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豊倉賢略歴
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2006C-6,6 杉本伸之 1991年学部卒  (工学士)

 
  杉本さんの学生時代の印象は、この記事に書いてある本文を読むと、全く変わっていないと改めて感じました。よく云われることですが、「人間社会は改めて云われることのないような誰でもよく知っている約束ごとがあり、それを守って人から信頼されないと生きて行かれないところだ。」と云うことを改めて感じました。杉本さんの記事を読んでいる内に自然と学生時代の杉本さんを思い出しました。そこで、思い出したことは、1:正直に行動する。2:逃げない。3:人に迷惑を掛けない。・・・・でした。本文で杉本さんが書かれた学生時代のことは、表面的にはその通りと思えますが、それをそのままここに書かれたと云うことは本当に素晴らしいことで、自らを偽らない人だと改めに感じました。豊倉が最初に「1:正直に行動する。2:逃げない。3:人に迷惑を掛けない。・・・・」と書いた杉本さんの学生時代に杉本さんから受けた印象は、間違いなかったと云うことでした。世の中では、学生時代の学業成績のよい人は素晴らしい人と評価され勝ちですが、そのような人の中に、その人の本来の実力を偽って自分は何でも出来るという顔をする人がいるように思う。そのような人の中には、自分の偽った行動を隠すために、「逃げたり、偽ったり、平気で人に責任を押しつけたり・・・」する人がいる。杉本さんは学生時代から本当に信頼し合っている友人がいて、今でもその人と家族ぐるみで付き合っているようです。   (06年11月、豊倉記)

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(杉本 伸之)

略歴
1991年 4月 ゼネラル石油株式会社(現在の東燃ゼネラル石油株式会社)入社
堺製油所技術部 (石油精製装置の設備検査を担当)
1994年 4月 本社・供給部 (主にLPGの輸入を担当)
1998年 4月 Esso Singapore (設備投資予算管理を担当)
1999年 10月 本社・管理会計グループ (主に日米会計基準に基づく収支分析を担当)
2005年 4月 和歌山工場技術部 (工場内の設備投資を担当)
2006年 6月 ExxonMobil Asia Pacific (シンガポールで原油調達関連の業務を担当)


「 What's next? 」

  「豊倉先生からメールが来てるわよー」 某日、会社から帰ると家内にそう言われ、一体何事かとメールを見たところ本稿への寄稿依頼でした。恥ずかしながらそれまで一度もtc-pmtを見たことがなく、卒業生がどういった内容の寄稿をしているかということなど知る由もありませんでしたが、先生からのメールを読みながら頭の中は「どう言い訳をしてお断りしようか?」ということでいっぱいでした。

  私は二次配属(確か4年生の4月に配属)で豊倉・平沢研究室にお世話になり、学部で卒業しているため研究室の在籍期間は一年弱と卒業生の中では恐らく最短の一人。石油会社に就職はしたものの、化学工学とは異なる分野を歩んできており、研究室OBのHPに寄稿する立場ではなかろうというのが自分なりの理由でした。が、そんなことは豊倉先生も承知の上での話。取りあえずHPを拝見させて頂きました。

  既に同級生が3人、当時M2だったY田さんも寄稿していることがわかりました。そしてY田さんが寄稿することに抵抗しつつも最終的には引き受けているということを知り、無駄な抵抗をすることはやめ、潔く?引き受けさせて頂くこととしました。

では、本題に

  豊倉先生からのメールに大学卒業後の略歴を書いてほしいとの依頼があり上述しました。改めてこうやって略歴を書いたのは初めてかもしれません。今までの転勤をちょっと振り返ってみました。

  「杉本さん、化学工学の出身だったんですね」 最近こう驚かれることがあります。ゼネラル石油(株)に入社し、希望通り堺製油所への配属となりましたが、配属されたのは化学工学屋さんが通常進むプロセスエンジニアの部署ではなく、機械工学や材料工学を専攻したメカニカルエンジニアと称される人たちが配属される保全技術室。メカ屋さんになったことにはあまり違和感はありませんでしたが、それが思いもしない部署を転々とする第一歩だったのかもしれません。

  「あと1年はうちの部署で頑張ってもらうから」 入社して3年経とうという時期の面接で上司にこう言われました。ところが、その一週間後にその上司にまた呼び出され、皆に聞かれない場所で話があるとのこと。個室に向かう長い廊下で上司について歩きながら一体何を叱責されるのかとあれこれ考えたことを良く覚えています。幸い叱責はされませんでしたが、異動の内示でした。しかも異動先で担当する仕事はエンジニアとは程遠いLPGの輸入。異動は突然言われると聞いていましたが、本当に突然でした。

  「いやー、それにしても杉本さんの英語はひどかった」 その後部内での異動を経て次に転勤した先はシンガポールでした。当時エッソ石油からも同い年の日本人がシンガポールへ来ていたのですが今でもその彼にこう言われます。確かに学生時代にあまりに英語が出来なくて笑われていたような人を海外に送り出すのですから会社は一体何を考えたのやら。「英語なんて海外で暮らせば上手くなるもんだ」と赴任前に言われましたが、ちょっと英語のレベルの発射台が低すぎました。異国の地で、しかもそのひどい英語で経験のない仕事をしなくてはならない、かなりタフな一年半でした。

  「2年くらい行ってきて」 プライベートで乗っていた飛行機に、たまたま日本の上司が乗っていることを知り、ビジネスクラス席まで探しに行って言われたのがこの言葉。シンガポールの次は経理部の管理会計グループへ異動するという内示でした。2年くらい管理会計を経験してきたらまた自分の部署(供給部)に引き取ってくれるとのこと。米国会計に若干の興味は持っていましたが、まさか自分が会計屋さんになるとは思ってもみませんでした。そして将来の人事に関する約束なんてあってないようなもので、2年経っても異動はなし。その1年後には「引き取ってくれる」はずの元上司が会社を辞めてしまいました。

  「和歌山に来ない?」 その後、会社の合併とともに組織が縦割りになったため、もうこのまま異動もなく会計屋さんとして東京勤務でいるのだろうと思い、マンションでも買おうかと考えていた頃でした。以前、労働組合活動を一緒にしたことがあった当時の和歌山工場長から電話がかかってきてこう言われました。和歌山に工場がある以上は異動する可能性がゼロではないとわかってはいましたが、エンジニアの世界を離れて既に10年以上。しかも組織を越えての異動はもうないだろうと思っていたので工場へ行くことなど想定の範囲外。仕事、そして和歌山という土地にやや抵抗を覚えて返事を保留したのですが、しばらくして気がついた時には外堀が埋まっていて和歌山へ異動となっていました。

  「Did you miss Singapore so much?」 今年の6月付けで2回目のシンガポール勤務となり、以前に一緒に仕事をした東京大好きの香港人からもらったメールに書いてあった言葉です。(彼にとってはシンガポールよりも東京の方が遥かに良いようです。)シンガポールが大好きという訳ではありませんが、1年半の滞在経験からある程度は勝手がわかっている外国。それなりに便利で美味しい食べ物もあるので、また来れたら良いな程度の思いはありましたが、本当にまた来ることになろうとは・・・。仕事はまたまた未経験エリア。まだまだ「ひどい英語」で日々悪戦苦闘中です。

What’s next?

  今までの転勤を振り返ってみると、その都度思いもしない部署・場所への転勤を命じられてきました。そしてその都度、仕事も生活もそれなりの苦労はありましたが楽しんできました。誤解のないように付け加えておくと、和歌山での生活は想像以上に楽しいものでした。人は親切で、食べるものは美味しく、良い温泉は多数あり、関西空港からも30-40分。大阪・神戸へも1時間程度と意外と便利。まさか1年3ヶ月で和歌山を後にするとは思わず、世界遺産・熊野古道を歩く機会もありませんでした。四国や高野山も行きたかった。

  現在は上述の通り、未経験エリアの業務をひどい英語で頑張らなければならない状況でとても楽とは言えませんが、これもいつか振り返った時には楽しかったということになるのでしょう。そして次はいつ何処へ行って何に出会うのだろう、と考えるとこれまた楽しみ。おっと、その前にシンガポールライフを満喫しておかねば。

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