日本における受容

 日本では、パラントと同時代の20世紀初頭、きわめて多様な文脈でパラントが読まれ、語られました。
 すこし例をあげるとすると、個人主義的アナキズムの文脈で大杉栄が、ダダイズムの文脈で百瀬二郎が、軍国主義を論じるにあたって夏目漱石が、そして、仏門にはいった宮島資夫が死生観をのべるとき、それぞれ、パラントに言及したり、引用したりしていました。

 その後、日本ではほとんど忘れられていたパラントを掘りおこし、現代によみがえらせたのが久木哲です。
 パラントと同時代の日本における受容を知るためのデータ(だれがどこで引用、言及しているか)については、久木の訳書のあとがきや、歿後に出版された随筆集でほとんど尽くされています。
 しかし、なぜ日本でこのように多様な受容がなされ得たのか、パラントとひびきあう素地が日本の作家や思想家たちにあったのか、といったことは、まだまだ考える余地があるようにおもいます。

 以下では順不同で、日本でパラントがどのようにうけいれられていたかを見てゆきます。


 大杉栄は、1914年、パラントの La mentalitédu révolté(1902年、Mercure de France に発表され、のちに1904年発刊の論文集、Combat pour l'individu におさめられた)を「叛逆者の心理」と題して和訳し、『近代思想』第2巻第6号によせています。『無政府主義の哲学』(現代思潮社、1971年)の第2巻に再録されています。
 叛逆者は、旧習を撹乱することをもって、社会から指弾されるわけですが、その社会こそを桎梏といいきり、叛逆者の意義を宣揚するパラントの論には、大杉はまさに「わが意を得たり」という気になったにちがいありません。

 いっぽう、上述の『無政府主義の哲学』に同様におさめられている「近代個人主義の諸相」(初出は1915年、『早稲田文学』120号)は、大杉栄の名で書かれた評論です。ネット上でも読めます(「アナーキー・イン・ニッポン」の「アナキズム図書室」所収):
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/osugi04.html
 かれは、個人主義の発展を3つの段階にわけています。
 第1期は、「個人が社会を支配して、その夢想するところに従って社会を変革せんとする、自ら頼む雄雄しき叛逆」(p.81)だったといっています。それはまた、ロマンティズムであり、「偉大や、力や、情熱や、歓喜や、自由や、幸福や、または美やの、漠然としたしかし崇高な理想に対する異常な憧憬」(p.83)でした。大杉はこれを「社会的個人主義」とよんでいます。
 それにたいして、第2期は、「いっさいの努力を無益として観念してしまった」(p.81)のであり、「社会に対する、その劃一的規律、その単調、その束縛に対する、敵意と不信とから侮蔑と無関心と至る種種なる実感の態度」(p.83)です。こちらは、「心理的個人主義」とよばれます。文学的傾向としては、ネオロマンティズムにあたるとしています。
 第3期は、大杉が招来しようとしていたあらたな個人主義で、第1期と第2期の綜合からうまれるとしています(まるで教科書のような弁証法です)。
 いわく、「心理的個人主義はただ内にのみ向かうところから、今日の社会組織に対する客観的知識を欠き、したがって早くいっさいの社会組織を否認する悲観説に陥る。また社会的個人主義はただ外にのみ向かうところから、いっさいの社会組織に対する主観的感情を欠き、したがって早くも今日の社会組織を是認する楽観論に陥る。そしてここに、この二つの種類の個人主義の、各各の長所と短所とが見出される。そしてまたここに、理論的にも実際的にもこの二つの種類の個人主義の短所の行きづまりがあり、さらに両者の長所をとった第三の個人主義が生まれなければならぬ順序となった」(p.90)
 しかし、ここでいう「社会的個人主義」なる用語は、パラントがさきにつかっていたことがわかっています。Pessimisme et individualisme の第1章(p.16)で、はやくも「社会的個人主義 individualisme social」といっています。パラントの同書が出たのは、大杉が「近代個人主義の諸相」を出すまえのとし、1914年です。
 この符合にかんして、パラントの訳書を出した久木哲は、1973年、『人間連邦』1月号に書いた「忘れられた思想家」のなかで、「私はこの発見を少しも悪い気持ちでは受け取らず、むしろ大杉の勉強ぶりに敬意をいだいた...なる程パラントからの借用部分は多いが、論旨は全く別であって、実にうまくパラントの研究を利用しながら、近代個人主義についての彼のいわゆる三段階の展開を独創的に行なっている」(遺稿集 p.151に再録)といっています。
 いっぽう、『無政府主義の哲学』の編者だった大沢正道は、巻末の解説で、「社会的個人主義という用語は、おそらく大杉の独創ではなく、フランスあたりにタネ本が求められるのではないかと推定されるが、確証はない」(p.265)と書いていたので、久木が手紙をおくり、パラントのことを指摘したそうです。それをうけて大沢は、「近代個人主義の諸相」のなかでパラントの名まえを出さなかった大杉をとがめる文を、角川の「日本近代文学大系」の月報27に、「大杉栄の盗作」と題して書きました(久木前掲書 pp.151-152。その月報も見ましたが、久木の発言を踏襲する内容でした)。
 わたしがおもうに、まず、パラントの名まえをいちども出さなかった点で、大杉はたしかに非難されるべきでしょう。なにしろ、スタンダール、ヴィニー、ゴビノー、バンジャマン・コンスタン、オーベルマン、ルネ、レオパルディ、ショーペンハウワーなどの、出てくる例が完全にパラントのPessimisme et individualisme とかさなっているのです。事例とされる作家や思想家が10人以上も一致するなどということは、偶然では絶対にありえません。
 しかしながら、3つの段階をわける議論は、いちおう大杉の案出によるものとみなしてさしつかえないでしょう。
 もうひとつ、久木も大沢もまったく指摘していない点をわたしは指摘したいとおもいます。それは、大杉のいう「社会的個人主義」を、パラントの individualisme socialとくらべると、字義的にこそ訳したようなかたちになっていますが、内実はかなりことなっている、ということです。とくに「社会的」の部分が、大杉にあっては、たたかいに出てゆく外向性ともいうべき意味合いであるのにたいして、パラントのいう social は、個人を社会と同一化、均質化し、個人と社会との対立を調和させようとする考えかた(もちろん、パラントが批判の対象とする考えかた)をさしているからです。

 いずれにしても、大杉が思想形成のうえで、パラントから甚大な影響をうけていたことは、まちがいありません。

なお、大杉の「美は乱調にあり」のことばのみなもとが、『個人と社会との対立関係』に見いだされるか、という問題については、べつのらん (同書訳者ノート) をごらんください。

#2005年11月30日追記:

 大杉の「社会的個人主義」については、飛矢崎雅也『大杉榮の思想形成と「個人主義」』(東信堂、2005年)が言及していることを知り、最近購入しましたので、以下にそれを読んでの補足をしるします。

 同書は大杉の「社会的個人主義」の考察にひとつの節(第3章第1節)をついやしています。
 そのなかでもやはり、大杉の「近代個人主義の諸相」を重視し、ていねいに論旨を追っています。その部分については同書を参照していただくとして、同節の最後の部分(pp.189-191)で、パラントからの影響を影響を論じているところに注目してみたいとおもいます。

 飛矢崎によると、大杉はパラントの「アナキズムと個人主義」(原題Anarchisme et individualisme、初出は1907年、Revue Philosophique 誌、のち1909年に論文集 La sensibilité individualiste に再録される)を下敷きにしているとのことです。飛矢崎が当該個所および註で言及している文献は鈴木秀治「大正知識人の命運-大杉栄の場合」『比較文学研究』28、pp.24-25のみなので、この説は鈴木に依拠しているものとおもわれます。
 たしかに、「アナキズムと個人主義」にも、もちいる用語こそちがえど、個人主義のふたつの段階があらわれており、さらに、Pessimisme et individualisme (『悲観主義と個人主義』)に出てくるとして上記で枚挙した作家たちの一部は出てきます。
 しかし、「アナキズムと個人主義」は、『悲観主義と個人主義』におけるパラントの論旨ほどには、「近代個人主義の諸相」と酷似しているわけではなく、しかも「社会的個人主義」という用語そのものも、『悲観主義と個人主義』には出てきますが「アナキズムと個人主義」には出てきません。
 したがって、もし大杉が「アナキズムと個人主義」は読んだが『悲観主義と個人主義』は読んでいないことが証明できるならともかく、そうでなければ、鈴木や飛矢崎のいう「アナキズムと個人主義」にではなく、久木のいうように『悲観主義と個人主義』に「近代個人主義の諸相」の源泉があると考えたほうが適当であるとおもいます。

 つぎに、パラントの論旨に大杉がどれほど影響されているかという点についてですが、飛矢崎も「第三期の個人主義」には大杉の独創性があるとしており、この点についてはだれもが一致することでしょう。
 もう1点、パラントと大杉の相違として、パラントがアナーキズムにたいして「終始否定的」(p.190)であったと飛矢崎はいっています。
 しかし、パラントがいたるところでプルードンにしめしていた強い共感(当の「アナキズムと個人主義」に範囲をかぎってみてもなお、1909年 La sensibilité individualiste 所収版 p.128で、プルードンの小冊子 Droit à la paraisse に賛意を表しています)にかんがみると、アナーキズムに「終始否定的」とまで断定するのは勇み足ではないでしょうか。

 なお、最後に申し添えますと、以上のコメントにふくまれている反論は、あくまでもパラント研究のたちばからなされたものです。全体として『大杉榮の思想形成と「個人主義」』は、大杉にかんする、意欲的で、こんにち貴重な研究であり、その価値と重要性はうたがいの余地がありません。


 夏目漱石『点頭録』(1916年)におさめられた「軍国主義について」に、つぎのようなくだりがあります:

 此間或雑誌で「力」といふ観念に就て独仏両者を比較したパラントといふ人の文章を読んだ時、自分は益/\其感を深くした。
 彼は「力」といふ考への中に、独逸人の混入した不純な概念を列挙した末、仏蘭西のそれも矢張り変に歪んでしまつたといふ事を下の様に説いてゐる。
 「仏蘭西では科学的に所謂「力」といふものが正義権利の観念と衝突した。ルーテル式独逸式ではないが、ルソー式、トルストイ式、四海同胞式、平和式、平等式、人道式なる此観念のために本来の「力」といふ考へがつい曲げられて不徳不仁の属性を帯びるやうになつてしまつた。そこで正義と人道と平和の為に此「力」といふものを軽蔑し且否定しなければならなくなつた。さうして美と正義を一致させ、美と調和を一致させる美学を建設した。奮闘も差別も自然の法則であるといふ事を忘れた。美其物も一種の「力」であり、又「力」の発現であるといふ事を忘れた。正義其物も本来の意味から云へば平衡を得た「力」に過ぎないといふ事を忘れた。「力」の方が原始的で、正義の方は却て転来的であるといふ事も忘れた。斯んな僻見に比べるとニーチエの方が何の位尤もであつたか分らない。……そこで吾々は何うしても「力」といふ観念をこゝで一新する必要がある。さうして本当の意味でもう一度それを評価の階段中に入れ易へなければならない。自然の法則を現すといふ点に於て「力」は科学的なものである。勝利を冀ふ人間の精神を現すといふ点に於て「力」は高尚なものである。吾々はもう権利と「力」とを対立させる事を已めなければ行けない。権利がなくつて負けるのはまだしもだが、権利がある上に負けるのは二重の敗北である。最大の損害である。無上の不幸である」
 冗漫と難渋とを恐れて、わざと大意丈を抄訳した此一節を読んで見ても、相手の軍国主義が何んな風に仏蘭西の思想界の一部に食ひ入りつゝあるかが解るだらう。

 ここで漱石はどの雑誌のいつの号を見たかはあかしていませんが、内容からして、Mercure de France の1915年10月1日号にパラントがしるした書評であることがわかります。
 さいわいその書評は、ステファヌ・ボーさんのサイトの一角に全文採録されています:
 Chonique du 1er octobre 1915

 久木哲のいうとおり、漱石による祖述は、une idée anti-morale et anti-humaineを「不徳不仁の属性」とするなど、独自の日本語の文体にのせていて、フランス語を自在に解していたことがわかります。
 漱石には、ほかに講演録『私の個人主義』があり、そのなかにはパラントからの直接的な影響は見いだせないものの、パラントの思想と一定の親和性をもっていたのではないかと推測できます。




 宮島資夫『禅に生くる』(1932年)は、嵯峨の僧堂におけるかれの生活を世につたえようとする書物です。パラントは、かれのともだちの生田春月の自殺をかたる文脈で顔をだします。

  一夕、初めて天龍寺を訪れた時同行した、近藤君が訪ねて來た。その日も何だかひどく陰氣な顏をしてゐたが、やがて何となく云ひ惡さうに、
 ―實はね、笹井君は話をしない方が好いと云つたんですが、どうせ世間で判る事だから話すけれども、春月君が死にましたよ―と云つたのである。
 「えつ、春月君が―」彈かれたやうに驚いたのであつたが、次の瞬間には、矢張り春月君だつたからか、と云ふ感じがあつた。それから私は春月君が、汽船の上から飛び込んだ、と云ふ事を聞いた。暗い夜に光る波頭を、ぢつと見つめて舷に立つた春月君の姿が頭に浮んだ。そして飛び込んだ一瞬の氣持を想像して瞑目した。私も實に今日迄、幾十百囘さうしたシーンを考へたか判らない人間だつたからである。ひやりとした寒さを感じた。
 [中略]
 近藤君は寧ろ、その知らせによつて私が變に昂奮しはしないであらうかを惧れてゐるやうであつた。
 「大丈夫だよ君、僕は決して死にはしない」
 と私は云つた。「死ぬ位ならこんな所へ來て子供達の顏も見ず、友達とも別れて、みんなには迷惑をかけ、自分は不自由をしてこんな生活はしはしない。僕はどうしても生きながら死んで見せる。生きながら死にさへすればきつと新しい境地が展けると信じてゐるからだ。害風の言葉に、人もしよく己が身の爲に悲しみ得て働かば、無上の路上に閑人とならん―と云ふのがある。だから僕は決して死なない。もつと自在な境地が人生にある事が判つてゐるならば、そこへ到達すべく努力する。それだけで僕は好い」
 「それならば安心だけど」と近藤君は云つた。
 「新聞を見てからね、變な風になつてもいやだ、と思つて」とも云つた。
 「有難う、ともかく僕は大丈夫だから安心してくれ給へ、春月君にいつか逢つた時、ゾラやジャック・ロンドンの自殺の話を聞いたので、僕も、ジョルジ [原文のまま] ・パラントの話をしたが、東洋の思想は、西洋とは違ふとも云つたのだが」と當時の話をした。
(pp.33-35)

 パラントは、わずかにこの1か所で名まえが出てくるだけですが、宮島にとってパラントは、自殺ということによっていっそう意味をもつことがわかります。
 自殺という主題は、それだけでもたいへんおおきな問題になるとおもいますが、フランスにおける理解と日本における理解で微妙にちがうようです。
 フランスでは、自殺はあくまでも「失敗」の徴候であって、パラントを論ずる際にも、あまり着目点にはなりません。オンフレーによるパラント論も、パラントが失敗を欲望していた、あるいは失敗する才能にめぐまれていたとして、自殺をその収束点とみなしています。パラントの自殺に肯定的な意義を見いだそうとするなら、それは、かれの悲観主義を身をもって証明しえたという、反語法的ないいかたにならざるを得ません。
 宮島もたしかに、じっさいの自殺を肯定したり、志向したりすることはないのですが、一方で「生きながら死ぬ」こと、いわば精神的自死をみずからこころざしています。その視点からすれば、パラントの自殺も、自分のめざすものと直接にかさなりあうわけではないにしても、ある種の到達点とみなしていることはまちがいないでしょう。


 百瀬二郎は、パラントの訃報に接した直後、『虚無思想研究』第1巻第5号(1925年)に、「ジョルジュ・パラントの死」と題して書いています。梅田のんきちさんのサイトの一角に全文が引用されています:
 http://www5.plala.or.jp/mogura/palante.htm

 然らば、われわれペシミスチック・インヂヴィヂュアリストは何を為すべきか、また何を生くべきか? 答えは洵に簡単である。当に自ら殺すse tuerべきであると。蓋しマアルクスのいふ階級闘争があるばかりではない。スチルナアの個体闘争があるばかりではない。実にわれの各個体が不断に互に相反する感情、本能、パッションの戦場であるからだ。
 普通の人間は、自ら殺すほど、しかく大胆ではなく、しかく勇気を持ち得まい。(而も著者自身は竟に此の勇気を持ち得た!)

 このくだりには、自殺をある種の思想的必然とみなし、到達点とみなす考えがますます濃厚にあらわれています。
 おなじ雑誌、『虚無思想研究』の創刊号には、荒川畔村による「自殺礼讃」があります。2005年9月、この雑誌の覆刻版を購入しました。しかし残念ながら、荒川畔村の記事をみてみたところ、なぜ、いかに自殺を礼讃するにいたるかは説かれていませんでした。もっともそうしたことは、語りえないことなのかもしれません。