神道(古事記)

1)『古事記』の神々
アニミズム【animism】
宗教の原初的な超自然観の一。自然界のあらゆる事物は、具体的な形象をもつと同時に、それぞれ固有の霊魂や精霊などの霊的存在を有するとみなし、諸現象はその意思や働きによるものと見なす信仰。(『広辞苑』)

[アニミズムの諸相]  霊的存在の観念は複雑で多彩な展開を示す。それは人間・社会の幸・不幸や世界観,他界観と結びつけられて把握されることが多い。沖縄各地では幼児の病気や夜泣きはマブイウトシ(魂落し)に帰され,落とした霊魂を身体に付着させる儀礼が行われる。ある人の臨終に際し,親族が屋根に登り,または井戸の底に向かってその人の名を呼び,離脱しようとする霊魂を呼び戻そうとする魂呼びの風習は各地に見られた。かつて各地で行われた首狩りは,首に内在する霊魂を獲得することにより,狩りえた側の豊饒性を増大させることを目的としたとされる。死は身体からの霊魂の永久離脱を意味するが,死後の霊魂は天上,地上,地下などの他界に赴き,定められた時にこの世を訪れるものと信じられているところは少なくない。日本の正月や盆の行事はその例である。生霊(他人に憑いたり,障ったりする生者の霊魂),死霊,動物霊などは人間に憑いて健康を害させるとされる。日本各地で見られるキツネツキ,ヤコツキ,オサキツキなどは,動物霊憑依の例である。日本の霊魂・精霊に相当する霊的存在に,タイのピー phi,pii,ミャンマーのナット nat,インドネシアのアニート anito,マレーシアのハントゥ hantu などがある。これら霊的存在は民衆の宗教生活の主要部分に深くかかわり,畏敬・畏怖の対象とされていることが多い。(平凡社『世界大百科』佐々木宏幹)

a)創世の神々

「天地(あまつち)初めて発(ひら)けし時、高天原(たかまのはら)に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、次に神産巣日神(かみむすひのかみ)。この三柱(みはしら)の神は、みな独神(ひとりかみ)と成り坐(ま)して、身を隠したまひき。
次に、国稚(わか)く浮べる脂の如くして、くらげなすただよへる時、葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あが)る物に因りて成れる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)、次に天之常立神(あめのとこたちのかみ)。此の二柱の神も亦みな独神と成り坐して、身を隠したまひき。」

b)国生みの神話

(イザナキとイザナミの話である。長いし、ワープロで打つのは大変なので、省略。開巻3ページ目くらいだから、興味があれば、本を開いて各自で読むべきであろう。歴史上最初の性行為の記述という意味でも、なかなか興味深いと思う。)


付録
丸山真男「歴史意識の古層」より

世界の諸神話にある宇宙(天地万物人間をふくむ)の創成論を見ると、その発想の基底に流れている三つの基本動詞にぶつかる。「つくる」と「うむ」と「なる」である。…他民族の場合でも、これに該当する言葉は語源的には同根から出ていたり、連想によって相互転用されたりするが、この三者を論理的に一応区別したうえで、それぞれを宇宙創成論として命題化すると、つぎのような三つの「型」となる。
(イ)われわれの住む世界と万物は人格的創造者によって一定の目的でつくられた。
(ロ)それは神の生殖行為でうまれた。
(ハ)それは世界に内在する神秘的な霊力(たとえばメラネシア神話でいうmana)の作用で具現化した。
「つくる」論理を純粋化すると、つくるものとつくられるものとは、主体と客体としてまったく非連続になり、それだけ「うむ」論理―そこではうむものとうまれるものとの間には血の連続性がある―から離れる。その意味では、「つくる」にたいして、「うむ」と「なる」とが対峙する位置を占める。けれども他方から見ると、「A(たとえば世界)がなる」(=生る、あるいは成る)といえば、主語がAであることは自明だが、これにたいして、「うむ」も「つくる」も他動詞だからして、「A生む」あるいは「Aつくる」といえば、どうしてもAの外に、誰がという主語Xが問われなければ、完結的な命題をなさない。この点では、「うむ」と「つくる」とは同じ側にあって、「なる」に対立することになる。
したがって図式的に右の三者を線上に位置づければ、「つくる」と「なる」が両極を構成し、「うむ」はその中間に浮動することになる。あるカルチュアでは「つくる」論理の磁力が強いため「うむ」はその方向に牽引され、他のカルチュアでは、「うむ」と「なる」との間にヨリ大きな親和力が働く。もはや読者には想像がつくように、前者の典型はユダヤ=キリスト教系列の世界創造神話であるが、これとちょうど対蹠的に日本神話では「なる」の発想の磁力が強く、「うむ」を「なる」の方向にひきこむ傾向がある。それだけ「つくる」論理におけるような、主体への問いと目的意識性とは鮮烈に現れないわけである。

まず、『古事記』で最初に登場する五柱の別天神は「於高天原成神」および「如葦牙因萌騰之物而成神」である。このうち実質的な役割の点で、もっとも重要なのが、ムスヒの二神、とくに高御産巣日神(たかみむすひのかみ)であることはいうまでもない。ムスヒのムスは苔ムスのムスであり、ヒが霊力を表現する。この生長・生成の霊力の発動と顕現(隠→現)を通じて、泥・土・植物の芽など国土の構成要素および男女の身体の部分が次々と成って、イザナキ・イザナミの出現で一段落する。ここから二神の交合による国「生み」に入るわけである…


参考文献
神話って、そもそも何なのか?―という大問題については、
キャンベル『神話の力』(飛田茂雄訳) ハヤカワ文庫
は、ユング派の立場(神話=集合的無意識の表現)からの、分かり易い神話学の解説書。

吉田敦彦『日本神話の源流』 講談社現代新書(→講談社学術文庫)
は、比較神話学の立場からの、『古事記』の神話の研究。
「国生み」の神話、「オルフェウス神話」、「山幸彦と海幸彦」などの意味が分かります(と言うより、分かったような気になります)。


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