つれづれらたたむ(20) 古典は外国文化である 10/18
今日、生まれて初めて能を見ました。国立能楽堂で。例によってこれもSさんのお誘いで、僕はいつもこの方から豊かな文化を享受させていただいています。僕みたいな貧乏人が普通に行けるわけありませんから。
演目は「姥捨(おばすて)」。狂言は「鐘の音(かねのね)」野村万斎がどちらにも出演していました。役者で僕が知っているのはこの人だけ。能が1回見ただけで判るわけないのは承知していましたが、ほんっと(「ほんと」の強調形)に判りませんでした。カルチャーショックです。後半では謡がいい子守歌になってました。
つくづく思いましたよ、同じ日本と言っても、古典はほとんど外国文化なのです。言葉もそうだし、音楽も舞も。伝統的な日本文化が西洋文化とどれほど異なるものであるかを、まざまざと見せられた思いです。特にアメリカ文化とは対極にあると言っていい。それはそのまま世界観の違いなわけです。
もちろん、日本に生まれ育っていれば、全く異質というわけではありません。あの笛や太鼓の音をぼくたちは必ずどこかで聞いているのだし、能面もあの能独特の仕草も、テレビや本などで一度は目にしています。意識の表に昇らなくても、ぼくたちのDNAには能文化が間違いなく記憶されているのです。しかし、今日みたいに、2時間に渡って能の世界にどっぷりと浸ると、ぼくたちの日常生活とはあまりにかけ離れた時間と空気がそこに流れていることを思い知らされ、ぼくなんかはちょっと耐えられなくなってしまうのです。たとえて言えば、マラソンに興味を持って走ってみたけれど、1km走っただけでもう息切れしてしまうようなものです。
しかし、あの囃子を聞いていて思いました。能は元来神社の境内など野外で上演されていたわけですよね。今でも薪能という野外公演があるし。あの囃子の音色やリズムは山や川や海と共鳴するものだろうと、聴いていて感じました。自然を背景にしたときにこそ、聴衆の心により深く届くんじゃないか。能楽堂とはいえ、閉じられた空間では、囃子の良さが半減とまでは行かなくても、いくらかは減じてしまうだろうなあと思いました。
いやそれだけでなく、こう言うのを本当に判るためには、生活そのものに能の時代と共通した部分をどこかに持っている必要があるんじゃないでしょうか。現代の、特に都会であわただしく日々を過ごしている人間が、能を鑑賞するのは至難の業ではないか。そんな風にも思ったのです。
僕が能を判るようになるのはあと20年くらい先かも知れません。まあ、それでもいい。カルチャーショックだった今日の体験をとっかかりに、ちょっと勉強していきましょう。
つれづれらたたむ(19) 正しく上手に怒りたい
7/8
先日、ある集まりで腹の立つことがあって、つい怒ってしまったのだけど、怒った自分に対する後味の悪さをずっと引きずりました。怒りのやっかいさは、こういう後味の悪さも関係しているようです。
4年前、ぼくは当サイトで、アリストテレスの次のような言葉を紹介しました。「誰でも怒ることはできる。それはたやすい。しかし適切な相手に、適切な程度、適切な時、適切な目的、適切な方法で怒る─これは易しくない。」この言葉はいつも心に引っかかっているのですが、それはぼくにはこれがなかなか実行できないでいるからです。
辛淑玉(しん・すご)さんの『怒りの方法』(岩波新書)という面白い本があります。その中で辛さんはこう言っています。「感情表現は、人間性回復の第一歩でもあると私は思う。怒りは、誰もが持つ心の動きだ。しかし、それを他者に対してきちんと表現できるかどうかは、また別の問題だ。」
まさにそのとおりです。喜怒哀楽の感情の中で表現が最も難しいのが「怒り」でしょう。そして正しく怒ることができるようになるには相当の時間がかかる。いや、むしろ身につけることなく一生を終えるのがほとんどではないでしょうか。
先日、テレビで意外なデータが紹介されました。朝日新聞の記事からの引用でしたが、生物学的には、怒りを抑制できるのは30歳くらいがピークだと言うのです。
えっ、ほんとうにそうか? 自分を顧みてもまわりを見回しても、にわかには信じがたい話。30歳前後の人たちが最も穏やかな年齢層とは思えない。その学説と実際のギャップはどこから来るのか。たぶん人間は、生物学的な要因だけでなく社会的な訓練も経て、怒りを制御できるようになると言うことなのだと思います。
ところが、今は社会がいびつになっていて、その訓練をする機会がどんどん失われているのです。怒りたくなる場面は増えているけれど、家庭や地域といった共同体、広くは社会全体が怒りを受け止める余裕を失い、私たちは内なる野獣を飼い慣らす機会も方法も見出せずにいます。成熟する機会を持てずに歳だけ食っていく、それが私たちの現状です。
ここでふとぼくは、気づきました。「怒り」は「性」に似ている。人間の本性にかかわるものでありながら、まことに扱いにくい、コントロールしづらいという点で。
そう考えれば、インターネット上をはじめ、世の中に安易でゆがんだ「怒り」が「性」と同じくらい溢れている理由もわかります。テレビではキレるのを売り物にしている芸人がたくさんいて、無反省無思慮に怒りを垂れ流しているし、安っぽいドラマでは、登場人物がやたら怒鳴り合ったり殴り合ったりしています。人間の深い部分にある欲望をくすぐることで簡単に視聴率を稼げるからでしょう。最近、年齢や社会的地位にかかわりなく性犯罪や凶悪殺人事件が歩調を合わせて増加しているのは、「怒り」と「性」が似たもの同士で、どちらも社会的に崩れてきていることの証明ではないでしょうか(こんなこと、どこかで誰かがとっくに指摘してるような気もする)。
凶悪事件の話を始めると、今度は「怒り」と「暴力」の関係も考察する必要が出てきそうですが、それはまた機会を改めて試みましょう。
一方で、怒ることはとにかく良くないことだと説く人たちもいます。誰かがちょっとでも怒ろうものなら、経緯や内容はどうあれ、とにかく×。柔和なことだけを善とする。でも実は、そう主張する人たちの深層心理には、この問題に真剣に取り組むのはやっかいで面倒だから、ひとまとめにタブー視して、考えずに済ませたいという気持が働いているのではないでしょうか。なるべく見ないことにする、あるいは、そう言うものは人間にもともとあってはならないものだと決めつける。その方がラクだし善人のフリをしていられますからね。その点でもやっぱり「性」と似ています(まったく同じとは言わないけれど)。
でも怒りを無理に抑えて表面を取り繕うことが決して健全でないことは、人間の心をていねいに観察すればわかります。そんな無理をしていると、必ず心や体にひずみが生じます。健全に生きるために、野放しにもしないし抑圧もしない適切な怒り方を、少しでも身につけたいと思うのです(無理無理と、家族に言われそう)。
つれづれらたたむ(18) インターネットという闖入者
2/1/08
今日、息子が通う中学校で「携帯電話・インターネットの正しい使い方」という講演があり、聴きに行きました。講師は情報教育アドバイザーの遠藤美希さんという方。有意義なお話でした。前半1時間が生徒と保護者向け、後半1時間が保護者向け。
今や中高生にも当たり前となってしまったインターネットですが、当然それに伴うトラブルや犯罪も山のようにあって、それらからどんなふうに身を守るかがどの家庭でも大きな課題になっています。明らかに有害とわかるサイトよりも、むしろオンラインゲームやブログ、プロフ、コミュニティー、掲示板などの、いわゆるグレーサイトからの方が、犯罪やトラブルに巻き込まれていく確率が高いそうです。
前半の講演では生徒たちの私語の多さが気になりました。まあ、それなりに聞いてはいたようですが、でもどこまで自分たちの問題としてとらえていたんでしょうね。
保護者向けの話では、今の中学生はこんなサイトを普通に見ている、あるいはこんなことをやっているということで、普通のサイトからいかにやすやすと危ないサイトに入れるか、また犯罪につながっていくかが紹介されました。その垣根の低さというか、むしろ垣根などまったくない、と言う現実が衝撃でした。ケータイやパソコンから広がるエロ、グロ、殺人、なんでもありのバーチャルワールド。
インターネットは社会のあり方を全く変えてしまいました。ぼくも10年以上前にやり始めて、今やこれなしでは仕事もできないし、日常生活が送れなくなっていることも事実です。便利であることは疑いようがないのだけれど、ぼくがここ数年感じているのは、「便利」という概念を100%肯定的にしか受け取らない姿勢を私たちはもっと疑うべきじゃないか、と言うことです。「便利」はほんとうは怖くて、時に人間を破壊するのだと言うことをもっと肝に銘じておいた方がいいのではないか。
便利さと危険性を併せ持つインターネットをどう使いこなすか、そこから生じる問題にどう対処するかが求められるわけですが、なんてしんどい時代なんだろうと思ってしまいます。昔だったら考えなくて良かったことに頭を悩ませなくてはいけないのです。そうすることが、おとなはもちろん、子どもたちにとっていったいどれくらい精神的負担になっているのだろう。私たちは日常的に絶えず多くの選択肢を目の前に突きつけられていて(それは決していいものばかりではなく)、ひとつひとつに判断を下しながら次の行動に出なければいけないのです。そこに費やすエネルギーは並大抵ではないでしょう。
例えば手紙しか通信手段がない昔だったら、明日にならなければ誰かに連絡を取ることができないというようなことが否応なくあり、そう言うものとして現実を受け入れ、待つことができたけれど、現代は意識して「待つ」ことを決断する必要がある。もちろんビジネスの世界では「そんな悠長なことを言ってられるか」と言って24時間動き続けているのだろうけれど、そんな生き方が社会にさまざまなひずみを生じさせてきたことは間違いありません。
もちろん昔は昔のしんどさがあったし、ぼくはノスタルジックに美しく昔を語るのはやめた方がいいと思っています。ただ、この頃はっきりと感じるのは、私たちは便利さを手に入れたとき、それと引き替えに別の良いものを必ず失っていると言うことです。現代は決して文句なしに昔より言い時代だ、とは言えない。そして多くの人たちは恐ろしいくらい、そのことに無自覚なのです。気がついたときには取り返しがつかない事態になっていることが、環境問題をはじめ、いくらでもあります。
インターネットは私たちの生活に入り込んできた、善人の顔も悪人の顔も持つ、とんでもない、どうしようもない闖入者・同居人なのです。今さら家から追い出すこともできないのなら、しんどさを覚悟して、なだめすかして何とかいい仲間にしていくという努力をしていかなければいけないでしょう。大げさに言えば、それは私たちが生き延びるための道です。
つれづれらたたむ(17) 読書雑記4
10/5
1年ぶりに読書雑記を。最近読んだ本、今読んでいる本について、ショートコメント。
『生物と無生物のあいだ』福岡伸一/著、講談社現代新書、2007
一般向けに書かれてい科学読み物でも科学的記述には難しいところがあり、そこで躓いてしまうことがあります。いくらかの忍耐が必要です。僕が苦手なだけか。本書は、科学の面白さを伝える本の一つではあるけれど、読者におもねるような薄味の雑談に落ちてしまっていないところがいい。帯に「科学ミステリー」と書かれていますが、確かにミステリーを読むような刺激に満ちています。単なる科学解説ではなく、DNAの発見やそれ以後の研究をめぐる科学者同士の熾烈な競争・駆け引きが見事な筆致で記されていて、小説を読むみたいに面白い。
生命とは何か?の科学的定義なんて、専門家以外は日ごろめったに考えません。この本の最初の所で筆者は「自己複製を行うシステムである」という一つの定義を示してくれるのですが、これがそう単純ではない。突っ込み始めるといろんな問題があり、いろんな発見があり、本書を読んでいるといちいち驚いてしまうのです。著者の筆力のおかげもあって、科学はある種、文学でもあり哲学でもあるのだと、感動するのでした。
さて、生命とは何か?これについての結論は本書をお読みください。ミステリーですから、ここでネタばらしをやっては面白くありません。
『人間を守る読書』四方田犬彦/著、文春新書、2007
この本は、新聞広告でタイトルを見て、これを買わなきゃ何を買うんだ!と叫んで、さっそくその日に買ってしまったものです。書店で最初のページを読んだら、もうこれは僕のための本だ、と思いましたよ。前書きにかえて、という題でQ&A形式で書かれています。ちょっと引用しますね。
――表題の「人間を守る読書」とはどういう意味ですか
これは批評家ジョージ・スタイナーが『言語と沈黙』 (せりか書房)のなかで唱えて
いた言葉です。
彼はオーストリア系ユダヤ人としてパリに生まれたのですが、ナチスの迫害を恐れ、ニューヨークに逃れました。少年期にナチスの組織的な暴力を身近に感じたことから、「人間というのはもはや守られなくなってしまった存在である。われわれは生きているのではなくて生き残っているにすぎないんだ」と言う認識を持つにいたり、「だからこそ、そういう野蛮な時代には読書が人間を守る側に立たなければ行けない。野蛮で暴力的ではない側に人間を置くために必要なんだ」と唱えたわけです。(後略)。
……と、こういう前書きです。ぼくも歳を重ねるにつれ、「生き延びるために読書は絶対不可欠のものだ」と思うようになってきています。世の中の世知辛さにへこたれないために、本はたくさん読んだ方がいい。僕自身は若いころも今も、読書量の少なさをただ恥じるのみですが、自分なりに読み続けていきたいという志は持ち続けています。
さて、この本はまだ読み始めたばかりなのですが、著者は全部で155冊の本を紹介しています。それがまた面白そうなものばかりで、またMust Itemが増えたと喜んだりしています。増えるばかりで読み終えていないのが情けないけれど。著者の解説がまた面白くて、読み始めたらやめられません。これはいい本に出会ったなあ、なんてすごく楽しい思いで、読んでいるところです。いずれ、「この本が面白い」で紹介します。
『本の運命』井上ひさし/著、文芸春秋、1994
ぼくの尊敬する井上ひさしさんの読書論。文庫にもなっているのですが、ぼくは図書館で単行本を借りてきました。講演記録なので読みやすい。大読書家の井上ひさしさんが語るから、内容が桁違い。一時期所有していた本が13万冊、というだけで驚いてしまうのですが、子供時代の読書経験などを聞くと、読むことへの執念が伝わってきますね。そして読書がどれくらい楽しいかを余すところなく教えてくれるのです。
とくに「井上流本の読み方十箇条」は実に参考になります。本好きになるとこんな風に読むんだ、と感嘆しながら、しっかり抜き書きしておきました。この「抜き書きをする」という作業が、十箇条の3番目に挙げられているものですが、ぼくはここ数年実行しています。
しかしぼくはまだまだ、ど素人の読み方しかしていないと、痛感しました。
ときどき当サイトで申し上げるのですが、井上さんはぼくの出身学科で最も有名な偉大なOBです。講演では、大学入学当時のことも語っていますが、すぐに大学がいやになってしまったそうで、そのへんのいきさつも読んでいて面白かったですね。井上さんを入学させたおかげで、後に大学にとってはすばらしいPRになったのだから、ラッキーでした。
つれづれらたたむ(16) 血液型と性格 6/30
先日、スポーツニュースでメジャーリーグ松坂とイチローの対決を報じていました。その中でアメリカのリポーターが「日本人は血液型が性格を表すと考えているようです。それに習えば、松坂はO型で戦士、イチローはB型でハンターだそうです」と言ってたとか。
血液型性格判断が流行っているのはどうやら日本(と韓国)だけのようで、他の国からは、非科学的な、と一笑に付されるようですが、科学者の間でも諸説があって結論が出ているわけではない。脳科学者の池谷裕二さんは、「血液型が違うというのはDNAが違っていて、つまり血流などが違っているのだから、体質が異なると言うことはあり得る」とおっしゃっています(性格のことは言及していません)。
ぼくはどうかというと、結構昔から血液型と性格の関連には興味を持っていて、ある程度の蓋然性はあるなあと思っているのです。しかし、巷に流布する血液型性格判断の最大の落とし穴は、人間を4タイプに単純化して決めつけて満足してしまう点です。他の思考停止同様、そういう態度は困ったものです。血液型を扱う番組がテレビから消えたのはそう言う理由もあったわけです(テレビのバラエティー番組というのは百害あって一利なし)。
特にB型の人が変人扱いされて気の毒です。血液型性格判断はB型の悪口を言うために用意されているようなところさえある。一口に「わがまま」と言ったって、それはB型の人だけじゃなく、すべての人にあり得るし、ひとつの血液型の中でもかなりのバリエーションがあります。固定観念的な血液型分類に寄りかかって人柄を判断するようになったらおしまいですね。「A型だから几帳面」の一言では何の説明にもならない。
ぼくの場合、どんな見方をするかというと、自分がAだから、人の言動を見ていて、思考パターンがAのようだ、あるいは少なくともこれはA型じゃないなという感覚で人を観察しています。たとえばずっと前に、イチローや野茂は違っていると感じました(理由は説明しにくい)。もしかしてBかなと推測していたら、後にそうとわかって、やっぱりな、と思いました。城島選手などはOのような感じがしますが(※後日調べてみたら、なんと!A型だということがわかりました。やっぱり血液型は当てにならないということだなあ……)。作家で言えば、漱石や大江健三郎さんはAだと思いますが、もし違っていたらちょっと驚き。
芸術などにも同じようなことを感じます。芸術系はBが多いようだけど、見ていて、こういう絵の描き方はおそらくAではないだろうと思える画家やイラストレーターがいる。長新太さんやあべ弘士さんはAではないでしょう。ああいう奔放な色彩やタッチ。推測ですが、14匹のねずみの絵本を描いているいわむらかずおさんはAの感じがします。
今までに血液型で一番驚いたのは、手塚治虫先生がAだったということ。生前自分でもBだとおっしゃっていたそうですが、晩年、入院していたときにAと判明したそうです。え、ほんと?というびっくり仰天の情報でした(もしかして、誤報だったりして)。
ただABだけは昔から当てづらい。うちの家族はAとABが2人ずつなんだけど、いまだにわからないところがあります。友達や知り合いと話をしていて、その人がAB
とわかると、とても意外な・不思議な感じがするのです。それくらい特定しにくい。
じゃあ、要するに血液型なんて当てにならないんじゃないか、と言われそうで、んー、確かにそうです。まあ、血液型の話題は結局のところ、肩の凝らない雑談のネタというだけのことです。そんなふうに適当にごまかして、はいおしまい。
つれづれらたたむ(15) それでもボクはやってない 2/13
重い映画を見ました。「それでもボクはやってない」。「Shall We ダンス?」でぼくも大好きな周防正行監督の11年ぶりの新作です。重いけど、これも必見ですね。見終わって、いろんなことを考えさせられました。日本の裁判がどういうものか、その一端を見せてくれるリアルな映画です。
どこがリアルかというと、設定から脚本、配役、演出、演技、すべてです。 アメリカ映画によくあるようなヒーローは一人も出てきません。日本という国の、わたしたちのすぐ隣で今日も起きている、日本人のドラマです。痴漢の冤罪に巻き込まれた青年を主人公にした話で、数年前にあった実話が元になっていて、ぼくもその事件と裁判の行方は新聞で少し知っていました。脚本が実に良くできていて、綿密な取材をもとにしていることが伝わってきます。しかも決して説明的にならず、どの登場人物も存在感をもって描かれています。
この作品では警察や検察はほとんど悪として描かれており、そちらの関係者はこれを見て、ちょっと腹が立つかも知れません。ある意味、国家権力を敵に回すと怖いだろうなと思うけれど、今の日本では少し前に比べて権力におもねる人たちがますます増えていて、表現の自由というと、紅白で裸踊りをやったアホな芸人が偉そうに息巻くレベルにまで落ちてしまっているのが現状ですから、その点でぼくは周防さんの勇気をたたえます。
見ていて、さらに怖いと思ったのは、裁判官だって現実には公平中立であることが難しいと言うことです。わたしたちが三権分立を習うのは中学3年ですよね(注:言葉だけなら小学6年で習うらしい。子どもたちが言っていました)。そんな年頃に、この言葉を聞いても右の耳から左の耳へと流れて行くだけです。なぜ三権分立でなくてはいけないのか、司法の独立という意味の大切さをわたしたちは大人になって少しわかるのですが、理屈でわかったとしても、日本ではその理想と現実のギャップがいかに大きいかを、この映画で思い知らされます。
ネタバレになっちゃうかもしれませんが(でも判決が有罪か無罪かがこのドラマのポイントではないから構わないでしょう)、最後まで救いはありません。観客は、映画の物語が終わったところからもう一度勇気を振り絞り、希望を絞り出して、やって行くしかないという、何とも何とも重苦しい気分に満たされてしまうのです。でも、これはやっぱり見て良かったと思える傑作です。それはおそらく脚本・監督をした周防さんの真摯な態度が作品全体から伝わってくるからだと思います。現実はこんなに過酷なんだと告発しつつ、でもあきらめずに闘っていこうという気持を起こさせます。
裁判員制度が数年後に実施されるようですが、この映画を見ちゃうと、ちょっとやりたくないなという気持が強くなりますね。人を裁くことの危うさ・怖さを痛いほど感じます。プロの世界でこんなずさんな状態だったら、まして素人が参加したらいったいどうなると言うんだろう。最高裁は何とか強引に実施したいみたいだけれど、裁判のことを国民にじっくり考えさせる映画がいいタイミングで作られたものだと感謝します。
封切りの数週間前にNHK「スタジオパークでこんにちは」に周防さんがゲスト出演しました。その中で、インタビュアーの有働アナウンサーが作品のタイトルを「それでもぼくはやっていない」と言ったら、周防さんは「「やっていない」ではなく、「やってない」です」と訂正を入れていました。クリエイターらしいこだわりが印象に残ったのですが、きょう映画を見て、このタイトルの表記に込めた監督の思いが理解できました。
つれづれらたたむ(14) 父親たちの星条旗 1/4
おとといしっかり見ました。「硫黄島からの手紙」で06年を締めくくって、「父親たちの星条旗」で07年の幕を開けたというのは、すごくいい年の越し方と言う気がします。
この二つは独立した別々のお話なので、どちらから先に見ても大丈夫。でも見るのならぜひ両方見ることをおすすめします。共通点は硫黄島での戦いをめぐる話という点。「アメリカと日本の二つの視点」というふうに言われていますが、一つの戦いを裏と表から描いているというものではありません。
まあ、ここで作品について真正面から解説をしていくと長くなるので、ちょっとずれた部分でぼくが感じたことを書きます。
「父親たちの〜」には存在感のある日本人が出てこなくて、「助けて」とか「ううっ!」程度のセリフを吐いて死んでいく、ただの不気味で野蛮な敵がいるだけです。この作品に限って言えば、テーマは、アメリカにとってこの戦争は何だったのか、一枚の写真はどんな意味を持っていたのか、というもので、徹頭徹尾アメリカ内部のお話です。しかし、両方の映画には交差する部分がいくつか見えて、ああ、このシーンはもう一つの作品ではあんな風に展開されているんだ、と立体的なイメージをつかむことができます。さらにそこから、時代や国を超えた戦争についてのメッセージを読みとることができるのです。
さて、よく、アフリカなどの動物の生活を記録したドキュメンタリーがありますね。その中で例えばウサギか鹿の家族が主人公になっていて、ライオンに襲われそうなシーンが出てくると、見ているわたしたちはウサギたちに何とか助かってほしいと思います。首尾よく逃げおおせると、ああよかった、と安心する。ところが別のドキュメンタリーでは、ライオンの親子が主人公になっていて、何日も狩りを続けるけれどなかなか餌が採れないというお話だとしましょう。子ライオンたちがだんだん力を失ってくる。子どもたちのために必死に狩りを続ける母ライオンの姿がずっと描かれていると、今度はそちらの方に感情移入をして、何とか狩りに成功してほしいと思うようになる。そしてウサギか鹿をしとめたときに、ああよかった、と嬉しくなるわけです。
作品の視点の違い一つで、そんな矛盾する感情がわたしたちの中にわき起こるのだと言うことを、イーストウッド監督の二つの作品は、気づかせてくれます。もちろんここで動物ドキュメンタリーの喩えは、単にどちらかに肩入れしたくなる感情を持つ、ということの比喩に過ぎないわけで、戦争全体を動物の生存競争の比喩で語っているわけではありません。そんなことすると、別の部分で誤解が生じてしまいますからね。
とにかく、そんな見方をさせてくれる映画というのも今までなかったので、その意味でも貴重な価値を持っていると、ぼくは思ったのです。
つれづれらたたむ(13) 年賀状とヤラセ文化 1/1/07
年末、28日に仕事が片づいて、さあ年賀状を作るぞと思ったものの、アイデアが何一つ思い浮かんでいませんでした。何もできずに年を越す羽目になったらどうしよう、と心配になってきました。年賀状はオリジナルでありたいから、市販のものを使っちゃ意味がありません。しかし何でもそうだけど、アイデアが浮かぶまでって、ものすごく苦しい。ジリジリと時間だけが経っていく。掃除やら何やら、他にもやることはいっぱいあるし。
それでも火事場の馬鹿力か何かのおかげで突然アイデアが閃いて、そうなれば比較的手順が見えて時間が読めてくる。何とかできあがり、大晦日にようやく投函できました。
さて、今年も作りながら、年賀状に関する素朴な疑問を思いめぐらしていました。
最大の疑問は、まだ年が明けていないのに「去年はお世話になりました。今年も……」と書くことへの、居心地の悪さ。まるで雑誌の新年号や録画の正月番組ですよね。晴れ着を着ていかにも正月ふうの台詞を言っているけど、そこにはかなりの虚構というか演技が含まれています。実感で行われている行事ではない。
あ、そうか。これはヤラセなんだ。ヤラセ――この言葉が思い浮かんで、ふと謎が解けたような気がしました。テレビや新聞などマスメディアは良くも悪くもヤラセの要素なくしては成り立たないものだけれど(どこかの新書でこの問題を扱った本があります)、マスメディアだけでなく、意外なことに年賀状という慣習で日本人全体が広く、また無意識にヤラセ文化を支えているんじゃないか、と思ったりします。いや、年賀状だけじゃなく、他にも探せば無意識のヤラセはいろいろありそうだ。だとすれば、自民党のタウンミーティングやらせ問題も、案外誰もが許容しているのかも知れません。
年賀状とクリスマスカードを比べたとき、クリスマスカードの方が自然な生活感覚に沿っています。キリスト教文化圏では11月末頃からアドベントに入り、人々はクリスマスを待ち望みながら約1か月の期間を過ごします。クリスマスカードはその気分の中で書かれるものだから、その中の言葉は時季はずれではありません。
また、カードはアドヴェントの期間内ならいつ届いても構いません。12月25日当日である必要はないのです。これは非常に気が楽です。一方の年賀状は、正月三が日に届くことが原則になっています。そのあとだと、一応許されるとしても、いかにも「遅れました」という印象を与える。逆に年末に届いたりするとそれはいかにも時季はずれ。とすれば、わずか3日間をめがけてわたしたちはシビアな日程と戦い、その正月気分のために、ヤラセを行っているわけです。ハワイにいるわけでもないのに、ハワイから手紙を出しているように作るようなものですね。
その点、暑中見舞いはこれらの問題を最初からクリアしていますね。書いているときも一応暑いだろうから言葉にウソはないし、届ける日も年賀状よりは長い一定の幅があるわけですから。
しかも年賀状の場合、郵便局は「12月25日までに投函しましょう」と脅迫的CMを流し続けます。まったく日本人てやつはあと何日っていうプレッシャーがことのほか好きなのですね。ますます気が焦って年賀状制作を義務的に遂行しなくてはいけない気分になる。これがまた快感だったりするのでしょう。さらに、才能もないくせになまじイラストレーターなんて名乗ってるぼくなどは、いついつまでにと言われると、まるで仕事の締切のような感覚に襲われるのですよ。見切り発車で適当なのを作ったりすると、あとになって、ぼくってやっぱりこの程度のものしか作れないのかよ、と気分がどっと落ち込むし。
でもまあ、こんなことを言っときながら、できあがったときにはそれなりの満足感があります。人から年賀状をもらうのは嬉しいものだし。だからぼくは決して虚礼廃止、などと全面的に否定はしませんが、変なことは変なのです。どこか変だなと思いながら、今年もヤラセ文化を支えたのでした。
でもね、一言付け加えておくと、同じヤラセでも、表にも裏にも手書きが全くない印刷だけの年賀状はやめてほしいな。それは自民党から与えられたセリフをTMで棒読みしてるみたいなもので、本当に虚礼ですよ。少しでも心のこもったヤラセにしましょう。
よもやま つれづれらたたむ1 つれづれらたたむ2
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