私の白い影論
私の疑問
皆はこう考える
ロケ地探訪
中居の不思議
NN病日記
サイドストーリー
バイブル
感想はこちらへ
TopPageへ
公式HPへ

 

  


白い影〜その物語のはじまりと命の記憶〜

■私が思うこと
はじめから別人であるかのような気がしていた。
もちろん、冒頭といっていい時間に、支笏湖に身を投じたシーンが出てきて、
『そうだった。あの直江先生はそうやって消えたのだ』ということを思い出させたけれど。
大学病院での直江先生も、長野にやってきた直江先生も、本編の直江庸介とは違っていた。
直江先生に似た、かっこいい人。直江先生より若々しくてはにかみながら笑う優しい人。
人付き合いはあまりうまくなく、しかし、行田病院のときよりは、はるかに笑顔の似合う青年医師。

自分を慕う、重病の少女のために嘘をつき続け、そのために、自らの体の変調に気づくのが遅れてしまう。
大学病院で失望しかけた医療への熱意が、恩師のもとで再び再燃し始めていた、そんな頃。
ついこのあいだ同じ病気の人間を早期発見し、完快させて退院させたはずの彼を同じ病魔が襲う。

そうして、彼は、本編での直江庸介になっていくのだ。
荒れる。自棄になる。酒と女に逃げる。
不意に訪れた恩師に検査結果とレントゲンを見られる。
誰かと問い詰められて『もう手遅れですから』としか言えない彼。
もうそこからは、『私たちの知っている直江庸介』がいた。
2年前、私たちがひたすら追いかけた直江庸介は、こういう過去から作り上げられたのだ。

七瀬先生に東京行きを告げる場面。高速バスに乗り込むまでの場面。
悲壮感の漂う、あの直江庸介だった。どこまでも悲しく、儚く、美しい。
それを象徴するのがバスの中の彼の表情だったと思う。
彼のつらさ、弱さ、心細さ。それを表現する彼の表情。
『生きろ!』と叫ぶ七瀬先生の言葉。
そう。彼は、そこから、2年近く生きなければならなかった。
それを思い出させるのはエンドロール代わりの本編のダイジェスト映像。
そう、これからこんなこともある。あんなこともある。
病気を知って生きていくのさえ十分つらいはずの彼に、これからいろいろなことが起こるのを私たちは知っている。
そのことを思うとき、涙がとまらなくなる。
壮絶に生きた人。絶望と苦悩と闘いながら、最後まで生を全うした人。
強い人だ。

そして、その苦悩の果てに、倫子に出会ったことも私たちは知っている。
それが彼の救いになったことも、それから彼がどんな風に変っていったかも。
彼女の手に幼い『陽介』くんが抱かれているのを見たとき、そこにも彼が生きた証がある、そう思った。
七瀬先生の心の中にも、倫子の心の中にも、彼と関わったすべての人の心の中に彼は生きている。
しかし、陽介くんが存在することで、彼の存在も、彼と倫子の思いも真実であることの証になる。
『ああ、よかった』と素直にそう思った。

支笏湖には直江先生が眠っている。
『悲しい場所のはずなのに』と倫子は言った。
彼女はこれからも支笏湖にやってくる。陽介くんを直江先生に見せに。
『ああ、よかった』と思う一方で、私は、支笏湖にやってくる二人のそばに直江先生がいないことは なんて悲しいことだろうと思う。
二人の傍らで微笑む直江先生。自分の愛する人と愛する人との子供。
その横に何故彼がいてはいけないのか。何故? 当然いるべきはずの彼がそこにいないのは何故なんだろうと。
でも、この答えは彼が問い掛けた『どうして僕が?』への答えと同じ。だから考えるのはやめなくてはと思う。
そこに彼はいないから。彼はそういう生き方を選ばなかったから。
今でも私の頭の中には3人の映像がぐるぐる回っていたりする。
それはそれは美しい光景だろうから。でも、決して実現しない夢の中のこと。

2003年の白い影SPは番外編ではない。本編とのつながりを大切にした、本編を現実的に補足する、本編のためのドラマである。
本編を知っている人間にとっては、より深く直江庸介を理解できるもの。
本編を知らない人間にとっては、直江庸介の生き方に惹きつけられて追いかけずにいられなくなるもの。
より一層、直江庸介が実在していたかのような錯覚を裏付けてしまうような、罪なドラマだった。
もとより直江先生は実在していた、としか思えないんだけど、私は。

HomeHPへ  

ご意見、ご感想はこちらまで
All Rights Reserved, Copyright (C) 2001,2009,S.K.