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2006C-4,5 柴野 剛 1995年大学院修士課程修了  (工学修士)

 
  柴野さんは実家が新潟県の柏崎刈羽原子力発電所に近かったためと思うが、大学で柴野さんを知るようになった時には既に原子力発電に高い関心を持っていたようであった。豊倉は中学1年生の時に広島に原爆が投下され、それ以降頭のどこかに原子力があり、原子力に対する認識度合いはその時々で差はあったが、柴野さんを知るようになる以前から、将来の世界は原子力を忘れてはあり得ないと思うようになっていた。一方、原子力発電所を目の前に見ながら育って来た柴野さんの原子力に対する思いは豊倉とは全く異なったレベルであろうと想像している。原子力に対する社会の見方もその時々の社会情勢の影響を受けて変動しながら世界のあるべき姿に向かって動いている。このように諸般の事情や自らの立場で対応の取り方が異なる原子力に対して、柴野さんは何が起きても逃げることなく正面から向かって考え、解決を図ろうとしている姿勢がみえていた。このような態度は単に原子力に限定されることでなく物事全般に渡っており,柴野さんは第三者の立場で見ても好感が持て、頼もしく思えていた。

  大学院2年在籍時の就職活動が活発になった頃には、東京電力で原子力に関連する仕事に従事したいと云う気持ちは出来ていたようであった。卒業して以降は、下の略歴に記載されている通り、東京電力に就職して原子力発電所環境化学Gに配属され、以降3回の移動を経験したようである。そこでの仕事の様子は本HPの記事「10年間の会社生活を振り返って」で紹介されている。その内容は原子力発電所の環境面や水質管理に関することが主で、一見特殊なことのようにも見える。しかし、一般の技術者においても所轄行政府の担当官や外国大使館付き技術官、マスコミ関係者らとの関係なく一生を過ごすこと難しい。柴野さんは偶々若くして科学技術庁に派遣され、そこでいろいろのことを経験した。ここではその一部を紹介している。これらの内容はどの分野にも参考になることで、社会に出ようとしている学生や就職して社会生活を始めた若い卒業生に参考になることがいろいろあると思う。ここで紹介された苦労話は貴重なものであり、予期しないことが起こっても対処してきた強靱な柴野さんの人柄を思い浮かべて自分の道で努力を続けると、予期せぬことが当然のごとく起こる人間社会を乗り切れる「その人に特有な人間性は」自ずから形成されるのでないだろうか?   (2006、07、 豊倉記)

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(柴野 剛)

略歴
1995年 早稲田大学大学院理工学研究科 修了
1995年 東京電力(株)福島第一原子力発電所環境化学G(水質管理班)
1999年 本店原子力計画部付(科学技術庁原子力安全国際室 派遣)
2001年 本店技術開発研究所材料技術G
2004年 柏崎刈羽原子力発電所環境化学G(水質管理班) (組織改編により2006年現在「放射線・化学管理G」)


「 10年間の会社生活をふりかえって 」

  豊倉・平沢研究室OBの皆様、現役の学生の皆様、こんにちは。私は、1995年院卒の柴野 剛と申します。豊倉研究室では豊倉先生・平沢先生・尾上先生に大変お世話になり感謝しております。

  私は、1995年に東京電力(株)に入社後、原子力発電所に配属となり、3回の異動も経験しましたが、一貫して原子力に携わってまいりました。機会をいただきましたのでこれまでの10年間の会社生活で感じたことを振り返ってみたいと思います。

  原子力発電所の中でもさまざまな仕事がありますが、私は入社後の初配属も現在も水質管理の仕事を担当しております。原子力発電所の水質管理について少しご説明します。原子力発電所の水質管理には主に3つの目的があります。(1)放射性物質を放出しないこと、(2)設備の腐食を抑えること、(3)作業員の被ばくを抑えること、です。(※詳しくは付録をご参照ください) これらの目的を達成するために、発電所の各サンプリングラック(いわゆる蛇口です)から水を採取し、分析測定を行い、管理値を満足しているか否かを日々確認し、問題があれば是正しています。分析の内容は、さまざまですが、腐食の要因のひとつである塩化物イオン・硫酸イオンや放射線のもととなる放射性物質の濃度が主なものです。

  実際の仕事ですが、原子力発電所は大きな工場のようなものですので、サンプリングや巡視に行く際には、とにかく歩きます。さぞかしスマートになったと思われるかもしれませんが、昼間良く歩いていい汗をかいた後は夜のビールが旨いもので、入りと出がちょうどよくバランスするものです。いいえ、実際にはバランスをするあたりを少し通り越えて、毎年恒例の仮装大会で3年連続「裸の大将」を演じるくらいの体型にはなったものでした。それでも最近は妻の管理のおかげか少しは改善されましたが。

  さて、私は入社後水質管理以外に2種類の仕事をこれまで経験してきましたが、今回は科学技術庁への派遣の思い出について振り返ってみたいと思います。(長文注意です。。。)

  入社して5年目の夏、1999年8月から2年間、科学技術庁(現:文部科学省)にお世話になりました。賞状のようなりっぱな辞令を頂き「原子力安全技術参与」という者になりました。(弊社の辞令は七夕の短冊のような小さな紙で味気ないものです) 業務内容は、原子力安全規制の国際関係、ということで、いわば外務省との中継ぎ役、伝書鳩でした。最初は、役所仕事というイメージで、9時5時の楽勝な職場を想像していましたが、実際には9時5時の5時は朝の5時? といった風でした。

  特に、1999年9月30日とそれからの3ヶ月間は一生分の残業をやってしまったかのような期間でした。かの忌まわしき、東海村のJCO臨界事故です。

  その日の午前中、東海村で放射線の事故があったようだというニュースが入ってきたので、私と法令係長の二人で早い昼飯を食べに行きました。その後、事実関係の問い合わせへの対応に忙殺される状態が延々と続きました。しかし、事実関係といっても、JCOに中性子線を測る線量計も無かったため、詳しい状況がなかなか把握できませんでした。臨界が継続していることがわかったのも夕方以降でした。

  直属の上司である国際室長は国際原子力機関(IAEA)のあるウィーンに出張中で、IAEA総会の会場で各国の質問攻めにあったそうです。ありあわせの情報を室長に送りましたが、いかんせん情報不足で、一番役に立ったのは新聞記事という状態でした。

  速報を出す海外の通信社やメディア、ホームページには、爆発したとか、屋根が吹き飛んだとかデマ情報(爆発の動画まで)が飛び交っていました。もちろん、国際室としては、すぐにでも間違いを訂正したかったのですが、しかし、国としては、「情報が確実になるまではリリースできない」ということで、その時点での公式情報は「放射線事故」というA4で1枚の紙だけ。国際室(留守居役:1名=私です)としては間違いを訂正することができず苦慮しました。

  次の仕事は、国際評価尺度(INES)のレベルの暫定値を24時間以内にIAEAに送ることでした。しかし、送ろうにも、役所のプロパーの方は皆、事実関係の確認などに私以上に忙殺されていたので、レベルを検討する人が誰もおりませんでした。そのことを課長補佐に申し出ると、「キミがやりたまえ」ということになってしまいました。そこで、国際関係で日頃お世話になっている原研の専門家の方に(彼がお風呂に入っているところにあわてて)電話して相談したところ、どうやってレベルを決めればよいのか大体の感覚がつかめてきました。深夜になって、さらに精度の高い情報、被ばくされた方の推定被ばく量や周辺住民の推定被ばく量、が入ってきたので、これらをIAEAの尺度に照らしあわせると、レベル4(事業所外へのリスクを伴わない事故)ということが妥当ではないか、と暫定的に結論づけました。http://www.ines-n.org/

  雲の上の方への説明や決裁はその課長補佐の方がすべてやってくれました。翌日、10月1日13時頃のプレス発表では原子力安全課長(現在の原子力安全保安院長です)が毅然として対応しておられました。私は、プレス発表がどのようなものかもわからずに、ただ部屋に入れと言われ、入ったのですが、念のためINES関係の資料が入った8センチファイルだけは持参しました。記者の方からの矢継ぎ早の問いにも毅然として対応する課長を、あたふたしながら何とか補佐することができ、ほっとしたのもつかの間、IAEAへ公式情報をファックス送信し、何とか事故発生後27時間と、少し遅れてしまいましたが、当時の他の例と比べると比較的迅速にわが国としてのINES暫定レベル「4」を伝えることができました。

  しかし、一方で、被ばくした方の親兄弟の気持ちを思うと、そのときも彼らに助かってほしい・回復してほしいと念じているであろう、しかし生死にかかわるような被ばく量をされたこと、もっとはっきりと言えば、まず助からない被ばく量であると私は知っているがゆえにレベル4が妥当と判定したことに、同情では説明できない、複雑な涙にかられたものです。自分が数ヶ月前まで、原子力発電所という異なる職場ではあるものの、同様に原子力の現場で働いていた、JCOの彼らとおんなじ現場の人間でしたので、その仲間が命を失ってしまうような感情に襲われてしまったのだろうと思います。

  その日の夜は、燃料工場の仕組みもよく知らない状態で、各国大使館へのブリーフィング(説明会)に科技庁の代表の一人として出席しました。情けないことですが、私は英語があまり得意ではありませんでしたので、外務省の人に全部通訳してもらいました。また、そのときは忙しくてテレビ・新聞を見ることができませんでしたので、科技庁の人に渡された資料を読むだけしかできませんでした。実は、こういうときは意外と、テレビや新聞での情報の方が、迅速で全体をつかんでいるものです。

  反対派の方からの電話には泣かされました。しつこい人は何度もかけてくるので仕事になりません。「長官を出せ!」とか「科技庁職員はハラを切れ!」とか脅しもありました。ただ、こういった強硬派には対応するほうも気が楽で少しすると慣れていきましたが、女性で「大丈夫でしょうか、とても心配なんです」という方に大丈夫ですと説明するのは逆にうまくいかず、もどかしい思いをしました。

  また、最初のうちは、なぜ、自分がこんなに苦労するのだろう、と思いました。本当は自分は他の民間会社から手伝いに来ている人間でほんものの役人ではないのに、と。しかし、こういった気持ちで対応をしていると何もいわなくても相手にはわかってしまうもので、ある反対派の方に電話でたしなめられました。「あなたは、国の原子力の安全を守る国家公務員ではないですか。それなら、そういう立場をきちんととってください。がんばって。」 それからは、国の安全を守る国家公務員としての立場をとって2年間の職務を全うしたつもりです。

  最初は、とんでもないところに来たものだ、と正直思いましたが、結果として、自分の会社経験・人生経験として何ものにも代えがたい経験をさせていただいたと思っています。

  JCO後、3ヶ月は毎晩タクシーのお世話になりましたが、JCOの対応が落ち着いて、西暦2000年問題(Y2K)が大過なく過ぎたあとは、1週間に1回は地下鉄で帰宅できるようになりました。そんな生活をしながらも、個人的にやることはしっかりとやり、2000年4月に結婚いたしました。豊倉先生、平沢先生、同期の皆様にもお祝いいただいたことを昨日のことのように思い出します。

  2年間の役所勤めが終わった後は、弊社の技術開発研究所での腐食研究を経て、現在は地元である新潟県柏崎にて(比較的)得意な水質管理の現場勤務をしております。私事としては、もうすぐ3歳になる一人息子がかわいくてしかたがない、今日この頃です。

  また、最近の仕事の一部「柏崎刈羽原子力発電所における腐食防止対策」をPDFで添付しましたのでご興味のある方はご覧ください。

↓柏崎刈羽原子力発電所ホームページ↓
http://www.tepco.co.jp/nu/kk-np/info/pdf/18052602.pdf

 まだまだ暑い日が続くと思いますが、豊倉先生をはじめ、皆様方、体調にお気をつけてお過ごしください。今回は、役所や事故の話しばかり&長文乱筆にて失礼いたしました。

※付録 原子力での水質管理の目的って?
(1)放射性物質を放出抑制:何よりもっとも重要なことです。法令上ではある程度の放射能の放出は許されておりますが、原子力発電所においてはいわゆる「ゼロ・リリース」を目標としています。厳密に測定限界以下である、ということを必ず分析・確認のうえ放出しております。ゲンパツが放射能をまきちらしてしまってはゲンバクとおんなじだ、と言われて地元から追い出されてしまいます。発電所はとにかく信用が大事なのです。特に私は生まれも育ちも当地(実家は発電所から約1キロしか離れていません)ですので、なおさらです。それこそ、親が泣きます。

(2)設備の腐食を抑えること:(1)の次に大事なことです。設備の故障で節電運動とか、お客様にご迷惑をおかけしないことが大事です。設備を構成している材料は強度の関係からたいてい金属でできています。金属は水質環境によって長持ちするか、割と早く腐食してだめになるか影響します。発電所では設備を健全に維持するために、冷却水を超純水といえるぐらいきれいにしています。

(3)作業員の被ばくを抑える:最後の優先順位であると私は思っています。多少の被ばくはラドン温泉と同じで健康にも良いという学説も研究されているぐらいですから。ヒロシマ・ナガサキ・JCOとは桁がだいぶん違います。それでも少しでもリスクを少なくしようと、放射性物質を除去するためのフィルターやイオン交換樹脂を利用して放射能を適切に低減し管理しています。

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