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豊倉賢略歴
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2007C-9,1 鵜池靖之 1972年学部卒  (工学士)

 
  鵜池さんには、このHPに時々寄稿して頂いているので、殆どの卒業生は良く知っていることと思います。今年の7月21日から約10日間スイス、ヴァリス山塊と北イタリア、ドロミテイのトレキングを行い、色々御世話をお願いしました。その時について旅行記の前半は9月1日掲示のHPに掲載しました。今回は後半のドロミテイの旅行記を寄稿頂いております。どちらも日本では幾ら写真を見ても想像できない世界の勝景地です。鵜池さんは現在もBasel郊外のBrislachで生活していて、Basel日本人会の世話をしたり、時にはスイスを訪問する研究室卒業生の世話もしたりしています。長年務めていた化学会社SandozとCibaとが合併して出来たNovartis製薬会社のスキークラブに所属していて、今でも時々山に出掛けて生活を有意義とするようにしています。今回は豊倉の親しい知人たちが豊倉が何時もプライベートに行っているような旅行を楽しみたいと云うことで、鵜池さんには特に山のトレッキングの相談に加わってもらいました。その時の想いを忘れないようにと記事にしてもらい、これから退職して海外旅行を計画しようと思う人の参考にでもなればと気楽に纏めて貰いました。鵜池さんは長年務めた製薬会社を退職しましたが、結構忙しくしますので何処までお願いして良いものか分かりませんが、時間のある時にはアドバイスして貰えることと思います。必要なときには豊倉に連絡下さい。鵜池さんは親切で相談には乗って貰えると思いますが、余り頼り過ぎて迷惑を掛けないように配慮してください。私共日本人は世界の長寿国の仲間入りをしていまして、退職後の長い人生を有意義に送ることは、日夜頑張っている現職の人達の将来への希望を提示することになりますので、退職した人達のHappy Retired Lifeについても研究室HPに寄稿下さい。   (07年10月、豊倉記)

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「 豊倉先生との同行記(2007年7月21〜30日) 」
    スイス〜北イタリア トレッキング

                                     鵜池 靖之

  今年2007年の夏には豊倉先生が計画されたトレッキング旅行に参加する機会を得ましたので、その時の様子を述べてみます。スイスの山と、ドロミティの山とは大きく違い、私たちが視覚的に受けた印象と現地を歩いて得た体験もかなり違っていたので、2部に分けて書き下しました。今回はその後半部でドロミティについてです。

[2/2]: 北イタリア・トレッキング同行記(ドロミティDolomiti)

Zermatt〜Bolzanoへの移動
  Zermattでの最後の夜は短かった。一番早い電車に乗るために5時に起床して、まだ薄暗く静かなZermattの裏道をスーツケースが音を立てぬ様にと引き駅へと向かった。電車が6時8分に出発すると乗客は私たちだけであった。朝食の代わりにホテルが用意してくれた大きなサンドイッチを食べながら、電車は狭いツエルマットの谷を下り、大きなローヌの谷へと入り、Vispで90度東へ転回すると平坦地に変わり急に速度を増してBrigへと走った。今から100年前にアルプスで遮られていたスイスとイタリアをつなぐため長さ20Kmで当時は世界最長のシンプロントンネルが建設された。このトンネルへの入り口に在るBrig駅では乗り換えの時間が充分あったので、車中での食事に必要な半日分の食料を駅構内のスーパーで仕入れてから9時発ミラノ行きの電車に乗り込む。長いトンネルと険しいゴンド渓谷を過ぎると急に明るい陽光の輝くマジョリ湖を見た。家のつくりががらりと変わった。アルプスの山々も次第に遠くなり、北イタリア・ロンバルディアの平原に入った。一等車ではあるけど冷房が弱く、それよりも更に高い車外の気温はホームで待っている人の服装と顔の様子でわかる。ここは太陽の国イタリアなのだ。ミラノに着き、ホームに出た途端に着ているものが汗で濡れてしまい、日本の夏に帰ったみたいだった。

  他の所よりも警察の目が良く効いているだろうからとターミナルにある両替所の横隅に皆の荷物をまとめておき、豊倉先生と二人で見張っているのに、それでも必要と関係が全く無いはずの男が近くに現れ、時々こちらを見ながらその位置をジワジワと荷物の方へと近づけてくるので、豊倉先生と二人でその男の動く方向をブロックしたら、何事も無かったかのよう、静かに離れて行った。我々二人とも番犬の効果は充分にあった。Bolzano行きの列車に乗り込んだらここは灼熱地獄。操車場からホームへ牽引されてきた列車には冷房が未だ入れてなかったからだ。ミラノを発車して少しずつ涼しくなったのは周りの景色が強い太陽の光に焼けた平野から濃い緑の山地に変わり、列車が高度を増していくのと並行しているようであった。ブドウ畑が増え、谷が狭くなるとまだ真昼の15時なのに静かでひっそりとしたBolzano駅に着いた。皆は冷たいアイスクリームに飢えていたので、まずはそれで一息。豊倉先生と町のインフォーメイションを探し、「ドロミティ街道」を通ってコルチナ・ダンペッソへ行くバスの便を聞くけれど余り確かな説明は得られなかった。

  早朝7時半に出るドロミティ山塊一周への遊覧バスはあるけど、今晩は山の上のホテルに泊まるから、そこから荷物を引いて平地まで来るのでは間に合わない。もし乗れたとしてもバスはまた出発点のBolzanoへ戻ってくるから、途中コルチナのどこかで荷物と共に下車しなければならず、それよりもむしろ小型のバスを貸し切ってそれでコルチナまで途中の山々を回遊しながら行ったらとのアイデアが浮かんだ。早速その可能性を聞いた。一人当たりの費用は観光バスの値段よりか少し高くなるけども今晩宿泊する山の上のホテルまでこちらの希望する時間に迎えに来てくれるし、コルチナのホテルまで人と荷物を一緒に届けてくれるだろうからこれにしようと決め、その予約を頼もうとしたら、インフォーメイションの係員はプライベートの観光会社と予約する事を禁止されているからと断られた。それは個人で直接にしなければならないと知り、テレフォンカードを買って駅の公衆電話に戻り、教えてくれた電話番号を試したけど、ドイツ語のできるボスが今居ないから後で電話せろとドイツ語と英語の半々混じりで話す相手もこちらの要求についてあまり良く理解できていないらしい。これから当ても無くボスが来るまでは待てないからとまたインフォーメイションに戻って事情を説明して何とかしてくれと頼んだら、こちらでも彼女から言われた通りの努力を試みたからであろう、今度はすぐに電話をしてくれた。ドイツ語とイタリア語に何かが混じった様な「南チロール語」らしい言葉で交渉してくれると、すぐに決まった。これで明日はドロミティの周遊をもかねてコルチナまでの移動に使えるマイクロバスをチャーターできた。これから1200mのSoprabolzano−Oberbozen(Sopra−イタリア語、Ober−ドイツ語:高位の)へ登るケーブルの駅まで荷物を引いて日差しの強い0.5Kmの車道を行かなければならないけど、明日の朝にはホテルの玄関からそのままバスに積み込んでくれる。我々は少人数の贅沢な団体旅行団へと突如に早変わり。これで助かった。この現状下では最適の可能性を追求できたと嬉しくなった。

 高度差900m、4Kmほどの長い空中を大きなゴンドラでSoprabolzanoに昇り着くと確かに景色が良く、昨日までスイスで味わった冷やりとする懐かしい空気になっていた。チェックインした後の夕食ではワインについての丁寧な講義と、「量」ではなく「味」だけを試験する「飲み比べ会」が提供された。意図的な説明をうけると確かに産地によってこんなにも味が違うのかと、飲めない自分にもこれぐらいは判った。食事をした後でも外はまだ明るい青空なので、涼しくなった夕方の村を皆で散歩する時間も有った。

Bolzano ~ Cortina d`Ampezzoへの道(ドロミティ山群峠越しのドライブ)
  朝食の後、約束していた時間どおりにバスがホテルの玄関に来たので、荷物を積み込んで出発。Soprabolzano村からBolzano市まで下る自動車道からの景色は一面のブドウ畑で、強い緑色と手入れされた清潔さで美しかった。BolzanoからEisack谷に沿った高速道路をブレンネル峠に向けて北へ20Kmほど走り、Barbiano出口からGardenaの谷へと狭い一般道路に入ると急坂の山道に変わった。展望が開けるとEisack谷の後ろには雄大な山並みがあり、高い所まで緑色で小さな部落がかなり多く散在しているのは地中海性気候の影響を受ける此処の気候が温暖であるからだろう。進行方向のはるか前方には写真で見たあの典型的な山容をしたドロミティ型山塊が見える。小さな峠を越してサンクト・ウルリヒ(St. Ulrich=Ortisei:標高1230m)の休暇村にはハイキング風の旅行者が多い。この谷ではスイスのサンモリッツ地方と同じくロマンシュ語が使われているので、町の名前も以前はオーストリア領土であった時代のロマンシュ・チロール語名と第一次世界大戦後にイタリア領土となって付けられたイタリア語名との二つの名前を同時に使っている。ここでロマンシュ語を話す人々はもともとスイス人と同じ山岳民族であったのが理解できる。そこから先はドロミティの大きな山塊が右に左にと急に現れ、この地方について私たちは乏しい知識しか持っていないが、遂に期待していた別の世界に到着した事を実感した。ここがSella山塊(Sellagruppe)である。赤茶色をした岩壁だけの山塊の中間に向けて急坂を登っていくマイクロバスの中が驚きと感嘆の声で騒がしくなっていった。有名なGardena峠(2121m)で運転手とバスを休ませるために休憩。そこからチェアーリフトが動いているので皆でWolkenstein山(雲の掛かった岩)の中腹まで行く事に即決し、10人団体の切符を買った。山頂近くに少し残っていた霧も晴れ、その頂上まで登った人の様子が良く判る。こちら側は絶壁だけど、地図を見るとその後ろ側は傾斜が緩やかでそこに登山道があると判った。褶曲作用で出来た山にある典型的な地形である。全員の記念写真を撮ってからリフトでバスの所まで戻った。

  1430mのVilla村まで降り、San Leonard経由で直接にFalzarego峠を越えてコルチナ・ダンペッオ(Cortina D’Ampezzo)へと運転手は近道をしたかったけれども、村なかの分岐点に来るとこの道が閉鎖されているのを標識で知ったから、少し戻ってから1870mのCampolongo峠を越え、谷に下ると、Pordoi峠(2240m)から下って来る、BolzanoとCortin d’Ampezzoを結ぶ「ドロミティ街道」に合流した。1200mの谷道から標高2100mのFalzarego峠に向けてジグザグの急坂道を懸命に登ってかなり高度を増していると感じた頃、我々の乗っているバスの調子が急変した。突然に登坂力が無くなったようだ。運転手は数回トライしたけれどもやはり登れない。ヘヤーピンカーブの内側にある小さな空き地にバスをやっと乗り入れたらそれで終わり。ボンネットを開けてエンジンを見ていたが原因が分らないらしく、携帯で彼のボスに電話連絡をすると、別のバスを持ってくるからそこで待っているようにとの指令を受けた。代わりの車がこれからBolzanoを出てここに到着するまでには相当の時間も掛かるだろうから、「長期待機の必要あり」と我々も自動的に理解でき、先ずは腹ごしらえをする。コルチナには早く着くはずだったし、レストランで遅い昼食か早い夕食をとるつもりをしていたから、非常時用食料の準備はしていなかったけれども、皆が持っているものを集めると充分すぎるくらいあった。これまでは毎日朝早くから何時も急ぎ足で厳しいスケジュールをこなしてきたのに、この山奥に来て突然、何も出来ないこんな事が起こるとは全く予想などしなかったけれども、雨の日ではなく、カラカラに乾燥した地中海性気候の空気が高度二千メートルで冷やされて涼しく快適で、しかも真昼間に起こった車の故障なので、本当に我々はやはり運が良いのだと、驚きと落胆の気持ちがすぐに喜びの思いへと変った。

  ヘヤーピンカーブの内側に居る私たちを見ながら登り下りと通過する車の人たちは、このカーブの中に居る日本人グループの楽しそうにしている様子を見ながら、見慣れない人たちが何でこんな場所にわざわざ居るのかと理解できないような顔付きをしながら去って行った。代替の車が着くまでにこれから2時間は掛かるだろうと云う運転手の説明を知らせると、豊倉先生は既にこの新しい条件に沿う体制に切り替えられ、その準備としてバスの中でお休みになった。他の者は、リュックの中から出せば出て来るいろいろのお摘みの周りで、各自がそれぞれに持っている経験談や人生哲学について楽しく発表し合い、ただじっとして待つよりかは何も出来ないこの車待ち時間が却ってかけがえの無い価値あるものとなった。やはり云われたのよりは長く掛かるもので、13時半から3時間半ほど経った頃に一台の古いマイクロバスが高回転のジーゼルエンジンの音を立てながらヘヤーピンカーブを回って来ると我々の傍に急停車した。「救援隊が来たぞ」との歓声。意気のいい声高のボスが運転台から降りてくるや否や、我々が乗ってきたマイクロバスのボンネットをこぶしで叩きながら、「このボロ車メ、修理の金ばかりを掛かせやがる。」とドイツ語で大声に叱りつけているのを見ると、動かなくなったバスがかわいそうに見えた。迷惑をかけた我々には謝りの言葉の一言も無く、ただ急かされて、古い年式のバスに荷物と共に乗り移った。

  ボスは調子の悪いバスにエンジンをかけ、カーブを回って今来た道を荒々しく高速で下っていった。故障したあの車で無事に帰れるのかと心配したが、とにかく我々のバスは勢い良く峠への坂道を登り始めた。一つヘヤーピンカーブを越すとそこからは急に緩やかな直線道路となり、300mほどで広い標高2100mのFalzarego峠に着いた。ここまで来て見ると、ほんのもう少しで登り坂が終わりという地点で我々のバスがダウンしたのだと判り、惜しく思った。車の故障で気苦労した運転手に少し休むようにと勧め、お土産屋の前で小休止。目前には2835mのLagazuol山があり、山頂までのケーブルも動いている。山頂付近には登山者の姿も多くあり、登頂欲をかきたてられた。ここからはずっと下りばかりで、始めはコルチナの町が斜め下に遠く見えていたが間もなく市街地に入った。川の傍にスーパーがあり、我々のホテルはその対面にあった。事が終ってみると、遠い距離の道中を何とか苦労してこなし、やっとここまで無事に着けたとの実感が強かった。

  今日は思いがけない事件で多くの時間を費やしたように見えたけど、しかし、そのために特別の体験もできて、これまた良い日であったと皆でコメントした。運転手と共に、ホテルの前で記念写真を撮り、これから150Kmの山道をBolzanoまで無事に帰りつくようにと願いながら彼を見送った。ホテルはコルチナ市の環状道路に面しているし、一方通行の坂道なのでアクセルを効かせながら登っていく車の騒音がきつい。早速夕食に出かけたが、チロール訛りのドイツ語を話すBolzanoはここから既に遠くに在り、この町では人の顔も店の様子も違い、レストランでは主にイタリア語が話されるのに気付いた。この地方は昔からベネチアの影響下にあり、古来よりイタリア語の領域に属していたからであろう。今夕はホテルの隣にあるレストランで食事をしようと、豊倉先生さえも今日は余り遠くまで動きたくはないようだった。1957年の冬季オリンピック大会が開かれたコルチナ・ダンペッソは標高1200mにあるが、夕方になっても未だ暑いので外のバルコニーに席を取る。スパゲッティがとても美味しかった。ここに4泊する。

Faloriaファロリア山への道
  早朝から忙しい交通の音で、セットしておいた目覚ましが起こしてくれる以前から目を覚させられた。向いに見える3200mのTofana山頂付近には昨日と同じく白い雲が掛かっている。これまでのホテルで出されたのに比較して朝食の内容が簡単になった。傍に控えている従業員も余り動きたがらない。ハイキングの用意をしてホテルの入り口横に集合し、今日の行動について豊倉先生からのオリエンテーション。先ずは、町の中心地にある教会に行き、その斜め下にある旅行案内所Tourist Informationを訪ねた。案内のデスクでお勧めのハイキングルートについての説明を頼んだが、あそこに地図が貼ってあるから、自分達が何処へ行きたいかをまず見つけろと、案内所の女性からはツッケンドン。それならばむしろその地図を買って自分達でルートを探すことにする。 今日はこれからコルチナとヴェニスを連絡していたかつての鉄道駅から出ているケーブルでFaloriaまで登ってみる。明日はドロミティ・トレッキングのメインであるTre Cime di Lavaredo (Drei Zinnen:三つのチンネ、三の峰)へ行こう。明後日は日曜日だから、日曜にはTofaneへ登るケーブルの値段が均一料金の10ヨーロに割引されるからこの日に行けとホテルで何度も云われていたのでそれに従うことにすると決まった。

  太陽は既に高く、街を通り抜けてケーブルの駅まで300mの上り坂でも既に汗が出た。二回乗り換えで絶壁の上にある2130mの展望台に着き、そこから得られる素晴らしい180度の景色を楽しむ。

  右にも左にも特色あるドロミティの山容が良く判る。緑色の地面から空に向けて垂直に押し出された巨大な岩塊があちらこちらと、互いにある距離をもって存在している。ドロミティの山はこれまでに私たちが見慣れたスイスやフランスのアルプスとも、日本アルプスとも違い、連続した山脈のようなものではなく、この異様な形をした山塊は地球の吹き出物とでも言えるようです。大昔の地質時代にアフリカから押されてできたアルプス造山作用で岩層が地上へと垂直に突き出されたのであろう、ニキビのように地表面からボコボコと噴出されたように見える。山塊全体のシルエット線はおおまか台形状で山頂部は幾つかに峰が分かれているがそれらの標高はほぼ同じである。地質学ではドロマイトと呼ばれる炭酸マグネシウムを含んだもろい石灰岩で出来ている為に山頂部はいくつもの切れ目で分離している。山頂と山頂の割目には、この山を構成している石灰岩が風化し壊れて小さい白色の石となり、傾斜が弱まるまで崩れ落ちて白色の連続したガレ場となって堆積しているので、天気の良い日にはそれが白く光り、あたかも雪渓のように見える。したがって、ドロミティの山では日本やスイスの山みたいに一般のハイカーが峰から峰へと縦走できるのは稀である。山頂付近や岩壁の切れ間を越えるには岩登りの技術や岩登り用の特殊な装備(Klettersteig Unit)を必要とするので、そのための訓練と準備をした登山家だけに許されている。一般人のハイキングルートは山頂ではなく、山頂部から下へ続く岩壁が終る付近に沿って作られた登山道(Hoehenweg:高位登山道)行くか、もしくは、更に傾斜が緩くなり草原のある傾斜面や森林限界以下の山腹に作られたハイキングコースを歩く事になります。したがって、スイスの山のように、山頂付近までケーブルで登り、ハイキングしながら安全に下まで降りてくることが出来るようなコースは地図で探しても余り無いようだった。

  展望台で我々全員の記念写真を撮った後、そこからまたケーブルで下へ降りてコルチナの見物をするグループと、ここから更に遠くへとトレッキングするグループとに分かれて行動した。豊倉先生は珍しく奥さんにすんなりと従われて下山するのを選ばれた。この斜面には広大な展望を持ったスキー場があり、設置されているリフトの数からも冬場の賑わいが今の夏でも想像できる。スキーするには良くとも歩くには不都合な石ころの急勾配面を太陽に照らされながら汗と共に登って行き、2300mのレストランには寄らずに通過し、2360mにある誰も居ないスキーリフトの終点でピクニックをする事に決めた。正面には標高3200mのCristallo山塊、左手は未だに雲のかかっている3200mのTofana山塊、右手はるか遠くには雲の掛かった3000mのDrei-Zinnen(Tre Cime di Lavaredo:三つのチンネ、三峰)山塊、振り向くと後ろには標高2700m、白っぽい色をした岩だらけのNegra山塊で、そのまた後ろには3200mのSorapiss山塊、そして目前の岩壁でさえぎられているが、その奥10Kmには氷河を抱えたMalmarole‐Antelao山群が控えている。

  はじめは涼しいとありがたく感謝していたのに、干し肉やサラダ、チーズなどをパンで美味しく食べ終わる頃には寒気がしてきた。そこから先は急に道が狭くなり、谷底まで落ちる斜面の縁に作られた、白色の小石だらけの道で、滑るのではないかとの不安を感じさせる崖道となり、ここで我々が本式のドロミティ登山道へ入った事を実感させられた。標高2700mのNeguraからLoudoまで連なる長さ4Kmの岩壁を右手に見ながら、注意して崖道を1Kmほど行くとFaloria越に着き、ここでDolomiten‐Hoehenweg3号道に合流した。案内書で買ってきた2万5千の地図を見るとドロミティの登山道には自動車道路のようそれぞれに番号が付けられている。それから1.5Kmは斜面の中腹にある道だったので危険を感じることは無かったけれども、そこから先にはこの山道が岩壁下から始まる急斜面の大きなガレ場の上部を急坂で横断し、その先はよくは見えないけれど岩壁の中をさらに奥へと登っていくのを見て、我々のメンバーには難し過ぎるではないかとの意見が出た。話し合った結果、ここから400mほど戻り、高山植物の草原を200mほど横切って下り、3号道とほぼ並行している山腹の道(213号)をとることに変更した。Cristallo山塊の雄大な景色をバックに大きな岩の上で跳ねている「陽気な3人の女房たち」と、それを真似た「真面目な顔をした3人の山男たち」の記念写真を撮り、急に活き活きとなって分岐点まで戻った。この一般ハイカー用の山道は歩くのも容易で、早いテンポで2Kmほど行くと、小さなコブの丘があり、ここから先は下りになるので景色の良いこの草地で休憩。しかし目前にはだかっている岩だらけのLoudo山の後ろに黒い雲が急に広がり始め、これからすぐに天気が悪化し落雷の危険も感じたので、食べているお摘みを早く済ましてここには長居をせずに雨具の用意をして、いそいそと出発。ここから標高1800mのTre Croci峠までは5Kmの下りだけ。岩壁に共鳴して轟く雷鳴と共に大粒の雨が降ってきたが、間もなく止んでくれた。道幅が段々と大きくなっていく下りの道は草原から林の中に変り、後ろを振り向くと、降りてきた山複が更に高く見える。歩いて行く方向には標高3200mのCristallo山塊がいつも正面にあるので、長い間この素晴らしい景色を目前に見ながら歩けた。汗が出る頃にTre Croci峠についた。その名の通り「三つの十字架」が立っている。コルチナへ行くバスの時間まで一時間以上あるので、ここでただ待つよりか次の停留所まで歩く事にした。時々小雨が降ったけど、高山植物も多く、植物学の講義を聴きながらの下り道であった。Cristallo山へ登るゴンドラ駅の前にバス停留所があり、掲示してある17時20分よりかなり遅れてバスが来た。

  ホテルに着くと豊倉先生は我々の帰りが余りにも遅いからと心配されていたというのを知った。Cortinaの町は小さいので、町見物はすぐに済んだから、私たちを待っている時間も余計に長く感じた模様であった。夕食は若い人の多い近くのレストランでPizzaとSpagettiにする。
昨晩ほどの味は無かったけど。

Tre Cime di Lavaredo, Drei Zinnen三つのチンネへの道
  コルチナ駅のバスターミナルから東方へ、昨日下ってきたTre Croci峠を越え、Misurina湖経由、Auronzo小屋までの切符を買う。20Kmの距離が往復で5ユーロもしなく、間違ってはいないだろうが、スイスに比較してバス料金が極端に安い。ほぼ半分満席の超大型バスでカーブの多い山道を登っていく。ミスリナ湖に着くと乗客は皆降ろされた。緑色の大きな湖の端にはホテルやレストランが多くあり、ここは有名な観光地である。一回りほど小さい別のバスが来たのでそれに乗り換える。そこで待っていた大勢の人と共に押し合い押されながら乗り込んだが、譲る気持ちと行儀が良いがために豊倉先生も奥さんも立ち席。周りは15人ぐらい男子だけの中学生グループだが皆おとなしく静かにしている。James Deanに似たハンサムなグループリーダーが英語で話かけてきたので、日本についての質問に応答しながらバスは傾斜20%の狭い有料道路をグングンと2300mに在るオーレンゾ小屋まで上って行った。彼はPadova大学の学生で、ミッションスクールの生徒の世話をしているそうだ。イタリアは宗教心の強い国柄で、教会活動のために世話をする人も多く、子供の頃から教区単位の団体旅行が多くあるようだ。

  バスの終点はチンネ山塊の真下で、目の前は赤っぽい巨大な岩壁に180度を遮られている。オーレンゾ小屋から2450mのLevaledoレバレド峠までは道も広く、青い快晴の空を背景にしているDrei Zinnenの素晴らしい岩壁を左手上方に見ながら、緩やかに登っていくハイキングコースを皆が揃って歩けた。つい周りの景色に幾度も引きずられて立ち止まるので、歩く速度も鈍くなり、経過していく時間が気になってきた。日本のハイキング案内書にはこの峠からハイキングコース101号でLocateli小屋を経由し、105号でDrei Zinnen山塊の一周15Kmを歩いてきたと報告されているが、それは速足のハイカー向けであり、日帰りする我々メンバーの足では最終より一つ前のバスの発車時間には到底間に会いそうも無いようだから、その代わりにDrei Zinnenのすぐ裏側をほぼ一直線に横断している細い線として見える山道を行って時間を稼ぐ事にした。しかしこの道はハイキングコースとしての標識が付いていなく、人が歩いた足跡だけの道なので、自信の無いメンバーは同じ道をゆっくりとオーレンゾ小屋まで戻る事にした。そうと決まった途端、時間を無駄にするべきでないと残りのメンバーはいそいそとこの峠を出発。その時、バスの中で会ったグループリーダーの大学生が中学生を率いてやってきた。この道はどのようだったかと問うと、彼は顔をしかめながら、「とても大変だった。」と言葉少なげに答えた。けれども、子供たちを引き連れて此処までこれたのだから、その反対にこちら側からも行けるはずだと、やはりこのルートを行ってみる勇気が得られた。出発進行。

  細い道をガレ場に向けて下り始める。遠くから見ると肉眼でも確かに道があるようだが、山から崩れ落ちた大きな岩石の累積谷に入ってみると道の標識が全く無いので行き先が不明瞭になってきた。人間の足跡らしきものがあるので、前後共に確かなのを捜して順々にそれを追って行く。岩と岩との間に足を挟まれないようにと後ろに従って付いてくる者に何回も注意しながら行った。皆は急がず、慎重に足元を注意しながら来てくれた。そして道を探す為に私が先に行き、間違いであれば戻ってくるから適当な距離を置いて付いて来るようにと頼み、巨大な岩ばかりでゴロゴロしているけど、その中でも歩きやすいステップを探しながら進んだ。所々に石を積んだケルンがあり、やはり方向を選ぶのには助かった。行き止まりになって皆をまた引き返したりさせると疲労が大きくなると同時に、行く先に不安を持たせたりするので、自分達は正しい道を行っているのだと皆に思わせる工夫も必要であった。しかしどちらへ行くべきかが不明瞭な所ではやはり内心に不安な気持ちが起きてきたけど、それを皆に悟られないようにと努めた。前方に見える直線の道跡と今自分が居る所とがなるだけ同じ標高でしかも直線上にあるようにと勤めた。このようなガレ場は3箇所だけだとLavaledo峠から見えたのに、実際は3Kmの横断路に7箇所もあった。豊倉先生も脚の動きと足の置き方がおぼつかないように見える時が多かったけれども、事故を起こすこともなく確実な歩調で付いて来られた。危険そうな箇所では皆の話し声も途絶えるのを後ろに感じながら、前進して行った。それでも時々機会をつくって顔を上げると、青空を背景にしたZinneの大岩壁の景色が素晴らしい。桜色の羊羹を切ったようなつるつるの岩壁が垂直に立っている。やはりこの山は世界的に有名で、岩登りの専門家にとっては夢の山だとの確信ができた。大きな岩山が互いに接して三つあるので「3つの峰:Drei Zinnen、Tre Cime」と名付けられているのも理解できる。全員が無事に最後の難関を終えた時には、やっとこのトラバースが本当に終ってくれたという安堵と満足の気持ちで快かった。一般コースの105号に合流すると、急に広い普通のハイキング道になり、皆は私を追い越して、それぞれ自分に合ったペースで自由に先を歩いて行った。オーレンゾ小屋にはバスの時間まで40分もあったので、急いで昼の食事をした。

  バスでミスリナ湖を通過する頃から急に天候が崩れてきた。TreCroci峠を過ぎ、昨日も来たCristalloへ登るケーブルの駅前で6人はバスを途中下車した。山頂には霧がかかっているが、又とは来れないかも知れんと思い、3000mまで登るための往復券を買った。頂上まで行く途中の乗換駅では「山の上は霧だから行っても何も見えないから行かぬほうが良い。」と乗り口のゲートを開けてくれない。それならば、そこまで払った料金の返済をしてくれるかと訊くと、それはしないと当然の顔。それならばそれを承知で行くからと、長丸い太鼓のような形をした立ち席二人乗り用のゴンドラに乗り込んでガタガタ、ゴトゴトと揺られながら登っていった。これはもともと鉱山労働者用の縦坑エレベータに使うものであろうが、こんな変な格好のゴンドラには始めて乗ったと、可笑しかった。山頂と山頂の間にある終点はやはり霧で薄暗く寒かった。ドアを自分で開けて出るのに気付かず、急いで降りるチャンスを逃がしたために、中に居る二人はくるりと一回転してそのまま下へ降ろされて行った。

  此処にも第一次世界大戦の時に要塞が作られ、チロール地方を守るオーストリア軍に対しイタリア軍が領土争奪のために多くの兵隊をDolomitiの山々に立て篭もりさせ、兵舎や野戦病院などが岩の間や洞窟内に作られた。物資の移動や兵員の迅速な行動と安全のために、通過困難の岩崖には桟道の代用として鉄の棒が打ち込まれ、それに沿ってワイヤーや鎖が設置されたVia Ferrata(鉄の道)が考案された。兵隊は身の安全を確保する為、設置されたワイヤーに開閉可能なカラビナを通し、それと自分の身体とを短いザイルで繋ぎながら行動し、鉄棒の上を歩いている時にもし踏み損なった時でもワイヤーに引っ掛かって谷底までは墜落しないようにと願った。第一次大戦はまだ飛行機による攻撃がなかったので、敵味方とも兵隊と兵隊とが鉄砲や大砲で戦う時代であった。谷であろうか、山の上であろうか、占領した地域にイタリアの兵隊をこうして駐留させた甲斐があり、ドイツ・オーストリアが敗戦国となると、この二国との同盟を一方的に破棄してフランス・イギリス側に付いていたので戦勝国となったイタリアは約束の通り、ブレンネル峠までの、以前はオーストリアの領土であった南チロール地方を獲得できた。

  戦争用の手段としてここドロミティで考案されたVia Ferrata(鉄の道)が近年にはオーストリアやスイスのアルプスでも多く設置され、Klettersteig(よじ登り)と呼ばれる岩登りが流行ってきました。本来の岩登りと違い、ザイルを使わないので単独に岩の道を登る事が出来ます。カラビナをちゃんとワイヤーに通し、作られた「鉄の道」を順々に間違いなく行けば、安全でスルリのあるスポーティな岩登りが楽しまれます。

  頂上から中間にある乗換えの駅まで戻ってくる頃には霧雨から雷を伴った激しい雨降りになったが予定通りに17時20分のバスでコルチナへ戻れた。今晩は豊倉先生夫妻が我々の留守中に見つけてもらった街なかのレストランへ行く。安くて美味しいレストランには他の者も集中するもので、大混雑だから空席が無く、テーブルの順番を予約しなければ食べられないと云われ、一時間半も外で待たされた。しかし、我々は一番美しい奥のテーブル席に通されて、環境も食事の内容も豪華さのある夕食を取る事が出来た。ここのスパゲチィは量も多く美味しいけれどもかなり辛い。 今日体験したトレチンネの山は期待していた通りにやはり素晴らしかった。明日はドロミティ最後のハイキングであり、今までその頂上付近がいつも雲に隠されているコルチナの看板山であるTofanaへいく。今日の激しかった夕立の代わりとして、天気が良いのを願う。

Tofanaトファナ峰への道
  太陽は朝から照っているが、向いにあるTofana山の頂上付近は今日も雲に隠されている。頂上まで行くケーブルの乗り口まではホテルから1.5Kmほどあり、ここで1957年に冬季オリンピックが開催された時に出来たオリンピックスタジアムを過ぎていく。大きなゴンドラを途中の駅で2回乗り継ぎ、3100mまで昇る。その途中からは素晴らしい景色が見られ、瞬く間にコルチナの街が遠くになっていく。山頂駅は霧に包まれていて景色は見えない。しかし急に風が出てきたので霧が動き始め、時々下の景色も見え始めた。霧の合間に3244mのトファノ山頂がすぐそこに見えたので、あそこだと皆で登って行った。岩を切り開いて作った道は広く、容易に歩けるが、頂上までの30mはゴツゴツした岩を両手でよじ登らなければならないから、半分はその下で待つ事にした。頂上では一方が絶壁で、それに沿ってVia Ferrataがあり、向いのTofana di Dentro (トファナの針山3238m)に向かって岩にかじりつきながら登っている数人の様子が霧の合間に見える。ここは岩だらけの世界である。これから先には岩登りの装備が無ければ行けないので、この最高地点で記念写真を撮ってから皆が待っている所へとそのまま戻る。帰り道では、2470mの第二中間駅から岩壁の間を降りるハイキングをしようと考えていたけど、今はここまで霧が降りてきたので、傾斜のきついガレ場にある難コースを霧で見えない状態で下るのは意味が無かろうと判断し、皆にそれを承知していただいた。最後のハイキングであるからと、これを簡単に諦めるのは残念だった。その代わりに次の乗換駅(1780m)でケーブルを降り、そこから易しいハイキングコースに沿ってコルチナの街まで8Kmの道を下る事にした。トファノの巨大な山腹を左手に見ながら普通のハイカーとともに歩く。トファノの山を正面にした素晴らしい景色を見られる大きなベンチにはハイカー親子が休んでいて、暫くは動きそうにもないので300mほど行くとトファノを斜めに見る大きなベンチがあり、ここに決めた。持ち寄った食料品を皆で分け合いながらの昼食。楽しく、美味しかった。

  歩き始めると雨が降ってきたが間もなく止んでくれた。森の中を過ぎ、急坂を下ると牧草地になり農家がでてきた。水が豊富であるらしく、どの農家でもその前庭には噴水の水場があり、その中を覗いてみるとビールとスイカが冷やしてある。「日本人の考える事とやはり同じだね」と誰かが言った。道端の小さなチャペルのドアが開いていたのでその中を訪ねると良く手入れがされていて、結婚式の為の飾りがしてあった。ここはローマ・カトリックの国である。標高1210mのコルチナは雨あがりで蒸し暑かった。今晩はドロミティ・トレッキングツアー最後の晩であるので皆が揃って、例の安くて美味しいレストランで会食をする事になった。前もって予約していたけれども又30分ほど待たされた。しかしその甲斐あって今度も一番奥の美しい部屋に案内された。これまでの体験談なども交えての楽しいコルチナ最後の食事であった。明日は山岳地帯を離れ、地中海沿岸の古都ヴェニスへ行く。5時35分発朝一番のバスに乗るためには、未だ暗い5時にホテルを出発し、荷物を曳いてホテルの前を通っている一般車道を登って行くのがバスターミナルに行く一番の近道であるし、道路表面も良いはずであろうからと、食事の後の帰りがけにそのことを実地で確認するため、自動車道を下ってホテルへ戻った。

明日は朝食無し。

Veneziaヴェニスへの道
  早朝で未だ車も走っていない車道を一列に並んで静かに登って行く。暗いバスターミナルには我々だけ。出発5分前にバスが乗り場に着いた。3人ほどの乗客が加わり定刻に出発。コルチナの街をぐるりと回っている環状線を時計の反対回りに下り、ヴェニス方面に行く鉄道線の駅Calalzoに向かって走る。今は廃線になっているが以前は鉄道の通っていたアムペッソの谷Valle d’Ampezzoをかなり早いスピードでバスは下っていく。これまでの淋しい景色が終ると急に工場と住宅地の多いカドレCadoreの谷に移り、廃線を免れて今も運行中の鉄道の終点であるCalalzo駅に着いた。この地方の中心地であるBellunoを経由してPadovaへ行く電車が待っていたのでそれに急いで乗り込む。動き出すと、夜明け前からの移動で緊張していた気も緩み、ホテルが朝食の代わりに用意してくれたスナックとジュースで朝食。Ponte dele Alpi(アルプスの橋)でヴェニス行きの電車に乗り換える。ここから先は平坦地になった。朝霧も消えて青空になり、太陽の光が強いのを感じる。通勤時間なので車内が混んできたし、冷房の無い車内は暑くなった。これまでの人気少ない自然の世界から、忙しそうな顔つきをした色々な人の多い別の世界へと来たような感じがした。

  10時過ぎにはヴェニスのサンタルチア・ターミナルに着いた。暑い。先ずはコインマシンが故障している有料トイレで用を済まし、皆の荷物をまとめて一次預かりの倉庫に入れた。周りも外国から来た旅行者ばかりのようで、イタリアとは云えども警戒心が薄れ、気も楽になった。フロレンス行きの列車が14時38分に出るのでそれまで自由行動としてあったが、皆は一緒にまとまって駅前からサンマルコ行きの水上バスに乗り込んだ。この船がカナル・グランデを通ってサンマルコへ行くのだと思い込んでいたのに、別の方向へと進み、途中幾度も停留しながらヴェニスの南側を回って外側からサンマルコの船着場に着いた。やはり人が多い。太陽の光が強く、まだ建物の日陰になっていてクラシック音楽を生演奏している涼しそうなカフェーの席へと自然に体が引かれて行き、皆がそこに座った。メニューカードの値段はこれまでに見たのより数倍であったが、この日陰に腰を下ろして休憩するのは快適であった。そろそろ行動開始だと、会計をしたら、皆がそれぞれ一人当たり6ユーロを余分に払わされた。文句を言ったら、これは「音楽の聞き賃」だと云われ、そうだ、ここはヴェニスなのだとの感嘆。何処も此処も人ばかりで、サンマルコ寺院へも長い列が出来ていて、中を見学するのを諦め、ヴェニスの市街を突き抜けて駅の方向へと歩き始めた。人混みと細い道で、どちらへ行くのか知りたいと願うような分かれ道には行き先を書いた標識がちゃんとあり、Stazione Ferravia(鉄道の駅)の標識を次々と追って行けた。奥さんだけでなく豊倉先生さえも途中に連ねて在るお土産屋さんを無視して通り過ぎるわけにはいかずに立ち止まり。それには私も加わった。駅では約束していた時間を皆が守り、発車30分前に全員が揃ったので荷物を引き取り、フロレンス行きの列車に乗り込んだ。昼ごはんを食べる時間も無かったが、今晩はフロレンスで1Kgのステーキを食べるから、それまでは我慢できると、「昼抜かし」を互いに慰め合っている。列車の中は冷房が効いているが、プラットホームは暑い。皆に最後の別れを云った後でも、ホームを急いで来ているアラブ人旅行者一家族を待ち、更に乗車券の説明などをするために車掌が定刻より遅れて出発させた列車がやっと動き出すと音も無く遠くへと去って行くのを見送った。

  私は19時20分発でボローニアへ行き、そこから00時半発のローマからバーゼル行きの夜行列車でスイスへ帰る。それまで5時間あるので、荷物を一時預けにやり、もう一度ヴェニスを見物するためにと駅を出てサンマルコへと向かった。するとこれまでの青い空に黒い雲が動き始め、日陰になって、あの暑さもなくなり、急に埃を伴った強い風が吹き始めた。行く途中にマクドナルドがあったので遅いながらも昼食をしていたら、雷鳴が轟き、激しい夕立がやってきた。一時間半も大粒の雨が止まず、傘なしでは外へ行けなくなったので、そのまま雨が止むまで中で待っていた。豊倉先生たちがヴェニスを離れて行かれたから、その途端これまでの好天気が大嵐へと急変したのであろうと気付くと、なにやら神秘的な思いがしてきて驚いた。雨風に濡れた後のヴェニスはもうそれ以前にあった活気をすっかり失っていた。私たちが休んだカフェーのテーブルには誰も居ない。ドーゲン・パラスだけがまだ入場できたので、閉館で追い出されるまでの時間を充分にかけて見学してからサンマルコ広場を去り、Ferrataviaの標識に従って駅に向った。ボローニヤでは大聖堂のある中央広場まで往復して深夜2時間の乗り換え待ち時間を過ごし、予定していた夜行列車に乗ってスイスへ戻った。

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