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豊倉賢略歴
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2006C-3,2 中野哲也 1989年大学院修士課程修了  (工学修士)

 
  中野さんには、このHPを開始当初の04年4月(04C-1,3)を最初に,同年6月(04C−2,4),05年10月(05C-5,5)と既に3回記事を寄稿頂いた。これらの記事を既に読んだ卒業生は多いことと思うが、岩国の工場に単身赴任していた当時、現場で経験したことなど紹介していただいた。先日、6年間勤務した岩国工場から自宅に近い大阪工場転勤したと言う連絡を受けたので、そのことの大学研究室仲間等への報告を兼ねて近況をHPに寄稿して頂くべく依頼した。研究室の卒業生は種々の任務で工場勤務を経験することが多く、その期間をどのように乗り切るかは、退職してから一生を振り返った時貴重な経験になると思っている。現在豊倉が住んでる自宅近所にも某国立大学の応用化学科を卒業し、複数の工場勤務を経験し、最後に専務取締役を務めて退職した私の同年輩の人と最近親しくなっている。その人が永年勤めていた工場に豊倉は数回招かれたことがあり、工場で稼働している晶析装置や新設装置について討議をしたことがあった。その人とはその工場で会ったことはなかったが、その人が工場にいた頃の上司や部下とは良く晶析等の討議をしたことなど話しているが、その様な話をするたびに工場生活は技術者にとって大切なことだと何時でも思っている。中野さんの工場勤務の話は今回を含めて3度寄稿いただいたことになるが、これらの記事は研究室の卒業生にとって非常に参考になるものと思う。。(06年5月、豊倉記)

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(中野哲也)

略歴
1989年 4月 三井東圧化学大阪工業所配属 製造一部 尿素課配属 メラミンプラント増産検討
1990年 5月 同 電材課 ラテックスプラント建設および試運転
1991年 5月 同 電材課 シランプラント増強
1992年 4月 同 化成品課スタッフ 不飽和ポリエステル、塗料、接着剤プラントの増産、合理化
1995年 7月 学術振興会143委員会ワークショップNo.17参加(〜1999年2月)
「バッチプロセスの設計・管理・運転のためのシステム的アプローチ」研究会参画
1997年 6月 大阪工業所技術部化成品事業全体の合理化検討、工場内産業廃棄物削減検討
1998年 6月 大阪工場(97年10月合併により三井化学) HALSプラント建設検討チーム
1999年 4月 HALSプロジェクト計画頓挫により 製造2部 化成品課スタッフ
2000年 3月 岩国大竹工場技術部生産技術G 機能性ポリマープラント触媒転換他
2001年 7月 本社精密化学品事業部触媒G兼務 ポリオレフィン触媒プラント増設FSチーム
2002年 6月 岩国大竹工場技術部生産技術G復職 機能性ポリマープラント品質改善他
2001年 7月 岩国大竹工場製造2部 機能性ポリマープラント増強班
2006年 4月 大阪工場管理部 機能性ポリマープラント建設検討チーム


「 単身赴任生活を終えて 」

はじめに
桜花爛漫も終わり、春らしくない日々が続く中、ようやく暖かくなって参りました。
さて、このたび4月1日付で73ヶ月という岩国での単身赴任生活に無事終止符を打ち、大阪工場に復帰致しました。単身赴任者は、なぜか滞留実績を月数で表現します。○年半といった区切りで異動することがまれなためかもしれません。「今月で60ヶ月目だ!」などと言っています。 単身赴任生活を送って気づいたことがいくつかあります。公私とも充実した?単身赴任生活を過せるよう参考にしていただければ幸甚です。

(家族と離れるなんて充実しているわけないじゃないか?と思われる方も多いと思いますが、そこはサラリーマンの性とでも言いましょうか、転勤は必ずついて回ります。我慢してください!)

1.家族
始めの4年間は生産技術に関する製造支援部署に所属していたので、ほとんど週末には帰阪していました。金曜日の夕方会社を出て、日曜日の晩に戻るといった生活です。
2000年3月1日に赴任して、幸いその週末に四日市方面に出張がありました。そこですぐに帰阪できたわけです。ところが、単身赴任寮に戻った始めの日曜日の晩、いきなりホームシックになりました。家内に相談すると、「それなら毎週末、帰阪すればいいじゃない!」と勇気づけられ、それを実行したわけです。この話は、職場でも結構話題になりました。「毎週末帰阪するって、体力は大丈夫?」とか「金銭的にしんどいでしょう?」とか言われましたが、酒・タバコもやらず、週末お金を使わないので、リズムができればまったく問題ありませんでした。

結婚して8年間子宝に恵まれませんでいたが、赴任1年目に息子が生まれました。環境の変化とはすごいものです。 残りの2年間は、製造部に復帰しプラント増強に関わることとなったため、かなり忙しくなりました。(決して製造支援部署が忙しくないと言っている訳ではありません)帰阪回数も月1回程度になり、毎週末会うのが当たり前だった息子は寂しがりましたが、携帯電話で乗り切りました。(家内と付き合っていた当時は携帯電話どころか、寮に固定電話が1台あっただけでしたから、それに比べれば便利な時代になったものです)

「家族は一番の支え」改めてそう感じました。

2.食生活
一人暮らしとはいえ、単身赴任寮がありましたので朝、晩は偏食しないで食べれました。昼はお弁当を頼めたので、これも問題ありませんでした。東京あたりでは食費も高くつきますが、工場勤務はその点、安上がりです。

一番心配なのは、懇親会等の回数です。私は宴会が大好きでしたが、お酒がほとんど飲めないので、とことんウーロン茶で通していました。回数も月に数回程度でした。 部屋に冷蔵庫を置いておきましたが、中身は牛乳、チーズ、ヨーグルトなどの乳製品とお茶くらい、チョコレート等のお菓子も入れてましたが、暴飲暴食はほとんどなかったですね。食生活に関しては優等生だったと思います。

「医食同源」大病をしなかったのは、規則正しい食生活の御蔭と思っています。

3.仕事
大阪工場時代、製造部が長かったので岩国大竹工場で小試験中心の生産技術Gに赴任したときは不安がありました。「フラスコ実験が苦手(というより嫌い)な自分にこれからの仕事が勤まるだろうか?」ただ、上司が「製造部からの依頼業務を引き受けるだけではなく、どこに問題があるか、自分たちで仕事を取りに行くためには、どうしてもプロセス屋が必要なのだよ」と言って下さり、やる気が出ました。(豚もおだてりゃ木に登る:この理論?は非常に重要です) 製造部にいたころは、目の前の仕事をこなすのが精一杯で他のプラントのことや、場合によっては自分のプラントでさえ全体的な視野に立って判断することができない状態でした。ところが、支援部署にいるとプロセス上のボトルネックの発掘は意外とたやすく、ある意味楽しんで取り組むことができました。

4年間で、廃棄物のリサイクルプロセス確立と触媒転換を実行することができました。残りの2年間はプラントの増強業務です。大阪工場時代にも経験していましたが、今回は機能製品の増強ということで、時間がありませんでした。連日夜半まで、そして土日もかなりの割合で出社しました。ただ、前向きな仕事でしたので肉体的にきつくても、精神的にはしんどくありませんでした。そしてこの3月末でその仕事が完了し、4月より大阪工場に復帰することとなりました。

ここで得られたことは二つ。ひとつは他人の釜の飯を食したこと。大阪工場にずっといればタコツボ化は避けられなかったと思います。そして一旦、製造部を客観的に診る機会を与えてもらったこと。(製造部のスタッフはプラントを見るのではなく、診るのだと教えられました)いずれも独りよがりにならずに、大局的にものを見る習慣がつきました。

「転勤することも大事」タコツボ化防止にはこれが一番です。

大切なのは、家族−食生活−仕事のバランスを保つことです。仕事が一番じゃないのか?と言われる方もいらっしゃるかもしれませんが、家族の支えや食生活を疎かにして仕事での成功はあり得ません。身体を壊してしまえば、会社は何も保障してくれないのです。それを肝に銘じましょう!

おわりに
6年1ヶ月ぶりに大阪工場に戻ってみて、感じたことは空き地が増えたこと。つまり数多くのプラントが撤収されて更地になったということです。ご存じの通り、現在汎用製品の製造はそのほとんどが、土地が広く、建設費・人件費が安い東南アジアに移管されています。日本国内にプラントが建設されるとすれば、生産量の少ない機能製品しかありません。Niche部門は日本人の得意分野です。大阪工場にNicheな機能製品プラントを建設できるよう、これから頑張りたいと思います
 2006年5月3日
                 

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