本居宣長
(1731-1801)


1 儒教批判と解釈学

漢意(からごころ)の批判
「人の心の、いづれの国のことなることなきは、本のまごゝころこそあれ、からぶみにいへるおもむきは、皆かの国人のこちたきさかしら心もて、いつはりかざりたる事のみ多ければ、真心にあらず。」(『玉勝間』)
人の心の、どの国でも違うところのないのは、本来の真心こそそうであるが、漢籍に説いてある趣意は、みなシナの国の人のこうるさい利口ぶった心でもって、偽ったり飾ったりした事ばかり多いので、真心ではない。(吉川幸次郎訳)

「宣長の哲学の中心は、「人の情(こころ)のありのまゝ」(『源氏物語玉の小櫛』)、すなわち人間の自然状態である。人間は誰でも生れながらにして、何でもすることができる(生まれつるまにゝゝ、身にあるべきかぎりの行(わざ)は、おのづから知てよく為る」、『直毘霊』)。そこに善悪の両面が含まれることは、カミの行いに善悪のあるのと同じである(「神には善もあり悪きも有リて、所行(しわざ)もそれにしたがふ」、同上)。カミと人間との関係は、連続的であり、カミ(殊にムスビノカミ)は、自然現象(…)を支配するばかりでなく、社会現象(…)をも繰る(「みなことごとに神の御所為(みしわざ)なり」、同上)。そのカミと人とが作る世界には、一種の秩序があって、その秩序を儒学用語を転用して「道」という。このような自然状態は、儒(宣長の「漢意」)の影響の及ぶ以前の、日本の古代に見出されるはずであり、したがって「人の情のありのまゝ」は、また「大和心」ともよばれるのである。
 「大和心」の根源をつきとめるためには、かくして、「漢意」を排し、古代文献に通じて、その復元につとめる他はない。しかるに『古事記』は、日本の古代をもっともよく伝える書である(…)。したがって『古事記』理解が、学問の究極の目標となる。」
(加藤周一『日本文学史序説』より (…)は引用文献の省略)

もののあはれ
「さてかくのごとく、「阿波礼(あはれ)」といふ言葉は、さまざま言ひ方は変りたれども、その意(こころ)はみな同じことにて、見る物、聞くこと、なすわざにふれて、情(こころ)の深く感ずることをいふなり。俗にはただ悲哀をのみ<あはれ>と心得たれども、さにあらず。すべて<うれし>とも<をかし>とも<楽し>とも<悲し>とも<恋し>とも、情に感ずることはみな、「阿波礼」なり。(中略)
さてその<物のあはれ>を知るといひ、知らぬといふ<けじめ>は、たとへばめでたき花を見、さやかなる月に向(むか)ひて、<あはれ>と情(こころ)の感(うご)く、すなはちこれ、物のあはれを知るなり。」(『石上私淑言』巻一)
「おほかた人は、いかにさかしきも、心のおくをたづぬれば、女わらべなどにも異ならず、すべて物はかなくめめしき所おほきものにして…」(『石上私淑言』巻二)
「月花を見ては、あはれとめづるかほすれども、よき女を見ては、目にかからぬかほして過るは、まことに然るにや。」(『玉勝間』四)
(美味いものを食べたいし、いい服を着たいし、いい家に住みたいし、お金は欲しいし、人に尊敬されたいし、長生きもしたいと思うのは、みんな人間の本当の気持ち(=真心)である。それなのに、こうしたものをみな良くないとし、こうしたものを求めないのを立派だとして、すべて欲しがらず求めないような顔をしている人が世間に多いのは、いつものうざったい嘘である。また世間で先生などと言われている学者や、聖人などと言われ尊敬されている僧侶などが、月や花を見ては、「ああ、素晴らしい」と賞賛する顔をしても、いい女を見ても目に留まらないような顔をして通り過ぎるのは、本当にそうなのか。)


2 古代思想の解明―国学

「さて凡て迦微(かみ)とは、古御典等(いにしへのみふみども)に見えたる天地の諸(もろもろ)の神たちを始めて、其(そ)を祀(まつ)れる社に坐(いま)す御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣(とりけもの)木草のたぐひ海山など、其余(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云なり。」(『古事記伝』神代一之巻)

「しかし「あるがまゝ」の尊重から道徳的規範をみちびくことは、原理的に、困難である。現に宣長の思想体系は、まさにこの点で甚だ貧しい。わずかに「その時々の上の掟のまゝに、従い行ふ」こと、「ただ親の世より為(し)来りたるまゝ」にすること、「世俗とかはる事なく」することを、すすめているにすぎない(『うひ山ぶみ』)。そのことは、宣長が拠ろうとした「古への道の意」(同上)そのもののなかに、彼の排した儒仏のイデオロギー体系のそれに比較し得るほどの知的に洗練された規範意識が、そもそもありえなかった事実と、深く係っていたはずだろう。その意味でもまた、宣長の「大和心」の理解は、正確であった。」
(加藤周一『日本文学史序説』 平凡社)


宣長の問題点

「ただこの場合いちじるしく目立つのは、宣長が、道とか自然とか性とかいうカテゴリーの一切の抽象化、規範化をからごころとして斥け、あらゆる言あげを排して感覚的事実そのままに即(つ)こうとしたことで、そのために彼の批判はイデオロギー暴露ではありえても、一定の原理的立場からするイデオロギー批判には本来なりえなかった。儒者が、その教えの現実的妥当性を吟味しないという規範信仰の盲点を衝いたのは正しいが、そのあげく、一切の論理化=抽象化をしりぞけ、規範的思考が日本に存在しなかったのは「教え」の必要がないほど事実がよかった証拠だといって、現実と規範との緊張関係の意味自体を否認した。そのために、そこからでて来るものは一方では生まれついたままの感性の尊重と、他方では既成の支配体制への受動的追随となり、結局こうした二重の意味での「ありのままなる」現実肯定でしかなかった。」
(丸山真男『日本の思想』 岩波新書)


参考文献
吉川幸次郎『本居宣長集 日本の思想15』(筑摩書房)
石川淳編『日本の思想21 本居宣長』(中央公論社)


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