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豊倉賢略歴
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2007C-9,1 鵜池靖之 1972年学部卒  (工学士)

 
  鵜池さんはこれまで研究室のHPに数回寄稿しているので、多くの卒業生は鵜池さんのことを良く知っていると思います。また、2004年の最初に掲載したHPに寄稿された時(この記事の番号は2004C-1,1です)豊倉が鵜池さんの紹介記事を書いているので、必要な方はそれをご覧下さい。その紹介記事の中にも書きましたが、鵜池さんが初めて欧米に出発したのは1966年(豊倉がアメリカTVAに留学したのと同じ年)のことで、その時鵜池さんは早稲田大学理工学部機械工学科を卒業した後に、学士入学制度の扱いを受けて応用化学科に入学していて、 大学生海外派遣制度(イヤエステ)の試験に合格し、相手国の受け入れ機関からの招聘を受けて留学した。鵜池さんは帰国後豊倉研究室で卒論を纏めて卒業し、‘66年に留学した時研修生として滞在したことのある世界的に著名な製薬会社Sandozに就職、アメリカ、スイスの研究所で活躍した。その後Sandozが合併して出来たNovartisを定年退職するまで製薬企業で工業化開発研究を続けていた。

  豊倉は、1974年以降、海外出張で時間に余裕のある時は、鵜池さんに会うように心掛けていたが、そのお陰で、ヨーロッパ人の人間性など通常の文献ではなかなか知り得ないことを聞くことが出来た。鵜池さんが定年退職してからは、鵜池さんも時間に余裕が出来たようで、家内が歩いて見たいと希望していたスイスアルプスやフランスアルプスのトレキングに付き合って貰えるようになり、豊倉も定年後の余暇を大分楽しむことが出来た。最近、家内は足に自信のある近所の人達と日本の山歩きを楽しむようになっていて、それが切っ掛けで、今年の7月から8月に掛けて、家内の友人8人(内6人は3夫婦)と10人で約2週間の予定でバーリスとドロミテイのトレキングを計画した。

  ヨーロッパ各地の旅行はこれまでに国際会議その他の目的で一通り経験しているので日本の国内旅行並に旅行計画は出来たが、山歩きとなると山の天候やその土地の情報を出来るだけ得られるようにしておいた方が安心と考え、昨年の秋に鵜池さんの都合がついたら一緒に旅行して欲しいと了解を得ていた。これまで鵜池さんと一緒に山歩きをしたのは長くても3〜4日で、人数も家内と3人だったので、現地についてから宿探しをすることも出来たが、今回は人数が多く、しかも鵜池さんに付き合って貰う期間も10日間になっていたので、鵜池さんもさぞかし疲れたことと想像していた。しかし、今回の山歩きの様子などを鵜池さんに書いて貰ったら、仲間にも印象に残る近況報告になるのでないかと依頼してみた。帰国後も ―鵜池には― 時々メール連絡は取っていたが、鵜池さんからは今回の寄稿について何も話がなかったので、流石の鵜池さんも疲れて無理だったのかと思っていた。ところが、今回のぎりぎりの期日と豊倉が考えていた昨晩(この期日は鵜池さんに伝えていません)、前半のバーリスの様子を送って来たので、それを以下に掲載します。後半の部分は次回(2007C10−1,1・・は豊倉方の都合で掲示を10月5日(水)とします。)に掲載するように鵜池さんに依頼しますので、ご期待下さい。その時今回の旅行について豊倉の感想も記述する予定です。   (07年8月、豊倉記)

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「 豊倉先生との同行記(2007年7月21〜30日) 」
    スイス・バリス〜北イタリア・ドロミテイ トレッキング

                                     鵜池 靖之

  今年2007年の夏には豊倉先生が計画されたトレッキング旅行に参加する機会を得ましたので、その時の様子を述べてみます。スイスの山と、ドロミテイの山とは大きく違い、私たちが視覚的に受けた印象と現地を歩いて得た体験もかなり違っていたので、2部に分けて書き下しました。

[1/2]: スイス・トレッキング同行記(ツェルマット)

Zermatt〜Riffelbergへの道
  今年も暖冬であったが、その後に来た春の天候も例年に無く不順で、6月は殆ど雨ばかりの天気でした。7月が始まってもその傾向はあまり回復せず、雨と晴れとのせわしい交代と気象条件の変換ばかりの日々だったので、7月21日から始まるトレッキングの期間に、自分がいくら希望していても果たして晴れの天気が来るのであろうかが、現地ヨーロッパに住んでいて、そこの天候を観察しながら行事の始まる日を待っている私の心配事でした。

  雨上りの後、曇りのBasel駅を10時に出発し、ほぼ同じ時刻にチューリヒ駅を出発した豊倉グループとツェルマット方面に向かう列車の中で合流し、Berner-Oberlandの山脈を抜ける長いトンネル(Loetschberg-Tunnel)を終えてローヌの谷側に入った途端、まばゆいくらい快晴の空を見たので、天気というものはこれほどまでにも早く変化するものかと驚かされ、皆で思わず歓声を上げたくらいでした。ツェルマット駅に着いてみると諸々の国から来た観光客であふれていたので、豊倉先生夫妻を除き、まだ顔も良く識別できない8人からはぐれない様にと努めるのに精一杯でした。スーパーで明日からのハイキングに必要な食料品を買い入れ、Gornergrat行きの登山電車で海抜2600mにあるRiffelberg へ行きました。こんな遅い時刻から山へ登る人はほんの数人だったので、車中から見えるMatterhornの美しさを写真に撮るため、私たちだけの電車の中を右へ左へと忙しく動き回りました。とにかく、始めてZermattに来た参加者もここでのメインであるマッターホルンがどんな山なのかを実観することが出来たのでホット一安堵。チェックインした後、夕食は19時で、外はまだ明るく、Riffelberg Hotelから回りを見渡すと、正面にMatterhorn、その左右には4千メートル級の山々があり、しかもこのホテル以外は、すでに閉店して誰もいないレストランが一軒と離れた丘の上に小さいチャペルがあるだけなので、淋しく静かな別天地でした。

Monte Rosa Hutteへの道
  モンテローザ・ヒュッテへのトレッキングが最初のハイキング行程であり、早朝から好天気に恵まれて、リッフエルベルグ・ホテルを出発。登山電車で2800mにあるRotenboden(赤い地肌という意味)駅まで行きそこから歩き始めました。右手上方には氷河にかぶさったBreithorn〜Liskamm〜Monte Rosaなど4200〜4500〜4600メートルの山並み、眼下400mには、灰色の砕石を背に担ぎ全く静止したままのGornergrat氷河を見まわしながら、高山植物の豊かな4kmの山道を緩やかに下り、氷河が山腹に接する地点へ向かった。10年前に豊倉先生夫妻と氷河を渡ったところは深い谷底にあり、そこへ下って行く山道の跡はまだあるけれども今は使われていないのを感じたので、そこから更に新しい道らしき登山靴の足跡に従って氷河の上流方面へと行くと、氷河との接点に到着できました。Monterosa H?tteへと書いてある新しい標識ができ、人の足跡が小石に表面を覆われた氷河の上に続いており、20mほど行くとそこからは氷河が急傾斜になり、それを50mほど越えなければならず、一見して滑りやすく、しかも一度すべると30mほど下のクレバスまで落ち込むのではないかという心配があり、その危険は目に見えるけど、それでも先へと行くべきかを皆で考え協議しなくてはならなかった。

  近くの岩の上に二人の若い登山者が休んでいて、そのうちの一人は左腕を血で真っ赤に染め、氷河を渡るときに滑らぬようにと私達に注意してくれた。クレバスの中から氷河の下を流れている激しい水の音を聞き、各自のコンディションを考慮すると、Monterosa H?tteへ片道3kmの氷河を渡ってから更に標高差200mのH?tteまで崖の上に作られたはしごをよじ登って往復し、また3kmの氷河を渡って夕方までここに戻ってくるのは無理であろうから、むしろここから引き返す事にすると決定しました。渡る用意をしたザイルを巻き戻し、先ずは腹ごしらえをしてから、正面にMatterhornを見ながらRotenbodenまでの登り道を戻りました。小さいRiffelseeで水面に写る「逆さマッターホルン」を見るために小高い岩の上で暫く待っていたが、山頂付近を隠している白いカーテンのような雲がやっと消え始めたからと喜んでいる途端に次の雲がその後部から連続的でしかも瞬間的に発生するので、絵葉書にあるような雲ひとつ無いマッターホルンの山容は見られなかった。

  氷河の横断に使う時間が自由にできたのでRiffelbergのホテルへ行く組と、更に下方のRiffelalpまで歩く組とに分れました。Riffelalp組は左手にMatterhornとZinalの山々,後ろにはBreithorn,前にはZermattの村とMischabelの山塊を見ながら発育の良い高山植物の豊かな山腹を回って2300mのRiffelalpに着き、そこからは電車で夕食の始まる時間前にRiffelbergに戻りました。19時からの夕食をゆっくりと食べても22時まで明るいので、外に出て周りの山々が夕焼けに燃えるのを観察する事も出来ました。明日も天気が良いであろうし、Zermattへ電車で一度降りてから対岸の高度2500mにあるSchwarzseeへ移動し、それからMatterhornのHoernlih?tte(標高3260m)まで往復してくる欲張った予定をこなす為には今夜からハイキングと一泊に必要な荷物だけをまとめてリュックに詰め込み、朝日の出発も早いので部屋を暗くし、急いで就眠。

Matterhorn Hoernli Hutteへの道
  重いスーツケースを引いて早朝の電車でZermattへ降り、翌日に宿泊するホテルにスーツケースの荷物を預けた後ゴンドラの駅へと急いだ。山はとってもの強風だけど、それでもSchwarzseeへ行くのかと切符売り場で注意され念を押されたが、今晩そこに宿泊することになっているのだから何が何でも行かなければならぬと全員のチケットを買った。今はとにかく強風でゴンドラの運転が止まる前にと皆をせかしてキャビンに乗り込み出発。云われたとおり、そこは吹き飛ばされるぐらいの強風で、すぐ傍にあるホテルまで歩くのも難しく、半分吹き飛ばされ、走りながらホテルに飛び込んでチェックイン。そして山頂付近は雲で隠されているMatterhornに向けて強風の中を行動開始。強風と寒さを除けるためにヤッケを頭からすっぽりとかぶり、記念写真を撮るために集まった全員が極地探検隊員のように見えた。

  崖壁にかけてある桟道が始まり、そこから登山道が険しくなる所で休息し、この様な気象状況だからとホテルへ引き返す組、それでも登って行くぞとの組とに分れた。豊倉夫妻はもちろんHoernli小屋(ヘーンリヒュッテ)を目指して早々と行動を開始。岩の多い急坂のジグザク道になり、上へ上へと懸命に登っていると、風を避けてくれる岩陰も幸いに多く、強風のことも忘れてしまった。はじめははるか上方に時々見えていたHoernli小屋が今はすぐ眼の前に見えるのに、なかなか近付いて来ない。天候が悪化してきて、今にも雨になりそうだし、自分はここに一休みし待っているから小屋まで行ってきなさいと豊倉先生から幾度も言われたので、先に登っている三人の後を追った。残雪が現れる3100mの所から上にはガスが掛かり気温も低くなっていた。3260mのHoernli小屋に到着し、暖かいスープを注文して、急いで時間遅れの昼食を取る。もう二度とここまで来ることがないかもしれないし、女性二人はここで待っているからMatterhornの登り口まで行ってみなさいと薦められ、薄い霧のなかを山根さんと更に15分ほど急いで行くと山道は突然岩壁で終っていた。

  垂直の岩壁を見上げるとMatterhorn初登頂を記念した銅版が埋め込んであり、岩の割れ目には2本のザイルが設置されて垂れ下がり、Matterhornの山頂まで続くあの岩壁を装備完了の登山者が登り始める出発点がここであるのを見た。急いで記念写真をとり、小屋に残した女性二人と途中この寒さの中で待っておられる豊倉先生のことを思い出し、また急いで下っていった。そして私だけは小屋から先に出発し、急ぎ足で高度差が150mぐらいまで降って行くと、服装と体型からして女性らしき人が岩の陰にじっと動かず立っているのが見えた。あの人も登るのが大変なので一休みしているのだろうと思いながら、大きな岩崖を回って近くに来てみるとそれは豊倉先生でした。そうだと知っていたら合図の叫び声も出来たのに。雨が降り始めて急に寒くなったので、緑色のレインヤッケで頭からすっぽりと身を包んで居られたのだから、後に残して別れた時の野球帽と黒いヤッケを着た人とは全く別人に見えたのです。あー、良かったと嬉しく、そこからは一緒に下って行きました。雨が強くなってきたので、後ろから来ている速足の三人を待たずに、とにかく先生はホテルまで止まらずに注意しながら歩いて下さいと、ザイルで引いていくようにして急いだけれども、この強風と大粒の雨で下着までずぶ濡れになってホテルへ帰り着きました。ホテルのマネージャーが親切にも、ほぼ同時に戻りついた私たちの濡れた服などを地下の洗濯室にある大型の乾燥機に入れてくれたので、それが出来上がるまで下着がパジャマ姿で待ちました。

  夕食の頃には既にうす暗くなりかけ、間もなく外は激しい稲妻を伴った雷雨になりましたが、ホテルの中には暖房が入っていたし、乾いた服をもらって着るとそれだけでも快適でした。天気には恵まれなかったけれども、今日の夕食での雰囲気からすると、Matterhornに向けて自分の持っている最高の運動能力を出し切り、皆さんは自己満足で幸せのようでした。翌朝、明るくなった外を見ると昨日登って行ったところは白い雪で覆われていました。ここ2500mは雨とあられだったけれども、2800m以上は雪になっていたのです。朝食を済ましてから、寒くなった外気の中をゴンドラでZermattへ降りて行きました。

Sunnegga〜Rothorn〜Findeln〜Zermattへの道
  先ずは今晩泊まることになっているホテルに立ち寄って、今日これからのハイキングに必要な物だけをリュックに詰め変え、すぐにSunneggaへ登る地下ケーブルカーの駅へ行った。明るい外に出てゴンドラに乗り換え、全員3100mのRothornへ行きそこからの展望を楽しんだ。これまで数日の間に歩いた登山道が目前に近くはっきりと、左にRiffelbergの山腹、右にはMatterhornの稜線にHoernli小屋が見え、自己満足と目的を果たした快感を味わうことが出来た。登頂を希望していたOberRothornは更に300mの高度差を登り、裏側に回っている細い山道を往復しなくてはならないが、昨夜の雪がまだかなり残っているので諦め、その代わりにここからZermattまで景色の良い道を選びながら高度差1500mを降りようとする組と、Sunneggaまでケーブルで戻り、そこから600mの高度差をZermattまで降りて、店が閉まる前に買い物をしたい組とに分れ、皆で一緒に記念写真を取ってから別行動を開始。RothornからSteliseeまで降る途中のFluhalp H?tteの傍でピクニック。太陽の光線は強く暑いほどだが、この山の奥にあるFindel氷河から吹き降りてくる風は冷たく、二つの要因の組み合わせで、何とも云えないくらいに気持ちが良い。最高級の贅沢なレストランで食べてもこんなに美味いとは感じられないだろうと、メンバーの七人はそれぞれが違った物を食べているのに、「山屋さん」たちが表現した一人合点の満足ぶりだけは皆に共通していた。

  Stelisee湖で有名な「逆さMatterhorn」を見ることはできたが、なぜか頂上付近だけがいつも雲に隠されていて、またもやその全景を見せてはくれなかった。珍しい高山植物についての解説を聞きながらFindelnの村に近づいた。Matterhornはここからが一番美しく見えるのですからと、早足で行き過ぎている佐藤さんたちを呼び戻して、昔の納屋を改造したParadise(=極楽)という名のレストランで休憩をした。皆で注文したコーヒーがこれまでに無くとても美味く感じたのは、ここでの展望から得る雰囲気がやはりパラダイスと言えるくらいに美しく雄大で、この風景の真っ只中で砂糖をたっぷりと入れた甘苦いものを飲んでいるからであろう。なぜ私たちはMatterhornをそんなに美しいと思うのか。ここからの角度でMatterhornを見ると、谷底から頂上までの稜線と頂上付近のねじれた形状が他に二つと無い芸術的な美しさとして私たちに印象付けるからであろうなどと皆で話し合った。我々の控えめなコーヒー・ブレイクどころか、別行動の「買い物組」はここパラダイスの景色をじっくりと観賞しながら昼食を取ったと後で知ったので、さすがは豊倉組、適所・適選だなと感心しました。パラダイスを去った「七人の侍」組もZermattへ急ぎ足で降り、村の昔からある小さなチャペルに通じる巡礼の道に沿って急坂を下ってZermatt村の中心地に着いた。美しい村の教会を訪れた後、まだお土産店も開いているので、数人のメンバーはメインストリーにある運動具店でハイキング用ストックを購入し、次の目的地、イタリア・ドロミテイでのトレッキング・ツアーの前準備をされました。今日は一日中太陽に照らされ、かなりのハードなスケジュールをこなし疲れたけれども、夕食で新鮮な野菜のサラダを三回もお替りしたらまた精気が甦ってきたのを感じた。既に今夜から明日の移動と早朝に出発する用意を済まし、早めに就寝するようにした。明日はホテルでの朝食なし。 朝一番の電車でZermattを去り、スイスからMilano経由で北イタリヤのDolomitiに移動する。

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