過去の登頂記録 (2005年3月〜8月)

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2005年
8月 30日〜9月2日 裏剱
22日〜25日 赤石岳
20日〜21日 大常木谷
10日〜11日 仙丈岳
9日〜10日 甲斐駒が岳
6日〜7日 北岳バットレス
2日〜4日 笠が岳
7月 30日〜31日 西横川から伊那前岳
25日〜27日 白馬岳
16日〜18日 荒川水系・入川本流大荒川谷から破風山・真の沢下降
12日〜13日 赤岳・横岳・硫黄岳縦走
5日〜6日 薬師岳と観音岳
3日 奥秩父荒川水系滝川豆焼沢
6月 28日 鍋割山
26日 奥多摩日原川唐松谷
22日 鷹の巣山
18日〜19日 笛吹川東沢釜の沢
14日〜15日 甲武信岳から十文字峠
7日〜8日 大菩薩連嶺
5日 笛吹川鶏冠谷右俣
5月 31日〜6月1日 雲取山から飛龍山
29日 丹沢・勘七の沢
28日 丹沢・水無川本谷
25日 唐松尾山
24日 天狗棚山
17日〜18日 丹沢主脈縦走
11日 川苔山
3日〜5日 水晶岳
4月 29日〜5月1日 毛勝三山
26日 節刀が岳
23日 日和田山・岩登り入門講習
13日 お坊山
9日〜10日 初雪山
5日 浅間嶺
2日〜3日 黒戸尾根から甲斐駒が岳
3月 29日 大沢山
19日〜21日 白馬岳
15日〜16日 大菩薩峠から牛の寝通り
12日〜13日 鳳凰三山・観音岳
9日 マチガ沢・一の倉沢
5日〜6日 焼岳
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裏剱

 以下の者は、2005年8月30日〜9月2日にかけて、剱岳を見る最も優れたルートである裏剱を室堂から雷鳥沢、剣沢を経て真砂沢、二俣を経由し、仙人新道から仙人池へと登り詰め、仙人谷から阿曽原温泉に至り、水平道を欅平まで踏破したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 剱岳は見事な山です。天空を突き刺す独特な岩と雪のみが創り出す、激しく美しい山容も見事ですが、その豊富な積雪が磨き上げ、谷を掘り下げ、岩峰を立て日本中を見渡しても他に比類ない圧倒的な迫力を持つ山となって私達に迫ってきます。立山登山の基地であり随所から噴煙を上げて、まさに地獄そのもののような光景の中を歩きだし、登り詰めた別山乗っ越しで出会う剱岳の威容。そして剣沢を下降する中から出会った秋独特の雪渓との格闘でした。実に標高1000mを下回っても、まだ谷に一杯になって埋めつくすブロックとなった雪渓。窓と言う独特の響きを持つ山稜に刻み込まれた大きな切れ込み。そこを拠点として無数とも言える岩壁が待つ素晴らしい場所がそこにはあります。二俣から見上げる三の窓の雪渓と、その上に聳え立つチンネ、ジャンダルム、クレオパトラニードル等の峻険な岩峰。たおやかな広がりを見せる小窓と小窓の王の岩峰。音を立ててブロックが割れ、その下から新しい斜面が顔を出し、緑が生まれ、絶えず生き物のように動きつづける激しい山の姿がありました。しかし、激しい山であればあるほど、そこに生きる人々の優しさが身に沁みた今回の登山でした。真砂沢下の雪渓の崩壊を親身に心配する剣沢の人々、延々たる山道を辿ってきた私達を心から歓迎してくれた仙人池の人々、そして日々変わるルートの状況を心配し詳細に教えてくれて遭対無線まで持たせてくれた阿曽原の人々。山に生きる人々の親身な気持ちは他の山々には無い独特の魅力と言えます。この夏、おそらく一番の素敵な展望を見せてくれた四日間でした。しかし、一方で最後の最後、欅平に至るまで一瞬たりとも真の意味で気を抜くことのできない厳しく、激しい山であったとも言えます。剱を見上げ、剱の持つ裏表の全ての魅力を感じた登山。一方でピークと呼ばれる物には一つも立たなかった特殊な登山としての四日間でもありました。やはり、何時か、その魅力の頂点である剱山頂への憧れをかき立てられた日々でもありました。

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夜明の仙人池からの劒・八ッ峰 阿曾原の温泉に入る美女軍団? 劒沢小屋からの剱岳
夜明の仙人池からの劒・八ッ峰
こんなにすごいのははじめて!
阿曾原の温泉に入る美女軍団? 劒沢小屋からの剱岳

赤石岳

 以下の者は、2005年8月22日〜25日、南アルプス赤石山脈主峰であり、日本最高所の一等三角点を持つ赤石岳(3120m)に大井川の椹島から東尾根に取り付き、赤石小屋から北沢源頭を経由して登頂したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 南アルプスに行って強く感じるのは、その一つ一つの山の大きさです。また、森林限界の高さと山々を覆う原生林の豊かさです。延々たるアプローチの末にたどり着いた登山口。暴れ川として知られた大井川の上流部分から山頂まで、「風の谷」では経験の無い実に2000mを越える標高差の登り。その大部分は森林の中の登りでした。通常、本州の山では2500m前後が森林限界となるのに、2700m近くまでダケカンバやシラビソの生える森の豊かさ、そして、赤石小屋直前で去来するガスの中にヌッと顔を出す大きな大きな山容。私達を押しつぶすような迫力満点の赤石岳でした。今回の山は、直前に発生した台風11号との駆け引きに終始した登山でした。雨の東京を出発し、畑薙第1ダムに向かう車窓を打つ雨に行く手を心配し、そして椹島ロッジの屋根に落ちる雨音に「今回もダメかな?」と何回思ったことでしょう。そして、その大部分をカッパを着ての行動となった赤石小屋への登り。それだけに背後に広がる笊が岳を初めとする白峰南稜の山々、行く手に姿を表した聖岳、兎岳の姿を見た時の嬉しさはひとしおでした。そして、富士見平から上で射しだした太陽は、お花畑の広がる北沢源頭では青空を広げてくれました。そして飛び出した稜線で一気に開けた長野県側の圧倒的な空間。遠く甲斐駒が岳や間の岳の北部から光岳、上河内岳の南部に至る南アルプスの全ての山々が眺められる中、躍り上がるような気持ちで登り着いた3120mの山頂からは、この夏山一番の素晴らしい眺めが待っていました。山頂に立ったのは東京を発って実に三日目。最短コースでも「辿り着いた」との感慨を強く与え、登山の達成を強く意識させられた遠い頂でした。
 南アルプスは実に大きい!これが、登ってきた者の感想です。目の前に見える聖岳は手の届きそうな近さでも、その間の累積標高差は実に1500m以上。大きく登り、大きく下り、それだけに一つ一つの山がデカイ!その大きさと、雨も風も到底かなわない雄大さの中に身を置いた赤石岳の四日間でした。

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登ったぜ!赤石岳 見事な雲海・富士山 幸運!台風直前の赤石岳
登ったぜ!赤石岳 見事な雲海・富士山 幸運!台風直前の赤石岳

大常木谷

 以下の者は、2005年8月20日〜21日、奥秩父多摩川水源の原生林の谷・大常木谷を一ノ瀬川本流から遡行し、千苦の滝、山女魚淵、不動の滝を越えて水源をきわめ、奥秩父主脈縦走路から将監峠に登頂したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 本来、谷川連峰の万太郎谷を遡行するれはずが、日本海の低気圧に向かって湿った空気が長期に渡って入り、日本海側の雨は激しく、長く降り続いたために、断念。上流部分が原生林で増水の心配の少ない、多摩川水源の大常木谷に転進しました。大常木谷は「風の谷」がホームゲレデとして大好きな、しばしば行く谷です。途中、会所小屋跡近くに泊まり、月の明るい、焚き火の一夜を過ごし、水源まで遡行しました。何回となく遡行し、馴染んで来た大常木谷。毎回、様相が違うのは当然ですが、今回、目立ったのは山魚女淵付近の大倒木による淵の埋没でした。淵の出口を巨木が覆いそこに岩がつもり、淵を埋めていました。それは、更に上流の早川淵まで埋没は続いていました。一方、手前の前回、釜の出口を同じく倒木が覆い、巨大な淵を作り取り付きを難しくした五間の滝は、今回はその倒木が流出し、再び登りやすい滝に戻っていました。大常木谷は、毎回、様相を変えます。森が生きているように、この谷も生きている・・・これが実感です。驚くべきことは、この谷は、多摩川水系で唯一無二の堰堤の無い谷であり、一度たりとも伐採も植林も無い太古のままの谷なのです。足元を玉ジャリのような小石が覆い、ナメ滝を中心とした滝が延々と続く素晴らしい谷は、このような条件があって初めてある谷なのです。考えてみれば、原生林の谷とは、けして同じであることで太古の様相を保のではなく、自然治癒力のような物で、谷を倒木で埋めて、それが自然に流れて、釜が出来たり滝が現れたりを繰り返し、日々生まれて消える、そんな谷だと言えるでしょう。
 多摩川水源地帯は、奥秩父の中でも最も静寂な地帯です。小屋も営業を休止し、登山者の姿を見ず、風の渡る峠を点在させて、西部奥秩父の賑わいをよそに静けさを見せています。尾根に食い込む谷の一つ一つは花崗岩の白いスラブを随所に点在させて、美しい流れを作っています。風も雲も独特の柔らかさと爽やかさを持つ、この山域は僕達が最も大好きな場所です。将監峠には乾いた冷たい風が渡っていました。

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千苦の滝 随所にある大ナメ シャワークライム
千苦の滝 随所にある大ナメ シャワークライム

仙丈岳

 以下の者は、2005年8月10日〜11日、南アルプス北部の仙丈岳(3033m)に北沢峠から大平山荘に宿泊し、藪沢をつめ馬の背から仙丈カールを越えて登頂したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 大きな山である。遠くから見ると甲斐駒が岳が天空を突き刺す孤高の雰囲気の山容であるのに対して、大きく羽を広げた鳥のような姿、いくつかの山頂らしい部分があって、どこが頂上か判りにくい・・・・そんな山として優美に佇む山として、仙丈岳はあります。私達が親しみやすい中央線方向から、その山頂は見られず、中央高速が岡谷の分岐を過ぎて天竜川に沿って初めて見上げる山でもあります。伊那の谷に住む者は、しかし、信仰対象の甲斐駒が岳より、朝日の昇るこの山を親しみをもって見上げているようです。
 マイクロバスが立ち去ると、北沢峠は再び本来の静寂の姿を取り戻します。林立するシラビソを始めとする巨樹の群れ。地面を覆う分厚い苔。山小屋の前を工事車両が通過しても、それでも静かな南アルプスの雰囲気はそのままでありました。まだ、まっ暗い中の出発。空を埋めつくす満天の星。時々スーッと流れる流れ星。吐く息までも吸い込みそうな原生林の中を登り詰めていくと、背後に大きく広がる鋸岳の荒々しい姿。山が夜から目覚める最も刺激的な時間の中に一歩一歩と3000mを越える山頂へ向かっての道は続きました。馬の背からの登りは、全く新しい世界との出会いでした。真っ青な空と、刷毛で書いたような秋の雲、足元にはもう既に秋の花が顔を出していました。山の上には、既に秋の気配が濃くありました。一歩、登ればそれでむ背後の甲斐駒が岳が大きく成長する中でも、ぎりぎりまで他の山は姿を見せません。そして山頂直下・・・山頂!360度の全てが山、山、山!眼前に大きく聳える北岳から間の岳、塩見、荒川、悪沢、赤石・・・・。峻険な山容では無いけれど、一つ一つの山が実に大きく、北アルプスの標高差の小さい山とは比べようの無い、勇壮さが、そこにはありました。太古からの豊かさを持つ原生林の重厚さ、一つ一つの山の大きさ・・・それこそが南アルプスの持つ独特な魅力であることを改めて教えられた思いがします。高山植物の華やかな物は既に姿を消し、控えめな秋の花が随所に出てきた仙丈岳でした。

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仙丈頂上直下。空には秋の雲 仙丈カール 360度の展望、仙丈岳山頂。うしろは北岳
仙丈頂上直下。空には秋の雲 仙丈カール 360度の展望仙丈岳山頂。うしろは北岳

甲斐駒が岳

翌朝。やっと見えた甲斐駒
翌朝。やっと見えた甲斐駒

 以下の者は、2005年8月9日〜10日、南アルプス北部を代表する勇壮な山容で、日本百名山の一つ・甲斐駒が岳(2967m)に向かい、北沢峠から仙水峠を経て駒津峰を越えて登頂したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

駒津峰への登り
駒津峰への登り

 甲斐駒が岳ほど、里から見上げて目立つ山も少ない。甲斐駒が岳ほど、スックと見事な山容で天空を突き刺す山容を持つ山は南アルプスには無い。山の好きな者は、中央線で甲府を過ぎると車窓一杯に広がる美しい山容を早朝の寝ぼけた目で見て、思わずシャン!とこれから向かう山に向けていずまいを正す・・・・それが、甲斐駒が岳と全く似ない平坦な山に向かうのであっても・・・・。全国に駒が岳と名の付く山がどれくらいあるのか知らないけれど、どの駒が岳に対しても最も美しく高い山としてあるのが甲斐の国の駒が岳であると思って間違いないと思います。私達の仲間の多くが、憧れと怖とを持って「いつかは、あの頂上へ!」と思い続けたことでしょう。確かに、甲斐駒が岳はかつては、全国の駒が岳の中でも、最も登りにくい、困難な山であったと思います。表玄関たる黒戸尾根は、下部の鬱蒼たる原生林の中の急坂、中間部の肝を冷やす岩稜とヤセ尾根の連続、そして上部の岩場の道・・・・正しく修行の道として登られていたのでしょう。登ること自体が自分を高め、登ること自体がより困難を克服した人間への成長を促す・・・・かつての信仰登山と言っても、それは、私達、現在の登山者の心と共通する登山と根底では同じでは無かったかと思います。その標高差・・・・実に2200m。日本アルプス全体でも最も過酷な山のルートです。しかし、今回、幸か不幸か、76年に激しい山を愛する者の反対で実に10年近いストップをされた南アルプス林道が開通し、北沢峠からの標高差、僅かに930m、手近な山頂へと変身してしまいました。それでも、甲斐駒が岳そのものの厳しさ、美しさは何一つ失われてはいませんでした。仙水峠に出て、岩原から見上げた摩利支天のガスに霞んだ勇壮な姿、駒津峰に向かう急坂で背後にグイグイと広がる鳳凰三山の姿、そして、雨とガスの中に一つ一つ現れる誰かが作ったような花崗岩の岩塔。残念ながら悪天の中に霞む山頂でしたが、憧れの山頂は間違いも無く、私達の足元にありました。これからは中央線に乗る度に「あの山の山頂に立った」との自負が沸くはずです。

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北岳バットレス〜第4尾根主稜登攀

マッチ箱の頭。背後には大きく岩が広がる
マッチ箱の頭。
背後には大きく岩が広がる

 以下の者は、2005年8月6日〜7日、日本第二位の高峰・北岳(3192m)に広河原から白根御池を経て二俣からバットレス沢に入り、北岳バットレスのbガリー大滝を越えて第4尾根主稜を登攀し登頂したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 けして難しい岩壁では無い、けれども、日本最高所での岩登り、南東面の明るい岩場、そして頂上に直接突き上げる岩場の位置・・・、そんな意味から北岳バットレスは素晴らしい岩場だと思います。出発点の広河原から首が痛くなるほど見上げ、その上に聳える北岳の山頂。そこに文字通りの胸壁として大きく広がる岩壁は「あそこを登るんだ!あそこを。」と言う期待感を高めます。まだ夜中。都会なら人々が寝始めようという午前1時の起床。星のまたたきだけが明かりの中の出発。バットレス沢の出合いですこしでも明るくなるのを待ち、たどる沢。そして背後の鳳凰三山が赤く染まり、ヘッドランプが要らなくなる頃、いよいよbガリーの大滝の登攀からバットレスの登攀は始まりました。第4尾根の取り付きからは、富士山が大きく望まれ、真っ青な空に向けて、山頂に向けてグイグイとザイルが伸びていく感覚はこの岩壁ならではの物と確信します。第4尾根は、このバットレスのど真ん中、左右にいくつかの名ルートを持ち、とりわけ左側、dガリー側には上下のフランケ、dガリー奥壁とフェース登攀を中心とした岩登りが可能です。リッジの登攀、フェースの登攀、マッチ箱からの懸垂下降とイロイロな登攀の末に辿り着いた終了点。しかし、その先のただの残業とも言える部分は、実は広大なお花畑となって、早朝出勤でヨレヨレの僕達を迎えてくれました。クライマー以外に訪れる者の無い秘密の花園はこの見事な登攀の最後を飾ってくれました。

鳳凰三山を染めて夜明け。いよいよ登攀!
鳳凰三山を染めて夜明け。
いよいよ登攀!


 北岳バットレス第4尾根の登攀は岩壁登攀を志す者にとっては入門的なルートであり、登攀そのものは練習を重ねて来た者にとっては、けして難しい物ではありません。しかし、登った者が「簡単で容易なルートだった・・・。」とは思わせない重厚な何かがあります。肩に食い込む登攀具を含んだ装備一式を担いでのアブローチ、一気に3192mの山頂に登りつめ、また、延々たる下降をこなす・・・大きな山の岩登りならではの総合的な力が必要でした。それだけに充実感も一杯なのです。夏の楽しい岩の一日でした。

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笠が岳

振り返ると文字通りの「笠」
振り返ると文字通りの「笠」

 以下の者は、北アルプス西端の不遇の名山・笠が岳(2897m)に、新穂高温泉から鏡平から弓折岳、大ノマ乗っ越し、抜戸岳(2813m)を越えて抜戸岩を経て登頂したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 笠が岳とは不思議な山です。北アルプスの主だった縦走路から、あたかも独立峰のようにスックと見える独特の風貌、なんとなく不機嫌そうにポツンとある、その姿は特別の存在としてあります。槍、穂高と言う、言わば北アルプスの顔は、たしかに峻険で美しい・・・・けれども、美しい山もその中に居ては、その自らの姿を見ることはできない・・・・北アルプス核心部の最も優れた展望台としても笠が岳。似た存在として、常念岳や蝶が岳があるけれど、もっと近く、もっと身近に、文字通り谷一つ、壁一つ隔てた所にバカァーンと見られる最高の展望の場なのです。槍が岳開山で知られる播隆上人が最初は笠が岳に挑み、その山頂から眼前にある天空を突き刺す尖峰を見て挑戦を決意する・・・その崇高な意思がそのまま伝わるような気のする笠が岳からの展望でした。

槍が目の前・・そして穂高も。そこから陽がのぼる
槍が目の前・・そして穂高も。
そこから陽がのぼる


 やっと訪れた本格的な夏山の気候。しかし、どうやら、その訪れは急激すぎたようです。新穂高温泉からの登りは、全く遮る物も無く背後からジリジノと照りつける太陽と、ソヨとも吹かない風、もし、秩父沢の清流が無かったら煮えてしまいそうな中の登りでした。鏡平の静かな雰囲気、鏡池に写る周囲の山々。しかし、実際に本来の夏山の稜線歩きが体験ではたのは最後の日でした。真っ暗な中を登り詰めて、すこしづつ朱色の付きだした穂高岳連峰の姿、真っ暗な下界とは対照的な明るく染まる山々との出会いは、この夏初めてのものでした。ここ数年、夏が早く来て、不安定な暑さだけが続いたのと違い、暦通りの季節の動きに雪渓の消える端から次々と咲く高山植物。雪渓の脇には早春のショウジョウバカマがあるかと思えば、南面の陽当たりの良い斜面ではアキノキリンソウやウサギギクが咲き、その中間に本来の夏の花がビッチリと咲く・・・・あるべき真夏のお花畑の美しさは数年ぶりの見事さでした。笠新道の標高差1700mを越える下りは「風の谷」始まって以来の激しさでしたが、久しぶりの夏山らしい夏山にビッショリの汗と共に満喫した笠が岳でした。

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西横川から伊那前岳

 以下の者は、2005年7月30日〜31日、中央アルプスの中核・木曽駒が岳に突き上げる中御所谷支流・西横川を出合いから遡行し、30m大滝、20mナメ滝、30mナメ滝を越えて伊那前岳(2883m)に登頂したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 沢を登ってつくづく思うのは、沢登りと言って一言で言っても、その場所、その山、その谷によって、どんなに違うかということです。つい二週間前に言った奥秩父荒川水系の水源を巡る遡行。鬱蒼たる原生林と巨樹、まっ暗いゴルジュと大水量の谷、腹に染み渡る爆音と共に落ちる大きな滝、そして何よりも分厚い苔に覆われた太古の沢の流れ、木と水と苔との出会いの谷でした。一転して、今回の中央アルプスの谷は、どこまでも明るく、開けた、そして真っ白い花崗岩の中にある谷でした。そしてツメの高山植物のお花畑、ハイマツのヤブ漕ぎ、狭く、斜めのビバーク地から見上げた満天の星と流れ星、下に大きく広がる駒ヶ根と伊那谷の町の灯、全く違った魅力がありました。今回、遡行した西横川の最大の魅力は花崗岩の白い岩肌の上を舐めるように落ちるナメ滝の連続です。かつて遡行した時には無かった堰堤。その二つの堰堤の間は大きな流木と不安定なゴーロによって埋めつくされていました。それを越えた時から、水が無くなる時まで、その全てが、大小の滝によって構成された谷は、変化に富んだ見事な物でした。たしかに、花崗岩で構成された谷は数多くあります。けれども、剥き出しに白く、苔も無い白いスラブの連続は近くは甲斐駒が岳の黄蓮谷を思わせる美しさでした。30m大滝、20mナメ滝を筆頭に連続した10m近くの滝。しかし、何れも傾斜の少ないナメ滝の連続で、優秀なパーティーであればザイル等も使用しないレベルの滝でした。天気予報は悪天を伝え、絶えず頭上を気にしながらの遡行でしたが、ついに、まとまった雨は降らず、不安定な鷹の巣のようなビバークポイントに斜めになって集まった時もポツポツと降っただけでした。見上げる一杯の星空、煙を上げて燃える小さな焚き火、狭く、斜めで手足も伸ばせない状態でも、中央アルプスの大きな山懐の中にドップリと浸っていることの喜びは小さくありません。
 長谷新道はついに見つかりませんでした。稜線へのハイマツ漕ぎ、クロユリの花もあった斜面は喧騒の木曽駒の違った面を教えてくれました。

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延々たるハイマツ。でもクロマツもあった たき火まわりの斜めのビバーク 30m大滝・・すごい!
延々たるハイマツ。でもクロマツもあった たき火まわりの斜めのビバーク 30m大滝・・すごい!

白馬岳

 以下の者は、2005年7月25日〜27日、北アルプス北部を代表する花と雪の名山である白馬岳(2932m)に猿倉から白馬尻、大雪渓を経由して登頂したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 北アルプス・白馬岳。日本海側の気象の影響を強く受け、豪雪で知られる後立山連峰の北の重鎮として季節外れの雪渓と、その雪渓が消えた跡に大きく広がるお花畑が、必ずしも日常的に登山を行わない者でも、その独特の大きな山には憧れと驚きを持って向かっていきます。しかし、僕達の目的は他にありました。その白馬から延々と日本海へと伸びる尾根、その中の最後の2000m峰・朝日岳に至る広大なルートこそが夢でした。ここは、実は、過去5年間に二回、「風の谷」ではトレースしています。何れも春。栂海新道と呼ばれる白馬北方稜線は、ゴールデンウィークになっても数メートルを越える豪雪と、雪原と雪原を繋げたような雄大な光景は雪庇を交えて朝日岳まで続き、その先は日本海まで痩せた尾根となって多くの上下を繰り返しながら0mまですこしづつ下がっていきました。その尾根が夏には見事なお花畑と高層湿原と季節風に縮こまったシラビソとコメツガの数メートルの高さの不思議な原生林とが広がる道へと変身する。春には雪原だった所が次々と現れる新鮮な世界を見せる、このルートは訪れる者こそ少ないものの、北アルプスの最後の楽園とも言うべき場所なのでした。
 「台風は真っ直ぐ来る事は無い。」「必ず偏西風に流されて・・・」の願いは虚しく、窓を打つ強烈な風雨。剥き出しの森林限界を越えた山の風雨は時間を追うごとに僕達の憧れのルートへの夢を消していきました。そして、期待に満ちた翌朝の風雨はついには栂池への道も閉ざされました。風の中の山頂。雨の中の標識。背中を押し倒すように吹き倒そうとする風雨は、大雪渓が終わる頃、ピタリと止みました。突然に見上げる白馬の頂上。小蓮華岳への稜線。そして歩くはずだった三国境。自然の猛威を感じ、白馬岳連峰の別の大きさを全身で感じさせられた三日間でした。来年も同じ時期にきっと、必ず!きっと今回とは、全く違った表情で僕達の夢を実現してくれることを確信して!

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それでも・・・頂上 頂上直下!台風の中 風雨の中の下山
それでも・・・頂上 頂上直下!台風の中 風雨の中の下山


荒川水系入川・大荒川谷から破風山・真の沢下降

 以下の者は、2005年7月16日〜18日、奥秩父北面・荒川水系の水源地帯を旧大滝村川又奥の赤沢谷出合いから荒川本流たる入川本流を遡行し、金山沢に入りゴンザの滝を越え大荒川谷を水源まで遡行し、破風山(2317m)に登頂し、甲武信小屋から真の沢林道を下降し千丈の滝を経て水源を一周したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 あらためて振り返ってみると、赤沢谷出合いの標高が1000m前後。徹底的な激しい遡行の末に到達した破風山の山頂との標高差は実に1300m以上。これを登り、そして下って・・・今回の荒川水系の最も奥深い部分の遡行は、やはりスケールの大きな物でした。ドードーと言う音が絶えず聞こえる入川本流。黒々とした岩と苔のビッチリと生えたゴルジュ。左右から美しく滝となって注ぐ支流。とんでもない山奥を歩く喜びは大きな物でした。僕自身が最も大好きで、通い込み、その支流の一本一本を辿ってきた自信を持って全体像が頭の中に入っていると公言できる山域であっても、何年かの間を置いて訪れてみると絶えず新しい発見があり、改めて、その雄大さに打たれる場所です。大荒川谷はその中にあっても最も魅力的な谷と言えます。いわゆる平凡な部分と言うのが皆無で、曲がり角を一つ回るたびに新しい景色が現れ、驚きの滝や釜が姿を見せます。そして、その間の全てがナメ床とナメ滝で構成される・・・、見上げる頭上の木々は山が形成されてから、ただの一度も斧の入ったことの無い巨樹の林立する森。名のあるゴンザの滝だけが立派なのではなく、全ての滝が迫力と個性のある見事な物でした。そして、沢靴を脱ぐ瞬間までの滝の連続、ツメの分厚い苔の絨毯と思わぬ出会いを見せるハクサンシャクナゲの控えめな美しさ。丁度の梅雨明けとなった真の沢林道の下降は実に8時間に及ぶ大変な物でした。しかし、その巨樹の森に潜り込んで行く楽しさと、目にする原生林の美しさ、日の出の太陽がコメツガの森を照らしだす絶妙の眺め。昨日、苦闘を強いられた谷や山を木の間ごしに見ながらの道でした。既に、ほとんど廃道と言って良い微かな踏み跡とも思う道は、しかし一方で最も古くからの甲武信岳への登山道でした。その合理的なラインとセンスの良さ、荒川水系最大の迫力と美しさを持つ千丈の滝との出会いは、今回の三日間の迫力ある山行の最後に相応しい物でした。夏の始まりに相応しい谷との出会いでした。

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大荒川谷水源近し!こんな滝が無数にありほとんど登れる 荒川水源への道は森林トロッコの跡から始まる
大荒川谷水源近し!
こんな滝が無数にありほとんど登れる
荒川水源への道は
森林トロッコの跡から始まる

赤岳〜横岳〜硫黄岳 

コマクサ。やっぱり高山植物の親分だ!

コマクサ。やっぱり高山植物の親分だ!
雲海をピカピカに光らせて朝日がのぼった
朝の赤岳から雲が滝のように越える山々。今日はこれを越えていく ▲雲海をピカピカに光らせて
朝日がのぼった
朝の赤岳から雲が滝のように越える山々
今日はこれを越えていく

 以下の者は、2005年7月12日〜13日、八ヶ岳連峰の主峰であり最高峰である赤岳(2899m)に美濃戸から行者小屋を経由し文三郎尾根から登頂し、八ヶ岳主稜を横岳(2829m)、硫黄岳(2765m)と完全縦走したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 日本の高山のちょうど真ん中にある八ヶ岳連峰。南北中のアルプス、奥秩父、富士山等をちょうど四方に望む位置にあるこの山域は、優れた展望と岩場の連続する南八ヶ岳と北欧を思わせる森林高地がどこまでも続く北八ヶ岳に綺麗に分かれます。今回、登り縦走したのは、その南八ヶ岳の最も標高の高く人気がある部分です。主峰・赤岳は端に最高峰と言うだけでなく、東西に屹立した岩壁を持ち屏風を立てたような山容は周囲を圧倒し、王者としての風格を持った堂々たる山です。山の人の間で、八ヶ岳が最も美しいのは梅雨時・・・とは良く言われる言葉です。人の姿が最も少ない時期で、森の中も森林限界を越えた斜面でも多くの花が咲く時だからです。でも・・・やはり、雨は避けることができませんでした。集合した茅野駅で、猛然と降ってきた雨。これ以上、降ったらマズイなぁ。高見石に行って、天狗岳に変更しようかなぁ?天狗岳は今が花の季節だし・・・等と迷いながらも向かった赤岳。行者小屋までは、時には強く、時には小雨になっても降り続いた雨。道は所々で水没し、石伝いに流れを飛び越えての場所もありました。行者小屋からの本格的な登りは風の登りでした。すこしづつ低くなっていく木々。そして森林限界。ミヤマシオガマ、ミヤマオダマキ等の見事な花、八ヶ岳でしかなかなか見られないチヨノスケソウの群落が迎えてくれましたが、それを楽しむ余裕の無い風でした。山頂そのものに立つ頂上小屋は貸し切り。風と霧の中に小屋が揺れていました。
 翌朝、小屋の窓が朝焼けで赤く焼ける事から始まりました。周囲を埋める雲海。その上に島のように点々と浮かぶ南アルプスや富士山。遠く北アルプスまでが綿雲を敷きつめたような雲の上に見られました。霧が峰や美しが原は丁度、雲の境目。浮かんでは沈んで行きます。ここから硫黄岳への稜線は文字通りの花の尾根でした。ウルップソウが緊張の岩場の間に、長閑な硫黄岳への道にはコマクサが私達の嬉しい縦走を歓迎してくれました。いろんなプランの浮かぶ八ヶ岳。その最も楽しい部分の縦走でした。

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薬師岳と観音岳 

日本庭園のような薬師岳頂上直下。白峰三山が大きい。
日本庭園のような薬師岳頂上直下。
白峰三山が大きい。

 以下の者は、2005年7月5日〜6日、南アルプス北部の鳳凰三山の最高峰・観音岳(2840m)に夜叉神の森、夜叉神峠、杖立峠、苺平を経て南御室小屋に宿泊して砂払いの頭、花崗岩とハイマツの薬師岳(2780m)を越えて登頂したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 日本アルプスとひとまとめに言われる日本の屋根の中にあって、しばしば比較される南アルプスと北アルプス。遠くから眺める限りでは、どちらも高く、所々に残雪をまとい、似た点の多い山々であっても、実際に登ってみると、その違いの大きさに驚かされます。鳳凰三山で改めて感じたのは、その森林の豊かさです。標高2700m近くまでシッカリとしたシラビソの原生林の森が広がり、観音岳の直下でも丈こそ低いものの、ダケカンバやカラマツの灌木が斜面にはありました。南御室小屋までのアプローチと言ってよい原生林の登りもユックリと登ると巨大な木々のオンパレード。それらが幽玄な霧の中にニョキニョキと林立する世界は本当の山の奥深さを教えてくれる物でした。展望と爽快さのみを求める者にとっては「延々と何も見えない森の中をどこまでも歩いて、やっと高山らしい雰囲気の中に出られた・・・」という事になるのでしょうが、暗い森を歩き、冷たい湧き水で顔を洗い、さんざんな苦労をした末に、ようやく出会える木の間ごしの3000mの山々。そして、放り出されるように飛び出す白砂とハイマツと高山植物の世界。それが、あまりにも劇的な所に南アルプスの独特の魅力があると言えます。愛想の無い山小屋。あまり美味しくないご飯。気を抜くとドーンと頭をぶつける天井。奥秩父の小屋の上をいくボロい山小屋さえも、何か一昔前のサービス精神ゼロの山の雰囲気を持っているようにも思えてしまいました。見る事の少なくなったサルオガセの沢山ぶら下がった木々と、霧を通して、鳥やハルゼミの声が止むとシーンと言う音が聞こえるような気がします。
 大雨での林道閉鎖が解けた直後。夜中の大雨。誰もが、カッパを着たまま、濡れた身体で歩くと思っていた稜線。北岳を筆頭とした白峰三山は屏風のようにキリッと立ちはだかり、甲斐駒、仙丈は大きく、遠くに荒川岳が見え、八ヶ岳、中央アルプス、富士山までもが顔を出した奇跡のような展望。そして、何よりも南アルプスの懐の大きさと雄大さを全身で感じた二日間でした。

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奥秩父荒川水系滝川豆焼沢

 以下の者は、2005年7月3日、奥秩父荒川水系滝川豆焼沢をトオの滝から遡行し、四段50mの大滝、60mスダレの滝を越えて水源に至り、日本三大峠の一つで歴史ある雁坂峠(2085m)に登頂したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 悪天を伝える天気予報に計画を変更し、夜行日帰りに変えた夜。夜空一杯に1時間以上に渡って暴れまわった雷雲と雷光。その影響を恐れながらの豆焼沢でした。今回、アプローチにした雁坂トンネルは未開の貴重な山々である奥秩父北面に決定的な影響を与えたようです。その中にあっても、豆焼沢は最もマイナスの影響を受けた沢でしょう。かつて名瀑と言われたホチの滝の上に雁坂大橋がかかり、支流とは言えトオグリ沢には連瀑帯がありました。それが15年程前には豆焼の大橋が完成し、それに至る間では、川又からすこしづつ車道がかつての軌道跡を破壊しながら伸びていきました。僕自身が初めて、この地を訪れた時には川又から軌道跡を歩き、滝川本流の「ミクロの通らず」等をきわどく通過し、ようやく到達した豆焼沢でした。10時間近い行動時間とは言え、夜行日帰り等、思いもよらぬ深い谷でした。雁坂トンネルの非常脱出トンネル、東大演習林の作業道をつなぎ合わせて、最も刺激的な上流部分を楽しむ遡行はできましたが、川から谷、そして沢へと遡行の全ての楽しさを味わえたのは過去の話です。それにしても、やはり豆焼沢は見事な谷でした。トオの滝を厳しいバランス登攀で越えてからも豊富な水量の谷は一瞬たりとも気を緩めることを許さず、次々とかかる大きな滝と、大滝、スダレの滝と目を見張らせる驚きの景色を次々と見せてくれました。大きな滝が姿を消すと同時に沢床一杯に足元を埋めつくす苔の緑は、いかに下流部分が破壊の憂き目を見ようとも、広大な原生林の中を流れる荒川水系の谷であることを、改めて僕達に教えてくれました。何故かひどく冷たい水に変わるミニゴルジュからの源流部分。そして、突然に消える水。登り着いた雁坂峠は曇空の下であっても、あくまでも明るい雰囲気に満ちていました。
 金峰山から雲取山に至る稜線の北側は南面と様相を一変させ、登山道は雲取山三峰口と雁坂峠道の二本のみ。広大な原生林が首都圏とは思えない規模で待っています。

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60mナメ滝。冷たい水が最高 60mナメ滝へ向かって!
60mナメ滝。冷たい水が最高 60mナメ滝へ向かって!

鍋割山

山頂から猛暑の谷を越えて富士山
山頂から猛暑の谷を越えて
富士山

 以下の者は、2005年6月28日、表丹沢のブナの名峰・鍋割山(1272m)に四十八瀬川二俣より後沢乗っ越しを経て登頂し、小丸から小丸尾根を下降して鍋割山稜を一周したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 6月の末の丹沢。そぼ降る雨と霧の中、ボッと浮かぶブナの幹。霧の中に点々と白く浮かぶヤマボウシの花・・・そんなイメージで考えた鍋割山でしたが、空梅雨の猛暑の中、歩きだして10分で吹き出すような汗、点々と染みとなって地面に落ちる汗、そう汗汗汗の一日となってしまいました。未だに耳の中に耳鳴りのように響くエソハルゼミの声、谷を渡って響きわたる鳥の声・・・盛夏を思わせる風の中に丹沢の山はありました。後沢乗っ越しに出た途端の吹き上げる風の気持ち良かったこと、乾いた風が稜線を吹き抜けたことだけが救いの一日でした。丹沢の山の特徴は、海と富士山の近いこと。はるばると登り着いた印象の強い稜線の一角から夏の霞のようなネットリとした空気を通してでも、見下ろす町並みの果てに海!と思われる物を見られるのは中々嬉しいことでした。そして富士山。夏独特の展望の悪さにほとんど諦めていた日本最高峰が、まだ、すこし雪を残してひときわ高く、聳えている姿は、やはり見事と言う他はありません。奥多摩等に比べて平日でも人の姿の絶えない表丹沢の中にあって、鍋割山は、それでも静けさを保っていました。すぐ隣の大倉尾根が延々たる階段の印象が強いだけに、木々に覆われた道だけでも、嬉しく感じました。炎天下の山頂でしたが、それでも広がった展望は炎暑の下を歩ききった私達を歓迎してくれているようでした。鍋割山は主稜線から僅かに外れているために、その展望は塔が岳から蛭が岳、檜洞丸と丹沢の核心部が大きく広がっていました。そして、山頂から小丸に至る稜線こそ、この鍋割山のハイライトでした。稜線は、その大部分をブナの美しい木々が覆い、それまでの灌木を交えた尾根とは様相を一変させ、奥深い濃い緑色のカーテンをかけたような見事な深山の雰囲気を創り出していました。檜洞丸付近の鬱蒼たるブナ林と比べて、まだ若い感じのする、活力ある緑のトンネルの下を歩くことができました。表丹沢の中にありながら西丹沢の奥深さを持った鍋割山。いつか紅葉の頃にも訪れたい山の一つです。

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奥多摩日原川・唐松谷

野陣の滝、直登
野陣の滝、直登

 以下の者は2005年6月26日多摩川最大支流・日原川の源流の一つである唐松谷を出合いの唐松橋から野陣の滝、大滝を越えて遡行し赤石窪まで到達したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 ここも東京!それをすっかりと忘れさせる唐松谷の一日でした。頭上を覆う分厚い緑の屋根。ホウの大きな葉。足元を走り去る大きなイワナ。腹に染み渡る瀑水の音。空梅雨らしい暑さの中、水は冷たく身体を冷やしました。唐松谷は東京の一番西の端にあたる部分の水源の谷です。東京都水源林として手厚く保護された原生林は奥深く、その隣の大雲取谷、その支流の小雲取谷、長沢谷と共に、沢そのものの困難さや滝の大きさと関係なく、なによりも分厚い緑の木々と、足元を埋める濃緑の苔、黒々と磨かれた岩が深山幽谷を辿る楽しさを伝える・・・・そんな場所です。出合いの唐松橋は素敵な所です。大雲取谷にかかる小さな釣り橋がそれだけで風景に溶け込む所です。かつては、車を止めた場所の辺りを大ブナ別れと呼び、現在の日原林道が開通する以前は、天祖山登山道にあたる道を登り、山腹を延々とトラバースして名栗橋付近を通過してようやく到達する僻遠の地でした。名栗橋付近に名栗小屋、唐松谷とマミ谷の間には檜尾小屋と呼ばれる造林小屋があり、そこを拠点として周囲の沢を登る人々の姿がありました。
 次々と小滝を越えて出会う野陣の滝。本来は高巻きで越えている滝ですが、シャワークライミングを交えて三段の滝を乗り越えました。その上も苔に覆われた美しい滝。合計で実に五段の滝を越えて乗り越せる大きな滝でした。大滝の優美で雄大な姿と体面すると谷は一気に穏やかな様相となり、次々と現れる小滝、ナメ滝を越えて行く、奥多摩ならではの爽快な沢登りが経験できたことと思います。主に奥多摩の入門向きの沢が鹿の食害によって荒れてしまい、転進した丹沢で想像をはるかに越えた沢の荒廃と出会い、再び舞い戻った感のある奥多摩の谷。たしかに沢には大木が転げ込み、岩盤の崩壊を乗り越える部分も沢山ありましたが、丹沢と比較してはるかに残った自然の恵みと濃い緑に奥多摩こそ登山の原点と確信してきた僕にとっては溜飲を下げる思いがありました。「まだまだ行ける!」そんな安心感もありました。谷の中では僅かに釣り師一人と出合いであっただけの静寂の谷。まだ、耳の奥に滝の音とハルゼミの声が耳鳴りのように残っています。

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鷹の巣山

高丸山への稜線を行く
高丸山への稜線を行

 以下の者は、2005年6月22日、奥多摩七つ石尾根の盟主・鷹の巣山(1736m)に奥多摩湖畔峰谷の奥集落から浅間尾根を経て登頂し、巳の戸の大クビレから千本ツツジを往復したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 梅雨真っ盛り。霧の中に浮かぶブナの木の幹を水が流れ落ち、濃い緑の中に白く咲くヤマボウシの花が見事でした。当初、奥多摩一の急坂で知られる稲村岩尾根を登ることを目的とした今回のプランでしたが、丸一日の雨天の予報に、比較的標高差の少ない浅間尾根に変更しました。鷹の巣山は標高1700m以上。三角錐の尖った姿は美しく、その先に雲取山と言う東京を代表する横綱が居なければ、おそらくは奥多摩を代表する名山として人気を持ったことと思います。稲村岩尾根上部のブナの森は有名ですが、今回、登った浅間尾根についても、中間部以上で堂々たるブナの巨樹が立ち、広葉樹の美しい森が尾根を埋める見事な眺めが続きます。鷹の巣山を中心とした七つ石尾根は、その稜線上を広々とした防火帯が水道局によって切り開かれ、明るい草原となって続きます。かつては奥多摩一のお花畑として知られギボウシ、オダキマ、シモツケソウ等が咲き、晩夏にはヤナギランが斜面一面を覆い、奥多摩湖畔から見上げると山肌が淡くピンク色に見えるほどでした。現在は残念ながらシナノマルバダケブキとバイケイソウのみが目立つようになってしまいました。しかし、それも、いつの日か必ず蘇るものと信じます。霧で何にも見えなかった鷹の巣山山頂ですが、南面を中心とした明るい広がりを感じることができました。いつの日か冬晴れの日に南に大きく開けた山頂に立つ日を楽しみにしています。
 奥多摩のツツジは春先のヤシオツツジに始まってミツバツツジ、レンゲツツジと続き、サラサドウダンとヤマツツジで終わりとなります。今回、その名も「千本ツツジ」と呼ばれる七つ石尾根のツツジの名所を往復しました。ミツバツツジの残骸が少々、ヤマツツジが今を盛りと咲いていました。明るい斜面に広がるツツジも見事でしたが、霧の湧く原生林の中に淡く浮かび上がる朱色の点々も素敵でした。雨の中の思わぬ拾い物の思いがします。これから、奥多摩は夏を迎えます。秋の季節まで、ちょっとお休みの奥多摩ですが、僕達の山歩きの最も基本の故郷であると、改めて感じました。

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笛吹川東沢釜の沢

いつも清々しい千畳のナメ
いつも清々しい千畳のナメ

 以下の者は、2005年6月18日〜19日、奥秩父笛吹川の本流たる東沢釜の沢を二俣よりホラの貝ゴルジュ、山の神を越えて出合いより遡行し、魚留めの滝、千畳のナメ、両門の滝を登り、東俣を水源まで遡行し、日本百名山の一つ甲武信岳(2475m)、埼玉県最高峰・三宝山(2483m)に登頂したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 笛吹川は沢登りの、谷歩きのメッカとも言える川です。ご本家とも言うべき、今回の東沢・釜の沢を筆頭に、西沢にも多くの沢を持ち、東沢本流に左右から注ぐ多くの支流の全てが、それぞれに個性的な沢を持っています。釜の沢東俣は中間部の延々たる広河原のゴーロ歩きが苦痛と言う点はあっても、日本を代表する分水嶺たる甲武信岳に直接突き上げる位置と言い、千畳のナメ前後の絶景と言い、沢登りを志す者が一度は辿るべき名ルートと言えるでしょう。今回、梅雨真っ只中であるにもかかわらず、6月に入ってからの降雨はけして多くはなく、そのため、東沢そのものの水量は少なく遡行しやすかったと言えます。一方で東御築江沢(ヒガシオツクエ)、乙女沢、東のナメ沢といった本流に左右から滝となって注ぐ谷は、水量が少なく迫力の無いショボイ物となってしまったことは残念でした。東沢・釜の沢はもともとは甲武信岳に登頂する唯一のルートとしてありました。山の神までの間に所々に点在する登山道の残骸、看板等は整備されていた頃の名残です。頂上から山梨側を見下ろす時、山頂にナイフで切れ目を入れたかのように鋭く食い込んだラインこそが、前日に登り切った釜の沢です。苦闘の末に多くの素晴らしい景色を見せてくれた沢を頂上から見下ろすことが可能な点がこの沢の魅力と言えるでしょう。
 甲武信岳は、その名の通り甲(山梨)、武(埼玉)、信(長野)の国境の山であり、一方で釜の沢から始まる笛吹川、日本で一番長い河川である千曲川、そして隅田川となって東京湾に注ぐ荒川の水源の山でもあり、文字通りの分水嶺の山です。奥秩父の魅力は渓谷と原生林にあると言われていますが、山頂から東側・荒川側、三宝山に向かう尾根の右側の鬱蒼たる原生林の中に沈む荒川流域こそは、稜線に至る唯一の方法が沢の遡行であり、人の姿を見ない太古の自然が残る人跡未踏の広大な谷と森が沈んでいます。この山域こそが「風の谷」が最も親しむ谷です。釜の沢を出発にこれらに挑戦して欲しいと願います。

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甲武信岳から十文字峠

 以下の者は、2005年6月14日〜15日、奥秩父の中核、千曲川、荒川、笛吹川の水源、分水嶺の山であり日本百名山の一つである甲武信岳(2475m)に川上村毛木平から千曲川水源を経て登頂し、埼玉県最高峰・三宝山(2483m)、武信白岩山、大山を経て秩父三大峠の一つ十文字峠まで縦走したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 かつて、4年前まで十文字峠の小屋主をしていた山中邦治さん(甲武信小屋・山中徳治さんの父親)は、「私は長い間、晴れていると良い天気で良かったと言っていたけれど、小屋番を40年やった頃から、本当の十文字峠の良さは霧がかかり、コメツガの幹の苔がシットリした時だと思うようになった。だから霧雨の時が良い天気なんだよ。ここでは。」と言っていた。まさしく、それが実感となり肌で感じられた二日間でした。歩きだした毛木平は初夏の陽射しと、ヘニバナイチヤクソウとレンゲツツジ、そして耳を聾するハルゼミの声の支配された中にありました。今年は梅雨の訪れが遅いのか、比較的乾いた中の登りでした。川と言う感じの千曲川が谷と言う雰囲気となり、ナメ滝、「うまい水」とすこしづつ登り詰めていく中で、僕が最も好きなシラビソの森の中を苔むした岩が埋め、その上を僅かになった水流が走る登りとなり、沢音がピタリと止まり鳥の声だけが支配する中に最後の一滴が消える水源となります。そこからの小屋の「ボッカ道」はフワフワとした苔の絨毯の上を辿るジグザグの道の果てに曇り空の下であっても明るい山頂に飛び出しました。「日本百名山が43座見える」はずの山頂は、ときおり霧の去来する中にありました。朝、トタン屋根を打つ雨の音で目覚め、霧雨と言うにはちょっと元気のありすぎる雨の中の道となりました。それでも、前日より効いた展望は破風山から雁坂嶺にかけての原生林の尾根、足元に深く重く佇む荒川水源の黒木の広がりが感じられました。一見、土の山に見える山肌は、実は十重二重に重なった倒木の上に分厚い苔が生え、その上に巨樹が林立する樹木の生き死にによって作られた山であることをしみじみと実感しました。
 武信白岩山からのシャクナゲのトンネル。十文字峠では盛りを過ぎていましたが、その手前まで、「これでもか!」と言う勢いでピンクの濃淡を付けて続いた姿は見事と言う他はありません。最も好きな奥秩父の最も好きな部分。最も好きな季節と出会いでした。

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雨なのに三宝山からは甲武信がきれい 十文字近し!シャクナゲのトンネル
雨なのに三宝山からは甲武信がきれい 十文字近し!シャクナゲのトンネル

大菩薩連嶺縦走

 以下の者は、2005年6月7日〜8日、大菩薩連嶺のほぼ南北を縦断し、青梅街道・柳沢峠から六本木峠、丸川峠、大菩薩嶺(2057m)を越えて大菩薩峠から石丸峠、小金沢山、牛奥の雁が腹摺山、黒岳、湯の沢峠を経て南大菩薩の大蔵高丸、ハマイバ丸、大谷が丸、曲り沢峠とほぼ完全に縦走したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 大菩薩とは不思議な山々です。標高は雲取山より高く2057m。日本百名山の一つにも数えられ、東京方面から西の空を見る時、富士山の右側に黒々と横たわる姿は孤高の雰囲気を持っているにもかかわらず、一方で標高1700mの富士見荘前までタクシーが入り、運動靴でも登れる山でもある・‥そんな二つの顔を持つ山です。しかし一方で東西10km、南北12kmにわたる広大な山域でありながら、ほとんどの登山者が大菩薩嶺から大菩薩峠の最も突出した部分だけを歩き「大菩薩を歩いた」と感じて山を下りていく・・・そんな山でもあります。たしかに、この部分は南アルプスと富士山の圧倒的な迫力の展望を望め、北東側の見事な原生林との対比も美しく、最も大菩薩の良さを体現した部分ではあっても、その全てでは無い‥・言わばケーキのテッペンを食べて美味しかったと言うに等しい物を感じます。広葉樹の美しい牛の寝通り、原生林と草原の交互に繰り返す奥深い小金沢連嶺、そして草原の南大菩薩と様々な顔を持ち、その全てを体感してこその大菩薩である‥との気持ちを持つ者としては、「展望と原生林」だけで語るのは不十分と確信します。そして、四季それぞれの魅力を持つ大菩薩。今回は徹底的にミツバツツジと共にある山でした。ショッキングピンクのトンネルの下を、時々ヤマツツジの朱色を交えて辿る道、原生林の中を霧が漂い幽玄の世界の中を歩く嬉しさは素敵です。そして、大菩薩嶺と大菩薩峠で登山者と遇った以外には全く人の姿を見ないことも僕達だけの山を実感しました。二日目の小金沢から南大菩薩へと更に進んだ者達には、雲海に高々と浮かぶ南アルプススが迎えてくれました。終始、富士山を見ながら歩く、無限に繰り返されるかと思われる一つ一つの大きなピークは全て個性的で南に行くほど明るい草原が支配する楽しいものでした。柳沢峠から大菩薩峠の間には森の作りだす大菩薩の顔が、その南には草原と雑木林の作りだす大菩薩の顔があったのが印象に残りました。

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牛奥の雁が腹摺山からの富士山

牛奥の雁が腹摺山からの
富士山
丸川峠の草原はステキだ

丸川峠の草原はステキだ

アツモリソウ・・見つけた!

アツモリソウ・・見つけた!




朝、雲海に浮かぶ南アルプス
朝、雲海に浮かぶ南アルプス

笛吹川鶏冠谷右俣

 以下の者は、2005年6月5日、笛吹川鶏冠谷右俣を出合いから魚留めの滝、逆「く」の字の滝を直登し、25m滝、30mナメ滝を越えて大滝まで遡行したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 沢の宝庫と言われる笛吹川流域。その中でも様々な魅力を持った谷が鶏冠谷です。実は、この鶏冠谷、今回登った右俣以外にも沢山の支流を持っています。入り口すぐに出会う飯盛沢、四段のナメ滝下に少量の水量で高くから水を落とし冬季にはアイスクライミングの対象となる奥の飯盛沢、左俣本谷、左俣支流の上部で垂直のゴルジュを持つ一の沢、涸れ棚が続くこの沢、全てがナメ滝の連続の三の沢と、それだけでも沢の博物館のようです。いずれもが、充分に個性的でありながら何れも真っ白な花崗岩で覆われ、固い岩盤が覆う奥秩父とは思えない明るさと原生林に囲まれた共通点を持っています。しかし、その完成度の高さ、全く飽きる箇所の無い谷、一つ一つの角を曲がるごとに驚きがあり、それがナメ滝だったり、思わぬ高さから落ちる大きな滝だったり、屈曲して落ちる滑り台のような滝だったり、ミツバツツジであったり、斜面を埋めつくすシャクナゲであったり、鹿のツノが落ちていたりと鶏冠谷右俣こそは鶏冠谷全体、笛吹川全体を通じても屈指の谷です。難しい魚留めの滝、優美な逆「く」の字の滝、右俣に入ってからの「これでもか!」とも言うナメ滝、ナメ床、滝の連続。息継ぐ間の無い刺激がありました。
 渓谷と原生林の奥秩父。首都圏にありながら、他の山域が荒廃の中にあるのに対して、自然の中に回帰する太古の山の姿が随所に残っています。一つ一つの滝や釜の通過を旨とする沢登りではなく、谷全体を山と向き合う重要な手段としての沢登りがそこにはあります。小手先の技術的な登攀ではなく、力を込めて楽しむ登山本来の姿がそこにはあります。明るい花崗岩の笛吹川流域、黒々とした固い岩が磨き上げられたゴルジュが冷たい輝きを見せる荒川水系、そして多量の水量と巨樹の森の中にある多摩川水系。何れもが登りおえた者に心地よい疲労と「次も奥秩父の谷へ!」との思いをかき立てる何かがあります。当たり年と思われる今年のシャクナゲの濃淡とりまぜたピンクの色見本のような斜面は鶏冠谷のこの季節だけのものです。それとの出会いにも感謝したいと思います。

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最後までナメの連続 見下ろす四段の滝 水が消えて登る斜面はすべてシャクナゲ
最後までナメの連続 見下ろす四段の滝 水が消えて登る斜面は
すべてシャクナゲ

雲取山から飛龍山

 以下の者は、2005年5月31日〜6月1日、奥多摩湖畔の小袖集落からブナ坂を経て日本百名山の一つであり東京都最高峰の雲取山(2017m)に登頂し、奥秩父主脈縦走路を三条ダルミから三つ山の岳雁台、北天のタルを経て不遇の山梨百名山の一つであり多摩川水源の重鎮である飛龍山(2065m・別名「大洞山」)にも登頂し、大ダルを経て奥秩父四大峠の一つ将監峠へと縦走したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 ブナ坂の上にポカッと開いた青空がグイグイと広がり、雲取山山頂からの360度の眺めは輝く初夏の太陽の下にありました。西に広がる視界の半分以上を占領する大きな図体の飛龍山は遠く大きく、とても簡単には越えられない雰囲気を持っていました。山の春は一気にアッと言う間にやって来ます。毎日毎日、すこしづつ斜面を春は登り、そして、それはすでに夏の気配をはらんでいました。小袖の集落の緑は濃く、咲くツツジは鮮やかな朱色のヤマツツジでした。それがブナ坂手前ではベニサラサドウダンが花を付け、ブナ坂を越えるとミツバツツジが稜線を彩っていました。そして山頂近くでは新緑とも言えない淡い緑がようやく顔を出す・・・そんな世界が待っていました。春から初夏へと移り変わる今は最も山の中が活き活きと輝く季節です。谷一杯に鳴くミソサザイとコマドリの声、遠くに微かに聞こえるホトトギスとアオバトの声、山頂の近いこと、高い所まで一歩一歩登り詰めたことを教えてくれるメボソムシクイとルリビタキの声。東京の一番高い所は僕達の足下にありました。夜景と星空に励まされて、遠くに南アルプスと富士山、浅間山を望む縦走路はシャクナゲの花と共にありました。僕が大好きで、ことあるごとに、その大きさと太古の原生林の良さを随所で伝えてきた飛龍山は、小さな標識一つが示す頂上です。そこからハゲ岩までの尾根。シャクナゲ横丁と呼ばれる所は、最初は固い蕾で心配をさせましたが、両脇をピンクの花の飾る素敵な廊下でした。そしてハゲ岩。足下にグイッと大常木谷の食い込む原生林の海に岬のように突き出した展望台は雲取と比べ360度の広がりでは無いものの、雄大さは勝る大好きな場所です。奥秩父東部であり奥多摩の水源地帯である部分。その全部を歩ききった僕達の一歩一歩の足跡は、まだきっと稜線の鹿の足跡を越えて続いているはずです。楽しかった二日間に心から感謝!

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飛龍山シャクナゲ横丁のトンネルのようなシャクナゲ ハゲ岩から見下ろす大常木谷の原生林
飛龍山シャクナゲ横丁の
トンネルのようなシャクナゲ
ハゲ岩から見下ろす
大常木谷の原生林

勘七の沢

遡 行 証 明 書

 以下の者は、2005年5月29日、表丹沢を代表する、勘七の沢を二俣から遡行し水源まで登り花立に登頂したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 前日の荒廃した水無川本谷の荒涼としたガレの堆積。ガラガラと崩れ落ちるガレ場。赤土の剥き出しの斜面に本来のあるべき山の姿を失ったことに愕然としていただけに、大きくは変わっていなかった勘七の沢にホッと胸を撫で下ろす思いでした。勘七の沢の魅力は沢本来の滝があり、釜があり、ゴルジュがあり、という良さです。そして、土砂の流入が少ない分、岩があり、緑があり、そして豊富な水流がありました。適度な困難を持つ滝が続くことも魅力でした。二俣から谷に入り、谷一杯に響きわたるミソサザイの甲高い鳴き声、両岸を埋めるヤマツツジの朱色、そして絶えず聞こえるハルゼミの声、僕達が沢登りに求める物がそこにはありました。見上げる緑はすでに新緑ではなく濃い緑の支配する初夏の谷でした。そしてF1。奥多摩や奥秩父の谷と違い、他の遡行者との兼ね合いも沢登りの重要な要素とも言える盛況がありました。多くの人々が登っていても脆い岩は丹沢の特徴でしょう。次々と現れる滝を乗り越えていく楽しみ、そして、既に丹沢では出会えることの無いと思われた釜もあらわれました。石積みの堰堤の通過の上にゴルジュとの出会いがありました。ゴルジュ。両岸が屹立した岩壁となり、あたかも廊下のように形成された沢の底。崩壊の進む山の中では、次々と姿を消したものでした。その中にかかった小滝を越えていく爽快さは素敵でした。ヤマツツジがミツバツツジに代わり、高度を稼いだ後のツメ。しかし、そこでは悲しい丹沢の今の現実がありました。枝沢はガレが積もり、いち早く逃げた尾根も丸裸のボロボロの斜面が広がり、岩は動き、木々は枯れかけていました。最も緊張させられたのは、実は水が無くなり、靴を履き替えて目指した稜線への道でした。でも見上げると点々と咲くミツバツツジの強烈な紫があり、そして涼やかな稜線の風がありました。
 既に求めるべくも無いと思われた丹沢での沢登りの爽快感。実に20年ぶりとも言える再会は、沢を選べばまだまだ楽しめる部分もあることの嬉しさでした

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勘七の大滝 ナメがうれしい! 次々とかかる滝
勘七の大滝 ナメがうれしい! 次々とかかる滝

水無川本谷

遡行・登頂証明書

 以下の者は、2005年5月28日、丹沢を代表する沢登りルートである水無川本谷を戸沢出合いより完全遡行し、塔が岳(1491m)に登頂したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 沢登りを登山の中の重要な位置に置いていない者、一生に一回しか沢登りをしない者でも、水無川本谷だけは遡行したことがある・・・と言う者は少なくないと思う。それほど、首都圏の登山者にとって代表的な沢であり、沢登りを象徴する沢として水無川本谷はあります。首都圏で最も多くの登山者が登る丹沢の中でも、最も多くの人々が登下降する塔が岳。その山頂にクサビのように突き刺さる水無川本谷。しかし、一方で、未知の世界、自分で出合いを見つけ、自分で滝を登るべきか巻くべきかを判断し、自分なりのルートを切り開くという冒険としての沢登りとは違うゲレンデとしての沢でもありました。出合いから本谷を示す標識とペンキ、そして、ついに登場する「F1」の看板。最も登りやすいオーソドックスなラインに付けられたクサリ。それは、正規の登山コースとして、この谷を整備しようとした試みのあらわれでした。されは、谷の随所にあり、そして登山コースとして僕達を確実にツメへと導きました。F3には「遭難多発地帯」であり、できれば巻き道を通るように警告もありました。しかし、そういった様々な僕達の冒険心を侵害する看板やクサリにもかかわらず、水無川本谷は魅力的な谷でした。一つ一つの滝の直登に魅力があり、一つ一つの滝が個性的だったためです。けれども一方で、この谷全体を覆う荒廃した雰囲気は覆いようもありません。谷全体を埋めつくす膨大な量の沢の随所からのガレや石、砂、土砂の数々、それは、過去の物ではなく、今現在も日々崩れ続け、谷を大きく埋めつくしているという現実がありました。増水によって流され、何時かは落ちつくガレではなく、日々、新たに流され、上に積み重なり、一歩一歩の果てに崩れつづける不安定な斜面、ついにはガレの下に消えて看板だけが残った滝、それは紛れもなく首都圏を代表する谷の現実であり、奥多摩や奥秩父が20年遅れ、30年遅れであっても追尾し続けている山々の現実です。登攀の緊張ではなく、崩壊のもたらした緊張が僕達を絶えず追い立てていました。何時かはかつて登った水無川本谷へ・・・との思い、奥多摩の入門向けの谷の荒廃故に転進した丹沢でのシビアな現実に打ちのめされた感の水無川でした。

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唐松尾山

 以下の者は、2005年5月25日、奥多摩西端・多摩川水源最高峰である唐松尾山(2109m)に三の瀬から七つ石尾根、山の神土を経由して登頂し、山梨、埼玉県境の尾根を黒槐の頭(2024m)を越えて辿り、水干へと到達したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 山の斜面を緑が登っている!それが実感として感じられた多摩川水源の山々でした。歩きだした三の瀬は多くの花が咲き乱れる緑濃い山里でした。それが七つ石尾根に入ると葉の色が淡くなり、対岸の将監峠への斜面を埋めつくすダケカンバの黄緑色は春そのものの色でした。そして稜線近い午王院平近くでは、ついに木々は葉を無くし冬と同じ状態へとなりました。それほど高度と季節の変化を目と肌で感じさせられる山は無いとも思えました。しかし、一方で鳥達は、もうすでにすっかりと春の声。谷一杯、尾根一杯に繁殖期ならではの声を高らかに響かせています。唐松尾山は静かな山頂です。そこが奥多摩の、多摩川水系の最高峰であるとは、とても思えない山頂です。三角点そのものからは展望とてない、ただ、真っ赤なシャクナゲの蕾だけが、華やいだ雰囲気を出していました。今回は、荒川側の露岩に向かいました。山頂から100m前後行った所、大きく広がる人跡未踏の荒川水系滝川上流の樹海の森と谷に岬のように突き出した場所は付近を開きかけたシャクナゲが飾り、甲武信岳から雁坂峠にかけての黒々とした山々が広がっていました。そこから黒槐の頭までは踏み跡程度の尾根上の道でした。随所でシャクナゲが顔を出し、小さな上下の末に踏み跡さえも無い、黒槐の頭へのルートを辿りました。標識等は皆無の文字通りの不遇の頂、ついさっき越えてきた唐松尾山から飛竜山、雲取山までが広がる山頂でした。そこからの水干までの道は素敵でした。再び顔を出した唐松の緑、笹原の広がり、庭園のような雰囲気とミツバツツジの中を、多摩川の最初の一滴の滴るはずの岩溝は、何故か乾いたままでした。しかし、頭上を覆うブナやミズナラの明るい緑と、途中、朝日谷から汲み上げた水で入れたドリップコーヒーは、遅い時間に煽られていた気分を十分にほぐす物でした。「日は長いんだ・・・、もうすこし、この雰囲気の中で休もう・・・」そんな水源でした。唐松尾山から黒槐の頭は見事な稜線でした。鬱蒼たる黒い森と苔の絨毯は、それ自身が水源の森であることを語っていました。

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シャクナゲ・・もう少しで花! 唐松尾北面の原生林 黒槐山頂
シャクナゲ・・もう少しで花! 唐松尾北面の原生林 黒槐山頂

天狗棚山

 以下の者は、2005年5月24日、多摩川水源地帯の不遇の名峰・天狗棚山(別名・藤尾山・1606m)に犬切峠から登頂したことを証明いたします。

天狗棚山からの唐松尾山
天狗棚山からの唐松尾山

氏名 風 の 谷

 天狗棚山は小さな山でした。ただ、山奥の奥、本当に奥深い所にある、そんな静けさが嬉しい山でした。そもそもの出発の場所、犬切峠から独特の場所です。青梅街道からさらに一山越えた奥にある一ノ瀬高原。塩山と丹波山との間の青梅街道の中でも、最も不便な箇所、落合から更に7km。1400m近い峠を越えた果てにある30戸ほどの小集落。それが一ノ瀬高原なのです。「なんでこんな辺鄙な場所に、人が住んでいるのだろう?」当然のように出る声です。現在の一ノ瀬林道は1970年代にようやく開通した道。それまでは、今回の出発点の犬切峠を延々と越えて初めて到達できる地だったのです。かつては塩山から落合まであったバスは15年前に廃止。完全な陸の孤島故の静寂が、この山にはありました。東京都水道局の防火帯が最初の出発の道。広々とした公園のような道は、峠を挟んで対岸の位置にある石保戸山と共に、この付近の山の景色です。そして、この防火帯は貴重な山上の草原として多くの山菜、とりわけワラビの宝庫として地元の人々の食卓を賑わす場所でもあったのです。しかし、一方で、この天狗棚山は登山者にはほとんど登られていない山です。入り口にも指導標は無く、山の中にもサイン等は一切無く、三つ続いたピークの中で本来の山頂を見つけるのは、それなりのの読図の技術が必要な山でもありました。位置的には大菩薩と奥多摩の多摩川水源の山との中間にありますが、顔を出した新緑に妨げられて、防火帯の上から笠取山から雁坂峠、唐松尾山方向が見られただけでした。むしろ点々と咲き、頭上を覆いトンネルのようになったミツバツツジの鮮やかな紫が楽しい道でした。頂上の三角点と手掘りの標識が、僕達を迎えてくれました。
 天狗棚山から石保戸山、そして倉掛山へと続く尾根は、奥多摩の西端であり奥秩父の東部にあたる山々と平行する一段低い所を走る尾根です。その大部分に稜線上を防火帯が走り、登山道は全く無いものの、地形図さえ読めれば縦横に辿ることの可能な明るい楽しい展望の道が続きます。所々に点在するミズナラの巨樹が、かつて、そこが原生林であったことを教えてくれています。天狗棚山は明るい雑木、とりわけカエデの目立つ山でした。

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丹沢主脈縦走

 以下の者は、2005年5月17日〜18日、丹沢山塊の背骨とも言うべき丹沢主脈縦走路を大倉より大倉尾根を登り、塔の岳(1491m)に登頂し、日本百名山の一つ丹沢山(1567m)を経て最高峰・蛭が岳(1672m)を越えて、姫次、八丁坂の頭、黍殻山の東面を巻き、焼山(1059m)に至り完全縦走したことを証明いたします。

新緑の尾根が続く
新緑の尾根が続く

氏名 風 の 谷

 奥多摩、奥秩父、大菩薩と並んで評されることの多い丹沢。しかし、直下までのバス交通その他の便利の良さ、随所に立つ登山施設等から最も多くの登山者に手軽に親しまれる山域です。平日にもかかわらず、奥多摩あたりの週末と変わらない人出。良く整備された、されすぎた感のある登山道、快適な二日間の縦走でした。コンクリートに固められた広場として完成した大倉から、突然の延々たる登り、随所に作られた階段登り、けれども、所々に明るいモミジの広葉樹が広がり、富士山が見え、背後に大きく広がる海を感じての登りは「バカ尾根」の通称にもかかわらず、けして不愉快な物ではありません。塔の岳山頂は、既に緑色は一切無く、無粋な木枠が山頂を固め、これ以上の土壌の流出を抑えていました。にもかかわらず山頂に立つ小屋は素朴な物を失わず、美味しすぎない食事と、突然現れたブロッケン現象、深夜の大きく広がる夜景と最高の一夜でした。丹沢主脈のハイライトは何といっても丹沢山から蛭が岳の間にありました。部分的な立ち枯れは目立つものの、広がるブナの森、「谷川岳の縦走を思わせる」とガイドが書いた明るい闊達な笹の原の大きな広がり、一つ一つのピークを越えると出会う素晴らしい展望。見下ろす谷間の真新しい緑、そしてコイワザクラの小さな花。登り着いた蛭が岳は強い風の中にありました。一転して雰囲気を変えて落ちついた佇まいを見せた後半の縦走。とりわけ姫次以降は東海自然歩道として、今まで以上の整備がされ、思わぬ形で全山縦走もやり遂げることができました。丹沢の顔の大部分を味わった縦走。長かった二日間の行程は変化に富んだ楽しい物でした。一方、丹沢の突きつける厳しい自然破壊の状況は、やはり最後に触れておかなければなりません。「奥多摩の現在は20年前の丹沢」とは良く言われる言葉です。随所に張りめぐらされた鹿避けの網、立ち枯れるブナ、サルオガセを全く見なくなった稜線。多くの人が親しみ、楽しい丹沢がこれから、どうなって行くのか?気になります。

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川苔山

なかなかの登りの後みごとな川苔山頂
なかなかの登りの後みごとな川苔山頂

 以下の者は、2005年5月11日、奥多摩・多摩川北岸の盟主、川苔山(1363m)に川乗橋から川乗谷林道から百尋の滝を経て登頂したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 本当の春が山の斜面を凄い勢いで登り詰めていく時がある。それと、ちょうど出会えた川苔山の一日でした。歩きだしの川乗橋。日原川に川乗谷が合流する賑やかな沢音の橋は、すでに咲きだしたヤマツツジの静かな朱色がありました。舗装路になった林道は、眼下に小さい淵や滝をかけたなかなかに美しい道です。林道から登山道へ、川苔山の最も魅力ある顔である谷に沿った美しい道がありました。黒々とした岩肌と滑るように流れるナメ滝、すばしっこく走るイワナの姿、そして見上げる真新しい緑の色。これから繁殖期を迎えたたミソサザイ、コマドリの鳥の声が渓声の中にも響きわたります。ただし、谷沿いの道、渓谷の道はけして気の抜けない道です。奥多摩においても渓谷を見下ろす登山道は、絶えず崩壊の危険があり、一見、すこしの距離に見える谷底への高さもけして小さくはありません。緊張と、目を見張らせる渓流の美しさと、点在する名も無い滝、やはり名ルートと言える道です。それは百尋の滝で頂点を迎えます。落差25mと説明すると、みんなが「えっ、それしかないの?」と声をそろえる迫力ある直瀑がそこにはあります。ほぼ、10年ごとに崩壊する川乗谷林道が、大小の岩を谷に落とし大滝以下を醜く埋めてしまっていても、涼しい空気が満ちた独特の空間です。ここからが、川苔山への厳しい登りの始まりです。植林、広葉樹が交互に繰り返す道はグイグイと高度を上げて、濃い緑が生まれたばかりの若葉に変わり、そしてカラマツに点々と付くメキャベツのような新しい葉が顔を出し、頂上直下へと飛び出しました。そして鹿の食害で広々とした斜面と化した登りの果てに山頂はありました。もう既に、冬のさえ渡った展望は見えなくとも、正面に東京都最高峰たる雲取山を仰ぎ、大岳山から御前山への稜線、美しい緑色に染まった本仁田山を見下ろす川苔山は、やはり見事な展望の山と言えます。
 川苔山は標高1300m代。2000m級の山々まで持つ奥多摩の中ではけして高い山ではありません。けれども四方に伸びる尾根、切り込みのように突き刺さる無数の沢、雄大な山であることを改めて実感させられた春の一日でした。

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水晶岳

 以下の者は、2005年5月3日〜5日の間、北アルプスの最奥部の不遇の名山・水晶岳(2977m)に高瀬ダムから湯俣を経て湯俣岳(2378m)、南真砂岳(2713m)を越えて登頂したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 広々とした北アルプスの中でも最も人里離れた場所にある山、水晶岳。黒部川水源の山々の中の最高峰であり、黒々とした尖った大きな山容は周囲を圧する独特な威厳を持っています。最も奥まった所にある山頂は、やはり遠い頂でした。槍が岳を真っ正面に、北鎌尾根を手前にした展望のキャンプ、湯俣岳山頂から、実に往復11時間。真っ暗な中を出発した頂上でした。目指す山頂そのものが見えたのは南真砂岳山頂に着いてから。それまでは、その姿さえ見えない頂上でした。それだけに山頂に立った時の喜びは大きく360度の展望が北は剣、白馬から南は槍・穂高はもちろん、笠が岳、乗鞍と大きく広がっていました。北アルプス全ての中核の山としての水晶岳でした。それにしても、頂上への道は様々な試練と共にありました。延々たる車道歩きをこなし、硫黄臭の強い湯俣から胸を突く急坂を重荷と共に登り、かつて3年前に正月に野口五郎岳に登った時の「風の谷」の赤旗をたよりに登る原生林の斜面、そして飛び出した湯俣岳で一気に広がった展望のテント場がありました。背後にいわゆる表銀座の山々、燕山荘の大きな建物が見え、大天井岳の大きな山容と野口五郎が見える展望の泊まり場は、無風の春の陽射しの中にありました。暗い中を登りつづけ、裏銀座稜線に出て初めて出会える黒部源流の広がりがありました。東沢谷の広大なカールと水晶岳直下で飛び込んで来る、黒部五郎から北の俣岳への稜線、雲の平の広がり、北アルプス北部と南部の尖った峻険な山々と一味も二味も違う、角の取れたたおやかな稜線の広がりの中に一つだけ尖った先鋒のような山頂・水晶岳はまさしく黒部の王者の風格がありました。広い雪原を越え、急雪壁を登り、水晶ならぬ石英の岩混じりの斜面の上にポツンと立つたった一本の小さな標識。それが山頂でした。
 素晴らしい山頂。雄大な展望。黒部源流最高峰の重鎮としての山頂であるにもかかわらず、ついに誰とも出会わなかった山でもありました。本来の雪山、最高の雪山を行うのが本当に少数派となってしまったことを痛感させられた水晶岳の三日間でした。

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毛勝三山

 以下の者は、2005年4月29日〜5月1日の間、北アルプス最北部・剣岳北方稜線の更に北に聳える日本二百名山の一つ毛勝山(2414m)、三山最高峰である釜谷山(2415m)、剣岳の圧倒的な展望台・猫又山(2378m)の毛勝三山を片貝川阿部木谷より登頂し、縦走したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 標高こそ2500mに満たない中級山岳であるにもかかわらず、その雄大さと積雪量の多さでは日本屈指の山との印象を強く持った毛勝三山の縦走でした。おりからの寒冷前線の通過に伴う丸一日の停滞。当初予定の北西尾根からの登頂は諦めて、オーソドックスな阿部木谷から頂上を目指しましたが、取り付きの立山杉の巨大さに驚かされ、堰堤の下から吐き出される腹に染み渡る大水量の谷に驚かされ、そして何よりも散々登っても、ちっとも近くならない稜線に山の大きさに驚かされました。周囲から落ちるブロック雪崩にビクビクしながら午前2時過ぎに起きて登った谷。大明神山、モモアセ山と言った毛勝三山から派生した尾根の一角に立つ小ピークでさえも白く美しい山容でした。不遇と言われながらも山岳雑誌等で紹介され、3パーティーが目指した毛勝山でした。ヨタヨタと登り着いた稜線からドーンと広がる白馬岳から針の木岳に至る大山脈の貫祿も充分な後立山連峰の姿、そして登ること僅かで到達した久遠の山頂であった毛勝山からの剣岳の姿、そして更に北、すこしづつ標高を下げながら続く僧が岳、駒が岳の低くとも堂々たる山脈。狭い日本にもこんな山々があることを改めて教えられた思いでした。そこから最高峰・釜谷山を経て猫又山に至る稜線は春の陽光に腐りだした雪が足にまとわりつき、張り出した雪庇をどう越えるかに頭を使わされる稜線でした。終始、一貫して迫力ある展望と共に歩く三山の縦走でした。広々とした猫又山の山頂。自然に出来た両側が防風壁となったテント場。とりわけブナクラ乗っ越しを挟んでその東面を全部荒々しく見せた剣岳を見ながらの宴会。最高の山頂、最高のテント場がありました。毛勝山、猫又山にはそれぞれ登る者が僅かにいるものの、三山を縦走するものはおらず、この大迫力の稜線を独り占めした嬉しさがこみ上げます。春の雪山の最高の時間を過ごさせてくれた毛勝の山々は素敵でした。

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すごい傾斜の阿部木谷上部。背後は僧ヶ岳 毛勝三山の縦走のポイントは雪庇の処理。頭を使う 猫又山山頂の朝。朝焼けに染まるのは後立山
すごい傾斜の阿部木谷上部。
背後は僧ヶ岳
毛勝三山の縦走のポイントは
雪庇の処理。頭を使う
猫又山山頂の朝。
朝焼けに染まるのは後立山

節刀が岳

 以下の者は、2005年4月26日、御坂山塊の中核であり山梨百名山の一つでもある節刀が岳(1736m)に西湖畔の根場集落上より鍵掛峠を経て鬼が岳(1738m)、金山を経て登頂し、草原の大石峠へと主脈を縦走したことを証明いたします

氏名 風 の 谷

 春の始まった山は変化の山・・・。歩きだしは半袖で歩き、稜線の風の強さに上着を着て、鬼が岳ではカッパを出し、節刀が岳では雷の音に驚き、大石峠への道では寒さに首を縮め、そして、再び青空の下を下る・・・、不思議な一日でした。でも、足元にはビッチリと咲いたスミレの数々、その種類の豊富さは、山の春そのものでした。御坂の山の最大の魅力は終始、仰ぎ見ることのできる富士山の雄大な姿です。暖かかった根場集落の上。晴れているのに空気は何故か、モヤっとした独特の陰りがあり、富士山もすこしぼやけて見えていました。それが空気中の大量の水蒸気だったことは、鬼が岳で頭上を黒雲が覆ってはっきりと判りました。全体を振り返ってみると、鍵掛峠へのブナの森、鬼が岳への変化に富んだ岩混じりの急な尾根の連続、狭い狭い鬼が岳の山頂と鬼のツノを思わせる岩塔、金山手前からの落ちついたモミの木の尾根、節刀が岳からの周囲の山々の展望、大石峠の時間があれば寝ころびたくなるような明るい広がりと、ピークを一つ越えるごとに違う山との出会いの表情は最高でした。楽しみにしていた富士山は、河口湖駅周辺が結局は一番スッキリと見えて、山の中では霞んでいたり、笠を被ったりとなかなか良い顔ばかりではありません。大石峠の手前で谷を渡る僕達よりも標高の低い位置に見下ろした大きな太い虹の鮮やかな色が印象的でした。
 御坂の山は三つ峠ばかりが有名ですが、富士五湖の回りを半周する形で、実に多くの見事な山が御坂山脈の主脈とも言うべき形で続いています。何箇所かで直下まで車道が迫り、下の集落も見下ろす位置にあり、下界の音が風に乗って聞こえてくる人臭い山々でもありますが、土木王国と言われる山梨の山の中にあって清八峠以外は直接に車道が稜線に迫ることも無く、人の姿を見ない明るい自然林の続く、富士山と富士五湖の大展望のコースでもあります。遠くに甲府盆地の大きな広がりを見下ろし、南アルプス、奥秩父、大菩薩と大きく広がる展望と共に、一度、端から端まで歩き通したい山脈です。

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暗雲たちこめる鬼ヶ岳山頂

暗雲たちこめる鬼ヶ岳山頂
節刀ヶ岳手前から鬼ヶ岳 節刀ヶ岳手前から鬼ヶ岳

日和田山・岩登り入門講習

 以下の者は、2005年4月23日、奥武蔵の日和田山の岩場で、岩登りの入門講習を受けたことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 岩登りの講習を何の為に受けるのか?それによって講習内容も変わってきます。剣岳とか穂高とかの岩場の連続する登山道を安心して歩ける技術が欲しい。そう遠くない将来に本当の岩登りをしてみたい。ザイルを使って安全を確保する技術を身につけたい。と様々です。今回の講習は、岩登りのイロハを学びました。とりあえずの基本的な岩の登り方、相手のビレーの仕方、ランニングビレーの取り方、扱い方、ザイルの持っている特性、そしてセルフビレーと言う形で自分自身で自分の安全を確保しているか、パートナーが自分を確保しているかの何れかの状態が、岩の中にいるかぎり必ず続いていなければなりません。岩壁を迅速に下降するために懸垂下降は何としても確実を覚えていただきたい技術でした。実際、岩に取りついてみて、思うように登れたのでしょうか?何回も、「人間の腕力には自ずと限界がある。どんなに強力な腕力の持ち主でも、何メートルも腕の力で身体を持ち上げることはできない。」「仮にオーバーハングであっても、身体を持ち上げる力は足の力。」と言っても、なかなか最初から実行できるものではありません。午後になると、腕がパンパンになり最初には登れた所が登れなくなる・・・当然のことです。面白かったのは、最初から腕力に自信の無い女性のほうが、ハングした壁では最終的には登れたこと。もう、腕には最初から頼る気持ちが無くて、どうしても足さばきで登るしか無かった結果でした。現実のクライミングでも、一回も懸垂のできない人がオーバーハングは登れる・・・これが岩登りです。今回、様々なことをやりました。何れも消化不良で、なかなか身につくことではありません。でも、練習すれば岩場も登れること、岩登りの技術を活かして自分の登山の範囲や可能性を広げること、本番の岩登りに何時かは挑戦することのキッカケとなれば嬉しいと思います。岩登りの技術は登山道では無い所に挑む大切な要素の一つです。管理された山だけではなく、沢、岩壁、雪山と多くの可能性を登山は持っています。それへの挑戦の貴重な一歩です。「登山道を外れた途端に山には冒険の魂が待っていた」とは・・・・残念、僕の言葉ですけれど・・・。

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お坊山

咲きかけたミツバツツジ
咲きかけたミツバツツジ

 以下の者は、2005年4月13日、大菩薩連嶺南端の端正な三角錐の山である お坊山(1421m)に初鹿野の景徳院から大鹿峠を経由して登頂し、東尾根を棚洞山、入道山を経て笹子駅へと辿ったことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 山の春の天気の難しさをしみじみと感じさせられた一日でした。霧と小雨の中を西へと走った中央線の列車が二度、オヤッと思わされる天候変化のポイントがあります。一つは高尾駅と相模湖駅の間の小仏トンネル。高尾山から陣馬山を結ぶ稜線に東京湾から続いた平原が初めて遮られる所。もう一か所が笹子と甲斐大和の間の笹子トンネル。関東平野から続いた概ね平らな部分が1500mを越える大きな山脈で立ちふさがり、大気の流れが変わる所。今回は、まさしく、この大きな山脈の縁を辿った山行でした。降り立った甲斐大和の駅は、花冷えとも言うべき寒さの中にありましたが、それでも空気は冴えて周囲の山々が見えていました。それが、この稜線に近づくに従ってガスが覆い、霧が舞い、ついには小雨となりました。それでも、何も無いと感じた道端には、所々ですでにミツバツツジが開きかけて蕾と花を付けて咲いていました。今回のお坊山の最大の魅力は明るい雑木林にあります。最近では見かけることの少なくなったナラ、ブナ等の落葉樹の森。これが全山を覆い、斜面には太陽の光が入り、キツネ色の山々がすこしづつ新緑に染まっていく。そんな楽しさがあります。そして、葉を落とした木々の間からは甲府盆地の広がりと南アルプスの雄大な展望が見られる・・・はずでした。しかし、改めて写真を見ると幻想的な霧の中を点々とメンバーが浮かび、その背後には影絵のような樹林の裸になった楽しさがありました。冬から春へ・・そのヒトコマであったとも思います。
 お坊山は大菩薩南端の山と書きました。本当の南端は笹子峠と滝子山です。甲州街道で遮断されて、それより南東は御坂の山々です。そして、この山脈は北へ大谷が丸、大蔵高丸を経て小金沢連嶺となり大菩薩峠を経て柳沢峠へと続いています。更に笠取山から奥秩父主脈へと繋がる大山脈の一部を今回歩きました。関東平野に吹いた北東気流は、この山脈に当たった上昇気流となり、雲を作り雨を降らせる。だからこそ、首都圏の大切な水源の山々でもあるわけです。霧に湿っていたコナラの木肌が春の訪れを知らせた一日でした。

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初雪山

 以下の者は、2005年4月9日〜10日、北アルプス最北端の不遇の名峰・初雪山(1610m)に小川の夢創塾より795mピーク、大地山(1167m)を越えて登頂したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 永い間、気にかかり、一度は頂上に向かったことのある山。標高はけして高くはなく、たったの1610m。けれども、その山頂は、やはり素晴らしい展望と、誰の踏み跡も無い静寂の中にありました。そもそも、僕達の想像を越える場所に、初雪山はありました。海から水平距離でたったの10kmたらず、標高も低く、下の集落や泊の町の音、例えば12時のお昼を知らせるサイレンや物売りのスピーカーの音が風に乗って聞こえてくる尾根道が、亀裂のズタズタに入った数メートルの雪庇と格闘する場所である・・・なんて事は行った者でなければ判らない世界です。そして、視界の北半分はきれいに広大な海が広がり、その反対は白馬岳から剣岳にかけての峻険な雪山が、ズラリと並ぶ。海と3000m近い山々が同時に眺められる場所。そして、終始、1mから4m近い積雪がありながら、その合間にマンサクが咲き、カタクリが顔を出し、イワウチワがあり、ショウジョウバカマがある。これは、冬なのか、春なのか・・・いや、これが豪雪地帯の春の雪山なのだと、ようやく理解しました。それにしても、遠い、遠い頂でした。太平洋に面した東京から、日本海に面した初雪山。そして、頭のどこかに、「だけど、所詮、1600m。東京で言えば鷹の巣山だよな・・・」と言う思いがあって、ちょっと頑張れば・・・との思いがありました。しかし、実際に取りついてみると、それは、標高差1400m以上。東西に8km近く伸びた豪雪の尾根は、なかなかのボリュームで聳えていました。手が届きそうな近さになってからの山頂の遠かったこと。地図上から拾えるピークだけで14個。やはり、お気楽では登れなかった山でした。しかも、天気予報の大外れで、初日に全てを片づけたために、最後には、富山湾に沈む夕日を焦った気持ちで眺めながらの初雪山でした。今、振り返ってみても、素晴らしい展望を終始、独り占めにしながらの山でした。そして、美しかったミズナラやブナの森、月末に行く毛勝三山のどっしりとした構えとの出会い。首の日焼けのヒリヒリとした痛みと共にしばらく、瞼から離れません。

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大地山から見た初雪山・・えっまさかあそこ・・ 頂上。すんごい尾根 富山湾に沈む夕陽を見ながら下山
大地山から見た初雪山・・
えっまさかあそこ・・
頂上。すんごい尾根 富山湾に沈む夕陽を見ながら下山

浅間嶺

 以下の者は、2005年4月5日、奥多摩秋川を南北に分ける甲州古道の通る浅間尾根を数馬分岐からサル岩、一本松、石宮、人里峠を経て辿り浅間嶺(903m)に登頂し、瀬戸沢一軒家から時坂峠を経て北秋川橋まで縦走したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 奥多摩の山々にも春が訪れた・・・それを実感させられた浅間尾根です。この尾根、最初の登りをこなし、たどり着いた数馬分岐の標高が908m。そして浅間嶺の標高が僅か5m差の903m。もちろん、上下を繰り返してはいても、ほぼ同じ標高で続く尾根は長閑な気配に満ちています。登山中も何回もお話したように、この道は、かつて・・・と言ってもたかだか50年ほど前までは、南北秋川奥のそれぞれの集落と、檜原の拠点たる本宿とを結ぶ重要な生活道路だったのです。古くは田部重治氏の「山旅と随想」の中でも、戦後の燃料不足の際に、秋川奥から炭を浅間尾根経由で馬を使って運ぶ話が出ていました。馬が通り、塩が運ばれ、笹尾根を越えた鶴川上流から繭や生糸が運ばれて、そして嫁取りが行われた・・・そんな道です。道端の随所で見られる馬頭観音は正しく旅の安全を祈る観音様です。その一つ一つの表情が違い、笑っているような顔、怒っているような顔、緊張したような真面目な顔・・・それぞれの魅力があります。そして、この尾根の最大の魅力は優れた展望です。私達の次の目標となりうる大岳山から御前山を経て三頭山に至る奥多摩の背骨とも言うべき山々が明るい、暖かげなキツネ色の楽しそうな雰囲気を見せて終始、歓迎してくれているようにも感じます。率直に言って、多くの奥多摩の山々・・奥多摩入り口の標高700m前後の山々から始まって多摩川水源の標高2000mを越える山々に至るまで、様々な表情を持った山がありますが、この尾根ほど明るく、楽しい尾根を知りません。大好きな山です。そして、急激に訪れつつある奥多摩の春も全身で感じることができました。カタクリの葉が顔を出し、ダンコウバイやキブシといった、木々が芽吹けば、その影に隠れて誰も気がつかない素朴な花が道端で咲いていました。
 秋川奥の山々は標高も高くなく、目立った頂上も少ない控えめな山々ですが、一方でかつての山里の人々の生活の匂いのする、カヤトの原や雑木林のある静かな地です。稜線に上がると富士山と出会える道、明るい静寂の山々を大切にしたいと思います。

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時坂峠の下。やっと出会えたカタクリ 浅間尾根は明るい雑木林が続く 笑った顔の馬頭観音
時坂峠の下。
やっと出会えたカタクリ
浅間尾根は
明るい雑木林が続く
笑った顔の馬頭観音

黒戸尾根から甲斐駒が岳

 以下の者は、2005年4月2日〜3日、南アルプス北部を代表する名峰である甲斐駒が岳(2967m)に日本第一の標高差を誇る黒戸尾根より登頂したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 今回ばかりは登れないのではないか?そんな不安をずっと持ち続けての甲斐駒が岳でした。天気予報は二日間ともの雨を伝えていました。しかも、初日は気温も低くない。当然、降るとしたら雨が霙。あの急峻な黒戸尾根で、雪の上に雨が降ったらどうなるか・・タップリと濃いシロップをかけたかき氷・・嫌だなぁ、そんな気分でした。それでも、どうしても登りたい。今年の冬の雪山の最後を締めくくるに相応しい、あの変化に富んだ尾根。黒戸尾根は僕達の心を誘いました。しかし、実際には、雨は下山にかかってから初めて降り、結局は、カッパを積極的には使うことも無かったわけです。3日の朝、3時半。超早朝出発の「風の谷」時間の起床の空には星と月の照る中を雪がハラハラと落ちて幻想的な世界を見せていました。そして出発の時、ヘッドランプを消そうとする中に影絵のような鳳凰三山が浮かんでいました。それにしても、何回登っても、この黒戸尾根からの甲斐駒が岳はなんと変化に富んだ激しく、見事なルートであることか。取り付きからの延々たる雑木林、原生林の登り、痩せ細った刃渡りの剣、そして、樹林の中であっても、けして気を抜くことのできない急峻な刃利天への斜面。黒戸山の深々としたシラビソのトラバース。七合目への足元のスッパリ切れ落ちた岩場の連続。それらを越えて初めて急峻な雪稜としてのカッコ良い山頂への核心部が待っている・・・という独特の展開です。そして、何と言っても標高差2200m・・しかも黒戸山の登り返しを入れたら多分もっと・・の圧倒的な登り。「もう二度と冬には来ない!」と必ず下山の最中には思うのに、何故か何年かするとプランに入れてしまう、不思議な魅力を持った山です。急峻な斜面を登りきり、山頂の祠が青空に浮かぶのを見た時、そして一瞬の晴れ間、期待もしていなかった北岳の雄姿と出会えた時、大変なだけに「登った!」という実感が腹の底から湧いてくるのを感じました。そんな雪山登山はなかなかあるようで無い!嬉しさと満足のこみ上げる甲斐駒でした。2005年の冬の雪山最後を登頂して終えられた事を嬉しく思います。

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足元はスッパリ。けっこう緊張 時折ガスのたちこめる黒戸尾根上部
足元はスッパリ。けっこう緊張 時折ガスのたちこめる黒戸尾根上部

大沢山

大沢山からボッコの頭。美しい雑木林が続く
大沢山からボッコの頭。
美しい雑木林が続く

 以下の者は、2005年3月29日、御坂山塊の北端の山脈を笹子の稲村神社から登り、最高峰・大沢山(1459m)に登頂し、ボッコの頭、摺針峠から大洞山(1403m)を経て三境から笹子峠へと縦走したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 一変に急速に訪れた山の春。けれども、それはあまりにも急激で、その分、穏やかなだけのものではありませんでした。もう、とっくに姿を消したはずの雪が、高い部分では湿った雪だったようです。大沢山の直下で出くわした雪は、凍ってはいなかったものの、地面を濡らし、歩きにくい物にしてしまいました。大沢山から、大洞山を経て笹子峠に至る尾根は、御坂山塊の北東の境目をなす山々です。従来、この山域には、登山道は無く、開発に伴う高圧電線の整備点検の道、測量の跡、仕事道を繋いで稜線を辿る、そんな山々でした。僕達自身も、登山道の無い山として、自力で地図を読み、コンパスを振って道を探し、目的地へと向かうことを楽しみとして向かった山です。けれども、実際は、おそらく昨年の晩秋の頃に御坂町を中心に登山道や指導標の整備が進んだようで、ツツジを中心とした灌木が覆っていた山稜には、伐採による枝が終始行く手を遮っていました。ちょっと残念な未開の山々との再会となってしまいました。けれども、絶えず下に広がる山間の人々の暮らしの音が聞こえる山々であっても、次々と現れる雑木林は美しく、頂上稜線では白樺からミズナラ、シロブナまで顔を出す、独特の世界が広がっていました。残念だったのは、午後になって急速に広がった不機嫌そうなガスでした。視界を閉ざし、行く手をハッキリさせないだけでなく、この山々の最大の魅力である、富士山から南アルプスが甲府盆地の上に大きく大きく広がる雄大な展望が全く見られなかったことです。しかし、一方で青空が顔を出すなか途切れた霧が尾根を越える不思議な光景、イノシシが荒し回った地面、明るい雑木林の広がりとの出会い、そして最後に歴史的な要衝であるはずの寂れた笹子峠の佇まいと、思わぬ所で峠越えをさせられた、かつての街道の姿、と多くの物とも出会えた一日でした。
 御坂の山々は里に近いのに意外と人の姿を見ない、明るさと展望に満ちた山々です、一部を除き不遇の中にありながら、富士山との出会いのある山々です。また、ぜひ!

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白馬岳

 以下の者は、2005年3月19日〜21日、北アルプスの名峰・白馬岳(2932m)に栂の森から栂池高原を経て天狗原を越えて白馬乗鞍岳(2436m)で雪洞で泊まり小蓮華岳(2769m)、三国境を経て登頂したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 いつも、この時期に訪れる後立山連峰の山々。その北の重鎮とも言うべき白馬岳は、標高こそ3000mに僅かに及ばないものの、その堂々たる山容と魅力ある数々のルートで日本の中でも最も訪れる者の多い山の一つです。3月の後立山連峰は、もともとの豪雪地帯が最も深い雪に覆われて雪のつくり出す最も美しい姿を見せてくれます。雪洞は、この山に登るのに最も適した泊方です。スコップ一本で掘り上げる純白の殿堂。外が強烈な風雪の中にあっても物音一つしない空間。雪の中に家を作り、雪の中に泊まる楽しさ。ローソクの灯にキラキラと輝く壁は見事な「住処」と言えます。かつては、多くの登山者が利用した、この泊まりの方法、例えば、今回の白馬岳の中でも僕達だけでした。仮に、あの白馬乗鞍山頂にテントで泊まっていたら、一晩の風雪でどんなに辛かった事でしょう。やはり雪洞こそ、この山にはピッタリの宿泊方法であったと思います。しばらくぶりできた栂池コースは、しかし、驚かされる事ばかりでした。栂池高原まで今年から運転されたロープウェイから吐き出される沢山のスキーとボードの群れ。それだけかと思ったら、頭上高く爆音を立てるヘリコプター。かつて、稀にしか人の姿を見なかった乗鞍岳の斜面はアリの行列のように連なり登る人々。しかし、その先に行く者はほんの僅か。更に小蓮華を越える者は僕達以外には僅かに二人パーティーがあっただけ。僕達だけの山頂がありました。晴れ渡った山頂。北に大きく広がる雪倉から朝日にかけての稜線。そのたおやかな姿と対照的な峻険な地獄の山を思わせる剣。そして槍が岳まで見られた山々は強烈な烈風の中にありました。もう、春の気配が少しでもあるかと期待した僕達を風のパンチの嵐で歓迎してくれました。ヘッドランプで出発した足元がオレンジ色に染まり、虹色の雲が空に浮かび、雪が妙に青く見える瞬間。明け方の薄明の中を飛ぶ雷鳥。あれほどいた人々が消えて一歩一歩の踏み跡が後ろにだけ続く嬉しさ。勝ち取ったと言う思いが一杯の雪の白馬の頂上でした。

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超早朝出発!背後に戸隠方面がオレンジ色 雪洞!ローソク一本でも明るい 朝の後立山連峰の山々
超早朝出発!
背後に戸隠方面がオレンジ色
雪洞!ローソク一本でも明るい 朝の後立山連峰の山々

大菩薩峠から牛の寝通り

 以下の者は、2005年3月15日〜16日、日本百名山の一つ・大菩薩峠(1897m)に仙石茶屋から上日川峠を経て登頂し、熊沢山を越えて石丸峠から牛の寝通りに入り、玉蝶山から榧の尾山(1429m)を越えてショナメ、大ダワと縦走したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 標高2000m近い山々でも季節は冬と春の激しいせめぎ合いの時を迎えているようです。暖かい陽射しに緩みザラメとなった雪。その上に夜の一瞬、粉雪が降り、砂糖菓子のように白く染めた朝。甲府盆地も厳冬期の冴え渡った中にあるのでは無く、春霞がたなびき、その上に微かに南アルプスの山々が霞んで浮かぶ景色に代わっていました。登山中もたびたびお話しましたが、大菩薩は雪の無い季節には標高1700m・富士見荘の前まで車が登り、大菩薩嶺から大菩薩峠とこの山の最も魅力的な核心部だけを味わうならば歩行2時間半の周遊コースへと変身します。それが、雪でゲートが閉まると同時に本来の標高の山に戻るのです。仙石茶屋からの道もブナやミズナラの大木が林立する美しい木々の中にあることを改めて教えられた思いでした。大菩薩峠の下辺りから急激に風が出てきて、冬の気配が立ち込めました。そこから熊沢山を越えて石丸峠に至るまでの道は夏道も消えて雪山の気配に満ちていました。牛の寝通りは大菩薩の主脈の東に標高1400m前後で延々と連なり、鶴峠から奥多摩主脈となり三頭山、御前山、大岳山、御岳山、日の出山と一本で続く尾根の鶴峠までの部分を言います。そのほとんどが手つかずの明るい雑木で覆われて緩やかに上下する広々とした尾根は僕自身が大菩薩の中でも最も好きな場所であると思っています。それにしても、大菩薩峠を離れた途端の人の気配の無さ、トレースもほとんど無く、石丸峠からの延々たるラッセルの道はなかなかでした。最初はある程度締まっていた雪も、進むにしたがって暖かい気温に溶けはじめボコリボコリと潜り、その重さと共になかなかの苦労がありました。小菅の集落に下りきる最後の最後まで雪の途切れ無い充実の雪山であったとも言えます。
 大菩薩連嶺は南北12km、東西10kmにわたる広大な山域です。多くの登山者が辿る峠と嶺の間はたしかに最も魅力的な場所ではあっても、それは、ごく一部にしかすぎません。牛の寝もその一つ。小金沢連嶺南大菩薩、柳沢峠への道と親しんで欲しい山です。

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牛の寝の入り口は雪がたっぷり
牛の寝の入り口は雪がたっぷり
石丸峠へは広大な雪原を下る 石丸峠へは
広大な雪原を下る

鳳凰三山・観音岳

 以下の者は、2005年3月12日〜11日、南アルプス北部の鳳凰三山の観音岳(2840m)に夜叉神の森より夜叉神峠、杖立峠と辿り、苺平にテント泊し、南御室小屋から砂払いを経て登頂し、さらに薬師岳(2780m)にも登頂したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 頭上に太陽があり、夜中には星がまたたいていても、いつも、絶えずハラハラと雪の舞いつづける二日間でした。鳳凰三山は独特な位置にあります。南アルプスの多くの山々が前衛の山を越えて、山中奥深く入る事を抜きにしては登れない中にあって、この山だけは中央線の車窓一杯に姿を見せて大きく聳えています。かつて、北岳に登る者は現在のスーパー林道ができる前は、鳳凰三山の地蔵岳を越えて広河原にたどり着いたと言われています。山里の人々も中腹までは生活の山として利用してきた、そんな山です。夜叉神の森までのアプローチが無いために、いつものように私達だけの山を想像していましたが、夜叉神峠の先にもトレースがあり、自分達で踏み跡を付けたのは薬師岳を過ぎてからでした。南アルプスの魅力の一つに奥深い太古からの原生林があります。実に標高2600mまで巨樹と言って良い大きさのコメツガ、シラビソの森が続き、苺平の僕達のテント場は、頭上高くをゴーゴーと鳴り渡る季節風にも係わらずテントそのものは木々に守られた静寂の中にありました。延々たる急登の末に飛び出した砂払いの森林限界。そこからの風景も独特でした。強風に砂地が剥き出しになった所もあり、燕岳を思わせる花崗岩の岩峰の林立する日本庭園のような光景の中、最高峰・観音岳はありました。鳳凰三山の最大の魅力である北岳、甲斐駒、仙丈の三役揃い踏みの展望は、ついに入山から下山に至るまで全く見る事ができず、山頂はちょっと強まりだした風雪のみが粉雪を降らせていました。恐らくはこの冬最後の強烈な冬型の気圧配置だったのでしょう。朝にはマイナス18度を記録しました。けれども、日照時間は伸び、間違いもなく山そのもの、雪そのものも、真冬の物とは一味違う何かを感じさせてくれました。遠かった頂上の観音岳、薬師岳。この冬は北岳に始まって、南部の上河内岳、鳳凰三山、そしてこれからの甲斐駒が岳と南アルプスの山々が続きます。何れも夏には考えられない静寂と、深い雪との格闘の末に辿り着く頂上です。人気の無い、それ故の自分達の力を試される登山は素敵です。

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まるで日本庭園!観音岳直下 観音岳を後に薬師岳へ・・
まるで日本庭園!観音岳直下 観音岳を後に薬師岳へ・・

マチガ沢・一の倉沢

 以下の者は、2005年3月9日、谷川岳を代表する岩壁を持つマチガ沢、一の倉沢に谷川岳登山指導センターより旧道を経て到達し、マチガ沢出合いから新道を経て湯檜曽川沿いに一周したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 東京には春の風が吹いていました。関越自動車道は生暖かい風が強風となってクルマを揺らしました。それが、空には雲一つありません。それでも、その空の一点・谷川岳の上だけは雪煙のように雲が掛かっていました。そして水上を過ぎ、湯檜曽を過ぎる頃からハラハラと風花が舞い、登山指導センターの前では厳冬期独特の乾いた雪がトレースの上に掛かっていました。「本当にここが、夏の車道なの?」「信じられない!」とは全員の思いだったことと思います。センターを過ぎると文明の音は全て消え、雪の上を吹き渡る冬の風の叫びだけです。それでも、あった!カーブミラーを付ける黄色いポールが。そして吹きさらしの道端にはガードレールも。私達はミラーポールの5mほど上を歩いていたのです。つまりは積雪は5m近く・・・・。夏にクルマで通った時には全く気づく事の無いブナの巨木、ミズナラの肌が辺りを埋めています。乾いた冬の雪が舞っていましたが、それでも確実に季節は春に向かっています。所々で私達を慌てさせる雪崩の跡、雪庇が崩壊したブロックの跡、ついにマチガ沢出合い下では大きなブロック雪崩が生々しくトレースを埋めていました。前方が開け明るいマチガ沢出合いに到達です。マムシ岩は遭難碑に手が届くまで埋まり、僅かに西黒尾根が見えるだけでした。ブナがますます大きくなり、斜面が急峻になり、連続したトラバースが大変になった頃、激しく屹立した一の倉沢出合いに到達しました。「お前達なんかの来る所じゃないぜ!」とでも言いたげな不機嫌そうな表情。衝立岩の上からは濃いガスの中。コップ状岩壁の下だけが顔を出す魔の世界は拒絶するような激しさでありました。滝沢リッジ、東尾根、烏帽子奥壁と特定はできても凄まじさのみが伝わる冬の一の倉でした。帰り道は雪崩を恐れてマチガ沢から新道へ。まだまだ冬だと思った谷川山麓も対岸の白毛門山の斜面には全層雪崩が走り、ブナの木々の下には幹にそって穴が空きだし、木々の先端は赤く色を付けていました。春も雪解けも間近な事を教えています。土合を過ぎ、水上の町には春の風が吹いていました。

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大きく広がるマチガ沢 不機嫌そうで威圧的な一の倉沢
大きく広がるマチガ沢 不機嫌そうで威圧的な一の倉沢

焼岳

 以下の者は、2005年3月5日〜6日、北アルプス最南端の焼岳(2455m)に中の湯温泉から2031m台地を経て登頂したことを証明いたします。

氏名 風 の 谷

 2318mピークに到達して、もう、流石に頂上は近い!と思ってからの長かった事!登り着いた頂上は、本来、夏は立入禁止の三角点の為、何も無い中、たった一本の竹竿だけが目印でした。雪庇と火山の蒸気のために所々に空いている大穴に気を使いながら最後の50mを辿った所が、他のどの部分よりも高い場所でした。期待した穂高岳連峰の展望は無く、ハラハラと舞う雪と陽射しの中に岐阜側に大きく湧く雲が美しい山頂でした。すぐ近く、北峰の下から凄まじい勢いで吹き出す噴煙、強い硫黄の匂い・・・・。二年越しでやっと登った頂上は、夕暮れの最後の明るさの中にありました。午後4時。「風の谷」の山行では、とっくにテントの中で食事を始める頃に立った頂上でした。それは、昨年の「頂上は明日。」の作戦が大失敗。猛吹雪の中を右往左往しながらラッセルして下山した苦い思い出の反省からでした。ラッセルに始まり、ラッセルに終わった焼岳でした。車道を辿り中の湯の玄関前からすでに履いたワカン。トレースの跡に喜んで辿る事1時間で先行パーティーに追いついて、全員でのラッセル。雪の中の歩きだしでしたが、登るほどに青空となって、はるか彼方に前穂高や霞沢岳を見ながらの美しいブナ、シラビソの原生林の中のラッセルでした。続いた悪天のためか新雪が50cmほどあり、その下はザラメ、その新雪が暖かい気温でズッシリと重く、深さ以上の辛いラッセルでした。昨年のテント場と全く同じ、黒木の木々に囲まれた焼岳を望める素敵な森の中にテントを張りました。
 他のパーティーが次々と帰ったり、テントに入る中、頭上の焼岳は指呼の間にありました。「行こう!」更に厳しくなるラッセルとザラメの上に新雪と言う随所に小さなデブリのある中、頂上を目指しました。ギリギリまでワカンでの登り、アイゼンに代えてからもラッセルは続きます。そして、去来するガスと時々顔を出す太陽の中、憧れの頂上は私達の足元となりました。翌日は大快晴!「今日、登ったらきっと最高の頂上だったはず・・」またもや、作戦はちょっと失敗したみたいです。生きている山、焼岳。噴煙を上げ、活動を続ける火山ならではの魅力を一杯もった山でした。

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2031m台地からやっと見上げる焼岳 2年越し・・やっと着いた頂上
2031m台地からやっと見上げる焼岳 2年越し・・やっと着いた頂上

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