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2010 S-3,4: 特集( 城塚正先生を偲ぶ ) -3,4
           「 試験装置と性能推算式 」
        小川 弘;1964年早稲田大学理工学部応用科学科卒業、工学士

  今年になってから城塚 正先生の訃報に接し、遅ればせながら、心よりご冥福をお祈りいたします。

  昭和35年、1年から専門科目もある、早稲田大学に入ったのに、2年の「物理化学」以外は私の得意な数学や物理が役に立たない、知識の記憶科目ばかりだったので、2年の終わりになって学科の選択を間違ったかと思い始めました。そんな折、城塚 正先生の「化学工学」の講義が始まり、私は「化学工学」への道に迷うことなく進むことにしました。

  先生が教科書として使ったのは、化学工学が“Mass Transfer Operations”と反応工学が“Chemical Engineering Kinetics”で、講義の終わりに課題を出され、次の講義の日にレポートを提出する米国の大学方式でした。この演習レポートの提出は化学装置を理解し、設計する上で有効な学習法だったと思います。レポートを書くためには、毎回教科書の関連する章を理解できるまで読んで、例題を自分で計算して解答と照合する必要がありました。実際に計算するのと、計算しないのでは大きな違いがあったことを自覚させられました。化工実験も演習レポートと同様に、同じ理由で、非常に有効な学習であったと思います。先生は学部教育では「演習」と「化工実験」を重要視されていたのではないでしょうか。当時、城塚研の大学院生の皆さんは演習レポートのチェックや化工実験器具の製作・準備に真剣に取り組んでおられました。(実は、私は3年からクラス委員に選任されたので、レポートを集めて提出するために度々城塚研を訪問していました。)

  3年の秋だったと思いますが、反応工学の課題で“shell and tube”タイプの触媒反応器を設計する課題が出されました。反応速度式、物質収支式および熱収支式の三つの関係式から試行錯誤方式で計算するものです。今なら、プログラムを作っておけば、パソコンが数分で計算してくれるでしょう。しかし、当時は計算尺で手計算ですから、それに私の要領も悪かったのでしょう、試行錯誤計算に70時間かかってしまいました。反応工学の受講生は60人位居たと思いますが、レポートを提出したのは20人いなかったように記憶しています。このときの経験は会社に入ってから役立ちました。開発中の化学装置の正確な性能推算式を収得でき、その結果、円滑な実用化が達成できました。小さな試験装置でのデータから得られた性能推算式で、1000倍以上スケール・アップした実機の性能を正確に推算できたからです。

  3年の期末試験前に卒業研究の指導を受ける研究室を割り当てるクラス会で、私は希望通り城塚研(定員7名)に決まりました。期末試験後、研究室に行くと、私と広田君が豊倉先生のもとで晶析をテーマに卒業研究を実施することになりました。私のテーマは“混合層での結晶生成”だったと思います。(度重なる転任と転居で学生時代の書類を間違って廃棄した様で、詳細は分かりません。)私の卒業研究は床面積一畳ほどのベンチスケール規模の試験装置を作るのに時間がかかり、データが少し取れたところで時間切れになってしまいました。私が4年生になって、研究室に入ってからは豊倉先生のご指導を受けることが多くなりましたが、城塚先生は製作中の試験装置のそばを通りかかると声をかけてくださいました。(1.8m×0.9m×1.8mH架台の中にタンクや熱交を組み込んだ試験装置を先生の部屋の隣で製作していた。)先生は、なかなか試験装置が出来上がらず、試験が始まらないので、心配されていたのだろうと思います。

  この卒業研究用の試験装置を自作したことは貴重な経験になりました。勿論、液/液系の熱交換器は、豊倉先生の指導を受けながら、図面を描き専門の鉄工所に製作依頼し、ポンプや流量計はできるだけ研究室にあったものを使用したと思います。(ポンプの電気モーターは昭和13年製でした。)昭和38年当時は穴あき塗装ずみのアングル材など市販されていませんでしたから、等辺山形鋼を自動カッターで切って、ボール盤で穴を開け、ボルト・ナットで骨組みを組み立てることから初め、塩ビ板を溶接して作ったタンク類を据付、塩ビ管を継手に溶接して配管しました。(まだ接着剤方式の継手が市販されていませんでした。)おかげで、塩ビの溶接は上手に出来るようになりました。会社には入ってからも研究所勤務でしたので、自分が関係する試験装置はほとんど自分で図面を描きました。

  私は学部卒業後、1964年4月 三菱重工業(株)に入社、長崎研究所に配属されました。入社1年後から「逆浸透法による海水淡水化プラントの開発研究」に従事、昭和45年度長崎県との共同開発で10T/Dのパイロット・プラント試験を実施した。その結果「逆浸透法による海水淡水化プラント」の将来性は評価されたが、三菱重工にプラスチックの半透膜モジュールを製品にする意向はなく、開発は中止された。しかし、自作したSpiral wound型半透膜モジュールの「性能推算式」(例の試行錯誤方式で計算するもの)をフォートランでプログラムしていました。昭和58年になって、私はすでに広島研究所に転任していましたが、MCECが「淡水化プラント」として製品化することとなり、また担当させられました。但し、脱塩装置にはSpiral wound型モジュール、海水淡水化には中空繊維型モジュールを購入して対応することとなっていました。私の作った「性能推算式」プログラムをそれぞれのモジュール仕様に合わせて修正し、色々条件で性能を推算した結果は、モジュールのメーカーから提供されたプログラムで計算した結果より広範囲に実測値に近い値を示しました。(淡水化プラントは蒸発法も含め、1988年頃、長崎造船所へ製品移管された。)

  1971年10月 広島研究所へ転任し、排ガス処理研究を担当することになり、排煙脱硝装置(SCR)の開発研究に参加しました。その後、SCRは事業化に成功しました。(排煙脱硫・脱硝装置とも世界のシェア50%)脱硝触媒の「性能推算式」は、反応速度式がなかなか出来なかったために苦労しました。私が作ったのは反応加速度式でした。そこで、関西の大学出の12歳年下の脱硝Gに加勢に来た人間にデータを渡して検討してもらいました。彼が作った反応速度式は素晴らしいものでした。作られて30年経っていますがいまだに使われている極秘の式だと思います。彼に聞いたら、城塚 正 西海英雄 共著「反応工学演習〔1〕〔2〕」を見て作ったとのことでした。それで、先生の演習レポートを思い出しました。

  1986年6月 横浜研究所へ転任し、ごみ焼却炉の排ガス処理装置の開発研究及びダイオキシン対策研究に従事することになり、1987〜1966は厚生省(現在は環境省)のプロジェクト研究(ダイオキシン対策研究)に協力(企業)委員として参画しました。ごみ焼却炉のダイオキシン類濃度が排ガス処理装置で増加する現象が時々見られます。これは排ガス中ダイオキシン類の“de novo synthesis”(新たに生成)とされていました。しかし、灰中ダイオキシン類の“de novo synthesis”試験からおかしいことは明らかです。灰中ダイオキシン類濃度は電気炉の中で300℃、2時間で10倍になる。排ガス処理装置の排ガス滞留時間は10秒ですから、1.4%の濃度増加にすぎません。ダイオキシン対策では「性能推算式」は出来ませんが、排ガス中に気体の“de novo synthesis”などありません。ダイオキシン類が排ガス中では気体では存在しないことは質量分析のクロマトで証明されました。 2002年12月から排ガス中ダイオキシン類の規制が強化され、目標の平成9年度のダイオキシン類排出量の92%以上低減をクリヤーし、平成16年には95%以上の低減を達成しました。目標達成が明らかになった2007年10月に“平成19年度廃棄物・浄化槽研究開発功労者”として環境大臣表彰を受けました。1987年〜1996年ダイオキシン対策研究に参加した民間会社の研究員4名と分析担当の学識経験者1名が表彰されました。

  1,996年10月からは横浜研究所の化学分析を請け負っている関連会社でダイオキシン分析の指導し、厚生省・環境省のダイオキシン分析の検討会等に参加していました。2008年3月で完全に引退し、お世話になった方々にお礼と思っていたところに城塚 正先生の訃報に接しました。

  城塚 正先生の直接・間接のご指導をいただいたのは学部3・4年(1962.4月〜1964.3月)の2年間でしたが、私の45年の仕事のやり方を全て習得したように思います。私の技術者人生を実のあるものにして下さった城塚先生に深く感謝しております。

  最後になりますが、心より城塚 正先生のご冥福をお祈り申し上げます。                                    

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