山鹿素行
(1622-85)


武士の変化

「主従の結合と武力の保持とに依存する点に変わりはないが、
第一に大名領国という強固な半独立政治圏をもつ点で、
第二に武士が城下町に集中し、蔵米の給付を受ける消費者となって農村から遊離した点で、
第三に族的結合を失った点で、
第四に継続する太平のおかげで戦場に馳駆する経験をもちえる機会少なく、文官的官僚と化した点で、
第五に新たに勃興した町人階級に文化上の指導権を譲渡してしまった点で、
江戸時代の武士は鎌倉・室町時代の武士といちじるしく性格を異にしている。」
(家永三郎『日本道徳思想史』)

この転換を思想的に裏付けたのが、
山鹿素行の「士道」である。

「このように儒教によって理想化された武士の生き方を、従来の「武士道」にたいして、とくに士道と呼ぶ。ところでこの士道の形成に最も力をつくしたのは山鹿素行である。…彼は武士の職分についてこういっている。

凡そ士の職と云ふは、其身を顧ふに、主人を得て奉公の忠を尽し、朋輩に交はりて信を篤くし、身の独りを慎んで義を専らとするにあり。而して己れが身に父子兄弟夫婦の不得巳交接あり。是れ亦天下の万民各々なくんば不可有の人倫なりといへども、農工商は其の職業に暇あらざるを以て、常住相従って其の道を不得尽。士は農工商の業をさし置いて此の道を専らつとめ、三民の間苟も人倫をみだらん輩をば速に罰して、以て天下に人倫の正しきを待つ。是れ士に文武之徳治不備ばあるべからず。(『山鹿語録』)

 彼がいおうとしているところは、生産に従事しない武士の職分は、人倫の道を実現し、道徳の面で万民のモデルになるところにある、と思われる。いやしくも武士たるものはこの職分を自覚し、人倫の道の実現に邁進する勇気をもたねばならない、このためには、(1)気を養う、(2)度量、(3)志気、(4)温籍、(5)風度、(6)義利を弁ずること、(7)命に安んずること、(8)清廉、(9)正直、(10)剛操、の心術を養わねばならない、と彼はする。これは第一の段階で、これらの心術を身につけたものはさらに、(1)忠孝に励む、(2)仁義に拠る、(3)事物を詳らかにする、(4)博く文を学ぶ、等のことを通じて、道徳の面でも教養の面でもさらに自己を深めていかなければならないとしている。
 ここで最も注意すべきことは、彼がこうした心術のあり方や才能の練磨というような内的問題を、外的な立居振舞と同一視していることである。心のあり方は外のかたちに必ずあらわれる、というのが彼の信念であった。したがって威儀というのが彼の士道論では非常に重要な部分を占めている。
 彼は威儀を正しくするためには、(1)視聴を慎む、(2)言語を慎む、(3)容貌の動きを慎む、等の自敬の術を説いている。さらに彼は衣食住にわたって威儀のあり方をいちいち規定している。」

源了圓『徳川思想小史』(中公新書)より

「威は、その容貌より言動に至るまで、かるがるしからず、甚だをごそかにして、人以って畏るべきの形也」(『山鹿語録』)


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