"彼女なら大丈夫だ"
そう思っていても、心は痛んでいた。
-こんな深い場所までよく来たね-
目の前の水草の群れがザワザワとうごめいて、低いくぐもった声を発した。
だが、不思議と恐くなかった。
水の中だが、苦しくない。
ああ・・・・もう苦しみはとうに通り越したのだったと、男はゆっくりと悟った。
だが、悲しくはなかった。
水草の群れが、手招きするように動いたので、男は近づいた。
−せっかく来たんだ、少し話をしよう。あんたの名前、何ていうんだい?−
男は名乗った。
−こんな場所まで来る奴はあんまりいない。そうさね、ここは・・・・「迷いの森」とでも言おうか。
今までいた場所から次の場所へ行く時、誰だってみんな迷う。
だけど大抵は、迷いながらも道を見つけて歩いていくんだ。
あんたは・・・・・随分迷いすぎたようだね−
男は愕然とした。
迷いなど、あるはずなかったからだ。
確かに・・・・ここに来るまでに、迷いは随分あった。
迷い、決意を確固たるものにしてまた迷う・・・・。
その繰り返しだった。
だが今は、この広大で澄んだ棺に身を預けた瞬間にはもう、迷いなどとうに消えた筈。
そう・・・・彼女が、傍で笑っていてくれたから・・・・。
「迷いなど無い」
はっきりとそう言って、男は自分の事を話し出した。
人の命を救う仕事をしていた事。
かけがえのない恩師がいた事。
その恩師の元で最高の技術を学び、無限の未来を思い描いていた事。
そんな矢先に・・・・自分の運命を知った事。
次々と出てくる言葉に、あまり饒舌な方ではなかった男は自分で驚いた。
−そうやって、あんたは迷っている−
−その迷いは、今言った事の中には無い、そうだろう?−
一生を捧げようとしていた、医者という仕事。
志半ばといえばそうだが、彼のすべてを信頼できる者がしっかりと受け継いでいる。
だから、彼は満足していた。
だが・・・・・。
彼女は、大丈夫だろうか・・・?
あの強く、春の日差しのようにやさしい笑顔を常に浮かべていた彼女は・・・・。
男にとって、彼女は「春」だった。
もう見ることはないだろうと思っていた「春」を、彼女は見せてくれた。
彼女にはずっと笑顔でいて欲しい。
その為なら、自分はどうなったっていい。
そう・・・「迷いの森」であるというこの空間から抜け出せなくなろうとも・・・・。
「先生」
甘えるような、やや間延びした声が、男の耳に呼びかけた。
懐かしい声。ずっと、聞きたかった声だった。
元気にしているだろうか?
自分の事を乗り越え、笑顔でいるだろうか?
もし、笑っていなかったら・・・・・。
初めて、男は恐怖を感じた。
この深い湖の底。
鬱蒼とした水草の奥には、一体何が潜んでいるのだろう・・・・・?
「約束、ですよ」
また彼女の声が聞こえ、男は無意識に塞いでいた両耳から手を離した。
約束・・・・ああ、確か一緒にボートに乗る約束をしていたっけ・・・。
結局それは果たされる事はなく、約束は宙ぶらりんになってしまったが。
「約束ですよ、直江先生」
深い湖の底に一筋の光が差し、徐々に明るくなってきた。
男−直江は、ふと頭上を見上げた。
光の世界だった。
あの時・・・・一度は拒絶した彼女を受け止めようと決意した時も、こんな風だった。
「君は、不思議な人だな」
頭上の光に目を細めながら、直江はあの時と同じ言葉を口にした。
−約束ですよ、先生。先生も、笑っていて下さいね・・・−
君はやっぱり強い人だ。春のように、今君は笑っているんだね・・・。
「迷いは、なくなったかい?」
問いかけに振り返った直江は、晴れやかな笑顔を浮かべて頷いた。
END
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