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豊倉賢略歴
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2010 S-01,1: 特集( 城塚正先生を偲ぶ ) -1,1
           「 大学院学生時代の思い出・・( 1 ) 」  豊倉 賢

  豊倉が早稲田大学大学院で城塚研究室に配属されたのは、今から考えると奇遇であった。豊倉が大学院に入学した1959年頃は、早稲田大学応用化学科の卒業生が大学院に進学する時、学部時代に卒論研究を行った研究室の大学院修士課程に進学するのが通例であった。しかし、豊倉が一身上の都合で大学院進学を決めた時、卒業論文の指導教授をして下さいました宇野昇平先生に、大学院進学の相談に乗っていただくために研究室を尋ね、大学院進学の慣例を何も考えないまま、大学院では化学工学研究室で城塚先生のご指導を頂きたいと相談しました。その時、先生は城塚先生に直接お目に掛かってお願いしてみろと気持ちよくご了解いただけた。城塚先生には学部卒業以来2年振りにお目に掛かったが、気持ちよく了承下さって、大学院受験の手続きに入った。この後研究室配属までの手続きは順調に進んで、難しいことは何もないように思えたが、城塚研究室配属後に先輩の本田先生から君は卒論研究指導を受けた無機化学研究室から化学工学研究室に移れたのは運よかったねと云われた時、大学院配属決定に好意的にご配慮下さった先生方にただただ頭が下がるだけでした。

  城塚研究室に通うようになってまだ日の浅い頃、この書類は急ぎものなので東京大学の宮内先生に届けて呉れないかと城塚先生に云われ、豊倉を紹介したメモと書類を渡されたことがあった。この時、君を宮内先生に紹介しておくが、何時か都合のよいことも有るであろうと云われた。当時、豊倉は宮内先生のことは全く知らなかったが、大学院入学早々の新入生紹介のメモをわざわざ実筆で書いて下さった城塚先生は、何と心の優しい、気配りの行き届いた先生でないかと胸の熱くなるのを感じた。それから、化学工学会の研究発表会等で宮内先生に遠くからお目に掛かったことはあったが、言葉を交わすことなく10年以上は経過したが、宮内先生のお顔を忘れることはなかった。

  1972年9月チェコスロバキアのプラハで開催された4th CHISA Congress で5th Symposium on Industrial Crystallization が同時に開催されて豊倉はそれに参加した。その時、研究発表の合間に、日本から参加した晶析関係者2~3人とCongress 会場内を歩いていた時、偶々宮内先生とすれ違いました。その時、日本人同士という軽い気持ちで会釈してそのまま10mくらい過ぎたところで、宮内先生から豊倉君と初めて呼び止められて、宮内先生は、豊倉を覚えていて下さったと驚いた。その時、豊倉が城塚先生のお使いで13年前に宮内先生の研究室をお邪魔したことを覚えていて下さったとはとても想像することは出来なかったが、豊倉は13年前のことを思い出して親しい人に突然会った気になって嬉しくなった。その時、宮内先生は、僕は明日のセッションで座長を務めるように云われたが、未だ何も聞いていない。君は昨日のセッションで座長をしたが、その時何か特別なことをするように云われなかったかと聞かれ、お答えして分かれたことを今でも鮮明に覚えている。そしてこれからは、宮内先生は豊倉のことは覚えて居てくれるかも知れないから気をつけなければならないととっさに感じたと同時に、プログラムには座長の名前は記載されてなく、豊倉自身、晶析オープニングセッションの座長を務めるように云われたのは、セッション開始の前日、日本から直接Prahaに着いて、会場でNyvltに会った時に初めて聞いたことなのに、どうして宮内先生は豊倉の座長を知っていたのか不思議に思えた。その時、13年前に城塚先生がわざわざ研究室に来たばかりの豊倉を遣いに走らせたのはこのようなことが有るかも知れないと思われたからかと初めて気がついた。

  宮内先生と親しくお目に掛かることが出来たのは、それから6年経った1978年の秋のことであった。城塚先生と化学工学協会理事会や産業部門委員会等で共に活躍されてた月島機械(株)常務取締役の中山氏から次年度化学工学会長に晶析工学に高い関心をお持ちの宮内先生が決まっているから、晶析研究会を企画して宮内先生をお招きしたらと云われた。そこで、御殿場の研修センターで研究会を開催して、宮内先生にご講演をお願いし、一泊して頂いて研究会メンバーとの懇談会を開催した。その時、宮内先生は、豊倉が書いた 「DTB型晶析装置とKrystal-Oslo晶析装置の装置容積当たりの生産速度の比較を豊倉が明らかにした2核発生速度に基づいて検討した内容」 について新しいオリジナルな示唆的内容であって面白いというお言葉をいただいた。この研究会の数ヶ月後に、宮内先生から次期化学工学協会理事会の庶務担当を東京大学教授の河添先生と務めるようにとのご下命を頂いた。この人事は、1979年3月に城塚先生の副会長任期が完了する時であって、その時期に新理事を仰せつかることは非常に名誉なことと思ってお引き受けした。ここで、理事を引き受けることは、それまで化学工学協会関東支部や実務委員会で幹事・委員として豊倉が務めた仕事と異なった立場で、化学工学発展のための活動を行うことを意味し、新しい活動へのスタートとなった。

  1959年に大学院に入学した時は、運良く博士論文を纏めても工学研究者として何が出来るか不安であった、しかし、入学早々から城塚先生は、豊倉にはその場で理解出来ないようなチャンスを与えて下さいまして、それの内容・意味を良く分からないまま云われたことを大事に20年続けて来て、はじめて城塚先生が意図されたことが少し分かったような気になって、1979年の春、初めて化学工学分野の研究者としてのスタート台に立った気がした。その時、城塚先生からご教授頂いた化学工学の指導的立場におられる先生方や技術者の考え方・人に接する態度もおぼろげながら分かった気になった。その時自分で理解したと思った内容をさらに深く精査し、理解を深めると共にこれからの研究活動に反映し、化学工学の発展に貢献するように努力し、第三者から認められるような成果を出すことが先生から受けた御教授に応えるご恩返しになる近道と考えた。

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