『クルアーン』―イスラム教


『クルアーン(コーラン)はイスラム教の聖典であり
預言者ムハンマド(マホメッド)が神(=アッラー)の言葉を伝えたものである。
(「アッラー」とは神の名前ではなく、アラビア語で「神」、英語で「The God」を意味する普通名詞。
その神は『旧約聖書』と『新約聖書』における神と同じ神であり、
『クルアーン』を理解するためには新旧『聖書』の知識は必須である。)
『クルアーン』は「サジュウ」と呼ばれる韻文(詩)の形で書かれており、
アラビア語で声に出して読むべきのもの、翻訳は出来ないものとされている。


「慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名(みな)において……

 
讃(たた)えあれ、アッラー、万世(よろずよ)の主、
 
慈悲ふかく慈愛あまねき御神(おんかみ)、
 
審(さば)きの日(最後の審判の日)の主宰者(しゅさいしゃ)。
 
汝(なんじ)をこそ我らはあがめまつる、汝にこそ救いを求めまつる。
 
願わくば我らを導いて正しき道を辿(たど)らしめ給え、
 
汝の御怒りを蒙(こうむ)る人々や、踏みまよう人々の道ではなく、
 
汝の嘉(よみ)し給う人々の道を歩(あゆ)ましめ給え。」
(『コーラン』井筒俊彦訳)

讃えあれ、アッラー、万世の主

 これは、ごらんのとおり、この「開扉」の章の第一句です。…
al-hamd li-Allah
ハムドゥ hamad とは「称讃」ということ。Allah は勿論、アッラー。li- は「……のために」ということ。このような場合、アラビア語のシンタクスでは、英語の be 動詞に当たるものは必要とされません。これで完全な独立文です。全体で「讃えあれ、アッラーに」と訳します。『コーラン』の英訳などでもよく Praise be to God. とか、God be to praised. とか訳されています。「神は讃えられてあれ」ということです。私もそういう意味で「讃えあれ、アッラー」と訳しました。口調がいいからそうしたのですけれど、厳密にいうと、この訳は文法的には正しくありません。この文の本当の文法的な意味は、称讃というものは(al-hamd)、神のものである(li-Allah)、ということです。称讃というのは神に属する、称讃は、本来、神だけに属する、神だけのものだ、という意味の叙述文です、祈願文ではないのです。
 それでは、こういうふうに正確に叙述文として理解した場合、この一句はどんな意味を表わすのでしょうか。幾つかの違った意味に取れます。その一つは、真の、正しい称讃はただ神だけのものだという意味。神だけ、神のみが真の称讃に値する、という主張です。普通、人間は何か気に入ったことがあると、すぐ「素晴らしい」とか「美しい」とかいって、褒めたたえる。しかし、そんなものは、本当に褒めるに値するものではない、というのです。そうではなくて神だけが称讃に値する。本当の称讃――定冠詞 al- がついているでしょう、al-hamd と。この場合、定冠詞は「真の」、「唯一の」という意味を表わします――本当の称讃は神だけに属する、つまり、神だけが称讃に値する。それが一つの意味です。
 もう一つの意味は、すべての称讃は神のものである、ということ。この場合の定冠詞は、およそ称讃なるものはすべて、ということです。人が何を現実に褒めようとも、それは実は神を褒めているのだ、という考えがそこにあります。例えば、一輪の花が咲いている、とても美しい、私はそれを褒める、ああ、きれいな花だなと褒める。私は花を褒めているつもりです。だけど、『コーラン』にいわせれば、そうじゃないのです。私は。眼前に咲く花を褒めているつもりだけれども、本当は神を褒めている。一切の称讃は、つまり、誰がどんなところで何を褒めようと、褒められているものは実際は、アッラーなのだ、という意味です。宗教的になかなか深みのある意味ではありませんか。世界中のすべてものもが、それぞれに、それぞれの仕方で神を讃えていることになるわけですから。
 先刻、私は、『コーラン』の世界観によると、存在そのものが、すなわち神の慈悲なのだと申しましたけども、同じことを人間の側からいえば、存在することそのものが神の讃美なのです。…存在と讃美の関係こそイスラームの思想的枢軸です。イスラームという宗教は、結局、神讃美の宗教だといっても過言ではないと思います。」
(井筒俊彦『コーランを読む』)


「では、最初期に強調された啓示の内容はいったい何であり、それが当時のメッカ社会の中でどのような歴史的意味をもっていたのであろうか。現代イギリスの代表的イスラム学者モントゴメリー・ワット W.Montgomery Watt は、先学たちのコーランの章句の年代研究を基にして、最初期の啓示の主要内容として次の五つをあげている。すなわち、(1)神の恩寵と力、(2)復活と最後の審判、(3)神に対する人間の対応としての感謝と礼拝、および(4)施善、特に喜捨の勧め、(5)ムハンマドの預言者としての使命、である。…
 いい換えれば、神は天地万物の創造主であり支配者である。したがって、人間に必要ないっさいの事物を創造したのも神である。人間は神が授けたそのような恩恵に感謝し、恩恵の施主に仕えなければならない。それは具体的には、神の与えた恩恵(財)を貧しい人々と分かち合い、同胞や旅人を助け、弱い者や孤児に優しくすることである。そのようにしてのみ人間は迫り来る終末と審判に備えることができる。審判に関して問題になるのは、個々人のそのような信仰と行為だけであって、富・地位・権力・血縁関係などはいっさい役に立たないし、誰も他人の手助けはできない。審判の結果、ある者は天国において永遠の至福の生活を送ることになるし、他の者は地獄において永劫の罰を受ける。この来世の生活に比すれば、現世での生活はきわめて相対的でとるに足りないものでしかない。だが、来世における人間の運命は各人の現世での生き方にかかっているのである。」
(中村廣治郎『イスラム 歴史と思想』)


参考文献
上に『クルアーン』の冒頭箇所と、井筒俊彦によるその解釈を紹介したが、
普通の人が『クルアーン』を翻訳で読んでも、無味乾燥で、面白いとは思えないだろう。
アラビア語で読むと、その音楽的な響きに陶然となるのだそうだが、アラビア語で読めと言われても、無理。
そもそも教義そのものにも、ユダヤ教やキリスト教と違う独自なものがどれほどあるかと言われると、考えてしまう。
イスラム教は、むしろ、断食や礼拝やジハードなど、それを信じている人たちの生活の中に、理解する手がかりがあると思う。
(夜明け前から夜まで一日に五回の礼拝を欠かさず、ラマダン月には日中は水も食物も取らず、また食物や衣服に関しても厳しく戒律を守るといった宗教的な努力(ジハード)を日々実行していれば、行動主義の立場から考えても、自ずと神の存在が信じられるだろうし、共同体の意識も強まるだろう。そして、その共同体の中では、キリスト教社会では横行する差別や格差も、宥和される。)
伊倉ともこ『イスラームの日常生活』(岩波新書)


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