林さんは豊倉にとって強く印象に残るっている卒業生の一人です。私は、現職の頃から人に会ったらその人のよいところ見て学ぶことにしてました。そのような見方で学生に接していると、大学の先生と云う職業はとても都合のよいところで、自分にないものを持っている若くて才能のある学生は周囲に数え切れないほど多くおりまして、林さんもそのような学生の一人でした。早稲田大学学生は全般的に見れば恵まれた家庭で大切に育てられています。本人はそのような顔はしてないのですが、いざとなると真面目で人に親切で悪いことするような学生は殆ど居りません。「楽して偉くなろうとか、お金持ちになりたい」とか冗談を言ってはいますが、結構一生懸命頑張っていますし、また3kと云われることに対しても積極的に自分から率先して取り組んでいます。林さんも豊倉から見ると、なかなか鋭い観察力があり、川柳を楽しんでおられたご両親譲りの優れた表現力で周囲の人をあっと云わせ、林さんの居られるところでは笑いは消えなかったのですが、それでいて結構厳しく物事を見ていまして、自分の忘れ掛けてることを思い出させてくれました。林さんについては、ご両親やおばあさまの話まで林さんの仲間から耳にしてました。それら幾らでも書くことはありますが、豊倉の紹介はこのくらいにしますので、それらは林さんの記事を読んで下さい。豊倉も20年間余のことを新鮮な刺激を受けながら楽しく思い出しています。そして記事の中にも 「放射線科や病院のよもやま話はまたの機会にと思っています。また将来依頼があればですけれど。」と書いて貰ってますように近い将来林さんに依頼しようと思っていますので、卒業生の皆さんも林さんの続編を期待してください。(06年7月、豊倉記)
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(林 敏彦)
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略歴 |
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1984年 |
修士課程修了後、(株)ブリヂストン入社。商品開発室(後に新事業開発室)配属 |
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1986年 8月 |
同社退社 |
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1987年 4月 |
日本医科大学医学部入学 |
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1993年 3月 |
同卒業 放射線科入局 日本医科大学付属第二病院(現武蔵小杉病院)勤務 |
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1996年 6月 |
癌研究会附属病院放射線科へ派遣 |
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1998年 9月 |
放射線科専門医(放射線診断) |
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2000年 2月 |
日本医大第二病院放射線科に帰還 |
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2000年 3月 |
医学博士(子宮頸癌の研究) |
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2003年 2月 |
横須賀市立うわまち病院放射線科科長 |
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2004年 2月 |
帝京大学医学部附属溝口病院放射線科 |
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2005年 4月 |
同講師。現在に至る。 |
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現在に至る |
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頭部から足の先まで全身どの領域でも画像診断を担当しているが、特に婦人科疾患や乳腺疾患を専門としている。 |
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「 就職後再受験そして放射線科医となって 」
豊倉研究室卒業生の皆様こんにちは。昭和59年(1984年)修士課程終了し22年ほどの時が過ぎました。豊倉先生に寄稿を依頼され有り難く思っておりますが、然したる文才もなく取留めのない話になってしまうことご容赦ください。
そもそもの勘違いは応用化学部に入学した時ころに遡ります。当時、第一希望は医学部でしたが難関な時代であり、結局応用化学科に入学しました。同級生にも同じような境遇の人は多かったように思います。高校時代に化学は最も好きで得意な分野でありました。ですから応用化学科に入学し、医学部を諦めることに心残りがあるものの、得意と思っていた化学の道を選択することにしました。ところが大学のレベルは相当に高く、授業の内容もろくに理解できず消化不良のまま単位だけは修得していった科目も多々ありました。量子力学、物理化学などなど偏微分方程式を駆使する世界になってくると、恥ずかしながらもうチンプンカンプン状態でした。こんなことで将来やっていけるのかと思っていました。それでもなんとか学部を卒業し大学院へ進学しました。大学院にまで進学することは、研究者として自信がないように思っていながら矛盾するようですが、いずれ化学関連会社の研究所で働くことを望んでいたと思います。またまたとんだ勘違いをしていたようですが、就職先を探す時点では純粋に基礎的な研究室で働くほどの能力はないことを自覚していました。
学部のときは大橋紀夫さんのもとで針状結晶の研究をすることになりました。この研究内容は岸本信一さんから引き継がれていました。私が大学院のときは福留崇之さんと実験をしていました。なお当時は麻雀やテニス、スキーに熱心で本来の実験が疎かになっていたことを豊倉先生にお詫びします。でも研究室は楽しかった思い出ばかりです。先輩、同期、後輩は多彩(勿論多才でもある)な人種の集まりで、その中にいれたことだけでも貴重な時間でありました。やはり啓発される環境にあったことは確かです。今でも職場に尊敬できる人がいれば、よい影響を受けて自己の能力向上に結びつられるように心がけています。なお自分自身が後輩らによい影響を与えられたか、与えることができているかどうかの評価は定かではありません。
さて豊倉研究室修了後、ブリヂストンに就職しましたが2年半ほどで退職しました。折角世間的な優良企業に就職しておきながら転職でもなく退社したのですから、傍からみれば無謀なことと思われたことでしょう。まだ終身雇用の感覚で就職していた時代でしたから。とはいっても同期入社の人たちも入社直後から様々な理由で一人二人と退職していったことを記憶しています。私は新事業開発室に配属されいわゆるタイヤとは無関係の仕事に就き、FRPを応用した商品開発(パネル水槽、パラボラアンテナ、ドライバーのヘッドやシャフトなどを開発していた部門)をしていました。たかだか入社2年ほどで社会貢献することもなく結論を出したのもおこがましいのですが将来への展望がみえてこず、再び医師願望を強く感じるようになり退職を決断しました。ただ若手の部下が比較的早期に退社することで直属の主査や部長の評価に迷惑をかけることにならないか後ろめたい気持ちではありました。
8月に退社し9月から再び代ゼミや駿台の講習会に足を運びましたが、10歳年下の中では気恥ずかしい思いで座っていました。まだ白髪はなかったので年季の入った多浪生に見られていたことと思います。駿台で最初に受けた模試の偏差値は37.5で、ビリから数えたほうが早い状態でした。然もありなんとはいえひどいレベルでありました。それでも模試の感触は半年後の受験で合格は無理だろうが、翌々年には大丈夫だろうと楽観的でした。自己資金の蓄えはいくらかありましたが、もし合格した時の初年度納入金は私立ならば相当まとまったお金が必要です。一人息子で両親から資金的援助があったからこそできたことです。退職後は実家にいましたが、日中出入りすることは今風のニートのようでご近所の目が気になっていました。早く仕事に復帰しなければと感じていました。幸いにも翌年複数の私立大学に合格したのですが、さすがに社会や国語まで手が回らず共通一次は780点ほどで、国立医学部は少なくとも800点以上でないと厳しい状況でした。共通一次の化学は100点でしたが、やはり化学だけは好きな分野であることは確かなようです。英語、数学、物理にしても苦手な領域を避けていたことが不合格の原因でしたので、敢えて不得意な領域を集中的に補強しただけなのです。最初からそのくらいのことは分かっていてよさそうなものですが、振り返ってみなければ分からなかった自分に気がつくのが遅かったです。数ヶ月勉強を進めていくうち模試の成績は合格可能圏内となり、なんだか合格しそうな気配となっていました。勿論受験倍率は以前よりずっと低く10倍ほどではありました。再受験の時は楽観的でしたが、国家試験の時は随分緊張していました。いまでもたまに国試に失敗し予備校に通い不安な日々を送っている夢をみます。起きたとたん忘れる夢は多いのですが、この夢は妙にリアルであり鮮明に覚えています。なぜ度々出現するのか理由はわかりませんが、よほどストレスだったのかと思います。
結局、日本医科大学に入学しました。同級生に早稲田理工学部機械科卒と教育学部数学科中退がいました。その他、薬学部卒や心理学科卒のおじさん、おばさん達がおりました。長老は私だけでなく、早稲田の同窓生もおり入学した時は話し相手がおり一安心でした。どこでも同じ光景ですが、試験前には真面目に出席している学生のノートと試験資料のコピーの収集から始まります。コピー機はフル回転状態!化学関連のよくわかるシリーズ風の試験資料は私が担当し少しは貢献できたかもしれません。運動は軟式テニス部に入部し若い人に混じって6年間活動しましたが、今は体力も衰え体重は増加しお気楽ゴルフばかりやっています。
卒業後の進路は好きな化学を生かすため生化学教室に入局すればよいのでしょうが、基礎医学ではなかなか満足に稼ぐこともできないので考えた結果、放射線科を選択することにしました。画像診断学と応用化学の接点と聞かれても明確な答えはありませんが、自分にあっているように思ったからです。もうさすがに一人前になるまでふらふらしないよう最低でも10年は努力を続けることを肝に銘じて始めましたが、10年以上放射線科をやっているとようやく診断に深みがでてきたことを実感します。しかしその代償として老眼は進行するばかり。最近恥ずかしながら遠中近両用眼鏡にしましたが、使ってみると優れもので手放せません。なんて読影が快適なのだろうと。やせ我慢してもみえないものはみえません。それでも仕事のスタイルが写真をモニターで読影し所見入力はキーボードとなると、眼精疲労と肩こり頭痛がひどく、いわゆるVDT症候群に悩まされているのが現実です。急速なデジタル化や機器の進化も考えものです。病院からまもなくフィルムが消滅する日が近づいています。私たちが早稲田を卒業した頃に富士フィルムやコニカがフィルムと縁がなくなるとは予想もしていませんでした。
長々とつまらない文章を書かせて頂きましたが、放射線科や病院のよもやま話はまたの機会にと思っています。また将来依頼があればですけれど。
最後にこれまで豊倉研究室の集まりにご無沙汰しホームページのことも知りませんでしたが、各方面で活躍されている豊倉研究室OBの方々と違い、ただ漫然と年を取ってしまった自分が不甲斐なく思っていました。しかしOBの方々の寄稿を拝読させていただくと、それぞれの気持ちが伝わってきて小生もやる気元気がでてきます。まだまだ頑張ろうという意欲が湧いてきております。
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