Lee Konitz / Motion (Verve MV-1082)
(2026年 追記)
これは孤高のジャズマン、リー・コニッツが残した異色の名盤である。吹込みは1961年8月29日。5年前の録音ながらコニッツのLPとしてはこれが最新作に当る。
1965年3月、チャーリー・パーカー・メモリアル・コンサートがカーネギー・ホールで催された際、コニッツは単身ステージに現われて、ジョークをはさみながら当夜のクライマックスとなった無伴奏ソロを披露した。同じく7月、ニューポートのジャズ祭に出演したコニッツは、リズム・セクションが加わるまでの間、聴衆が発する一つの音を聴きながらインプロヴィゼイションを展開するという異例の試みを行って、聴き手に深い感銘を与えたという。これらの事実を総合すれば、現在尚リー・コニッツはかつての日に示した創造性と情熱とを少しも失ってはいないように思われる。事実前記のメモリアル・コンサートの一部として録音された演奏からも、彼がデズモンド、キャノンボール、オーネット・コールマンといった現代第一線のアルト奏者達に対して、何等の遜色もない実力の持主であることが推察出来る。しかるにその偉大なるミュージシャンに永続的な仕事がなくレコーディングの機会さえ与えられないという所に、現在のアメリカに於けるジャズ・ビジネスの厳しさがある。ある意味に於いては、デヴュー当時よりひたすらに妥協を排し、コマーシャリズムに対して見事に拒絶の姿勢を貫ぬき通してきた一ミュージシャンに対して、資本主義が与えた一つの冷然たる回答であるのかもしれない。
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リー・コニッツは1927年10月13日にシカゴで生まれた。ミュージシャンとしてのスタートは、11才でクラリネットの独習をしたときに始まる。クラリネットに次いでアルトとテナーを習得した彼は、当時早くもハイティーンのプロ・ミュージシャンとして短い楽旅生活を経験している。ルーズヴェルト・カレッジで2年間を過ごした後、ジャズマンとしての彼に最大の影響を与えたレニー・トリスターノと最初の仕事をし、やがて1947年7月、クロード・ソーンヒル楽団に加わってシカゴを離れた。コニッツがジャズ演奏に残した最初の注目すべき仕事は、1948年9月、ロイヤル・ルーストに出演した伝説的なマイルス・デイヴィスの九重奏団に加わっての演奏であったが、わずか2週間の短命に終わったこのコンボの演奏をスタジオで再現したものが、今日「Birth
of the Cool」のタイトルの下に世に名高いLPである。この頃よりコニッツとトリスターノとの交流が本格的に始まっている。 レニー・トリスターノは当時最も進歩的音楽理論をもってジャズ界の一方の旗頭と して君臨した盲目のピアニストであったが、彼の周りには所謂「トリスターノ・スクール」の名で包括される幾多の若い俊才が集まって いた。曰くリー・コニッツ、ワーン・マーシュ、ジョン・ラポータ、アーノルド・フィッシュキン、ビリィ・バウアー等である。彼等はトリスターノを擁し、また自分達でレコーディング・コンボを組織し49年から50年にかけて今日なおクール・ジャズの代表的作品として残っている幾つかの急進的な輝かしい吹込みも行っている。中でも49年5月に録音された無調的対位的な作品「Intuition」は当時最も難解とされた演奏であった.しかし当然の事ながらこうした実験的な試みを行うグループにとっては、商業的な成功はあくまで無縁のものであり、51年、52年はコニッツにとって非常に苦しい年となった。
コニッツはそれまでの自己のスタイルを異った環境に同化させる事を極度に嫌い、色々なバンドからの誘いを断り続けて来たが、52年の8月、遂に経済的な圧力に屈して再編されたスタン・ケントンのバンドに加入した。これはコニッツにとっては5年 ぶりのビッグ・バンドに於ける仕事となった。ケントン・バンドに於けるコニッツは、「Lover Man」、「My Lady」Fascinating Rhythm」等にフィーチゥアされて素晴らしいソロをとっているが、ケントンのサックス・セクションで、18ヶ月吹いた結果として、コニッツのプレイにより力強さが加わった事は注目に値する。ケントンを辞した後、50年代の 半ばから60年にかけて、コニッツは自己のコンボを率い、またトリスターノとの共演の機会を持つなど、以前に変らぬユニークな活動を続けたが、自己の演奏にあくまでも完全を求めんとするコニッツの意志は、遂に自身でテープを編集して意に染まぬソロは、遠慮なく途中からカットするという非商業的なLPさえ作り出した。こうしたミュージシャンの在り方が、あくまでも娯楽としての音楽を求めんとする大衆相手のジャズ・ビジネスの世界に於いて、無抵抗に通用する訳がない。時あたかも黒人ジャズのの全盛時代が到来し、このLPを吹込んだ後コニッツはレコーディングの機会にも全く恵まれず、次第に職場も失って半ば引退同然の立場を余儀なくされたまま今日に至ったのであった。
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コニッツはかつて彼自身も語った如くレスター・ヤングの影響を強く受けている。ヴィブラートの少ないレスターの音にヒントをを得た彼はテナーに於けるスタン・ゲッツに対応してアルトに於けるクール・サウンドを創造した。同時にコニッツは、レスターのプレイを特徴づけている独自のリズム感をも体得したに違いない。即ち彼が師トリスターノより受けた最大の影響――4小節や8小節を単位としてでなく、もっとホリゾンタルに拡張された概念でソロ・コーラスの構成を考えると
いう行き方は、レスター流のリズミックな寛ぎによって、長いメロディック・ラインが引き起す絶えざる緊張感からの解放を得ているのである。コニッツに対するパーカーの影響は、だから、前二者の場合程には重要ではないと僕は考えている。
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この レコードに於ける編成は、アルト、ベース、ドラムという組合わせもさることながら、これまで同時代或いはそれに先立つ時代 のミュージシャンと共演する事の多かっ
たコニッツが、新しい世代の、それも自身とは全く異質のミュージシャンと共演したと いう点に於いて正に異色である。
ベースのソニイ・ダラス(Sony Dallas)はズート・シムズ、レニー・トリスターノ、ジョージ・ウォリントン等と仕事をした経験を持ち、ここでも基本に忠実で、それでいて柔軟性を失わない堅実なプレイを聞かせてくれる。
ドラムのエルヴィン・ジョーンズ(Elvin Jones)は、トミイ・フラナガンの名盤「Overseas」やコルトレーン・コンボに於ける素晴らしいプレイの数々によって既に十二分にお馴染みの人である。マックス・ローチが支配していたモダン・ドラミングの世界に革新的な複合リズムの感覚を持込んで新境地を開いたエルヴィンは、ジャズの歴史が生んだ数少ない真のクリエイターの一人である。
レコーディングに当たってコニッツは、初めマックス・ローチの参加を希望したと いう。しかし結果的に見てエルヴィン・ジョーンズの起用は予想以上の清新な効果をもたらした。ここでのエルヴィンのプレイはコルトレーン・コンボに於けるドラミング程熱狂的なものではない。このセッションに於ける彼は、その複雑極まりないドラム奏法によって絶えずリズミックな刺激を送りながらコニッツの持つ音楽的な特性を可能な限り引き出そうとする役割に徹しているかのように思われる。こうした
エルヴィンのドラム・ワークに鼓舞されたコニッツは、かつての彼のプレイを特徴づけていたインテレクチュアルでクールなトーンにハードな味わいを加え、珍しく低音域を使って挑戦的とでも表現したいようなドライで力強いプレイを展開している。取り上げた五曲はいずれも耳馴れたスタンダード・ナンバーであるが、あくまでも慣用的なフレーズの使用を避けたハイブロウなコニッツの解釈によって、あたかもコニッツ自身のオリジナル曲ででもあるようなフレッシュな効果に再生されている。
このレコードには手の込んだ仕掛けは何もない 従って収録された各曲の演奏について詳述する必要もまた存しない。これはかつてジャズ界の先端を行く同志達と常に実験的な作品に取組んでいた一人の偉大な
ミュージシャンが、その頑なまでの純粋性が災いして次第に職を失い、全くの一匹狼と化して異質のミュージシャンをバックにドリブ一本で勝負した凄愴なるブローイング・セッションである。デスモンドの持つリリシズムともキャノンボールの持つ野生味とも全く無縁の醒めきった世界に息づいているコニッツの乾いた叙情が圧巻である。
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かつてシャンク、ニーハウス、ペッパー、マクシック、ラポータ、デズモンドといった数多くの後進達の至高のインスピレーションとなったコニッツはこの吹込みの後でこう語っている。
"The music will speak for Itself."
”真に偉大なる創造者は饒舌ではない。何故なら彼は常にその作品を通じて彼自身を雄弁に語る事が出来るからである。”
(解説・粟村政昭)
この文章は、コニッツの現在の状況、その音楽的背景、音楽家の人生、
そしてこの録音の持つ意味などを順に説いて、
まるで一片の優れた短編小説でも読むかのような気持ちにさせてくれます。
粟村さんの書いた文章の中でも、力のこもった名文の一つでしょう。
1975年に、このレコードの再発盤が出たとき、『スイング・ジャーナル』の月評で、粟村さんはこう書いています。
「”「モーション」のライナー・ノーツは、前の日本盤についていたものの方が良かったなあ……”と思いながらフト気がついてみると、前回の執筆者はかく申す小生、今回の担当者は岩浪洋三大兄でありました。イヤこれはどうも悪い冗談だったが、サテこう書き出してみたところで、まんざら全面的に不謹慎なことを言っているとも思えないくらいに、このアルバムの日本初登場は、遠い昔のことであったような気がする。それというのも、そのころは、まだ昨今のごときレコード・ブームの到来などは、夢想だに出来なかったような恵まれない時代で、この1枚なども、当時のヴァ―ヴの担当者であった松村氏に、かなり強力に働きかけて出してもらったものであった。したがって、内容的にはこのアルバムが数枚あるヴァ―ヴのコニッツ盤中、最良のものであると筆者は信じていたわけだが、この判定は今日に至るも無論、少しも変わってはいない。(後略)」
冗談めかして書いているとはいえ、私も当時からこれには全く同感で、
野球で先発投手(例えば、キーオ)が好投しているところに監督が(例えば、吉田監督が)出てきて投手交代。で、その交代した投手が炎上して負けてしまう、などということが野球ではよくありますし、その後「なぜ変えた」とファンが(例えば、阪神ファンが)騒いだり、なんてこともありますが、まあ、そういう感じです。
その結果、「ベンチがアホやから野球がでけへん」とか言ってアメリカに帰ったり…
それに、山本の後に出てくる、スコットは、すっとこ、ドライヤーは、どないや〜、トライネンは、どないやねん、だし、どないなっとんねん!
―おじいちゃん、何を楽しそうに書いてんですか? お薬ですよ。
―オクスリィ…あの東尾監督を殴った黒人ですか?
―違いますよ。それは、オグリビィ、って、それに東尾監督を殴ったのはデービスです。あ、マイルスじゃ無い方の。
それに東尾はまだ監督じゃありません。賭け麻雀で捕まえる前の、まだケンカ投法で鳴らしていた選手時代のことです。ウィキペディア、見てください。
「1986年、6月13日の近鉄戦(西武球場)で、6回一死にリチャード・デービスに投じたインコースのシュートが、踏み込んだ近鉄のデービスの左肘に当たり、これに激高したデービスがマウンドの東尾に駆け寄り右ストレートを放ち、その後蹴りや4、5発のパンチを浴びせるなどの乱闘事件となった。デービスはこの時「コントロールのいい投手が、ああいうところに投げるのは故意としか考えられない。狙って当てたんだ」と怒鳴り散らしている。デービスは退場となり、東尾は「ここで降りたら恰好悪い」として続投し完投勝利している。なお、デービスはこれにより10日間の出場停止、罰金10万円の処分を受けている。日本ハムの監督だった高田繁は「今回だけは東尾に同情しない、今までやりたい放題だった」と述べている。一方で、阪急監督の上田利治も「ウチだってやられたらいくで」とコメントしたが、これに東尾は「頭に来た」としており、「当時の阪急は乱数表を使って死球のサインがあったし、そんなチームの監督が何を言うか」と後に述べている。直後の阪急戦では内角を攻めることを一切せず外角一本で完投勝利を収めている」
って書いてあるでしょ。爽やかな一片の短編小説みたいに…
あ、おじいちゃん、寝ないで。お薬ですから。