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豊倉賢略歴
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2006C-6,1 鶴岡 洋幸 1970年大学院修士課程修了  (工学修士)

 
  豊倉が渡米前に城塚先生のお計らいで、鶴岡さんの卒論研究は晶析をテーマにすることを決めて頂き、渡米前からそれとはなくお世話を始めていた。そのため、公式には帰国後一年間修士論文のお世話をしたことになっていたが、実際はそれよりずっと長い期間一緒に研究活動をしていた気がする。鶴岡さんは、学生時代に腎臓の摘出手術を受けていたのでそのことは随分気にしていたようだったが、持って生まれた前向きな性格で常に希望を持って明るく行動していた。今回の記事は日産化学を退職してから経験したことを記述しているが、年を取っても新しいことに挑戦して常に充実している人生を送っていることを書かれている。どの卒業生に全く同じことは出来ることではないが、鶴岡さんが感じ、考えてることを自分の好みや興味に置き換えて活動したら、やはり鶴岡さんと同じように充実した人生を送れるのでないかと思いながら読んだ。  (06年11月、豊倉記)

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(鶴岡 洋幸)

略歴
1970年 日産化学工業入社(中央研究所配属
1972年 エンジニアリング事業本部
1980年 シンガポール駐在
1983年 技術ライセンス部
1987年 日本エアーリキード社へ転職(主に産業ガスの技術開発を伴ったマーケティング戦略部門を担当)
1998年 早稲田大学校友会稲門会(代議員・千葉県支部幹事・浦安稲門会幹事長)
2002年 応用化学会・学外理事
2004年 日本産業ガス協会へ常務理事として出向
2005年 定年退職
2003-2005年 北陸先端科学技術大学院大学(東京八重洲キャンパス:社会人大学院) 知識科学研究科・知識社会システム学専攻(MOTコース)を修了
2005年10月 同大学院大学にて就職カウンセラー
2006年4月 上記と平行して同大学院大学(21世紀COEプログラム)
・科学技術開発戦略センター拠点形成研究員


「 社会人(定年)から大学院の研究員へ 」 −3回あった人生の鉄砲水−


  “幸福の女神は前髪だけがあって、後ろ髪は無くてつるっ禿げなので、女神が近づいてきたら、その前髪をパッと掴んで自分に引き寄せるのだよ!”とよく聴きます。 今回は、女神ではありませんが、自分では思いもよらず、突然私の人生に降って湧いた様に思える3回の鉄砲水のお話を書いて見ます。

1. 定年後に感じる事:
  勤めていた仏系外資の化学会社を昨年2005年に定年で辞め、しばらく経つといろいろな感慨が湧いてくる。この様な一生で良かったのか?との思いから、たまに医者とか自由業の職種が羨ましく思えたりする。それでも自分は大学3年に成る直前に大病を患って片腎となり1年休んで復学して、“社会で健康人として一体十分に活躍出来るのか?”の不安を抱えながら就職しているので、この心配が全くの杞憂に終わって普通に社会人を送れたのだから、それを持って良しとすべし!と考えなければいけないとも思う。私の人生を襲った最初の鉄砲水は私が19才の大学2年の時の病魔であった。 自分の人生にとっては凄く大きな影響を与えているのだが、『人間万時塞翁が馬』とも言うから、このあたりの人生観のバランス収支については突き詰めるといろいろな考え方とか思いが湧いてくるが、詳しい事は別の回に譲る事とする。

2. 社会人大学院でMOT(Management of Technolpgy)を勉強した事;
  2003年秋に東京駅の大丸ビル9Fにある社会人大学院に通い始めて、ビジネスの最先端の学問を学んだ。仏系外資に勤務していた12年前に欧州ではNo.1と言われるビジネス・スクールINSEADの短期のMBAコースへ日本代表で企業派遣してもらった経験があり、ビジネスを学問として捉える考え方には大変に興味を持っていたので授業はとても面白かった。私は会議等では居眠り症で良くこっくりをやるのだが、18時半から22時近くまでの夜の講義はとても面白くむしろ興奮する程であり、居眠りの暇など全く無かった。しかし2年目から日本ガス協会へ常務理事として出向と成り、折りしも、協会の合併作業の最終のタイミングで会費・組織等の統合事務のために30年に一度の超多忙の時期となり、殆んど学校には通えず論文を書く暇など全く無くなってしまった。ようやく’05年6月末に協会の任務を終えて定年でHappy Retirementとなった。そしてギリギリ7月の一ヶ月間で以前に自分のやっていた仕事をテーマの核として論文をまとめて8月の初めに提出して、9月修了に滑り込みの状況で審査に間に合わす事ができた。企業では仕事を進める中ではいろいろな問題が内在していても学問的には深められないまま過ごして来た問題を、利害関係のない企業のビジネスの戦士仲間と、喧々諤々議論出来たのは本当に楽しかったし、最新の技術経営に関する実学を深める事が出来た。同期は日立、東芝、松下、パイオニア、キリンビール(新薬開発)、本田技研等の一流企業の課長、部長補佐、室長クラスが多く、1/3は工学博士を持ちダブル・デグリーを目指す人達だった。そんな仲間の15人の中で修了式には首席で優秀修了者として表彰状を頂いて自分でもビックリであった。授業の議論をリードをしたり表彰されたりした事は、人生の晩年にようやく少なからぬ自信を持たせてくれて、定年後の自分に満更でもない喜びと余裕をもたらせてくれた。その喜びの背景には以下の少しほろ苦い体験も影響している。

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*丁度20年前に最初の会社で私がたまたま取った2〜3回の電話が切っ掛けと成って、それが後から考えるとヘッドハンターとか言われる人からのものであったのだが、仏系外資の外人会長さんとクリスマスの飾り付けが始まった頃、帝国ホテルのカフェテリアで会う羽目と成った。1時間ほど英語で面談をしたのみで面接試験が終わり年を越して、今度はその会社へ遊びに来てくれと言われたので、断る積もりで会長の部屋を訪問した。私にとってこの外人会長の出現が人生第2の鉄砲水である。すると会長は日本人の社長に会ってくれと言われたので、社長の部屋に行くと、『早稲田の応化のXX教授を知っているか!』と言われ社長は応化の先輩であり、世の中の狭さと人の縁の不思議さを感じた。今でこそ不思議さと表現したが、当時は何気なく小川で水遊びに戯れていたら突然の鉄砲水の洪水に襲われた様なもので、これに飲まれるべきか、かわすべきか本当に悩んでしまった。暫く経ってその会社へ是非入ってくれと言われ、転職の招聘となった。こちらからは是非働きたいとか、給料の条件とか何も言わないまま、殆んどを社長が決めてくれて、今で考えると実に日本的な環境下での外資への転職プロセスであった。仏系の日本法人の企業としては、本国のフランス文化に基づくフランス人の経営者陣10数人と日本のお客さんをまとめ製造・販売する千数百人の生抜き日本人の二つの文化層で構成される。これに招聘されたとは言っても第3の文化を持った人間が割り込む形と成るからギクシャクがあっても当然の事と言える。英語力と一般の技術理解はトップクラスであったと思うが、業界内と重要顧客の接待用のゴルフ(この産業人は付き合いも仕事もゴルフでこれ無しではお付き合いも何も十分に出来ない。)が全く下手であったので、営業力発揮の場に貢献できなかったのが泣き所であった。転職1年経たない内に、私の給料が高いとの噂が立った。転職の際に社長が決めてくれたのだが、移る前の給料にプラスアルファーを増やしてくれていた。「皆と同じでないと拙いのでは?」と人事部長には当初申し出て居たのだが『社長が呉れると言うのだから貰って置きなさい』と諫められてそのまま過ごしてしまっていた。“他所から来たのに給料が高い”と酒を呑む度にいつも相手の顔には書いてあった様な気がする。そして社長大賞(社長は転職時とは変わっていたが)を貰ったプロジェクトが少し尻つぼみに終わると、これ幸いにがんがん叩かれた。何かあれば何時も包囲網を作られて、足を引張られる場面も多かった様な気がする。それでも左遷とか首には成らなかったので、人生とはこんなものなのかと思う反面、自分の人間性で何とか解決できないものかと強く思ったりもした。結局は、病気で鍛えられた精神力と、豊倉先生に学んだ、なにくその早稲田精神が気持ちの底力(そこぢから)と成って頑張る力を与えてくれた様に思う。加えて、入社時の先輩OBの社長との間柄は、皆さん知っていたので、この辺の社内バランスが私を守ってくれていたのかも知れないと感じている。

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  ここで話は現在に戻るが、今の社会人大学院の仲間とは、いまでもコンフェレンスの準備・実施や博士コースの勉強会で一緒にゼミをやったり、心から和気藹々とも言える人間関係を維持できているので、以上の記述で“ほろ苦い!”と表現した意味を判って頂けるかと思う。

3. 第3の鉄砲水
  通った社会人大学院の本キャンパスで勤務しないかとのお話が鉄砲水の様にやって来て、飲み込まれた。この鉄砲水は定年後を楽しむ生きがいであって欲しく、幸運の女神とも言える有り難い鉄砲水として大切にしたいと思っている。社会人大学院での議論を進める上でのバックボーンとして、仏系企業で異文化経営を体験している事やビジネス・スクールのINSEADで学んだ事が昨今のビジネス学習の議論に役立っていると思うので、第2の鉄砲水が呼び水と成って第3の鉄砲水が襲ってくれた様に思える。内容的には以下の2件である。

(1) 就職カウンセラー:
  ‘05年9月の修了式の前に、石川の本キャンパスで就職カウンセラーをやらないかとの話が入った。出来るかどうか判らなかったが、兎も角やってみる事にした。やってみる気持ちのベースと成ったのは、これまでやって来た稲門会の校友会活動でOBの人生体験を学生にフィードバックするために、現役の学生さんを活動に呼び込むための対策を考えたり実施したりしたので、接し方の感触は何となく判っていた。何をすれば良いのかは自分の人生で会得した事を、学生に指導すれば良いと思っていた。丁度下の娘が就職の年でいろいろ体験を教えて貰った実戦の話が役に立った。始めて1ヶ月でほぼ予約が埋まってホッとしたが、第1志望の就職企業の内定を取って報告に来てくれるのが、自分の事以上に嬉しい。今の学生さんはインターネットが発達したために、自己PR等の凄く厳しい就職準備活動をせねばならなく心から同情するが、お陰でこの職を楽しむ事ができる。但し状況によっては相談の後はとても精神的に疲れるが、学生の一生が掛かるので丁寧にやりたいと思っている。

(2) COE(Center of Excellence)拠点形成研究員
  ’06年4月からこの名前の役が舞い込んだ。この大学は’03年10月から“21世紀COEプログラム『知識科学に基づく科学技術の創造と実践』”を実戦しており、’08年3月までの期限で進めている。文科省の補助金による大学の拠点形成も稲門会活動で大学側から聴いており、目的や意味合いは判っていたので、外側の理解は容易だった。内側に入ると複雑な要素も可也多いが、この原稿がもう約束より1日後れているので今回はここまでにして、失礼する事にします。

  最後に一言、これまで2−3回投稿して、必ず最後に問い合わせか又はそれへのご意見あればご連絡を!とお願いしていますが、その反応としてご意見を頂いた事は有りません。tc-pmtのHPの今年の投稿者の名前を拝見しても、面識があって名前を知っている方は2〜3名ですから、いたし方のない事なのですが、やはり面談して人となりが判らないと、意見の交流は難しい事なのかな!と思います。ご質問とかご意見あればご連絡をお待ち致します。

以上                  

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