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豊倉賢略歴
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2010 S-4,1: 特集(城塚先生を偲ぶ) -4,1
        豊倉 賢  「大学院学生時代の思い出・・(4・完)  大学院時代の研究成果と産業界発展への寄与」

1)はじめに

  昨年10月17日城塚先生がご逝去されたと伺ったのは11月の半ばあった。その間ほぼ1ケ月経過していたためか、比較的落ち着いた気持ちでその事実を受け止め、城塚先生の在りし日のお元気な姿を思い出し、先生からご指導を受けた50年間の歳月を振り返ることが出来た。この時、先輩の本田先生や早稲田大学・東京近郊の大学等で化学工学研究や学生の指導していた、また産業界で活躍している城塚先生のご指導受けた卒業生と相談して4月に城塚先生を偲ぶ会を開催することにした。

  昭和30年代以降に城塚先生のご指導を受けて研究者になった卒業生は、その後それぞれの研究室を立ち上げ、城塚先生から受けたご指導を発展させて、世界の進歩をリードする活動をしている。それら研究室の活動は独立したものであるが、時には協力した活動も行っている。豊倉研究室においては、「4月に開催する城塚先生を偲ぶ会」までの間、城塚先生のご指導を受けた研究室卒業生の先生についての思い出と豊倉が城塚先生からご指導を受けて進めた研究成果を纏め、さらに研究室を卒業・修了して以降にそれらを発展させた活動や成果も含めた「城塚先生を偲ぶ特集」を研究室ホームページtc-pmtに掲載することにした。この特集は、城塚先生を偲ぶ記事であるので、豊倉研究室の卒業生に限定することなく、誰でも城塚先生の思い出の記事を寄稿できるようにした。その結果、豊倉の大学院在籍時に城塚先生のご指導を受けた工業化学コース山本・森田研を卒業した名手孝之氏、城塚研を卒業した磯崎 昭、小山重満、松山喜昭氏らの記事も今年2月、3月に寄稿いただくことが出来た。今回4月に掲載する特集は、卒業生数名と豊倉の記事であるが、それにて「城塚先生を偲ぶ会開催前に暫定的な企画として始めた特集は終了とする。これは、「4/17の偲ぶ会」以降は、城塚先生のご指導を受けた多数の卒業生が、それぞれの分野で活躍して築き上げた成果をさらに発展させるべく、個々の分野に適した活動を独自に進め易くするためで、城塚研究哲学をベースにそれと対比しながら各自の活動を飛躍的に発展する道を進むことを期待している。

  今回、「tc-pmtのHPに掲載する城塚先生を偲ぶ特集」の中締め的な纏めをするに当たり、豊倉が城塚先生から受けたご指導を下記I), ?), III)に分けて記述する。

I) 主として大学院博士課程学生時代を対象にした化学工学研究課題とその研究目標とした研究成果, およびその成果に到達するために選んで進んだ道
II) 化学工学分野の研究者としての化学工学研究課題とその目標とした広範な研究成果,およびその研究を進める上で進んだ道。特にJunior Researcherとして
III) Senior Researcher としての?)の研究目標、研究成果とそのための道

2)日本の学校教育制度と早稲田大学における化学工学教育で学んだこと;
  日本の学校教育を受けた学生は、大学院に入学するまでに通常16年の学校・大学教育を受けており、豊倉の経験では、小学校教育、中高教育、大学学部教育に分けて考えると大学院教育は分かり易い気がする。日本の教育制度は、明治以前と以降で全く異なっており、明治以降の日本は、何事も欧米に追い着き、追い越せという道を効率よく進むための教育に徹し、明治・大正初期の期間は順調に進んで効果があったように思う。この時期は近代ヨーロッパ文化が歩んで歴史を勉強し、それを効果的に学習して欧米型文化国家を短期間に構築する目標を可成り達成した。この時期の教育は効果的なトップダウン方式であって、それが功を奏して日本経済は第一次世界大戦後にピーク時を迎えたが、関東大震災後に大きな経済恐慌を迎えた。しかし、その時期においてもルネッサンス以降ヨーロッパ先進国が他大陸に進出して、自国の繁栄を続けたのと同じような道を選んで第二次世界大戦に突入した。戦後の日本は明治維新後進めてきた富国強兵政策を転換して、欧米自由主義的民主主義国家として、産業立国を目指した復興の道を進むようになった。

  日本の戦後教育行政は、米軍占領政策の影響を受け、戦前・戦中に進められた国粋主義的なトップダウン方式の教育カリキュラムは禁止され、日本の教育界も自由主義的な思想と戦後の乱れた世相を反映してしばらく混乱がつづいた。しかし、江戸時代より日本人に根付いた、世界的な宗教に裏付けられた正義心のある礼節と勤勉精神は、心ある人々によって戦後まで引き継がれ、明治以降世の中に浸透していた欧米流の学問・文化を心ある人達は自主的に勉強していた。これらを学んだ若年層の人達が成長した1950年代後半には、日本の復興は急に進み始め、日本人の真面目な勤勉さに支えられて産業は奇跡的な発展を遂げた。

  豊倉が大学院に進学した当時は、終戦直後に復活した明治政府の五ケ条誓文に基づいた政策が新聞紙上に復活し、特に日本の国是として考えられた産業立国を成功させるために戦中・戦後の空白期間に、欧米先進国で進歩発展の著しかった新しい科学や生産技術を早く学んで理解し、それを更に発展させて日本人に適した新しい学問、技術を開発して新しい産業を興すことを務めた。このような時代に城塚先生は国内の先駆的な先生方を尻目に米国に留学され、帰国早々から学部の化学工学・反応工学の講義の教科書に洋書を使用し、それを良く理解させるべく学部学生に充分な演習を課せられた。その厳しさは、先月掲載された松本、小山、小川、関谷さんらの寄稿記事に思い出として記述してる。このような特訓を城塚先生から受けた卒業生は、皆、それぞれの化学企業に就職し、種々の生産工場建設の責任者を務め、最後には各社で技術担当役員としての責任を果たせたと、城塚先生に対する感謝の念を滲ませて研究室時代を振り返っている。豊倉の学部学生時代は、この記事を書いた後輩の数年前に城塚先生から学部講義を受けたが、その講義内容は学会で発表された最新の研究内容と時々対比されていたのが印象的であって、そこでは、既成の学問をどのように進展させて行くかが示唆されていて、常に研究意欲が掻き立てられた。

  日本の教育制度で考えられる通常の6、6(=3+3)、4制の教育課程は、大学院での教育課程とは本質的に異なっており、その中の最初の小学校教育は、文明国の社会人として誰しもが知る必要のある知識を学習する期間と考えた。次の中高教育は、高度に進歩した専門性を生かした高度文明社会を臆することなく生活するのに必要な知識の学習期間で、そこで学習する内容は高度であって、それを充分理解するには、理系とか文系とか何か特定分野の勉強をする適性がないと十分理解出来ないこともあった。その意味では誰しもが、そこの教科内容のすべてを十分理解できなくてもやむもうえないことであるが、この段階に進んだ大多数の学生は、一般的な教養の有る成人が理解出来る程度の学習努力は行って卒業しているようであった。実際は、最高学府と云われる大学や大学院教育を受けた人でも、自分の専攻以外の科目については、中高教育を受けて理解している内容で充分であり、もし、その程度の知識で不充分な場合でも少し調べることによって知識を補うことができるようであった。何れにしても、中高教育課程の教科内容は、既に確立されたものが対象になっており、必要に応じて簡単な復習で容易に思い出せるような知識を習得しておくことが大切であった。

  4年制大学教育の教科内容は高度に専門化され、教科内容は大学専門学科の研究者が合議して決めるものであった。その分野の基礎科目は、広く学会等において容認されるものが対象になるが、専門科目については、担当教員の責任にて内容を組み立て構築されるものである。その意味において、他大学と共通する内容のもの種々あるが、時には担当教員の教育思想を反映して独自に構成されるものもあり、それがそれぞれ各大学の特徴になっている。

  当時の早稲田大学の化学工学コースにおける講義科目や実験項目は本特集に寄稿した卒業生の記事にあるように、城塚先生が1950年代の米国留学で経験されたものを生かされて組み立てられたもので、それに従って化学工学を学習した早稲田大学応用化学科の卒業生は今回の特集に寄稿されてるように、卒業後就職した化学企業で立派な活躍をした。その頃、城塚先生が選定された教科書は、米国の大学でも講義に使用されてたようでしたが、先生は早稲田大学学生の学力と日本で就職する企業の実状を考えて講義内容を構成されたと伺った。その後、豊倉が大学院に在籍した頃、日本の学生教育により適したような教科書を編纂することが必要だと云われているのを聞きましたが、その数年後に城塚先生は学部学生対象の教科書を出版され、日本の学生に適した教育することの重要性を城塚先生ご自身から教授頂いた。

3) I)に示した大学院博士課程での研究課題、研究目標と研究成果、そこで歩むだ道;

  豊倉が大学院に進学した1959年頃、大学院での教育目標は文部省令で決まっていたようで何度も聞いたことがあったが、その表現は抽象的で具体的な実感を伴ってない気がしたので、大学院に入学した当時同僚と討議した内容を思い出して記述する。

  大学院には修士課程と博士課程があって、そのどちらを修了することを目的にするかによって、課程で修得する学習の心構えは全く異なっていた。豊倉は、個人的事情で当初から博士課程修了を志望して研究者になることを志し、最初から博士論文を作成して課程博士を修了することを目指して研究活動をしたいと城塚先生の研究指導をお願いした。その時、城塚先生は、晶析研究を課題にしてはと言われて化学工業における晶析操作の位置付けと、当時研究対象となっている現象と工学的ニーズ、および主として化学工学分野の晶析に関する研究状況を伺った。また、制度として決められた博士論文完了研究期間は5年以上研究室に在籍して研究活動を行い、日本国内で最も権威のあった学会誌「化学工学に数報以上のオリジナルな研究論文を発表して、工学的価値のある研究成果を完成することであった。

  豊倉が大学院在籍中の5年間に行った研究は、過飽和溶液中の結晶成長速度の研究および結晶成長速度と製品結晶粒径、製品結晶生産速度に基づく連続晶析装置設計理論の提出であった。この研究に関するオリジナル研究成果は、「化学工学」に基礎研究として2報、装置設計理論として3報に纏めて発表した。城塚先生のご指導は、オリジナルで工学的な研究成果を重視されると同時にその背景となっている工学理論やその工業操作・装置設計への解説や適用法についての検討も広く学協会の行事や工学・技術関連の雑誌に発表するようご指導受けた。このよう活動は、特にモデルを中心とした理解しやすい理論的展開を行うだけでなく、実際に産業界で起こっている現実の問題解決と共に更に、近い将来の産業界における課題に対しても避けることなく取り込むように指導いただいた。この後者の問題に取り組むことが出来たのは、企業現場で活躍していた第一線の若い技術者との討議の場が有効であって、それが出来たのは、城塚先生の何事にも積極的で前向きに進む進歩的研究指導があったからでした。特にこの問題に取り組む時間が増えたのは、豊倉がオリジナルな連続晶析装置設計理論を提出した大学院在籍5年目の秋からであった。

4) II) 化学工学分野の研究者としての化学工学研究課題とその目標とした広範な研究成果,およびその研究を進める上で進んだ道。特にJunior Researcherとして

  1964年1月、豊倉が学部卒業論文のご指導を受けた宇野昌平先生が急逝され、宇野先生が豊倉の博士論文審査員だった関係で論文審査は一時休止した。その背景には、大学院3年目に進級した時、豊倉は博士論文完成後の将来宇野研究室を継ぐことを前提に早稲田大学理工学研究所助手に嘱任した。また、それと関連して、豊倉は宇野先生から晶析研究が一段落するまで、城塚先生のご指導を受けて研究を継続するように云われていた。宇野先生がお亡くなりになった後も、豊倉の身分は助手のまま城塚先生の下で晶析研究を続けた。その一方、豊倉が提出した晶析装置設計理論に関する研究成果を順次学会で発表し続けた。また、晶析装置・操作に関心のある国内エンジニヤリング企業や化学製品生産企業などから、工業晶析装置・操作に対する問い合わせが多くなり、城塚先生のご支援をいただいて豊倉が提出した連続晶析装置設計理論を用いて企業技術者の抱えた問題解決のお手伝いをした。当時、日産化学富山工場技術課長であった小久保先輩が担当して生産プロセスでは数種の結晶製品を生産しており、城塚先生のお口添えがあって。先輩のお手伝いもするようになった。これらの経験は、博士論文成果を工業晶析装置・操作の改善や新しい生産プロセスの開発に適用する良い機会となって、工業晶析装置設計理論の確立に前進させることが出来た。1966年秋には、日本における化学工業界の晶析装置・操作開発の第一人者であった大同鉛工業社取締役技術部長?山吉雄氏が研究室にお見えになり、城塚先生と豊倉はお目にかかった。この時、豊倉は、12月に予定していた米国留学直前に大阪の大同鉛本社を訪問して、連続晶析装置設計理論の講演を行うことになった。この講演は豊倉と青山氏との将来のクローズな関係に発展する切掛けとなって、ここでの晶析技術に関する討議は、1966年12月から米国で始まった海外研究者や技術者との交流進展に大いに貢献した。

  豊倉が早稲田大学助手に嘱任した時、助手3年勤続した段階で理工学部専任講師に昇格する申し合わせが、理工学部長室会議録に残されたという話を、豊倉が助手嘱任の時に宇野先生や城塚先生から伺っていた。しかし、豊倉が助手に嘱任して4年経過した1965年度末に、学科人事枠の関係で翌年の昇格人事は出来ないと云う話を城塚先生から伺った。そこで、豊倉は、このまま助手在任が長くなることは学科内の想定外の事態で起こったことでも、考え直す時期と思い、城塚先生から良く伺っていた「機会があったら早く留学をするように」とのご指導を思い出して、城塚先生に米国留学の相談をした。その時、城塚先生は豊倉のお願いをお聞き届けいただいて、すぐお許しが得られた。その時、城塚先生から、化学工学分野の博士号を取得した若い研究者は、カナダ政府の若手研究者対象のNRC奨学金に応募して留学する人はいるという話を伺った。その頃、1967年度NRC奨学生募集の案内が早稲田大学に来ていたのでそれに募をすることにして、必要書類を提出した、それと同時に、晶析研究を行っている欧米の研究室も調査して、そちらへ留学出来たら、留学先でも日本で行った晶析研究成果を生かせる研究が出来るのでないかと考えて、晶析研究に関心の有りそうな研究機関を探して留学をすることも視野に入れた。そこで、晶析関係の文献で名前を聞いたことのある先生の活動を検討し、若手研究者を受け入れるかどうか分からず、闇雲に豊倉が研究して発表した論文のコピーと自分の行った主な研究内容を英訳した書類を数部作成してこれはと思う欧米の著名な晶析研究者に送った。

  NRCから採用の連絡を受け取って、程なくして海外の晶析研究者からも連絡を受け取った。その中に、米国TVA公社のアラバマ州、マッスルショールズ肥料総合開発研究所に招聘されて居られた、中央大学教授安藤順平先生からのお便りがあった。当時、私は、安藤先生は全く存じ上げなかったが、城塚先生は安藤先生が日本化学会賞を受賞されたことをご存知だった。安藤先生のお便りでは、豊倉が留学のために手紙とその関連書類を送ったMr, G, Getingerをよくご存じで、彼は、私の手紙を持って安藤先生に豊倉を受け入れたらどうか相談に来られたとのことでした。そのお手紙は、「TVA研究所は、世界の食糧事情対策として必要な新しい燐酸肥料生産プロセス開発プロジェクト研究を重要課題として取り上げており、その中で解決すべき重要課題である硝酸カルシュウム晶析プロセス開発研究のスペシャリストを世界中で探している。TVAの研究環境や採用条件は日本の研究所とは較べものにならないほど良く、TVAでも豊倉のプロジェクト研究参加を希望しているので、豊倉はTVAに来ると良い。」という、鄭重なお手紙を頂いた。ただ、人事権を持っているSlack部長は、当時ヨーロッパに出張中で、8月末に帰国するまで決定できないが、安藤先生も部長をよくご存じで、豊倉採用の可能性を直接先のヨーロッパ出張中の部長にお尋ね下さって、豊倉が留学意思表示をすれば、ほぼ確実に採用は決まるであろうとの見通しを知らせて頂けた。このことを早速城塚先生にご相談申し上げて、直ちにTVA留学を決めた。

  TVAには、1966年12月上旬に家族を連れて到着し、翌日から研究活動を開始した、ここでの、研究状況は種々の雑誌にも紹介しているが、当面の課題であった粗粒硝酸カルシュウム4水塩結晶を生産する妥当な生成条件を独自な方法で見つけ、その操作条件で所望結晶を所定量生産できる晶析装置を豊倉の博士論文で開発した連続晶析装置設計理論を用いて設計した。合わせて、隣室で研究していた石膏硫安法による新しい炭酸カルシュウム生産法の開発も支援して、従来の常識を破る高効率の生産技術の開発を成功させた。(そのような研究アドバイスが出来たのは、渡米前に同じ系の研究開発を行った経験のある小久保先輩から、このプロセスには有名な英国ICIプロセス特許があるが、その技術を越える画期的なプロセス開発が出来ないか云われたことがあって、それに応える新しい晶析操作法開発を機会ある毎に思い出しては考えていたので、そのことがこの時役立って画期的なプロセス開発になった。・・研究所内でも成功したとき話題になって、所内お部長や局長などこのプロジェクト開発の責任者が確認に来ていたほどであった。・・・そのアイデイアは帰国後故青山氏から伺った、日本で話題になっていた廃液中水酸化アルミニウムの画期的な処理技術開発とも共通した晶析研究の経験のあった人のみが試して見る気になる当時の常識を越えるアイデイアによったものであった。)

  豊倉が大学院を修了して、1968年11月米国から帰国し、1969年4月までの期間は、早稲田大学助手とし、研究者としての経験を積む期間であった。その第一期は1966年12月までの間であって、学会役員として化学工学協会関東支部幹事を務め、日本の学会を通して日本の化学工学と化学工業技術との関係を学ぶことが出来た。具体的には、大学での工学研究と企業生産技術との係わりについてで、大学院博士課程の研究で提出した晶析装置設計理論を適用して、日本の晶析技術の発展に寄与したことであった。この間化学工学協会で進めた全訂改版第三版化学工学便覧第6章晶析を城塚先生と執筆し、化学工学系便覧で世界初の晶析装置設計理論とその工業晶析装置設計への適応を記述した。一方、豊倉の提出した博士論文の骨子を英文に要約した論文”Design Method of Crystallizer”をMemoirs of the School of Sci. & Eng. Waseda Univ., No.30, P. 57 (1966)に発表した。

  この間の第二期は1966年12月から、1969年3月までの米国留学を中心にした期間で、TVA 研究所で行っていた新燐酸系肥料開発プロジェクト研究における晶析装置・操作法開発に早稲田大学で提出した連続晶析装置設計理論を適用して成果を出した。この2年間の滞在期間中に、日本からおよそ40名の肥料関係技術者の訪問を受け、豊倉の帰国後もその時討議した一部の技術者と協議を続けるようになった。また、米国国内や台湾・韓国の技術者との交流も始める機会ともなった。特に、1968年春、Tampaで開催されたAIChE National Meeting に参加し、当時既にアメリカを代表する晶析研究者の一人であったDr. A.D. Randolphと面会し、晶析についての討議を行った。この時、彼に渡した上記 “ Design Method of Crystallizer “のコピーは、アメリカ晶析分野を代表した研究者であったProf.M.A. Larson に渡された。それよりLarsonは早稲田大学で提出した連続晶析装置設計理論に興味を持ち、豊倉の帰国後、1969年4月にWashington D.C.で開催されたAIChE. National Meetingで発表 ( Porf.Larson代読 )することになり、その中で、特にアメリカで関心を持たれた混合型晶析装置設計理論について、”Design of Continuous Crystallizers” C.E.P. Sympojiumu Series vol.67,No.110,p,145(1971)として、掲載された。以降、Prof. Randolph & Prof. Larson との訪米したときなそれぞれのお宅に招かりたり、また、来日した時は自宅に呼んだりして夫婦共々国際会議を通じて、豊倉が早稲田大学を退職するまで続いた。(両教授とも豊倉の退職直後に逝去された。)

  1968年11月、米国の帰途、英国LondonのUniversity College LondonにProf. J.W. Mullin 訪問すべく、” Design Method of Crystallizer” のコピーと手紙をアメリカから送った。 その時、豊倉が予定した訪問日には、Mullin 教授はヨーロッパ大陸に出張の予定が決まっているので、誰かに案内させるから是非来るようにと返事を受けた。1968年11月初、約束通り指定日に研究室に訪問した。その時、教授は不在であったが、その前にTVAから豊倉と文通したことのあったDr. J.Nyvlt が滞在していて、彼と面会することが出来た。その時、彼は豊倉が来るのはMullin 教授から聞いていて、豊倉がMullin 教授に郵送した “Design Method of Crystallizer”は見せてもらったことがあるので、もしコピーがあれば一部貰えないかと云われて、運良く持参していた最後の一冊を渡して帰国した。このDr. J. Nyvltに渡した一冊のコピーはその3年後の再会となり、今日現在も続いている国際交流に発展して行くとはこの時は予想もしなかった。

  上記2年間の海外生活を終えて1968年11月に帰国した時、渡米前には想像もしなかった収穫が得られたことに気がついて、城塚先生が博士号を取得したら早く留学をして来いと云われたご指導の意味が初めて分かった。1969年4月から理工学部専任講師に昇格し、新しい活動を始めることになった。

5) III) Senior Researcher としてのII)の研究目標、研究成果とそのための道

  1968年11月早々、帰国の報告に城塚研究室にお邪魔した時、先生は全改訂第3版化学工学便覧を書庫から持って来られ、これは渡米前に君が執筆した原稿を掲載した便覧で、化学工学協会から預かっていたものだと言って執筆者寄贈用の新刊便覧を頂き、初めて日本に帰国した実感を味わって、新しい活動を始めた。その数日後、国分寺の城塚先生のお宅に帰国の挨拶に訪問した時、アメリカでの研究生活は厳しくて大変だったろうとねぎらいのお言葉を頂き、これからの君の研究は晶析を発展させるか、新規テーマに挑戦するか尋ねられた。その時、私は、晶析研究は初期段階の晶析装置設計理論は城塚先生のご指導を受けて提出することは出来、また化学工学便覧にもそれに基づいた連続晶析装置設計法を記述することが出来たのは光栄ですとお礼の言葉が自然に出たのを思えている。しかし、その理論と設計法は, アメリカ、ヨーロッパの晶析研究者や技術者と行った議論を通して、まだ研究しなければならない課題が沢山あることを知らされたので暫く晶析分野の研究を続けたいと申し上げた。その時、城塚先生は、大学における研究についての一般的な考えとして、城塚先生は、東北大学の化学工学をリードしてられた先生が、「早稲田大学化学工学研究室の研究テーマは、複数の主要課題を対象に研究を進めているが、それは国立大学のように複数講座制で複数の研究室が、それぞれ独立した主要研究テーマを決めて研究する機関と違うので、城塚先生が、進められてる方針は充分理解出来る。その一方晶析は国立大学の研究室と同じように焦点を絞って研究を深く掘り下げて成果を上げている。」と云われてたとお話し下さいました。この先生のお話は別の言い方をすれば、複数の主題研究テーマを進めて成果を上げながらその成果を纏めて大きな学科プロジェクトの完成になるように研究を進めるか、一つのテーマ例えば晶析を対象にして、晶析の中に複数の切り口を設定・発展させることによって、それらの相乗効果を期待できるような方策を選ぶのが良いかをよく考えて研究を進めるようにご示唆いただいたと理解した。

  帰国後の晶析研究は、渡米前に始めたゾンメルテイング法をベースにした結晶化現象に着目した精製晶析法を通常の多結晶懸濁系に着目した、発汗現象や微結晶のライプニング現象・結晶転移等に基づいた工業操作に対応し易い精製晶析法としての研究法で進展させた。結晶核発生の問題に対しては、19世紀末に提案されたMiers理論に基づいたこれまでの研究の視点を変え、工業晶析操作の需要増大に刺激されて20世紀後半に研究が活発になった2次結晶核発生速度を工業晶析装置内の懸濁結晶状態に着目してユニークな方法で研究を開始し、欧米研究者・技術者の注目を受けた多数のオリジナルな成果を出した。1970年代後半から80年代に掛けて、東西ヨーロッパの代表的な晶析研究者は豊倉研究室に留学し、オリジナルな研究法を修得して帰国し、後に世界の代表的研究者になって現在も活躍している。1960年代にオリジナルな研究を行い、国内外から着目された晶析装置設計理論は、広く企業技術者の工業晶析装置設計に適用し易くするために、視点を製品結晶に着目・再整理して一般化した「晶析装置設計線図理論と工業晶析装置の適用法」を1980年に早稲田大学短期海外研究員としてヨーロッパに出張したドイツのStandardーMesso 社の一室で提出した。故青山氏は、9種の手持ちプラントデータにこの理論を適用して、1981年のISICで発表した。その後、この理論は世界の晶析技術者によって晶析装置の設計・検討に用いられている。豊倉研究室や研究室卒業生はそれぞれの研究成果を優先晶析プロセスの開発や圧力晶析技術の開発その他の晶析研究や工業晶析技術の開発に適用して成果をあげている。

  城塚先生が活躍された化学工学会では先生が理事副会長を退かれた1979・2月に、引き次いで豊倉は、3月より理事に就任し、以降1997・3月副会長を退任するまでの18年間に9期にわたって、化学工学会理事を務めた。日本海水学会、分離技術会で会長・副会長、日本粉体工業技術協会・晶析分科会コーデイネーター、その他学協会、公益法人の役員等を務めて学問・技術の発展に貢献した。また、国際的には、ヨーロッパ化学工学連合・工業晶析研究会の日本代表を務め、特に1972年に初めて開催された国際工業晶析シンポジウムに参加して以降昨年オランダのMaastricht開催のシンポジウムまで、の36年間に12回参加して、シンポジウム委員を務めたり論文を発表したりして世界の研究者・技術者との交流を図って、晶析工学・技術その他の発展に貢献した。また、米国ではAIChEの正会員として学会に参加し、特に1990年に発足したアメリカの晶析研究会(ACT)では国際的Specialistとして招聘されて早稲田を退職するまで連続して参加した。

6)むすび
  豊倉は、大学院博士課程4年次生秋の学会で、自分が発表する論文の検討不十分を発表前夜の夜中に気付き、論文発表時の質問に対する返答について城塚先生のご指導を頂きたくなった。翌朝早く起きて先生のお宅に電話して、学会に行く前仁お宅にお邪魔してご指導を頂きたいとお願いした。先生は優しく家に来なさいと云って下さいまして、先生のお食事前に河田町のお宅にお邪魔してしまった。その時先生は、先ずコーヒーでも飲みなさいと云って下さいました。少し雑談してから豊倉の検討不十分な話をしますと、先生は自分の思っていることを正直に答えなさいと笑みを浮かべて云われまして、弟子を信じる度量の広さを教えていただいた。この先生の笑みを思い出し、ご冥福をお祈りします。

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