ジョルジュ・パラント年譜

(書名、雑誌名などのフランス語表記については、「文献」の項をごらんください)


1862年9月20日、アルトワ地方のブランジー=レ=ザラスにうまれる。

1870年、普仏戦争
1871年、パリ・コミューヌから第3共和政へ

1880年、アラス中学校卒業。

1883年、パリのルイ=ル=グラン高校卒業。
同年11月、フランドル地方のドゥエー大学にて学士の学位を得る。
同年から1885年まで、同大学のアグレガシオン(高等教員資格)奨学金給費生。

1885年、オーリヤック高校哲学教師。

1886年、シャトールー高校哲学教師。

1887年、ルイーズ・ジャンティと結婚。

1888年、哲学アグレガシオン取得。

1890年、サン=ブリユー高校哲学教師。
同年、長女ジェルメーヌがうまれる。

1893年、ヴァランシエンヌ高校哲学教師。

1894年、ラ・ロシェル高校哲学教師。

1894年、ドレフュス事件端緒(~1905年)

1896年、二オール高校哲学教師。

1897年、ベルジュラック裁判所にてルイーズ・ジャンティと離婚。

1898年、サン=ブリユー高校哲学教師。(1925年まで)

1899年、『ルヴュ・フィロゾフィック』誌にはじめての論文掲載。
以降まいとし、さまざまな雑誌に論文を執筆。

1901年、著書『社会学大綱』を刊行。
同年、教育功労勲章をうける。

1904年、論文集『個人のためのたたかい』を刊行。

1907年、ソルボンヌ大学に博士論文登録。

1908年、サン=ブリユー市会議員選挙に出るが落選。

1909年、論文集『個人主義者の感性』を刊行。
同年、公衆教育勲章をうける。

1911年、『メルキュール・ド・フランス』誌での執筆活動をはじめる。
同年、ソルボンヌに博士論文を提出するが、指導教授セアイユとブーグレに審査開始を拒否される。

1912年、著書『個人と社会との対立関係』を刊行。論文集『ボヴァリスムの哲学』を刊行。

1914年、著書『悲観主義と個人主義』を刊行。

1914年、第1次世界大戦(~1919年)
1917年、ロシア2月革命

1919年、サン=ブリユー市会議員選挙にふたたび出るがふたたび落選。

1923年、ジュール・ド・ゴルティエとの論争のすえ、『メルキュール・ド・フランス』誌から身をひく。
同年、ルイーズ・ピエールと再婚。

1925年8月5日、拳銃で自殺。