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豊倉賢略歴
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2010 S-01,2: 特集( 城塚正先生を偲ぶ ) -1,2
           「 これから化学工学の進む道は、そして先生に感謝を! 」
        鶴岡 洋幸 早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了 工学修士

  応化会とか、時に参加する化工関係の集まりの話の中で、『城研(化工)OB会の開催を!』と言う提言は何回か聴いておりました。うまく開催に繋がる様な流れは、皆様個人のお気持ちの中とか、OBの各グループ内では確実にかなりの運動量を持って動いていたと思われます。その様な中で、先月の11月中旬に、城塚先生のご逝去の知らせを受けた際には、「残念の極みであり、本当に申し訳ない!」の一念でありました。城塚先生は私の生き方や考え方の基本となる化学工学の考え方を出会いから青年期迄をしっかりと教育して頂いたので、私の人生の中で化工という種が、どの様に芽を出して、葉を広げ、樹木に育って行ったのかを記して、先生への感謝と心からのご冥福を祈りたいと思います。

1)早稲田大学に入り、教養課程の1〜3年は死ぬ気で勉学に励んだとも思えない事が、今にして思えば大いに残念でありますが、化学の道を選んで、次の専攻を決める過程で、城塚先生の化学工学(化工)の授業が私の人生の進路を決める大きな切っ掛けに成りました。化工とは、化学反応・移動速度論とそれを使った単位操作であり、自分にも“モノづくり”が出来ると自覚できた端緒と成りました。単位操作は、一つの性能を発揮するための機能が工学化されており、自然の法則が工学化されたと言う、中学時代の理科への興味から装置設計まで発展する面白さが有りました。それと移動速度論では、運動量と熱と物質が全く同じ概念式と無次元数で相関される面白さが有り、これは一つの現象表現が、宇宙の大法則にまで繋がりそうな雄大な思いに駆られました。即ち、性能が設計できる収束的な局面と、宇宙の大法則まで繋がりそうな発散する局面の両方を持っている様に思えました。

2)豊倉先生が米国TVAに留学される直前(1967年初め)に、私が学部4年に進学して晶析班に入る巡り合せとなり、私を含めた2名の学生に晶析班としての豊倉先生の特別講義をして頂きました。丁度化工便覧の改訂時期で新版の晶析の章を先生が書かれると聞きました。後で確認すると担当委員が城塚先生で、執筆者が城塚先生・豊倉先生の名前で記述されておりました。そして豊倉先生は晶析で世界を目指すと挨拶をされて羽田空港から飛立たれ、我々学生は見送りデッキで『都の西北』を歌い、雲間に消え行く機影を見送りました。この間は僅かに数ヶ月でしたが、日本を後にして留守役を務める我々に、豊倉先生は、世界を目指す心意気と、後を頑張って欲しいというお気持ちが沢山伝わって来て、気持ちはとても大きくデッカク膨らみました。もう少し真面目にこのデッカイ膨らみを理解し感受できていたら、私の晶析研究ももっともっと膨らむ事ができたのかな?と自問されます。

3)修士課程に進んで、城塚先生の輸送現象論特論は私にとっての初めてのゼミ形式の授業でした。それ程大きくない部屋で机を囲んだ車座での議論は、自分の今のレベルで1対1のやり取りが出来て、専門の文献への質問から、学園紛争の話から私的な事まで、研究と人間性が同じレベルで融合して議論を噛み合わせる師弟の関係で会話が出来た様に思えます。研究面の話には優しく的確な指導と助言を頂きましたが、私との関係は城塚先生−豊倉先生−私 と成るので、半分はお爺ちゃんの優しさも有った様な気も致します。城塚先生の学部卒業年が私の生れた年ですから年齢的には親子なのですが、そんな中で、城塚先生の人間的な巾と温かみは最高でした。着る物もお洒落で食べ物や遊びに対する造詣は大変なものですし、その一端の粋をゼミのお話の中にいろいろ垣間見る事ができました。

4)城塚先生は、戦後貨物船に乗って米国に渡り、留学して当時の化学工学の先端を勉強され、その後抽出で専門を極められて、綺麗な発音の英語の入ったモダンな授業を進める中、豊倉先生・平田先生を初め多くの有用な博士を育てられたと聴いております。それは単位操作をベースとした化学工学の大発展の時代であり、日本の戦後復興から品質世界トップのモノづくりを誇った時代の創出に研究の分野で力強く貢献され、モノづくりプロセスの「坂の上の雲」を実践されたと思います。

 私の1970年からの企業人生は日系と外資の二つを半分づつ勤務しましたが、残念ながら晶析のテーマは一度も回って来ませんでした。それでも化工的な考えはあらゆる面で役に立ったと思います。今年の7月から城研の大先輩の本田先生に薦められて技術士の1次試験を受けるための受験勉強をする際に、最近の化工便覧の晶析の章を斜め読みしました。豊倉先生は編集委員9名の内の一人として9章の晶析の章担当委員として晶析のまとめをされており、一見するところ随分晶析も進んだと感じられ、正しく焦点ピッタリの収束した内容が記述されて、図表化も多くされておりました。城塚先生の化工の意図は、晶析の分野で豊倉先生にしっかりと受け継がれて、晶析の章として化工便覧に大収束しているのを実感しました。

5)最近の化工誌では、研究の対象が化学以外の食品・匂い学・医学・医療・環境・資源・半導体・生命・感性と凄く発散が進む中にあります。数年前に化工誌が医工学を特集した際に、化工の酒井先生と酒井研出身の先生方の論文が半分を占める快挙に拍手を送りたく思いました。又先週12月14-15日に東京大学で『リソースの創成と流動』というシンポジウムがあり参加しました。何を志向しているのか!を探ってみますと、工学系のあらゆる知識を駆使して社会問題の答を導く試みをしていました。いわゆる文理融合型で社会問題の答を出すというシステム創生学専攻の2回目の学術講演会でした。以前小宮山前東大総長が化学工学会の会長時代に“知識の構造化”と言う講演をされたのを聴きましたので、小宮山前総長の肝いりで創られた研究科ではないかと推測致しました。工学系の知識の合成からどの様な無次元項が生れて、どの様な社会問題への答を出せるか? やっていることは化学工学的な手法を社会問題の解決に使えないかと言う試みをやっていると理解できます。知識がどこまで論理的に構造化できて、それがどの様な社会問題の解決に役立つか? 城塚先生ならどうコメントされるか本当に興味あるところです。

  小林久平先生から始る早稲田の応化の化工の歴史の中では、城塚先生はモダンな数学・物理学を駆使する輸送現象論を新たに取り入れて、改めて単位操作を大発展させ化工の研究室をしっかりと応化の中に形成された大きな功績を感じます。私が城塚研究室に在籍した1967〜1970年はお弟子となる豊倉先生・平田先生等が大活躍を始めた時期と思えます。昨年から勉強会に参加させて頂いている本田技術士事務所の本田技術士もその先輩格のお弟子であり、城塚先生との子弟感覚には筋の通った素晴らしさを実感しております。 私は社会での就職後は企業内に潜ってしまったのですが、今から振り返ると、距離はあっても研究室とやり取りが可能な職種を歩めたら最高であった!と思える昨今です。 これまでの私の企業人生には、城塚先生はもとより、豊倉先生を筆頭に諸先生方、工藤さんや学んだ同期等の城研人脈には大変なお世話に成っております。

  私の人生のベースをお教え頂いた城塚先生!本当に有難う御座いました。城塚先生とゼミで議論したあの時の雰囲気を思い出すと、あの頃の夢と希望と発展と人生の粋を思い出します。心からの感謝を申し上げると共に、心からのご冥福をお祈り致します。
                                   −以上−

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