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魔王の世界征服日記
第67話 嵐


 夕食を終えて。
「じゃ、キリエ」
 ナオが毛布に潜り込見ながら言うと、彼女は小さく頷く。
「ああ」
 夕食を境に、今度はナオが眠りにつく。
 既に船室の壁のランプが灯り、本を読むぐらいの明かりが部屋に満ちている。
「ウィッシュも寝てくれるかな」
「?ボクがですか。ボクは大丈夫ですよ。それに、暗い方が集中できますから」
 小首を傾げるようにして、彼女は応える。
 よく見れば夕食の時から姿が違う。
 両手には革で出来た手袋を填めて、金属製のネックレスを首から提げている。
「……魔法でも使うのか」
「一応魔術を使えるんですからね。私だって」
 ウィッシュは笑みを崩さずに応え、昼間と変わらずぽやんと床に座り込んでいる。
「起きていて足手まといにならないようにって思ってるけど」
 にこにこ。
「……その心配はないか」
 肩をすくめて、彼女は膝を抱え込んだ恰好で手元に斬魔刀を引き寄せた。

 『シコク周辺では嵐が多く、そんな夜に限って出没する魔物がいるらしいんだ。だから魔物が嵐を起こしているとも言われている』

 キリエはため息を付いた。
 できればこんな足場の不安定な場所での戦闘は避けておきたい。
 いや、船上で戦闘などしたくない。まさか敵は空を飛んでくるんだろうか。
 ユーカもどんな魔物なのかは知らないと言う話をしていた。
 判るはずもないだろう。嵐にあって難破しなかった船はないという。
 噂では半漁人だのなんだのと言われている。
 ユーカも今は眠りに入ろうとしている。聞きたいことはあるが、今起こす訳にもいかない。
「キリエさんこそ、居眠りしてしまわないでくださいね」
「ほっとけ。いざとなればいざとなるさ」
 ちぇ、と舌打ちすると、彼女は立ち上がった。
「ちょっと外見てくるよ。まだそんなに暗くないから」
「ええ、気を付けて」
 ざきんと金具が立てる音を残して彼女は船室を出た。
 ぎしり、ぎしりと軋む音が聞こえてくる。
 木製の船は、木の合わせが巧くいかない場合や腕の悪い船大工が造ったならば、航海中に船体そのものが軋みを上げる。
 とんとんと階段を上る音はしても、階段は軋みすらしない。
 これは違う。リズミカルにぎぃ、ぎぃと繰り返すこの音は、櫂で漕ぐ時の音だろう。
――風はないのかな
 まだ夜にもならない時刻だというのに、特等船室も1等船室にも殆どと言って良いほど灯りは見えない。
 不審に思ったが――自分達もさして変わらない事に気づいて、肩をすくめる。
――何を心配してんだか
 波の音と船の揺れを感じながら、彼女は甲板に通じる扉を開いた。

  ごぉっ

 そんな音がした気がした。
「わっ」
 思わず声を上げて、引っ張られる扉を押さえ込む。
「ちーっ、風は結構あるじゃん」
 外に出ながら扉を閉めるのも一苦労だった。
 ばん、と音を立てて扉を閉めると、風が吹きすさぶ甲板の上でぐるりと周囲を見回す。
 帆は綺麗に畳まれている。
――まさか
 ちらりと嫌な予感がして、進行方向の穹を見つめた。
 本当なら星が見えているはずの穹、そこにあるのは黒い闇。
 どよんとした光のない塊がそこに澱み、水平線がやけに明確に黒ずんで見える。
「――嵐だ」

 小一時間も待たなかった。
 部屋に戻ってその話をして、ナオを起こすかどうか迷っているうちに打ち付けるような雨が降り始めた。
「帆を畳んでいたのは、風の方向ではありませんよ」
 ウィッシュは雨に負けそうな声でキリエに言う。
 声が届かないと困るので、彼女の真横を陣取って座っているのだ。
「帆船の乗組員は向かい風に向かって帆船を走らせられますから。初めから嵐を見込んで畳んだのでしょう」
 大嵐で帆船が帆をあげておくと、もみくちゃになった風によって帆そのものを破ってしまう虞がある。
 それでなくても、この船は『エンジン』が搭載されているから、危険だと思えばエンジンに切り替えるのだ。
「……。幾ら人間じゃないからって、持つのかな」
 ウィッシュは一瞬困った顔をした。
 彼女も人間ではないから、ではない。
「そうですね。今日一日もたないはずです」
 いぬむすめの限界は、彼女の方がよく判っていた。
「抜けられればっ」
 どん、と大きな揺れが来てキリエは歯を食いしばる。
「揺れてきたな」
 雨足は弱まるどころか強くなる一方で、揺れも周期性がなくなって大きな波が混じって揺れるようになってきた。
 間違いなく風も強くなってきたのだろう。
「起こさなくても、起きるなこれじゃ」
 ガレーシップが大きく傾き、今必死になって水くみしてる絵が浮かんで、キリエは苦笑いする。
 案の定ナオ達も目を覚まして、彼は毛布を片付け始めた。
 その中でも強気に眠っているのはミチノリだったりするのだが。
「起きろ」
 既に戦闘用の祈祷師装束で、あの巨大手袋をまくらにして小さくなっている彼の背中を、容赦なく踏みつけるユーカ。
「んぎゃん」
「寝てたらこのままあんまするぞ」
 ふみふみふみふみ。
「ぁんぅんぁぁぅ」
「悩ましい声をだすな馬鹿者」
 何があるか判らない状況だから、起きていなければ危険だ。
 果たしてこれだけの嵐だ、緊急艇は使えないだろう。むしろ沈む前に乗る方が正しい。
 ナオは斬魔刀を既に腰に提げて動ける体勢をとっている。
「ただの嵐だといいがな」
 ナオの呟きに、ユーカの真剣な表情が否定する。
「だったら困るな。こんなに激しい嵐だと抜けるのが難しい。むしろ――」
 魔物が起こしている嵐で。
 魔物を斃して切り開く方が早く、楽――彼女がそう続けようとした時、ウィッシュが声を上げた。
「――きます」

  どん ごごおぉぉん

「ユーカの馬鹿っ」
 キリエが叫ぶ。
 既にナオは船室の扉に向かって駆けだしていた。
 突然響き渡った轟音に混じって、木が無理矢理破断していく嫌な音が聞こえた。
「魔物だ」

 斬魔刀を提げて、扉を蹴破って一息に廊下に転がり出る。
 ランプの明かりがゆらりゆらりと陰影を揺らす廊下の向こう側、悲鳴とも啼き声ともとれる物音が聞こえる。
 先程轟音が駆け抜けた方向。
 鈍い低音は雨音か。
「ナオ、上だ」
 後ろから、追い越すように駆け抜けていくキリエが、階段を駆け上っていく。
 ナオもそれに続いて階段を駆け上がる。
「上って、今船室に敵が居るだろう」
「ウィッシュが、『上から来る橋頭堡を作ったみたいです』だって」
 上からさらにくる。
「任せろ、ってことか?」
 戦場で迷いは禁物。
 そして戦場で『場』は何よりも重要視される。
――しかし
 まだ二人は魔物を見ていないというのに、何故ウィッシュは的確に指示が出来たのか。
「斬り込みは普通捨てゴマだろ」
「……まあ、な」
 キリエが納得している――いや、しようと努力しているのか?――のを、ユーカ達への信頼に置き換えて。
 ナオは自分の戦場を目指す。
 そこは決して遠い場所ではない。決して明るい場所でもない。
 僅かに前を行くキリエが階段から消える。
 急ぎ跳躍気味に階段を蹴る。みき、と木が割れる時の音が響いた。
 耳が音を聞きわけようとして、妙に過敏になっていく。
 戦場を走る時の特有の身体の変化。
 突然体中の筋肉が熱を発したように、力がみなぎり、それまで見えていた物が遅く感じられて見えない物まで見えてくるような。
 加速する感覚。
 余計な音が消え、敵の声と発する音が耳に、獲物はここだと囁く。
 キリエの背中が再び彼の眼前に入った時――
 ナオも、キリエも、甲高い耳鳴りのような音を聞いたような気がした。
 それは実際の音ではなく、ある種の肉体が発する警報のようなもの。
 同時にキリエは肩から扉に飛びつき、身体全体で扉をぶち破る。
 ばん、と激しく外に向かって開く扉。
 途端に流れ込んでくる大雨、そして塊のような闇。
 それでもなお抑圧するような存在感に振り向き――その巨大な影に気づく。
 二人が飛び込んだ闇の向こう側で、その存在は大きく立ちはだかるように舞い降りてきた。
 嵐の風が吹く中を悠々と羽ばたきながら。
「お、お、お……」
 申し合わせたように散開して両手で斬魔刀を構えながら、風の吹き付ける中降りてくるその影を凝視する。
「な」
 キリエが震えたように声を漏らし、ナオは絶句した。
 人の形をした、異形。
 およそ人間の倍以上の大きさの人影。
 今までに見たことのない――そう、間違いなく、しかしそうと判別するにはあまりにも異形――魔物。
 大雨に濡れて艶やかな肌を光らせるその手足は、人の様な皺はなく、継ぎ目も見えない。
 頭に当たる部分には、首と肩のない頭に当たる部分が存在し、濃淡がひっきりなしに踊っている。
 まるで、出来損ないの人形のように。
 めきりと。
 もし擬音を付けるなら、そんな言葉で言い表すしかない――顔に一文字の線が走り、大きく平らな歯が並んだ口が開く。
 縁は人間を小馬鹿にしたようにめくれ上がり、唇を形作る。
 背中の翼は金属質の光沢を持った鱗のように輝き、鳥というよりはコウモリのようにたわみながら羽ばたいている。
「――天使」
 ぎり、と歯ぎしりしてナオは目の前の異形をそう呼んだ。


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