情報倫理
( Information Ethics )


この十数年間におけるコンピューターとインターネットの発達と普及は、情報に関する個人の環境を大きく変えた。例えば、アメリカ政府の公文書を、自宅で簡単に閲覧できたり、自分の言いたいことをホームページで自由に公開できたりすることなど、今では当たり前だが、十数年前には考えられなかったことである。それとともに、知的所有権やプライヴァシーの保護などをめぐる多くの問題も現われてきた。そうした情報に関する倫理的な問題は、これからますます重要になってゆくことが予想される。
そうした問題を扱うのが、コンピューター倫理、あるいは情報倫理である。
(こうした変化は、人類の歴史として大きくとらえると、農業革命→産業革命→情報革命、の一環である。)

とはいえ、コンピューターやインターネットを利用することが、(コンピューターとインターネットを舞台にして行われるハッキングは例外として?)、特別に新しい種類の問題を生み出しているというわけではない。インターネットは、一時、「無法地帯」と言われ、不正なコピー、詐欺、麻薬や毒物の販売、各種のポルノ画像の公開、強姦や殺人の依頼といった、犯罪行為が横行する場所でもあった。しかし、舞台がインターネットであろうと、それらが犯罪であることは明白である。
コンピューター関連の技術の発達とその一般への普及によって、情報に関する新しい倫理的な問題が生じてきているとしても、それが我々の日常の生活の一部である以上、基本的には、通常の倫理的な原則に従うべきものである。
通常の倫理的な原則とは、最低限としても、1)個人の自律(自由)、2)功利主義(最大多数の最大幸福)、つまり、個人に可能な限り多くの自由と幸福を与えること、が挙げられる。
従って、個人の自由(所有権、プライヴァシー)を侵害する行為や、公共の福祉に反する行為が、法的・倫理的に問題になるのは当然である。

次に、コンピューターやインターネットのもつ特質のために、その利用によって、引き起こされやすい問題がある。試験のとき、カンニングしやすい環境を用意すれば、カンニングが増えるのは当然であるから、カンニングを犯すことによって学生が道徳的に堕落することがないように、教師には、カンニングがし難い環境を準備する義務がある(?)。それと同じように、不正なコピーや不正なアクセス、ネット上で行われる詐欺や犯罪(出会い系サイトの「援助交際」もその一つ)の助長など、情報に関してできる限り悪用を防ぐことも、倫理的な考慮の内容となるだろう。(「できる限り」と言うのは、個人の自由や公共の福祉を侵害しない範囲で、ということだ。例えば、「援助交際」という名前の売春は犯罪だが、「出会い系サイト」という名のもとに個人と個人が自由に出会う機会を提供することは、犯罪ではない。)
さらにまた、義務ではなくても、「礼儀正しく、我慢強くあれ、法を犯すな」といった、「ネチケット」と言われるような、各人が努力して保つべき態度も、広義の倫理的な原則には含まれる。

セヴァーソン(Richard Severson)は、情報倫理に関して、以下の四つの原則を提示している。
1)知的所有権の尊重
2)プライヴァシーの尊重
3)公正な情報提示(fair representation)
4)危害を与えないこと(nonmaleficience or "doing no harm")
その上で、道徳的なジレンマが生じた場合には、この原則に照らして、どちらの側が、より多くの支持を得ることができるか考慮して判断するように、勧めている。


知的所有権の問題

現在のインターネットは、歴史的に見れば、研究者達の善意の共同体として発達してきた。インターネットの起源とされる、アメリカ国防省内の高等研究所ARPAを中心に1960年代中頃から開発されたARPANETは、本来、(軍事目的には関係なく)研究者たちの資源を共有することを目的として始まった。(そうした歴史から言って、匿名性を利用した悪意あるメンバーの存在に対する顧慮とは元来無縁であった。)こうした黎明期の精神は現在も、ネット上で配信されている、原則的に無料であり場合によっては自由な改造も許されている「フリー」なソフトウェア(或いはLinuxなどの同様に「フリー」なOS)などに継承されているとも言える。
公共へ奉仕するボランティア精神と知的な「共産主義」が、インターネットの起源における、倫理的理想であった。しかし、それは、個人や企業の利益中心で動いている現実社会とは異なる精神である。現在のように、インターネットが広範に普及し、コマーシャリズムが入ってくると、「インターネットはタダだ」という聖域扱いは、もはや通用しないだろう。

知的所有権には、著作権、企業秘密、特許権、という三つがある。
一番問題になるのは、著作権だ。(特に、ソフトウェアの著作権に関しては、面倒な問題がある。)
デジタル情報は、物としての実体がないので、オリジナルとコピーの区別が存在せず、コピーすることも簡単である。「誰にも迷惑はかけない」し、多くの場合、処罰もされないから、不正コピーが横行している。しかし、不正コピーが不正である、という命題はトートロジーだ。法的に処罰されなくても、倫理的には「犯罪」である。

著作権は、精神的な労働の価値を保護し、著作者の権利を擁護することによって、文化の発展を促進することを目的に、制定された権利である。
著作権法 第一条
「この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し、著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公平な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もって文化の発展に寄与することを目的とする。」
近代の印刷術の発明まで、本は一冊しかなく、他はコピーだった。今でも、本の中に印刷されている情報を得るために、本という「物」を買っている。しかし、文字であれ音楽であれ写真であれ、デジタル化されることによって、情報が伝達される媒体が物質性から開放されたとき、オリジナルとコピーの違いは消滅し、情報を手に入れるために「物」を買う必要はなくなった。
ピア・トゥ・ピアのファイル交換ソフトを使用してインターネットでダウンロードするという方法や、書き込み可能なCD−RやDVD−Rが普及することによって、違法性を意識せずに、情報内容を簡単にコピーすることが可能になった。

知的所有権は、個人の自律、及び、功利主義という二つの観点から、基礎づけることができる。
つまり、
1)著作物が個人の労働の結果である、という観点から、及び
2)著作物の所有権を認めなかった場合に、社会全体に対してどういう悪い結果が生じるか、という観点から、である。
1)著作物も労働の結果である。三ヶ月働いて野菜を作るのも、同じ時間働いて本を書く(あるいはプログラムを書く)のも、同じ労働だ。労働によって所有権が発生する。だから、盗めば犯罪だ。(情報は、盗んでも、コピーするだけで削除はしないから、持ち主の手から消えるわけではない、という違いはある。)

2)友人から借りたCD(またはCD−ROM)をコピーすること、あるいは、携帯電話の写真機能を使ってコンビニや本屋で雑誌の記事をコピーすること(いわゆる「デジタル万引き」)などに関する問題を、大学の試験で出題すると、嘆かわしいことに、最初からそうした行為が違法だということをすら知らない学生が少くないことが分かる。
コンビニで売っている商品を買わずに黙って持っていけば、万引きという犯罪だということは誰でも分かる。コンビニにコピー機が置いてあって、それを使って、売っている雑誌の記事をコピーしたら、これも犯罪だ。携帯電話でも同じだ。
「誰にも迷惑はかからない」と言う人もいる。しかし、誰でも同じことをしてよい、ということになれば、雑誌の売上は激減し、出版社は倒産するだろう。(自分一人なら、コンビニでパンを一個万引きしても、「誰にも迷惑はかからない」かもしれない。)
友人から借りたCD−ROMをコピーしてよいとすると、結果としてそのCD−ROMは、商品として成立しなくなる。
実際には、CD−ROMそのものではなく、そこに記録されている情報が、商品である。購買者は、ソフトウェアを使ってよいという使用権を買っているに過ぎない。
簡単に、誰にも見つからずに、「できる」という事実と、「してもよい」という倫理的な規範は、別だ。「できる」から「してもよい」という推論をするのは間違いだ。
(また、「みんながやっている」という事実から、「私もやっていい」という結論を導くのも、間違いだ。)

問い。
秋葉原を歩いていると、お兄さん、いいものあるよ、と声をかけられ、路地裏で、最新版のPhotoshop の入ったCD-ROMを格安で買うことができました。よく見ると、CD-ROMもパッケージも、市販の商品をコピーしただけのものです。でもインストールして使ってみると、何の問題もありませんし、便利です。翌日、親戚の姪が遊びに来て、おじさん、これ貸して、というので、貸しました。自分のパソコンにインストールしたようです。その後、そのCD-ROMは、友人も欲しがっていたので、買った値段の半額で売りました。
さて、私は、何度、違法行為を犯したでしょうか?
また、あなたは、同じような違法行為を犯していませんか?


プライヴァシーの問題

「十九世紀末には「プライヴァシー」という用語は、主として、誰かの家や財産へ、また例えばホテルの部屋・船の船室のような個人の空間へ、<侵入してはならないこと>を意味していた。二十世紀の中頃になると「プライヴァシー」の意味は拡大し、個人の健康や愛情問題や家族計画に関する個人や家族の決定事項に<干渉してはならないこと>を含むようになった。そして二十世紀の終わりになると、特に産業化された国では、「プライヴァシー」という用語はコンピューター技術によって「情報という面で豊富」になった。「プライヴァシー」の意味は拡大し、自分についての個人情報にアクセスすることをコントロールしたり制限したりできる能力を含むーこの意味が強調さえされるーようになった。」(Bynum and Rogerson, Computer Ethics and Professional Responsibility

プライヴァシーとは、個人的な問題に関しては、他人に干渉されたくない、ということだ。基本的には、自分のことは自分で決める権利があるという、個人の「自律 (autonomy)」の一つである。
情報倫理の分野で「プライヴァシー」と言う場合、自分に関する情報を他人が無断で取得したり公開したりされない権利を意味する。従って、特定の個人の情報(写真なども含む)をネット等で勝手に公開することは勿論、パスワードを不正に取得したりコンピュ−ターへ不正にアクセスしたりすること(及び、それによって個人情報を取得すること)なども、プライヴァシーの侵害に当たる。

プライヴァシーの侵害の実例
(略)

現代では、個人情報は商品化している。
Lotus Marketplace: Households の例(1990/1年)
1990年4月10日、ソフト開発会社Lotus Development Corporation と、アメリカ大手のクレジット調査会社Equifax は、共同で、中小企業向けに顧客獲得のためのソフトLotus Marketplace: Households のCD-ROMを発売する、と発表した。このCD-ROMには、ソフトと一緒に、5000人の顧客データが入っており、名前、住所、性別、年齢、結婚、買物の傾向、収入レベル、ライフスタイル、などの個人情報が記載されていた。Lotus社は、電話番号を掲載しないことや、望まない人には名簿から名前を削除する手段を与えるということによって、プライヴァシーにも配慮したと主張した。しかし、その後、何千人もの人が電話やメールで怒りの声をあげたため、1991年1月23日、LotusとEquifax両社は、発売前にCD-ROMの販売を中止することを公表した。

今年(2004年)、ソフトバンクの顧客リストが大量に流失したことが明らかになったが、話はそれだけで終わっていない。『週刊新潮』(12月15日号)の記事によれば、
「今年2月、ヤフーBB恐喝未遂事件で約460万人の顧客名簿の流失が発覚したソフトバンク。その後11月、新たに900件分の流失が発覚し、さらに3万件も。流失は国内だけに留まらず既に海外にも及んでいる。…『既にこれまで流失したヤフーBBの顧客名簿は他社の名簿と共に「起業家パック」として売られている』/「起業家パック」とは、会社の立ち上げ方について解説したマニュアルで、起業と同時に営業がかけられるように顧客名簿が付録になっている。/『これが裏の世界という訳でもなく、3〜5万円でネット上や口コミで売られていました』」(引用されている発言は、ライターの井上トシユキ氏)

「パソコン」即ち「パーソナル・コンピューター」は、個人の部屋に置かれており、一人でモニターに向かい合うという形態からして、プライヴェートな性格を有している。インターネットの回線を流れているのは、八割方はポルノだ、とかつて言われたこともあったが、それも、「パソコン」の持つプライヴェートな性格の故だろう。
しかし、モニターの先は、「全世界」に通じている。
自分の書いたメールが、相手の家の座敷で額に入れて飾られている、或いは、自分のホームページに書いた文章が、翌日の新聞の一面に掲載される、という覚悟で、文章は書くものであろう。
一度、ネット上に流れた情報は、(検索サイトなどを含む)どこかのコンピューターに(永遠に)保存されていると考えておくべきだ。


匿名性の問題―監視社会―

インターネットに特有の多くの問題は、匿名性に由来する。
インターネットが従来のメディアと異なる点は、即時性、双方向性、匿名性などにあるとされる。
「Big Brother」国家への警戒
ホームページや掲示板での検閲の是非
(略)


情報の意味

知識を「情報」と特徴づけることには、知識の原子論に似た発想がある。「データ」という言葉にも、同じ含みがある。
(略)


ネット販売の問題

ネットによる大麻や危険ドラッグの通信販売
薬事法の改定による薬のネット販売の制限(三類に分け、日常生活に影響が出る成分を含む薬―風薬なども含む―は、原則、対面販売に限るとする)
など
(略)


参考文献
この分野の全般的な参考文献として勧められるのは、
Deborah G. Johnson 『コンピュータ倫理学』水谷雅彦・江口聡監訳(オーム社)
他の本などでもよく引用される、代表的な概説書である。裏付けになる理論を明らかにするだけでなく、実例も豊富で分りやすい。他には、
Bynum and Rogerson(eds.), Computer Ethics and Professional Responsibility, 2004, Blackwell
リチャード・A・スピネロ『情報社会の倫理と法』 林紘一郎監訳 中西輝夫訳 (NTT出版)
後者では、41の実例が比較的詳しく検討されている。
また、インターネットの利用をめぐるいろいろな実際的な倫理問題については、主に著作権に関わる問題だが、
久保田裕・佐藤英雄『知っておきたい情報モラル Q&A』(岩波アクティブ新書)
など、啓蒙書を一冊くらい読んでおくべきだと思う。


付録1 「プライバシーの権利(right of privacy)」
(平凡社『世界大百科』より)
プライバシーの権利は,アメリカにおいて発展してきたもので,従来,おもに〈ひとりで居させてもらう権利 right to be let alone〉の意に解されてきた。それは,要するに,〈不当な公開から自由である権利〉を意味するものとして,きわめて広義に把握される。しかし,最近,この権利の内実を,情報との関連から理解しようとする試みがなされ,例えば,〈自己についての情報をコントロールする権利〉と解する見解が主張されている。他方,この権利に相応するものとして,ヨーロッパ大陸においても,いわゆる人格権概念が発展してきた。以上の欧米の理論に対し,日本国憲法も,その13条所定の幸福追求権が人格的利益を対象とするものであることは学説によって承認されるに至っている。かくして,プライバシーの権利とは,上記の〈自己についての情報をコントロールする権利〉をその内実とする,人格的諸利益の総体として把握され,日本国憲法上,幸福追求権の一環として位置づけられる。
 プライバシーの権利は,日本の判例でもしだいに承認されるに至っている。まず,この権利の成立を,最初に承認したと考えられる《宴のあと》事件の東京地方裁判所判決(1964)が注目される。これは,標記題名の小説が原告(有田八郎)の私生活を描写したとして,作者三島由紀夫と出版社である新潮社が訴えられた事件である。同判決は,プライバシー権をもって,〈私生活をみだりに公開されないという法的保障ないし権利〉と定義し,〈不法な侵害に対しては法的救済が与えられるまでに高められた人格的な利益〉であり,かような意味で,人格権に属する一つの権利であると解している。もっとも,この判決は,プライバシーの権利を,直接,幸福追求権に基礎づけて論じているわけではないが,その中心となる観念が,憲法13条の個人の尊重思想におかれていることは重要である。
 この事例は,プライバシーの権利の侵害が,私人相互間で問題とされたものであるが,国家権力との関係で,被疑者の写真撮影の合法性が争われた事件においても,最高裁判所判決(1969)は,〈個人の私生活上の自由の一つとして,何人も,その承諾なしに,みだりにその容ぼう・姿態……を撮影されない自由を有するものというべきである。これを肖像権と称するかどうかは別として,少なくとも,警察官が,正当な理由もないのに,個人の容ぼう等を撮影することは,憲法13条の趣旨に反し,許されないといわなければならない〉と解した。このように,この判決は,何ぴともその承諾なしに,みだりに自己の容ぼう等を撮影されない自由が憲法13条に包含されることを承認したものとして注目される。さらに,人がその承諾なしに容ぼう等を撮影されない,ということは,前述した,自己の情報をコントロールする権利を前提として成り立ちうるものであるから,その意味では,プライバシーの権利の内実をなすものが承認されたと解することができる。そして,判決は,このようなプライバシーの権利の内容が,〈肖像権と称するかどうかは別として〉保護されうることを示した。このことは,このような人格的利益が,広く,幸福追求の権利に包摂されるとする前提からすれば,肖像権のような特定の権利性をもつことは必ずしも必要でない,と解したことを意味する。このような判例の態度は,憲法13条に対する柔軟な解釈により,多様な人格的諸利益の保護を拡充せしめる素地を供したものと評しうる。
[限界]  プライバシーの権利が,自己の情報をコントロールすることをその内実とする,と解した場合,これによりこの権利の保障が必ずしも無制約になる,とは考えられない。つまり,《宴のあと》事件判決でも述べられたように,この権利の保障が〈私事をみだりに公開されない〉ことにあると解される場合,その法益は,個人の私生活の保護を中心として理解されうるからである。したがって,この権利の対象が,公衆の正当な関心の対象であったり(公的存在),公共の利害,秩序に直接関係する場合(公的利益)などには,合理的な範囲内で一定の制約に服することは認められなければならない。この点,例えば,《エロス+虐殺》上映事件の東京高等裁判所決定(1970)が注目される。これは,婦人解放運動家,社会主義運動家として著名な原告(神近市子)が,自己に関する過去の事件を素材とした標記映画の上映によるプライバシー侵害を主張して争った事例である。ここで判旨は,本件映画の素材となる事実は,世上公知のものであり,上記映画も,単なる私事を暴露することを意図したものでないとして,プライバシーの権利侵害にあたらない,と述べている。
 他方,国家権力による,公的利益を理由とするプライバシーの権利への制約については,とくに,それを正当化するに当たっては,単純な利益衡量によってではなく,厳格な基準を考慮して,慎重に判断されなければならない,と解される。
 なお,アメリカでは,プライバシーの権利は諸種の権利を包含するものと解されてきている。その中心は,自身や家族・友人などにかかわる私的事項と考えられるが,その概念もまた相対的であり,そこでは例えば,一定のことを行い,または行わないことについて他人から強制されないという,人格の自律としての自己決定権の問題がプライバシーの権利の問題として究極的に導かれ,〈婚姻の自由〉や〈堕胎の自由〉,ないしは,〈安楽死〉などにかかわる諸問題が派生することとなる。他方,〈自己の情報をコントロールする権利〉という側面からは,必ずしも厳密に私的事項にかかわらないものであっても,個人の人格的生存を危殆(きたい)ならしめる契機をはらむ場合も保護されうるようになる。これらは,単に私的事項の領域にとどまらぬもので,より広くは,前記憲法にいう幸福追求権等との関連で論ぜられることとなろう。
(種谷 春洋)

「プライバシー(Privacy)」
(Microsoft Encarta Encyclopedia 2000 より)
もとは私生活の秘密をさすが、19世紀末のアメリカで、ジャーナリズムの発達などに対し、「ひとりでいさせてもらいたいという権利(right to be let alone)」として提唱された。(1)人の名前、写真などの無断使用、(2)私生活への侵入、(3)私的事柄の暴露、(4)ある人について公衆にあやまったイメージをいだかせることなどが、プライバシーの侵害とされた。その後、避妊具の利用、堕胎などの事柄についての自己決定権も、この権利にふくまれるとされている。さらに、心の静穏などもプライバシーとして論じられることがあるほか、情報化社会の進展にともない、自己についての情報をコントロールする権利として理解する見解も有力になった。
日本でプライバシーがはじめて訴訟問題になったのは、三島由紀夫の「宴のあと」をめぐる事件である。これについての1964年の下級審判決は、私法上プライバシー侵害がみとめられる要件として、(1)私生活上の事実または私生活上の事実らしくうけとられる恐れのある事柄であること、(2)一般人の感受性を基準にして当該私人の立場にたった場合に公開を欲しないであろうとみとめられること、(3)一般の人々にいまだ知られない事柄であること、をあげている。プライバシーの権利は、憲法に明文でしめされているわけではないが、一般に、13条の幸福追求権にふくまれると解釈される。最高裁判所は、「プライバシー」という言葉そのものはつかっていないが、69年の判決で、デモ中の者の警察官による写真撮影に関し、「少なくとも、警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法13条の趣旨に反し、許されない」としている。
プライバシーとして問題になる情報には、政治的・宗教的信条にかかわる情報、心身に関する基本情報、犯罪歴(→ 前科)にかかわる情報などが考えられる。犯罪歴などもプライバシーとして保護されるべきであることから、プライバシー情報は、私生活に関する情報というよりも、個人についての情報であるともいわれている。
プライバシー保護法制として、日本では1988年にいわゆる個人情報保護法が制定された。しかしこの法律については、保護の対象となるのが電算機処理情報だけであること、思想・信条情報などについての収集制限規定がないこと、個人情報ファイルの保有などに関する総務庁長官への事前通知や、個人情報ファイル簿の作成および閲覧などについて広範な例外がみとめられていること、あやまった情報についての法的訂正請求権がみとめられていないなど、プライバシー保護の観点からはふじゅうぶんな点も多いといわれている。地方自治体においても、個人情報保護条例を制定し、上述の難点のいくつかをまぬがれているものもある。

付録2 「著作権(copyright)」
(平凡社『世界大百科』より)
思想または感情を創作的に表現したもので,文芸,学術,美術,音楽の範囲に属するもの(著作物)を排他的に利用(複製,上演・演奏,公衆送信など)する権利。
[著作権の成立前史]  著作物の経済的な利用を法の領域で保護するようになるのはそれほど古いことではない。それは,著作物を複製する技術の開発・普及に対応して進展してきた。古代では著作物がつくり出されてもこれを複製する技術が普及していなかった。せいぜいのところ多くの奴隷が同時に書き写すという程度である。したがって著作物について財産的な権利を認めていこうという思いは生まれなかった。僧侶が書き手の中心になった中世でもその状況に大きな違いは見られない。とはいえ,著作物が無断で改変されること,著作物の純粋性がそこなわれることについては,社会も作者自身も強い関心を抱いていた。
 やがて活版印刷術が開発され,新しい時代を迎える。15世紀,ドイツのマインツでヨハン・グーテンベルクの発明した活版印刷術が急速にヨーロッパの各地に広まるにつれ,著作物に関して財産的な権利を認める思想が芽生えてくる。もっとも,当初は,聖書や古典の印刷がふつうであったから,著作物または著作者ではなくて,むしろ出版者を保護するものであった。すなわち,出版者が原本を整理・訂正し,印刷ののち売り出したのはよいが,これを他の者が無断で複製し,売りさばく事態にどう対応するかということで出版者の保護に重きが置かれていた。この種の無断複製にみずからでは対処できないとみた出版者はその保護につき国王や行政機関に請願した。これが受けいれられ,ここに,出版者は,特定の著作物につき,一定の期間,出版・販売をなす地位を与えられる。特許 privilege と呼ばれる制度がそれである。
 しかし,出版者を無断複製から保護し,安んじて出版を業とできるようにしたこの制度には,もう一つの面があった。検閲の機能である。特許の申請があると,ただちに特許が付与されるわけではなく,審査のうえ,〈有益なもの〉についてのみ特許の付与がなされる。特許の制度は出版を規制ないし取り締まる機能をも果たしたのである。出版物という新しいメディアの影響力を知る為政者にしてみれば,その頒布を規制ないし取り締まることは大きな関心事であった。このような動きは日本の江戸期にも見られ,たとえば本屋仲間が重板や類板の防止を幕府に願い出て出版に関し特権を得る一方,幕府のほうも出版の取締りを行った。
[著作権法の生成]  出版者の保護と検閲が表裏一体となった制度ではいまだ著作者の保護は十分とはいえなかった。やがて著作者自身の保護に焦点を合わせる法律思潮が生じ,1709年世界最初の著作権法であるアン法がイギリスに登場した。そして今や,多くの国々が近代的な著作権法を有するに至り,公法ないし政治的要素から離れて,著作者の私権を保護する制度が確立している。
 しかし,著作者の私権の保護に焦点を合わせた法制も,それがスムーズに機能するためには適切な〈脇役〉も必要となる。著作者の作成した著作物が世に出て多くの人々にアクセスされ,そこから著作者が対価を得るわけだが,そこには重要な役割を果たすさまざまな者がいる。とくに,現代のように著作物の利用態様が多様化・細分化されてくれば著作者がみずからの権利を管理することはますます困難になってきており,著作権管理団体の存在理由がいちだんと強まっている。また,リテラリー・エージェントの役割も看過できない。このエージェントは欧米において古くから存在し,著作者の側に立つヨーロッパ型と出版者の側に立つアメリカ型という2種類のエージェントを見ることができるが,それぞれその活動の範囲を広めてきている。作家などの著作者は概して商取引の実務にはうとい。みずからの著作物を売り込み,有利な条件で出版契約を結ぶ才覚を持ち合わせた著作者はそう多くはいない。したがって,著作者の側に立って出版者側と話し合い,著作者のためにより有利な条件を導き出すエージェントは著作者にとっては大いに頼りになる存在なのである。同じようなことは出版者についてもいえる。出版者はこのエージェントの適切な助言を得ながら出版企画を立てることができ,国外の出版者との交渉,国外の出版物の輸入などにもエージェントはその力を発揮する。エージェントが著作物のスムーズな流通に果たす役割は大きく,出版者によってはそれに依存する度合も高くなっている。しかし,著作物を利用する媒体は出版物に限らない。映画をはじめ,これからもさまざまな媒体が著作物の利用に用いられよう。また,著作物が多国間に流通する機会もますます多くなろう。それに応じてリテラリー・エージェントの活躍の場もますます広がることだろう。それに,著作物の流通については,データベースのディストリビューター,ディジタル送信に際してのサービス・プロバイダーなどの果たす役割も注目に値しよう。
[著作権法制の調和]  著作権法制が著作者などの私権を保護するものである限り,世界の国々で妥当する著作権法制も調和したものになる。著作物の作成や利用は,国の別を問わず,人類に普遍的なことであって,意見を自由に表明でき,あるいは,著作物に自由にアクセスできる権利が保障されている限り,著作物を保護するしかたにもさほどの違いは生じない。著作物の利用技術は,時間的なずれはあるにせよ,国境を越えて普及する。新しい利用技術により著作物の利用形態に変化が生ずるとすれば,それは一国のみにとどまらない。そして,この新しい利用形態に対応した新しい制度の模索も,これまた一国にとどまらず,諸国が積極的に取り組むことになる。古くは活動写真,レコード,ラジオ,近くは録音・録画機器,複写機器,コンピューター,データベース,有線放送,貸しレコード,宇宙衛星,ディジタル送信など,次々と開発され普及する技術を前にして世界各国はその対応に努めてきた。また著作権法制の調和には条約の機能も看過できない。
 著作権法制に関しては,〈文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約〉〈万国著作権条約〉(著作権の発生に登録等の方式を必要としない無方式主義の国の著作物でも,その複製物に(e)(マルシー)の記号,著作権者名,最初の発行年を表示すれば,方式主義の国でも保護を受けられるとしている),いわゆる〈レコード保護条約〉〈隣接権条約=実演家等保護条約〉〈TRIPS 協定(知的所有権の貿易関連の側面に関する協定)〉〈WIPO 著作権条約〉〈WIPO 実演・レコード条約〉などがある(後三者については〈世界知的所有権機関(WIPO)〉の項目参照)。
【日本における著作権法制】
 日本で著作権法が制定されたのは1899年のことである。それは,日本が近代的な法治国家の確立に意を致していた時代である。それから半世紀余りは若干の改正を経るにすぎなかった著作権法は1970年に全面改正された。この1970年法(現行法)は,レコード・レンタル店の出現,コンピューター・プログラムの普及,データベースとオンライン送信,有線放送事業の普及,私的使用のための複製,海賊版の頒布目的での所持,写真や著作隣接権の保護強化,それに,レコード保護条約,実演家等保護条約,WTO(世界貿易機関)協定の締結に対応して,改正がなされた。
[著作物]  日本の著作権法(1970公布)によると,著作物とは,〈思想又は感情を創作的に表現したものであって,文芸,学術,美術又は音楽の範囲に属するもの〉である(2条1項1号)。その質は問わず,玄人の作であろうと素人のそれであろうと,子供の稚拙なものであっても,さきの要件を満たしている限り,著作物となる。著作権法が著作物として例示するところによると,小説,脚本,論文,講演など言語によって表現された著作物をはじめ,音楽の著作物,舞踊または無言劇の著作物,美術の著作物,建築の著作物,図形の著作物,映画の著作物,写真の著作物,コンピューター・プログラムの著作物がある(10条1項)。このほか,他の著作物に新たな価値を付加するかたちで創作される派生的な著作物,すなわち,二次的著作物もある(2条1項11号)。そのような創作行為として,翻訳がある。小説や論文など,原著作物の内容や雰囲気を保ちつつ,適切な訳語を選び,みずからの文体を構築していくことは翻訳者の創作的な精神作業である。クラシックの楽曲を軽音楽化するなど,既存の楽曲に依拠しつつも,これを変形する編曲も二次的著作物の作成に該当する。絵画を彫刻にしたり,彫刻を絵画のかたちで表すなど,既存の著作物を他の表現形式をもって表す変形も,既存の著作物を脚色したり,映画化するなどの翻案も二次的著作物の作成となる。文語体で表された著作物を口語体に改めたり,大人向きの著作物を子供向きに書き換えることも,学術書などのダイジェストを作成することも翻案となる。
 百科事典,新聞,雑誌,名曲集,美術全集などのように,素材の選択または配列に創作性の見られるものは編集著作物である(12条1項)。データベースも,その情報の選択または体系的な構成に創作性を有するものは,著作物として保護される(12条の2)。
 著作物は一人によって作成されるとは限らない。2人以上の人間が共同して創作することもあろう。複数の者が一つの著作物の作成に創作的に,すなわち,それぞれが著作者として(補助者としてでなく)寄与し,その各人の寄与が個々に分離できないほど一体となっているときは,その創作物を共同著作物と呼ぶ(2条1項12号)。歌謡曲は一見すると歌詞と楽曲が一体となっているようであるが,両者はそれぞれ分離して,歌の詞集やカラオケ用テープにおいて利用できるところから,共同著作物とはいえず,結合著作物と呼ばれる。
 なお,著作物のなかには,公表に際して著作者名を表示しないもの,あるいは,雅号などの表示にとどめているものがある。これは,無名著作物ないし変名著作物と呼ばれ,保護期間の計算方法が記名ないし実名著作物と違う。
[著作権]  著作権は著作物の支配を目的とする排他的な権利であり,著作物の利用から生ずる経済的な利益の保護を目的とする財産権である。特許権や商標権などと同じく無体財産権ないしは知的所有権の一つである。この著作権を考えるのに,ドイツのように,人格権的な要素を含める立法例もあるが,日本の著作権法は著作権をもって財産権と定め,著作者人格権は別個の独立した権利と定めている(具体的には以下の権利をさす。(1)未公表の著作物を公表する権利,(2)著作物の原作品に著作者として名前を表示しまたは表示しない権利,(3)著作物およびその題号の同一性を保持する権利)。また,著作権は,著作物の作成がなされればただちに発生し(51条1項),著作者が著作権を享有するに際して登録や納本など格別の方式を必要としない(17条2項)。創作と同時に著作者が著作権を取得するというとき,一つだけ例外がある。すなわち,映画の著作物については,その著作者が映画製作者に対してその製作に参加することを約束しているときは,その著作権は映画製作者に帰属することになる(29条1項)。もちろん,他の著作物についても,いったん著作者に発生した著作権が譲渡や相続によって他に移転されるときは,著作者と著作権の担い手が分化する。
 著作権が著作物の利用から生ずる経済的な利益を保護するものであるとすれば,著作権の内容も,著作物のさまざまな利用形態に対応したものになる。こうして著作権法は,著作権の内容をなす権利として,複製権(21条),上演権および演奏権(22条),公衆送信権(放送権,有線放送権を含む)(23条1項),伝達権(23条2項),口述権(24条),展示権(25条),上映権および頒布権(26条),貸与権(26条の2),翻訳権,編曲権,変形権,翻案権(27条),二次的著作物の利用に関する原著作者の権利(28条)を列挙している。
 日本では著作権の内容を定めるのに〈列挙主義〉を採用しているのに対して1965年のドイツの著作権法は,それまでの〈列挙主義〉を廃し,〈例示主義〉に切り換えた。これは,著作物の利用形態が新技術の開発により変化していくのに対応したものであるが,著作権という排他性のある強い権利については,規定上明示されているにこしたことはなく,著作物の新しい利用形態が現れるごとに法改正をすることで,〈列挙主義〉の硬直さを緩和することができるであろう。それに,現に日本の著作権法も著作物の新たな利用形態に対応して小刻みの改正がなされてきた。
[著作権の制限]  著作権が排他性のある強い権利であるだけに,ときにはこれを制限し,著作物の利用を確保しなければならないことになる。そこで,著作権法は30条以下において著作権を敢えて制限している。すなわち,〈個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用することを目的とする場合〉における保護著作物の複製(30条),図書館等における複製(31条),引用(32条),教育目的のための複製(33〜35条),試験問題としての複製(36条),点字による複製等(37条),営利を目的としない上演等(38条),時事問題に関する論説の転載等(39条),政治上の演説等の利用(40条),時事の事件の報道のための利用(41条),司法・立法・行政目的のための複製(42条),翻訳,翻案等による利用(43条),放送事業者等による一時的固定(44条),美術の著作物等の利用(45〜47条),コンピューター・プログラムの複製物を所有する者による複製等(47条の2)に際しては著作権が制限され,著作物の自由な利用が確保されている。もっとも,自由な利用といっても,著作権者の許諾を得ることなく,しかも無償で利用できる場合もあれば,許諾を得る必要はないものの,補償金の支払を要する場合もあり,著作者に利用を通知しなければならないときもある。また,同じく有償といっても,たとえば営利を目的として試験問題を作成するときのように〈通常の使用料〉に見合う額の場合もあれば,私的使用のためにディジタル方式の録音・録画を行うときのように〈相当な額〉の場合もある。
 このように,著作権の制限のしかたにも段階があるが,総じて著作物が自由に利用できる範囲は広い。
[著作権の保護期間]  著作権の保護には時間的な限界づけがなされている。著作権を保護する期間は,原則として,著作物の創作のときに始まり,著作者の死後50年を経過するまでの間存続する(51条)。例外もある。それは,著作権の保護期間を公表時より起算する著作物について見られる。すなわち,(1)無名・変名の著作物,(2)団体名義の著作物,(3)映画の著作物の著作権は,それぞれ公表後50年を経過するまでの間存続する(52〜54条)。著作者の死亡時点が不明であったり,団体のようにそもそも死亡時点のないとき,あるいは,著作物の利用面を重視するなど,その理由づけはさまざまである。
[救済の方法]  著作権をはじめ,著作権法の定める諸権利が侵害され,または,侵害されようとしているときのために,著作権法はいくつかの救済方法を定めている。まず,紛争を斡旋によって解決する方法が示され(105〜111条),侵害の停止または予防を請求できること(112条),生じた損害に対しては損害賠償を請求できること(114条),著作者の名誉もしくは声望を回復するために適当な措置を請求できること(115条)が定められ,罰則(119〜124条)も設けられている。
(斉藤 博)

「著作権」
(Microsoft Encarta Encyclopedia 2000 より)
文学、学術、美術、音楽などの作品を他人が利用することについて、その作品を創作した者がもつ権利であり、英語ではコピーライトcopyrightという。創作を奨励し、文化の発展に寄与することを目的とする。知的所有権の分野のひとつで、著作権法(1970年公布)を根拠としている。
著作権の対象となる作品を「著作物」という。著作物は、人間の思想や感情が創作的に表現されたものである。小説、脚本、論文などの言葉で表現されるもののほか、音楽、美術、建築、地図や図表などの図形、映画、写真、さらにはコンピューター・プログラムなどが著作物の例としてあげられる。他人の作品を模倣するのではなく、創作をおこなう人間の考え方や感情が作品に表現されていれば、その作品は「著作物」にあたる。創作の質は問わないから、実際に利用されるかどうかにかかわらず、子供の作品やアマチュアの作品でもプロの芸術家の作品と同じように著作権法による保護がうけられる。
著作物を創作した人間を「著作者」という。著作者には、個人だけでなく会社などの団体もふくまれ、たとえば、従業員が会社の職務として著作物を創作した場合は会社が著作者となる。著作者は、創作した事実によって、自動的に著作権を有することとなっており、公的な機関への登録などが必要な特許権、実用新案権、意匠権、商標権とことなる。
著作権は、さらに「著作者人格権」とせまい意味での「著作権」に分類される。著作物が人間の思想や感情の表現であり、その人格と深くむすびついているため、著作者人格権によって人格的な利益を保護している。著作者人格権の内容は、著作物の公表を決定する権利、著作物上の著作者名の表示方法を決定する権利、著作物のタイトルや表現の変更をふせぐ権利にわけられる。本名をつかわずにペンネームをつかうことや、他人が勝手に作品の内容を書きかえることをふせぐ場合には著作者人格権を行使することができる。この権利は、他人に譲渡したり、相続することはできない。これに対して、せまい意味での著作権は、財産的な権利であり、経済的な利益を確保することを目的としている。財産権であるから、他人に譲渡したり、相続することができる。
著作権は、文学作品のコピーや音楽作品の録音など、著作物の複製をおこなう場合、演劇作品を劇場などで上演する場合、音楽作品をコンサートで演奏する場合、文学作品などを放送する場合、映画を上映する場合、外国の文学作品を翻訳する場合など、著作物を法律のさだめる一定の方法で利用する場合にはたらくものであり、その場合には、著作者と契約をむすび、利用についての権限をえる必要がある。なお、著作権法では、著作者のほか、実演家、レコード製作者、放送事業者、有線放送事業者が著作隣接権者として、著作者に準じた保護をあたえられている。
著作権の保護期間は、原則として著作者の生存中と死後50年間であり、団体の著作物の場合は公表後50年間となっている。保護期間を経過した著作物はだれでも自由に利用することができる。また、著作権の存続期間内であっても、自分の研究や調査などの私的な目的で複製する場合、図書館が業務として一定範囲内の複製をおこなう場合、他人の作品を自分の作品の中に引用する場合、教育機関が授業のために複製をおこなう場合など、法律がとくにみとめた一定の範囲内では自由に利用できる(著作権の制限)。なお、著作権の国際的保護のために、1886年のベルヌ条約(文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約)と1952年の万国著作権条約(著作権の国際的保護に関する条約)があり、日本はいずれにも加盟している。


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