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豊倉賢略歴
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2007C-12,1 豊倉 賢 「 35年間の大学生活 」

1)はじめに
  最近、年のせいかつまらないミスをすることが多くなった。その時何時も気ガ付くことは、「 何か始めるときには、まず原点戻ること 」である。だんだん慣れてくると、元に戻る手抜きをして、チョット戻ってすく先に進もうとするが、そうすると、それまで行ってきた道にどうしても戻れないことがある。・・・このホームページに掲載した記事は、研究室の卒業生と共に分担して合って研究したこと、その過程で経験したことを基に活動して来たことを纏めたものが中心です。

  今年は、2tc-pmtのスタートになっていて、豊倉が大学院に入学した頃を思い出した記事も書いてきたが、その過程で豊倉の学部同期生のクラス会で作成していた「始末書」の還暦号(1992年発行)に豊倉が大学院に入学して以降の35年間を書いた記事を思い出した。これは、約15年前に書いたものだが、卒業生はほとんど見てないだろと思って、今回はそのコピーを掲載することにした。

2)〜1965:(大学院に入学して博士論文を纏める迄の期間)
  城塚先生から指示された研究テーマは晶出であった。その後この用語は晶析になったが、この言葉の持つ意味は時々学会の懇親会の席などで話題になったことがあり、考えてみるとそれを議論する意味はあった。豊倉も時には結晶化とか、育晶とか云う言葉を使うことがある。種々の分野の人が集まる場では、用語を聞くとその人の育った分野を推察出来ることもある。

  この頃、化学工学協会の学会では、晶析研究成果の発表は数件しかなく、初日の最初の時間や、最終日の最後の時間帯に設置されることがしばしばあって、どちらかと云えば、晶析研究の発表は半端物扱いをされてるように思えることもあった。当時の晶析研究は、日本国内では2〜3の研究室で行われているに過ぎず、その内容も拡散操作理論を適用した結晶成長速度や装置設計理論に関するものが殆どであった。化学工業の生産技術における晶析操作の重要性については、豊倉は何となく理解できたが、晶析研究成果の発表に対する学会参加者の関心が低かった。それは、化学工学協会の学会で発表される研究成果の魅力が低いからで、このまま晶析研究を続けて評価を受けるには、産業界の技術者が評価するような成果をどんどん発表することが必要と考えた。幸い、博士課程在籍3年目(1963年)の春、連続分級層型晶析装置内溶液の無次元過飽和度とそこに懸濁する無次元結晶粒径に基づいた新概念、晶析操作特性因子(CFC)を提出し、それに基づいたオリジナルな連続晶析装置設計理論を提出することが出来た。当時化学産業界の一部の企業には、晶析に対する強い関心があって、この設計理論を発表した直後から国内化学企業や化学装置メーカーの晶析担当技術者との交流が活発になった。実際、早稲田大学応用化学科卒業の先輩等のお世話で、富山の化学工場や、都内や川崎にある企業の研究所等の晶析研究のお手伝いをするようになり、経験を積むことも出来た。この頃、学部を同期に卒業した原田、川口、福原君等に工場現場の晶析装置を見学の機会を作ってもらえて、工学研究に対するある種の示唆を与えられ、それは、その後の豊倉が行った研究活動に大きく影響した。また、豊倉が博士論文を纏めた直後に、改訂3版化学工学便覧晶析の改訂作業が始まった。この改訂では城塚先生が章「晶析」を担当され、豊倉も執筆者に名を釣られていただき、それ以降改訂6版化学工学便覧が発行されるまでの4版40年間章「晶析」の編集担当を早稲田大学化学工学研究室が続けた。

3)〜1970:
(この期間は66〜68年のアメリカ留学とその帰途イギリス・ロンドンのUCL訪問をして、Dr. J.Nyvltと30分面会した。この面会が豊倉の晶析研究のみでなく、日本の晶析グループ活動に大いに貢献した。)

  豊倉は学内の事情で昇格人事が遅れ気味になったので、海外留学を考え、欧米数ヶ所の大学研究室や研究機関に豊倉の博士論文の概要と研究経歴を纏めたものを送って、留学受け入れの折衝を行った。その送付先の中にあった米国TVA公社研究所に中央大学の安藤淳平先生が招聘されて居られ、豊倉の留学希望に対する相談を受けられて、豊倉を推薦頂いた経緯があって、短日時にそこへの留学が決まった。 豊倉のTVAでの研究課題は、当時同研究所の主要研究課題の一つであった、燐鉱石の硝酸分解プロセスの一つであった“Odda Prosess”の開発で、特に燐鉱石の硝酸分解液から硝酸カルシュウムを効率よく晶析分離するプロセスを開発することであって、それは、豊倉の博士論文で纏めた連続晶析装置設計理論を適用して纏めることは出来た。(そこでの活動概要は“ tc-pmt,2004A-1,4 早大晶析グループ国際交流の中の3)1966〜1980年の豊倉の国際交流”を参照下さい。研究内容の概要は晶析工学の進歩(1992)p.607「燐硝安プロセスとそれにおける晶析操作〔硫安技術,22,No.4,p.17(1969)〕を参照下さい」)

  この研究所で経験した出来事に、隣室の研究者が豊倉の研究が順調に進んでいたのを見て、彼は自分の行っている研究に豊倉が使っていた装置を組み立て、それを使って研究したいと云い出した。その理由は、彼の課題研究のネックは石膏から硫安を生産する時生成する炭酸カルシュームの結晶が通常の晶析装置を使用していたのでは容易に濾過分離できる大きさの結晶に成長せず困っていた。しかし、彼のプロセスに流動層装置を適用しても、通常の晶析理論では大きい粒子結晶を生産できないことは考えられたので、豊倉はその成長理論に核化・凝集現象を絡ませた操作法を開発することを勧めて成功させることが出来た。(その概要も上記晶析工学の進歩に記述してある。)

  当時のTVAは肥料研究の世界のメッカとして機能しており、米国内はもとより、日本や欧州等より多数の技術者が多数訪問していた。豊倉はそこによく来ていて知り合ったアメリカ人技術者の紹介でニューヨーク・パンアメリカンビルに本社のあった世界的エンジニヤリング会社ケミコの技術者に招かれて、マンハッタンの事務所で、晶析についての討議を行ったことがある。また、当時、フロリダ州立大学にいたDr.A.RandolphはTampaで開催したAIChE National Meetung のWork Shopの開催担当を務めており、TVAからの許しを得て、この学会に参加した。そこでは、Randolphと晶析の話をすることが出来、豊倉の博士論文を英抄訳した論文で、「Memoirs of the School of Scu.&Eng. Waseda Univ., No.30,57,(1966)に掲載された“Design Method of Crystallizer”の別刷」を彼に贈呈した。その後、Randolphは豊倉と会ったことをProf.M.Larsonに話したようで、Larsonから1969年にWashington D.C.で開催されるAIChE Meetingでその論文を発表しないかとの誘いを受けた。しかし、当時の日本では帰国して早々に再度アメリカに出張して論文を発表することはできないと伝えると、Larsonが代読してもよいから論文を送れと云って来たので、論文を送った。その論文は、後に“ C.E.P. Symposium Series ; vol..67, No.110,145(1971)に掲載された。

  1968年10月、アメリカの帰途University College LondonにProf. J.Mullinを訪問した。その時Prof. Mullin は不在であったが、当時たまたまUCLに留学中のDr.J.Nyvtと会うことができた。これは、豊倉とヨーロッパとのその後の密接な関係構築の切っ掛けとなっており、このヨーロッパ訪問は事前に思った以上に意義は大きかった。この時の留学は外国を見聞したと云うだけでも大きな収穫あったが、豊倉の博士論文の英抄訳論文に大きな評価が与えられ、それだけで、すでに世界中に著名な存在であった、欧米晶析分野の第一人者に認めてもらえたことは本当に幸運であった。それは、以降の密接な交流、協力関係へと発展した。いづれにしても、欧米にないオリジナルで、各方面に適用される可能性の大きい研究成果を出すことが重要であると実感した。

4)〜1975:
  この5年間は、アメリカ留学前に提出した装置設計理論の実用化と帰国後の新しい研究テーマのスタートであった。分級層型晶析装置では、大同化工機が開発した逆円錐型が日本国内で広く用いられていた。この装置特性は同社の青山さんによって、豊倉が提出したCFC設計理論によって検討され、その理論を用いるとパイロットプラントデータによって、1000倍以上のスケールアップが可能であることが示された。(この論文は1972年にプラハで開催された5th Symp. Ind. Crystallization (通常5thISICと呼ばれている)で発表された。)その後もCFC設計理論は工業装置・操作の設計や検討に用いられた。1972年に開催された晶析シンポジウムはヨーロッパ化学工学連合・晶析研究会(WPC)公認で、初めての世界規模の行事であった。

  この会議を組織したWPCの国際議長であったDr.J.Nyvltは、5thISICの開催が決まった段階で、豊倉に是非日本の研究者や技術者もその国際会議に参加するようにとの要請があった。それを国内の主だった研究者・技術者に伝え、8名がこの国際会議に日本から参加した。この会議のオープニングセッションは、UCLのProf.J.Mullin, Dr.J.Nyvlt,豊倉の3人で勤めることになっており、日本における晶析研究成果を世界の研究者の前で初めて発表することが出来た。この晶析セッション終了後、同じ会場で各国の代表者が集まってWCPが開催され、豊倉は、Prof.Larson,Dr.Nyveltと3人でそれぞれが研究している晶析装置設計に関する講演を行った。その席には中井先生、青山さんと豊倉の3人は特別にguestsとして招かれ、日本の晶析研究グループの存在を世界に示すことが出来た。

  今回の国際会議に参加するために,日本人グループがプラハに着いた時、Dr.Nyvltは、空港で出迎えに出ていて、全員を車で会場に案内して呉れた。その時、Dr.NyvltはUCLで豊倉が彼に渡した豊倉の博士論文の英訳文をチェコ語に翻訳し、それに自分達のデータを追加したものを出版してたと云って、その本を豊倉に渡しながら、豊倉の設計理論を東ヨーロッパに紹介したと云っていた。また、この訪問時に、Dr.J.NyvltはオランダのHSDelftのProf.de Jongを紹介してくれ、日本の晶析グループとして初めてヨーロッパの大学を訪問することが出来た。

  また、この時期は、アメリカから帰国して数年経過しており、晶析に関する新しい研究を始めていた。その一つは晶析による省エネルギー精製分離についての基礎研究であり、もう一つは2次結晶核発生現象に関する研究であった。これらの研究成果は1974年にアメリカのピッツバーグで開催されたAIChE Meetingで発表した。これらの論文はAIChE Symp.Ser., vol.72,No.153,p.53 およびp.87(1976)に掲載された。特に、2次核発生速度に関する研究成果を1974年の化学工学協会関東支部主催の夏期研究発表会で発表した。その日の夕方開催された懇親会の席上、乾杯の音頭をとられた東京工業大学名誉教授藤田重文先生のスピーチの中で、今日の豊倉先生の講演発表は分かりやすかったと誉められたことがあった。 この発表内容は豊倉研究室で初めて発表した2次結晶核発生に関する研究成果で、その後、欧米でも高く評価され、Drs.P.KarpinskiやJ.Ulrichの豊倉研究室への留学に繋がっている。また精製晶析の研究成果はスイスのMWB社の精製晶析装置の検討にも引用されるようになり、その技術の発展にも貢献している。

5)〜1980:
  この5年間は日本の晶析グループにとって充実の期間であり、豊倉も1980年に早稲田大学在外研究員に任命され、次に向けた新しい展開の期間になった。1972年に初めて世界規模で開催されたEFCE・WPC主催のInternational Symposium Industrial Crystallization (ISIC)は3年ごとに開催されるようになり、1975年、1978年にプラハとワルシャワで開催された。このシンポジウムには、日本の晶析グループのメンバーも参加した。ここで、豊倉が発表した独自に考案した方法で測定した2次核発生速度の研究成果はヨーロッパで初めて発表したもので、それを聞いたDr.P.KarpinskiはNyvltの紹介を受けて豊倉研究室に留学したいと申し出てきた。彼は日本学術振興会の奨励研究員に採択され、1977?78年にかけて一年間豊倉研究室に滞在した。彼は1978年に帰国していたので、その年の9月にワルシャワで開催されるISICに日本グループが参加するのであれば、そこで、日本とヨーロッパの晶析グループの懇親パーテイー開催の世話をしようとの申し出を受けた。このパーテイーは、彼の世話でシンポジウム開催前日の夕刻、ワルシャワのホテルの一室に開催し、これまで、日本からの参加の世話をしてくれたヨーロッパ晶析グループの代表的な研究者夫妻十数名を招いた。この時初めてISICに参加した日本人メンバーもいたが、これを機会に皆打ち解けた気持ちになっていた。

  この会議で豊倉は、WPCドイツ代表のStandard Messo社のDr.Messing 社長とも親しくなることが出来、ISIC終了後Duisburgの本社に招かれて晶析の討議を、Messo社の晶析担当技術者と昼食を挟んで行った。これはその後に30年以上続いた同社との密接な関係へと発展した。

  一方、国内化学系企業の間では、CFC設計理論による工業晶析装置設計は行われるようになり、その簡便利用法の提出対する要望が強くなってきた。それに応えて、若林さんは卒業論文研究で設計理論式を直接使わなくても容易に工業晶析装置設計が出来る設計線図を提出して、化学工学論文集に発表した。このようにして国内の晶析研究成果は日本の企業技術者の評価を受けるようになって行った。

  1987年11月に化学工学協会関東支部で開催する恒例支部行事「最近の化学工学講習会」では、「晶析」で開催することになった。この講習会は、日本の高度成長期には、毎年200人を越える参加者がいたが、その頃は、100名を大幅に下廻るようになっており、比較的多数の参加者が期待できる企画として、晶析が決められた。幸い、100名程度の参加者があって、支部の期待に対して応えることが出来たが、1959年に晶析研究を始めて20年間行ってきた研究活動が豊倉研究室としてものから、グループとしての活動となり、本来の学会活動となった。

  1980年、豊倉は5月から9月にかけての4ヶ月間、早稲田大学在外研究員としてヨーロッパ派遣が認められた。この期間は最初の1ヶ月はUCLのMullin教授の研究室に滞在し、20年間早稲田大学で行って来た晶析研究の整理と最近のヨーロッパにおける晶析研究の動向調査を行った。その結果に基づいて約2ヶ月間ヨーロッパを代表する大学や企業等の研究室を訪問して最新の晶析研究・技術の発展についての討議を行った。最後の1ヶ月はヨーロッパの晶析装置メーカーを代表するStandard-Messo社で装置設計理論の研究を行った。実際、この研究期間に豊倉は多くのヨーロッパの研究者・技術者と時間をかけた討議をすることが出来た。この成果については近い将来これから留学しようと考える人たちの参考になるように近い将来このホームページに寄稿する積りである。

6)1981〜1990:
  1970年代には、日本の晶析分野の研究者や技術者は海外で開催される国際会議にもなれ、気楽に参加して論文発表も活発に行うようになった。豊倉研究室の学生もISICには毎回複数の学生が参加するようになった。1981年ISICはハンガリーのブタペストで開催され、その後第2回世界化学工学会議がカナダのモントリオールで開催され、その両方の国際会議に続けて参加した。特に、ブタペストの会議には1982年に豊倉研究室に留学が決まっていたAachen工科大学のDr.Ulrichが彼の先輩Dr.OffermannらとISICに参加していて、豊倉研究室の学生と懇親会を開催していた。Dr.Ulrichが豊倉研究室にいた頃の研究室学生には、早稲田大学に入学する前に、外国生活を経験した人が数人いて、その他の多数の学生もDr.Ulrichと英語で話していたようで、彼が研究室にいたことは日本人学生にとってもプラスになる面が多かった。1984年にオランダのDen Haagで開催されたISICには早稲田大学の学生は多数参加し、その後大挙してAachen 工科大学を訪問していた。

  1980年代後半には、豊倉は晶析に関する国際会議を日本およびハワイ等で4回開催した。1980年の化学工学協会理事会において、1986年にアジアで開催される世界化学工学会議を東京で開催することを決めていたので、晶析グループとしてはその時、欧米の研究者・技術者を日本に招いて実情を知ってもらえるようにしなければならないと機会あるごとに来日を要請した。この時の様子は「晶析工学の進歩」(1992)pp.47〜69に掲載しているので、関心のある人はそれを御覧頂きたい。この国際会議に海外から参加した晶析グループの人達は初めての来日者が多かったが、日本で開催する国際会議の意義を理解したようで、以降豊倉が日本あるいはハワイやアジアの国で開催した国際会議には、世界の主だった研究室からは、教授の都合のつかない時にも、必ずか誰かが代わりに参加するようになった。また、この会議に参加したフランスToulouse UniversityのProf. Angolinoやドイツ Muenchen University のProf.Mersmannはこの時のお返しと云って主に日本人対象とした企画として、1967年のISICの直前にToulouseで仏日晶析シンポジウムとAndorra訪問のソーシャルプログラムを計画したり、また1991年の4th World Congress of Chemical Engineeringの時に、ドイツーフランスースイスのTechnical Visit と Social Programを組み合わせたBus Tour を計画した。

  その他の国際会議としては、1989年8月に仙台で開催された国際結晶成長学会に、工業晶析セッションを設置したり、 また同年12月に日本化学会等が共催したハワイでの環太平洋化学会にはアメリカのProf.A.Myersonと一緒に工業晶析セッション開催した。特にこれらの国際会議では欧米を含めて日本以外の国々からの参加者勧誘を行ったり、またここに参加した研究者らの関係者を含めた親睦会の企画・運営も行った

。   また、食塩輸入の自由化を前に日本海水学会有力法人会員企業で重要な食塩結晶生産技術の向上図り、塩工業界の協力を得て「海水利用工学研究会?OJT委員会」を1988年に立ち上げた。これらの活動は、化学工学分野の結晶生産工学の枠を広げたものであったが、狭い分野の晶析に焦点を絞った研究も成果があがるに従って、その研究対象やその研究成果の適用範囲が広がるのは自然なことと感じた。

  豊倉研究室の晶析研究は、この間も概ね順調に進展していた。特に、晶析装置の設計理論はより広く産業界に適用されるようになり、1980年の在外研究員の時、ドイツStandard Messo社での研究で提出した設計線図は工業晶析装置の設計に適用され、産業界の発展に貢献した。2次核発生速度の研究も進展し、一口に結晶核の発生現象と云っても、その機構が異なると装置内の晶析現象に全く違った影響を示すことも見出している。また、結晶核の発生現象と結晶の成長現象は非常に複雑に作用しあっており、それらは晶析速度のみでなく生産される結晶品質等にも複雑に関与することを検討している。晶析法による精製プロセスの研究で1980年代に山崎さんらによって提出された、『発汗操作による精製機構が、「無次元結晶量と無次元不純物量の両対数点綴相関線の勾配および勾配の変化から判断できる」研究成果』は継続的実験を続けてその可能性が示す測定結果はさらに蓄積された。その理論的な根拠はまだ明らかになっていないが、それを裏付けるデータは今後の発展を期待させるものとなっている。一方、晶析法による光学分割法について横田さんは博士論文の研究ですばらしい成果をあげている。その研究成果は後輩に受け継がれ、連続光学分割プロセス開発の可能性に対して有効な測定結果を得て、1998年の中国・天津における晶析国際会議で発表している。その他新しい考え方としては、最近各方面で着目されている結晶多形において転位を有効に利用すると、良質な結晶を高結晶成長速度下で生成する可能性のあることも示している。

  これらの一連の研究を総括すると、晶析研究は近年著しく進展しているが、研究が進むと云うことは、明らかになったことは増加するが、その一方で新しい疑問も増大するもので、その数は解明されたものの数より多いような気がする。このように疑問なことが増え続けると云うことは、その学問分野はまだまだ進歩発展を続けることを示すもので、晶析はそのような分野の一つ感じている。

7)1991年以降:
  1991年以降も晶析研究に関連のある新しい研究組織は立ち上げられている。アメリカIOWA STATE University のProf.Larsonは1992年3月にACT ( Assciation for Crystallization Technology ) を発足させた。発足当初はNRCの支援をうけていたようであった。豊倉は運営の詳細は良く分からなかったが、1993年以降招聘をうけて、1999年に早稲田大学を退職するまで年1度のATCに出席した。そこでは、企業の技術開発に有効な情報の提供と晶析工学&技術情報交換が主であった。ここで取り上げられた話題は毎回数件あり、その内容は企業技術者の要望の多いものが対象になっていて、ACTでは、その個々の話題に対する講演と討議であった。また、技術開発等に対する指導は、希望によっては、有料でコンサルタントを受けられるようであったが、その詳細は定かでなかった。ACT参加企業は規定の年会費や参加費を納入し、その納入による資金によって会は運営されていたようです。一方、会から招聘された大学研究者は会の予算の範囲内で出張旅費や宿泊費の実費までが支給されるようであった。   それ以外は、規定の会費を支払った企業からは、規定枠内の人数の社員がACTに参加できたようであった。参加企業は全世界が対象であったが、参加費は比較的高額なようで、実質的には著名企業や知名度のある研究者に限られていた。最近では日本化学工業の山崎さんがよく参加しているが、その他は少数の日本企業の技術者が時々参加していたようです。豊倉が出席ACTでは、知名度の高い人が多く、毎回懇親会が開催されていて、参加者同士親しくなる機会に恵まれていたので、晶析分野で活躍する人は可能な限り参加すると良いように思う。Prof.M.Larsonが逝去されてから、その運営法は多少変わったような気がしているが、そのことについては山崎さんに伺うと分かるのでないかと思う。

  日本国内の新しい晶析組織は1997年頃に発足した、日本粉体工業技術協会に設置された晶析分科会である。この会の発足に当たっては、井伊谷剛一先生から、粉体工業技術協会の活動を新しい方向に発展させるために、従来の固体を粉砕して粉体を生成する技術に加えて、粉体を発生、成長させて生成させる方法からのアプローチを始めたいので協力して欲しいと要請された。その時、今さら新しい晶析組織が必要かと思ったが、粉体技術工業協会は、企業技術者が大学研究者に気兼ねなく活動する組織で、会の大局的な方針決定や他組織との折衝する時など、大学研究者に進めてもらった方が都合の良いことがあるので、その処理をするためにコーデイネーターを大学の先生にお願いしている。事務的なことを含めて、実質的なことを処理する責任者として代表幹事を設けており、代表幹事には分科会のことを真面目に考えて動ける企業技術者にお願いしているので、それに相応しい人を推薦するのが、コーデイネーターの仕事なので、よろしく頼むと云われました。学会活動で、企業技術者が大学の研究者に気兼ねなく活動できる組織はこれまで聞いたことがなく、産業界に役立つ学会活動をするのに、この組織はすばらしいものと考え、井伊谷先生の御依頼を引き受けることにした。また、代表幹事には、棚橋社長の了解が得られれば、山崎さんになっていただくのが一番よいと考え、棚橋さんにお願いして、気持ちよくご了承をいただいて、晶析分科会を発足させた。山崎さんを支える幹事会の構成は、晶析技術に強い関心のある技術者にお願いして了承をいただき、この10年間発展を続けることが出来た。これまで、化学工学協会の晶析研究会や蒸留技術懇話会の晶析グループなど城塚先生にお願いしたり、藤田先生から世話するように仰せつかって発足させて来たが、この晶析分科会は豊倉より若い人達が力を合わせて発展させたものである。その活動成果は粉体工学会の医薬品等の結晶化現象や技術を研究している先生からを高い評価を受けており、また、欧米の研究者や技術者からも評価を受けて、隔年に東京で開催している国際会議の特別講演に喜んで来日するようになっている。その意味では、今までの晶析に関する研究グルーとは全く異なった経緯で発展しており、将来の展開を大いに期待している。

  豊倉は、1992年4月に京都国際会議場で開催された世界塩会議の食塩晶析セッションの開催に協力し、ヨーロッパの晶析装置メーカーの技術者の論文発表などの勧誘を行った。また、1989年にハワイで開催された環太平洋化学会の工業晶析セッションに引き続いて1995年にハワイで開催された化学会においても、ボストンTuft University の Prof. Botsarisと座長を引き受けて晶析セッションを組織し、ヨーロッパからも多数の晶析研究者にも案内して日米からの論文発表と合わせて盛大なシンポジウムを開催した。

  一方1997年春に開催されたACTにおいては、中国、天津大学から参加したProf.Jing-Kang Wangが計画していた、中国・天津大学における第一回国際晶析シンポジウムへの参加要請があり、そのACTに参加したProfs. Larson & Ulrich および豊倉が協力して支援することにした。特に、豊倉は、1998年に早稲田大学で国際晶析シンポジウム開催を予定しており、欧米からシンポジウムに参加する研究者らが、両会議に参加を希望した時の便を考えて、早稲田大学で開催する国際会議を中国で開催する国際シンポジウムの直前に開催することを決めた。実はこの年豊倉は、1997年度早稲田大学国内研究員に任命されており、早稲田大学在職中に行った研究成果を集大成するための研究を行っていた。そこでは、日本国内外で活躍していた晶析分野の著名な研究者、技術者を訪問して、早稲田大学で提出したオリジナルな研究成果の討議とそれを発展させることによって期待される新しい晶析理論の展開およびそれを適用することによって開発が期待される新晶析技術の討議をしていた。その上で、これらの討議を行った研究者および技術者が最近行った研究の成果を纏めて、1998年に開催する早稲田大学での国際会議で発表することを勧誘した。その結果、早稲田大学で開催した国際会議には欧米各国を代表する晶析研究者や技術者は参加して19件の論文を発表し、それに日本国内における最近の晶析研究成果等68報が発表された。

8)むすび
  豊倉は1999年3月に早稲田大学を退職する予定にしていた。そのような事情があったので1990年代は、これまで行って来た研究の未了部分の研究も続けたが、それと同時に、?日本の晶析研究の将来の発展を考えた新しい研究グループの構築、?近縁学問分野とのより密接な協力関係の樹立、?これからの日本の晶析理論、技術を背負う晶析研究者や技術者の諸外国研究者、技術者との継続的な協力関係の維持と拡大等についての道筋を付けておくことも行った。しかし、それらについて、豊倉と同じことを行っていたのでは、これからの世界の晶析研究や技術の発展を志す人々にとっては、なんも魅力を与えるものではなく、これから、日本を代表して進もうと思う人は、自らの特性を考えて世界をリードできると自信のある道を進むことが大切である。この記事がその道を進むことを考える人達の参考になることがあれば幸甚である。なお、この記事は豊倉の大学同期会が1992年発行した「始末書」に寄稿した記事をそのままコピーする予定でしたが、1990年代の様子はどこにも纏まったものは書いてないので、この記事の後半部分にそれを追加記述したことをここに記します。
 

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