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豊倉賢略歴
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2006C-1,1 倉持 誠 1971年学部卒  (工学士)

 
    倉持さんは1969年4月豊倉が帰米後初めて行った学部3年次の講義を受講した学生です。その意味では豊倉にとって印象深い頃の学生でした。4年進級時の卒業論文の配分で豊倉が晶析研究を通して倉持さんの世話をすることになった。その時倉持さん一緒に配属したメンバーは現日本ポリエチレン(株)取締役の島田修二さんと現日本化学工業(株)代表取締役会長の棚橋純一さんで、当時の卒業論文学生は3人でした。研究室にはその他、修士過程の学生が3人在籍していて、研究上の討議は言うに及ばず、社会全般のことや種々のことについての議論も活発に行われた。倉持さんの学生時代の学園は今から考えると戦後の新しい時代構築への希望に満ちた時代で、倉持さんが書かれた記事にもあるように、全般的に学生運動の活発な時期でもあって、理工学部の学生の中にも左翼系の学生運動を活発に行うものもいた。当時は学内の一般学生の間でも種々の議論は活発におこなわれ、学生の研究活動についても自分自身でよく考えて責任を持って行おうとする学生もいた。倉持さんの学生時代を思い出すと、今回倉持さんが書いた記事中の企業面接の思い出のところにあった・・・「何を聞かれるんだろう?何を話せばいいんだろう?」とやや緊張しながら人事部長の前に進むと部長のほうから「原油」の話や「野球」と話が次から次と出てきて「私は相槌と頷きに終始していたように記憶しています。」・・・という下りの部分ですが、倉持さんとの話の時 でも倉持さんは豊倉の話はよく聞きながら「相槌と頷いていた」ことがあった。しかし、倉持さんの話に対する応答はただそれだけの動作では なく、その話の内容についていつもしっかりした倉持さんの意見を聞くことができて、倉持さんの話を聞くのは楽しく、倉持さんの魅力を感じていた。またこのHPの記事の他のところに・・・・・「7月1日付で北京へ行ってくれ!」。「・・・。“今まで出張で行ったことは多いけど言葉はわからないし、生活環境も・・・。まあ、何とかなるだろう”−はい、分かりました」・・・・と言う会話が書かれていますが、この「まあ、なんとかなるだろう」と言う倉持さんの言葉は「何か事を実行する時」によく耳にした言葉で、倉持さんが このような発言をされる時は、既に事の成り行きに対してしっかりした見通しを持っており、必ずそれなりの成果を上げていました。倉持さんをよく知っている人は倉持さんに対して豊倉が思っていることを理解されることと思うが、今回初めて倉持さんの記事を読む人は何かを期待しながら読むと、きっと何かが得られる事を感じると思います。卒業生諸君は何かを期待してこのHPの記事を読んでいただけたらと思う。     (18年1月 豊倉記)

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【氏名】 倉持 誠(くらもち まこと)

【役職名】 新日本石油株式会社 取締役執行役員 北京事務所長

【勤務先】 新日本石油株式会社 北京事務所
〒100004 北京市朝陽区建国門外大街1号 国貿大厦1座1918室
TEL +86−10−5866−9700


【出身地】 埼玉県

【生年月日】 1949年 3月24日

【出身校】 1967年 埼玉県立春日部高等学校卒業
1971年 早稲田大学理工学部卒業


【職 歴】 1971年 4月  日本石油株式会社 入社(販売技術部技術1課)
1971年10月  直売部直売技術課
1983年 4月  潤滑油部潤滑油課
1988年 4月  Nippon Oil Delaware Ltd出向(課長待遇)
1991年 4月  産業燃料部 直売技術課長
1993年 4月  技術商品部 潤滑油課長
1995年 4月  中部支店 次長(潤滑油担当)
1997年11月  技術商品部 副部長
1999年 4月  日石三菱株式会社 潤滑油部副部長
2001年 7月  新日本石油株式会社 潤滑油部副部長
2002年 4月  潤滑油事業部長
2004年 6月  執行役員 潤滑油事業本部潤滑油事業部長
2005年 6月  取締役執行役員 北京事務所長(現職)

Personal History As of July,2005
Nippon Oil Corporation

【Name】 Makoto Kuramochi

【Title】 Director,Representative and General Manager of Beijing Office

【Office】 Nippon Oil Corporation Beijing Office
Room 1918、China World Tower 1,No.1 Jian Guo Men Wai Avenue,
Beijing 100004 P.R.China
TEL +86−10−5866−9700


【Date of Birth】 March 24,1949

【Place of Birth】 Saitama Prefecture

【Educational Background】 Degree:Batchelor of Engineering
Major :Chemical Engineering
Graduated from Waseda University in 1971


【Business Career】 April,1971   Joined Nippon Oil Co.,Ltd.
April,1988   Manager, Nippon Oil Delaware Ltd.
April,1991   Manager, Technical, Industrial Fuels Dept.
April,1993   Manager, Lubricants Sect., Lubricants Marketing& Product Engineering, (LM & PE) Dept.
April,1995   Deputy General Manager(Lubricants),Chubu Branch Office
Nov.,1997   Deputy General Manager(Marketing), LM & PE Dept
April,1999   Deputy General Manager(Marketing& Logistics), Lubes & Specialties Dept, (Nippon Oil and Mitsubishi Oil merged on April 1st,1999)
April,2002   General Manager, Lubricants& Specialties Dept.
June,2004   Executive Officer,General Manager of Lubricants& Specialties Dept.
June,2004   Director,,Representative and General manager of Beijing Office

(倉持 誠)

雑 感

 「やっぱりどの街も素晴しい。毎年来たいね。」−結婚25周年にあたる昨年のゴールデンウィーク中、オランダにいる長男を訪ねがてらヨーロッパを旅した帰路、ロンドンからの飛行機の中で妻が呟いた。アムステルダム、ユトレヒト、ブリュッセルと廻り最後にロンドンに立ち寄りホテルの手配などで面倒をかけた現地にいる後輩たちと一緒に食事をした時、後輩たちから「北京事務所ができるようですが誰が行くんですか?」、「もう知っているんでしょう!?」、「倉持さんとの噂も流れていますが?」と機関銃のように質問が飛んできて「事務所ができることは間違いないが私は候補になっていない!多分、Ko部長かTa部長になると思うよ」とその時点では真面目に本音で答えていました。

 成田へ着くと秘書の女性からメールが入っており「連休中、社長が倉持さんを探していました」とのこと。連休明けの月曜日朝一番で連絡すると部屋に呼ばれ「7月1日付で北京へ行ってくれ!」。「・・・。“今まで出張で行ったことは多いけど言葉はわからないし、生活環境も・・・。まあ、何とかなるだろう”−はい、分かりました」。「このことは我々二人のほか限られた人しか伝えていないから・・・」と付け加えられ公表までの間、事務所設立申請書へのサインやらなにやら赴任に向けた隠密行動が始まりました。家に帰り妻に伝えると「エーッ!・・・・・」、ヨーロッパが遠ざかってゆくのを感じたようです。

 私が早稲田に学んだ1967〜71年は学生運動が最も激しかった時期です。中国ではもっと激しい文化大革命が進行中でした。吉本隆明の「共同幻想論」、羽仁五郎の「都市の論理」などが学生のバイブルと呼ばれ「少年マガジン」と赤い表紙の小さな「毛沢東語録」が通学時の必携ファッションと言われた頃です。割合穏やかだった理工学部でもスト投票が行われたりして落ち着いて勉強する時間は少なかったことを覚えています。

 就職先を決めるにあたり先ず考えたのは「作業服や実験着は着たくない。背広で出来る仕事を探そう」でした。豊倉先生に相談したら「商社や石油会社で技術を活かせる営業の仕事がある。何人か知り合いもいるので紹介してあげよう」と言われたまま暫く何もしないでいましたが当時、日本石油にいた先輩と偶然お会いする機会があり「日石を希望しているのは君か!?履歴書を持ってすぐ会社へ来なさいよ」となりました。数日後、西新橋の本社を訪ねると人事担当者との面談→入社試験(と思います)→人事部長との面接と息をつく間もなく一気に進み就活はいつの間にか完了しました。「何を聞かれるんだろう?何を話せばいいんだろう?」とやや緊張しながら人事部長の前に進むと部長のほうから「原油」の話や「野球」と話が次から次と出てきて私は相槌と頷きに終始していたように記憶しています。人事部長との面接と言えば幾多の参考書、虎の巻が書店の店頭を飾るくらい就活最大の山場ですが私にとってはあっと言う間の出来事でした。後になって考えればこれも早稲田大学の、理工学部応用化学科の力かなと思いました。

 会社での仕事は社内で「販売技術」と呼ばれ燃料、潤滑油を販売する際にお客さんに技術的なサポートをしながら新しい商品の開発してゆくことでした。燃料は日頃技術的な問題が頻繁に発生するわけではありませんので仕事の主体は自然と潤滑油関係になります。

 入社後数年して少し仕事に慣れてきた頃、海運会社を担当することになりました。大型タンカーなどのエンジンはとてつもなく大きく、ピストン直径1メートルくらいのディーゼルエンジンが載っており研究室でエンジンや潤滑油の性能を評価できません。実際に船で使ってみて結果を評価するのが一般的でした。これらの船が横浜や神戸の港へ入るとエンジンが冷えるのももどかしく仕事開始です。出航までの短い時間内にスラッジでドロドロになったまだ熱が残っているエンジンに入り込み点検作業を続ける毎日でその後数年間、出張かばんの中はあれほど嫌っていた作業服と安全靴が必需品となりました。

 仕事に慣れると共に「このままの会社生活で良いのか?」と疑問もわいてきました。転職するにはセールスポイントが必要だ。何か?・・・。とりあえず英会話を勉強しようとなり退社後こっそり英会話学校に通い始めました。会社には内緒です、転職のためですから。そんなことを知ってか知らずか、ある日上司から「提携しているChevronやTexacoの契約している船を担当」と言われました。

 初めて行った船は忘れもしません、イギリス船籍の「Harfleet」と言う貨物船です。潤滑油でトラブルがあるとの連絡を受け雨に煙る横浜港の本船へ行きましたが機関長の英語がさっぱり判りません。相手がイライラを通り越して馬鹿にしているのがはっきりわかります。這這の体で下船しようとしましたが途中で機関長の部屋に傘を忘れたことに気付きました。しかし、とても部屋に戻る気になれず雨に濡れながら帰路につきました。散々なデビュー戦(船)が海外との付き合いの始まりでした。

 何年か本社勤務を経て1988年から妻と6才、3才の息子達を連れて米国ニューヨークへ赴任しました。性能、燃費の良い日本車の輸入急増に反発が強まり日系各社がアメリカ国内での現地生産を強化し始めた頃です。日本石油もChevronやTexacoと協力してこれらの工場へ潤滑油を納入しようと取り組んでいました。事務所はニューヨークにありますがお客さんの工場はオハイオ、テネシー、ケンタッキー周辺に、協力相手のChevronはカリフォルニア、Texacoはテキサスと全米に分散しており飛行機とレンタカーを乗り継ぐ出張続きの3年間を送りました。

 アメリカでは長男の通う小学校のいろいろな行事に英語に不慣れな妻と連れ立って参加しました。先ず驚いたのは海外から来た生徒の受け入れ体制の充実振りです。小学校は1クラス20名程度であることはもちろん、英語が母国語でない生徒のためにESL(English for Second Language)クラスがあり生徒が英語の授業についてゆけるようになるまで一定期間集中的に英語の教育をしてくれる特別な教室があったことです。

 また、たっぷり時間を掛けた担任の先生との面談があり「自分の子供をどんな人間に育てたいと考えているのか?」と質問されたり、日本では高く評価される「協調性」が「協調性だけ」ではマイナスイメージで捉えられていることを知り面食らったことを思い出します。 逆に世界中から来ている生徒と両親が母国の文化を紹介する機会もありました。私たちが5月人形を持って冷や汗を流しながら日本の「こどもの日」の紹介を終えると生徒の一人から「日本と中国は最近、仲が良いのか?」と聞かれ(これが7才の子供の質問か!?と)唖然としたこともありました。

 「中国4000年の・・・」、「反日デモは?」、「SARSは?、衛生状態は?」などと考える間もなく引継ぎと送別会をこなして7月1日に北京空港に着き事務所へ行くと一ヶ月前に来たときはコンクリートむき出しだったところがシンナーの強烈な匂いは残っているものの天井も床も壁もきれいになって立派な広い事務所が出来上がっていました。広いはずです、机も応接セットもまだ搬入されていません。それから約一ヶ月、慌しく行き交う家具屋さんや内装工事業者の邪魔にならないよう体をかわしながら居留許可の手続きや関係先への挨拶の準備を始めました。

 事務所から外を眺めると当時、学生運動の神様のように崇められていた毛沢東率いた中国の首都北京は古い家並みが取り壊され新しい高層ビルが次から次と建設中です。一方、街を歩くと運転手付の最高級ベンツで移動する高級幹部、経営者がいるかと思えば凍るような寒さの中、自転車にリヤカーをつけ必死に重い荷物を運びながらわずかな収入を得ている人も沢山います。「所得格差の拡大」、「農民の不満増大」、「水不足、環境問題」など様々な問題を抱えていますが日に日に世界での存在感をまし、この国の行く末が地球の将来の姿を決めるとも言えると思います。大袈裟に言えば「資本主義、自由主義」や「共産主義、社会主義」の枠組みを超えた地球規模の挑戦と考えられます。
それに比べささやかながら私にとっても社会人35年目の新たな挑戦の始まりです。

  以上

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