『個人と社会との対立関係』翻訳者おぼえ書き

  パラントのおもな著書のうち、唯一まだ和訳がでていなかった『個人と社会との対立関係 Les antinomies entre l'individu et la sociétéを翻訳し、出版しました。以下はとりとめのないおぼえがきです。以下で言及するページ数は、とくにことわらないかぎり、底本としてもちいている Folle Avoine 1994年刊行の覆刻版のものです。


も く じ

個人性の称揚、対立関係への固執

シュティルナー流の個人主義との相違

「知性」をつかさどる「感性」

個人性から身体性へ、身体性から人種へ

「美は乱調にあり」

意外に常識的なパラント?

仏教にたいする偏見と、それにもかかわらず存在する親和性

「臣下への服従」、あるいは、支配をめぐる奇妙な楽観主義

個人主義と悲観主義




個人性の称揚、対立関係への固執

 全巻をとおして、執拗なまでにくりかえし問題にされるのが、書物の題名にもなっている「個人と社会との対立関係」です。あらゆる側面においてその対立関係が考察され、あまりに多くの問題がその対立関係へと還元されるのを見ていると、わたしなどはついつい、「そういう行論を、パラント自身のことばで、『知的誇大妄想』というのではなかったか」といいたくなってしまいます。
 しかし、なぜそのような書きかたをしなければならなかったかということは、当然ながら、この書物がもっている論争的性格を考慮にいれなければ理解できないでしょう。
 パラントが思索し、執筆・言論活動をくりひろげた19世紀のおわりから20世紀のはじめという時期は、いうまでもなく、社会主義がたいへん盛行であった時代でした。
 ごくおおざっぱにいって、社会主義の思想が終局の理想とするところは、個人性を均質な共同体のなかに解消することだったのではないでしょうか(そのもっとも端的なあらわれとして、私有財産制の廃止という計画をあげることができます)。それをこのましい連帯とみなすのが社会主義思想だったわけですが、パラントにはどうしても、それと表裏一体の個人性の抑圧という問題を看過できなかったのでしょう。
 それは、なにも社会主義思想にかぎらず、時代全般をおおっていた支配的な思考形態だったとさえいえると思います。
 たとえば、パラントがソルボンヌに社会学の博士論文として『個人と社会との対立関係』を提出したとき、指導教授だったセアイユとブーグレもふくめて、当時の社会学界において支配的だった潮流は、なんといってもデュルケムの社会学でした。
 デュルケム流の社会学にたいする激越な批判ゆえに、パラントの論文は博士論文としては審査の過程にのせること自体を拒否され、門前払いをこうむりました。(その拒否は、おもてむきはパラントの論文の瑕疵が理由とされておりますが、やはり学問という制度の政治的側面がつよくあらわれていたことは否定できないと思います。特定の理論がある学問領域を全面的に代表するにいたり、ことなる接近法を論文指導などの権力によって排除してしまうという事象です)
 ではなぜ、パラントはそれほどつよくデュルケム派の社会学に反撥したのでしょうか。それはやはり、デュルケムの理論が、パラントの目からみれば、社会という単位を自律した体系とみなしていることによって、個人的差異の発現を軽視し、それを社会のなかへと還元し、ひいては無化しようとするもののようにおもわれたからでしょう。
 それもふくめて全般に、社会的斉一性を前提とするような、あるいは理想とするような思考様式そのものにたいする大きな反論として、『個人と社会との対立関係』が書かれたということは、おさえておかなければいけない点であると思います。
 この書物が書かれたこと自体が「社会的なるもの」にたいする挑戦であって、それによってソルボンヌでおきた一連の問題は、まさにパラントのいう「対立関係」の最たるあらわれのひとつだったのではないでしょうか。パラントの理論は、かれの博士論文が学界から放擲された事実によって、かえって証拠だてられたともいえましょう。

 ところで、金森修氏が、2005年1月16日『朝日新聞』の「時流自論」に、「ひとりぼっちのユートピア」と題して書いておられた文が目にとまりました。

 モア、フーリエ、べラミーのような主要なユートピア思想家たちが、ユートピア、つまり理想の楽園として描いていた社会は、私有財産を否定し、全員にきつい縛りを加える規則だらけの社会であり、その分良くまとまった小さな共同体であることが多いということだ。
 そこでは個人が前景に出てくることはない。むしろ個人の存在が、共同体に多少とも融和しているような社会こそが楽園なのだ、と多くのユートピア思想家たちは考えた。
 (中略)
 その後、20世紀での壮大な実験によって、その社会主義にも多くの問題があることがあきらかになった。なにもスターリンやポル・ポトといった名前だけで社会主義や共産主義を象徴させようなどとは思わない。だが、その後のソビエトやカンボジアが、多くの思想家が何百年もの間、夢想した理想郷を文字通り体現するものだったと評価する人は、いないはずだ。
 現代社会は、もはやユートピア像を想像しにくい世界、良い世界とはどんな世界かを思い描くことさえできない社会なのかもしれない。
 (中略)
 本当にユートピアは想像することすら困難なのだろうか。個人が共同体に溶け込んだような社会は、むしろ弊害や欠点が多いということがわかってきたいま、なにか違うタイプのユートピア、個人の情念や自立性を大切にしてくれるユートピアを構想することはできないものか。
 (中略)
 個人の自己決定や自律的判断を今よりもずっと重要視する社会。それは下手をするとバラバラな「個人主義」の社会に逆戻りだ、と心配する人もいるだろう。だが、私に言わせるなら、われわれ人間というものは、存在の奥底で他人とつながっているところがある。言語は個人では完結しないし、性的にも、友愛的にも、人は自分のなかに欠如を抱え込み、それを埋めようと必死になっている。
 バラバラといっても、それは言葉の綾で、徹頭徹尾バラバラなどということは、まずありえない。だから、自由や自律性を大切にする社会構想のなかに、解体の兆候を見て取る必要はない。むしろ、今までのユートピア思想が駄目だったのは、結局、一人ひとりの人間をどこかないがしろにしているところがあるからだ、とはっきり自覚したほうが良い。

 これを読んでおもうことは、この議論がほとんどそのままパラントの思想にたいする賛同としてもなりたつということです。もちろん、ちがうところもあります。とくに、悲観主義を標榜するパラントは、ユートピアなどははじめから否定しており、みずからユートピアの構想などをいいだすはずもないひとではあります。しかしそれにしても、斉一的な社会性に反対して、それに個人性の差異を対置するという方向性は共通しているといえましょう。
 そして、じつにおどろくべきことは、パラントが「20世紀での壮大な実験」がはじまる以前から、いわば歴史にさきがけて、斉一的な社会性や、それをめざす思想にたいする批判を展開していたということです(博士論文としての提出は1911年ですが、一連の主張は1899年から雑誌論文などに書いています)。このことだけをとってみても、パラントの思想家としての慧眼ぶりが了解されることと思います。


シュティルナー流の個人主義との相違

 さて、対立関係がいたるところで見られるという、全巻を串徹するテーマの次位にくることとして、やはりほとんど全体をつうじて問題になっているのは、個人主義のなかでもどのような個人主義をとるのかということです。そして、そのながれのなかで、パラントはひんぱんにシュティルナーに言及しています。
 具体的には、「シュティルナー流の個人主義 individualisme stirnérien」に「貴族的個人主義 individualisme aristocratique」を対置し、パラントは後者にくみするといっています。
 しかし、ここにいう「貴族的」とは、じつに誤解されやすい、わかりにくい概念で、歴史的な階級制度でいう「貴族」と同一視することはできません。パラントは独自に「アリスト ariste」という造語をしており、「アリスト」による個人主義を「貴族的」といっているものと考えられます。
 では、「アリスト」とはなにか。かれのほかの著作もふくめて、どこでも説明はなされていません。ギリシア語
aristos からつくられたもので、概略的には「卓越せる者」という趣旨でしょう。そして、その卓越性は、「思想における、あるいは思想によっての、孤高性」のようなものと解しておけばよいのではないかと思います。

 では、それによってパラントは、どのようににシュティルナーを批判しているのでしょうか。それにかんする言及は長いので、いま論点を尽くすことはとうていできませんが、比較的パラントの論の特徴があらわれているくだりを見ましょう。

 シュティルナー流の個人主義は、たんなる人間の差異化の理論である。かれは平等主義者であり、あらゆる知的価値の階層を廃する。それは、すでにのべたように、いわば安売りの個人主義であり、唯一性の名のもと、独自性を例外なくすべての人間の手にとどくところにおき、かれらに、のぞもうとものぞまなくとも、その最小限の天分を気まえよくあたえるのである。貴族的個人主義は、より高い独自性を要求する。追いもとめるにあたいする独自性、もはやたんに否定的なのではない独自性、もはやたんに(シュティルナーがしているように)文化をとりのぞくだけでなく、その文化に個人の刻印をつけ、その文化を総括し、のりこえ、あらたな世界にもってゆき、思想において特権を得るような独自性である。(p.46)

 パラントのシュティルナー批判のおおきな論点のひとつは、シュティルナー流の個人主義が、「たんなる個人性」、つまりどんな人間でも、ほかの人間とはちがうという意味でもっている個人性を対象とするものであって、その意味で実は没個性的ではないか、というものだと思います。
 しかし、シュティルナーが『唯一者とその所有』のなかのいったいどこで、万人が唯一者たりうるなどといっているでしょうか。
 むしろ、ある意味で他者への顧慮をいったん宙づりにしてしまったときからこそ、シュティルナーのいう「唯一者」が存在しうるわけですから、やはりこの祖述のしかたはおかしいと思います。
 このようなくだりをもしシュティルナーが見たら、わたしはこんなことはいっていない、正反対だ、というのではないでしょうか。
 現に、どこでそんなことをシュティルナーが言っているかを、パラントが的確に(たとえば『唯一者とその所有』の何ページで言っているなどと)示しているところはまったくないのです。
 全体として読めばそのようにいっているという印象をうける、ということでしょうか。それにしても荒っぽい。なんだか、シュティルナーのあの浩瀚な書物の全体に、まるごとばさっと大きな網をかけてしまったような、しかもその網のかたちが、なかみとぜんぜんちがうようなやりかたです。
 ドラギチェスコとか、デュルケムとか、かれが論敵とみなす相手の書物は丹念に読んで、書名やページ数を註でしめしながら、(ややながすぎるほど)引用して批判しているパラントが、なぜシュティルナー批判のときだけこんなにおおざっぱなのか、わたしはよく理解できません。
 たんなる推測ですが、じつはシュティルナーにはあまりにも主張が近すぎるせいで、かえって些細な点を大きくひきのばすことによってちがいをあきらかにしようとしたのかもしれません。もっといえば、シュティルナーにたいする「同族嫌悪」から、必要以上に峻厳な批判になったのかもしれません。
 いずれにしても、
ほんとうはシュティルナーのいっているところと、パラントのいっていることのあいだには、あまり大きなへだたりはないのではないでしょうか。パラントは、シュティルナーのいっていることを、故意かどうかはわかりませんが、曲解して、あるいはすくなくとも戯画化しておいて、それを批判しているようです。

 また、戯画化されたシュティルナーの主張のようなものがかりに存在しうるとしても、それに対置されるパラントの主張をみて、それがさほど説得的なものかといえば、ざんねんながらそこにも疑問があります。
 やはりなんといっても、「アリスト」について、パラント自身がきちんと説明してくれていないのが最大の問題で、それがはっきりとわからなければなんともいえないのですが、ひかえ目にいっても、誤解されやすい部分だろうと思います。

 ここにかぎらず、パラントの思想は全般的に両義性をはらんだところがあって、それをうまくいいあらわしたのが、オンフレーのいう「ニーチェ左派 nietzschéisme de gauche」ということばでしょう。「ニーチェ主義」と「左派」では一見あわないのですが、しかしパラントにおいてはそれがふたつながら成りたっていて、どちらの側面からも解釈できる、というわけです。
 このようになってくると、シュティルナーの書物にもまた、そうした両義性が指摘されていることを思いおこさずにはいられません。こんな点でもまた、パラントはシュティルナーにちかづくのです。


「知性」をつかさどる「感性」

 わたしがパラントの名まえさえ知らなかったころ、大学院に入学した当時からおもっていたことなのですが、ある学問分野で、いくつかの理論が構案される場合、そして、ひとがそれらの理論のなかから、特定のものにくみすることをえらぶ場合、その構案じたいの論拠や、その理論の選択ないし準拠じたいの論拠というものは、なかなかしめせるものではありません。
 もちろん、一定の事実をこの理論が比較的首尾一貫して説明できるから、ということを、おもてむきの理由にしていることは多いのですが、それは、いわば、あとづけの検証の問題であって、理論の構築の段階の問題ではありません。理論をえらびとる場合には、そうしたかんがえかたもできるかもしれませんが、それとて必然性のレヴェルまではいたらず、せいぜい「相対的に」うまくゆくから、という程度のことだとおもいます。
 さまざまな事実に即して、あざやかに特定の理論を適用してみせてくれても、体系間での技術的なおきかえの手ぎわのよさはみとめることができても、その理論じたいを証明したことにはならない。そして、その種の説明に抵抗なくついてゆけるようになるためには、けっきょくははじめから理論を共有できるほどに類似した感性のかたむきがなければいけない、ということを痛感するにいたりました。
 じっさい、その後わたしも経験した学的な議論の場で、ある特定の理論の、ある特定の箇所について、「なぜこんな形態をとっているのか」ということをつきつめて問うと(われながら、いやななつですが)、率直な理論家は、「これはむしろ決定 décision であって論証不可能だ、むしろその決定をすることから出てくる帰結が興味ぶかいという点に意味があると考える」とこたえてくれたものです。
 それなので、パラントのつぎのようなくだりを読んだとき、わたしは、まさにわが意を得たり、という気になりました。

 理性が感性からひきだされてきた平均値であることを、また、それゆえ、理性は感性よりあとにでてくるものであり、感性に依存しているということを、知性主義者たちはわすれている。かれらは、また、感性が理性の限界をこえるということも、そして推論の論理からは独立していて、それよりはるかにつよい感情の論理があるということもわすれている。推論の論理と感情の論理、それらはことなり、還元不能のふたつの次元であり、ほとんど相互浸入できないものである。感情の論理は、抽象的教育によっては、かえられないものである。それは個人のもっとも基底的な部分に根をはっている。そんなわけで、知的文化によって感情を均一化しようと主張しても、むなしいのである。(p.55)

 このくだりによって、一定の理論に依拠するひとたちの発言が、その理論のそとがわにいるひとからみると、往々にして理解できないこと、ましてや、ことなる理論に依拠するひとのあいだでは、たがいに理解しあうことは至難のわざであるという感覚がうらづけられたようにおもいます。
 「知性」はあくまでも、均質性を仮構的に保証してくれる「理論」のらち内での論理的操作を可能にするものにすぎないのであって、「理論」それじたいをあらたに創出したり、、根柢的に問いなおそうという場合には、にわかに無力になってしまうものです。いわば、「メタ理論」としての「感性」が決定的に重要になってくるように思います。
 これはまた、ベルグソンの『形而上学叙説』でいう「直観 intuition」の次元の問題であると思います。対象をさまざまな象徴によって分析しようという「相対的」方法にくらべて、より直接的な、「絶対的」な方法は「直観」にほかならず、それはすなわち、ベルグソンのことばでいうと、「対象のなかへとみずからをはこびこみ、その対象に特有のもの、したがって表現しえないものと同化するような共感」です。そこからさらに、ベルグソンは、哲学は、「象徴をなしですませようとする科学」でなければならない、といっています。
 うえで「理論」とよんだものを、ここでの「象徴」と対応づけてよいとおもいます。


個人性から身体性へ、身体性から人種へ

 ところで、上記の「知性」と「感性」の議論において、「知性主義者 intellectualiste」と対比されていたたちばの、個人的感性の意義を宣揚するたちばのひとのことを、パラントが、「生理主義者 physiologiste」と称しているのはなぜか、すぐには理路が見えないかもしれません。
 パラントはまず、感性は個人性に依拠するものであり、その個人性は、生物的個体としてひとりひとりことなる生理にもとづいているとかんがえます。
 「直観」をあらわすフランス語の intuition はまた、動物的な「本能」をも同時にさししめしていることからすると、個人の感性を身体性にむすびつける考えかたは、フランス語の文脈におけるほうが抵抗はないのかもしれません。
 しかし、それをはなれてもなお、個人の感性が身体性に根ざしているということはいちおう了解できることでしょう。そこまでは、たいして問題はありません。

 ところが、パラントの場合は、「身体性」ということからさらに横すべりして、「人種」という方向にむかっているのです。身体性とは遺伝形質のことであり、遺伝形質とは人種のことである、というように。これには率直にいってとまどいを感じます。

 パラントの人種観は、それ自体はたいして独自のものではなく、ゴビノーの『人種不平等論』の説をほとんどそのままうけついでいます。
 ゴビノーの人種論は、それをうけついだと称する反ユダヤ主義によって悪名が高いのですが、それじたいは反ユダヤ主義とはまったくべつものであって、かならずしも直接的かつ全面的に人種間の優劣を主張するものではありません。むしろ、ことなる人種ごとに、ちがった美点があることをみとめています(たとえば、「白色諸人種は、叙事詩においてすぐれており、黒色諸人種は抒情詩においてすぐれている」など)。
 その意味で、パラントの人種観もまた、すくなくとも『個人と社会の対立関係』にあらわれたかたちにかんしては、すべてを差別的であるとして非難することはあたらないかもしれません。

 しかし、それをおいても、どうしても問題にせざるをえないことは、社会的・集団的な斉一化に抗し、「個人」というものを対置しているはずだったパラントが、いつのまにか「人種」という「集団」にもとづいて論をすすめるにいたっている、ということです。これではどうしても、「個人主義」というものからは、かけはなれてしまうのではないでしょうか。
 遺伝形質としての人種は、社会的に形成された「集団」ではない、とパラントはいうつもりでしょうが、そうであるにしても、ひとを個人としてではなく、人種への帰属によって見るのであれば、それはある人種にぞくするひとびとを、「斉一的に」あつかうことであり、こんどはパラントが批判していたはずの「平等主義的個人主義」、いや、それどころか、「群集性」にさえちかづいてしまうのではないでしょうか。

 そのようなわけで人種の問題は、パラントの説のなかで、もっともうたがわしく、反論したくなる点です。久木哲が、パラントの主要な著書のなかで、『個人と社会の対立関係』だけを和訳しないでいたのは、パラントの思想の負の側面をあまり見せたくなかったからかもしれない、というと考えすぎでしょうか。
 しかし、このようなこのましくない部分も、沈黙してやりすごすのではなく、パラントの思想の一環として見すえていなければいけないとおもっております。
 また、さらにすすめて、パラントの思想の他の部分とどのように連関しているのかを、つまびらかに検討しなければならないとおもっております。


「美は乱調にあり」

久木哲氏の説 (訳書『個人主義社会学』のあとがきなど随所で) によると、「美は乱調にあり」という、大杉栄が好んだことばのみなもとは、『個人と社会の対立関係』にあると見られるとのことです。
しかし残念ながら、大杉が『対立関係』をよんでいたこと、そしてそこからかれの好む表現をひきだしてきたことをうらづけることは、いまのところわたしにはできません。
テクストそのものから読みとることができるかというと、「日本での受容」のらんに書いた「叛逆者の心理」のケースほど明白な類似というほどのものはなく、 着想を得たと解釈できないこともない、という程度です。

パラントの芸術論を引用します。

 すでにのべたように、民衆の非寛容性がなくなったいま、美的個人主義は道徳家の敵愾をこうむるようになった。まさに、芸術の対象の問題にかんして、社会的利益を代表する道徳と、社会的、道徳的考慮を捨象する美的個人主義とのあいだの衝突がきわだつのである。この意味で、芸術のための芸術の理論は、美的個人主義のひとつの形式である。じっさい、芸術のための芸術の賛同者、純然たる美学者にとっては、芸術の目標は美を表象することにほかならない。美こそは本質的なものであり、芸術の唯一の対象である。道徳家の目からみれば、逆に、美の概念はいかがわしい概念であり、あるいは、率直にいって、反道徳的である。なぜ反道徳的か。美の概念は、のぞむとのぞまざるとにかかわらず、利己主義的享楽の要素、利己主義の卓越と優越の要素、個別化と不平等の欲求、自尊心の萌芽、そして、乱調の要因をふくんでいる。
 美とは利己主義的な逸楽の対象である。じっさい、あらゆる美は感覚的であり、またある意味で官能的、肉感的である。美は感覚にかたりかける。一部の美学者たちは、美の観念に、女性のうつくしさの観念や、性的享楽の観念をむすびつけているではないか。スタンダールは、この意味で、つまり幸福への約束として、美を定義したではないか。
 美とは利己主義の卓越の原則である。じっさい、美の観念は、貴族的観念である。美は力と生命と能力の上位性に対応する。それはぬきんでようとする欲望、特別にあつかわれようとする欲望をもっている。美はもっとも目だち、もっとも羨望される、そして、ほとんど、もっとも攻撃的でさえある、人間の差異化であり、人間の例外化である。というのも、あらゆるかたちでの美、性的な美、芸術的な美、生命、精力、力のあらわれとしての美は、分割の不平等、対抗、乱調の原則であるからである。したがって、美は、平等、正義、道徳の単一性、精神の和合、個人性の放棄といった、固有に道徳的な観念とは本質的に矛盾するのである。
(p.80、強調引用者)

つぎに、大杉のいう「美」について。

 今や近代社会の征服事実は、ほとんどその絶頂に達した。征服階級それ自身も、中間階級も、また被征服階級も、いずれもこの事実の重さに堪えられなくなった。征服階級はその過大なるあるいは異常なる生の発展に苦悩し出して来た。被征服階級はその圧迫せられたる生の窒息に苦悩し出して来た。そして中間階級はまた、この両階級のいずれもの苦悩に襲われて来た。これが近代の生の悩みの主因である。
 ここにおいてか、生が生きて行くためには、かの征服の事実に対する憎悪が生ぜねばならぬ。憎悪がさらに反逆を生ぜねばならぬ。新生活の要求が起きねばならぬ。人の上に人の権威を戴かない、自我が自我を主宰する、自由生活の要求が起きねばならぬ。はたして少数者の間にことに被征服者中の少数者の間に、この感情と、この思想と、この意志とが起って来た。
 われわれの生の執念深い要請を満足させる、唯一のもっとも有効なる活動として、まずかの征服の事実に対する反逆が現れた。またかの征服の事実から生ずる、そしてわれわれの生の拡充を障礙する、いっさいの事物に対する破壊が現れた。
 そして生の拡充の中に生の至上の美を見る僕は、この反逆とこの破壊との中にのみ、今日生の至上の美を見る。征服の事実がその頂上に達した今日においては、階調はもはや美ではない。美はただ乱調にある。階調は偽りである。真はただ乱調にある。
 今や生の拡充はただ反逆によってのみ達せられる。新生活の創造、新社会の創造はただ反逆によるのみである。

 僕は僕自身の生活において、この反逆の中に、無限の美を享楽しつつある。そして僕のいわゆる実行の芸術なる意義もまた、要するにここにある。実行とは生の直接の活動である。そして頭脳の科学的洗練を受けた近代人の実行は、いわゆる「本気の沙汰でない」実行ではない。前後の思慮のない実行ではない。またあながちに手ばかりに任した実行ではない。
 多年の観察と思索とから、生のもっとも有効なる活動であると信じた実行である。実行の前後は勿論、その最中といえども、なお当面の事件の背景が十分に頭に映じている実行である。実行に伴う観照がある。観照に伴う恍惚がある。恍惚に伴う熱情がある。そしてこの熱情はさらに新しき実行を呼ぶ。そこにはもう単一な主観も、単一な客観もない。主観と客観とが合致する。これがレヴォリユーショナリイとしての僕の法悦の境である。芸術の境である。
 かつこの境にある間、かの征服の事実に対する僕の意識は、全心的にもっとも明瞭なる時である。僕の自我は、僕の生は、もっとも確実に樹立した時である。そしてこの境を経験するたびごとに、僕の意識と僕の自我とは、ますます明瞭にますます確実になって行く。生の歓喜があふれて行く。

 僕の生のこの充実は、また同時に僕の生の拡張である。そしてまた同時に、人類の生の拡充である。僕は僕の生の活動の中に、人類の生の活動を見る。
 また、かくのごときもっとも有効なる生の活動方向をとっているものは、ただに僕一人ではない。真に自己を自覚し、また自己と周囲との関係を自覚した人々は、今日なおはなはだ少数ながらも、しかもすでに断乎たる歩みをこの道に進めている。盲目者の外は何人も見遁すことのできない、将来社会の大勢を形づくりつつある。
 事実の上に立脚するという、日本のこの頃の文芸が、なぜ社会の根本事実たる、しかも今日その絶頂に達したる、かの征服のことに触れないのか。近代の生の悩みの根本に触れないのか。さらに一歩進んで、なぜそれに対するこの反逆の事実に触れないのか。この新しき生、新しき社会の創造に触れないのか。確実なる社会的知識の根底の上に築かれた、徹底せる憎悪美と反逆美との創造的文芸が現れないのか。
 僕は生の要求するところに従って、この意味の傾向的の文芸を要求する、科学を要求する、哲学を要求する。
(大杉栄「生の拡充」、強調引用者)

これらの文を見くらべると、たしかに「美は乱調にあり」という主題は共通していますが、それをもちいる文脈は、かなりちがっていることがわかります。
パラントが上に引用したくだりでいっているのは、芸術家の営為のなかにみとめられる個別性の追求が、社会的・道徳的規矩からの逸脱につながらざるを得ないという意味での「乱調」です。
それにたいして、大杉のいう「美」は、「実行の芸術」、すなわち、社会の現状を理解し、それに叛逆する運動のなかに、いわば、かれがむりやりに見ようとしている芸術性です。
また同時に、「乱調」の意味あいもかわってきているように思います。大杉のいう「徹底せる憎悪美と反逆美」は、叛逆という先だつ目的に従属するものです。
そして、大杉の叛逆は、ある一面では社会的顧慮にもとづく、「主観と客観の合一」であるのにたいして、パラントのいう芸術は、客観性の拒否にあるといえます。

そのようなわけで、もし大杉が「美は乱調にあり」の着想をパラントから得ていたにしても、それはたんに論述のモティーフとして借用してきただけであって、その意味するところはまったくことなっているといえます。


意外に常識的なパラント?

シャルル・ペギーを研究なさり、20世紀初頭のフランスにくわしい先生が、わたしのパラントの訳書を読みおわっての感想をおっしゃってくださいました。
いわく、全体的には内容はきわめて常識的で、なっとくできる。うらをかえせば、思想的に突出したところはみられない。デュルケム批判もたいして激越というわけではなく、この程度で、デュルケム一派がなぜ排除的な反応をしたのかがわからない。
まさにそのとおりだとおもいます。パラントは、すくなくとも『個人と社会の対立関係』においては、全体的に、さほど突っこんだ主張はしておらず、おのれの立場をとるにも、かなり慎重に中庸を意図しているかのようです。
ひょっとするとパラントも、博士論文としてこれを書くときは、学術的なわくぐみにある程度の譲歩をこころみていたのかもしれません。

そのようなわけで、訳者がいうのもおかしいのですが、『個人と社会の対立関係』は、パラントの著作のなかでは、傑出したものではありません。
わたしがこれを翻訳したのは、あくまでも、おもな著作のうち唯一日本語でよめなかったからであって、パラントのかいたもののなかでもっとも推尚したいからというわけではありません。
もしすこしでもパラントに興味のあるひとがいたら、なんとか久木訳を入手またはコピーして、ぜひほかの著作も読んでほしいとおもいます。

もちろん、パラントの熱心な「信者」であれば (というのも、思想研究の世界ではいまだに、称讃に終始する「研究」があとをたたないから、あながち突飛な想定ではない)、シュティルナーにたいする批判を、万人がわかちもつと想定されうる唯一性から、思想的な孤高性へとたかめ、徹底しようとしたというように称讃してみせるかもしれません。
しかし、それはどうも無理があるようにおもいます。パラントのいう貴族的個人主義は、むしろ、いっさい社会に興味をもたない、無力な微温的極私性にむかう、退行の一歩をふみだしているのではないか、と問うこうができるでしょう。すくなくとも、「徹底する」という方向性ではないようにもおもえます。
『対立関係』は、初期の闘争的個人主義から、後期の隠者的個人主義へと、パラント思想が推移してゆく、ちょうど中間点にあるのではないでしょうか。そしてその中間性ゆえに、あるいは思想的な特徴がうすまってみえることもあるのではないかとおもいます。

いましがた「退行」といいましたが、もちろん、その退行こそをあえて積極的に評価することはできます。
わたしも、やや迂路を介してではありますが、それにちかいことを考えています。

ところで、この思想的推移は、パラント自身が著作のなかでえがき出している、「貴族的個人主義」の第1期から第2期への推移に符合しています。

貴族的個人主義は、それを代表するほとんどすべてのひとにおいて、順にふたつの段階をふむ。第1は楽観的自信と高潔な熱情の段階、第2は幻滅と失望の段階である。
 第1期の個人主義は、結局、みずからを実現することにたのむところのある高次の愛他主義である。第2期の個人主義は、おなじ愛他主義であるが、かえりみられず、失望した、幻滅した個人主義である。この第1期から第2期への移行は、寛大な欲望、高貴な計画、ひろい希望を世界にもたらしたほとんどすべてのがたどる経歴であり、ヴィニーやゴビノーのようなひとの経歴である。もしニーチェが貴族的個人主義の第2期にいたりつくまえに、あまりにも早く亡くなっていなかったならば、それはまた、ニーチェの経歴でもありえた。
(拙訳 pp.52-53)

ちなみに、この推移にかんする論は、博士論文の副論文としてかかれた『悲観主義と個人主義』にもより詳細にあらわれています。
わたし自身はといえば、どちらかというと後期のパラントの、絶望を凝視する思想に魅力を感じます。絶望をみつめることは、絶望そのものではありません。
カミュのつぎのようなことばには、そのことが凝縮的にいいあらわされています。

Il n'y a pas d'amour de vivre sans désespoir de vivre (生きることへの絶望なくして、生きることへの愛はない)
----Albert Camus, L'envers et l'endroit.

ミシェル・オンフレー (オンフレーのべつの啓蒙書の訳書は2004年度NTT出版でもっとも売れたそうで、いまでは有名になりましたが) などは、パラントの思想をデュオニソス的で陰鬱なものとしてとらえようとしています。
それにたいして、わたしの訳書にも序文をかいてくださったステファヌ・ボーさんは、久木哲氏とおなじく、むしろ生きる力をあたえてくれるととらえています。
以下は、わたしの訳書の「訳者あとがき」のフランス語版にたいたして、ボーさんが紹介的批評をかいてくださったもののなかの一節で、わたしの文にみいだされるとおっしゃってくださっているふたつの意義のうちの第2点です。

このあとがきのなかでわれわれが重要とおもう第2の点は、パラントの思想を「爽涼な」ものであるとしていることです。パラントは、抑鬱的な、ペシミストの、そして自殺者の原型のように紹介されることがおおかったので(そこには彼の伝記作家たちがいくらか作用しているでしょう)、かれの書いたものは暗く陰鬱であることとはほど遠いということをわすれがちです。かれの著作は、むしろ逆に、強い生命力をつたえているのであり、それを読むことは、たいてい、四囲の陰鬱さに抗するためのよい刺激をあたえてくれるのです。パラント自身が書いている、つぎのようなことをわすれないようにしたいものです。「芸術的精神においては、ペシミスムは奇妙でうちかちがたい人生への愛とむすびつく。生きることへの厭気は、つよく、深く、強乎な感情、人生における永遠に若いもの、永遠にうつくしく、勝ちほこる、愛するべきものとむすびつく」

こうした相反するパラント像がならびたっているということは、当然ながら、パラントが言っていることから (あるいは、あまり言っていないことや、沈黙していることからさえ)、いちいち解釈をひきだす道すじにさまざまな可能性があるということでしょう。


仏教にたいする偏見と、それにもかかわらず存在する親和性

 上記でふれた人種偏見の問題とも一部かさなる問題ですが、仏教にたいする偏見的な表現が以下の2か所にみられます(だんだんコンコーダンス研究のようになってきました)。

意思はその到達点によってもことなる。あるものは精力的であらあらしく、失望によってうち負かされることもなく、人生に、行動に、徹底して忠実でありつづける。消失するときにおいてさえ、そうした意思は、努力と苦痛の周期を再開する準備ができており、人生にもういちど「はい」とこたえる準備ができている。またべつの意思は、生の苦難にやがて疲れ、怠慢にも仏教的「涅槃」 (nirvana bouddhiste) へと移行してゆく。 (p.65)

道徳家によって栄光をあたえられる個人性は、つねに、詮ずるところ人類の理想的本質、すべての個人に共通の単一の本質であることがすぐにわかる。けっきょく、かたちだけで個人性の観念をあげているのである。個人に呈された讃辞は実効性がないものである。それが道徳理論のなかにあらわれるのは、中国の寺院における仏像のようなものである。ひとは仏像に線香をささげる以外は気にしないのである。(p.159)

 しかしこれは、当時なお仏教がよく知られていなかったという制約からくる問題であると考えられます。また、かりにこれらの表現をとりはらっても論旨自体にはあまり関係のない、隠喩的な、したがって修辞的な言明にすぎないと考えられます。
 R.-P. ドロワの著書、R.-P. Droit : Le Culte du néant, Seuil, 1997. (訳書:島田裕巳, 田桐正彦訳『虚無の信仰』トランスビュー, 2002)をみると、仏教がヨーロッパに知られはじめたとき、いかにゆがんだ理解がなされていたか、ということがくわしく跡づけられており、参考になります。

 ところで、ドロワをよんで興味ぶかいことは、ニーチェ、ショーペンハウアー、テーヌ、ゴビノー、アミエル、ルナン、ギヨーなど、パラントの思想形成に影響した思想家のおおくが、仏教にもつよい関心をいだいていたという事実です。
 そのことは、日本で生田春月など、仏教界からパラントをながめていたひとがいたことと考えあわせると、あたかも、仏教徒にはパラントを受け入れる素地がもともとあるのではないかというようにもおもえます。
 パラントの偏見的表現にもかかわらず、パラントの思想じたいは、むしろ仏教と一定の親和性があったのではないでしょうか。


「臣下への服従」、あるいは、支配をめぐる奇妙な楽観主義

 パラントは、個人にたいする支配を徹底的に非難しているのですが、一見、支配者のたちばをえがき出すようなくだりもあります。つぎの引用をみましょう。

(...)統率するひとは、かれが指導しようとするひとびとの意識的、無意識的意思と欲望とをおおいに考慮にいれなければならない。個人的権力が世界に発する総量は、たいへん小さいものである。
 この考えは、ド・ゴビノー伯爵によって語られた挿話においてうまく表現されている。ヴィクトリア女王がアフリカの海岸を旅していて、黒人の王に質問し、王は臣下を服従させることができているかとたずねた。王は女王につぎのようにこたえた。「わたしは臣下たちによく服従しています。なぜかれらがわたしを服従させないことがあるでしょうか」このことばは、どれほど権威というものが制約されているかをよくしめしているようである。ひとびとを自分にしたがわせようとおもえば、自分自身がかれらにしたがうこと以外にほとんど方法はない。それは、他者にもっともおおきな影響力をもつひと、かれの時代からもっとも影響をうけ、その時代をもっともよくモデル化するひとである。そのことが説明するであろうことは、権威はとりたてて精神の独自性にも緻密さにもむすびついていないということである。そのような特質は、むしろ権威を得ることをさまたげるであろう。ゲーテのごときは、高位の人間がかれの環境に調和しなければならないという必要性、そして、もっとひろい意味では、環境にしたがう必要性をしばしば表現している。
(p.71)

 支配の苛烈さを否定するわけではないけれども、その支配者のがわにもおのずから限界がある、そしてその限界は、被支配者であるはずの他者によって規定される、といっているのです。
 これはいくえにも奇妙なところがあります。
 支配に抗する精神をもち、しかしその叛逆の成否については悲観主義を標榜しているパラントが、なぜか支配者のがわに(同情的に)たってみて、そのちからには限界があるといっているからです。
 抗するべき対象の支配者に限界があるのならば、そのことは、むしろ楽観主義の材料になるのではないでしょうか。
 さらに、ゲーテの処世法をひくにいたっては、こんどは従順を説いているのかとさえおもえてきます。

 わたしがおもうに、ここで可能な読みのひとつは、ここで比喩的に「臣下に服従する」といわれているのは、じつは集団全体のエートス(とでもよぶしかないなにものか)であって、一見集団を統率しているかにみえる「支配者」もまた、じつはそのエートスにいやおうなくしたがっている、というものです。
 それほど集団が個人にかける圧力というものが大きいといっている、という解釈です。

 もうひとつの解釈は、支配者が「高位の人間」といいかえられていることからわかるように、ここでは「アリスト」が思想的孤高性を貫徹しうる可能性についての悲観がのべられている、というものです。
 この解釈は、上で引用したくだりが、シュティルナー的個人主義に貴族的個人主義を対置する文脈のなかにおかれていることからも裏づけられます。

 しかしそれにしても、かなりのねじれがあることにはちがいありません。このあたりもまた、「ニーチェ左派」と形容されるような屈折を蔵するパラントの思想の特徴なのかもしれません。


個人主義と悲観主義

すでにみたように、シュティルナー流の個人主義に、パラントはいわゆる「貴族的個人主義」 (や、そのさらなる変種としての「観照的個人主義」) を対置しています。
 しかし、パラントはかならずしも徹底して貴族的個人主義を称揚しつづけているわけではありません。貴族的個人主義についても、それが貫徹されうる可能性は、他の個人主義についてと同様、パラントはまったく信じておらず、むしろ「宿命的にうち負かされる」と考えています (もちろん、価値があるとみなすことと、それが現実においてまさることを信じることはまったくべつのことですが)。
 ちなみにその、「宿命的にうち負かされる (fatalement vaincu)」という2語は、『個人と社会の対立関係』全篇の最後にでてくることばなのですが、このことにはあたかも、『対立関係』の書物を、そしてそのなかでいささかなりとも好意的にとりあげてきた思想をも、最終的にはほうむり去るような象徴的な意味があるかのようです。
 すなわち、悲観主義は、個人主義のさまざまなありかたの対立をも、無差別に破滅のなかにのみ込ませる深淵として作用しているのではないでしょうか。

 そうともなると、ついつい「機械じかけの神 (Deus ex machina)」ということばをもちだしたくなるのですが、「機械じかけの神」というと、結末をむりやり弥縫する手段という否定的な意味だけになってしまいます。ここではむしろ、悲観主義に部分的ながら積極的な意味を見いだすこともできるようにおもえます。
 パラントの悲観主義は、みずからの投企のなりゆきに、あらかじめ失敗を見とおしているようなかまえです。そうしたかまえの効用は、われわれはふだんから経験していることでしょう。もちろんそれは、不意打ちでやってくる絶望のいたみをやわらげるためのたんなる便法としてだけではなく、個人の社会とのかかわりについての洞察として有効である、ということです。
 そのかまえはまた、貴族的個人主義のなりゆきを第1期、第2期にわけ、後者を幻滅と失望によって特徴づける、つぎのような議論にもあらわれています。上記の、「意外に常識的なパラント?」の項でもみましたが、くりかえしをいとわず引用します。

 貴族的個人主義は、それを代表するほとんどすべてのひとにおいて、順にふたつの段階をふむ。第1は楽観的自信と高潔な熱情の段階、第2は幻滅と失望の段階である。
 第
1期の個人主義は、結局、みずからを実現することにたのむところのある高次の愛他主義である。第2期の個人主義は、おなじ愛他主義であるが、かえりみられず、失望した、幻滅した個人主義である。この第1期から第2期への移行は、寛大な欲望、高貴な計画、ひろい希望を世界にもたらしたほとんどすべての人間がたどる経歴であり、ヴィニーやゴビノーのようなひとの経歴である。もしニーチェが貴族的個人主義の第2
期にいたりつくまえに、あまりにも早く亡くなっていなかったならば、それはまた、ニーチェの経歴でもありえた。(拙訳 pp.52-53)

 ここでいう第1期から第2期への移行は、断絶によってへだてられたべつものへの変質ではなく、まったくおなじ本質の、ことなる面が順次焦点化されているとみなすべきものであるとおもいます。思想における孤高性と、社会におけるその不可避的な蹉跌という、「貴族的個人主義」のふたつの面です。パラントがこれらをふたつながらみとめていることはあきらかです。終末を見越していながらも、その終末のみを悲観主義にひきうけさせようとするのでもない、繊細な視点というべきではないでしょうか。

 ところで、ミシェル・オンフレーは、こうした悲観主義をとらえて、パラントは「失敗を欲望していた」といっています。それはまた、パラント自身の伝記において、たとえば学位獲得のこころみの失敗や、自殺にいたる経緯に、いちいち最悪の方向をえらびとっているふしがある、ということともむすびつけながらの論です。
 しかしそれは、過度の単純化であるようにおもえます。「貴族的個人主義」にパラントがしめしていた共感は、それが事態のなりゆきとしては幻滅と失望にいたるであろうという予測にもかかわらず、同時にある種の理想の表明であることにはちがいないとおもいます。

 もはや、パラントのべつの著書、『悲観主義と個人主義』の主題に入ってきているので、『対立関係』にかんする喋喋喃喃たるおぼえがきは、これにて打ちどめといたします。