続・進化倫理学

5)暴力と戦争

進化倫理は、項目としては、
0)遺伝子と進化論
1)自然界における利己主義と利他主義
 (ドーキンス「利己的遺伝子」と動物の互恵的利他行動)
2)人間社会におけるモラルの進化
3)性選択―フェミニズム再論
4)食の倫理
5)暴力と戦争の倫理
という内容になります。

この「暴力と戦争の倫理」で扱う内容は、
(1)チンパンジーの戦争
(2)未開社会における戦争
(3)幼児の本性
(4)自己家畜化と人間の本性
(5)心理学実験(スタンフォード実験、ミルグラム実験、38人の目撃者)の検討

自然界には暴力は溢れています。
しかし、その多くは、自然選択と性選択という進化の論理で説明できるでしょう。
(捕食行動や縄張り争いや、繁殖機会を得るための子殺しなど)
集団で生きるという戦略で生き延びてきた、人間の場合はどうなのでしょうか。

集団の倫理(再掲)
人間の道徳(=倫理)も、集団で生活するという生き残り戦略の手段として発達してきたものだと考えられる。
そうしたルール、例えば「殺すな」「盗むな」といった命令は、共同体のメンバーに対して適用される。
逆に言えば、共同体の外部の存在に対しては、ルールは適用されない。
(チンパンジーは集団内では争い事を第三者が調停し無用なトラブルを避けるという行動をとる。
一方、迷い込んできた他のグループのメンバーや他のグループ全体を襲って殺すこともある。)
イエス=キリストが説いた「善きサマリヤ人」の教えは、狭い共同体の枠を超えて、ルールが全ての人間に妥当するべきことを示している。
カントの自律と普遍化可能性、功利主義の最大幸福の理論は、どの個人にも(どの共同体にも)当てはまる、為されるべき行為を指示する。
共同体の枠を超えて通用する一般的な理論を構築することが倫理学(規範倫理)の課題である。


(1)チンパンジーの戦争
 今日の科学者は、じつは道徳性には人類の登場に何百万年も先行する、深い進化上の起源があることを指摘している。オオカミやイルカやサルといった社会的な哺乳動物はみな、集団の協力を促進するように進化が適応させた倫理規定を持っている。たとえばオオカミの子供たちがじゃれ合うときには、「フェアなゲーム」のルールを守る。もしオオカミの子供の一匹が強く噛み過ぎたり、相手が仰向けに転がって降参したのに噛み続けたりしたら、他の子供たちは、もうそのオオカミとは遊ばなくなる。
 チンパンジーの生活集団では、上位の成員は自分より弱い成員の財産権を尊重するのが当然と思われている。もし地位の低いメスがバナナを見つけたら、最上位のオスでさえ、たいていそれを横取りすることは控える。もしこの規則を破れば、おそらくボスの地位を追われる。類人猿は集団内の弱者をいいようにあしらうことを避けるだけでなく、積極的に弱者を助けることさえある。ミルウォーキー郡立動物園に暮らすキゴドというボノボは、心臓の具合がとても悪く、体が弱って頭も混乱していた。最初その動物園に移されたときには、新しい環境に馴染めず、飼育者の指示も理解できなかった。すると、彼の苦境を見て取った他のボノボたちが救いの手を差し伸べた。彼らはしばしばキゴドの手を取り、行く必要のある場所へと導いた。キゴドはどうしていいかわからなくなると、困っていることを伝えるために大声を上げる。すると、いずれかのボノボが助けに駆けつけるのだった。
 彼を主に助けていたボノボの一頭は、最上位のオスのロディで、彼はキゴドを導いてやるだけでなく、守ってやりもした。ほぼすべてのボノボはキゴドに優しく接するのに、マーフというオスの子供はしばしば、情け容赦なくキゴドをなぶった。ロディはそんな行動に気づくと、頻繁にそのいじめっ子を追い払ったり、キゴドの体に腕を回して守ってやったりした。
(ユヴァル・ノア・ハラリ『21Lessons』12 柴田裕之訳)


(2)未開社会(有史以前の社会)における戦争

「武力をもった権威者による裁定は、全般的に暴力を減らす手法として、これまで考案されたなかでもっとも効果的であるらしい。…国家成立以前の社会で殺人の発生率が衝撃的に高く、男性の一〇から六〇パーセントがほかの男性の手にかかって死んでいるという事実がその一つの証拠になる。…
 逆もまた真で、法の執行がなくなると、あらゆる様式の暴力が発生する。…ロマン主義の一九六〇年代、誇りにできるほど平和なカナダでティーンエイジャーだった私はバクーニンのアナーキズムを熱狂的に信奉していた。そして、もし政府が武力を捨てれば大混乱が起こるという両親の意見を笑いとばしていた。私たちの対立する予測が検証されたのは、一九六九年一〇月一七日午前八時、モントリオール警察がストライキに入ったときだった。午前一一時二〇分に最初の銀行強盗が起こった。正午には略奪のためにダウンタウンの商店が閉まった。それから二、三時間にうちに、タクシー運転手たちが、空港利用客をとりあう競争相手のリムジンサービスの車庫を焼き払い、州警察の警官が屋上から狙撃され、数件のホテルやレストランが暴徒に襲われ、医師が郊外の自宅で強盗を殺害した。その日は結局、銀行強盗が六件、商店の略奪が一〇〇件、放火が一二件あり、割れたショーウインドーのガラスが積荷にして車四〇台分、物品損害額が三〇〇万ドルで、市当局は軍隊と騎馬警察隊の出動を要請して秩序を回復しなくてはならなかった。…」
スティーブン・ピンカー『人間の本性を考える』 (山下篤子訳) 17 暴力の起源 より

(この立場で書かれた大著が、ピンカー『暴力の人類史』幾島幸子訳 青土社)


「『暴力の人類史』においてピンカーは、八つの原始社会で起きた暴力死の割合(全死亡者数に占める、他者に殺されて死んだ人の割合)を計算し、平均で一四パーセントという、驚くべき数字を出した。この数字は『サイエンス』などの名高い学術誌に掲載され、新聞やテレビで何度となく報じられた。しかし、他の科学者たちがピンカーの出典資料を調べたところ、ピンカーはいくつかのものを混同していることがわかった。
 話はやや専門的になるが、ピンカーがどこで間違ったかを理解する必要がある。わたしたちが知りたいのは、今も狩猟採集生活を送る部族のうち、どの部族が、五万年前の人間の暮らしを体現しているか、ということだ。なんといっても、人類はその歴史の九五パーセントの間、比較的平等な小さな集団で、狩猟採集生活をしながら世界を移動していたのだ。
 しかし、ピンカーが注目した研究の大半は、混合文化に関するものだった。人々は狩猟や採集をしていたが、すでに集落を作ったり、馬に乗ったりしており、農業さえ行っていた。それらが始まったのは、比較的最近のことだ。農業が始まったのは一万年前、馬が家畜化されたのは五〇〇〇年前だ。馬を飼ったり、畑の手入れをしたりしている人々の生活を調べても、五万年前の先祖たちの暮らしぶりは見えてこないだろう。
 仮にピンカーの手法をよしとしたとしても、彼のデータの扱い方は偏っていると言わざるを得ない。パラグアイに住むアチェ族の死者の三〇パーセントと、ベネズエラとコロンビアに住むハイワイ族の死者の二一パーセントの死因は戦争である、とピンカーは結論づけている。そう聞くと、彼らは血に飢えていたように思えてくる。
 だが、人類学者のダグラス・フライはピンカーの報告を疑った。フライが元の資料を調べたところ、ピンカーがアチェ族の「戦争による死亡」に分類した四六人は、実際には「パラグアイ人による射殺」として記載された人々であることがわかった。
 実のところ、アチェ族は互いを殺し合ったのではなく、「奴隷商人に執拗に追い回され、パラグアイの国境地方の住民に襲われた」と、元の資料には書かれていた。アチェ族は、「力の強い隣人との平和的な関係を望んでいた」とある。ハイワイ族についても同様だった。ピンカーが戦死者として数えたハイワイ族の男女や子どもは皆、一九六八年にその地域で牛を飼っていた牧場主らに殺されたのだった。
 暴力死の割合が異常に高かったのはそういうわけだ。…
 では、現代行われている人類学の研究からは何が学べるだろう。今も定住せず、農業を行わず、家畜も飼育しない社会、要するに、旧石器時代の生活のモデルにできる社会を調べたら、何がわかるだろうか。
 ご想像通り、そのような社会を調べたら、戦争はめったに起きないことがわかる。フライは、二〇一三年に「サイエンス」誌がまとめた代表的な部族のリストに基づいて、狩猟採集民は暴力を避ける、と結論づけた。他のグループとの対立が起きると、彼らは話し合って解決するか、それが無理なら、次の谷まで移動する。」
(ブレグマン『Humankind 希望の歴史』野中香方子訳)


(3)幼児の本性
人間の多くの行動は、遺伝(50%)と環境の影響(50%)で説明できる。
(環境といっても、「共有環境」の影響は非常に小さく、そのほとんどは「独自環境」である。)
まだ言葉もしゃべれない生後6ー8カ月の赤ちゃんは、まだ環境の影響を多く受けていないと考えられる。
その道徳意識はどのようにして調べられるのだろうか?
赤ちゃんは自分が好きな(関心がある)ものを長く見つめ、嫌いな(関心がない)ものは余り見ないという傾向がある。
あるいは、好きなものの方に手を伸ばして、これを取ろうとする傾向がある。
これを利用すれば、赤ちゃんの道徳意識についても知ることができる。
例えば、ある図形(A)が坂道を上っているときに、後ろから来てこれを手伝う図形(B)と、これを邪魔する図形(C)を見せたとする。
その後、赤ちゃんに二つの図形(BとC)を見せると、赤ちゃんは、親切な方の図形(B)を見つめ、
意地悪な方の図形(C)の方は見ようとしない。
こうした色々の実験から、赤ちゃんは親切な者を好み、意地悪な者は好まないことが分かる。
(では意地悪な者が罰せられるのを好むかというと、そうかもしれないが、少し微妙だ。)
また赤ちゃんは、見慣れた者を好み、見慣れない者を好まない事も分かる。
(ブルーム『ジャスト・ベイビー』より)

(4)自己家畜化と人間の本性
犬の先祖は狼、猫の先祖はヤマネコだ。
人間になつかなかった狼もヤマネコも今や絶滅危惧種だが、人間社会に適応して進化していった犬と猫は、今や世界中にあふれている。
人間社会に入り込み共存するという生き残り戦略を選んだ動物が家畜だ。
そして人間社会で生きるという選択肢しかない人間自身も、人間社会への適合という課題を課されて進化してきた。
人間は自己家畜化してきた生き物であり、それが人間の本性を造っている。

自己家畜化
クリストファー・ボーム『モラルの起源』(斉藤隆央訳)
リチャード・ランガム『善と悪のパラドックス ヒトの進化と〈自己家畜化〉の歴史』(依田卓己訳)

「人間の本性が善か悪かという議論は、古来あった。たとえば、生まれつき善良と考えるのがジャン=ジャック・ルソー、生まれつき邪悪と考えるのがトマス・ホッブズというように。東洋でも、孟子の性善説、荀子の性悪説は紀元前にまでさかのぼる。こうした二元論に対して、人類学・霊長類学の立場から、人間は善であると同時に悪でもあると主張するのが本書である。ヒトはほかの霊長類と比べて、通常きわめて温厚で、暴力的になることは少ないが、戦争などの計画的な戦いにおいて残虐で、致死率も非常に高い。そもそも両立しそうにないこの二つの面の共存を、著者は「善と悪のパラドックス」と呼ぶ。
 ヒトのこの矛盾を理解する鍵は、「反応的攻撃性」と「能動的攻撃性」の区別である。「反応的攻撃性」は、恐怖や激情に駆られて衝動的に暴力をふるう性質、「能動的攻撃性」は、冷静に計画して相手を排除する性質で、ヒトの場合、前者は弱いが後者は強い。われわれ人間にこのような類を見ない組み合わせが生じた理由について、本書ではとくにチンパンジーと、その姉妹種であるボノボを比較しながら論じていく。
 チンパンジーは凶暴になりがちだが、ボノボは比較的おとなしい。なぜか? そこから本書のキーワード。「自己家畜化」が出てくる。
 寛大でおとなしい性質は、家畜に共通している。家畜は人間に飼われることでそうした性質を進化させたが、ボノボは人間の手が加わらなくても家畜化しているように見える。それが、「自己家畜化」だ。同じことが人間自身にも起きたというのが本書の主張なのだ。」
(『善と悪のパラドックス』訳者あとがき)

ちなみに、「能動的攻撃」が行われるのは、味方を殆ど危険にさらさず、大きなメリットが得られる場合に限る。
だから、ピンカーが言うように、本当の意味での民主主義国家どうしの間では、これまで戦争が起こったことはない。
(カントは「民主主義」ではなく「共和制」と言っているが、基本は同じ考えだ。)

だから今戦争が起こりえるのは、ロシアのウクライナ侵攻、中国の台湾進攻、などだ。
プーチンや習近平が、自分にとって大きな利益がある、と判断するかもしれないからだ。

哲学者ヘーゲルは『精神現象学』の第二章(自己意識)の中で、
人間の欲望を、自然的欲望と人間的欲望という二つに区別している。
簡単にいえば、自然的欲望とは、食などの自己保存に関わる欲望であり、
人間的欲望とは、他の人間との間に生じる「相互承認」の欲求である。
進化心理学は、しばしば、自然淘汰と性淘汰という二つの原則だけで、人間の行動を説明しようとする。
(それは、俗流のフロイト理論と限りなく似ている。
男が受験戦争を勝ち抜いて、出世競争で勝利を得ようとするのは、繁殖機会を増やすため、つまり、女にモテたいためだ、といったような。
まあ、全体として嘘ではないだろうが、それだけだろうか?)

しかし、人間は言葉を使い、他者の視点を通して、自分を確認する存在である。
その要因を第三の法則として考慮しない場合には、大事なものが見失われることになるだろう。
(下の「心理学」の「実験」、行動経済学の実験などもそうだ。
また戦争に行って戦った多くの兵士たちは、「仲間のために戦った」と告白している。)

(5)心理学実験
  (スタンフォード実験、ミルグラム実験、38人の目撃者)

人間の暴力的性向や他人への無関心について、
心理学におけるいくつかの有名な「実験」が、これを証明したと考えられてきた。

それによれば、戦争に行って敵を殺してこいと命じられれば、人はそれに従うことになる。
しかし、現在では、その「実験」の偏ったバイアスや誤りが指摘されている。
1)ミルフォード監獄実験
スタンフォード実験(ウィキペディア)
スタンフォード事件の映画化『プリズン・エクスペリメント』予告編

2)ミルグラム実験(「アイヒマン実験」)
→ミルグラム実験(ウィキペディア)
映画の予告編

3)「38人の目撃者」事件
ウィキペディアキティ・ジェノヴィー事件
スティーヴン・D・レヴィット/スティーヴン・J・タブナー『超ヤバい経済学』第三章(東洋経済)
この「事件」の報道は、事実に反している。というより創作である。
映画もあるようですが、私は未見です。)

これらの実験の問題点については、
ブレグマン『Humankind 希望の歴史』(野中香方子訳)上巻の第7・8・9章を参照。


参考文献
スティーブン・ピンカー『暴力の人類史』幾島幸子訳 青土社
ルトガー・ブレグマン『Humankind 希望の歴史』中野香方子訳 文芸春秋社
リチャード・ランガム『善と悪のパラドックス』依田卓巳訳 NTT出版


赤ちゃんの道徳については
ポール・ブルーム『ジャスト・ベイビー 赤ちゃんが教えてくれる善悪の起源』竹田円訳 NTT出版
未開社会の戦争について
ジャレト・ダイヤモンド『昨日までの世界』倉骨彰訳 日経ビジネス人文庫


→戦争の倫理

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