「倫子、僕は今日と明日しかいられない。この2日間は君のために使いたい。どこか行きたいところはないか?」
翌朝、直江は倫子に告げた。
「1ヶ所だけ一緒に行きたいところがあります。」と倫子。
「行ってみよう。」
二人は直子に支度をさせると出かけた。
「ここは僕が住んでいたマンションじゃないか?」
着いたところは、直江が住んでいたマンション。二人の喜びも悲しみもしみこんでいる場所。部屋の前まで来ると、倫子はポケットから鍵を取り出し、ドアをあけた。
中にはいると、中は一年前、直江が北海道に発つ日の朝と何も変わらず、きちんと片づいていた。ずっとすんでいないはずなのに手入れが行き届いており、チリひとつない。
「倫子、これは?」直江はすべてを理解した。
「倫子、これでは君の重荷になるばかりだ。処分してくれていいんだよ。北海道の実家に連絡してすぐ解約してくれ。」きっぱりと直江が言った。
「いけませんか?ここは私のよりどころなんです。
夜勤明けの日はここに泊まることだってあるんですよ。
それにここがあれば直子に父のことを教えられます。ちっとも重荷なんかじゃありません。
むしろここがあるために私救われているんです。ここにくると先生を実感することができます。
さびしいときや苦しいときここであのビデオを見るんです。そうすると次に進む勇気がでます。
お願いです。ここは私に任せていただけないでしょうか?
そしてあと2日間ここで3人でくらしたいんです。
ここでの先生との時間をもう少し増やしたいんです。
あちこち行くと思い出が分散してしまうような気がして・・・。
ここと結びつけておきたいんです。
直子が父親を実感できるときまでこのままにしておかせて下さい。」
倫子は直江にわかってもらおうと必死に言った。
「わかった。倫子に任す。そして今日明日はここで過ごそう。」
その後の2日間は取り立てて特別なことは何もなかった。
朝起きると、直江と直子がいて、3人で食卓をかこみ、その後は3人で遊んだり、テレビを見たり、本を読んだり、ごく平凡な週末のような時間を3人は過ごした。
しかし、その平凡こそが直江と倫子にとっては求めても得られることのなかった貴重なものだった。二人を遮るもののない生活・・・。
当たり前の生活の中に幸せがある。倫子は実感していた。
最後の夜、直子が寝てしまい、2人になると、直江が言った。
「倫子の笑顔が大好きだ。君に笑顔がもどったから、僕は安心して天国に行ける。君とここで過ごした2日間は幸せだったよ。
明日君が目を覚ましたら、君には僕の姿は見えないだろう。でも僕は君の中でずっと生き続ける。亡くなった人は生きている人の心の中に生き続けるしかないんだ。でも忘れちゃいけないと思う必要はないよ。君と僕が過ごした日々はなくなったりしない。僕が君を愛していることもずっと変わりはしない。」
翌朝倫子が目を覚ますと、直江の姿はなかった。しかし、直江のいた場所に何か光るものがあった。
ガラスのボート。
1年前、直江が北海道に持っていき、一緒に支笏湖に沈んだはずのガラスのボート。
じっと見つめる倫子。
そのとき一瞬ガラスに直江の姿が浮かんだ。そしてあの声が聞こえた。
「倫子、君の笑顔が大好きだ。ずっと出会った頃の君でいてほしい。」
倫子の顔に春のような優しい笑顔が浮かんだ。
END