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■行間(=映像間)のすごさ

何がすごいって、セリフ以外の「間」、セリフ以外の「表情」で視聴者が考えることが多いということ。そして、実際の映像にはないが、視聴者が自由に想像できる場面が随所にあるということ。

台詞がなくても何がいいたいのか分かってしまう。
それは見る人によって違う感じ方をするかもしれないけど、それはそれでかまわない。
必要最低限の台詞と、登場人物の心情を表す演出・セット。私が「う〜ん」と唸ってしまった場面というのは。

最期、そしてマンションを出るとき
 

公式HPにひとしきり「最期の表情が見たかった」「彼の最期の様子が知りたい」「時間が短すぎる」などの書き込みが相次いでいたとき、その中で「もう十分です」という書き込みがあったのを覚えている。
映像がなくても、ヒントとなる場面はあったから、もうそれであえて映さなくても十分ですっていう意見だった。

直江先生が部屋中に広げられたレントゲン写真の上に倒れかかるシーンがある。レントゲン写真はあたかも湖の水面のようだと。あのシーンで直江先生の最期のシーンを想像できると。
この書き込みを見たとき、私は感動した。実は私も時間が短すぎると思っていたのだが、この書き込みをみて、なるほどと思った。すごい、とも思った。

で、このようなシーンがほかにもないかと思ったら、あった。それは、直江先生が七瀬先生に会うためにマンションを出るシーンだ。テーブルの上にあったガラスのボートをポケットにしまう。そして、マンションを出るとき、部屋を振り返って遠い目をする。
「このとき直江先生は部屋に戻ってくるつもりはなかったのでは」という意見があるが、私は6話の時点ではそんなことは真剣に考えていなかったのではないかと思う。もちろん、自棄になっていた気持ちはあっただろうから、まったく否定はできないけれど。

しかし、部屋を振り返った直江先生の表情には確かに「もう戻らない」という悲壮感があった。だから、この直江先生の姿は、北海道に発つ前、マンションを後にするときの姿ではないかと思うのだ。ガラスのボートは確かに最期まで直江先生は持っていったし。
ビデオを撮り、封筒に「志村倫子様」と書き、ハーモニカとともに椅子の上に置く。ここなら彼女はすぐに見つけてくれるだろう。
そして、コートを着て、ガラスのボートをポケットにしまって、マンションを出る。部屋を出る前に、振り返る。そのとき、彼の頭に蘇ったものはなんだったのだろうか。

 

なんといっても6話で七瀬先生と別れてから倫子に会うまで
 

七瀬先生と別れてから倫子に会うまで直江は一切言葉を発しない。
この間、ボートで流されている間もマーラーがBGMで流れているだけ。直江の表情もはっきりとは映らない。
この場面を見て、視聴者のほぼ全員が「直江はどんな気持ちでボートに乗っているのだろうか」と考えたことだろう。そして、
「やっぱ孤独を感じたのか」「もうどうなってもいいと思ったのか」
「死にたいと思ったのか」「ただひたすら悲しかったのか」
「すべてを忘れたいと思ったのか」などのいろいろな解釈をする。
どれが正解というのでもないと思う。
「直江はどんな気持ちでボートに乗っているのだろうか」と考えた時点で、みんなかなり感情移入しており、ドラマに引き込まれている。それで十分かもしれない。

 

ガラスのボートが登場する意味
  直江がガラスのボートについて話すことは一度もなかった。
そもそも倫子が川原で見つけた最初から直江はガラスのボートを特別な目で見ていた。
おそらく、ガラスのボートを見た瞬間から「これは倫子の代わり」だという気持ちになったのだろう。
テーブルの上にあるガラスのボートを気にしながらも見ようとしない。
小夜子を引き止める前にガラスのボートを見てしまう。
フロノスを注射後、荒い息を静めながらガラスのボートに目をやる。
ガラスのボートを握り締めた後、放り投げる。
一人孤独にボートで流されながらも、手にはガラスのボートを持っている。
そして。。。最期に支笏湖に漕ぎ出すときも手にはガラスのボートがあった。
こういう場面を見ながら、ガラスのボートは直江にとって倫子の代わりなんだな、ということが分かるのだ。

 

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