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豊倉賢略歴
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2006C-6,4 藤原 茂芳 1980年学部卒  (工学士)

 
 藤原さんは、学部卒業後に大学院進学の推薦を受けようか、自宅の農家を継ぐべきか随分迷っていた。豊倉も学部4年の時に父が他界した経験があり、藤原さんのお役に立てばと思い相談には乗ったことがあった。豊倉がアメリカにいた頃は、1000エーカーの牧場を持つと専業牧場主でないと経営は出来ないが、500エーカーの牧場主は兼業農家として近所の企業に勤め、両立させていたことを聞いていた。また、日本の一流企業の管理職技術者の中には農家を引き継いで両立させていた人を知っていたので、日本農業の将来も機械化が進むと予想すると、いろいろ考えられた。藤原さんに紹介した姫路に近かくの化学工場を見学したこともあった。最終的には三木市市役所に奉職して、実家の将来を考える道を選んだ。藤原さんの結婚式にはお招き頂いて藤原さんに会ったが、その後どうしているか気になっていて、研究室のHPにその後の様子を紹介してもらえたらと思いHPへの寄稿を依頼した。藤原さんは、学部成績が優秀で、学部卒業後無試験で大学院に進学する推薦を受ける資格があったので、それとの関連でも気になっていた。今回寄稿された記事を読んで、市役所に奉職して生き甲斐の有る活動をしているようで喜んでいる。早稲田大学応用化学科の卒業生は化学に関連する分野で活躍している人が多いが、実際にはその他の分野で活躍している人もいて、それらの人からそれぞれが活躍している分野の様子を聞くことは、化学系の人からでなくては聞けない話があって、これからも、時々HPに寄稿して頂けたらと思っている。  (06年11月、豊倉記)

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(藤原 茂芳)

略歴
1956年 4月 兵庫県三木市別所町に生まれる。
1975年 3月 白陵高等学校卒業
1976年 4月 早稲田大学理工学部応用化学科入学
1980年 3月 〃 卒業
1980年 4月 兵庫県三木市役所に奉職 環境保全関連の部署に配属
(その後いくつかの部署を経験して)
2006年 10月 (現在) 三木市産業環境部観光振興課に在籍 


「 三木市に帰って25年を振り返って 」



(近くにある柿と南天)・・・自然に囲まれて暮らしています。
 昭和55年(1980年)に理工学部を卒業し、郷里兵庫県三木市に帰り、三木市役所に奉職して、もう25年が経過します。早稲田大学の学生だった頃の下宿近くの風景や、キャンパス・研究室での豊倉先生をはじめ、先輩、親しい仲間の顔が今でもつい昨日のごとく思い出されます。

 先日(10月)、地元「東播(とうばん)稲門会」(「ひがしはりま」地域を「とうばん」と呼びます)が、「兵庫県支部総会」の会場となり白井総長をお招きして開催されました。校歌、応援歌を歌うときの気分は全く学生時代と同じでした。

【三木市に帰った頃】
・早稲田理工学部柔道部の一員としても学生時代を過ごしたというとも関係して、地域の公民館で少年柔道教室を開き、10年ばかり指導を続けました。しだいに、体力と時間がなくなって教室を閉じました。残念ながら大会で優勝するような強い子は育てられませんでした。

《 三木市の紹介 》
 豊倉研究室OBの方々には三木市といっても、場所もまちの特徴もお分かりにならないと思いますので少々三木市の紹介をさせていただきます。

【位置の紹介】
 残念ながら知名度のある神戸市を使って「神戸市の北西に隣接している市」という言い方が全国的には一番わかるようです。実際、私の住んでいる集落の裏山(標高100m足らず)の神社の境内からは明石海峡大橋の主塔が2本とも見えるし、淡路島も見えるという位置にあります。

【歴史からの紹介】
 実は「大化」の元号の時代に建てられた神社、仏閣が多数あるし、前方後円墳もあり、あるいは第23代顕宗天皇、第24代仁賢天皇の2代天皇(兄弟)が幼少時代「都(京都)」の政争から逃れて隠れ住んだと云われのある洞窟があったりして、三木の地域には古代からの歴史がありますが、全国に発信できる詳細情報がまだまだ明らかになっていません。

 鎌倉時代になると・・阿仏尼の「十六夜日記」は皆さんご存知ですよね、これは実は三木から鎌倉幕府への訴訟のための道中記なのです。和歌の冷泉家の荘園が当時の三木にありました。

 源平の合戦では源義経の「鵯越の逆落し」はあまりに有名ですが義経が「鵯越」(神戸市)に向かう前の「三草山の古戦場」(現在:兵庫県加東市)から三木市を通っているのです。そんなことから市内には「弁慶の足跡石」と名づけられた史跡もあります。「義経関連でも三木が大河ドラマに登場したことがあったかな?」と思います。

 大河ドラマでたびたび登場するのが秀吉がらみです。「功名が辻」でも三木に縁がありましたが、三木は豊臣秀吉に「干し殺し」という兵糧攻めにあい当時の領主「別所長治(べっしょながはる)」が自刃して「播州三木合戦」が幕を閉じています。当時の軍師竹中半兵衛が陣中で没し、墓が秀吉の陣中「現在、観光ぶどう園になっている平井山(ひらいやま)」に残っています。なお、現在三木の地場産業である金物産業との関連ですが、戦乱で破壊されたまちの復興策として秀吉が、大工や鍛冶職人を全国から集めたのが三木金物発展のきっかけとされています。

〈 いきなり--400年前から現在へ 〉

【最近の出来事から】
・ 兵庫県が建設した震災記念公園内には国が旧科学技術庁時代から建設に着手した E―defenseがあります。 先の「のじぎく兵庫国体」では天皇・皇后両陛下が行幸、ご覧になられました。あるハウスメーカーではその「実大三次元振動破壊実験施設」を使ったコマーシャルをしています。
・自治体の合併関係では、「平成の大合併」と言われていますが、平成17年10月に隣の吉川町との合併で新三木市が誕生しています。

《 仕事関連の私 》

【三木市役所での仕事】
・社会人になって当初6年ばかり環境保全の仕事をしていた頃・・・「化学」が比較的身近にありました。
・ 大規模な宅地開発関連事務で土木屋・建築屋の方と一緒に仕事していた頃・・・土木屋さんは「比較的化学工学の親戚の人類(分野)かな・・」と思えてそんな方々が周囲にいて違和感無く過ごしました。
この頃に悲惨な阪神淡路大震災が発生しました。三木市では死者1名と比較的被害・損傷が少なく「行政的には神戸市の応援・支援に行く。」という状況にありましたが、当時市の建設部に属していた私はほとんど市内の多事に追われて震災直後の神戸市には入っていけない状況でした。
・ 比較的長かったのは経済・商工関連の部署で、10年以上いました。
「金物のまち三木」のPRに、見本市会場の幕張メッセには何回か行くことがありました。
・現在は観光の分野で「日本一美しいまち」を目指している三木を全国に発信しようとしています。

【最後に農業】
 酒米つくりと日本酒づくり・・・・三木市の地域・歴史では「灘の酒蔵」(神戸)との深い繋がりの歴史があります。日本酒の醸造に欠かせない酒米としての「山田錦」生産者と酒造メーカーとが長い付き合いをしている集落が多数あります。なお、新潟の有名な名酒「越の寒梅」も三木の山田錦を原料としているようです。現在、私の住んでいる集落の酒米「山田錦」は関東方面にJAを通じ出荷されているようです。私の田んぼでも少々山田錦を栽培しています。

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