武士道


武士道の変化

「武士道」という言葉の意味するものは単純ではない。
それは「武士」というものの有り方に応じて、大きく三つに分けることができる。

1)武士が誕生した平安時代から、鎌倉〜室町〜戦国時代;「兵(つわもの)の道」
  ―元々の武士とは田舎で自分の土地を持ち、戦って土地や仲間を守るものであった。
    →実力主義(勝つこと)、自主独立の精神、名(外聞)の重視、などのメンタリティ
    「武士道」という言葉はまだ存在しない。
    (「武士道」という言葉が最初に表れるのは、江戸時代に成立した『甲陽軍鑑』である。)
    勝利至上主義―多少卑怯な手段を使ってでも<勝つこと>が最も重要な目的であることは、
    宮本武蔵の『五輪書』にも繋がっている。
    (それは「兵は詭道なり(戦いとは敵を欺くこと)」という『孫子』の言葉にも現れている。)
    だからこそ仲間を裏切らないという忠誠心が逆に強調されることにもなる。
    そうした強い緊張感のなかで生まれてきた、ストイックな倫理が、武士道である。

2)江戸時代;士道
  ―この時代の武士は、土地を持たず、城下町に住み、主君(藩主)に雇われて生活するサラリーマンである。
   →人格的に優れており、国民の模範となる存在を目指す(武士道の理想化)
    (戦う者の道である「武道」から、「人間として教養のある武士」を目指す方向に転じたのが山鹿素行の「士道」である。)
     「武士」という言葉でもっとも容易に連想されるのは江戸時代の侍だろう。
    しかし江戸時代には、もう戦争はなく、戦うものとしての武士の存在は不要だった。
    (ほぼ250年続いた平和な時代に、武士は武人(軍人)から官僚(役人)へと転身した。)
    だからこそ「武士道」が必要になり、武士道は理想化された。その典型が、『葉隠』である。
    (マックス・ヴェーバーのいう「心情倫理」と「責任倫理」の対立)
    士農工商という身分制度の確立
    正義のために死ぬことができるという武士の生き方が、国民道徳として町人たちにも広く受け入れられたことを示すのが、
    元禄期における「忠臣蔵」の大ヒットである。

3)明治時代以降;「武士道の精神」
  ―武士は存在しないが、明治という時代を創っていった多くの政治家・軍人・学者達は元武士であり、善い意味で武士道の精神を持っていた。
   →近代国家の精神的バックボーンとして再発見された「武士道」;清廉・勇敢・自立・献身などの美徳
    「軍人勅諭」(忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五ヶ条とその基礎にある誠心)・「教育勅語」
    日露戦争の頃から、「武士道」が声高に語られるようになる。
    倫理としての武士道が一番必要とされ、一般に広く実行されたのは、明治時代だった。
    新渡戸稲造『武士道(Bushido, the Soul of Japan)』
    福沢諭吉「痩我慢の説」
    渋沢栄一
    昭和初期には、国と天皇のために死ぬことが「武士道の精神」として教えられた(→国家神道;杉本五郎『大義』)。


鎌倉時代の武士
永井 たしかに一所懸命というのは面白い言葉ですよね。いま、わたしたちが言うのと違って、実感がこもってますよね。一つ一つ土地を開拓していく。初めは空気の如くどこにでもあった土地が、だんだんおれのだ、おれのだと取りあいになって戦いが起きる。強い者が勝ちますわね。そうすると弱い者を家来にする。こんど別の強いのと戦うときには、家来になった者を連れて行って、いっしょに戦う。そして勝てば、直ちにご褒美をやるんです。これが関東武士の一つの新しいやり方だと思うんです。このときにお前はよくやった、それじゃここの中の五分の一をおまえにやる。まさに一所(ひとところ)に命をかけて取るわけですからね。そうするとその人は耕地面積がふえてそれだけ収入がふえる。こんどまた一所懸命にやろうということになる。…
司馬 鎌倉の人の土地に対する一所懸命の姿勢がなかったら、日本人というのは成立してませんよ。ともかく庶民が土地の所有権を公家国家に対して政治的に主張しぬいたというのは、中国にも朝鮮にもありませんね。つまりあのまま公家政治が続いてたら、われわれは、十九世紀に入って植民地になっていたかもしれない。
永井 よくも悪くも、日本人の精神に大きな影響を与えてますね。御恩と奉公という言葉がいまだに生きている感じがある。余談ですが、御恩がなくても奉公を専一にすべきだという形の武士道が出てくるのは、徳川になってからです。徳川家には手柄をたてても分けてやる余分の土地がない、お前に働いただけやるぞと大見得きれなくなっている。それ以来、恩賞なんか考えずに奉公するのが武士道だとすり替えられてしまいますが、鎌倉の武士の論理というのは絶対そうじゃない。
司馬 もらおうという以前に、働いたからこれはおれの土地だ、おれが開墾したからおれの土地だ、そうでない世の中はおかしいという、実に明快なものが鎌倉にはある。」
司馬遼太郎と永井路子の対談「鎌倉武士と一所懸命」
―『司馬遼太郎対話選集1 この国のはじまりについて』(文春文庫)から引用


宮本武蔵『五輪書』
おほかた武士の思ふ心をはかるに、武士はただ死ぬるといふ道を嗜(たしな)むことと覚ゆるほどの儀なり。死する道においては、武士ばかりにかぎらず、出家にても、女にても、百姓以下にいたるまで義理を知り、恥を思ひ、死ぬるところを思ひきることは、その差別(しゃべつ)なきものなり。
武士の兵法を行なふ道は、なにごとにおいても人に優(すぐ)るるところを本(もと)とし、あるいは一身の斬り合いに勝ち、あるいは数人の戦ひに勝ち、主君のため、わが身のため、名を挙げ、身をも立てむと思う。これ兵法の徳をもってなり。

宮本武蔵「独行文」
一、世々の道をそむくことなし。
一、身のたのしみをたくまず。
一、よろずに依怙(えこ)の心なし。
   (なにごとであれ他人に依り頼む心を持たない。)
一、身を浅く思ひ、世を深く思ふ。
一、一生の間(あひだ)欲心思わず。
一、我(われ)、事において後悔をせず。
(中略)
一、身を捨てても名利は捨てず。
一、つねに兵法の道を離れず。

引用は、佐藤正英校注・訳『五輪書』(ちくま学芸文庫)から


新渡戸稲造『武士道』 序文(奈良本辰也訳)

「約十年前、著名なベルギーの法学者、故ラヴレー氏の家で歓待を受けて数日を過ごしたことがある。ある日の散策中、私たちの会話が宗教の話題に及んだ。
「あなたがたの学校では宗教教育というものがない、とおっしゃるのですか」とこの高名な学者がたずねられた。私が、「ありません」という返事をすると、氏は驚きのあまり突然歩みをとめられた。そして容易に忘れがたい声で、「宗教がないとは。いったいあなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」と繰り返された。
その時、私はその質問に愕然とした。そして即答できなかった。なぜなら私が幼いころ学んだ人の倫
(みち)たる教訓は、学校で受けたものではなかったからだ。そこで私に善悪の観念をつくりださせたさまざまな要素を分析してみると、そのような観念を吹き込んだものは武士道であったことにようやく思いあたった。」

菅野覚明『武士道の逆襲』

「新渡戸武士道は、明治国家体制を根拠として生まれた、近代思想である。それは、大日本帝国臣民を近代文明の担い手たらしめるために作為された、国民道徳思想の一つである。…
 そもそも、武士道という言葉が一般に広く知られるようになったのは、明治中期以降のことである。とくに、日清・日露という対外戦争と相前後して、軍人や言論界の中から、盛んに「武士道」の復興を叫ぶ議論が登場してくる。今日の武士道イメージの骨格を形づくっているのは、おおむねこの時期に数多く著された武士道論であり、新渡戸『武士道』もその中の一つである。」


ルース・ベネディクト『菊と刀 ―日本文化の型(1946)

罪の文化と恥の文化
「異なる文化を研究する人類学的研究では、恥に強く依存している文化と罪に強く依存している文化とを区別することが重要である。絶対的な道徳の基準を植え込み、人々が良心を育くむことに依存している文化は、罪の文化と定義できる…。
恥の文化は、善い行為を導くために外的な強制力に依存しており、罪の文化のように、内面化された罪の意識には依存しない。恥とは他人の批判に対する反応である。人が恥をかくのは、人前で嘲笑され拒絶されるか、あるいは嘲笑されたと思い込む場合である。どちらの場合でも恥は有力な強制力になるが、見られていることが、あるいは少なくとも見られていると思い込むことが、必要である。罪は違う。名誉というものが、自分自身の期待に応えて生きることを意味する国においては、自分の犯した過ちが誰にも知られなくても人は罪の意識に苛まれることがある…。
合衆国に移住してきた初期のピューリタンたち(キリスト教の清教徒)は、全ての道徳を罪の上に基礎づけようとした。現代のアメリカ人が良心と折り合いをつけるのにどんなに苦労しているか、全ての精神科医が知っている。…
日本人の生活において恥は最高の地位を占めているが、…それによって、自分の行為に対する世間の評価に誰もが注目することになる。他人の判断を思い描くだけでよい、他人の判断に従って自分の行動が定められる。みんなが同じルールでゲームをしており、互いに支え合っているときには、日本人は快活で気楽になれる。日本の「使命」を遂行するものだと感じるとき、日本人はゲームに熱狂することができる。」
日本人の二面性
「全ての西洋人がこれまで描いてきた日本人の性格の中にある矛盾は、日本人の子育てを見れば理解できる。子育てによって日本人の人生観に二面性が生み出される。…赤ん坊の頃に特権的地位と心理的安楽を経験することによって、日本人は、その後どんな規律でしつけられても「恥を知らなかった」頃の安楽な生活の記憶を持ち続ける。日本人は天国を未来に思い描く必要はない。過去に持っているのだから。人間は生まれつき善いものであり、神々は善意に満ちており、日本人であることは譬えようもなく素晴らしいことだと日本人が主張するとき、日本人は子供時代を別の言葉で言い換えている。どんな人の中にも「仏性(仏になる種)」があり、どんな人も死んだ後に神になるという極端な解釈に、倫理を基礎づけることが容易になる。…
六・七歳を過ぎると次第に責任をもって慎重に振る舞い「恥を知ること」が要求されるようになる。それは、そうしなければ自分の家族から排斥されるという、極めて強力な強制力によって支えられる。…
…この深く刷り込まれた二面性のせいで、日本人は大人になっても極端な態度をとる。ロマンチックな恋愛に耽るかと思えば一転して家族のためだけに生きる。…日本人はしばしば臆病な国民であるが、無謀なまでに勇敢にもなる。」


参考文献
初期の武士については、『今昔物語集』の「本朝世俗」(24巻以降)に多くの挿話がある。
江戸時代の武士については、マンガではあるが、
みなもと太郎『風雲児たち』:(ワイド版20巻+幕末編)
は長いけど読んで損はしない傑作である。思わず脱力してしまうようなベタなギャグ満載だが、
それが逆に、余りにもひたむきな主人公たちの物語の息苦しさを和らげると同時に、その真実を際立たせている。
小説ならば
司馬遼太郎『峠』(新潮文庫)
は、「西の龍」坂本竜馬に対して「東の龍」「蒼い龍」とも呼ばれた幕末の武士・河井継之助を描いた名作。
武士道についての理解を深めるという目的ならば、『竜馬がゆく』よりも、こちらの方がいいだろう。
司馬遼太郎『菜の花の沖』も、江戸時代の経済や、侍の馬鹿らしさが分かるという点では、勧められる。


→山本常朝『葉隠』
→山鹿素行

→資料集に帰る
→村の広場に帰る