つれづれらたたむ(12)  硫黄島からの手紙  12/29
 
見に行きました。ほんとうは「父親たちの星条旗」から見たかったのですが、仕事の都合でこんな順番に。
 これは、ぼくが今年見た映画のベストワンです。って、他には「ダヴィンチ・コード」しか見てないんだけど。……ジョークはおいといて、とにかくThis is a must. すべての世代にぜひ見てほしい映画。特に日本人なら、硫黄島の戦いとは何だったのか、いま自分たちがこうして生きていることはどういうことなのか、を知る意味でも重要な作品だと思います。ぼくもこの映画がきっかけで、はじめて硫黄島関連の歴史を(ほんの少し)勉強しました。組織の人間関係の難しさはいつの時代も変わらぬやっかいなテーマなんだと改めて思い知らされたりもします(戦時中の過酷さは今とは比較にならないものでしょうが)。
 ぼくが何より素晴らしいと思ったのは、イースト
ウッド監督の抑制の利いた演出です。語り口が淡々としていて、安っぽい押しつけのお涙頂戴物にしていないのです。それは音楽にも現れていて、決してメロドラマに流れない音楽づくりをしています。そこが何よりいい。シリアスなテーマを扱う日本人の歴史映画は、どこか変な風にエモーショナルに走ってしまい、日本人独特の思い入れたっぷりのものなってしまうんですよね。でも、ここでふと思い出しました。「父と暮せば」はある部分非常にエモーショナルなのだけれど、本物の感動があります。
 しかし考えてみれば、日本人だけでなく、同じアメリカ人でも、たとえばスピルバーグの映画は(プライベートライアンなど)演出過剰な傾向があって、最後には結構通俗的な感動で終わらせることもしばしば。その点でもイーストウッドの演出力は見事といえます。
 それから彼は、日本とアメリカのどちらの立場にも肩入れしていません。ニュートラルな視点から、長所と短所も併せ持ったリアルな人間たちを描き出しています。アメリカにも日本にも高潔な人間はいるし、ずるい奴もいるのです。そしてそれぞれに生身の人間として人生を抱えている。
硫黄島からの手紙とは、つまり兵士から家族に宛てられた手紙なのですが、話の中にはアメリカ人の兵士が持っていた母親からの手紙も出てきます。アメリカ人も日本人も同じ人間であることがしっかりと描かれているのです。
 
事前に読んだいくつかの記事では、なぜこのような映画が今まで日本人の手によって作られなかったのか、という意見が複数の人から出ていました。確かにそうですね。と言うより、アメリカですらこんな映画が作られたと言うことはある意味、奇跡に近いのかも知れません。それはアメリカとか日本とか言うことではなく、クリント・イーストウッドという一個の驚くような才能が生み出した傑作と言うことなのでしょう。
 
これを見たあとぼくは、もう一つの、アメリカの視点から描かれた「父親たちの星条旗」を見ないわけにはいかないと思いました。幸いまだいくつかの映画館で上映しているようなので、正月に何としてでも見るつもりです。

つれづれらたたむ(11)  疲労回復(読書雑記4)  12/10
 仕事が続
いた時の疲労回復の方法は人によっていろいろあると思いますが、ぼくの場合は読書。別に気取って言ってるのではありません。どうせもともとそんなに本を読んできた方ではないから自慢にもならない。そんなことはどうでもいいとして、凝り固まった頭を本がスッキリさせてくれるのは事実です。しばらく本を読んでいないと、禁断症状のような、のどの渇きのようなものを覚えるのです。
 前置きはそれくらいにして、今日同時に読み終えた本が、前にもちょっと取り上げたことのある保坂和志という作家の『季節の記憶』と、豊島ミホの『夜の朝顔』。どちらも、小説というのはこういうものなのだよ、と読書の楽しみを教えてくれる作品でした。
 『季節の記憶』については後日話しましょう(と、こういうことばかり言っていて、結局何もしないで終わってしまう)。前にも言ったように、この作者とはどこか言葉が通じるところがあると感じるから、つい話が長くなりそうなのです。
 『夜の朝顔』は、自分にとっては意外な感動を与えてくれる掘り出し物でした。作者はまだ若く、内容は作者の分身であろう少女の小学1年から6年までのエピソード
を描いた短編集。こういうのって、ぼくのようは中年男性には普通入り込めない世界です。だいたい若い女性作家の感覚がぼくからかけ離れた世界であるのは当たり前のことで、何度も言うけど、芥川賞で話題になった金原ひとみや綿矢りさだって、ちょっとな、というのが正直な感想です。
 NHK「週間ブックレビュー」でおすすめになっていたこの小説を図書館で借りてきて(予約していたら、以外に早く順番が回ってきた)読んだのですが、読んでいて自分自身も小学生時代に戻ったような気
がして(時代が30年ほど違うのに)、そしてそこには女の子同士のちょっと大変な人間関係なんかが描かれていて、そういうのはぼくは敬遠してしまうのだけれど、それが無理なく読めました。それはどうしてかと考えてみたら、作者が自分とも世界とも一定の距離を保って出来事や心理を描いているからだと思い当たりました。変に入れ込んでいないのです。そこが爽やかです。ドロドロもしすぎず、かといって甘ったるくもなく、押しつけがましいところが少しもなく、笑えるし、読んでいていろんな感情が自分の中にわき起こる、そういうたぐいの面白い小説でしたよ。

つれづれらたたむ(10) 読書雑記3   9/8
 久しぶりに読書雑記を。最近読んだ本について、ショートコメント。
『まほろ駅前多田便利軒』三浦しをん/著、文芸春秋社
 図書館で借りてきて、昨日読み終えました。直木賞を取ったからというので読んだんじゃなく、その少し前にNHKBSの「ブックレビュー」という番組で紹介されていたからです。出演者が全員これは面白いと言っていたので、興味が出て、図書館に予約しました。そのころ予約数30件あまり。ところが直木賞受賞発表後に見てみたら150件以上に跳ね上がり、今日の段階で260件を超えていました。いい時に借りたもんだ。
 面白かった。笑えるのだけど、それだけで終わるのではありません。軽ーいノリの中に、世の中の複雑さがかいま見えて、希望とか幸福への信頼がさりげなく織り込まれています。深い感動を与える、と言う性格の物語ではありません。
 主人公の仕事を便利屋に設定することで、様々な人間と出会わせ、今の世の中の諸相を描いています。犯罪にかかわる小学生とか、DNAの問題、人工授精といった、現代の問題も取り上げていますが、深刻になりすぎないようにしています。深刻さをあえて避けている点では、石田衣良の『フォーティーン』と似たような感触がありました。
 ぼくは2年ほど前に最年少受賞で話題になった芥川賞作品を読んでひどくがっかりしたものだから、最近は芥川賞への興味がますます薄れています。直木賞作品の方が、読者を楽しませようとい
う心意気が感じられます。

つれづれらたたむ(9) 組織の空気   3/8  
 駒大苫小牧高校野球部がまた不祥事起こして、春の甲子園出場辞退を発表しました。これについて4日付朝日新聞でスポーツジャーナリストの二宮清純さんが、連帯責任には違和感、と言っていました。甲子園を目標に努力してきた、罪のない生徒まで巻き込むべきではない、と。
 体育会系の連帯責任については、ぼくも変だと思うことがありますが、今回学校が下した判断の是非は別にして、その場にいなかった1、2年生を「罪のない」と言う二宮さんの主張には、それこそ違和感を覚えました。
 今回は
一人の個人的な不祥事ではなく、集団で起こしたものです。ぼくは、この野球部全体の「空気」を問いたくなります。彼らは集団で飲酒喫煙をして騒ぐことに罪悪感を持たず、それを止める力を持つ者もいなかった。一人くらい後ろめたさを感じた者はいたかも知れません。でもそれを声に出して言うことはできなかったか、あるいは何か言ったとしてもかき消されたということなのでしょう。 よくあることです。そしてそういう空気は、その場にいた卒業生だけでなく、おそらく出場予定だった部員たちにも及んでいたのじゃないかなと、ぼくは想像するわけです。
 もちろん、「おまえらもどうせ同じことやるんだろう」と決めつけて罰を与えるのは間違っています。だから連帯責任を課すことにはすっきりしない部分が残るのですが、倫理観の欠如が当たり前になってしまっているとしたら、野球部全体の問題としてもう少し真剣に考えた方がいいんじゃないかな、と思うわけです。監督も部長も先生たちも、そこまで目が届かなかったと言うことでしょうか。でも体育会系って、こんなものなのかな? マスメディアも学校側も建前で騒いでいるだけだったりして。マスメディアのニュースなんてほんの表層だけだろうから、真相はもっとややこしくて、高校野球の実態に疎い素人があれこれ言えることではないのかも知れません。
 それはともかく、ぼくはどんな組織でも「空気」の存在は意外に見過ごしにできないものだと思うのです。
組織や場を支配する「空気」の影響力は理論よりも強いものです。そして、それを作り出すのはやはり上に立つ者だから、結局、責任をとらなくちゃいけないのは指導者ということになりますね。

つれづれらたたむ(8) 宇都宮健児弁護士   2/7  
 NHKの「プロフェッショナル」(7日放送)で宇都宮健児という弁護士が取り上げられていました。闇金融の被害に遭っている人たちを救済する弁護活動を行っている人で、宮部みゆきの『火車』のモデルにもなったそう。実はこの本、持ってるんだけど、まだ全然読んでいないのです。
 目先の損得勘定しか頭にない人たちが増殖する現代に、弱者の立場に立って仕事をしているこんな人が世の中にいてくれるというのは、大きな励みであり希望です。ホリエモンやヒューザー社長や首相といった傲慢な顔つきの人たち(あ、最近では何とかインというホテルの社長さんも仲間に加わりましたね)が連日テレビに登場して、殺伐とした様相ばかりが日本中を覆うように見える
中で、こういう番組を見ることができたのは、凡庸な比喩ですが、まさに砂漠の中のオアシスでした。やっていることがすごいのに、表情は至って穏やかで気負った様子がなく、ひょうひょうと仕事をしているところがまた驚嘆です。
 番組そのものは「プロジェクトX」の2番煎じの印象を免れません。先週のグラフィックデザイナーの話などは、企業から広告料を取るためだけに作ったんじゃないかと言いたくなるような、中身のないものでした。
 ナレーションも前のパターンを引きずっているし、茂木健一郎さんははっきり言ってホストとして上手ではないと思います。今回の話にしても、人は何のために働くか、という問いに対しての茂木さんのコメントはあまりにも浅く、ピンぼけ。仕事や生き方への宇都宮さんの心の向け方はもっと深いものだと、ぼくは見ていて感じたのです。その深いところから言葉を引き出すことができる人をホストにしてもらいたいものです。脳科学者の割には、人間への洞察力が足りないな、と思ってしまいました。もっとA-HA体験してくださいね(「世界一受けたい授業」を見ている人なら、おわかりですね)。

 2007年1月19日追記:最初の頃、茂木さんについてこんな風に感じていたんですが、その後意見が変わりました。ぼくはあれから当サイトの別のところでもときどき茂木さんのことを取り上げているけれど、彼はなかなか面白い。テレビで何度か見ているうちにむしろ、人柄の良さを感じるようになりました。子どものような好奇心や素直さがあると思います。
 番組の最初のところで、宇都宮さんが通勤電車の中で読んでいる本が紹介されました。何と、藤沢周平と山本周五郎なのです。やったー! お友だちになれそう(と、妙に親近感を抱いてしまうぼく)。ぼくもこの二人の作家のファンであることは、当サイトで何度もお話ししているし、宇都宮さんと同じように、電車の中で藤沢周平と山本周五郎を読んでいるのです。最近では『三屋清左衛門残日録』(藤沢)『青べか物語』(山本)を読み終えたところ。今は『赤ひげ診療譚』(山本)を読んでいます。これがまたどれもすごくて、今度お話したいと思っています。
 話がそれました。

 番組の中で印象に残ったのは、宇都宮さんが若いときにエリートコースから落ちこぼれて人生を挫折していることです。人付き合いがへたで営業ができず、同期の人たちからおいて行かれたとご自分でもおっしゃっています。しかしその不器用さと挫折の体験が逆に、他人にはできない天命と言える仕事に出会う道を開いたわけです。人生、何が勝ちか負けかわからないものだ。
 そして今、この困難な時代に、巨悪にひるむことなく戦い続ける姿勢は、ちょっとしたことですぐにびびってしまう気弱なぼくに、大きな勇気を与えてくれたのでした。

つれづれらたたむ(7) 笑える数字の話   1/28  
 先日、親類の葬儀で福井へ帰省していた時、面白い話を聞きました。親戚が十数人、お寺へ納骨式に行き、お堂にお坊さんが来るまでお茶を飲みながら雑談をしていました。その中で法事の慣習が話題になり、亡くなった人が女性だと35日、男性だと49日という話が出ました。同じ宗派でも所によって違っていたりして、ややこしい。
 ある人が「今では男女同権ちゅうことやから、みんな49日にしてるんや」と言いました。すると別の男の人が言いました。
「昔は何でも男の方が上になるように決まってたんや。例えば、婿と嫁を考えてみい。むこは6(む)やろ、よめは4(よ)や。男の方が数が多いんや。ほして(それで)連れ合いが死ぬとどうなるかっちゅうと、やもめと後家で8(や)と5(後)や。死んだあとでも男の方が偉いようにできてたんやな(爆笑)。」
 こんな面白い話、誰が考えたんでしょう?

つれづれらたたむ(6) ホリエモンとマスメディア  1/19/06   
 ライブドア事件で今、マスメディアは大騒ぎです。でも何か月かたてばみんな忘れて、何事もなかったかのように元に戻ってしまってるでしょうね。
その時その時の気分に流されるだけで、本質を追求しようとせず、歴史(過去)から学ぼうとしないのが、おおかたの日本人ですから。まあ、日本人に限らず、人間はだれでもそう言う傾向はあるけど。ただ、日本人の気分屋ぶりはかなりのものだと思うし、それが最もよく表れているのが、テレビというメディアのような気がします。
 今回のニュースはホリエモンに対してぼくが初めから持っていた評価どおりの結果です。だから別段驚きません。今の日本ではこの種の事件も耐震強度偽装のような事件も、少年少女による犯罪と同じくらい日常化していて、今後ますます増えこそすれ、減ることはないだろうなあと、残念ながら思ってしまうのです。ほんとうは、そうあってほしくないのだけど。
 これらの問題はどれも社会構造と関連していて、深い根っこのところでつながっていると思うのですが、マスメディアの扱い方は、突っ込んでいるように見えながら実は表面的でしかなく、結局、何の答えも出しはしません。むしろ、マスメディアは大騒ぎすることでかえってこういう人の共犯になって、無気力や不信感、ずるく生きたほうが勝ちさ、しょせん世の中は金だよ、と言った「負の気分」を増幅することに役だっているだけに見えます。歴史を通して人間が見出してきた大切な価値観は、今ではどれも反故同然です。「正義」なんていう言葉はテロリストかブッシュ大統領しか使わなくなってるし、「倫理」なんて言葉を言っても笑いの対象でしかない。
 
ホリエモンは、小泉首相と同じようにマスメディアを巧みに利用して権力を拡大してきた人。つまりメディアが彼らを育ててきたわけです。そういう共生関係にあるメディアが彼らを正しく批判できるかどうかは、はなはだ怪しいものです。そしてきっとこれからも同じような人が現れ、同じことが繰り返されるのでしょう。

よもやま つれづれらたたむ1

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