John Coltrane

『スイングジャーナル 1979年5月臨時増刊 ジャズ・レコード百科'79』

今なお絶大な影響力をもつテナーの巨人ジョン・コルトレーン
JOHN COLTRANE

 ジョン・コルトレーンは、1926年の9月23日にノース・カロライナ州のハムレットという土地に生まれ、67年の7月17日、40才という若さで突然世を去った。肝臓癌という病気にあり勝ちな「気づいた時にはすでに手遅れ」という経過であったためか、この悲報を予知していた人はまったくなく、それだけにファンの胸中には、最後の瞬間まで吹き続けて倒れたコルトレーン――というイメージが強く残った。この種のライフ・ストーリーには、大仰な形容がつきものだが、この場合、文字通り壮烈な一生であったという感懐に眉をひそめる人は誰もあるまい。
 ジョン・コルトレーンというテナー・マンの存在が、ジャズ・ファンのあいだで次第に動かし難いものとなってきたのは、彼がマイルス・デイビスの新しいクインテットに加わって1年ほど経った56年の秋ごろからではなかったかと思う。それより先、彼がはじめてグループの一員となった当時は、ゴードンやステット、ロリンズらのテナー・スタイルを中途半端に折衷したようなこの新人に対する風当たりはきわめて強く、もっと以前のガレスピーやホッジス時代のプレイに至っては、それを記憶している人さえほとんどなかった。それだけに、彼が50年代の中期以降、またたくうちに後輩であると同時に力量の点では彼をリードしていたロリンズと肩を並べ(ロリンズはコルトレーンより3才下であった)、以後60年代の半ばを過ぎるまで、一時の弛みも自家撞着もなしに変貌と前進を求め続けた姿には、あたかも50年代初めの低迷を振り切るべく奔放にすべてを忘れた人のような鬼気が漂っていた。
 コルトレーンがジャズの世界に持ち込んできた――と言うよりも、彼自身を確立することになった最初の試みは、「シーツ・オブ・サウンド」という言葉で呼ばれるようになった、激しく揺れながら長く線状に伸びていく特異なフレージングであったが、16分音符を基調とするこのアド・リブ・フレーズが意味するところは、とりもなおさずビートの細分化という、バップ以来の革命的なコンセプションであった。トレーンのシーツ・オブ・サウンドが誰の耳にも尋常ならざるものとして聞こえるようになったのは、彼がいったんマイルスの許を離れてモンクと共演することになった57年の夏ごろからではなかったかと思うが、「ブルー・トレイン」から「ジャイアント・ステップス」に至るこの期の作品に注意深く耳を傾けるなら、当時のコルトレーンが、いかに他を絶したユニークなテナー・スタイリストであったかがわかるはずである。
 一方58年のはじめ以来、ふたたびコルトレーンを傘下に収めるようになったマイルス・デイビスは、「マイルストーンズ」で手をつけた試みをさらに発展させて、全編をモーダル・インプロビゼーションで統一した画期的な名作「カインド・オブ・ブルー」を吹込んだが、この当時モンクとの共演を通じて、従来のコード進行に基づくアド・リブを極限まで究めていた感のあったコルトレーンは、直ちにこのマイルスの啓示を受けいれ、60年の4月に自身のコンボをスタートさせて以来、一意枯葉を巻くが如き勢いで未踏の境地を突き進んでいった。シーツ・オブ・サウンドの完成を以てトレーンの最初の完成とするならば、このモード手法への開眼によって、明らかに彼は第二の飛躍を遂げたものと考えることが出来よう。
 新しいコルトレーンの時代は、60年の10月に吹込まれた「マイ・フェイバリット・シングス」の成功によって幕を開けた。ここでコルトレーンは、ソプラノ・サックスという長いあいだ人々に忘れられていた楽器をとり上げ、執拗に反復されるメロディーの中から、それまでのジャズには聴かれることのなかったインドやアラビアの音楽に通ずる不思議な音列の世界を創り出したが、そうした作品自体の内容にもまして強調さるべき事実は、この日のセッションにおいて、はじめてコルトレーンがエルビン・ジョーンズという理想のドラマーにめぐりあったということであり、同時にそれまでのジャズ・インプロビゼーションの常識を完全に覆すような、異常に長いソロ・コーラスへの挑戦がはじまったということであった。エルビンとコルトレーンの結びつきは、50年代の中期以来トレーンが吹き続けてきた16分音符を基調とする奔流のようなフレーズを、単なる音の羅列に終わらせない上でも不可分のものとなったが、同時にトレーンが早くより抱いていた刺戟的な複合リズムに対する関心を、奇跡的にも一人のドラマーによって満たした――少なくとも、ある長い期間――という意味で、二重に重要な価値を持つものであった。この明快な事実に比較すると、聴き手をくたびれさせるほどの長いソロ・コーラスが、ソロイストの自己表現の手段として必要あるいは適切かという点で、60年代以降のトレーンの演奏は常に茫漠たる議論の的となったが、少なくともそうした常軌を超えたインプロビゼーションが可能であることを実証しただけで、すでにジャズ界に与えた衝撃は十分に大きかったのではないか。
 「至上の愛」(64年12月)以降に吹込まれたコルトレーンの作品は、次第に彼自身の信仰なり思想なりを抜きにして語るのが不似合いになっていったが、一時的に無調の世界に踏み込んだ「アセンション」や、実演の場でくり返し演奏されたコルトレーン・スタンダードのいくつかを除けば、これらのアルバムを演奏者自身と同じ視点、同じ次元に立って理解し、あるいは信念を以て語ることの出来た人は、いまから振り返ってもほとんどなかったように思う。その意味で、死の数年前のコルトレーンは、すでにジャズ界に対する影響云々とは無縁の境地まで遠く突き抜けていたのではなかったろうか。

校注)「レコード進行」→「コード進行」


→John Coltrane / Coltrane (Prestige)

→粟村政昭
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