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いりこ こんな昔は

南串山町の煮干(もしいわし・もしわし)製造に関する歴史は、
明治12〜14年に書かれた「南高来郡村」によると、南串山村の項に「乾イワシおよそ800石諸方に出す」と記されている。これから察すると、このころからすでに煮干しの生産がなされていたものと思われる。あるいは地干しの肥料用であったかもしれない。
(南串山町協同組合刊「30年記念誌」による)
明治後期にはそれまでマイワシのみを原料に煮干を製造していたのが、カタクチイワシ(エタリ)の加工も行われ、以後、原料には味の良いカタクチイワシが普及した。
昭和に入ると、イワシを茹でるのは、直径3尺〜4尺の平釜に塩水を入れ、薪や石炭を燃料とした。お湯が煮立つとイワシを入れたバラ(写真下左の丸型)を何枚か重ね、釜にいれて茹でた。
乾燥は、浜に作ったたかず(かけじ)で行われた。たかずは丸太を組んだ台の上にヨシ製のスノコを敷いた台で、バラごと上に並べ、天日で2,3日間要して乾燥した。
さらに、平釜からトタンの角釜へ切り替えられ、昭和30年頃から製造量、売上高共に伸びていった。
なお、イワシがとれても雨天が続いて乾燥できず、傷んでしまったものは肥料にしていた。

昭和16年の京泊

現在

バラ(竹製の平かご)丸型

バラ角型
この頃は、近隣の小浜町富津では、竹で編んだ掛け棚にムシロやスノコを敷き、その上にイワシを広げて乾燥させた。斜面に家が建ち並んでいたので足元から屋根まで煮干一色であった。
千々石町では砂浜にス台にカヤで作ったスノコを敷いて乾燥を行っていた。
昭和40年頃は豊漁で、どこでも煮干、煮干、、、であった。
昭和44年には、長崎県水産製品品評会において、南串山町の煮干が農林大臣賞を受賞、その後も多くの賞を受賞し、関西方面で人気があった。
昭和45年頃から煮干乾燥機の導入が多くなり、天気に左右されることなく品質の良い製品ができるようになった。が、その後、町内や近隣町では地曳網、船曳網、巾着網の廃漁や、台風による製造家屋の被害等により、製造業者は減少し、今に至っている。
南串山町では現在加工場は14箇所となっている。
資料:南串山町郷土誌(1985),千々石町郷土誌(1998),橘湾の漁労習俗(1983)
    写真の煮干バラは南串山町文化センターにて保存

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