斜光線の下で

夕暮れ迫る黒崎駅前にて。

もう少し、カメラを右に振り、名物の煙突(画面右隅に写っている)を入れたかった。

学生時代は、毎年のように訪れた北九州線も、社会人になってからは、流石に足が遠のいてしまった。ちょうどこの時期は、「路面電車第二次二極分化」(命名:デトニ)が進んだ頃である。都電、大阪市電といった大都市をはじめとした全(又はそれに準じる)廃の嵐が去ったのも束の間、今度は自ら近代化を推進し生き残りを図るグループと、そうでないグループに色分けされてゆく。残念ながら北九州線は、「後者」になってしまう。栄華を誇った「大路線」は、基幹産業であった製鉄などの衰退による利用客減、国鉄〜JRの普通列車大増発・新駅開設などにより、次第に存在価値を失ってゆく。こうした環境の変化により、西鉄もかつての「稼ぎ頭」だった軌道部門に見切りをつけてしまった。1980年11月の北方線(完全ではないが、モノレールに代替された)、1985年10月の門司〜砂津・枝光線・戸畑線と次々に廃止された。利用客数も、当局の思惑通り?加速度的に減少してゆく。このページでは、上記の廃止後、辛うじて小倉・八幡のメインストリートを走り、かつての栄華を留めていた1991・1992年の記録である。しかし既に、看板の連接車の運行は大幅に縮小され、「ちょっと品の無い?」赤主体の新塗装が哀れを誘った。更に、アイボリーホワイト主体の新塗装も登場した。先が見えたこの頃に、皮肉にも600形の冷房化や前面近代化(大牟田線600形に準じる)も始まった。拙者の写真機材・フィルムも学生時代の鉄壁の、「白黒&リバーサル」から、軟弱なネガカラーへと変わった。10年後の今、変色が激しくお見苦しいことをお許しください。「路線網」が、市内電車にとって如何に重要か、又かつての全廃された路面電車が踏んだ「同じ道」を目の当たりに見る心地がした。・・・そして、1992年10月に砂津〜黒崎駅前が廃止され「最後の道」へと踏み入れた。以後8年、細々と良く残ったものである。

道幅の関係からか、「西行き」は安全地帯が無い、当時の東の終点、砂津にて新・旧?塗装車の離合。このとき、すでに「消え行く路面電車」風のテレビ取材が行われていた。

小倉駅前のメインストリートを行くモ600形新塗装〜冷房改造車(前面は未改造)。北方線廃止の後、北九州都市モノレールが開通した。この頃は、ご覧の通り(右手)小倉駅前から連絡通路で北九州線の通るメインストリートを越えた(写真左)ところのモノレールの始発駅まで結ばれていた。北九州線廃止後は、駅前まで延長された。「合併銀行名」が目立ってきたのもこの頃だ。

お馴染み、小倉魚町にて。上の写真の反対側になる。夕方のラッシュとはいえ連接車の姿は、無い。

一昔前の映像は・・・「炭鉱色の街」

この場所は、下を日豊線の客レが走っていた記憶から、下到津〜金田と思われる。つまり、JR小倉工場が左に「あったはず」(?_?)どうも、この頃の記憶が・・・。カーナビでおなじみの地図メーカー本社もこの辺りだ。

上とは反対側を望む。まだ、残っていたモ66形72号。福岡市内線からの「出戻り車」だ。

以上、1991−8撮影ゼンザブロニカETR−Si ゼンザノンE 75ミリF2.8/150ミリF3.5 フジカラー REALA

初めて、ゴムタイヤ車で九州へ行った年・・・遠くの信号ばかりを見る・・・「鉄癖」(言い訳(ーー;))・・・の為、佐賀県内で事故を起こしてしまった(>_<)。幸い、人的被害は無かったが相手の方には本当にご迷惑をおかけしましたm(__)m。幸い、自走可能なため、これにめげずに帰路に八幡駅前で撮ったのがこの2枚写真だ。最近の「定宿」に近いが、昔日の賑わいは見られない。2ヵ月後に廃止されてしまった。

 

以上、1992−8撮影キャノンEOS1000 EF85ミリ F1.8(カメラ、レンズ共無償譲渡し現存せず)フジカラー200

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「惜別西鉄北九州線」

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