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豊倉賢略歴
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2006C-1,2 入野哲朗 1985年大学院修士課程修了  (工学修士)

 
  入野さんは、研究室の晶析研究成果が国内外で評価されるようになった1980年代の前半 に研究室に在籍した。その頃、過飽和溶液内で発生した結晶核が、その過飽和溶液内で成長している結晶の成長に寄与するのでないかと言う学説がそれまでの研究室の研究で出され議論はされていたが、それを確認した研究報告がなく、それについての新しいデータの実測と蓄積が求められた時代であった。この考え方、それを実証する方法については研究室内でオリジナルに提出しなければならず、それに関する研究に従事した入野さんの貢献は極めて大きかった。この頃の様子は豊倉が退職した1999年に出版した「二十一世紀への贈り物C-PMT」に入野さんが寄稿した記事「研究室の思い出;後輩諸君へ」(同書p364ム365)に記述されている。今回入野さんが書いた記事「自分の中に残ったものは。。」は1999年に入野さんが書いた記事の延長上に有るものとして読むことができる。そこで入野さんが書いた記事の根底にある思想は、最近豊倉がよく話している内容の思想とよく似ている気がするが、それは豊倉の考えが構築されるのに入野さんが研究室時代に豊倉と討議された内容に影響されているような気がする。入野さんが研究室にいた頃から既に20年余を経過しているが、この間日立化成での活躍を通して立派に成長していると実感している。最近は部下の教育にも苦労されてるようですが、その時自分の部下と同年代の頃を思い出しながら指導しているとの事、豊倉が今学会などで若い大学の先生や企業の若い技術者に研究開発のアドバイスをする時にしていることと全く同じような気がする。この記事は誰が読んでも参考になることが多いと思う。 (2006年1月豊倉記)

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(入野 哲朗)

自分の中に残ったものは。。

  皆様、こんにちは。1985年3月に修士過程を修了してから20年間、同じ会社の同じ部署で仕事をし続けています。現在、私を含めて13名のTeamで製品の開発・改良、技術サービスを行っています。最近、部下の育成も考える立場となり、自分がどういう教育をされてきたのかを回想する機会が増えてきました。部下への指導は、ついつい同年代時の自分の姿と比較しコメントをしてしまうことがあるからです。皆さんはどのように教育しているのでしょうか?

  ます初めに、20年間、何をやってきたか、残ったものは何かをお話します。
豊倉研究室を卒業し、日立化成工業(株)の電子基材開発部にてプリント配線板用の有機絶縁基板の開発を約14年間行いました。入社当時の上長は、有機化学、化学合成の専門家で、無機化学の結晶成長を学んできたものにとっては理解するのに時間がかかりました。このときの5年間で大学時代に使っていた有機化学の教本や当時の最新情報を読みあさりました。仕事の夢を見ることもあり、夢の中で思いついたアイデアを忘れないように書き留めるため、枕元に筆記用具を置いておいたのもこの頃です。このときに得た知識、考え方が、現在開発している製品にいまだにつながっています。

  その後、2000年から約3年間ドイツのDusseldorfに駐在していました。EUでのプリント配線板製造メーカへの技術サポートが任務でした。このときに、いろいろな経験をさせていただきました。EUのEngineerに対しては、英語での会話となりますが、未熟な私にとっては大変な重圧でした。英語の勉強を始めましたが、このときの教訓は、「自腹をきって習うことが近道」でした(何だかんだ1000k\くらいつかったかも)。なんとか技術会話ができるくらいまで勉強して打ち合わせをしましたが、EU(特にドイツ)は理論的に物事を考える習慣が特に強く、直感で動くのを極端に嫌う傾向があることがすぐわかりました。これまでの開発生活では、推論の元に動くことが多く、この推論を実証する説明がいるわけですから苦労しました。自分の言葉で理論に裏付けされた見解をぶつけて、理解されたときから付き合いが始まることが判りました。

  仕事は大変でしたが、いろんなところへ出張できたことが思い出となっています。D殱seldorfからは飛行機で4時間以内でEUの諸国がほぼ回れます。年間70回以上乗り、いろんな場所へ行きました。ちょっと横道にそれますが、EUへいったらまた訪れてみたい観光地としてのBest5をあげてみますと、第1位;ベルリン 第2位;ドレスデン 第3位;プラハ 第4位;イスタンブール第5位;パリ でしょうか。お気付きと思いますが東EU諸国がお勧めです。車でのドイツ国内観光も数多くこなしました車での移動では、ドイツの誇るアウトバーンを230km/hで走るときの恐怖感と壮快さが忘れられません。そして、ドイツのサッカーWCで映し出される開催地の映像を見るのが、今から楽しみです。

  やっと、2年目になってやっと顧客から認められメールが来るようになり、これからと思っていた矢先に、日本に引き戻されました。「Engineerは長くて3年が限界、これ以上いると、日本の技術革新の速さについていけなくなる」との言葉に説得され(本当は5年ぐらい帰りたくなかったが)ました。このEUの経験で自分に残ったものは、EUのEngineerとの人脈とEUの歴史を感じさせる建造物の映像でしょうか。

  ドイツから戻ってきてすぐに、急成長を始めた台湾、中国の顧客の技術サポートを開始しました。特に台湾は2回/月のペースで出張していましたが、EUとはまったく別の雰囲気がありました。台湾人は日本人に対しいい意味で技術を吸収したいとの意識があり、EU諸国にくらべ非常に仕事がやりやすく溶け込みやすいと感じました。EUのEngineerにアポイントを取る際には、何か新しい結果、情報を持っていないとむずかしいのに対し、台湾ではそれを気づかうことなくあってくれました。このため、台訪のたびに時間を見つけEngineerと話せるため、意見をフランクに言い合える非常に良好な関係が得られました。これは、当たり前のようですが、なかなか実践できないと思います。自分の中に残ったものは、やはり人脈という財産でしたか。

  自分のキャリアを見つめなおしてみると、入社当時(5年間)、ドイツ駐在時(3年間)、台湾担当時(2年間)のほんの10年間(会社生活全体の1/2)で今の自分のスキルの大部分が急速に形成されたと思います。環境の変化(運が良かった)が非常に重要な要因でした。反面、残りの10年間では、「成功体験はしたが、最後まで、自分がやったとの気持ちにまでなれなかった」が感覚として残っています。

  現在は、海外での技術サポートからEUに行く前の技術開発業務に戻りました。このTeamでは一人当たりのテーマが多く、いわゆる精一杯の状態でした。与えられた事をこなすのが仕事と勘違いをしているケースも多く、余裕をもって考える、遊びの実験する時間が取れていないのが大変はがゆく感じています。この状態は、スキルの向上が鈍った私の10年間と似ています。

  冒頭の質問に戻りますが、部下の教育には、「選択と集中」をすることでむだな仕事を切り捨て、考える時間を与えることが必要と感じています。自分がやった仕事である、自分の仕事であると認識できるように環境を整えたいと思っています。


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