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豊倉賢略歴
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2006C-3,1 眞野利男 1982年大学院修士課程修了  (工学修士)

 
  眞野さんが応用化学科に在籍した時、豊倉はたまたまその学年のクラス担任をしていたので、眞野さんことを比較的良く覚えている。当時の応用化学科は、1学年の学生定員は140名で、週に1度の講義だけでは特定学生のことは覚えることは出来なかった。しかし、眞野さんはクラス委員をしており、何時も前の席で真面目に受講していたので可成り早い時点から顔と名前は覚えていた。出身は経歴書にもあるように高等学院から学部に進学しおり、性格は明るく明朗で礼儀正しく、クラスの中では中心的な存在で仲間の人望を集めていたようで、種々のことを真面目に考えて前向き・積極的に行動していた。応用科学科の学部学生は、2学年から3学年に進級する時、工業化学コースに進むか化学工学コースに進むかその選択に迷う学生は多かったが、当時、化学工学コース設立の経緯で学生数をほぼ100対40の分けることが学年担任の重要な仕事の一つであった。眞野さんも自分の進路の選択でどちらにしようかその選択に迷って随分考えていたようで、相談を受けたことがあった。その時、豊倉は「化学製品を所望量安価に安定生産するためには、工業化学も化学工学も重要な工学であり、このコース分けでどちらに進んだ方が良いと話すことは出来ない。この選択に迷っているなら一層のこと、気心の分かった親友が進まない方のコースを選び、卒業してからも親交を続けて時には会って相談したり・意見の交換をし続けて両方の工学に対してバランスの取れた技術者になるように心掛けたらと。」話したことがあった。最終的には眞野さんは親友が進まなかった化学工学コースを選択し、卒業したあとも豊倉はその友人に会うと彼は何時も眞野さんの近況を伝えてくれ、眞野さんが元気に活躍している話を聞くことが出来た。

  眞野さんが大学院に進学して後の話であるが、大学院を修了して工学修士を取得したら、三井東圧化学(株)に就職したいと相談を受けた。その時、豊倉は化学工学協会理事会で当時副会長を務めていた三井東圧副社長に様子を伺ったら、そのように優秀な学生でしたら、会社の奨学生になって入社するように応募したらよいのでないかと勧めて貰えた。眞野さんはそれに応募して卒業後の入社を前提にした奨学生になった。その時、眞野さんこれから毎月奨学金を受け取るのでそれは有効に使いたいがと言われた。その頃第2回世界化学工学会議がカナダのモントリオールで開催されることになっていて、日本の晶析関係の人はその前のハンガリーのブタペストで開催される工業晶析国際会議参加し、それに引き続いて世界化学工学会議に参加する派遣団を準備していたので、それに参加してみてはと勧めた。この派遣団には日本の晶析関係の大学の先生と主な企業技術者が十数名参加して、眞野さん欧米の見聞を広めただけでなく、国内の他大学の先生や企業技術者と2週間行動を共にすることが出来た。

  眞野さんは学生時代から、常に前向きな姿勢で物事を考え、これを行ったらと思ったことは素早く決断して行動を開始していた。眞野さんの卒業後の活躍の様子は今回記事で初めて知ったこともいろいろあった。その中には活性炭を長期に扱い、シンプルな原理で広く種々のものにその用途が拡大しており、その魅力を自分の経験を通して見つけ出していること、また、それを産業としてみると国内外で置かれてる自分の所属企業の立場で状況が変わり、しかも、それは流動的であったことなどを紹介している。それを読むと、何時何が起こるか分からないが、それを乗り越えるためには、自分の努力と自分を取り巻く周囲の人達からの信頼・理解・支援が必要であることが良く分かるように記述されていた。学生時代の眞野さんを思い出し、また今回の記事を読んで感じたことは、眞野さんの考え方・行動は常に人に善意をもって接する誠実さがあり、そこから自然に感じ取れる眞野さんの魅力が、周囲の人達を引きつけているような気がした。今回の記事の最後に眞野さんは間もなく49歳になると書かれているが、豊倉はその年齢の頃、化学工学協会理事会で庶務理事を務め、丁度2期4年間の任期を終えて、当時の化学工学協会会長の桐栄良三先生から、「長い間学会の仕事を務めて頂いてご苦労であった。これからは大学の研究室に帰って思う存分研究を続けてください。」と云われたことを思い出している。充分な経験を積まれ、健康で充分な体力を持ち、信頼できる大勢の友人に囲まれている眞野さんのこれからの活躍を期待してます。・・・・頑張り過ぎないように、無理はしないで下さい。
 ( 06、05、豊倉記 )

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(眞野 利男)

略歴
1957年 5月 東京都葛飾区小菅町の薬店の次男として生まれる
1976年 3月 早稲田大学高等学院卒業
1976年 4月 早稲田大学 理工学部 応用化学科 入学
1980年 4月 同 大学院 理工学研究科博士前期(修士)課程 化学工学専修 入学
1982年 3月 同 大学院 理工学研究科博士前期(修士)課程 化学工学専修 修了
1982年 4月 三井東圧化学株式会社 入社
同社の合弁会社、東洋カルゴン株式会社に出向。三井化学総合研究所東洋カルゴン(株)技術研究室勤務
1988年 8月 東洋カルゴン株式会社海外営業部兼技術部主任
1993年 8月 同営業部 課長
1998年 8月 同営業2部長
2001年 12月 同社資本がカルゴンカーボン社100%となったのに伴い、三井化学株式会社を退職し、カルゴンカーボン社に転籍
2002年 1月 東洋カルゴン株式会社 代表取締役
2002年 10月 三菱化学カルゴン株式会社取締役・機器サービス事業本部長
2004年 9月 同取締役を辞任
2005年 4月 三菱化学カルゴン株式会社を退職
2005年 5月 三井化学エンジニアリング株式会社 入社
技術統括部プロセスG主席部員
2005年 10月 三井化学エンジニアリング株式会社 退職
2005年 11月 日本ノリット株式会社 入社
営業2部長として日本市場への活性炭拡販を担当
現在に至る

「 活性炭の世界で24年 」

  昭和55(1980)年に学部を卒業し、昭和57(1982)年に修士、豊倉先生の研究室を出てから24年が経ちました。この期間、活性炭という吸着剤の世界に身をおき、一心不乱に仕事をしてまいりましたが、この間に本当に多くの経験をし、学生の頃には予想もしなかったヨーロッパの外資系の活性炭メーカーに籍を置いて、また再びこの世界に踏み込んでいるところです。卒業してからは殆ど研究室の行事にも参加できず、同窓の皆様にも御会いできなかった事もあり、近況の報告と共に、これまで私の経験と、今考えている事をまとめてみたいと思います。研究室の後輩・同窓の皆様の御参考になれば幸いです。

  私は昭和57年3月に修士の学位を頂いて豊倉研究室を卒業し、三井東圧化学(現在の三井化学)に就職しました。新入社員研修を終えた5月、私は当時創立されて間もない米国メルクの活性炭の関連会社である米国カルゴン社と三井東圧化学・三井物産の合弁会社である東洋カルゴンに直ちに出向・配属され、大船の三井東圧化学総合研究所の中の同社の技術研究室で社会人として第一歩を踏み出しました。

  活性炭は500〜1,500[m2/g]の大きな表面積を持ち、万有引力的な物理吸着によって大きな分子量を持つ物質を吸着する性質を持ち、この単純なメカニズムで水溶液中の有機物を除去したり、各種のガス中の有機物を除去したりします。この研究室で6年間にわたり活性炭の分析・試験など、実務的な経験を積みながら、新しい測定方法や各種の分析、韓国・台湾など極東アジアの客先の評価試験、装置設計用の基礎データ採取・活性炭の装置設計を経験しました。活性炭はそのシンプルな原理から、対象とする分野は、排水処理・排ガス処理をはじめとする公害対策・甘蔗糖やアミノ酸脱色・化学工業の各種プロセス流体の精製等、非常に多岐に渡ります。研究室に籍を置いている期間にも、当時東洋カルゴンが注力していた環境対策をはじめ、沢山のプロセス、活性炭再生を含む活性炭プラントの設計・建設・試運転・引渡しに至る一連の業務を韓国・台湾、そして日本で経験しました。

  この頃、私は主に技術営業を命じられ、東洋カルゴン本社、海外営業部の韓国担当となりました。1988年のソウルオリンピック頃、韓国は急速な経済発展の真っ最中で、訪問する度にソウル近郊の光景が変化していったのは、今でもはっきり覚えています。

  1990年以降は、日本国内でも上水道の異臭味やトリハロメタンの問題がクローズアップされ、各自治体が上水道の品質改善に取り組み、いよいよ国内浄水場にヨーロッパなみの活性炭処理設備を導入する機運が高まってきました。当時、東洋カルゴンはヨーロッパを中心に行われていた活性炭の再生ビジネスを日本国内に展開するため、国内の各水道事業体への活性炭処理技術の紹介を進めながら、再生工場の実現に取り組んでいました。いくつかの活性炭再生システムを手掛けていた実績から、私は再生工場計画の技術メンバーに加わり、経済性試算・プラントの基本設計、建設そして稼動開始までの一連の作業を担当し、全社の協力のもと、1993年、福井テクノポートにある福井工場として結実します。

  この時期から、商用規模の上水道の活性炭処理プラントが京阪神地区で稼動を開始しました。国内活性炭メーカー各社も一斉に参入し、営業面でも忙しくなり、私は営業部門を補う部分も有って、民間企業の営業も担当することになりました。

  1997年、親会社の三井東圧化学が三井石油化学と統合し三井化学が誕生しました。関連会社を含めた各事業の再点検が行われ、この時点で、それなりの収益を上げていた東洋カルゴンは、日本国内で主導的な地位を得ることは難しい事業と判断されたのではないかと思います。三井化学・三井物産は段階的に株を米国側に譲って、東洋カルゴンは、米国カルゴン・カーボン社の100%外資会社に変わっていき、三井化学からの出向社員は、復職、転籍、退職の決断を迫られることになりました。福井工場をスタートさせ愛着があった事、そして米国側の意見を聞いて、私は東洋カルゴンに残留することを選択しました。この後、三井化学・関係会社・取引先に多くの方々が去る中、派遣社員の皆さん、三井化学OBの皆さん、そして私と同じ選択をされた方々と、東洋カルゴンを営業・技術に限らず運営していくことになります。

  1990年頃から、中国の活性炭生産が一層活発化し、活性炭業界ではメーカーの淘汰がさらに進みつつありました。また一方で、これまで東洋カルゴンが得意としていた民間企業向けのビジネスに、水道局といった官公庁を相手にする業態が加わって、営業面で更に難しい対応を迫られることになりました。この情勢の中、日本国内で活性炭事業を進めていくためには、三井化学と異なるパートナーを探す方法が選択肢として考えられます。このような背景から、東洋カルゴンは、最も大きな石炭系活性炭メーカーでライバルであった三菱化学の活性炭部門と統合し、三菱化学カルゴンとして再スタートしました。当時の東洋カルゴンの売上高は約15億円、対する三菱化学は約50億円。会社の規模は、4倍以上に拡大したことになります。

  この新会社で、私は新規開発営業を担当し、米国側役員であると同時に、土壌汚染対策など、環境関係の新規分野に挑みました。全従業員数約70人のうち、事業部員は私を含めて4名。合併会社の小さなセクションで、営業部門の協力を期待しながら部内全員で苦闘する毎日でしたが、成果は満足なものではなく、新会社の難しさの中で役員を辞任し、その後、大先輩の御尽力で古巣の三井化学に機会を頂いたことも相まって、この会社から去ることになります。

  2005年5月から三井化学エンジニアリングに採用頂き、三井化学市原工場の三井化学エンジニアリングの技術統括部で環境関連のエンジニアリング検討と評価を行いました。ここには優れたエンジニアの方々が多数いらっしゃり、私を温かく迎えて下さった事、旧知の先輩がいらしたこと等、大変忙しい職場でしたが、非常に恵まれた環境の中で頑張りました。1982年の入社以来、三井化学の中で仕事をしたことの無かった私にとって、本当に良い経験が出来たと思っています。ところが、市原に勤め始めて3ヶ月程で、家内の具合が悪くなり、さらに遠方一人暮らしの義母の介護といった重大な問題が起きました。遠距離通勤と多忙な業務との両立が難しく、家庭崩壊が現実的なものとして見えてくると、少しばかりの蓄えが有ったこともあり、会社に恩義を感じながらも家族を守るため、一度畳んだ家業(薬店・今流の表現ならドラッグストア)を継ぐことを考え、私は半年で退職願を提出することに致しました。

  店舗再開の準備をしていた折、オランダのNORITという、米国カルゴンカーボンと同じく世界を代表する活性炭メーカから就職の話を聞き、リスクを覚悟で、この会社に採用頂いて、NORITの日本法人である日本NORITの営業担当として現在に至っています。同じ活性炭メーカでありながら、NORITの製品は非常に多様で、取り扱う分野は更に広く、悪戦苦闘している状態ですが、これまでの経験を活かしながら、NORITの皆さんのサポートを受け、やっと実績が出てきたところです。仕事は、これからが正念場です。豊倉研究室を巣立って24年、その殆どを活性炭の世界に置いてきました。20代の頃には思いもしなかった、化学工学とは違った苦労を経験し、これからも苦闘の日々が続くと思います。

  活性炭は有史以来からの技術で、第2次大戦頃にはほぼ現在の製造の基本が出来上がった技術で、最近のハイテク分野とは異なった素材かもしれません。しかし原理・原則は非常にシンプルで応用範囲は広く、環境問題という社会のトレンドから見ると、やはり現状では最も確実な技術といえます。IT技術の急速な進歩で銀塩写真がこの10年ほどでデジタル写真に変わったような劇的な市場変化は起きなく、まだ20年以上は広範な分野で使用される素材だと思います。その産業構造は、メーカーの集約化が進んでおり、中国の経済発展と生産の急速な増加と市場下落といった難しい環境にありながら、IT産業や環境問題、新素材等、新しい分野に挑戦しています。小さな産業ではあっても、このビジネスは化学工業そのものです。

  産業を取り巻く環境の流れの中で、自分なりに考え行動してきました。至らぬこともありましたし、自分の行動が新しい流れを作り出せた部分もあると思っています。豊倉研究室で化学工学を学び、化学工業、活性炭という素材産業に身をおく日本人の一人として、やらなければならない事がまだまだ沢山あります。まもなく49歳になる今、また新しい立場で自分を奮い立たせている今日この頃です。

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