにいるのかも判らなくなってしまっていた。

 注意するように。
 バグは言うと全員の顔を見渡した。勿論、既にくくられてはいない。念のため。
「ここは私がお願いしている、魔物狩りがいます。多分天使だとバレれば命がありません」
「こんな所にまお様が……」
 ヴィッツが見上げるその建物は、僅かに湾曲した黒い金属製の塊。
 一カ所鉄の梯子がかけられていて、その上が小さな通路のようになっているようだが、入口は見あたらない。
「今日はアポ無しですからね。ちょっとだけ待っててください」
 彼は胸元から天使レーダーを出して、かぱりと音を立てて開く。
 するするとアンテナを伸ばして、並んだ3×5のボタンを叩いて、それを顔の横に持ってくる。
 しばらくのちんもく。
「ううん」
 彼が渋い顔をして、首を傾げる。
「発信音はするんですけどね。狩りに出かける事はないと思うんですけど」
「まさか。お願いしてる、って言ってるけど、ここだって魔物いるのに」
 自衛戦闘ぐらいするはずだ。たまたま外にでただけではないのか。
「確かにあり得るんですけどね、ここ、本土より魔物の質が高くて」
 仕方無しに彼はボタンを押して、当初のように折り畳んで胸ポケットにしまう。
「さっくり殺されるから、情報提供がないかぎりでていくことはないんですよ」
「え?」
「ええ、だから、この住処はそう簡単には壊れず、魔物の侵入も防ぎきる砦のような物ですから、でていく可能性は低い、と」
 バグは言うと、さっさと小さな梯子を上って行く。
 ユーカが続き、ウィッシュはふと視線をミチノリの抱きしめた「まお」に向ける。
 天使がまおの擬態を取っている理由は幾つか考えられる。
 どこから来たのかは判らないが、恐らくあの船にいたことは確かだろう。
 普通喋るような知性を持たない天使だ、まおの姿をしているということは彼女と接触したということだ。
――……
 予想できる一つの結論。
 まおは記憶喪失になっている。
――なんでこんなことになってるんだろ。まお様、多分ただの子供化してるだろうなぁ
 或る意味で言えばウィッシュと同等かそれ以上、まおに近い『天使』だ。
 ヴィッツの持つ変身能力も、本来の『天使』には備わっている機能を拡大・増強したものだ。
 デフォルトの外観はまおをベースに、趣味を加えてできる限りリアルを追求したとはマジェストの談。
 実際に天使は擬態することはなく、創造主や命令のできる存在、つまりマジェストが指示することでその姿を変えることはできる。
 マジェストが『ラジコン』と言ったとおり、素直に言うことを聞く機械のような魔物だ、が。
 全く意志は存在できない。
 だから今この天使を殺す事も、捨てることもできない。とはいえ、恐らく逃げても追ってくるだろう。
 彼女の記憶を辿るこの天使は。
 間違いなく。
――甘えん坊さんだろうからね
 くすくすといきなり笑い出したウィッシュに、ミチノリは自分が笑われたのだと勘違いしてにたーと笑みを浮かべる。
「えへへへ」
「……気持ち悪いです。いきなり笑わないでください」
 がびん。
「望姉」
「あ、ごめんねヴィッツ」
 目を丸くして、でもにこにこ笑いながら小首を傾げてあやまるウィッシュ。
「いえ、そうではなくて」
 ユーカとバグは、遺跡利用の軍事基地の入口で何か話している。
 ちらり、とそちらに視線を向けてから、ヴィッツは話を続ける。
「まお様」
 そう言って今度は天使のまおに目を向ける。
 勿論無表情で、まるで彼女に気づいたように視線を向けてくる。
 無表情で、無機質な顔。
 できればあまり見たくない貌。
「うん」
 ウィッシュも理解したように、天使に顔を向ける。
 そこでようやく自分ではないと気づいたのか、ミチノリは『!』を頭の上に飛ばして、にへらーと笑う。
「大丈夫だと思いますか?」
 彼女なりに心配しているのだろうか。
 表情からはつかめない。ウィッシュは、彼女をひょいと抱き寄せて背中をぽんぽんと優しく叩いてやる。
 ヴィッツは彼女に頬を寄せるように体を預ける。
「今はなんにもできないだろうからね。こっちに殆どを取られて、ね」
 逆だったら良かったかも知れない。
 一瞬そんな考えが過ぎるが――ウィッシュは自分の想像に顔をしかめて首を振る。
 逆は良くない。逆は、非常によくない。
 まおがまおでいられないのであれば、それはただの魔王だ。
「もしかしてこのままの方が幸せかもね」
 ヴィッツの後頭部に手をさしいれながら彼女は呟いた。
「まお様は、多分これから大変苦しむから」
 手ぐしでヴィッツの髪をすいてやると、くすぐったそうに顔を揺らす。
 それが、体で感じられる。
「……?」
 ミチノリはにこにこしたまま首を傾げて、自分が抱きしめているものの後頭部を見つめた。

  ぱし ふぃーん

 そんな感じの音が響いて、基地の扉が開いた。
「あ」
 扉の前に立っていたバグは目を丸くして。
 扉の向こう側に立っていたロウは不機嫌そうな顔のままで。
「……今日は何の用だ」
 いつもと同じような対応で、彼らを招き入れた。

「と言う訳なんですよ」
 じたばた。
 『まお』を見せながら説明する。
「ほぉ」
 ロウも、その『まお』を見て頷く。
 今回の用事は、この間来た時にいた少女『カナ』が、ユーカの探している魔術師『まお』かもしれないということ。
 彼女の姿をコピーした『天使』が、『これ』だということ。
 天使はユーカが捕獲して研究してることにして、バグに話してもらった。
「……しかし、『まお』は魔物じゃないのか?」
「魔術師ですからね。詳しくは判りませんが魔物みたいなものですよ」
 ぴくりとユーカの眉が引きつる。
「……」
 ロウは顔色を一つも変えず、ふと後ろを向く。
 全員顔を彼の後ろに向けるが、別段変わらず、暗い闇だけが覗いている。
「実は問題が起きた」
 顔だけ、彼はバグの方に振り向き。
「今酷く取り込み中だ。ここに魔物が侵入したんだ」
「は?」
 くる、と再び顔を闇に向ける。
 勿論精確には闇ではない、が、入口から覗き込むことは出来ない。かなり薄暗い。
「最下層に閉じこめているが、御陰で身動きがとれる状況ではない」
「……何故、貴方はここにいるんですか?」
 バグは眉を寄せて聞いた。
「グザイさんは?シータさんは?……それに、カナ、まおさんは」
 ロウはそれには返事をせず、かつかつと奥へと歩いていく。
 戸惑って動けなくなるバグの側を、ユーカはするりとすり抜けてロウの後を追うようにして声をかける。
「待て。――お前は、逃げてここまできたのか」
 ユーカの言葉に足を一度止め、逡巡するような沈黙の後、言う。
「俺は逃げ――生きてここにいる必要が有っただけだ」
 そして再び足を向ける。
「何処へ行く」
「……最下層に案内する」
 ロウは振り向きもせず応えて、ずるずると向こう側へと歩いていく。
 ユーカは後ろにいるミチノリに目を向ける。
 彼はこくりと頷いてすぐ彼女の側に寄る。
「ボクも行くよ。当然」
「ん……誰かがバグ氏とここに残って欲しいんだ」
「私じゃダメですか?」
 ヴィッツの言葉にむ、と言葉を残して沈黙するユーカ。
「大丈夫だよ、心配性だなー♪こいつにどうにかできるような娘じゃないから」
「どうにかなる前に戻ってきてください」
 二人の会話に思わず苦笑いして肩をすくめるバグ。
「あー。……ロウが手に負えない魔物なら興味あるから、私も降りたいんですけど」
 バグにそう言われてますます困った顔をするユーカ。でも、結局口元を歪めて笑う。
「それでよければ行こうか。彼を見失いそうだし、論議していられない」
 ユーカは颯爽とロウに向かい、歩き始めた。
 ロウに追いつき、どかどかと地下に向かうエレベータに全員乗り込む。
「あう」
 取り残されそうになって、乗ろうとしたミチノリを襲うブザー。
「重量オーバーだな。残れ」
 ロウが無惨に言い残す。
「待て」
 律儀にボタンを押してまっていたロウを、ユーカが抑える。
「……私と、バグが残ろう。ミチノリ、先に行け」
「え?えー、でも」
「良いからいけ」
 ぎろ、とバグを睨んで、さっさとエレベータから降りると、バグもそれに続いてのそりと降りる。
「ゆぅちゃぁん」
「五月蠅い。寂しそうな顔するな。お前やたらとその娘を嬉しそうに抱いてるじゃないか」
 ぎくり。
「あぅあぅ、だってそれぁわあ」
 代わりにあたふたするミチノリの背を蹴るようにしてエレベータに押し込んで、扉が閉まるのを見送った。
 何となく哀しそうな顔をしていた彼の顔を、敢えて無視して。
 ふん、とそれを見てどこか優しい顔でため息を付く。
「何故ですか?」
「何だ。質問か。簡単だよ、お前が信用できないから、私が直接ついた。それだけのことだよ」
 それに。彼女は付け加える。
「この装置の使い方を知ってそうだから」
「それが一番ですか」
 やれやれ、と彼は肩をすくめてみせると、さっさとエレベータに近寄ってボタンを押す。
「あいつはこういう事が苦手でね。尤も、私とてさしたる差はないが」
 両手を腰に当てて、エレベータの前で振り向くバグと向かい合う。
 彼はおもむろに胸から『魔物レーダ』を出した。
「何か聞きたいことでもあるんですか?それも、二人きりで」
 そしてそれを手の上でくるくる回して弄ぶ。
「そうだな……当てられるか?それだけ察しがいいなら」
 にやり。
「まおさんが魔物かどうか。……これで判ったかどうかですね」
 かぱり。
 あけて、彼女に向ける。そこに映る光点は三つ。
 ウィッシュ、ヴィッツ、そして『まお』型天使。
「正直に言いましょう。映っていませんから『判りません』」
 ユーカは不機嫌そうな顔をした。
 同時に、ちーん、という音がしてエレベータが到着する。
 二人は無言で乗り込み、バグはどこか楽しそうに最下層のボタンを押し込む。
「何故だ」
 がたん、と四角い小さな部屋は音を立てて落下を開始した。
 最下層に向けて。
「はい。これは天使の居場所と動きを知るためのものです。総ての魔物を表示することはありません」
 精確には『天使種』であるが、彼はそれ以上言わなかった。
「……そうか」
 ユーカは落胆したように言うと、壁に背を預けて俯く。
 バグは不思議そうに首を傾げながら、レーダを胸にしまう。
「何故です?」
「何故?そうだな。今私達が追っている『まお』ちゃんは、その天使二人が連れてきたからだよ」
 いや。逆かも知れない。
 ユーカはそう思って、上目遣いにバグを見る。
 バグはにやにや、いつもように笑みを湛えている。
「成程、疑いたくないという感じですね。判りますが……」
 がたん、と音を立てて、そして扉が開いた。
「今は本人を捜す方が大事ですね」
 二人きりの時間は終了、と少しおどけて言うと、彼はこれ以上話す事はない、というふうに外にでた。

「この地下は意外と広い。迷うなよ」
 ロウはそう言いながら、腰にある剣を確かめるように左手で柄を叩く。
「手分けしましょうか」
 ウィッシュは小首を傾げ、右手の人差し指で自分の頬を押さえる。
 仕草は可愛らしい。
「内部を良く知っている人間と一緒に動いた方がいいんじゃないか?」
「いや、俺も良く知らない。全部回った訳じゃないからな」
 ぴたり。
 全員の足が止まり、瞬時静寂が訪れる。
 気配に振り向くロウ。
「そのまえに、目的もはっきりさせた方が良いんじゃないですかね。ほら、最下層に閉じこめた魔物を倒すとか、グザイさん達他を救出するとか」
 バグは以外と常識的に言うと、全員を見回すように顔を動かす。
 何となく沈黙。
「……その前に答えろ」
 振り向いたロウに、いつもの淡々とした口調で言うユーカ。
 普段、何もない時は眠たそうな緩い顔にしか感じられない彼女の顔も、何処か緊張しているように見えた。
「お前の他に誰かいるのか。何故生きて残る必要が有ったのか教えてもらおうか」
 やはり、沈黙。
 睨み合うような時間が過ぎ、ややあってロウが口を開く。
「シータという少女が、意識不明で倒れている。――他には誰もいない」
「だったら」
 ヴィッツが叫んで飛び出しそうになるのを、ウィッシュが止めた。
 首を振って無言で抑える。
「私達をここに入れた目的は」
 ユーカは、やはり淡々と続ける。
「魔物を排除して、ここの安全化を図る」
 即答。
「理由は」
「作業する際魔物がいては困る。作業そのものはシータに関することだ」
 即答。
 ユーカは眉根を寄せて目を閉じる。
 ちら、と後ろを見ると、ウィッシュは何か判ったかのような顔をして頷く。
 まかせる、という事だ。
「グザイさんは?カナさんもおられたでしょう」
「……」
 バグの問いには答えず、バグを一瞥するだけ。
 無言。魔物の存在。それだけなら『死』を暗喩するのだが。
「何を隠している。先刻からその質問だけは答えないな」
「……」
 徹底して無言。
 だから、ユーカはもう一つ遠回しに質問することにした。
「魔物の数は」
「今のところ確認しただけで二つだ。天使型ではない強襲型が1、不明が1」
「未確認は?この建物に魔物の巣があるのか?」
「いや、ない。外部からの侵入だ」
 質問がとぎれ、再び沈黙が訪れる。
「では最後に。これからの目的と、我々の要求に対する答えは」
 目を伏せ、ロウは大きく息を吐いた。
 そして、左手で自分の顔を覆う。
「くく……」
「ロウさん?」
 いつもの人を喰った態度のバグですら、彼の変化に驚いているようだった。
 ロウもまともに会話しようとしない、あまり好ましくないタイプだったが、明らかに違う。
「魔物を狩るんだよ!判るか!できなきゃ帰れ!邪魔する奴も帰れ!てめぇらはてめぇらの心配をしててめぇらが探せ!」

 ロウはいきなり早口で、興奮した様子で矢継ぎ早に叫ぶ。

  ひゅ

 空気を裂く音がして、ユーカの鼻先に金属の刺激臭が突きつけられた。
 素早い抜刀に、目が追いつかなかった。
 彼女の眼前には鋭い切っ先があり、それはロウの左腰に下げられた、サッポロでは見られないタイプの諸刃の直剣。
 相当使い込んだのだろう、脂と油の臭いの他に、明らかに血の臭いがべとりと染みついている。
 洗っても、幾ら手入れをしてもこの臭いは新品のように隠す事は出来ない。
「信用なんかできるか、誰が魔物で誰が人間なのかなんか判ったもんじゃない、判ったか!」
「ああ、判った。お前がもしかすると自分も魔物かも知れないと疑っているんだろう、って事が」
 そして、と付け加える。
「多分私達も疑っているんだろう」
 ロウはユーカを睨んだまま動こうとしない。
 切っ先も震えるどころか、真っ直ぐ彼女の眉間を狙っている。
 一呼吸どころか、ほんの僅かな動作で彼女を消すことだってできる、そんな危うさのある状況だ。
「魔物も人間も、起源が同じならそこに差はない。それは少なくとも今までの経験で判ってきた」
 ウィッシュ、ヴィッツが魔物であると言われてもすぐ納得できないだろう。
 器に違いを感じられないのだから。
 だが明らかに人間ではない何かがあり、それが彼女達を魔物と呼ぶ存在として隔てている。
 会話して。
 理解して。
 もしかすると人間が思っているほど魔物とは、人間からかけ離れていないのかも知れない。
「何をもって魔物と呼ぶかだ。神を神と呼ぶべきか魔物と呼ぶべきなのか――」
 バグがごくりと喉を鳴らした。
 神から人間が生まれた。
 神は人間を滅ぼすために魔王と魔物を創造した。
 魔物は魔物を創造した。
 勇者は神を滅ぼし、魔王を滅ぼし、つかの間の平和を享受した。
――なのに魔王は蘇り神は蘇らなかった
 そして勇者は人間として人間から生まれる。否――その中から選ばれる。
「もしかすると神とは、人間の別名なのかも知れないがな」
 ひゅ、という空気を裂く音。
 同時にウィッシュはユーカの肩を掴んで後ろに引き、入れ替わるように右足を踏み込み、右腕を翳す。
 ぎん、という音がして、ウィッシュの上半身が揺れた。
 彼女の中指と薬指の間から、ロウの剣の切っ先が覗いている。
「ほら、もう動かない動かない。ユーカさん、あんまり無茶するもんだから」
「きっと助けてくれると思ってたからな」
 彼女の右腕は鈍い光沢を放っている。
 瞬時に金属化させたのだろう。普通の人間がこう言うことをすれば、勿論ただでは済まない。
 すっと右手が元に戻り、彼女はロウの剣を解放した。
 がらん、とそれが地面に転がり、ロウはもう剣をとろうともしなかった。
「ロウさんでいいですか?」
 ウィッシュは丁寧に呼びかけながら、彼の様子を見つめた。
 まだ混乱から抜け切れていないようだが、そのうち落ち着くだろう。
 今はどうして良いか判らないのかも知れない。
 何にしても、今彼が敵なのか味方なのか、それとも放置して問題のない存在なのか。
「多分貴方はいるべき場所と住むべき世界を間違ってしまった。別にそれは貴方が悪いわけではないのに」
 彼に変化がないのを確認してからにっこりと笑う。
「忘れてください。またお会いしましょう、それは何時のことになるか判りませんが」
 そしてくるりと振り返るとユーカは小さく頷いた。
「じゃあ手分けしよう。まおちゃんは何も判らなくなってるかも知れないし、魔物がいるなら危険な可能性もある」
「私とヴィッツ、ユーカさんとミチノリさん。それと、ここなら大丈夫ですから天使は私が」
 呼びかけられて酷く困った表情をするミチノリ。
「……ミチノリさん」
 ヴィッツが言うと、ますます困った顔をして、彼女とウィッシュを交互に見る。
「もぉしかしてぇ……」
 ミチノリの肩をぽんぽんと叩いて、そのまま抱き寄せてユーカが言う。
「どうせ、行くつもりなんだろう」
「流石、お話が早くて助かります」
 ユーカは肩をすくめて見せ、片手でミチノリの頭をくしゃくしゃと撫でる。
「この馬鹿から煩悩をとってやりたいぐらいだ、私というものがいながらこんなロリコン趣味とは」
「ちちーがぁうよぅ」
 慌てて叫ぶ彼の後頭部を、小さく拳でこつんと叩く。
「持っていって良いぞ。……探す手伝いぐらいはさせてもらおうか?」
「いえ。それよりも早く、ナオさんとキリエさんをお探し下さい。まことに身勝手ながらこれで失敬します」
 右手を口元に当て、くすくすといつものように笑いながら、丁寧なようでいて結構乱暴にそう話すと優雅にぺこりとお辞儀した。
「確かに身勝手だ」
 ミチノリを抱いている手を、彼の髪に差し入れて、手ぐしで彼の頭を撫でる。
「これではサッポロに帰っても対魔軍に協力できるかどうか判らん。しかも、自分達はさっさと目的を果たして帰るという」
 でも、彼女の顔は決して歪まない。嬉しそうな、のんびりとした貌で笑っている。
「いえ、私達だって人間を襲いますよ?そうですね、フユ将軍によろしくとお伝え下さいな。恨まれてるはずです」
 くすりと笑い応える。
「子細なく承知した。酷くおかしいな、おかしい。人類の敵とこうしてこんな会話をしている」
 思えば一番最初からうちとけていたのはこの二人だった。
 どこか似ているからだろうか。
 それとも、たまたま同じような性格だったからだろうか。
「お互いに。でも」
 そしてウィッシュはうーん、と考えるような仕草で首を二、三度傾げながら右の人差し指を自分の頬に押し当てる。
「本当は敵じゃないかも知れませんよ。そう思うと、ほら。私達は何故ここにいるんでしょうね?」
 それには誰も応えられなかった。
「でも、まぁ。……はじめからシコクまでの約束だったのだから」
「そうですよね〜♪」
「でもぉ」
 わしわしわしわし。
「うわぁあぁぁ」
「黙れミチノリ」
 ウィッシュはにこにこしながら、相変わらず髪の毛を変化させて『天使』に巻き付け、拘束する。
 じたばたどころか完全に身動きとれなくなった、雁字搦めの天使をひょい、と小脇に抱えて受け取る。
「お前達の目的は、何だったんだ?わざわざ一緒に来る必要性なんかなかったんだろう?」
 魔物で、しかも天使をこともなく退ける戦闘能力。
 べつに敵対する必要性もなかったはずだし、シコクに用事があるなら楽に渡れたはず。
「いえ?」
 そう言って、彼女は、ウィッシュは嬉しそうに笑う。
「まお様を利用して、あなた達に近づきました。尤も……」
 ヴィッツを見る。
 彼女もウィッシュを見上げる。
「目的は果たせませんでしたし、先にばれたんですから、まお様を回収して帰ります」
「そうか。……ナオ達には、先に別れたとだけ伝えるよ」
「そうしていただければ幸いかと。できれば、楽しい思い出だけにして欲しいですから」
 ウィッシュとユーカなら何も問題ないだろう。
 ユーカもそれは賛成だった。先刻のロウのような人間を見れば判る。
 安易に話すべき内容ではないはずだ。
「それだけか?」
「ええ。もちろん?キリエさんなんか、どうせ信用しないでしょうし」
 言葉通りではない。もう一度会うかもしれない。
 むしろナオとはもう一度会わなければならない気がする。その時のためにも。
「ほら、次お会いした時にも楽しい時間にしたいと思いますから」
 きゅ、とヴィッツがウィッシュの服の裾を握る。
「ではお騒がせしました」
 ヴィッツは彼女が振り向こうとするのに気づいて、服の裾を離してミチノリに近づく。
 彼は思わず泣きそうな情けない貌で、彼女を見つめる。
「泣き虫。いつも情けなくて虐められてて。でも。これからも元気でね」
 そう言って右手を差し出す。
「うぅぁーん」
 彼は、大きな手袋を差し出すと、握りしめずに彼女に握らせた。
 そして、泣いているのか笑っているのか叫んでいるのか、意味不明な音を口から零しながらぶんぶんとそれを振った。
「情けない夫でな」
「可愛いいい人です」
 拗ねたような貌以外あまり表情を見せなかった彼女だったが、すこしだけ、ほんの少しだけ笑っているように見えた。
 本当は吊り目で、あまり笑わないだけだったのかもしれない。
「やらんぞ」
「大事にしてください」
 ヴィッツはウィッシュの元に戻り、急ぎでぺこりと頭を下げて。
 二人は、ゆっくりと廊下の奥へと歩いていった。
「ふぅ。さて、バグ=ストラクチャ氏。キールの元に案内してくれないか」
「……片付ける物が山積みのような気がするんですがね」
 バグはため息をついて肩をすくめた。

 予定もなにもない。
 こうなったら持久戦だ。
「ナオー、昼はあたいの番だよ」

  びゅ がん

「でべ、いでででっ、お前岩はねーだろ岩はっ!」
 どうにか直撃は避けられたが、それでも骨が折れそうなぐらい顔面が痛い。
「うるさいっ!なんだーその反応はよぉっ!」
「わわわ、悪かった悪かった悪かったごめんもう笑いません赦して」
 すちゃ、と右手に大ぶりな鉈――斬魔刀を構えるキリエを見て、大慌てでその場にしゃがみこみ、土下座を繰り返す。
 実は大袈裟でも笑い事でもない。
 『ぶち』切れてしまうと、見境無しに暴れるので手が付けられない。
「……やっぱやめる。長いこと『俺』で通したから気持ち悪い」
 ぶす、とむくれたまま彼女は顔を背ける。
 少し時間を戻して、今朝の出来事。
 流石に一週間も経てば足も動くようになる。
 きっちり纏足のように締め上げた絹の御陰で出血も無く傷も開くことはない。
 ただ流石に体が鈍ってきているように感じていた。
 『早く行こう』病が治って何も言わなくなると、今度は『このままでいよう』病が彼女を冒していた。
「おはよう」
 気怠い朝の空気に、ナオの声で目が覚める。
 魚の焼ける匂いがする。
「おはよ、ナオ……朝飯?」
 くるんと体を反転させて、上半身を逸らせるようにして声の方を向く。
 丁度彼はたき火で魚を焼いていた。
「おう」
 いい加減慣れた物で、海水を干して作った塩を塗った魚を焼いている。
 サバイバルのプロだ。いや、それは表現がおかしいのだが。
 昨晩の『取りあえず動かずにユーカの占いで探して貰う事を期待しよう』という彼の言葉に、渋面を見せつつも従いながら、できれば来て欲しくないなと思っていたりする。
 まるで塩にスイカをぶち込んで混ぜたような甘さである。日本語として表現がいまいちだが。
「なんか毎日俺が飯作ってるな」
 思い出したように言いながら、キリエの様子を窺う。
 む、とキリエは口を尖らせて睨んでくる。
「何だよ偉そうに。お前が勝手に作ってるんじゃねーか」
「偉そうにって、本当じゃねえか。俺がいなかったらまともに料理もできないかもな」
 ばん、と両手で地面を叩いて、一気に立ち上がるキリエ。
「お前っ!言って良いことと悪いことがあるぞ!」
 むぎゅ。
 そのまま彼女は右足でナオの貌を蹴る、というか壁を利用して踏んづける。
 素足だ。靴じゃない念のため。
「こらっ、人をいきなりむぐっ」
「五月蠅い。文句があるなら目を閉じて向こう向け」
 つい今まで寝ていたのであって。
 肌着ではないがほぼ同然の恰好なのだ。
 だったら起きるなという気もするが、その辺は或る意味キリエらしいというか。
 察したナオも目を閉じて向こうを向いて、そのまま魚を焼き続ける。
「俺だって飯ぐらい作れる。魚だって焼けるし、肉も焼ける」
「……てかさ、こんな時の非常食じゃないんだから」
 待つと決めると、生活する以外に楽しみはない。
 なら少しぐらい面白いことをしてもいいんじゃないか。
 とか、ナオは考えていた。
「なんなら一度しおらしくしてみるとか」
「無理だ」
「……即答かよ」
 着替えるというよりは武装するという方が正しい感じで、衣類を身につけるとキリエはナオの前に座り、自分の前にある魚をひっくりかえす。
「ただ待ってても仕方ないし、傷の具合みながら訓練も始めるけどさ」
 ナオはもう彼女の分の魚には手出しはせず、自分の分だけくるくる回す。
「折角だからユーカとか見返すのもどうだ?ユーカだって全然女らしくないけどさ」
 それは考え方やしゃべり方、服装のことだろう。
 立ち居振る舞いや仕草は実は結構そうでもない。
 しかし十四歳という年齢のせいもあるが、体型、態度から口調、やってる事まで総て女性らしくない塊のようなキリエは明確に男の子にしか見えないだろう。
 腕とか筋肉ついてるし。
 もう四年もすれば変わってくるのだろうか。
「……見返すって?」
 眉を歪めて睨むキリエ。
 あぐらを組んでぶすーっとむくれていると子供にも見え無くない。
「取りあえず口調から。何か変わってたら『あれ?』とか思うだろ?」
 む。
 思わず真に受けそうになって、ううんと腕を組んで考える。
――……二人っきりでいて、変化があったらそれってなんか意味深じゃん
 ナオには何の他意もないから効果は低いのではないか。
 いや、意外にそれだけで落ちるかも知れない。
――もしかしたら意外と面白いかも?
 ちなみに念のため、ナオも面白そうだからという理由でしかない。
「口調って、どんなんだよ」
「それ。俺と変わらない話し方だろ。それから直してみろよ」
 にやにや。
「えー。俺ずーっとこうだから判らねーよ。なんだ?その、将軍みたいな堅っ苦しいのにすればいいのかな」
 ナオは本気で困った貌をするキリエに、?を頭の上に浮かべて首を傾げてみせる。
 将軍というのはフユのことだ。ちなみにアキなら司令という。
 もう一人のナツという普段から顔を見ない姉が、一番ナオに似ているのだが、残念ながらキリエも知らない。
 今は何処を逃亡しているのだろうか。
 連戦連敗、彼女の行くところ必ずぺんぺん草すら生えない程『やられてしまう』ことから、付いたあだ名が『敗走将軍』。
 常に戦い、常に敗走を続けているので殆ど会ったことがない。
「……うちの姉らは、全部規格外みたいだけど」
「じゃ、どんなのが良いの」
 言われて見れば、取りあえず思いつく例がない。
 一応、この間まで一緒にいたウィッシュとかヴィッツ辺りは女の子っぽかった気もするし、まおはただの子供だった気もする。
「あー、そうだな……取りあえず俺は辞めて私にしたらどう?少しは変わるだろ」
 そろそろ魚も食べ頃、ナオは提案するとさっさと串をとって、魚のひれをちぎってたき火に放り込む。
「わ、私?あー、えと。……こほん。私が自分を私と呼べってのか?」
「……なんか違うよなぁ。丁寧に話してみるようにしてみろよ。魚、焼けてるぞ」
 今度は反対側に頭を倒して、うーんと唸る。
「わ、私ね。私。ちくしょー、んなこと言ったって私なんて使いにくいって」
 顔を背けて。
 真っ赤に染めて。
「私、私、私……あ、俺やっぱ『あたい』でいいんじゃねーの」
「……お前ね」
 人の話聞いてないだろう。
「なんだよ」
「……魚、焦げるぞ」

 そう言うことがあって。
「やっぱ、似合わないしダーメだ」
 くるり、とナオに背を向けて、洞窟の奥に戻ろうとする。
「い、いやそんなことないって。悪かったよ、なんか唐突だったし馴染まないからくすぐったくてさ」
 じろ。
 不審な目つきで睨まれて、ナオはにこーっと愛想笑いをしてみせる。
「ホントホント!」
「……僕の方がいいかな」
 それはそれで別のファンが出来そうな気もする。
「いや、とりあえずそれで続けて見ろよ。大丈夫だから」
「……判った。あたい頑張るよ」
「何を頑張るんだ、恥ずかしい奴らだな」
 唐突に入口からかかる声。
「ゆ、ゆゆっ」
 驚いてずざざざっっと一気に洞窟の奥まで退いて、物陰に隠れる。
 顔はまるで塗ったくったみたいに真っ赤に染まって、熱を持ってしまう。
「ゆーかっっっ」
「おまぁたせぇ」
 ようやく、救助隊が現れたのだった。
 だが、キリエの様子に、ユーカは自分の右手を額に当てて、彼女が隠れている辺りをちらちらと覗く。
「おや?もしかしてもう少し後の方が面白かったかな」
「ななななっ!何を言ってるんだっ」
 恐らく図星だろう。
「でも済まなかった、遅れた。私達も上陸する前に海賊に襲われたりしたものでな」
 洞窟を見回して、たき火を焚く位置を見つけると頷いてみせる。
「結構しっかり生活してるようだな」
「まぁな。ともかく――生きてて良かったよ」
 話をしているうちに多少落ち着いたのか、キリエは身を潜めていた荷物を取ると、ばたばたと片付け始める。
「すぐ出発だな」
「いや、まあまて」
 ユーカは息巻くナオを右手で制するようにして、自分は彼の目の前に座る。
 てててとミチノリがその側に来てぺたんと正座する。
「取りあえず私達の用事は終わった。後は帰るだけで」
 ミチノリはうんうんと頷く。
 かさり、と先刻までばたばた動いていたキリエが動きを止める。
「ちょ、それって、もしかして俺ら役立たず?!」
 がーん。
「あれ?キリエ、『あたい』はどうしたんだ」
「かーっっ!うるさーいっっ!」
 あ。切れた。
 顔を真っ赤にして。
「まあ、役立たずではなかったさ。それに迷惑をかけてしまった。申し訳なかった」
「いや」
 流石に呆然として、あやまられても困るといった風に首を振る。
 そこに、真横からロケットのような跳び蹴りで彼を蹴倒すキリエ。
「だから言っただろっ!早く行こう早く行こうって!」
「いけたのかっ!アレでいけたって言うんだったらな!お前」

  だぁきぃっ♪

「うわっ」
「こらっ」
 終わりそうにない喧嘩を始めそうだったので、ミチノリが有無を言わさず二人を捕まえて拘束する。
 普通一人しか捕まえないので結構無理があるが、そりゃあもう普通より密着させられるのであって。
「喧嘩だめぇ」
「だめぇじゃなーいっ!」
 叫ぶキリエ。顔真っ赤を通り越して湯気がでそうだ。
 ナオはあんまり顔色を変えない。
「喧嘩しないから離せっ、こらっ」
「だめぇ。このままぁ、ゆぅちゃんのお話きこぉねぇ」 
 にんまぁと笑うと、そのまま座り込む。
 意外かも知れないが、彼はかなりの力持ちである。
 この細身で何処に力があるのか、と思われがちだが、人を拘束し続ける事ができるのだから相当な腕力がある。
 でも実はこの謎の手袋の御陰かも知れないが。
「取りあえず私の大体の目的も果たし、まおちゃん達も自分の用事があるとかで別れて行った」
「そっか、あいつらも無事だったんだ」
 ほっとした表情を見せるナオに、少しだけ意地悪な顔をしてにやにやと宣告する。
「そう言えば、ウィッシュから伝言があったな。『二人っきりで今頃何してるんでしょうね』だとさ」
「……何にもしてないが?」
 ナオは不思議そうな顔で首を捻る。
 その後ろで限界以上に赤くなった顔で気を失い欠けている者一名。
「ミチノリ、離してやれ。キリエが凄いぞ」
 えっと、と呟いて覗き込んで、驚いて慌てて解放して二人を降ろすとキリエの両肩をもって揺さぶったりしてみるミチノリ。
 まあ別状はないだろうが。
「あー、ナオ、少しキリエが可愛そうだな」
「ん、ああ、まあ死にはしないだろう」
 そうじゃないんだけどなぁと頭の上にくしゃくしゃの線を飛ばして、ため息をついて肩をすくめる。
「一息入れたらカガワまで行こう。日が落ちるまでには辿り着くはずだから」
 後は帰るだけ。
 バグの手引きで潜行船を借りる事が出来たので、天使を避けて本土に帰国することができそうだ。
 尤も正規とは言えないルートであるし、その船自体もまともに上陸できる船ではないのだから。
――……動くとは、確かに占いででていたが
 思いがけず、自分に役割が与えられたような嫌な予感がした。
「それで、勇者は見つかったんだ」
 魔物との戦いを終わらせる手段。
「ああ、それか。――そうだな、似たような物か。私の知り合いであるキールとも話をしてきたしな」
 無邪気に聞いたナオに、理解できるように彼の話をできる自信は彼女にはなかった。
 世界に生じる『力の波紋』、歪みが生じる原因、勇者が発生した事を示すそれについて。
 魔王を倒す勇者という存在理由と、そして『魔王』そのものについて。
『総てが観測結果から導き出された結論に過ぎない。残念ながらそれが真実とは、果たして誰も言えない』
 キールの言葉を思い出して、彼女は自然苦笑いを浮かべた。
「御陰で魔物に対する考えとか、変わってしまったよ。今後は軍に手助けするのを躊躇うかもしれん」
 ナオはいつも通りに、何も変わらない様子で彼女に話しかけて。
 キリエはいつになく顔を赤くしていて。
 そこは平和と言って良い、呼ぶべき状態だとユーカは確信した。
――『ナラク』の発動後新たな『勇者』が『発生』した。勇者の存在は世界の揺らぎ。不安定な世界が安定化するためには
 もう一度安定した状態に戻らなければならない。
 魔王が滅ぶ事――もしキールの言葉を借りるなら、この周期は閉じようとしているのだから。
 何故不安定なのか、その理由を知ることは恐らくついぞないだろうが。

「望姉、もしかしてその天使を殺してしまえば、魔王陛下はいなくなるのですか?」
 ウィッシュとヴィッツは、広大な地下施設の中にいた。
 まだユーカと別れてから数分だが、この施設の広さが嫌になるほど広い事に気づいていた。
 彼女が歩く廊下の長さがおかしいのだ。ずっと向こう側、廊下の隅が見えない。
 闇に沈んでいる。もしかすると、もし視野があったとしても見えないのではないか、と疑りたくなるほどだ。
「多分、それに近い事になると思うけどね……。ボクは言っておくけど、やらないよ」
 彼女の言う事は想像していた。
 天使の刷り込みの能力で魔王の記憶がここに封じられているとしたなら、この天使は既に『崩壊寸前』のはず。
「多分まお様でもいられなくなるよ」
「?何故ですか?」
「魔王の記憶って言うのは多分、魔王そのものでもあり違うものだと思うんだけどね。本当はどうか判らないけど」
 そう言って自分のこめかみをとんとんと叩いてみせる。
「ほら、まお様の事判っても魔王陛下の記憶が有る訳じゃないから分からないけど、私達はまお様じゃない」
「……何を言ってるのか判りません」
 はは、とウィッシュは笑う。
「人格ってのは記憶から分離できないって、事。どれだけ精巧にまねて作られても、まお様の事を理解する手助けにしかならない」
 そう言ってまおそっくりの天使を見る。
 多分、記憶毎魔王の意志を取り込んだ『姿』なのだろう。
 何故あの時こんな事になったのか理解しかねる。酷く不可解だが、『こうなった』ということは『魔王の望み』なのかも知れない。
「まお様は、魔王であることをもしかしたら、嫌がってるかも知れない」
 だから天使は魔王のほとんどをその器ぎりぎりにまでとりこんでしまった。
 まるで破裂寸前の水風船のように、いれられるだけ入るだけ一杯一杯に――
「……!」
 ばったり。
 文字通り、目の前で鉢合わせてしまう。
「まお様」
 そこに、まおがいた。
 左腕を無くして、揺らぐ黒い宝石のような色を切断面に湛えて。
 亜麻色の髪、見覚えのある柔らかそうな顔。
 泣きじゃくったのか、耳は真っ赤で目は充血して、とても見られる貌ではなくなってしまっているが。
「お探ししましたよまお様。ホント、心配させるんだもん」
 しかし、彼女の声はまおにはとどいていなかった。
 目の色も艶を無くして濁り、彼女達を見た瞬間に彼女はぺたりとその場に座り込んでしまっていた。
「ああ、ああ」
 そして、残っている右腕で自分の頭を抱えて、その場に蹲ってしまう。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい助けてお願いタステケたすけて」
 がたがたと震えて、涙を流して。
――……余程怖いことがあったんだね
 間違いなく左肩はE.X.に切り飛ばされている。
 魔王とはいえ、E.X.には耐えることはできない。
 あの『食器』はそう言うために作られた物だから。
「まお様、ホントならいっそこのままにしてあげたいんだけど」
 そう言って、苦笑して続ける。
「ごめんね。ゲームのカードが不利な状態で、このお話を続けるわけにはいかないの」
 そう言うと、彼女に近づいて、ぶつぶつと続ける彼女の頭を抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫だから。もう安心していいからね」
 一瞬びくっとしたようだったが、すぐにまおは力を抜いて小さく頷いたようだった。
「ごめんね。傷も記憶も戻してあげるからね」
 あとはマジェストに連絡しなければならない。本当なら、緊急事態が起きたときには連絡をいれなければいけないのだが。
――文句、言われるかな
 だが文句どころではなかった。


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