『聖書』
――愛を学ぶために孤独があるなら、意味の無いことなど起こりはしない。(平原綾香「Jupiter」)


「本(biblos)」と言えば、『聖書(Bible)』である。
『聖書』は、ユダヤ教とキリスト教の聖典でもあるが、ヘブライ民族の神話、歴史、法と道徳、そして文学の集合体でもある。
世界の創造から、ユダヤ民族の繁栄と滅亡を描いた『旧約(=神と人間との古い契約)聖書』と、
救世主(=キリスト)であるイエスの出現とその後の歴史を描いた『新約(=新しい契約)聖書』に分かれている。

『旧約聖書』
1)神―天地創造
  超越者(被造物からの超越)・全能者・唯一者
2)人間―神の像(Imago Dei)
  (神は何者にも制約されない絶対的に自由な存在、人間は自由な意志を持つ、神に似た者)
  堕罪の神話;人間の根源的な自由の結果
3)契約
  ノア→アブラハム→モーゼ;十戒

『新約聖書』
  イエス=キリスト
  (イエスの生涯は「キリスト=救世主(第二のモーゼ)」として描かれるが、
   イエスが示したのは「地上の国」を超えた「天の国(神の国)」であった。)
  1)神を愛せ
  2)隣人を自分のように愛せ
 「愛」の意味―内面性と自主性(=自由の完成;その逆、外面性と強制が「隷属」)


『旧約聖書』(新共同訳)

1)祭司資料による
天地創造『創世記』第1
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深遠の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。
人間の創造
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自身にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

2)ヤーウェ資料による
天地と人間の創造『創世記』第2
主なる神が天と地を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。

律法;十戒『出エジプト記』第20
わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
1)あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

2)あなたはいかなる像も造ってはならない。
3)あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
4)安息日を心に留め、これを聖別せよ。
5)あなたの父母を敬え。
6)殺してはならない。
7)姦淫してはならない。
8)盗んではならない。
9)隣人に関して偽証してはならない。
10)隣人のものを一切欲してはならない。 


『新約聖書』(共同訳)

イエスの教え

『マタイによる福音書』(第22章)
心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、おまえの神である主を愛せよ」。 これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛せよ」。 律法全体と預言者の教えは、この二つの掟に基づいている。

『マタイによる福音書』(第5章)
 あなたたちも聞いているとおり、「目には目を、歯には歯を」と命じられている。しかし、わたしは言っておくが、悪意人に手向かってはならない。もし、だれかがあなたの右の頬を殴るなら、左の頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、千歩行くように強要するなら、いっしょに二千歩行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。
 あなたたちも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておくが、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。それは、あなたたちの天の父の子供となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を登らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したとしても、何の報いがあろうか。税金取りでも、同じことをしているではないか。兄弟にだけあいさつしたとしても、何か優れたことをしたことになるだろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全な者となりなさい。

『マタイによる福音書』(第6章)
 だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたたちは、神と富とに仕えることはできない。
 だから、言っておくが、何を食べようか何を飲もうかと命のことで、何を着ようかと体のことで思い悩んではならない。命は食べ物よりもたいせつであり、体は衣服よりもたいせつではないか。空の鳥を見なさい。種をまくことも、刈り入れることも、倉に納めることもない。だが、あなたたちの天の父は鳥を養ってくださる。あなたたちは、鳥よりもはるかに価値のあるものではないか。あなたたちのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも伸ばすことができるだろうか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野生の花がどうして育つのか、考えてみなさい。働くことも、紡ぐこともない。しかし、言っておくが、栄華を極めたソロモン王でさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、あすは炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださるのだから、まして、あなたたちにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たち。だから、「何を食べようか」、「何を飲もうか」、「何を着ようか」などと言って、思い悩んではならない。それはみな、異邦人がせつに求めているものだ。あなたたちの天の父は、これらのものがみな必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものもすべて加えて与えられる。

『マタイによる福音書』(第章)
人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたたちも人にしてやりなさい。これこそ律法と預言者の教えなのだ。

『マタイによる福音書』(第18章)
ある人が羊を百頭持っていて、その中の一頭が迷い出たとすれば、その人は九十九頭を山に残しておいて、迷い出た一頭を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もしそれを見つけたなら、迷わないでいた九十九頭よりも、その一頭のことを喜ぶだろう。

罪の女(『ヨハネによる福音書』第8章)
イエスはオリーブ山へ行った。朝早く、また神殿の境内に入ると、民衆が皆自分のところにやって来たので、座って教え始めた。そこへ、立法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、人々の前に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーゼは律法の中で命じています。さて、どうお考えになりますか。」…イエスはかがみ込み、指で地面に字を書き始めた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして、「あなたたちの中で罪を犯したことのない人が、まず、この女に石を投げなさい」と言った。そしてまた地面に字を書き続けた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスだけが取り残された。…イエスは、身を起こして尋ねた。「さあ、みんなはどこにいるのか。だれもお前を罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と答えると、イエスは言った。「わたしもお前を罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

注)この箇所は、後で挿入された出所不明の挿話。有名な話であるし、イエスの教えた内面性を重視する立場をよく表わしているので、引用しておく。(共同訳の「イエスス」と「モーシェ」は(「シェロモン王」も)、普通の表記に改めた。)「姦淫」については、『マタイ』第5章のイエスの言葉、
「あなたたちも聞いているように『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておくが、みだらな思いで女を見る者はだれでも、すでに心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたを堕落させるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなるほうが、全身が地獄に投げ込まれるよりもましだからである。またもし、右の手があなたを堕落させるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなるほうが、全身が地獄に落ちるよりもましだからである。」も有名。(ちなみに、「右の手が」という文句には、深い意味はない、と思う。)

パウロ神学

『コリントの信徒への手紙 一』(13章)
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、また高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてに耐える。
 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
 わたしたちは、今は鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、わたしが神に知られているように、はっきり知ることになる。それゆえ、信仰、希望、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

注)「愛」についての最も有名な個所。最後の個所の、「信仰(fides)、希望(spes)、慈愛(caritas)」の三つは、中世の神学で、「三元徳」(アウグスティヌス)、ないし「神学的な徳」(トマス=アクィナス)と呼ばれ、プラトンの「知恵、勇気(忍辱)、節制(禁欲)、正義」という「四元徳」ないし「自然的な徳」と併せて、「七元徳」を構成する。(この箇所の訳は、ほぼ新共同訳から)

『ローマの信徒への手紙』
律法は罪でしょうか。決してそうではありません。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、生命をもたらすはずの掟が死に導くものであることが、わかりました。掟は罪によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。

わたしは、自分の行っていることがわかりません。自分がしたいと思うことは実行せず、かえって憎んでいることを行うからです。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。内なる人間としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのがわかります。このように、私自身は心では神の律法に仕えていますが、生まれながらの本性では罪の法則に仕えているのです。

それでは、人間の誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どんな原理によってでしょうか。行いの原理によるものでしょうか。いいえ、信仰の原理によってです。なぜなら、わたしたちは、人間が正しい者とされるのは、律法の実行によるのではなく、信仰によると考えるからです。


付録1 神の似姿(Imago Dei)
エルンスト・ベンツ『キリスト教 その本質と現れ』(南原和子訳)平凡社1997年
 「キリスト教の人間像の出発点は、人間が神の像に似せてつくられたという認識である―「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」(創1:27)。この考えは神と人とは互いに神秘的に結ばれていることを伝えている。存在を超えてとらえるすべもない神は、被造物のうちの何ものかに自分の姿を映そうと欲し、人間を選んだ。…神は人間を特別な被造物へと高め、そこに自分自身の姿を認識し、自己意識をもとうとする姿をあらわしたのである。…神は自己実現のパートナーとして人間を選んだのである。…
 ところで、人間を人格としてつくったことによって、神は大きな危険を冒した。神の人格性の本来のしるしは自由である。人をみずからの姿にかたどってつくったとき、神は人間にこの高貴なしるし、自由を与えたのである。自由があってこそはじめて愛がある。この自由が与えられたからこそ人間は神のパートナーとして自由な愛を神に捧げることができる。…しかし、自由が与えられたことは、神に逆らい、また自分自身を自己の愛の対象にまで引き上げる自由をもつことをも意味する。「創世記」に「堕罪」として描かれている出来事の本質は、与えられた自由を人間がこころみ、神に反逆する決断を人間が自由のうちに下したことにある。人間は神から与えられた自由を誤用し、神に逆らい、みずから「神のごとく」ありたいと欲したのである(創3)。」

「キリスト教的人間学が神の像という考えにもとづくことを知れば、キリスト教倫理の基礎となる革命的な考えも怪しむに足りない。すなわち、キリスト教信仰にとってどんな人間、もっとも退廃し堕落した人のなかにでさえもイエス・キリストは現存する。」

付録2
否定神学
やがてキリスト教神秘主義はその思弁において,プロティノスを祖とする新プラトン学派の決定的な影響をうける。プロティノスは感覚的世界と超感覚的世界のもう一つうえに絶対的一者をおき,人間の魂は脱自によって一者と合一するとした。この思想はプロクロスを通して5世紀末,ディオニュシウス・アレオパギタの名をかりた著作家によってキリスト教的に変容された。偽ディオニュシウスによれば,神はいっさいの規定を超えており,善とも存在ともいうことはできない。神は超善,超存在である。いっさいの形容と規定を否定することこそ神への道である。神を知る知は,〈無知の知〉でなければならない。このいわゆる〈否定道 vianegativa〉または〈否定神学 apophatike theologia〉は以後ながく神秘神学の方法を規定した。(上田閑照 『平凡社 世界大百科』神秘主義の項より)

付録3
人工知能は愛の夢をみるか?
(私、上村が、かなり昔に書いた文章です)
 ところで、あなたは今、愛について語りたい気分だろうか?「さあ、これから愛について考えてみよう。愛って何だろう?」――こういう風に、話を始めると、ここは飛ばして読もうか、と思ってしまう人も少なくないかもしれない。そうかもしれない、と思う。書いてる僕でも、人が愛について話すのを聞きたいという気分には、めったにならないから。
「愛」について話すのは難しい。大事なことであるだけに、無神経に、自分の思い込みで話してもしようがないような気もする。もともと「愛」という言葉じたいが、問題だ。そもそも日常生活で、「愛」って、使う機会がどれくらいあるのだろうか。特に「愛している」と動詞の形で、いつ使えばいいのだろうか。ただ単に忘れているだけかもしれないけど、誰かに向かって「愛してる」って言ったことが一度でもあったのか、あるいは言われたことがあるのか、僕はまったく思い出せない。
 僕が「愛」という言葉の意味に疑問を持つようになったのは、「神を愛しなさい」「隣人を愛しなさい」と命じている『聖書』の言葉の意味がうまく理解できなかったからだ。「愛する」という言葉を「好きになる」と言い換えてみると、「神を好きになりなさい」「隣人を好きになりなさい」という文になる。「神を好きになる」って、どういう意味なのだろうか? まったく分らないわけではないが、「愛しなさい」という言葉には「好きになる」という言葉では言い換えられない意味があるのではないだろうか?
 あるいは、「隣人を好きになりなさい」という言葉を、文字通り実行できるだろうか。例えば自分の家族が誰かに殺されてしまったとして、家族を皆殺しにしたその犯人を好きになる、というようなことが出来るのだろうか。『聖書』を読むと、イエス=キリストは、「敵を愛せ」とか、普通は実行できないような、とんでもないこともたくさん言っているから、努力目標としてそういう逆説を述べているのかもしれない。それにしても、「愛する」という言葉には「好き」という気持ちの問題だけではない、プラスアルファの意味があるのではないだろうか。そういう疑問を持たざるをえなかったのだ。
 考えてみると、「愛する」という言葉は、日本語として熟していない言葉だ。よく聞くけど、自分では使わない言葉だ。だいたい異性に(同性でもいいけど…)「愛しています」って告白する日本人が本当にいるんだろうか。卒業だとか、別れが近づいてきて、好きだった人とも、もうすぐ会えなくなってしまいそう、だから思い切って告白しておきたい。古典的なスチュエーションだが、後で体育館の裏に来てくれ、とか言って(それはさすがに古過ぎるか?)、そういう場合に使う正しい日本語は、「好きなんですぅ」または「きっ、君がっ、好きだ〜」だろう、どう考えても。「愛してる」なんて言うのは、安物のテレビドラマの中だけだ。
 とはいえ人間関係には演出も必要だ。ドラマの主人公になったような気分で「愛してる」と言ってみたり、あるいは、「恋愛」という一種の熱病で「君の全てを愛している」なんて意味不明な日本語を口走ってしまったり、そういうことはありえる。――でも、そういうのは別として、日常で「愛している」という言葉は、口に出すと嘘臭くて、なかなか使う機会がないのではなかろうか。普通は「好き」と言う。
 でも、そういう場合でも、「愛」と「好き」って、同じ意味なんだろうか。「好き」の強いのが「愛」なのだろうか。僕はそれだけでなく、「愛」という言葉には、もっと決定的な何かがある感じがする。ゆえに、この際、断言しておこう、「愛」って言葉は、まだ日本語になっていない。日本語じゃないから嘘臭くて普通に使えないんだ、と。
 でも今の日本人で「愛」という言葉の意味が分らないという人はいないだろう。だいたい、英語の「love」の意味で、普通の人は理解している、と思う。だって、もともと「love」を「愛」と訳したわけだから。たぶん、明治時代の初め頃のことだ。「愛」という漢字は、昔からあった。でも、江戸時代までは、動詞としては「愛でる(=可愛がる、賞賛する)」という意味だったし、明治時代に「love」を「愛する」と訳してから、それまで「愛」という漢字がもともと持っていた意味よりは、訳語としての意味になってしまっているわけだ。だから、まだ意味としては今でも外国語のままなのだろう。
「愛」というのは「好き」な気持ちの一種ではある。英語でも「とっても好き」な場合に「like」でなく「love」と言う。「愛」とは「好き」という気持ちだ。それは間違いない。しかしそれだけではない。それに収まらないものがある。だから「愛」=「好き」+α だ。その「+α」が何かが問題なのだ。
 例えば、「ロックが好き(I like rock music.)」というに留まらず、「ロックを愛している(I love rock music.)」という場合、ただよくCDを聞くという程度ではなく、それなしでは生きていけないという程度に好き、という意味だろう。それなしでは生きていけない、自分の生活の大事な一部、というくらい大好き、と言っていいだろう。
 でも「愛」は、基本的には人間関係で使う。本家のアメリカ人(やイギリス人)は、「love」という言葉を日常でもよく使っている。もちろん恋人たちがお互いに「愛してる」と言うが、夫婦や家族の間でも、――というか、本来は家族の間で、使うべき言葉だ。まず夫と妻の間で「愛してる」と言う。次に、夫と妻の間だけでなく、親と子の間で、また、兄弟・姉妹の間でも、互いの関係を「愛」と呼ぶ。アメリカ映画を見ていると、恋人や夫婦だけでなく、親と子がしょっちゅう「I love you.」って言ってる。字幕や吹き替えでは「大好き」と訳してあることも多いから、注意してないと気づかないかもしれないけど。
 では、アメリカ人の言う「love」って日本語の「愛」と同じ意味なんだろうか。日本で、「お父さん、愛してる」って言う子どもは、あまりいない(というか、全然いない!)だろうから、日本語の「愛」と英語の「love」は、かなり使い方の違う言葉だと思う。
 それに愛していたら、「愛してるよ」と、しょっちゅう、お互いに言い合ったり、キスしたり、誕生日にプレゼントしたり、そういう面倒なことをいろいろしなくちゃいけないような気がする。恋人たちだけじゃなく、家族の間でも、だ。
 だから「愛」という言葉の意味は、夫婦と親子を中心とした家族の関係を表わすものだ、と言っていいだろう。では、家族の間で「愛」という言葉が使われるのはなぜなのだろうか? 家族とそれ以外の他人との違いは何なのだろうか?
 それは、家族や親戚を「身内」と言うが、自分の一部になってる、という関係ではないだろうか。それなら「愛」という言葉が使われるのは、家族が自分の一部だからではないだろうか。恋人達が、相手が自分の一部であるのと同じように、夫と妻は、互いに自分の不可欠な一部である(ということになっている)ようだし、親にとっては子どもも自分の一部である。子どもの立場から考えると、自分が親の一部だと思っている人は、少ないかもしれない。確かに、中学生や高校生になっても、お父さんとお母さんが一番好き、と言っているようでは、個人の自立、つまり親離れ/子離れ、という面から見て、大いに問題があると思う。でも、親の立場から見れば、たぶん自分の夫や妻以上に、子どもは自分の一部だろう。
 だから、自分と一つのものとして、互いに配慮しあうこと――それが家族における愛だ。言い換えれば、家族の中での愛とは、夫と妻、親と子という「他者という姿をした自分」に対する配慮という形をとる。
 むかし(今でも?)サラリーマンの職場結婚でいちばん多かったのは、夜遅くまで一緒に残業して、その日をきっかけに愛が芽生えた、というケースだったそうだ。同じ事を一緒にする、しかも夜中に二人で、ということになると「同士だ」という親しい共感がわく。あるいは、同性であれ異性であれ、誰かを好きになるきっかけとして、「自分と同じだ」と思うとか、「自分と同じ欠点を持っている」とか、そういうケースは多い(と思う)。身近に感じる、というか、親近感を持つ、というか、心の方向が開くのである。それは「連帯感」という言葉に近い感情かもしれない。
 家族においても、愛は、共に同じ時間を過ごすことによって、深まっていく信頼関係=連帯感という形をとる。愛は、時間の中で作り上げられる共同性だ。

 逆に言うと、「好き」なものがないと、淋しい。でも、大事な人と別れたり、「愛する」人を失ったときには、淋しいどころじゃない。(人じゃなくて、ペットが死んだときが、いちばん悲しかった、という人も多い。)ブッダは、この世の四つの苦しみの一つとして「愛別離苦(あいべつりく)」を挙げた。愛する人と必ず分かれなければならない。親子でも兄弟でも、親友でも恋人でも、必ず別れはやってくる。それは避けられない。でも大事な人と別れると、心の中が空っぽな気持ちになる。そんな時には、自分の部屋も、町の中も、何かそっけなくて、世界が色あせて、生き物はみんな死んでしまったような気がする。(心の中の空っぽは、いなくなった自分の一部、大事な世界の欠片だ。)――そういう思いをするのを誰でも知っている。バタンとドアが閉まって、自分と世界との生き生きとした交流が失われる。愛がなくなると、自分の生きている意味が感じられなくなったりする。愛は生命と繋がっている。
 
言葉だけから言えば、「愛情」は「情」である。「愛」は自分の一部だという連帯感を含む、と言った。そして、時間のなかで深まる繋がりだと。――そういう風に関係が深まる、というのは、「情」が深まる、ということだ。では、「愛」は「情」なのだろうか。
(じょう)」は、「なさけ」とも読む。「情が移る」「情にもろい」「情が深い(薄い)」と言うような、他人を大事に思う、こころの働きである。「友情」とか「愛情」とか、気持ちの結びつきを表わす言葉だ。気持ちが通っていると、暖かい気持ちがする。それが「愛」という名前の「情」だ。家族における「愛」とは、何に近いかといえば、「情」だろう。
 では、「愛」と「情」は同じなのだろうか。
 
確かに、近いものがある。でも近いといっても、「愛」と「情」には異質な部分がある、と僕は思う。「情」が「感情=気持ち」の問題であるのに対して、「愛」にはもっと意志的な部分があり、「愛」には自分の意志が関与しているような気がする。つまり意志的に行動するという要素が含まれている。だから「愛しなさい」という命令ができるのだろう。
 この章の表題の「人工知能」というのはAIArtificial Intelligence)というので、AIだから「愛」というオヤジ・ギャグというか何というか、そういう下らないものだが、自分のことを気にかけるようなプログラムが組まれていれば、それがロボットであろうと何であろうと、愛に近いものを多くの人は感じるだろう。未来からきたネコ型ロボットのドラえもんには、心があるのだろうか。それは「心」とは何かという定義の問題かもしれない。でも、ドラえもんはノビ太君のことをいつも気にかけ、ノビ太君は、ドラえもんに愛されていると感じるだろう。実際問題として、愛とは行動だ。
 だから「愛してる」と口に出して言うことが、「愛」の条件の一つだ。「好き」なのは、口に出して言わないほうがいい、と昔の人は言った。「好き」という気持ちは、おのずと湧いてくる自然な感情だ。それは自然に感じられるもので、言葉に出して言わない方が、嘘がないし、気持ちも高まる、と。が、「愛」は口に出して言わないといけないのである。「愛してる」と口に出して言うことによって、意志的な行為である、という愛の重要な一面を表現しなくてはいけない。言われたら、自分も「愛してる」と言い返さなくてはいけない。それは互いに「承認」するという行為である。
 愛の持つ連帯感は「気持ち」だけではない。他者と繋がる気持ちは、恋愛だけでなく祝祭などの陶酔的な一体感において、より強く感じられる。意地悪な見方をすれば、恋愛においてお互いが相手を好きだと確かめ合うのは、それぞれが別々に持つ「共同の幻想」に過ぎないとも言える。「お祭り」も、一時的だが、仲間意識を与える。学校では、五月頃に運動会や文化祭といったお祭りを行い、クラスの一体感を高めようとする。お祭りはそういうきっかけにはなるが、それ自体は一時的なものである。これに対して、愛はもっと直接に他者へと向かう。家族がそうであるように、時間の中で築きあげられる深い連帯感である。(愛が感情であれば、愛は磨り減っていく。自分がいつも他者に繋がっていることを改めて学ぶこと、それは不断に学び返さなければならない永遠の課題である。)
『旧約聖書』に書いてある教えの中で、何がいちばん大事か、と問われて、イエス=キリストはこう答えている。
「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、おまえの神である主を愛せよ。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛せよ。』 律法全体と預言者の教えは、この二つの掟に基づいている。」
「神を愛しなさい」「お互いに愛し合いなさい」こう命じるから、キリスト教は「愛の宗教」と言われる。しかし、前に言ったが、「愛」という言葉は、昔は、必ずしも、いい意味では使われなかった。仏教では、すべての苦しみは、愛から生じると言う。「渇愛」というのだが、人のものを欲しがる(よこしま)な気持ちを言う。当時「愛」という言葉が持っていた意味を考えると、江戸時代には「汝の隣人を愛しなさい」と訳すことは出来なかった。
 では何と訳したか? もちろん「好き」じゃない。知っていたら偉いけど、ちょっと考えてみて欲しい。普通の日本語で何て訳すか?
 答え。江戸時代の訳は「大切(たいせつ)」だった。それに敬語をつけて「御大切」と訳した。「あなたの隣人を愛しなさい」ではなくて、「汝の隣人を御大切に」。「大切」とは、いつも気にかけるという「心懸け」だろうし、「愛」する人とは、「大切」な人である。「大切」でなくなったら、「愛」ではない。これは、名訳だったと思う。
 キリスト教では、「神を愛しなさい」「隣人を愛しなさい」と命じている。その「愛する」という意味は、「好き」という気持ち、感情なのだろうか――これが最初の疑問だった。有名な哲学者のカントは、隣人愛は「感情」ではない、と言い切っている。さすがに、それは言い過ぎだと思う。でも、言いたいことは分る。愛とは行為だ。愛の精神をもって行われる行為だ、ということだろう。愛は自分の悦ばしい気持ちではなく、他者と向かい合う行為だ。愛は、愛する者と愛される者を一つに結ぶ。
 では、具体的な場面で考えてみよう。
 いま、友人が、お金に困っていて、サラ金の借金の保証人になってくれと頼まれたとしよう。どういう態度をとるのが一番いいのだろうか?「自分が借金を返せと言われるのは絶対に嫌だから、保証人になるのは断る」という人が多いだろう。借金の保証人なんて、友達にじゃなく肉親に頼むべきものだろうから、それが常識的な判断だ。でも、それは「愛」の精神に反している。どこがか、と言うと、「自分が困る」と自分のことばかり考えているからだ。もしその「友人」が自分の恋人であれば、喜んで保証人になる、という人も少なくないだろう。自分と同じように、他者のことを考えるのが愛の意味だった。だから、友人の事情を理解して、いちばん友人のためになるように考えるのが愛だろう。
 自分の都合ではなく、神の目から見て、どうするのが一番いいのかを考える。だから、場合によっては、友人の甘い考えを指摘して、自己破産とかにならないように気を配る。――キリスト教の愛という観点から言えば、そういうことになる。(言うのは簡単だけど、普通はできない。だから努力目標なのだ。)
 もう一つ。個人的には、どうでもいい、と実は思うんだけど、「愛」を「エロス」と「アガペー」とに区別することがある。神への愛が「アガペー」で、人間どうしの愛が「エロス」だと、倫理学の本にはたいてい書いてある。(「エロス」と言っても、「愛」とか「恋」を意味する普通のギリシャ語であって、別にエッチな意味はないので、誤解のないように。)確かに、人間どうしの愛、特に「恋愛」というような愛を、家族における愛と一緒にして、まったく同じだ、というのも、どういうものか、という気はする。「恋愛」が、そのまま「結婚」とか「家族」とかに繋がらなければいけないことはないのだし、言葉としても「恋」と「愛」は、違う言葉だ。単純に言葉だけから見ると、「恋愛」って「恋」という特別な種類の「愛」だとは言える。だから、そういう愛を「エロス」と呼ぶのは、間違いではない。
 しかし、「恋愛」というのは、かなり特殊な状態だ。電車の中で、ラブラブ状態のカップルがいて、「ねえ、よっしー、ご飯、食べさせてあげるねっ、あ〜ん」とか言ってると、なぜ目障りなのだろうか。そもそも、ラブラブのバカ・カップル(略してバカップル)のどこが邪魔臭いのだろうか?――それには、いくつか理由がありそうだ。
 まず第一に、何といっても、うらやましい。つい「あの不細工なバカップル」などと心の中で言ってしまう(言わない?)。それは嫉妬だ。でも恋人たちが発散している、互いに相手が好きで好きでたまらないという雰囲気は、素晴らしいものではある。それが夫婦や家族なら理想だろう。
 しかし、第二に、そこに人間関係の危うさが感じられるからである。ラブラブの状態というのは、「好き」という一時的な気持ちだけに基づいていて、時間の中で築かれてきた深い連帯感という、本来の愛が持つ持続的な性格が欠けているように見える。それに「いつも一緒でないと、生きていけな〜い」などという他者に依存した態度は、一人の人間として如何なものか、という深い疑問が湧く。
 そして第三に、二人の世界に入り込んで、客観性が欠けているのである。人目も何もあったもんじゃない。電車の中だろうが何だろうが、二人の世界に浸りきって、物を食べようが、べたべたしようが、お構いなしである。「三人寄れば公界(くがい=世間)」という諺があるように、二人という関係は、互いに入り込んでしまい、第三者の目を欠くのである。だいたい、電車の中で弁当食うんじゃねーよ。
 その「エロス」に関しては、プラトンの『饗宴』の中に有名な挿話がある。興味のある人には、翻訳もたくさんあるので、原典を読んでもらうことにして、そこで出されている、アリストパネスとソクラテスの話の要点は、
0)エロス(恋)は、恋される者ではなく、恋する者の方にある。(ソクラテスの話)
1)エロスは、失われた自分の半身を見出す欲求である。(アリストパネスの話)
ということだ。まとめると、愛は欠乏への欲求だ、ということになる。
 恋愛にも「自分の一部」としての愛というモテーフが基本にあるが、それだけでなく、他者を求める強い欲求という面が強調されている。非常に強い「好きだ」という気持ちである「愛」にはそういう意味もある。しかし他者を「自分のものにしたい」という欲望からは、愛と無関係ではない、「所有」という別の問題が生じる。
 愛という欲望には、自分が愛していることを知って欲しい、そして相手が自分を愛していることを知りたいという欲望が含まれている。とりわけ、「恋愛」という種類の愛には、自分が愛しているだけ、相手からも愛して欲しいという欲求が生じる。そしてそれは、シーソー遊びのように、基本的に一致しない場合が多い。皮肉なことだ。恋愛に限らず、一方が愛するほど他方は愛さない、というのが世間の常である。さらに恋愛には所有欲が混ざっている。身も心も自分のものにしておきたい、という所有欲が混ざれば混ざるだけ、愛は嫉妬に近づいていく。
 愛、とりわけ恋愛と言えば、嫉妬だ。プルーストというフランスの小説家が書いた『失われた時を求めて』という、とてつもなく長い、半ば自伝的な小説がある。その第五編「囚われの女」で、プルーストは恋愛心理を克明に記述している。愛しているアルベルチーヌという若い娘を、パリのアパルトマン(広いマンションのようなもの)に連れてきて、主人公は彼女と同居生活を始める。(プルーストは同性愛者だったから、「恋人」といっても、生物学的には男だったのだろう。)しかし離れて暮らしていたときよりもいっそう、彼女が自分から逃れていくような気がして、絶え間なく嫉妬の気持ちに苦しむことになるのである。
 <物>は姿を変えないからいつでも手許に置いておくことができる。他者も身体として見れば<物>である。奴隷のように鎖で繋いでおくことが出来ないわけではない。しかし、身体は他者の一面である。「私」と同じく、他者の本質は、ずれて姿を変える点にある。だから、他者を所有することは出来ない。アルベルチーヌのように、<他者>のイメージからは、常に<あなた>が逃れてゆく。
 恋愛とか結婚には、そうした所有欲とか、あるいはお金とか世間体とか、そして性的欲望とか、愛以外の要素が入ってくる。だいたいは利害関係だ。そうした利害関係は、自分中心のエゴイズムに結びついている。「愛」が他者と向き合い、その人のことを自分と同じものとして考えるということなら、エゴイスティックな利害の計算は、愛とは異質なものだ。そういう意味では、恋愛よりは、親子の愛、特に親が子どもを愛する愛が、いちばん純粋な愛に近いかもしれない。親と子のように最初から立場が違う方が、利害関係とかの付随的な要素が入り難い。「他人」じゃないので、我がままを押し付けるとか、甘えて都合よく利用する、というようなこともあるだろうけど。
 
でも、この他人じゃないということが愛の特質だ。本屋で万引きするのが趣味だという人がいるとき、他人なら他人事だからと放っておくことができても、自分と同じ存在なら、「それも個人の自由だ」と言って見過ごすことはできない。嫌がられても、止めるように説得するだろう。愛しているから起こるトラブルも多い。もし人に何も期待しないなら、人間関係は、簡単だ。「お父さんに言っても、分ってくれない」とか言わずに、「分ってくれるはずがないけど、いちおう言うだけ言っとこう」とか、夫や妻が「自分の気持ちを分ってくれない」じゃなくて、「他人だから分ってくれというのが無理だけど」と考えると、家族は、ある意味、平和だ。何も求めず、与えられたものだけを取る。それは、ギリシャ時代のストア派と呼ばれる禁欲主義の立場が理想とした生き方だ。ストア派も愛という強い情念を嫌った。自分の自由を束縛するからだ。(「自由」を「束縛されないこと」と考えるなら、愛は自由を阻害する。)確かに、嫉妬とは違う意味で、愛は束縛する。でも、それは愛が「私」を他者へと結ぶ、究極の通路だからだ。
「私」がなければ「愛」もない。人間だけでなく他の物を含めて、「他者」へと向かう強い欲求を「愛」という言葉で呼んでいいだろう。その特徴は、「自分の一部」というか、「共同性」というか、「自分と他者の壁を超える」というか、そういう方向に、深いところで人間を動かす衝動だ。その愛は、自分の中にあるものなのだが、それを僕たちは、愛する人の中に発見する。愛は向こうから呼びかけてくる。
「愛する人がいなくなっても、愛がなくなることはない」と、ある詩人(ディラン・トマス)は詠った。でも、逆もある。「愛」は自分の中にあるのだけれど、愛する人がいなければ愛は感じられない。愛する人や愛してくれる人がいなければ、人は愛を知ることがない。ネグレクトと言われ、これも虐待の一つなのだが、幼児期に親からまったく面倒をみられずに育った子どもは、保育園でも、一人で壁の方を向いていつまでも座っていて、他人と関わりを持とうとしないのだそうだ。愛は他者からやって来る。


参考文献
『新約聖書』の翻訳は、今出ている「新共同訳」より、より原文に忠実で、文体もすっきりした「共同訳」(今は講談社学術文庫で出ています)の方が好ましいと思います。最初の四つの「福音書」(euvangelion=Good News の意味)が、イエス=キリストの生涯と教説を伝えています。「生涯」の方は、かなりフィクションに近い伝説と一体になっていますが、「教説」の方は、宗教的な天才の言葉ですから、キリスト教徒でなくとも、読めば大切な何かを教えられるでしょう。人類の古典中の古典。
また、キリスト教は「愛」の宗教だといわれますが、そうした宗教的な意味での「愛(アガペー)」ではない、人間的な意味での「愛(エロス)」については、
日垣隆『愛は科学で解けるのか』 新潮OH!文庫(2000年)
が大いに笑える名著。
内容は、「ハエがその気になるとき」(山元大輔)、「サルは性を遊ぶ」(榎本知郎)、「恋するヒトの心理学」(松井豊)、「脳は愛のためにある」(松本元)。
「愛」について、もっと一般的に、多くの人に勧められるのは、
エーリッヒ・フロム『愛するということ』(鈴木晶訳) 紀伊國屋書店
旧約聖書についても、同じ著者の
エーリッヒ・フロム『自由であるということ―旧約聖書を読む』(=『ユダヤ教の人間観』)飯坂良明訳 河出書房新社


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