現代の功利主義(とその批判者)


1)古典的功利主義
ベンサム、J.S.ミル、シジウィックなど、18/19世紀の、快楽主義に基づく古典的功利主義は、「厳粛主義」とも言われるカントの義務倫理と、多くの点で対蹠的位置を占めている。現代の我々としては、両者を相補的なものとして考えるのが重要だろう。ヘアは「カント的功利主義」を提唱するが、現代の功利主義はカント的なものへと接近している。

カント ベンサム J.S.ミル シジウィク 現代の功利主義者(ヘア、その他)
基本的立場 禁欲主義 快楽説 (質的)快楽説 快楽説 選好充足説
道徳的行為の価値 目的(動機) 結果 結果 結果 結果
刑罰 厳罰主義 宥和主義
自由の意味 自由=自己決定 自由=非拘束

1)現代の功利主義は、快楽計算ではなく、個人の選好(Preferance)に基づく「選好功利主義」である。
その人がどれほどの快楽を得ているかという個人の内面の心的事実は、外から観察しても解らないし、恐らく計算することもできないが、
その個人がどちらをより好ましいと思うかは当人に訊いてみれば解る観察可能な事実である。
(また、選好は、欲望とか義務とか、多様な行為の動機を個人の選好という同一基準で考えることを可能にするし、
生じる快楽という単なる行為の結果ではなく、未来に向けての意思決定という要素を計算の中に取り入れることが出来る。)
2)功利主義の最大の問題は、幸福の配分の不公平という点にある。
(→この点の最大の批判者は、ロールズ)
功利主義は、個人の利己主義を抑制する効果をもつが、他方で、集団の利己主義を肯定するという結果に陥っている。
また功利主義は全体の立場に立つことによって、個人の権利とか生命の尊厳とか、個人や個人の人間関係に関わる重要な価値を顧慮する視点が欠けている。
(→この点を補足する理論としては、カントの義務論と徳の倫理学)

「倫理理論としての功利主義は以下の四項目にまとめることができる。
(1) 帰結主義 動機や意図ではなく、結果が重視される。
(2) 最大化原理 結果によって影響を受ける人の数が重要である。より多くの人が影響を受けるなら、その結果はより重要なものとなる。
(3) 価値論(「善」についての理論) 望ましい結果とは、<快楽主義的功利主義>では、快楽であり、<選好功利主義>では、人々が選好するものである。
(4) 道徳に関わる範囲についての前提 どの存在の幸福も一として数えられるできであり、それを超える重要性は持たない。
これら四項目をまとめて述べれば、<正しい行為は、最大多数の存在にとっての最大量の望ましい結果を生み出す>となる。
これら四つのどれについてもさらにいろいろな立場がある。第四項目に関して、ベンサムは、考慮に入れるべき存在は苦しむことのできるものであり、人間であるか動物であるかによって区別すべきではない、と考えた。とすると、功利主義が<最大多数>を語る場合には動物も含むことになる。…
第二項目の最大化という側面はいろいろな難問を提示する。功利主義は、多くの人々の命を救うためなら、伝統的な<生命の神聖さ>理論を進んで放棄するのだろうか。こう問われると、功利主義者は、あえて常識を無視する。…テロリストが一般人でいっぱいの高層ビルを今にも爆破しようとしているのをFBIの狙撃専門家が見つけたら、その専門家はテロリストを銃殺すべきである。
以上の例は簡単なもので、かなりの人が同意するだろう。…四人の人がそれぞれ異なる臓器を必要としているとき、一人の何の罪もない健康な人を犠牲にしてその人の臓器をこの四人に移植するという提案がなされたとすると、功利主義者はそれをよしと認めなければならないのではないか。
このような問題があるために、功利主義者はかなり以前から、<行為>功利主義と<規則>功利主義の区別を提唱してきた。…」(ペンス『医療倫理』宮坂道夫・長岡成夫訳)


2)ブラント(Richard B. Brandt 1910-97)
ブラントは、古典的な功利主義を「行為功利主義(act-utilitarianism)」と呼び、その欠点を修正する「規則功利主義(rule-utilitarianism)」をこれに対置する。
行為功利主義においては、
(1)ある行為の道徳的価値は、個々の行為によって生み出される、善い(快い)あるいは悪い(不快な)結果に従って、判定される。
(2)従って、君の行為が、最大多数の最大の善を増加させるように、行為せよ、
という定式が生じる。
一方、規則功利主義においては、次のようになる。
(1)ある行為の道徳的価値は、「嘘をつくな」「万引きするな」「殺すな」といった一般的な道徳規則に従うことから帰結する、善い(快い)あるいは悪い(不快な)結果に従って、判定される。
(2)他の規則に従うよりも、より多くの善い(快い)結果を生み出すような道徳規則に従って、行為せよ。
(3)最大多数の人の最大幸福を生み出すような道徳規則を守れ。
ブラントによれば、J.S.ミルは、既にこの立場に立っていた。

3)ヘア(R.M.Hare 1919-2002)
ヘアは、理想的な功利主義とカント主義(義務論)は一致すると言う(=カント的功利主義)。
行為の妥当性を検証する方法の一つは、<他者の立場に立つ>ことである。
いま君が満員電車の席に座っていると、足腰の弱そうなお婆さんが乗ってきたとしよう。
君はお婆さんの立場に立って、「満員電車で立っているのはしんどい」というお婆さんの選好を自分のものとして考えることが出来る。
その上で、座りたいというお婆さんの選好と自分の選好とを比較することが出来る。
それによって問題は、その人と君の選好の比較(自己と他者の選好の比較)ではなく、君の内なる選好の比較となる。
お婆さんも同じように両者の選考を比較することが出来るし、君と同じ結論に達するだろう。
したがって君はお婆さんに席を譲るだろう。
(とヘアは言うが、立場が違えば到達する結論が一致するとは限らないのではないか、という気がするのは私だけだろうか?)
これは二人だけではなく、多くの関係者がいる場合でも同じだ。
多くの選好を比較することによって、<全体の立場に立つ>ことができ、関係者の最大の幸福を実現することが出来る。

普遍化可能性(universalizability)の理論
道徳的行為の特徴は、同じ状況にあれば他の人も同じ行動をとるという「普遍化可能性」を持つという点にある。
誰かを特別扱いする、固有名詞を含むような命題は、道徳的ルールとして採用できない。
「普遍化可能性から次のような結論が出てくる、すなわち、私がある人にある事をすべきだと私が言うとき、仮に私が彼と全く同じ立場にある(同じ性格を持ち、とりわけ同じ状態の動機を持つことを含めて)とすると、同じ事が私にも為されるべきだという見解に賛成していることになる。」

カントが「殺人鬼に追われている友人を助けるためであっても嘘をつくべきではない」と言うとき、カントは普遍性(universal)と一般性(general)を混同している。
一般性とは特殊性(specific)に対する概念であり、例えば、
「生き物を殺すな」
「人を殺すな」
「罪のない人を殺すな」
「他の人を助けるために(であっても)罪のない人を殺すな」
といった命題は、適用範囲が広いという意味で、上の方がより一般的であり、下の方がより特殊である。
これに対して、普遍性は個別性(individual)に対する概念であり、
「人の命を助けるためでなければ、嘘をついてはならない」
という命題は、仮に一般的ではないとしても、普遍的であることに変わりはない。
道徳的行為のもつ普遍性とは、「他の同じような状況でも同じことをする」ということであり、
ナチスがユダヤ人を探しているときでも、ユダヤ人を匿っているのに「匿っていない」と嘘をつくべきだ、ということを含んでいる。
(前者は相手が頭のおかしい個人であり、後者は相手が頭のおかしい国家権力である、という違いはある。)

道徳的行為が普遍化可能なものであり、これに基づいて幸福計算をすれば、
それは規則-功利主義(Rule-utilitarianism)に近いものになる。
君がコンビニで万引きしている学生を捕まえたとする。
君はその学生を警察に連れて行きたいという選好を持つが、彼は連れて行かれたくないという選好を持っている。
「俺の立場になってみろよ。あんたも警察に行きたくないという選好を持つだろう!」と彼は言う。
君は何と答えるだろうか?
答えは二つ。
1)「私が君の立場に立ったら、万引きは犯罪だから警察に行くべきであり、私を警察に連れて行って欲しい、と思うよ。」
これは狂信家(fanastic)=理想主義者の答えだ。
自分の不利益になろうとも信念を貫くというのがその特徴だ。
2)「私と君だけの問題だったら、そういう考えもあるかもしれないけど、そうじゃないよ。君が万引きしたお店の被害者たちの選好はどうなる?
また万引きをしても警察に連れて行かれないという先例が他の人に与える影響も考えないといけない。
真似して万引きする学生が増えたら困るし、万引きが増えることから生じる近所の人たちの不安も配慮するべきだ。」
これは関係者の利害を全体的に配慮する功利主義者の答えだ。
そしてこの功利主義は、単なる行為ではなく、その行為の基づく規則を適用することによって生じる結果を計算する、規則功利主義だ。

二層理論
功利主義者は個人の権利や現実の人間関係を無視すると非難されることがよくある。
しかしこれは功利主義の誤解に過ぎない。
われわれは日常においては、自己の直観的な道徳的判断に従って行為する(「直観レベル」)が、
その善悪を考慮する際には、いわば倫理学者として、自己の立場を離れて、客観的・全体的な立場から判断する(「批判レベル」)。
この批判レベルの思考は、必然的に、われわれを功利主義へと導く。
功利主義はこの批判レベルでの思考であり、
直観レベルにおいて、直接に功利計算を行ってはならない。
(例えば、「先生の財布の中の10万円は私の財布の中にあった方がより多くの幸福を生じる」などと考えること。)
これはスポーツの場合を考えてみれば、分かりやすい。
サッカー選手は、サッカーのルールに従ってプレーしなければならない。
これは直観レベルの行為であり、仮にルールに不満があっても、選手はルールを守ってプレーするだろう。
しかし我々はスポーツ学者として、例えば現在の「オフサイド」や「選手交代は三人まで」というルールが妥当かどうかを考え、
そしてどうしたらサッカーがより楽しいスポーツになるかを考えることが出来る。
プレーする選手も見ている観客も一番楽しめるゲームにするためにはどういうルールがよいのか、ということを考える我々の立場は、功利主義の立場である。
功利主義の批判者は、この二つのレベルを混同している。
功利主義者も、直観レベルに存在する、個人の権利や人間関係を無視している訳ではない。

4)ピーター・シンガー(Peter Singer 1946-)
ヘアの弟子であり、社会的問題にも積極的な発言を行っている、オーストラリアの哲学者ピーター・シンガーは、現代の代表的な功利主義者である。
その動物解放論は有名である。理論だけではなく、自ら菜食主義者として、自分の主張を実行している点でも、珍しい存在である(?)。
ピーター・シンガー

「ヘアが示したように、ある判断が倫理的判断であるためには普遍化可能でなければならない。しかし、このことが意味するのは、「倫理的判断はいかなる状況においても妥当しなければならない」ということではなく、…「倫理的に判断するとき、人は『私の利益は他ならぬ私の利益だから』という理由で、他者の利益を無視したり、過小に評価してはならない(あるいは、自分の利益を他者の利益以上の重みをもつものと考えてはならない)」ということである。つまり、倫理の基礎的なレベルでは、私たちは誰の利益をも平等に配慮しなければならないのである(ここから、動物の利益にたいする平等な配慮が求められることになる…)。…こうして、ある状況において人が倫理的に選択しなければならない行為とは、その状況において選択可能な行為のなかで関係者全員にとって最善の結果をもたらすような行為である。…
…全知全能ではない生身の人間にとって、ある状況のなかで関係者全員の利益をすべて考慮にいれてそれらを比較考慮し、最善の結果をもたらすような行為を選択することは常に可能であるとは限らない。たとえそれが可能である場合でさえ、そうする時間的ゆとりがないことも多い。しかも、人は自分の利益、自分の家族や友人の利益をとかく優先しがちであり、そのための合理化もしやすい。また、怒りなどの一時的な感情に流されて、正しい倫理的思考をすることができないこともある。したがって、日常生活では、誰もが「嘘をつくな」「約束を守れ」といった、「適用範囲が広い」という意味で「一般的な」道徳法則をもち、それにしたがって行為するほうがよい結果がもたらされるのである。
また、一般的な道徳原則をもつほうがよいと考えられるもう一つの理由として、小さな子どもにたいする道徳教育をあげることができる。子どもには「自分のおかれた状況において、そのつど関係者の利益を最大にするように行為しなさい」と教えるよりも、一般的な原則を直観的に自明のものとして受け入れ、原則を破れば咎めの感情とか自責の念を感じるように教育するほうがよいことは明らかである。」(樫則章による解説 シンガー『生と死の倫理』)


参考文献
児玉聡『功利主義入門』(ちくま新書)
山内友三郎『相手の立場に立つ ヘアの道徳哲学』(勁草書房)


→ピーター・シンガー

→カント
→ベンサム
→J.S.ミル
→ロールズ

→村の広場に帰る